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さすらいの天才不良文学中年
暴論選挙考 ルーズベルト
選挙考(レッド・カード理論)
本日は横浜市長選の投票日である。
前日までの天気予報が雨であったので嫌だなと思っていたら、降っていない。曇りから晴れの予想に変わっている。散歩がてらに投票に行ってこよう。
ところで、今回の市長選、この分だと投票率は50%を大きく割るのではないか。現市長の圧倒的な強さから考えると止むを得ないかもしれないが、それでも信任投票と思えば(不信任なら白票という手もある)、投票に行く価値はある。理由の如何を問わず、投票に行かないというのはまずいだろう。
おいらは思う。棄権防止策として、投票を2回または3回続けて棄権した場合は、イエロー・カードとしたらどうだろう。そして、もう1回棄権したらレッド・カード、すなわち、投票権を剥奪するというものだ(勿論、正当な理由があれば別だが。また、1回投票に行けばイエロー・カードは撤回されるようにすれば良い)。
「権利の上に眠る者は保護されない」のである。
昔は、女性や、税金を一定額以上払っていない者には投票権はなかったのだ。少々乱暴ではあるが、それぐらいしなければ投票率を上げる方法はないのではないか。どうであろう。
都知事選をどう見るべきか
予想通り、石原現職都知事が逃げ切った。語るべきものがなかった選挙である。
石原都知事に対し、対立候補が実質3人。これでは、闘う前から1人の方が有利に決まっている。何故、勝ち目のない黒川紀章は出馬したのだ。何故、勝ち目のない共産党が候補者を出すのだ。この2者が出馬しなければ、浅野候補にまだ勝てる可能性は残されていた。
しかも、浅野候補の出馬は、後出しジャンケンのようなものだ。しかも、民主党は独自候補の擁立さえ出来ない。この党にはあいそが尽きるというものである。日本に二大政党が出来るのに、これからまだ何年かかるというのか。暗い気持ちになる(断言する。最早民主党の切り札は、河村たかしを党首に据える以外、道はない)。
都知事選は、最初から結果が見えていたのである。これは、敵失による石原陣営の勝利以外の何者でもない。
ところで、おいらは今回の投票で誰に入れるか悩んだのだが、気付いたら、もう都民ではなかった。一昨年から神奈川県民であったのだ。15年間世田谷区に住んでいたので(文京区民2年間、中野区民7年間を合わせると24年間東京都民)、無意識の内に投票するつもりでいた。
では、都民であったら、誰に入れるつもりであったか。おいらの主義は、判官贔屓である。よって、現職には入れないこととしよう。そうすると浅野候補か、しかし、これが残念なことに暗いのである。であれば、棄権するしかないのか。トホホ。
何も出来ない民主党の無策によって、本当にどうしようもない選挙になってしまった。
そのまんま東氏、初当選
昔なら、泡沫候補である。
それが、昨日午後10時のNHKラジオの段階で宮崎県知事に当選確実である。これをどう見るか。
宮崎県の選挙民の健全な自浄作用である。
「最早、今までと同じ路線の県知事では、どうにもならない。えっ、元林野庁長官? 経済産業省のOB? お前らは阿呆じゃ」と選挙民が怒ったのである。だから、そのまんま東氏の実力を誰もが認めた訳ではない。消去法でそうなっただけである。
勿論、本当の泡沫候補なら得票は無理だが、そのまんま東氏が意外にちょいマジな無所属と分かり、雪崩打って棄権票の受け皿になったのである。
そこのところを間違えてはいけない。要するに、お仕置き票が間違って、一番上になっただけである。ホントは、次点止まりで、本命が肝を冷やすのがこれまでのパターンだったのである。しかし、選挙民の怒りは、その公式までも吹き飛ばした。結局、これは多数決という民主主義の限界である。
勿論、おいらはそのまんま東氏に「事実はこうですよ。だから、過信してはダメですよ」と云っているのだが、実は、この自浄作用というお仕置きはそのまま現在の与党、野党のプロの政治家にもあてはまる理屈である。
いよいよ、今夏の参議院選挙では、自民党の惨敗と同時に民主党の苦戦との両方が予想される。いや、そうなってもおかしくはなくなった、今回の選挙結果である。
選挙考
いよいよ明日、参議院議員選挙である。
