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見出し:覚醒した“匂いの帝王”、“天才香料化学者”になる。ルカ・トゥリン著、 山下 篤子訳『香りの愉しみ、匂いの秘密』(河出書房新社) そうか、私の生まれ年のワインは何が当たったか知らぬが、少なくともサンダルウッドという香りが発見された年であるらしい。ともあれ本書からは、ドキュメンタリー・スタイルだったルカ・トゥリン関連本『匂いの帝王』とは打って変わって、自身による書き下ろし、“匂いの帝王”から“天才香料化学者”になったルカの近影が垣間見える。 化学や物理の素養があればたちどころに、偉大な先人たちの“鼻”が築いた功績のアウトラインが判るのだろうと思うと、不適格者の私は些か悔しい。 加えて客観的・俯瞰的に、研究を取り巻く概要の今昔が語られる後半部分では、夢見がちだったルカの成長を見ると同時に覚醒したトーンがやけに目立ち、気の利いた文体(なるほど、分子に「スピリチュアル」という言葉を使うのは嫌なのか…)が唯一の救いとなる。あの荒削りなロマンティストの片鱗は、語り口にしか見られない。 また、重ねて俯瞰的であるがゆえに、思わせぶりなタイトルほどに、香りの謎が詳らかになった、あるいはされているのでもない。かの芳醇で豊かな文章と併せて、これはサイエンス系読み物なのだ、と受け止めるのが正解だろう。 ただし、あらゆる研究分野において、匂いや嗅覚に関する専門的研究や分析があまり注目されて来なかったこと、この可能性を秘めたセンスが開拓不十分である点についてのルカなりの反骨精神や不満が書かせた本書には、科学・化学のみのらず、人間そのものを考える数々の視点が仄かに薫っている。世界中が注目する生物物理学者、ルカ・トゥリンの芳しい道行に今後も目が離せない。(了)*蛇足を承知で私の「香りの道行き」はコチラとコチラで。香りの愉しみ、匂いの秘密■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/04/30
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最近ケータイで音楽を聴くことが多くなりました。もちろん、仕事柄iPodはマストアイテムなんですけど、なるべく手ぶらで出かけたいときや荷物が多い日には再生端末は一つでもいいかな、と思うこともある今日この頃。 で、ケータイで聴くわけですが、あの妙な接続部が邪魔でしてね。ケータイに着信があって通話したい、でも直前まで音楽聴いてた…なんてときには、特に邪魔です。端子が飛び出してるし、コードもやたらに長いし。 それで、実は初めて、ケータイのBlueTooth機能を使ってみたんですよ。SONY DRC-BT15Pをペアリングして。最初は結構面倒くさかったり、うまく使いこなせるかや適合性も心配だったんですけど、その辺はちゃんとメーカーに情報が出てるんですね。いやはや。 でつないでみたら、これが快適。使える機能はそんなに多くないのですが、ワイヤレスにしたことで、ケータイで音楽を聴く、というあまり親しんでこなかった行為が一気に便利で身近になりました。私の場合は「今さら」なんですけど、うーん、世の中こんなに進んでいたんですね(汗)。ワイヤレスオーディオレシーバー【携帯用接続コード★】 SONY DRC-BT15P■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/04/28
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見出し:「過去未来」を閉じ込めたタイムカプセルは超現実への隧道鹿島茂著、鹿島直写真『パリのパサージュ―過ぎ去った夢の痕跡』(平凡社) エッフェル塔、シャンゼリゼ大通り、凱旋門…。こうしたモニュメンタルなランドマークとは別に、おそらく多くの人がパリ(いや、ヨーロッパ全域)に対して抱く、“それらしい”光景や景色を思い浮かべるとすれば、それはきっとパサージュではないだろうか。パサージュを覆うガラス屋根から射す弱々しい自然光の中でもセピア色に染まり、古ぼけた書店や老舗の文具店、アンティーク・ショップ(お店自体がアンティークなのに!!)らが軒を連ね、そこを通過するだけで、タイムスリップしたような感覚、あるいは、ドラマティックな、映画のセットの中にでも迷い込んだかのような感覚を抱く場所。 この古色蒼然たるパリ名物を軸にして、都の来し方と現在を巧みに、実に映像的に描いたリオナード・ピット(Leonard Pitt)による『Walks Through Lost Paris: A Journey into the Heart of Historic Paris 』(Shoemaker & Hoard )は、私もカルチェ・ラタンの書店で求めて読んだが実に面白く、改めてパサージュの持つ特殊な魅力に関心を抱いた。実際には、リヴォリ通りとカスティグリオーネ通りの交わる周辺、そのときは何も分からずにこんなものかと彷徨い歩いたパサージュだが、『パリのパサージュ―過ぎ去った夢の痕跡』には、リオナード・ピットに勝るとも劣らぬ“パサージュ愛”に満ち満ちた一冊となっており、着火して間もない私の興味に油を注いでくれた。 パサージュ、正式にはパサージュ・クヴェール(ガラス屋根で覆われたパサージュ)。筆者の定義によれば、1:道と道を結ぶ、自動車の入り込まない、一般歩行者用の通り抜けで、居住者専用の私有地ではない。2:屋根で覆われていること。3:その屋根の一部ないしは全部がガラスないしはプラスチックなど透明な素材で覆われており、空が見えること。この定義に従って、2007年11月時点で現存する19のパサージュについて紹介している。 パサージュは、現実の中に佇みながらも異界へと通じる、すなわち文字通りシュルレエルへの路なのであり、筆者は「(パサージュとは)ひとつの時代が語っていた夢の過去未来的表現」と、難しい文法用語を用いてパサージュを形容しているが、まさに言いえて妙、然りと膝を打つ次第。ニュアンスをよく伝える箇所を本文から少々引用させていただくと、 “未来形が予言した「時の点」を、現実の時間がとうの昔に通りこしてしまい、われわれがそのありえたかもしれない「時の点」を遠い過去として振り返らざるを得ない…(中略)…過去未来”“もはや過ぎ去ってしまった未来の明るさに対する哀切の感情” と、実にパサージュのタイムカプセル的な不可思議な甘酸っぱさ、あの開けて嬉しく恥ずかしく、どこか喪失感を禁じ得ない複雑な感情を巧みに表している。 また、もちろんベンヤミンに依って「黄泉の国」としながら、この未来の詰まったカプセルの化石には半覚醒で望まねば、この世に戻って来れなくなる吸引力を持っていると、並々ならぬ愛惜の念を込めて結んでいる。 確かに、パサージュはパリにしかない。そして筆者も念を押すように、パサージュは日本にもある商店街やショッピングモールとは違う。しかし、かつての日本―そう、街中にもまだ神秘があった時代の日本―にも、その先へ足を踏み入れれば、「神隠し」のように戻って凝れなくなるのではないかと思わせる辻や小路や曲がり角があった。そう振り返るとき、パサージュの記号的意味に、「日常に神秘が残存していることの証拠」を加えたくなるのだ。(了)パリのパサージュ■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/04/28
