最終章



祖父は、7人兄弟の長男に生れ、栃木の家族のモトで自分の兄弟と暮らした事は、無かったも同然の寂しい人でした。だからこそ、気を紛らわす為にも いや、それだけじゃない、自分のしてきた事への罪滅ぼしでも遭ったのでしょう。自分の城を作り、そこに親族を集め、自分の孤独と戦っていました。
再婚した祖母が20歳違いだったので、やはり、歳の差が生じ、遊び方も考え方も違いだし、義祖母のお姉さんと、遅くに出来た自分の子供の世話ばかりで、祖父は、家に居る事を好まなくなって、映画館は、父に任せ、自分は、競輪 競馬に走り、福島の湯本の温泉地に居る事が多く、祖母は、旅行や株に走り、大損したり、祖父が年老いてからと言うものあまり、傍に居た事がありませんでした。

祖父と言う人は、わたしが、「おじいちゃん」と言うのを嫌がり、自分は、若いのだと言いながら、従業員や家族に「おとうちゃん」と呼ばせ、わたしも子供の頃からずっと『おとうちゃん』と呼ばせられていました。

そんな祖父が、子供の中で唯一自分がお妾さんと暮らしていた時、何も知らず遊びに来てくれていたもっとも可愛がってた子・次男(栄次郎)が亡くなった2年後、昭和49年に倒れ、その年の10月25日祖父は、78歳で「大動脈破裂」で壮絶な人生に幕を下ろしました。
それは、想像を絶する波乱万丈の人生を送った。祖父の死でした。
これは、後でわかったことで、とても、不思議な事ですが、祖父は、戦争と言う希望も夢も無くなって暗くなってしまっていた時代に多くの人々に映画と言うもので、夢と希望を・・・
そして、自分がピエロ(チンドンや)になり、みんなに明るさを持たせてくれたひとでした。

祖父は、明治30年、映画が初めて日本に上陸したその年に生まれたのです。その祖父が、映画館を始めたのも、祖父の生まれた年に関係があったのでしょうか。
人力車を引いたり、珍問屋をしていた祖父なので、年老いてからも、赤が好きで、良く赤のセーターを着ている意気のある祖父でした。
暗い時代を乗り越え、生きてきて、でも、希望を忘れず明るい世の中をと、望みながら生きてきた。自分がどんなに何を言われようと自分の信念通りに生きてきた人でした。

本当だったら栃木の八木節源太の13代目になっても可笑しくない位、若い頃から祭り好きだった祖父だったので、老年、庭先にお正月になると、獅子舞、夏は、家へ八木節保存会の人をわざわざ呼び、庭の縁側にすわり八木節のはやし太鼓などを聞いていました。

ですから、祖父のお葬式は、祖父の血と汗と涙が詰まっている祖父が、祖父の愛した映画館(相賀館)をお葬式の式場にしました。

その式場には、生前、祖父は、ボーイスカウトの団長を勤めていた事もあったので、ボーイスカウトの鼓笛隊が演奏をし、映画館の式場には、約250人の人が集まり外には、100人ほどの方々が参列してくれました。上州の八木節のお囃子も来、祭り好きだった祖父には、とても相応な式でした。

『おとうちゃん、大変な人生だったね。「おとうちゃん」わたしは、「おとうちゃん」が居たから 今のわたしが居るんだよ。「おとうちゃん」が居なかったら、こんなに色んな体験をする事が出来なかったんだ。病気も治せなかったかもしれない・・・
本当に、ありがとう・・・
わたしは「おとうちゃん」の事尊敬しています。

わたしの前では、絶対心配してるそぶりなど見せなかった・・けど、聞いたよおとうちゃん、「おとうちゃん」を良く知ってる人から、「おとうちゃん」がわたしの事すごく心配して、病気治してあげたいって言ってたって 知らなかった本当にありがとう!・・・わたし病気こんなに良くなったよ!わたしお父ちゃんの事大好きだよ!』   《完》

不思議な事で祖父は明治30年映画が日本に来た年に生まれ、映画館を始め、父と母が映画をきっかけで知り合い映画館の孫として、最初に生まれたわたしの名をくじ引きで決めイニシャルが「E・T」ゆくゆく『E・T』と言う映画が出来た・・・これは、映画に絡んだ家系の運命でしょうか・・・


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