直前の世論調査によれば、自民党の大敗北である。日刊ゲンダイなどでは、もうお祭り騒ぎである。
しかし、本当にそうなのか。おいらのように斜にものを見ると、違う局面が浮かび上がってくる。
こういう報道がなされるということは、ネガティブな行動を取る人間の心理を煽っているのではないか。つまり、わざと危機感を募らせているのではないか。
これまでも直前の世論調査が逆効果を上げたことは珍しくない。自民党の議席が40台を割れるなどと安易に思っていると、事実は正反対になる可能性が大である。危機感による投票の底上げと、反対票を投じなくても大丈夫だと安心感から、与党は案外善戦するかも知れない。
それに天気と投票率だ。東日本の天気予報は崩れそうだというが、これがどう影響するのだろうか。
いずれにしても、信念を持って投票するしかない。
閑話休題。
投票率を上げる方法として、否定票の投票制度を導入したらどうか。
気に入らない最高裁判所の裁判官にバツ印を付けるのと同様に、当選させたくない候補者の名前を書くのだ(ただし、この場合は、通常の投票を認めないものとする)。
例えば、今回の東京都選挙区でいうと、「選挙権を持っていないのに、立候補するなどけしからん」と某候補の名前を書くのである。比例区であると、「事務所の経費問題で煮え切らない答弁に終始する大臣を野放図にさせている」某政党の名前を書くのである。そうすると、このマイナス票は通常の投票数から差し引かれるという按配である。
これだと、投票したいと思う候補者や政党はいないが、当選させてはいけないという候補者や政党がいる場合には、いそいそと投票に出向くことが出来る。
勿論、法律改正とルールの徹底が求められることになるが、選挙とは本来かくあるべきではなかろうか。
参議院選挙
2日前に予測したことが今回は当たらなかったようだ。予測どおり、与党の惨敗である。
国民は怒ったのである。与党にお灸をすえたのである。
これで日本は変わるか。おいらの持論は、健全な2大政党論である。少なくともこの国は、その一歩をスタートしたと思いたい。
さて、これで、安倍総理は辞任するのだろうか。それに、衆議院の解散はあるのだろうか。
政界の一寸先は闇というから、何があるのか分からない。
しかし、万が一、衆議院の解散、総選挙になった場合、国民が「参議院はお灸、衆議院は別」と考えるのであれば、進展はない。
国会に参議院と衆議院があるが、その機能と議員の構成はほとんど同じである。参議院は衆議院のカーボン・コピーである。
参議院はこれまで何をしてきたのか。
「おさらい」をしてみよう。
基本的には、ほとんどの法案が衆議院で先に審議され、参議院は追認しているだけである。修正など事実上せず、廃案にさせた法案は1割にも満たない。加えて、審議回数も衆議院より参議院の方が少なく、審議時間も参議院の方が衆議院より短い。
つまり、衆参でほとんど同じことをやって、かつ、参議院は衆議院のすべてに劣るのである。
したがって、上記のように「今回だけはお灸」という考え方を今後もするのであれば、日本に参議院はいらないのである。そうでなければ、日本に健全な二大政党の実現など、夢のまた夢である。
天下の暴論、鳩山民主党への期待
日本が再生するために真に必要なことは、旧態依然の官僚制度を抜本的に改める=事実上潰すこと以外にないと思う。
ここで云う官僚制度とは官僚利権のことであり、天下りのことであり、官僚あって国家なしという金属疲労に陥った制度のことである。
だから、本当は小沢旧代表が党首のままでいるべきであったのである。彼なら官僚制度潰しを徹底出来たからである。小沢氏はそういう力量を持つ。
小沢氏が嫌いな人であっても、考えなければいけない。
敵の敵は味方なのである。ここで云う敵とは、もちろん官僚制度であり、その敵とは小沢旧党首である。
それを大マスコミが議論の本質を矮小化して、小沢氏の金権体質などと全く違う次元の問題に落とし込み、国策捜査に加担したのである。
もう一度云う。
「毒には毒を持って制する」しかないのである。
ところが、岡田氏は旧官僚(通産省)出身であり、鳩山氏も急先鋒派ではない。今回の小沢氏の交代で一番喜んでいるのは、実は官僚である。
だから、おいらは思うのである。鳩山新民主党が小沢傀儡党であっても結構、小沢院政であったとしても問題はない。小沢氏の説明責任など端から期待する必要はないのである。
