売り場に学ぼう by 太田伸之

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Nobuyuki Ota

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2025.08.07
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先日ファッションキュレーター深井晃子さんから久しぶりにメールが入りました。かつて墨田区役所で働いていた方が退職後に小説を執筆、私にも送ってくださるので住所を伝えてよろしいですか、と。数日後、著者深野紀幸さんから小説「莫大小の街」(作家名は深野紀行さん)が届きました。




莫大小、一般人には馴染みのない文字ですが、「メリヤス」と読みます。いま風に言えばカットソーあるいは丸編み、両国にはカットソーやセーターの工場や関連事業者のオフィスがいまもたくさんあり、かつては墨田区の基幹産業のひとつでした。

内容は、両国国技館の裏にあった旧墨田区役所跡地に建てたファッションセンター誕生の秘話、あくまでも小説ですから登場人物の名前は実名ではなく、それぞれの発言も完全な事実というわけではありません。個人的感想は、ノンフィクションのような小説でしょうか。

当時私はCFD東京ファッションデザイナー協議会を預かる責任者、一番の仕事は東京コレクションの円滑運営でした。が、ニューヨークで体験した実践教育方式でマーケティングやマーチャンダイジングを教えようと私塾「月曜会」を開き、毎年25人程度の若者を集めて教えていました。

そこへ参観にきたのが墨田区役所商工部の方々、深野さんはそのおひとりでした。この前後に深野さんと上司の部長がCFD事務局を訪れ、本所吾妻橋に移転する区役所跡地にファッションセンターを建設したいと説明されました。

その数年前に策定された通商産業省「繊維ビジョン」(繊維行政の方向性を盛り込んだ5年ごとの報告書だったかな)、全国各繊維産地にFCC(ファッション・コミュニティー・センター)をつくり、そこで繊維産業の振興イベントWFF(ワールド・ファッション・フェア)を開催するという構想が明記されていました。

この繊維ビジョンが完成した直後にCFDが誕生、事務局長だった私は繊維製品課の会議メンバーを頼まれて参加するようになりました。東京コレクション主催者なので振興ファッションイベントの検討にはちょうどいいということだったのでしょう。

この会議でも申し上げましたが、全国に繊維産業の発信拠点をつくるという構想、正直ピンときませんでした。産地の組合事務所、産地の商品販売のための小売店、当時流行りだった多目的ホールが入る建物をつくったところで産地活性化にはならないし、事業として成功するはずがない。戦後全国各都市に誕生した「公民館」はいまどんな状態でしょうか、物産展と予防接種会場でしょと私は発言したくらいです。

墨田区役所跡地にファッションセンターを建設したいと聞いて、私は「仏壇作って仏(ほとけ)入らず、ハコものつくってどうするんですか」と言いました。ファッションセンターをニット産地である墨田区に建設するのであれば、マーチャンダイジングをより専門的に教えるビジネススクールを立ち上げ、これをセンターの仏にしてはどうでしょう、と。

こうして墨田区役所にファッション産業の人材育成機関を検討する委員会を立ち上げることになり、委員の人選を頼まれました。まだ私は30代前半の若造、私が座長になっては物事スムーズに運ばないでしょうから、座長には繊研新聞社編集局長松尾武幸さんを推薦、松尾さんと共に委員をお願いする業界関係者を選びました。

大手アパレルからオンワード樫山廣内武さん、デザイナー系からニコル甲賀正治さん、スポーツ分野からダンロップスポーツ岡田茂樹さん、前述の深井晃子さん、コルクルーム安達市三さん、ほかに縫製技術指導者や百貨店幹部など分野ごとに人選して墨田区ファッション産業人材戦略会議はスタートしました。

深野さんの小説冒頭ではファッションアカデミー構想が先にあったかのように書かれていますが、元々あった話は移転する墨田区役所の跡地利用、ここに通商産業省繊維ビジョンにあるFCC構想を具体化しよう、でした。ビジネススクールがあってもなくても区役所跡に立派な建物をつくる、これがまず先にありきでした。

