江戸東京ぶらり旅

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榎本武揚の実績<文京区>

函館戦争 を指揮したのに,後に明治新政府の要人になり活躍。西郷隆盛さんの銅像の除幕式にも政府関係者としてちゃんと名を連ねていますよ。敵が新政府の要職につけたのはどうしてでしょうね。

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 榎本さんは神田の昌平坂学問所やジョン万次郎さんの私塾で学び,19歳で樺太探検に参加しています。また長崎海軍伝習所では国際情勢や蘭学などを学び,オランダにも留学して国際法や造船関係の知識を身につけた国際派。帰国してから江戸幕府の海軍副総裁になりました。

 榎本さんが海軍副総裁になった年,将軍徳川慶喜さんが幕府の権限を朝廷に返上しました。朝廷の慶喜さんへの扱いに激怒した旧幕府軍が京都近郊で薩長軍と交戦。1868年(明治1) 戊辰戦争 の勃発,第一幕がこの 鳥羽伏見の戦い 。新政府軍が江戸を占拠,同5月上野戦争で彰義隊が敗れます。ここで武揚さんは,あくまで新政府軍と戦おうと考えた過激派幕臣や新選組を率いて北海道函館に軍艦で逃走しました。そして,幕府が北の守りを固めるために作った西洋式城郭, 五稜郭 を占拠してここを基地とし,彼は選挙で蝦夷共和国の総裁となったのです。そのとき新撰組の 土方歳三 さんは陸軍奉行に選ばれていますよ。新政府はもちろん榎本さんたちを反逆者として扱いましたが,諸外国は独立政権と認めたのですね。

    1867年7月,江戸は東京と改称
         9月,明治と改元,会津藩が新政府軍に敗北
    1869年3月,首都は京都から東京へ(東京遷都)

 急速に時代は江戸から明治へと移る中,榎本さんたちは戊辰戦争のラストステージ, 函館戦争 で新政府軍に敗れます。新政府軍はこれをもって全国を統一したのですね。江戸時代の終焉,新しい時代の本格的な幕開けでした。

 このとき,時の新政府軍の総大将 黒田清隆 さん,後の総理大臣ですが,戦争を通して榎本さんの才能に魅了され命を救おうと決意,榎本さんは切腹など命ぜられることなく,青森から東京に送られ投獄されました。獄中では戦争の英雄として囚人たちから尊敬されたといいます。彼は,親兄弟を気遣うばかりでなく,囚人たちの出獄後の生活についても心配しています

 3年後,黒田さんの助命運動が実を結び,榎本さんは罪を許され,彼の国際的な視野の広さ(でも西洋かぶれではない)や深い知識を買われて新政府に登用されたのです。もちろん榎本さん,今までのいきさつがあるのですから,簡単に新政府の仕事を引き受けるなんてできません。でも黒田さんは意を尽くして説得。榎本さんは黒田さんに大きな恩がある,それで最後は断り切れなかったのですね。

 榎本さんが求めたわけではないのに,駐露公使,外務大輔,海軍卿,駐清公使を任ぜられ,内閣制度ができてからは逓信大臣(郵政大臣ですね),外務大臣,文部大臣,農商務大臣も務めました。これらの要職,他に代わる人物がいなかったからですね。でも,かの福沢諭吉さんは「二君に仕えるという武士にあるまじき行動をとった典型的なオポチュニスト」と批判しました。しかし,福沢さんがどう批判しようが「明治最良の官僚」,義理人情を重んずる典型的な江戸っ子気質,口癖は「べらんめー」で庶民はもとより,明治天皇からも愛されました。

 薩長が支配する新政府の中で,かつてそれに楯突いた人物がここまで出世するのは奇跡に近いのではないでしょうか。現在の郵便の「〒」マークを提案したのも彼。小泉さん,この事実知ってますか?? 他にもここには書ききれないほどの多くの業績を残しました。勿論私見ですが,今はやりの成果主義で評価するなら,西郷隆盛さんや勝海舟さん,伊藤博文さんなどよりもランクが上になるでしょう。

 亡くなったのは1908年(明治41),文京区の吉祥寺( 写真上 )にお墓があります( 写真下 )。また墨田川墨堤の木母寺には,海軍中将の堂々たる銅像が建っています。

 そこで,榎本さんが卓越した能力の持ち主だったことは勿論ですが,それ以上に,見る目があった黒田清隆さん,この方は本当に素晴らしい方だと思いますね。

吉祥寺1.JPG

吉祥寺:榎本武揚墓6.JPG




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