ナゼナラ、それほど日本の官僚制度が腐っているからである。だから、この件については、天下の暴論と云われてもやむを得ないとおいらは思うのである。
でも、本当はこんなことなんて云いたくないぜよ。日本は一体全体どうしちゃったんだろう。
自爆選挙
最初から落ちると分かっていて、選挙に出る。
いるんだよねぇ、そういう人が。
今回の衆議院議員総選挙でも、泡沫候補が大量に出馬した。昔から売名行為に走る人はどこにでもいるものだが、例えば、ドクター中松氏などもそのうちの一人なんだろう。
しかし、ドクター中松氏のような大物であれば、出馬もそれなりに理解出来る。では、本物の泡沫候補の心境とは一体どういうものなんだろう。
そもそも衆議院議員に立候補するには供託金300万円が必要なのである。しかも、この供託金、得票数が有効投票総数の10分の1を下回れば、没収。
例えば、東京1区(千代田、港、新宿)であれば、有権者数約46万人という大票田だ。投票率が70%だとしたら、約30万票が有効投票総数となるため、最低3万人から投票をして貰わなければならないのである。
しかし、素人が立候補して3万票など集めることなどまず不可能である。つまり、立候補する前から300万円を溝(どぶ)に捨てることが分かっているのである。
しかし、それでも人は立候補する。
実際、民主党の海江田万里氏と自民の与謝野馨氏の間で大激戦が繰り広げられた東京1区では、9人が立候補した。
結果は海江田万里氏の当選で、得票数は14万票。自民の与謝野馨氏13万票であったが、3位共産党の冨田氏さえでも2万票の得票数で3万票に届かなかった。
したがって、3位以下の7人全人が供託金の没収となった。最下位であった無所属の前田禎信氏の得票数は、わずか652票であった。
前田氏は、夕刊フジ電子版によれば、38歳で無職(元郵便局勤務)。新潟市在住にもかかわらず、ホームページで自身の主張を述べ“IT戦”を中心に主張を展開、立候補地は東京がふさわしいと判断したという。
立候補の原理原則に立ち返れば、立候補するのは自由である。しかし、近代政治は、ちょっとでも政治学を勉強した者であれば、政党政治だと知っている。無所属では政治が出来ないのである。
だから、恐らく立候補すること自体に意義があるんだろうねぇ。その人でなければ分からない何かがあるんだろうねぇ。
立候補期間中の高揚感と、選挙が終わったとしても、おいらは衆議院立候補者だったんだという満足感に浸るのだろうか。
それにしても、そういう候補者に652人も投票した人がいると云うことの方がもっとスゴイよねぇ。出る方も出る方だが、入れる方も入れる方だと思うのはおいらだけだろうか。
本日と明日はお休み
本日と明日は休日につき、お休みです。
写真は、今週水曜日の夕方、渋谷で見かけた光景。おいらはミーハーなので、パチリ。
宣伝カーの上に乗っている「某党」の面々。ホリエモンがいます。と、いうことは小泉構造改革の承継路線なんですか…
なお、おいらは某党とは何の関係もありません。街頭演説で有名人を見つけるのは楽しみじゃのぅ~。
それでは、皆様よろしゅうに。
平成22年7月3日(土)
謎の不良中年 柚木惇 記す
日本が会社だったら
意味不明のタイトルだが、もし、日本が会社だったらもう潰れているのではないか。
会社の社長は何もしない。いや、専務に丸投げし、そうすることが自分の仕事を果たしたと思っているのだから、この社長は性質が悪い。
この社長を菅首相、専務を左翼がかった官房長官と置き換えたらどうだろうか。
しかも、法務部長が時の柳田法務大臣である。この会社のリーガル部門は機能するはずがない。
絵にかいたような倒産する会社ではないか。
と、ここまで書いて、この問題を菅首相一人に追わせるのは、少々気の毒だと気付いたのだが、菅さんは、経営というものを知らないのではないか。
経営とは、一言で云えば、船の舵(かじ)取りのことである。
どこに進むかを決めるのが船長である。決めた後で、実際に舵をとるのは部下に任せても良い。しかし、あくまでも主体は船長である。官房長官ではない。
この船の舵は、官房長官が握っている。しかも、船長は舵とりに全く興味がない。
話しは変わるが、この官房長官の発言も大胆だよねぇ。国会で政府首脳自らが自衛隊のことを「暴力装置」と云うかね?