墨田区ファッション産業人材戦略会議では、現状どのような人材が業界で不足しているか、ビジネススクールでどういう人材を育てたいか、そのためにはどんなカリキュラムが必要かなどを話し合いましたが、
さすが各分野の有識者たち、トントン拍子で骨格が固まりました。カリキュラムの詳細は松尾座長、安達市三さんと私3人が集まって具体的なものを作成しました。

​​​次に、ビジネススクールの代表者には誰が適任かと議論、松屋社長を譲って会長になったばかりの山中さんにお願いしようとなりました。移転した墨田区役所の目と鼻の先には松屋浅草店があり簡単には断れないだろうし、松屋には社長自ら指導する「山中塾」があって実践教育のリーダーには最適ではないか、と。松尾座長が山中さんを口説き落とし、ここから山中さんも戦略会議に参加するようになりました。

ところが、構想はどんどん具体化していくのに突然上からストップがかかりました。区長選挙を控えた現職区長が通商産業省の提案に傾いて方向転換した、と後日松尾座長から聞きました。墨田区につくる墨田の学校ではなく、墨田区につくるオールジャパンの学校という霞ヶ関案に乗ってしまい、議論の場は墨田区人材戦略会議から通商産業省が新たに構成する委員会に。しかも墨田区会議の委員の大半は構成員から外れ、私だけ委員リストにありました。

皆さんと何度も会議を重ね、カリキュラム構想はほぼ固まり、適任経営者を口説いてスクール代表者を決めたのに墨田区案は白紙、私以外は新たに人選する委員で構成なんて飲めません。私は霞ヶ関に飛んでいって幹部と交渉、せめて山中理事長案だけは認めて欲しい、それができないなら私は委員にはならないと主張。が、なかなか交渉相手はウンと言わずこの一点で長い時間交渉しました。

あのときどうして霞ヶ関側は簡単に了解しなかったのか、なぜ山中理事長案に抵抗したのか、深野さんの小説を読んで30数年ぶりに大人の事情がわかりました。ノンフィクションではありませんが、そういうことだったんだろうな、と。山中さんは最初から新しい学校組織に天下りは入りませんと伝えていた場面が小説にありますが、いかにも山中さんなら言いそう、つまり霞ヶ関には煙たい存在だったのでしょうね。しかも有明には東京商工会議所主導の別のファッションセンター建設が決まっていたことも突然ストップがかかったことと関係あるかもしれません。


I.F.I.最初の授業プレスクール94

結局新たな委員会には山中さんと私が墨田区側から加わり、のちに山中さんを理事長に財団法人ファッション産業人材育成機構(I .F.Iビジネススクール)は誕生しました。東京都が10億円、墨田区が20億円、産業界から集めた20億円の総額50億円を出捐金に。

だが財団は正式発足したものの議論だけが続き、なかなか授業は始まりません。痺れを切らした私たちは山中理事長に「試験的に夜間スクールをやらせて欲しい。その上で教え方やカリキュラムに修正を加えたらいいじゃないですか」と1994年秋にプレスクールと称して週1回の夜間プログラムを開始、私は外部講師を呼んでファシリテーターをやり、自分でも教えました。

そして1998年4月には全日制2年間のマスターコースをスタート。多いときは夜間プログラムが週4日、全日制が週2コマ担当、私は勤務先の銀座の百貨店と両国を連日行ったり来たり。しかも放課後は近所のちゃんこ料理屋や寿司屋で夜遅くまで受講生や外部講師と濃い付き合いをしました。


夜間プログラム修了式の山中さん(前列中央)

深野さんは墨田区が両国に建てたファッションセンター及び墨田区ファッション産業人材戦略会議の区役所側中心人物でしたから、小説とは言ってもかなり実際にあったことに近い箇所もあり、「自分はこんなこと言ってたなあ」も「深野さん随分苦労してたんだなあ」もあって興味深く拝読しました。


夜間プログラム2期生たちと両国にて

ちなみに小説の中の私と思しき人物は太田ではなく田島、松尾さんは安谷、山中さんは中山となっています。





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Last updated  2025.08.07 17:17:05
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