江戸東京ぶらり旅

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寛政の改革

分かる江戸 (8) 混迷からの脱出


 何やってんだ,成り上がりの田沼にこの危機をまかせられないよ。反田沼勢力の支持を得た 松平定信 が老中の代表になってしまった。そして,彼は他に数人の老中を指名したのですが,彼と同じ考えの仲間たちを老中に登用して,がっちりと自分の周囲を固めましたね。これが「 寛政の改革 」の始まり,十一代将軍 家斉 のときでした。


 やることはすでに決まっていました。農村が荒廃したのでこの立て直しが第一。それで出稼ぎを禁止したり,帰農を奨励したり,荒れ地を開墾,子供の養育のためにお金を貸し付けたりと,あれこれ手を打ちました。それに田舎から江戸へ浮浪者が流れ込み秩序が乱れてきたので,治安回復のために 石川島人足寄場 を設置,もともと「鬼平」つまり 長谷川平蔵 の申し出があったので造らせたのですが,罪人を更正させる施設ですね。現在は高層ビルが林立するウォーターフロントになっていますが,その跡地の佃公園にモニュメントが残されていますよ。人足寄場については別に詳しく書く予定です。


 それから,物価引下令を発布したり,札差しという,武士の年俸である米をお金に換金して手数料をとったり,米を担保に武士に金を貸したりしていた人たちですが,旗本や御家人と呼ばれる武士を財政難から救うために,彼らから債権を放棄させたり,債務を延期させたりする 札差棄捐令 (きえんれい)を出したりしたのですよ。阿倍さんも住宅ローン棄捐令,教育ローン棄捐令なんて出してくれるなら支持率もグンと上昇するかも知れないですね。

 さらに思想と情報の統制をしましたね。儒学は 朱子学 に限るとして,他は禁じてしまった。外国船が日本近海に出没していた時でもあるので,特に蝦夷地の調査をさせたりはしたのですが,海防の必要性を説いた林子平を処罰してしまったのですね。田沼時代には海外貿易にも力を入れようとしていたから,新しい考えと民衆の不満が合体するのを恐れたのですね。松平定信は途中解任されましたが,これらの施策は,1818年の水野忠成(ただあきら)が老中になるまで続けられたのですね。水野は質の悪い貨幣を鋳造,乱発したので幕府はおおいに儲けたのですが,当然物価高騰,インフレになるのですよ。


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