おいらは、これを聞いてのけぞった。
暴力装置という用語は、ドイツの社会学者であるマックスウエーバーが好んで使った言葉だ。軍隊のことを「政治は『暴力装置』を独占する権力」などと使うのである。
レーニンはこれを受けて、「国家権力の本質は暴力装置」とアジったのである(ただし、その考え方自体が間違っているとは思わない)。
しかし、問題は、官房長官が左翼用語を使ったことではなく、もし、民主党が左翼の思想で動いている可能性があるとしたら、注意が必要だということである。
無論、右翼とは思っていないが、民主党がリベラルな党でないのなら、国民もそういう対応を考えなければいけなくなる。
いや、国民はバカではない。この政権を支えるつもりはもうなかろう。支持率は歴代政権最低を記録するのではないか。
この官房長官の罪も重い。
おいらの投票考
この日曜が統一地方選挙のため、「市ヶ谷記念館訪問記」を中断して投票考を書き込む(写真は横浜海岸教会)。
だれに投票するかということで、おいらの考える政治家像である。
政治家は自分の行う仕事に命をかけなければならない。物騒な話しだが、命をかけるというのは、自分の良心よりも悪魔に魂を売ることに近い。
一例を挙げれば、政治家の仕事とは100人の(グループの)命と10人の(グループの)命とを天秤にかけることである。
命に軽重はない(だから、本当はどちらも救わなければならない)のだが、どちらかのグループの命しか救えないとした場合、残りのグループの命を断たなければならないということである。このケースでは、数の多い方を救えば良いという単純な話しではない。
自分の良心に従うのであれば、この問題は不条理の世界の話しである。
しかし、実社会ではこのようなケースは良くある話しである。そして、政治家はこのような問題に対して、一件、一件と結論を下していかなければならないのである。悪魔の仕業と云われる所以である。
ここで政治家と政治家でない人との差を述べる。
政治家は実際に下した決断とその結果に対して常に責任を負わなければならない。これに対し、政治家以外の人間は勝手に批評したり、不条理だと云って問題から逃げても良い。それは、責任がないからである。
政治で重要なことをもう一つ。
政治家は結果に対して責任を負うため、結果がどうだったかの検証が必要不可欠である。政治の世界では、決断をしたかどうか、それに伴う結果がどうであったかがきつく問われるのである。それにしても、日本人は検証や総括をしない国民じゃのう。
繰り返す。政治とは結果の積み重ねであり、政治家にはその全ての責任を取る覚悟があるかが重要な問題なのである。
だから、おいらは覚悟を決めていると思われる人に投票をする。
しかし、最近の候補者の顔ぶれを見ると、何と覚悟を決めている人の少ないことか。いや、現在の与党首脳の顔触れを見ると、覚悟を決めていると思われる人は一握りしかいないので、当然のことかも。
こりゃ、もう末世でしかないのぅ。
古賀茂明氏を経産省事務次官に
昨日のサンデーフロントラインに渦中の古賀茂明氏が登場された。
7月15日までに退職しろと経産省松永事務次官から勧告されているらしい。
ややこしいことは書きたくないのだが、おいらは江戸時代の坊主が実質的な権力を握って腐敗し、やりたい放題をしたのと同様に、現在の腐敗の構造の1丁目1番地は、官僚だと思っている。
彼らは、既得権益を守るためには何でもする。
この国はいずれ、官僚のための国になる。いや、もうなっているか。
ただし、役人の中にもまともな人物はいるはずで、そういう改革派官僚の代表が古賀茂明氏である。
古賀茂明氏はたった一人の反乱と思われているが、後に続く気骨のある人物が霞が関にもいるはずである。
松永事務次官こそご退職願って、古賀茂明氏が事務次官になられることが真の日本のためになると思うのだが(サンデーフロントラインでもそのような発言があった)、日本は腐っているので、夢のまた夢。
自浄作用が働かない組織(官僚、菅政権、東京電力、ひいては国)は自壊する。哀れなのは国民である。しかし、その国民も無能ではないのか。
おいらは、またしても永井荷風の境地である。
政局来たり
国民新党が事実上の分裂をした。
亀井代表が筋を通した形となっているが、結果は政権からの離脱ではない形で収束しようとしている。
これをどうみるかということだが、結局、政治とは大義ではなく、現実にあり、与党にいなければ政治家は何もできないということの証左なのだろう。
しかし、世間はバカではない。国民新党に残った面々が最後も勝つかというとその保証はない。逆に臍をかんだ亀井氏に軍配が上がることも充分に考えられる。
何が云いたいかというと、野田内閣はこの法案に生命をかけているが、このまま消費税増税法案がすんなりと通るとは思えないからだ。
民主党内での造反予測、大阪維新の会に代表される地方パワーの台頭、石原新党の誕生、はたまた自民党との法案通過による解散総選挙バーター密約説など、あまりにも変数が多すぎる。
