江戸東京ぶらり旅

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間宮林蔵<深川>



 「まみや」とは江戸時代に生きた間宮林蔵のこと。江東区平野2-7-7に林蔵の墓があります。この場所はちょっと説明しにくいのですが,富岡八幡のある門前仲町の北,仙台堀川に架かる「亀久橋」を北に少し進んで2つめの交差点を過ぎ,そのすぐの左側にあります。


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 常陸の国(茨城県筑波郡)に農民の子として生まれ,1844年,65歳のときに深川蛤町(門前仲町付近)の家で亡くなりました。林蔵8歳のころから寺子屋へ通いはじめ熱心に勉強,やがて数学的才能を認められて江戸へ。地理学を学んだ後,林蔵は「大日本沿海輿地全図」を完成させた伊能忠敬に弟子入り,北海道探検に随行し測量術を学びました。


 1808年には樺太を探検,そのとき間宮海峡を発見。樺太(サハリン)は大陸とつながっているのではなく,離島だということを確認したのです。この業績で彼は一躍注目を浴びることになります。間宮海峡という名称は現在でも健在。また,伊能忠敬の完成させた地図の中の北海道部分を完成させていることも見逃せない業績。どちらも新発見とか,日本で最初というような程度のサクセスストーリーじゃなくて,日本の防衛という観点で意味ある仕事でした。

 測量の仕事が一段落し江戸に戻ってからの林蔵は,全国を歩きまわり異国船渡来の風聞内偵等の仕事のため,隠密的な行動をとっています。時を同じくして,国防上大切で門外不出の日本地図がシーボルトによって国外に持ち出されようとしていることが発覚。高橋至時の息子,高橋景保が「シーボルト事件」にかかわったとして投獄され,獄中で亡くなりました。

 この事実が露見したのは間宮林蔵の密告とされ,至時は恩師である伊能忠敬の師匠でもあるため,裏切り行為だといった非難もなされたそうです。しかし,真相は密告などではなく,シーボルトが林蔵に送った書簡を,林蔵が決まりに従って幕府へ届けたために,景保とシーボルトの関係がただならぬものだと分かってしまった,というわけ。ライブドアを調べていたら,村上ファンドがおかしいと分かったのに似ているかな。村上ファンドが問題になったのはライブドアの密告によるものではありませんね。シーボルトは勿論ドイツが日本に派遣した外交官,体裁の良いスパイです。

 とまあ,間宮林蔵も国際関係のごたごたに巻き込まれていやな思いをしたのでしょうが,こんな人が深川でアサリのぶっかけ,「深川飯」を食べていたと思うと,今日は誰と会うのかと散歩も楽しくなりますね。

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