売り場に学ぼう by 太田伸之

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Nobuyuki Ota

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2025.05.17
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カテゴリ: 太田伸之




子供の頃、箪笥の小さな引き出しの中に色褪せた和紙の包みを3つ発見、表には「秀之」(弟)「育子」(妹)、そして「亮之介」の表記、中身は誕生時のへその緒でした。どうして「伸之」だけないんだろう、亮之介は誰なんだと疑問がわき、ひょっとしたら自分はおふくろのすぐ年長の房子おばちゃん(早く離婚しておふくろの実家で暮らしていた)の子供かもしれないと早合点。おばちゃんは頻繁に我が家に立ち寄るし、実の子供のように私を可愛がるので「ひょっとして」と一時期悶々としました。

へその緒の包みを発見してからしばらくして、思い切っておふくろに質問しました。「亮之介って誰なんや」。するとおふくろは笑いながら私が誕生したときのことを説明してくれました。我が家の最初の子供(女の子)は死産、いわゆる逆児でした。だから私は待望の子供、しかも男児だったので両親は大変喜んだと想像します。オヤジは誰と相談したのか亮之介と名付けたかった。出生届を提出するまでの間、私の名前は亮之介でした。

ところが、おふくろはこんな古臭い名前はかわいそうと猛反対、市役所への提出時は伸之となりました。だから私のへその緒の包みは出生時のままなんだそうです。私の従兄弟の多くは名前に「之」が付いています。昌之、克之、茂之、博之、そして我が弟の秀之、祖父の名前から一文字とったようです。もしも出生時の亮之介のままだったら人格変わっていたかもしれませんし、私は古風な亮之介の方がありがたかったと思っています。

祖父の実家は代々広大なたんぼを所有する素封家、終戦直後の農地改革までたくさんの小作人たちにたんぼを貸していました。と同時に、自分はきもの生地を染める紺屋(こうや)、しかも三重県の同業者に染料の藍玉を販売する元締めのような仕事をしていました。

ところが「モボ・モガ」が登場した大正末期から昭和初期にかけて日本は急速に洋装化が進み、藍染めきものの需要は一気に低下、紺屋はあっという間に斜陽産業。父親の仕事が斜陽化するのを肌で感じた三男のオヤジは、いまでいう中学校を卒業する際三重大学教育学部の学生だった長兄に「僕は洋服屋になりたい。松坂屋の面接試験についてきて欲しい」と頼みました。

弟の決意を聞いて伯父は弟に付き添って松坂屋の面接試験に。しかし当時松坂屋にはまだ紳士服部がありませんでした。面接官に「どうしても僕は洋服屋になりたいんです」と絶叫するガキに、優しい面接官は「そんなに洋服の仕事がしたいなら名古屋で一番大きな紳士服店に紹介状を書いてあげる」と言ってくれました。兄弟はその紹介状を持って紳士服店を訪問、その日からオヤジは住み込み見習いとして採用されました。

家に戻って伯父は祖父に松坂屋に紹介された紳士服店に採用された顛末を報告したところ、祖父は烈火の如く怒ったそうです。住み込みは「丁稚奉公」、どうしてうちの子が丁稚にならなきゃいけないんだ、おまえは大学に通っててそんなこともわからんのか、と。

この一件で伯父は長男ながら太田家の跡継ぎから外され分家を命じられました。弟の夢を叶えてやりたいと面接に付き添ったことで伯父の人生は狂ってしまったのです。その後伯父は大学を卒業して教員になり、桑名市立小学校の校長先生になりましたが、祖父の許しは得られませんでした。ちょっと気の毒です。



インパール作戦で多くの兵士が戦死したから軍部は混乱してたのでしょう、実家にはオヤジの戦死通報が届きました。しかし、祖父は「滋(シゲル)は要領がいいヤツだから絶対に生きている」と戦死通報を無視、帰国したらいつでもテーラーを開業できるよう紳士服地を大量に買い込んで蔵に山積みしていました。その後現地収容所から解放され、オヤジは無事帰国を果たしました。

帰還したら蔵には大量の服地、オヤジは祖父に感謝したでしょうね。そして、お風呂で父親の背中をゴシゴシ洗ったら翌朝祖父は起きてこなかった。息子が無事戻ってきっと安堵したのでしょう、祖父はぽっくり亡くなりました。すごい親子のつながりだと思います。

オヤジはすぐには開業せず、まず名古屋の松坂屋(戦後は注文紳士服の部ができました)に紳士服技術者として就職、そこでお客様の名古屋の名士たちから贔屓にされ、私の誕生後に独立、名古屋に隣接する三重県桑名市でテーラーを開業しました。このときお得意様の一人がトヨタカンバン方式(トヨタ自動車サプライチェーンマネージメント)の生みの親、大野耐一トヨタ自動車副社長でした。

多くの職人を抱えるテーラーを経営する傍ら、製造特許をとって毛芯メーカーを名古屋市で立ち上げ、松坂屋本店の紳士服納入業者にもなり、東京岩本町の紳士既製服メーカーの顧問デザイナーも兼務、加えて近隣同業者と別のテーラーを共同経営するなど紳士服一筋の忙しい人生でした。

一代で事業を拡大してきたオヤジは私と弟両方に家業継承を期待、私は大学のほか夜間は父の母校の専門学校でパターンメーキングを学び、夏休みには個人教授にみっちり指導されました。私は新宿オカダヤで生地を購入、自分が裁断したものをうちの職人に縫ってもらって自作の服を楽しむなんて時期もありました。大学卒業したら私をロンドンのサビルローのテーラーに修行に出すつもりでしたから、海外に慣れさせるためロンドン、パリ旅行のチャンスをオヤジは与えてくれました。

しかしながら学生時代に何度も海外に行くうちに、私の心はロンドン有名テーラーでの修行ではなく、ニューヨークでマーチャンダイジングの道へと変わりました。紺屋の息子が勝手に洋服の道に進んだ血なのでしょう、テーラーの息子は親の期待を裏切って勝手に既製服マーチャンダイジングのプロを目指すことに。そして家業を継がないのであればと伯父さんみたいに長男でありながら分家を命じられました。

2001年にオヤジが亡くなったとき、私はブランド企業の社長、弟はその競合企業の企画生産部長(一度家業を継いでオヤジを助けてから上京)、共に同じ商社のお世話になっていました。普通に考えたら長男で社長の私が遺族を代表してご挨拶するところですが私は分家、当然ながら弟がご挨拶しました。葬儀に参列してくださった商社マンたちは意外に思われたでしょう。

写真は実家の遺品を整理していたら出てきた兵隊に召集されたときのオヤジ、弱冠21歳です。日本洋服専門学校を卒業して後輩たちに製図を教えていた頃の手書きパターン帳も出てきました。まるで印刷したかのように美しい手書きの縮小パターンでした。いまこのパターン帳はファッションブランドで働く弟の息子が保有しています。糸偏一家の家宝、その次の世代に継承されるかどうかはわかりませんが。

今日久しぶりに写真館で自分のポートレートを撮影してもらいました。撮影後デジタルカメラの画像をたくさん見せてもらって1枚選びましたが、どのカットも晩年のオヤジに似ててやっぱり親子だなあ、と。写真は1週間後に完成なのでここにはアップできませんが。





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Last updated  2025.05.18 17:07:39
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