政局の場合の決まり文句は「政界の一寸先は闇」だが、今回ばかりは、この多元連立方程式を解くのが難しいように思えてならない。
さて、その問題を解くときのキーワード。
その政治家や政党が未だに利権や既得権益にしがみつこうとしているのかどうかである。民主党や自民党などの既成政党は、どうしてもそういう政党に見えるのである。
また、今後、政界再編があった場合の座標軸を考える場合も同じだろう。しがらみだらけの政治家は、看板を変えても中身は同じである。結局、政治の仕組みは表(政党)も裏(利権)もガラガラポンにするしかないのかも知れない。
中世の魔女裁判
中世の欧州で魔女裁判は行われた。
この魔女裁判が非近代的、非科学的と今の人は笑うだろうが、当時の人々は真剣だったはずで、時代的背景を考えれば魔女として火炙りにしてしまえと判断したことを一方的に責められないという考えも成り立つ。
しかし、魔女裁判はやはり魔女裁判でしかない。
何が云いたいかというと、小沢裁判での控訴のことである。
これは、法律を学んだことのある人間なら、違和感のある控訴である。
小沢氏が政治家として有能か有害かは別として(おいらは政治家は悪人でなければ務まらないと思っているのだが、ここでは論じない)、裁判制度で控訴するのは、有罪になった場合「それは違うでしょ。おいらは無罪だ」と控訴するのが普通である。無罪で控訴するのは検察官サイドで、普通はしない。それは、無罪とされた検察側の恥だからだ。
それが、事実誤認を理由に指定弁護士(検察官役)が控訴すると決めたのだ。
事実誤認と聞いて、最初はそれもありかなと思ったのだが、そもそも指定弁護士が事実を知っているのだろうかと疑問が湧いた。事実を知っているのは、被告だけのはずである。
それに元々この裁判は筋悪(すじわる)で、検察官側が起訴を断念した案件(だから、検察審査会による起訴)、しかも、その過程で国策捜査と揶揄された事件である。
ま、弁護士が弁護しないで被告を有罪にしようというのだから、恐れ入るとしか云いようがない。それが検察官役の役割だと云えばそれまでだが、この三人の弁護士の名前は今後、覚えておく価値があるだろう。
もう政治には口出しをしたくない
今回の民主党の消費税法案の通し方には、心底感服した。
約2年半前に熱狂的に政権交代によって誕生した政権与党だが、そのときのマニフェストと真逆のことをしたのである。だって、消費税を上げないと約束していた政党だよ。
消費税を上げるべきかどうかの議論はさておき(これは議論のあるところ)、おいらも民主党に提灯をつけたくちだから、今回の騒動については云う権利がない。
あのような無節操な政党に投票したおいらがバカだったということだけである。
だから、今回を契機においらはもう選挙に行くことを止めようと思う。
考えてみれば、政治にかかわるということは野暮の骨頂である。
歴史を見ても、文化文政時代には政治と文学は明確に分けられていた。文学は政治を茶化すのである。お上(かみ)のすることは野暮に決まっている。だから、政治に関与することは野暮の骨頂だったのである。
しかも、政治家に欠かせないのは権謀術数であり、品がないことおびただしい。だから、政治に関与しない文人墨客の方が人間として高尚だということなのである。
何を云い始めたかと思われるかもしれないので、おいらが異端でないことを述べておく。これはおいらだけの持論ではない。おいらの敬愛する、あの山本夏彦氏もそう仰られていることである(山本夏彦「男女の仲」文春新書。平成15年)。ただし、本人も異端邪説と断られておられるが…(笑)。
繰り返す。政治家の行動指針を一言で云えば、色と慾である。だから、国民のこと、天下国家のことよりも党益、党益よりも私益である。民主党は慾に目がくらんだのである。
そう云う観点からは、永井荷風も太宰治も偉かった。政治のことをバカにしていたからである。
三島由紀夫がおかしくなったのは、政治に足を突っ込んだからである。世界の三島も政治の世界を斜に構えて観ていただけならば、今でも偉大な作品を残していたに違いないのである。
繰り返す。おいらはもう投票など金輪際しない。
自民党も終焉
民主党の党首選びをやっているが、もう滅んでしまうであろう政党の党首に誰がなろうと、変わりはない。民主党は終焉である。
しかし、自民党の党首選びも同じである。
連休初日の土曜日に行われた総裁候補公開討論会をテレビで見たが(日本記者クラブからの中継)、こちらも誰がなろうと大差がない。
安倍晋三? どの顔下げて再び総裁をやるのだ。
石原伸晃? 軽すぎる。
石破茂? 暗いよなぁ。
町村信孝? 時代錯誤。<==(ただし、検査入院で棄権か)
林芳正? 誰だ。
誰がなろうと、自民党も終焉である。
しかし、自民党の総裁が次期総選挙後の首相になる公算が強いとしたら、この中から総理が誕生するという理屈だから話しはややこしい。
自民党も終焉だが、この国も終焉である。
PS.