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ここひと月は、とにかく会社の年度末に追われた。大幅なテコ入れが、ハード面にもソフト面にも必要で、ほぼ3年前から、主にハード面の改革およびアップデートに着手し、走りながらソフト面の方を軌道修正してきた。 ハードというのは、仕事をする環境であるが、こちらは時代性との同期も必要であったが、これは綿密なプランと予算、それに前後の準備があればまぁ何とかなる。大変なのはソフトの部分で、これは会社の中のルールや制度、あるいは過去に遡及して経理業務の精査から電子化、さらには新しい利益体質への変容を、実に時間をかけながらじっくりと取り組まねばならない。 特に、すぐに結果が出るものでない上に、我慢を必要とする。個人的には、すでに手をつけてきた事柄は、ハードにしろソフトにしろ、この年度末に一つの模範になる結果が何かしら出る、というスキームを抱いて動いてきた。 今年は新春から多忙な日が続いたが、特に四月は、そうした結果へのこだわりがあったために、いつものようには自若としていられなかったが、ひとまず結果が出た。当面大満足である。無論、この喜び、この勲章は黙って着いて来てくれたスタッフのものである。 これは最初のステップに過ぎないが、公約してきた会社のリニューアルへの結果と年数はきっちりと揃えた。中期目標に気持ちよく、足枷なく向かえる。新たな年度を迎える。(了)■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/04/28
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過去に、『ヒース・レジャー死去~呪われし死相~』という記事をアップしましたけど、先日、ヒースの遺作となる『バットマン:ダークナイト』の公開を控えて、同作でヒースがジョーカー役を演じた件について、ジョーカーが遺体袋に入るシーンが、ヒースの悲劇を暗示するかのような“問題のシーン”として話題に上っていたけれど、製作サイドは、ファンや関係者の反響に過剰反応することなく、ヒースの最期の渾身の演技をノーカットで公開するつもりと発表しているとか。しかし、私にしてみれば、そんなのは今さら…という気がします。ヒースがジョーカーのメイクを試した時点で、不吉な結末を予期する人が一人くらい周囲にいてもよかったのでは??? 何でしょう。こういう役者さんが、ものすごいディープな役に挑戦するとき、ありきたりだけど鬼気迫るものが立ち上る刻というのがあるようで、特にダークな作風がキャラクター/アメコミ・ヒーロー映画に衝撃をもたらしたバットマン・シリーズ、さらには監督はクリストファー・ノーランと来ると、ますますそうしたオカルトまがいの伝説が事実らしく思えてしまうのですが、過去記事を書いていたときにはすでに感じていたように、やっぱりジョーカーのメイクを施したヒースのそれは、あまりにもリアルな“死相”にしか見えないのです。最初にスチールを見たときから、嫌な胸騒ぎを覚えたのを忘れることが出来ません。(了)バットマン/ダークナイト ミニバスト ジョーカーバットマン/ダークナイト ミニバスト バットマン ジョーカー 13インチ デラックスフィギュアバットマン/ダークナイト バットラング(プロップレプリカ)バットマン/ダークナイト グラップリングランチャー(プロップレプリカ)■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/04/22
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見出し:恥ずかしい日記で英雄になった男。臼田 昭著『ピープス氏の秘められた日記―17世紀イギリス紳士の生活 』 (岩波新書) 17世紀イギリス紳士のリアルな日常を知りたいと思ったら、何を手に取るべきであろう。本?論文?映像や資料の数々?博物館を訪ねる?いずれでも目的は果たされない。手段は二つ。タイムマシンの完成を待つか、ピープス氏の日記を読むことだ。 本書は、当時を生きた、サミュエル・ピープス氏の日記を紹介した本である。そもサミュエル・ピープス氏とは何者なのか。17世紀イギリス、階級制度や門閥意識の高い当時にあって、地盤・看板・カバンもなく、平々凡々たる経歴しか持ち合わせぬ一市民が、細心な観察眼と、なにより、飛びぬけた小心さで以って、海軍大臣まで出世した人物である。 さて、ピープス氏が生きた時代を知るのに、彼の日記に頼らざるを得ないには理由があり、その理由のゆえに、ピープス氏の日記は、他に追随を許さぬリアルな日記文学として、その立身出世以上に歴史に名を残したのである。 本書の著者が指摘するように、そも日記文学というのは、本来的な意味では存在しない。永井荷風の『断腸亭日乗』を引き合いに出して、著者は「」忠実な記録を心がけた荷風にも、己を超俗の風流人に擬装とするたくみな取捨選択や隠蔽の偏向が見られるはずだ」というようなことを書いている。つまり、それは単に日記ではなく、「永井荷風の日記」になってしまうということである。読者を意識したにっきに、リアリティを望むことは難しい。 そこいくと、ピープス氏は徹底している。というのも、彼の日記には、絶対に誰かに読まれたくない話しか書かれていないからだ。もし読まれれば、後の海軍大臣の沽券にかかわる。同僚の悪口、体制批判はまだしも、浮気、女遊び(時には教会で礼拝中に!!)、懺悔、守られない道楽禁止の誓い、賄賂と口利き、そしてうんざりするほどの家計簿。