江戸東京ぶらり旅

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両国の秘密

両国橋を渡る



 総武線の両国駅で降りましょう。おなじみ 両国国技館 江戸東京博物館 がありますね。退職したお相撲さんが経営するちゃんこ屋やお土産屋などもちらほら。国技館とは逆方向に進むと隅田川に架かるブルーのアーチの綺麗な「両国橋」がある。橋の向こうには佃島と月島の高層住宅街。

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 両国橋は,南千住と北千住を結ぶ千住大橋の次に隅田川に架けられた橋なのです。江戸幕府は軍事上の都合で,隅田川に橋を架けさせなかったのですね。ですから北斎や広重の絵には渡し船が登場するのです。将軍が渡るときは,川に船を並べて人工的な橋,つまり「 船橋 」を一時的に造ったのです。これで千葉県の船橋市の名前の由来が分かりますね。

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 江戸城を守るのに橋を架けさせなかったのに,どうして造ることになったのでしょう。江戸市内で起きた 明暦の大火 ,すなわち振袖大火(1657年),これで大勢の人たちが逃げ場を失って亡くなりました。一説では10万人とも言われます。もしも隅田川に橋があったなら・・・それで,この大火の直後に橋は架けられました。 両国にある「 回向院 」は,この大火の焼死者を集めて築いた万人塚が始まり,後にも安政大地震,関東大震災,海難,水死等で亡くなった全ての無縁仏を祭っています。当然幕府からの援助もありました。

 両国橋の架橋で二つの国がつながりました。当時は隅田川の東側が 下総 (しもうさ),西側が 武蔵 という名の国でした。それで両方の国をつなぐ橋,という意味から「両国橋」となったのですね。1723年からは隅田川の川開きが行われるようになりました。飢饉や病気が流行り,お払いのつもりで始めたのが花火大会。最初はシュルルルと放物線を描くようなもので,次に打ち上げられるまで間が持たない,それでその間に彼女とネンゴロに・・・なんて具合だったのです。

 回向院は大相撲発祥の地でもあります。このお寺では春と秋に 勧進相撲 が行われました。勧進とは,寺社や道橋の造営,修復のために費用を調達するための寄付を募ることを言います。そのために行われた相撲が勧進相撲です。この頃から他の芸能も含めて一部階級のみの特権だった相撲が寺社で盛んに行われ,庶民にまで広がっていきました。宗教的,儀式的行事であった勧進相撲も次第にお相撲さん自身の生活のため,つまり営利目的での興行が主流となり,現在の大相撲へと発展していったのです。回向院は両国橋のたもと,便利が良かったためいつもにぎわったそうです。それで,特に場所が定まっていなかった江戸の勧進相撲を主に回向院でやろう,ということになったのですね。
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 両国駅側から隅田川の向こうを眺めると,隅田川に注ぐ別の川と,その川に架かるアーチ型の橋が見えます。この川が神田川の最終地点,橋は「 柳橋 」というわけです。船宿,佃煮屋があって,どこからともなく三味線の音が聞こえてきそうな雰囲気の場所です。江戸時代にはここからお金持ちたちは山谷堀へ向かい,襟元を正していざ吉原へ,となったのです。



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