カープも終焉である。野村監督は指揮官の器ではない。せいぜい打撃コーチである。そして、今の首脳陣は全てプロフェッショナルではない。頼むから、全員、辞めてくれ。そうでなければ、野球チームとは云えない。おいらはカープファンとしてこれほど恥ずかしいことはない。
辞めどきを逃した野田首相
野田佳彦首相が近いうちに解散すると云いながら3カ月以上が経つ。
解散の素振りは見せるが、解散しない。ただし、今週になって新聞辞令では年内解散と報道されている。
だが、それもあやふやである。
そりゃそうだろう、今、解散すれば民主党は壊滅する。無論、来年解散しても解党の危機である。そうであれば、解散は先送りしかない。
つまり、今の野田首相は自分の考えだけでは解散できなくなってしまったのである。
哀れである。つまるところ、こういう輩(やから)を一国のトップに据えてしまったおいらたちも不幸である。
首相とは最高レベルの公人のことである。国のこと、国民のことを考え続けていなければならない。政局のことしか考えられない首相、もうそれだけで今の日本はオシマイである。
野田首相にはマニフェストに書いていなくても消費税増税を必要と確信し、やりきったという自負心があったはずである。だから、何時でも辞めて良いという覚悟を決めていたに違いない。
三島由紀夫は、長い人生の中でその価値を決めるのは、ほんの一瞬のことであると評した。
つまり、野田首相は辞めどきを逃したのである。
後世の野田首相の評価は、増税して、結局は地位にしがみついた前の首相と同じという評価になるしかない。人生最大のミステイクであろう。
ブラックユーモア
昨日、辞めどきを逃した野田首相と書き込んだら、早速辞めると発言した。このブログ、読んだのかも知れない。そんなことないか。
閑話休題。
今度の総選挙の行方だが、おいらが先日帰省した広島での感触では民主党には誰も入れないそうだ。他方で、第三勢力は広島には全く浸透していない。
つまるところ、自民・公明の返り咲きだというのである。
もっとも地元のタクシー運転手からの情報なので、信ずる必要はない。
つまり、浮動票の期待しにくい地方都市では、民主党のオウンゴールで、自民党がカムバックするというシナリオである。
だけど、ちょっと待ってくれや。
自民党がダメだから、3年前に民主党に替わったのだろう。それがまた自民党に戻るという。
これって、ブラックユーモアだよなぁ。
庶民が思っているのは、「民主党はコリゴリ、自民党はウンザリ」だろう。
3年前の民主党への熱気は、本来の二大政党を目指した政治のあり方への夜明けだと思ったのだが、それも今では虚しいばかりである。
民主主義とは何かをもう一度問うべき時期が来ているのかも知れない。このブログでも書いた、フランスのトクヴィルの出番なのかのぅ。
石原慎太郎80歳にして衰えず
第3局の鍵を握るのが石原慎太郎氏である。
何せ、選挙の結果如何によっては、新首相というシミュレーションもされているほどである。
その石原慎太郎氏は、御年(おんとし)80歳。
まだ、衰えているとは思えない。通常、傘寿を迎えると後期高齢者の真っただ中で、老いと衰えが目立つのが普通である。
しかし、氏に枯れる気配はない。テレビで見る限り、毎日毒づいている。
この元気の源は、一体何なんだろう。
総理になりたい一心なのか。いや、そういう私慾を感じることはない。むしろ、尖閣問題などやや時代錯誤的な国粋主義を貫こうとする、迷惑な爺さんのイメージの方が強い。
だから、氏の残された生を満たしているものが何なのかというのは実に興味深いところである。
あまり参考にならないが、「ガマの聖談」(カッパブックス、昭和43年)を表した南喜一氏(国策パルプ会長、ヤクルト本社会長などを歴任)は死の直前まで性の現役であり、性豪を自称していた。
氏も同様に毒舌で、破天荒な人生を送った豪傑であるが、人間味たっぷりの愛すべき人物であった。人間は75歳が人生の中間地点であり、養生さえすれば150歳まで生きることが可能との持論を述べていたのである。
しかし、77歳の年、腫瘍であっさりと他界されることになったのだが、南喜一氏の人生は中身が濃く、その一生は猛スピードで突っ走った生き方であった。
人生を太く生きるとはこういうことを云うのだろうと思う。石原氏も死ぬまで走り続ける性格の人だから、恐らく現役のまま死ぬに違いない。
こういう人は、ある意味で幸せな人である。他人がとやかくいう話しではない部類に属するんだろうなぁ。
ルーズベルトの失態
歴史を知らないと、事の本質を誤る。
最近知ったことだが、ルーズベルト米大統領はヤルタ会談のときに体調は最低であったという。実際、ルーズベルトはその二ヵ月後に脳卒中で死亡している。