それらがいずれも圧倒的な悪意でなされ、その結果を綴ったものなら一種のピカレスクな趣を感じるものだが、ピープス氏の場合は真逆。牧歌的で、あっけらかんとしていながら、同時に恐妻家ぶり(平凡にして小心なれど、学問は能くしたピープス氏は、ラテン語、フランス語、スペイン語、ドイツ語、ギリシャ語までを修めたが、それらを出世ではなく、情事の顛末を言葉を解しない妻に見破られないために縦横無尽に駆使した!!)を発揮したり、おどおどしたり、貯金している貨幣の一枚二枚の増減のことで眠れなかったりする。小市民の動揺の一つ一つが、詳らかに記されているのである。 さて、ひょんなことから、本人の思惑と異なり世に出てしまった日記。生前発見されなくて、ピープス氏は天国で胸を撫で下ろしていることであろううが、なに、後世この奇書を見出した我々は、死者に鞭打つような真似はしない。いや、むしろかえって、この真の意味においてリアルな日記が見つかったからこそ、後の世の人は17世紀イギリス事情を克明に知ることができるのであって、むしろピープス氏が披瀝を望まなかった日記は、尊敬と歓迎をもって世界に受け入れられたのである。小市民の小心な恥ずかしい日記帳が、ピープス氏を歴史上の英雄にした。まこと、運命とは味なものである。 実に、萎えてしまいそうになるほどの「せこい」日記の抜粋を、粋に読ませてくれるのは著者の洒脱な文章と、巧みなキャプションのおかげであることを付け加えておきたい。(了)ピープス氏の秘められた日記■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/04/18
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今、ギチギチに忙しい毎日。月末までこんなカンジでしょうか。その合間を縫って、移動中にフラリ銀座で下車。縁あって、ジュエリータワーTASAKI銀座店で開催されている第6回 フロールエバー プリザーブドフラワーコンテストに足を運んできました。 今年は、日本×コロンビア修好100年というメモリアル・イヤー。コロンビア大使館主催、田崎真珠株式会社共催、株式会社アスク運営という形で、審査員に、インダストリアル・デザイナーの栄久庵憲司氏、フラワーアーティストの川崎景太氏、女優の司葉子氏、福原義春・資生堂名誉会長、田崎真珠ジュエリーデザイナーの石坂英理子氏、パトリシア・カルデナス コロンビア大使の6名を迎え、コンテストには会場である“銀座”をテーマに設定、「GINZA COLLECTION」と銘打って、“Traditional”(伝統) ・ “Trendy”(流行) ・ “Eternal”(不変) ・ “My story”(マイストーリー) の4部門でプリザーブドフラワーアレンジの花振りを競っていました。 造花ではなく、生花由来ではあるけれど保存性のあるプリザーブドフラワー。私も時々ギフトやお祝いに贈りますが、大変喜ばれます。 会場に展示されている作品には、大掛かりなものやアーティティスティックでダイナミックなアレンジや解釈を施した作品も並び、プリザーブドフラワーの特性を生かした素晴らしい作品が散見されましたが、私自身は、「プリザーブドフラワーだけにある特性を十分に生かした作品」と「インテリアやディスプレイのように、生活の中にも実際に取り入れられる現実的可能性が高く、プリザーブドフラワーとライフスタイルの親和性の向上が期待できそうな作品」を投票の基準に選びました。この基準をはずすと、“My story”と“Traditional”部門に気になる作品が多かったような…。 テーマ設定も、作品の解釈も非常に面白かったですし華やかでした。欲を言えば、各テーマの展示スペースのレーンが狭かったことと、レーン(テーマ)ごとの区分けの視認性が高いと見やすかったかも。ですが、投票用紙と作品テーマの、色によるリンクなど工夫は親切で、「銀座を感じる花の宴」にしばし忙しさを忘れました。(了)プリザーブドフラワーレッドキューブアレンジメント■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/04/18
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記事タイトルと書評タイトルの編集および更新には悩みが尽きない。と書いたそのインクも乾かぬうちに、さらなる問題が…。 つまり、同名異書を扱った場合、現状のように検索性・視認性を高めるつもりで記事タイトルをつけたのが、裏目に出てしまう。過日江戸川乱歩による『黒蜥蜴』を記事にアップし、先ほど三島由紀夫による『黒蜥蜴』をアップして、この壁にぶち当たった。同名異書というのは、そんなにあることではないが、こうした事実に直面すると、やはりなんとも後味の悪い、無駄な作業をしたような気にさせられてしまうものだ。(了)■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/04/14
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見出し:台詞一つが宝石なり、“三島版・黒蜥蜴”。三島由紀夫著『黒蜥蜴』(学研M文庫) 江戸川乱歩唯一の「女賊もの」、『黒蜥蜴』。乱歩自身による黒蜥蜴その人の人物造形は、したがって貴重なものであり、かつ作品のポッピズムに反して乱歩流美意識が凝縮された形になったが、これを幼少時に読んだ三島由紀夫が、はじめバレエ用に、それが頓挫して舞台のために、切望して翻案した戯曲である。 三島本人が語っているように、筋はそのままに、しかし自由にアレンジしたということで、原作でほのめかされた女盗賊と探偵の恋が、三島版ではより前面に打ち出されている。とはいえ、そこは三島、単純に相対する立場にあるものが互いに相克し合って恋情を募らせるごときロマンスに終始することは徹底的に避け、むしろ黒蜥蜴と明智小五郎、それぞれの哲学と美意識を相思相愛にしながら、僅かの間に、肉体も精神も天文学的時間交わりあい、相手を網羅しつくして刹那に散る、そんな儚い、静かな、しかし滾るような大恋愛を軸として打ち立てている。 その荒業を成し遂げたのは、単に三島ブランドのゆえにではなくやはり、乱歩のミューズ・黒蜥蜴が、当時すでに高度に研磨されていた三島の審美眼をもって入念かつ精緻に改めて肉付けされる―血肉化、受肉―ことで到達しえた、ファンタジーの中のリアリズムの追求の賜物であり、また黒蜥蜴に、三島自身の美意識が濃厚に投影されていたからであろう。