江戸東京ぶらり旅

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暗殺の名所<紀尾井坂>

紀尾井坂を歩く


 地下鉄赤坂見附駅で降りましょう。ここは江戸城から赤坂の地への出入口,つまり見附(検問所)があったところですね。四谷も同じように見附がありました。駅前にある石垣の部分ですが,四谷見附とは言いません。見附と名のつく駅は「赤坂見附」だけですね。それで駅を出ると目の前に皇居の森が見えます。江戸城の外堀だったところに架かる「弁慶橋」を渡ると,左側はホテル・ニューオータニ,右側は清水谷公園です。さらに進むとT字路,左に曲がると上り坂になります。この坂が「紀尾井坂」,この付近一帯は「紀尾井町」と言います。この坂を200m,上り詰めると「食い違い見附」,右折して上智大学,そして四谷駅へと続きます。

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 江戸時代のことですが,清水谷公園や赤坂プリンスホテルのあるところは紀伊徳川家,上智大学のあるところは尾張徳川家,ホテルニューオータニのあるところは彦根藩井伊家の屋敷があったことから,それらの一字づつを取って,紀尾井坂・紀尾井町名がつけられたのですね。ちなみに,弁慶橋から紀尾井坂の上りはじめまでは低地で,清水谷と呼ばれましたが,清水が湧き出たことによります。

 この坂は一方が江戸城のお堀に面していてしかも薄暗い,要人を襲うには絶好の場所だったのですね。例えば,1878年5月14日,内務卿であった大久保利通さんは出勤途中,旧加賀藩士島田一郎さんらに暗殺されました。大久保さんは西南戦争の際に西郷隆盛さんを征伐する政府側の責任者として働いていました。一方,島田さんらは西郷さんの方針に賛成だったので,大久保さんに反感を持ったわけです。この事件は「紀尾井坂の変」と呼ばれ,清水谷公園(大久保さんの邸宅跡とされます)には「贈右大臣大久保公哀悼碑」があります。なお,青山墓地に大久保さんの立派なお墓があります。さらに坂の上の「食い違い見附」は江戸の外堀りの渡り道が,ジグザグに造られたことから名づけられましたが,この見附あと付近では,1874年に岩倉具視さんが襲われる事件も起きています。

<真相報道>
 大久保さんは西郷さんとともに江戸幕府を倒そうと考え,1867年に岩倉さんらと連携して王政復古の政変を実現しました。(日本史で習いましたね)そして新政府が成立。版籍奉還,廃藩置県,地租改正など次々と改革。平成の大改革どころではありませんでした。大久保さんは欧米視察後,内務省を設立,事実上の首相というべき内務卿を兼務しました。ところが,西郷さんは仕事にあぶれた士族(武士)たちの仕事場を開拓するため朝鮮派遣(征韓論)を提案しましたが,大久保さんは絶対反対。1877年に西郷さんは鹿児島士族の反乱(西南戦争)を起こすのです。大久保さんは莫大な金をかけてこれを鎮圧。大久保さんは朋友を失ってしまいます。西郷さん尊敬していた,そして政府のやりかたに不満をいだいた島田さんらに出勤途中襲われ殺害されてしまったというわけ。

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学校では教えてくれない日本史事件の謎 午後の刺客

参議怪死ス 大久保利通




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