ルーズベルトはポリオ患者であり、その後遺症のため車椅子を使用していた。その彼は1944年、大統領選で4選(!)を果たしたのだが、選挙戦での消耗は激しく、また、第2次世界大戦終結のために世界中を飛び回らなければならなかったのである。
チャーチル英首相の主治医であったモラン卿はヤルタ会談に同行している。
同卿は、ルーズベルト大統領をこのとき一目見て重症患者だと判断している。既にルーズベルトは8か月前に心不全を起こしており、不眠症が酷く、良く考えなければならない問題を持ち出されると、話題を変えてしまうほどであったという。
何が云いたいのか。
ヤルタ会談でのルーズベルトは、会談にあたって米国務省が事前に作成していた資料「黒本」を読む気力さえなかったのである。
だから、当時、千島列島が日本の領土として正式に認められていたにもかかわらず、そのことをルーズベルトが知らなかったために、スターリンの領土要求に簡単に応じたと当時の国務省職員のボーレンは非難しているのである(「ルーズベルト秘録 上」産経新聞取材班。扶桑社文庫)。
これが現在の北方領土問題の端緒である。もしこれが事実だとしたら、ルーズベルトは怠慢な大統領以外の何物でもない。
死期が迫り、精神状態が最低な人物が一国のリーダーであったのである。そういう人物が世界の歴史を変える重要な会談に臨み、その後の世界を変えた当事者であったのである。
日本にとって不幸な結果となった分けであるが、一国のリーダーたるものは気力、体力が充実していなければ、即座にその座を去らなければならない、ということをこの教訓は教えてくれる。
老婆心ながら、再び首相として首班指名を受けられるあのお方は大丈夫であろうか。
もう一つ。
この話しは、一国の宰相だけに限った問題だけではない。企業のトップであったとしても同様である。
老害とは云わないが、心と体に病を抱えているトップがいるとしたら、今すぐ辞めた方が良い。歴史は繰り返すのである。
マック赤坂氏を見る
先週のお昼時である。
「白隠展」を堪能した後、渋谷の交差点を歩いていたら、スマイル党の車が駐車してあるではないか(写真上)。
ひょっとして、と思ったら、やはりマック赤坂氏が佇んでおられたのである。
う~む。この出で立ちは、嘉門達夫である。
マイクを持って、「命短し恋せよ乙女」を唄おうとしておられる。
ん? 何でこの歌なの?
と、思っていたら、そこへサラリーマン風の男性4人連れが現れ、マック赤坂氏に記念写真を一緒に取って欲しいとお願いをされたのである。
そのマック赤坂氏、喜んで被写体になっておられたのぅ。
写真を取られる度に「10度、20度、30度」と得意の台詞をのたもうておられたなぁ。
しかし、である。
ほとんどの人が立ち止まることはなく、マック赤坂氏のことなど気にしていないのである。知らぬ素振りである。
マック赤坂氏、参議院選に出馬するつもりかも知れぬが、これでは泡沫候補の域を超えるものではないのぅ。
おいらは思うのである。赤坂氏の選挙公報(テレビ演説)には抱腹絶倒した。あれほどの芸はない。だが、依然として際物(きわもの)扱いである。惜しい人物ではある。
猪瀬都知事かくも
連日、猪瀬都知事のことがマスコミで取り上げられている。
おいらは、猪瀬都知事の発言が二転、三転するのを見て、この人は公人ではないのだな、とつくづく思ったので書く。
都知事になるのはどういうことかというと、都知事と云う公人になることである。
それは、例えば大統領であったり、政治家であったりするのと同様に24時間東京のことを考えるということである。
無論、私人の時間があっても構わないのだが、24時間と云う意味は常に東京のこと、都民のことを考え、そのために最善の方法を模索し続けると云うことである。
会社勤めを例に挙げると、自由気ままにしても良いのだが、それが会社のやろうとしている方向と同じでなければ評価されないことと同じである。
しかし、猪瀬氏は自分のことしか考えていなかったのである。
保身に汲々としており、自分のリスク管理さえできない人に東京を守れる道理がない。
では、石原慎太郎氏はどうであったかと云うと、氏は立派な公人であった。東京のことを最優先にしていた。現役で書いていた小説も東京の離れ島を舞台にしていた。
ところで、少し前のことだが、佐高信氏が猪瀬氏のことを批判する新書版を出していた(「自分を売る男、猪瀬直樹」)。猪瀬氏の東京オリンピック招致成功でその本の存在も霞んでいたが、佐高氏の面目躍如と云ったところか。
それにしても、猪瀬氏が辞めた後、都知事になる人を探すのは大変である。
舛添氏とか小泉元首相の名前が週刊誌人事で挙がっているが、おいらには、櫻井よしこ氏ぐらいしか適任が思い浮かばないなぁ。