この戯曲では、黒蜥蜴とは三島由紀夫その人であり、同時に、さまざまな要件から決して黒蜥蜴にはなり得ない三島による、架空の人物および架空の自己自身への思慕の念が、つむぎだされる台詞の一行一行に、切ないまでに込められている。この迫力が、乱歩のオリジナルとはまた異なる、もう一人の黒蜥蜴を生み出したエネルギーではないだろうか。 無縁というにはやや近い奇縁ある三島由紀夫を、私が若い頃には両親が禁書とした理由がなんとなく透けて見える一冊。三島由紀夫の自決の本当の理由は、本書で三島が黒蜥蜴を通じて語らせる“ダイアモンド解釈”にあるだろうし、ラストに黒蜥蜴に毒を仰らせた、その理由からもまた逆照射できることであろう。 文庫では、乱歩を囲んでの舞台関係者(三島由紀夫や、杉村春子、芥川比呂志ら)の座談会や、三島による関連エッセイ、三輪明宏氏による寄稿文や公演履歴など、資料も充実している。(了)黒蜥蜴■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/04/14
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見出し:危うし探偵明智!!黒蜥蜴の甘き罠。江戸川乱歩『黒蜥蜴』(東京創元社) 丸山(三輪)明宏氏や三島由紀夫氏ら、コラボレーション黎明期の代名詞の原作としてあまりに有名な『黒蜥蜴』。グロテスク趣味な設定に、奇奇怪怪な登場人物の情念や欲望が蠢くのが乱歩のダークサイドだとすれば、本作は謂わば乱歩のブライトサイドにある作品と言える。そこに描かれるのは、息つく間もなく展開するトリックと知能の応酬である。 方や、奇妙な刺青を持つ狡知に長けた女賊、黒衣の婦人こと黒蜥蜴。中性的な台詞まわし、子供だましのようなトリックを堂々とやってのける胆力を持ち、神がかり的に周囲を魅了する(ギュスターヴ・モローの、あるいはワイルドのサロメか!!その艶めく乱歩の描写よ)かと思えば、平然と冷酷なことを考えている。方や、明智小五郎。天下に聞こえた名探偵。冴え渡る頭脳と不屈の精神とを持ち、毒をもって毒を制すとばかりに、余人の思いもつかぬトリックを張り巡らせて蜥蜴退治に八面六臂の大活躍。 とにかくスピーディな展開、冒険心をくすぐる絶妙な設定、そして何より、読者を世紀の対決の目撃者へと誘う乱歩節に、自然とページを繰る手が加速していく。この感覚。子供の頃、怪人二十面相シリーズに読みふけった純粋に探偵ロマンを多能していた時分の甘酸っぱい高揚感が蘇る。ディレッタントである黒蜥蜴ご自慢の地底美術館や博物館へ早苗さんを通じて招待される件の、あの怖いもの見たさの心境よ…。 本書には、乱歩によって、変幻自在の魔術師・黒蜥蜴をアルセーヌ・リュパンに比す一文があるが、むしろこの作品はモーリス・ルブラン『カリオストロ伯爵夫人』の世界であろう。無論、カリオストロ伯爵夫人に黒蜥蜴、アルセーヌ・リュパンに明智小五郎。騙し騙され、出し抜き合っているうちに、互いの才を認め、やがて二人の間に恋慕のようななつかしい心情が芽生える展開もまたよく似ている。左様、この作品には、乱歩が己の世界観の中に、モーリス・ルブランの軽妙さを咀嚼して採り入れたような、独特の明るさがある。 林唯一画伯による挿絵は、この作品には不可欠であろう。画伯の挿絵なくしてこの世界観は成立し得ない。そう断言できるほどに、タッチから構図まで、モダンで、粋で、臨場感溢れるカットが多数採録されている。各章のタイトル挿絵に付された書体も洒脱だ。巻末に、乱歩自身による、校訂作業へのこだわり―仮名遣いや漢字の充て方一つまで、やはり作者自身でタッチするにしくはない、というようなことを書いている―や、三島由紀夫氏による舞台化や映画化についての感想も述べられていて、これまた興味深い。(了)黒蜥蜴■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/04/11
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ついに、じゃがポックルを食べました。そう、北海道限定の幻のお菓子、じゃがポックル。取材で北海道を訪れるたびにお店をチェックしてきましたが、いつも「本日販売分は売り切れです」と縁がなかったじゃがポックル。 スナック菓子はほとんど食べない私。でも、これだけ話題になって、しかも追っても追っても手に入らない、となると、一度は食べてみたくなるのが人間の性。 過日北海道に旅行に行った弟がついに入手。晴れてじゃがポックルを食べるチャンスに恵まれたわけですが、これ、箱は大きいですが、中は10袋に分けて入っているんですね。さっそく開封して一齧り。 んんん。まぁ、じゃがりこみたいなものか、と思ってとりあえず一袋完食。翌日になって、また食べてみたら、昨晩の淡白な反応とは異なり、美味い!!じゃがポックル、塩加減も絶妙に、北海道の獲れたてポテトをそのままカットしてフライしてあるため、じゃがいもの風味が本当に濃いんです。濃いというよりも、ジャガイモ以外の余計な味がしない。なるほど、これがじゃがポックルの人気の秘密か、と一人ごちたのでした。 それにしても、北海道でしか手に入らないとは罪なお菓子です。(了)じゃがポックル ↑え?ネットでも扱ってるんじゃないか…。じゃがポックル姉妹品 北海道限定 ほっとポテト ↑コレは前から扱っていたけれど。こちらも美味いです。【じゃがポックルセットJ】 ↑って、セットもあるのかよぉ(涙)。■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/04/10
