江戸東京ぶらり旅

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明治維新の頃



分かる江戸 (12) 慶応から明治へ


 今回は,大学の名前のようなタイトルですが,1868年1月(慶応4年)のこと,新政府は外国に対して,日本が天皇を中心とした新しい政権が誕生したことを宣言しました。3月には「 五箇条の御誓文 」を公布,世論を尊重しますよ,外国とは仲良くしますよ,というような内容でした。7月には江戸を東京とあらため,9月には年号を「明治」とし,年号がころころ変わらないようにもしました。翌年は明治天皇が京都から東京へお引っ越し,東京が首都となったのです。他にも諸外国に見習って中央集権の近代国家をつくるための改革をしましたが,これら一連の改革を全部ひっくるめて「 明治維新 」とよんでいますね。



 といっても,生物の絶滅と同じく,あるものは新しい時代になってもまだ生き延びているように,全部か一斉に変わったわけではありませんね。今までの藩の中で没収されたところは「県」とか「府」になりましたが,まだ「藩」として存続しているところもあった。やっぱり新政府としてはどの藩も廃止したい,それで作戦を考えた。薩摩,長州,土佐,肥前の4藩主がそろって自分たちの土地(版)と人民(籍)を天皇にお返しします,と宣言。「 版籍奉還 」ですね。これには他の藩の大名だって右へ習えですよね。天皇に逆らうわけにはいかないからね。これを画策した木戸孝允も大久保利通もヤッターと思った。

 それで新政府の影響力をさらに強くしたのですが,旧大名(地方のお殿様)の影響だっていまだに無視できない。それで明治4年,軍事力を背景に「 廃藩置県 」を強行。地方行政の責任者に,新政府が任命した府知事などに当たらせ,旧大名の影響力を完全に取り除いたのです。これで中央集権体制が整ったのですね。最初は三府三〇二県ありましたが,統合されて今に続く一道三府四十三県になったのは明治21年のこと。

 では今まで米を税金として納めさせていた仕組みですが,藩がなくなっては税収がない。それで,土地の個人所有と土地売買の自由を認め,作物栽培の自由も認め,その上で「 地租改正 」をおこなったのです。つまり,全国の土地を測量して,土地の広さと所有者を確定し,平均の収穫高などから地価を算定して,土地の固定資産税を地価の100分の3と決めてしまったのです。だから政府はその年の気候,収穫高とは関係なく,安定して税金が入る。近代国家への基盤ができてきましたね。

 新政府を構成する人は,三条実美,岩倉具視,西郷隆盛,木戸孝允,板垣退助,大隈重信,とみんな薩摩,長州,土佐,肥前の4藩で独占。当然ですね。この人達によって,幕府は倒されたのですから。でも江戸にいた人たちはどう思ったでしょうね。あんな田舎侍に日本を乗っ取られて,と。

=大隈重信の墓・東京=
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