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見出し:ご冗談でしょう、コーンウェルさん。パトリシア・コーンウェル著、相原真理子訳『切り裂きジャック 』(講談社) 「検視官」シリーズのパトリシア・コーンウェルが、7億円の巨費と現代科学を駆使して迷宮入りの難事件を解明する!!と書くとそれらしいが、実は私はこの作家の作品を本書以外に読んだことがない。さらに言えば、本書は小説でもない。19世紀末、ビクトリア朝末ロンドンの下町を慄然とさせ、まんまと歴史の狭間に逃げおおせた“切り裂きジャック”の正体を突き止め、現代の科学的分析方法や調査方法に基づいて立証していこうという、時代を超越した壮大な試みが綴られている。もともと本書を手に取ったのは、折しもデータベース化を始めた蔵書の“切り裂きジャック”関連本の一冊としてあったもので、かつ未読であって、たまたま今、心情的には19世紀のロンドンの猥雑な町並みを活写した本を読みたいと思ったからであった。 パトリシア・コーンウェルが、所謂大ベストセラー作家であることは知っている。しかし、気になるのはこの全編に漂う目線の高さ。これはいったい何なのだろう。さらに言えば、好意に、あるいはコンセプト通りに解釈すれば、か弱きものを無惨に殺生し、あざ笑うかのように官憲の目をくぐりおおせた“切り裂きジャック”に対して、不正を憎む正義の心が本書のそこに流れていると言うことになるのだが、どうにも純粋な正義感とかけ離れているような感がぬぐえない。一つには、どこかピューリタニズムというか、いささかヒステリックな厳罰主義のようなトーンを感じるし、もう一つには、そうしてゆえなく殺された弱者を、どこか晒しものにしているようなニュアンスが漂っていると思うのは穿ちすぎだろうか。あまりに詳細な死体の描写は、作品を刺激的にするだろう。片方で、売春婦を蔑みながら、「売春婦だからといって殺されてよいという理由はない」というような矛盾した正義を平気で振り回す。好かない。あるいは、口にするのもはばかれるような言葉を、いたって平然に多用してみせる様は、進歩主義を気取る誰かさんのような尖ったセルフイメージをクールの保つ仕掛けのように見えて仕方がない。 なに、全編にわたってクールなら問題はないのだ。ところが、時に意識的にか無意識にか、収拾のつかないような感情的な視点を覗かせたりもするから、私はなんだか、一人の女性の妄想や独り相撲につき合わされているような重たい気持ちになってしまった。そう、著者は、論を進めるうち、自分自身が神がかり的にフィクションの中の女主人公になり切ってしまうのだ。その虚実がないまぜになった行き過ぎる展開に、読む者は理性から、この語り手の判然としないもどかしさから「パトリシア、あなたご本人が“切り裂きジャック”の正体を追うなんてご冗談でしょう?」とたしなめたくなってしまうのだ。 ホイッスラーの弟子でイギリス印象派の画家、ウォルター・リチャード・シッカートが犯人かどうか。その推理が当たっているか否かを評するのはナンセンスだ。しかし、過去の迷宮入りの殺人事件を現代的手法で捜査したならば…という設定は面白いし、そうすることで現代の科学的捜査・分析法と、19世紀のそれおよび、治安に対する姿勢や市民・警察の意識、ならびにシステムの脆弱さがよく炙り出されて面白かった。私の目的であった19世紀ロンドン下町の風俗もよく伝わってきた(残念ながら、それは殺人事件を通してであったが)し、もしかしたら、この比較こそが、話題性やショッキングな内容を巧みに目引きにしたパトリシアの目的だったのかもしれないとさえ思えた。 余談だが、古典的な犯人説に案を採った映画『フロム・ヘル』のボーナスディスクとの比較も面白いだろう。(了)切り裂きジャックフロム・ヘル(DVD) ◆20%OFF!■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/04/10
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かねてから取り組んできた書評記事200本のタイトル更新が終わった。しかし、その作業の過程で、問題も少々。 一番大きかったことは、この数年の間にブログに禁止ワードのレギュレーションが設けられたことだ。これによって、書評の文中に登場する言葉が“不適切”と判断された場合、本文を修正しない限り編集作業が完了できないのである。 誤字脱字は見つけられる範囲ではアップデートしたつもりだが、基本的に本文を大幅に直す気はなかったので、これには参った。結果として、そうしたワードと判断された語句が入った書評記事に関しては、編集を施さなかったことになる。したがって、書評記事には、従来のような見出しをタイトルにした記事と、このたび更新したように、書名をタイトルにした記事が混在することとなってしまった。このような場に書くのも品を損ないやしないか、と別の心配が起こるが、とにかく「ワンマン・コンサート」を中黒(・)をはずして表記しただけで、“不適切”とされてしまうのだから困ったものだ。なるほど、迷惑コメントや迷惑メールの文面に、“言葉狩り”をかいくぐるさまざまな工夫がされているのも合点が行く。 要するに、闇雲な規制システムは、かえって益にもならぬものをアンダーグラウンド・カルチャーへと昇華する力があることは、歴史的必然でもあるか…。 もう一つの問題点としては、結局見出しを書名にしては見たが、実際にはそれほど検索性が高まったような気がしない。最終段階まで、書名にせめて著者名くらいは入れようかと悩んだが、今度は画面上でタイトルがやたらに行を食うのでやめてしまったところ、ちょっと不満足な結果になってしまった。ともあれ、もうしばらく様子を見ながら、さらに手を入れるか、割り切ってそのまま行くか判断しようと思っている。(了)■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/04/09
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見出し:情報の渦から、奇想天外な夢を紡ぎ出した万能人。ジョスリン・ゴドウィン著、川島昭夫訳『キルヒャーの世界図鑑―よみがえる 普遍の夢』(工作舎) たとえば、道元とカントの共通点を探ると言うことは、比較分析・比較研究としては意義があり興味深いが、それらはあくまで“奇しくも”の一致の世界であり、必然的一致ではない。アタナシウス・キルヒャーの仕事を見ていると、ふとそんなことを考える。普遍性。類似性の発見段階は被造物があまねく普遍的であることの確認へと一歩近づく感があり胸躍るが、恣意的な、あるいは選考的な発見や結びつけは、やがて普遍主義の限界への重たい足音となる。 まさに生ける博物館・キルヒャーは、典型的かつ究極的な万能人、マニエリスム後期のルネサンス的人物であったが、それらの該博な知識や発想を、すべて神と聖書の枠の中でしか醸成できなかったところに、イエズス会士という枠だけは逸脱できなかったキルヒャーの仕事の荒唐無稽さがある。それらの知の統合は、やはり“奇しくも”であるべきで、キルヒャー自身が頑なに信じていたような神の摂理の必然、神の普遍的恩寵のゆえではなかったのである(なお、本書は、キルヒャーの摩訶不思議な世界を覗くとともに、そこにはイエズス会およびイエズス会士が17世紀当時に果たした情報機関としての姿も立ち上がってくるが、神を通して、キリスト教から見て正統でない、あるいは周縁的なものを見たキルヒャーのことである。そのキリスト教的仮想博物館の充実ぶりは、同時にイエズス会の活発な宣教活動の特徴を物語って余りある)。 しかし、キルヒャーを笑うことは簡単だが、著者もたびたび記すように、それは適切ではない。確かにキルヒャーは、徹頭徹尾聖書の記述に準拠して、古代ギリシャからローマ、エジプト、中国(この時代にあって、あたかも現代の如く世界中の情報が収集されるところもまたイエズス会ならではであるし、またキルヒャーが、情報の価値や鮮度を落とすことなく活用できる人物として一目置かれていたからこそ、彼のもとには膨大な情報が自然と集まったのだ)、と、ある種バベルの塔崩壊以後の散り散りにされた世界に普遍という名の神の存在を打ち立て証明・統合(世界の果ての植物に、キルヒャーの目から見た神の恩寵が見られれば、それは神が普遍化していることの証明になるだろう)しようとしたのであり、汎神論的に、あらゆる事物、あらゆる自称、あらゆる発見に神を当てはめようとしたその試みは、複眼的関心に根ざしながらはからずも単眼的に収束してしまったことで、近代への歩みとは足跡を異にしてしまったが、冒頭で考えたように、カントと道元を比較してみせるのと同じような、知的でクリエイティヴな、そして近代的理性や科学的発想からは決して生まれ得ぬような、とびきりユニークな思考実験を遺したと言えるのではないか。キルヒャーとは、生きた時代も、万能人として遺した仕事も違うが、同じく典型的ルネサンス人にして、狷介たるセルフ・プロデュースの達人であった凸の人、ジェローラ・モカルダーノとのあまりの本質の違いに着目するのも面白い。 キルヒャーは実に、知識と情報と、何より類い稀なる構成力によって、きわめて説得力のある、あるいは事実であるかのように心地よく騙される“夢”を紡ぐ人であった。はからずも、実用性とは無縁(実用性は明らかに疑わしいのに、キルヒャー自身はいたって真面目なのである)なところに、キルヒャーの放縦なイマジネーション、頭の中に建造した大博物館の価値があるように思う。バベルの塔研究、ノアの方舟分析から、エジプトのオイディプス再発見、ここから派生してオベリスクとエジプト語、神聖文字解読、コプト語再現に進み、地下世界の存在への憧憬、中国エジプト文明起源説、やがてすぐに反駁される自然発生説に没頭し、音楽研究から拡声器、幻灯器や自動楽器、作曲器、盗聴器の発明、それがさらに原始的コンピューターの構想に発展し、片方では聖エウスタキオに触れていくマニアックな視点。本書に巻かれたオビの「ルネサンス最大の綺想科学者の全貌」というコピーは大げさではないである。 本道ではなく、学問的には脇道であるが本道よりはるかに魅惑的な世界を旅したキルヒャーにふさわしい澁澤龍彦氏のコラムを筆頭に、中国春画の牧歌的粋ならびに図像学的特色を覗かせてくれた中野美代子氏が、今度は景教(ネストリウス派キリスト教)と絡めて、キルヒャー的シナ考への旅(空を飛ぶ亀の楽しさよ!!)に誘い、荒俣宏氏が、滾る胸の内をあえて控えめにして、キルヒャーを次いだ者たちを追いかける、この三者によるアタナシウス・キルヒャー頌だけでも本書に十分な価値がある。 加えて図版が素晴らしく、その数100点に上る。多岐にわたり過ぎるキルヒャーの頭の中を覗くことにはいささか準備不足でもあった私にとっては、ほぼ半画集とも呼べる貴重な図版の数々が大変興味深かった。と書きながら思うに、最近「図版が素晴らしい」という一文が、私の書評に散見されることに気付かされる。逆に考えれば、所謂贅沢な造りの本が少なくなったご時世に、芳醇な一冊との出会いにいかに自分自身が飢えているかとい うことだろう。(了)キルヒャーの世界図鑑■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/04/08
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早起きは三文の得、ということで、過日午前中は、桜満開の上野に美術館のハシゴに。『ルーヴル美術館展 フランス宮廷の美』と『写実画壇展2008』どちらも最終日間近。最終日に近いことと、今年最高のお花見日和とあって、『ルーヴル美術館展』は少しは混むかな、と思いましたが、予想は外れて、割合ゆっくりと鑑賞することができました。 ご存知、パリはルーヴル美術館に足を運んだとしても、パリに一定期間滞在し、なおかつ美術館に通い詰めるだけの意気込みがなければ、とうてい収蔵作品の数々を網羅することなどできるはずがありません。 大画家たちも、若い頃は、なけなしのお金だけを持ってパリにやってきて美術館に通い詰めては、貧しい食事で我慢しながらルーヴルの大作と相対した、なんてエピソードが残っているもの。不肖、私も過去数回の経験では、ルーヴルでは、やっぱりスケジュールの都合上有名作品や絶対観たかった作品を追いかけるのが精一杯でしたが、ルーヴル美術館の魅力、底力は、テーマ展を開いても立派に催し物として成立するだけの作品を、膨大に抱えているところ。 たとえば、今回の『ルーヴル美術館展』、18世紀フランス宮廷の装飾美術にスポットを当てた、いわばニッチなテーマ展ですが、それでも140点にも上る、ポンパドゥール夫人やマリー・アントワネットゆかりの名品が惜しげもなく披瀝されるというのだから、これはスゴい。嗅ぎ煙草入れや、食器、時計、壷など、宮廷の中の日常を彩る品々は、この時代にあっては単に機能性や利便性、あるいは豪華さを競うというよりは、もっと密やかな、そして少しだけスノッブな楽しみ方、例えば装飾もよりディティールの精密度が向上していたり、神話に題を採ったギミックが施されていたり、異国趣味的だったり、そういう部分が強く感じられます。特に私の好きな“青×金コンビ”のカラリングも鮮やかな磁器なども数点見られ、なかなか楽しめます。そう、かえってお膝元ではスルーしてしまうような名品をまとめて堪能できるのが、テーマ展の最大の魅力と再認識した展覧会でした。 一方『写実画壇展2008』には知人が作品を出していることもあり、ひょっこりと顔を出したのですが、写実性というテーマ追求を換骨奪胎した躍動感溢れる作品も目立ち、写実という言葉の幅を感じました。また、この展覧会に限っては、なぜか各作品に「緑色」を探している自分に気がつき、これまであまり「緑色」に特別な思い入れを抱いたことがなかっただけに、新鮮な発見でした。なんで、いま緑、なんだろう???(了)*写真は当日、桜満開の上野の賑わい。一日で鑑賞するルーヴル美術館■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/04/07
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日本で、ここ10年ほど、一番本場のソウル・ミュージックに近い場所にいたシンガー、ORITOの急逝(2/23)を、一月経った今でも受け止められずにいる。 ORITOがデビューする。前評判から、アルバム・リリースまで、指折り数えて待ち焦がれていた当時を思い出す。折しも、日本ではなぜかアル・グリーンがリバイバルしていた時期であったが、まさにそのアル・グリーンを育てたウイリー・ミッチェルのプロデュースを受け、ハイ・サウンドの聖地、メンフィスはローヤル・レコーディング・スタジオ録音の1st.アルバム『SOUL JOINT』には、やや線の細さは散見するも、徹底的に鍛え上げられた、ゆるぎないバック・ボーンを身に着けた本物のソウル・シンガーの魂が存分に伝わってきて、すぐに私の愛聴盤になった。一曲目から、搾り出すような歌声が心に響き、アル・グリーン“Let's Stay Together”カバーを挟んで、サム・クック“I'll Come Running Back To You”で締める。実に正統派で、重厚で、さわやかな一枚だった。個人的には、オリジナル曲“So Shy”を何度も聴いた記憶がある。 その後、“そして僕を愛して”が特に美しかった2nd.『SOUL FOOD』、内省化・深化していった3rd.『LOST AND FOUND』…と、順調に独自の世界を追求していたが、心のどこかには「日本のR&Bはこのままじゃ駄目だ」「もっと本物を目指さなくてはいけない」というストイックに過ぎる想いがあったに違いない。 1st.アルバムレコーディング時のエピソードとして、何時間も延々と声をしっかり作るためにスタジオで駄目出しされながら歌漬けになった、そんなことをどこかで語っていた。本場のシンガーは、幼少時から教会で歌い、ソウルの伝達媒体としての声をしっかりと作り上げていて、それだけの努力をしなければ到底本物などと看板を掲げてはいけない、追いつくことなどかなわないのだ、という、苛立ちや自戒、そんなものも感じながら、活動を続けていたに違いない。そんなORITOだからこそ、日本で一番本場に近かったと言えるのだ。 そのORITOがこの世を去ってしまった。急性心不全というが、あまりに残酷な仕打ちがあったものだと、残念で仕方がない。折戸都志郎、享年43歳。天国で、まだ“本物のソウル”を追いかけているに違いない。(了)ソウル・ジョイント■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/04/03
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先日、渋谷で仕事があり、予定より早く終わったので、これはもうなかなかチャンスがないかも…と思い、Bunkamuraザ・ミュージアムにて、『ルノワール+ルノワール展』に、足を運びました。うん、この感覚、まさにフラリ、です。 ルノワール、つまり日本でも人気の高い画家、ピエール=オーギュスト・ルノワールと、その息子で、20世紀フランス映画界を支えた映画監督であるジャン・ルノワールの、“親子展”という趣き。父の作品とともに、息子の映画がそこかしこに設置されたスクリーンで上映されている、という、展覧会としては(特に、ルノワールの展覧会としては!!)、非常に特殊で凝ったもの。中には、息子ジャンの作品にインスピレーションを与えた父・ピエール=オーギュストの作品が、寄り添うように展示されていたりして、遺伝子の連続を感じさせます。 ルノワールの作品も、家族や親しい人をモデルに採った小品が多く見られ、さながらルノワール一家の団欒の間に招かれたような、どこか家族的な雰囲気の溢れた展覧会となっていました。 「身近に、父の手から奇跡が生まれるのを見ることが出来たんだ」というような内容のジャンの言葉が、展覧会入り口をくぐるとすぐに掲げられているわけですが、この言葉が個人的には印象に残りました。大画家とその息子。「それぞれがアートに携わる芸術一家らしい言葉」というよりも、父を敬い、愛する息子のシンプルでストレートなメッセージ(出口付近の息子から父への手紙も良かったです)が、稀有な親子の絆の深さを思わせて、いい気分になりました。 絵画が好きな方は勿論ですが、むしろ映画、とくにフランス映画史・黎明期に関心のある方には貴重な展覧会なのではないでしょうか。(了)■『ルノワール+ルノワール展』 画家の父 映画監督の息子 2人の巨匠が日本初共演■Bunkamuraザ・ミュージアム(東京都渋谷)■開催期間: 2008年2月2日(土)- 5月6日(火)開催期間中無休ルノワール+ルノワール展のすべてを楽しむ公式ガイドブック■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/04/03
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『エディット・ピアフ 愛の賛歌』をDVDで鑑賞。ちょっと熱は醒めていたんですが、主演のマリオン・コティヤールがアカデミー主演女優賞を受賞したことで、外国語映画で、しかもキャリアの乏しい女優が、ハリウッドおよびアメリカの映画マーケットで受け入れられてしまったということに興味を掻き立てられ、早速購入→鑑賞。おそらく、ピアフの映画だったら、アカデミー基準を満たしていなくても、お膝元・フランスでは十分に成立し、受け入れられたと思うんです。それが、アメリカでも評価された、というんだからこれはちょっと、どんな映画か気になりましたよ。実際、劇場で観逃したのが心残りでもあったわけで。 時間軸に縛られないストーリー展開は、冒頭から、物語最後のピアフの意識と記憶の混濁を暗示していて何やら不穏。 エディット・ピアフという、一人の人物、一人の女性に焦点を当てた今作品、実際には音楽シーンばかり登場する映画ではないのですが、音楽シーンと絡めて三つ、気に入ったシーンやアイディアを。 一つは、ほとんどすべてのコンサートシーンにおいて、カーテンが上がるアングル、これ歌い手つまりピアフの目線から観客を臨むような形で、幕が上がるんです。これがなんとも、本番前のピアフの高揚感や不安を追体験するような仕掛けになっていて、気が利いていました。 もう一箇所は、ベタと言えばベタなのですが、恋人・マルセルの事故死を知る直前、ピアフが幸福な目覚めをする場面から、やがて絶望にいたる長回しのシーンから、一転いきなり“愛の賛歌”のステージに部屋の廊下がつながっている、というアノ場面ですが、ここだけミュージカル(&舞台)のようなシーケンスが盛り込まれており、それがかえって、超有名曲をたったワン・フレーズ程度しか使わずに、説明不要なまでに印象づけており、実に巧みでスマートな演出。 個人的に一番好きなシーンは、ピアフがはじめてキャバレーからミュージック・ホールで歌わせてもらう場面で、ピアフの歌はまったく聴こえないで、身振り手振りを交えて熱唱するピアフの姿だけが延々と流れる。この仮称シーンと、観客の静かな目線が交互に流れ、ある瞬間、ピアフ自身の世界が一気に広がるかのように、静寂から割れんばかりの拍手がホールを埋め尽くす。あのシーンがとても気に入っています。 相変わらず、パスカル・グレゴリーの名脇役ぶりも光っていましたし、やはり主演のマリオン、素晴らしかったです。アカデミー賞を獲ったあとで、彼女の演技をどうのこうのというのはナンセンスでしょうね。でも、もし彼女が賞レースを勝ち抜かなくても、やっぱりこの演技は評価されたと思います。若い頃から早すぎる、そしてあまりに凄惨な晩年までを演じたマリオンですが、おそらく特殊メークの技術の進歩が、かえって彼女の演技に下駄をはかせているかのように受け取られて、本人とっては不本意な部分もあるのではないでしょうか。30年前だったら、間違いなく、デ・ニーロが受けたのと同じような評価を、より正当に受けただろうなぁ、と。まぁ、実際賞も獲って評価もされたのだから、やっぱり何をかいわんや、なのですが。 罪のあるところにこそ、赦しの神は降りるといいますが、エディット・ピアフは、聖人ではなかったかも知れませんが、間違いなく見神者であったに違いない…。そんなことを考えながら、しかしこれだけ自分の人生と芸術を重ね合わせたピアフの歌は、確かにリアルではあるけれど、同時にヒリヒリとし過ぎていて、しばらくシャンソンは聴けないな、と思いました。単純に、流行歌として聴くのではなく、辻歌として聴く場合、こんな安穏とした生き方の中で、どこまでピアフを、あるいはシャンソンを、然るべきリアリティを持って聴けるのか、甚だ自信喪失、そして自問を禁じえませんでした。かつて、ビリー・ホリディを一時期聴けなくなったのと同じように。(了)エディット・ピアフ 愛の賛歌(DVD) ◆20%OFF!■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/04/02
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過日の日記でも、悲壮感を込めて(苦笑)書きましたが、毎日少しずつ書評記事のデータ更新をしております。本当に地味な作業…。 期末・年度末の時期も重なり、なかなかじっくりPCに向かう余裕のない中で、しこしこと過去記事の編集作業をする、というのはちょっと退屈なのですが、それもようやく半分まで来ました。 日記編集画面のリストを出して、次ページ、次ページと繰っていって、意外に早く手直し後の記事にぶつかったときは、岩盤を突いて、早々に宝箱の角に鶴嘴が当たったような(いや、そんなことはしたことがないのですが…)嬉しさがこみ上げます。 まだまだ編集が必要な記事はたんまり残っていますが、時間を作って早いところアップデートを終えてしまいたいものです。(了)■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/04/02
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昨年、共著に推薦文をいただき、その後はお手紙などでおつきあいをいただくばかりであったが、過日久しぶりに帯津良一先生を、川越まで訪ねた。 相変わらずお忙しそうで、全国を飛び回っていらっしゃるようであったが、一時間あまりの再会の時間の中でも、昨今の医療事情において、医療従事者と患者双方の意識と実践の中で、“医療の場”そのもののエネルギーを高めることが急務である点、熱くお話いただいた。拙著のことも気にかけて下さっていたようで、大変ありがたかった。 久しぶりに、元気をいただくあたたかい再会となったが、やがて共著も出版から一年を迎えるのか…と思い出す。その間、たくさんの業界関係の方のご協力や読者に支えられてきたことに、改めて感謝の念が湧いた。(了)■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/04/02
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見出し:影絵で遊ぶ。後藤圭著『手で遊ぶおもしろ影絵ブック』(PHP研究社) 洞窟の影に一言申すなどといえば、プラトンでも飛び出してきそうだが、これは影絵の話。影絵で遊ぶ、などということは随分と昔の記憶まで遡らねばならないが、暗闇の中で、天井だけがぼうと明るく、そこに現れた犬や鳩の姿は、時に大きくなったり、小さくなったり、吠えたりはばたいたり…と、こちら側で手を動かしているだけに過ぎないという単純さを忘れさせるだけのイマジネーションを書き立てるマジカルな魅力があった(本書に収められているレパートリーには、私の子供の頃にはなかったような複雑なものや大掛かりなものもある。恐竜!?)。 光と影。地球誕生以来、もっとも原始的な仕掛けであるこの二つの現象を用いて遊ぶ。幻燈のルーツであり、テレビや映画の元祖ともいえる影絵。一番手近にあって、簡単に出来るアニメーションともいえるだろう。 飾らない、語らない。だからこそ、このモノクロの動画には、見る者、影絵を作る者が、自由に、そして豊かにそれぞれの物語をつむぎだすことが出来るのではないか。久しぶりに、郷愁溢れる影絵を壁に映じて、幼き日の好奇心を思い出してみようか。果たして、影絵を作る手は大きくなったが、眺める眼(まなこ)にはまだ往時のイノセンスが残っているだろうか。(了)手で遊ぶおもしろ影絵ブック■著作です:何のために生き、死ぬの?。推薦文に帯津良一・帯津三敬病院名誉院長。
2008/04/02
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