今の日本に公人はいない。
マスコミに使命はありや(前篇)
この日曜日は、選挙である。
おいらは既に日本の選挙に愛想をつかしているので、選挙にいくつもりはない。その経緯はこのブログで書いているとおりである(フリーページ「暴論選挙考」参照)。
その主義の是非は別として、今回の選挙でおいらは香港の学生による占拠を思い出す。
彼らが主張しているのは形式的な民主主義ではなくて、本当の意味での民主主義選挙を実施して欲しいと主張しているものである。だって、香港では誰が選ばれても中国共産党の息のかかった人物が首長になるんだよ。
香港の民主化を本気で考える人物がいたとしても、立候補がそもそもできないのである。これでは、選挙ではない。実力行使は別として、学生の言い分に分があると思うのはおいらだけではないだろう。
翻って今回の日本の選挙はどうであろうか。
実は、香港と変わりがない。自民党と本当の意味で対峙する政党がいないからである。自民党がA級だとしたら、民主党その他は皆B級以下である。
これでは、あほらしくて選挙に行く気にもならない。ある意味、欺瞞の選挙である。これが今回の選挙の本質である。
おいらはかねてより、政治の王道は二大政党制によるチェックアンドバランスだと主張してきた。
しかし、自民党以外にチェックアンドバランスを行える政党がいないのである。
今、それをやるとしたら、自民党の右派と左派が二分して、自民党Aと自民党Bによる交代制しか考えられない。自民党Aと自民党Bとが切磋琢磨して、アウフヘーベンするのである。
かつての民主党には、しかし、自民党Bの要素があった。だが、その党の底は割れて、政党の体をなしていないことが露呈した。実力はB級以下だった。
一言で述べれば、競争原理の働かない構図に未来はない。今回はそういう選挙である。
だから、マスコミはそのことを知らせることが使命ではないのか(この項続く)
マスコミに使命はありや(後篇)
しかし、マスコミがやっていることは、選挙の予測で商売をしていることである(写真は東京1区)。
おいらはマスコミを信用していない。何度も書いているが、あれは商業新聞、商業雑誌、商業放送である。
広告を出してくれる会社や組織への批判はできないのである。また、反対に新聞社の社長の批判を書いた雑誌の広告はその新聞社では掲載が拒否されるのである。こういうのをちゃんちゃらおかしい、というのである。
だから、政権政党への批判など表面的なものにならざるを得ない。
しかし、おいらは思うのである。
マスコミの中にも肝の座った人物はいるはずである。会社がへなちょこでも立派な文屋はいるはずだ。おいらも組織に属していたので、それは痛いほどよく分かるのである。
おいらはそういう人間に真実を取材して欲しいのである。ファクト・ファインディングをして欲しいのである。
そして、密かにでもよいから、それをおいらたちに伝えて欲しいのである。それをしないで何のためにマスコミに属しているのかと思うのである。
だが、昨日(2014年12月10日)から特定秘密保護法が施行されてしまった。受け売りだが、マスコミでこの法律に危惧を抱いていたのは毎日新聞と東京新聞だけらしい。
おいらは朝日を全く信用していないが(不思議な新聞である)、朝日の取材力だけは未だに評価している。なぜなら、朝日の個々の記者のレベルは低くない。他のマスコミのレベルより、二段は上だろうと思う。しかし、それが組織になるとまるでダメなところが朝日のダメなところであるのだが。
だが、そろそろこの話しはやめる。特定秘密保護法とブログで書いただけでお上からにらまれるのはゴメンだからである。権力が強くなって良くなることなどなにもない。自浄作用が働かなくなるからだ。嫌な世の中になったものである。
最後に、今回のような一党圧勝選挙で採用して欲しいのは最高裁判事の国民審査のように×をつける投票方法である。
もともと古代アテネでは、僭主の出現を防ぐために、市民が僭主になる恐れのある人物を投票により国外追放にしたのである(オストラシズム)。
B級政党には投票したくないが、特定政党の人にだけは入れたくないという人は投票用紙のその人に×をするのである。これならおいらも投票所に行く(この項終わり)。
原油価格の不思議
どうやら原油価格が下げ止まったようで、最近またガソリンの値段が上昇し始めた。
おいらは車に乗っているので、ガソリンの値段には敏感だ。できるだけ安いガソリンスタンドで給油するようにしており、一時はリッターあたり120円を切っていたが、最近また120円台に戻り、今では130円台を伺おうとしている。
それにしても、ここ数か月の原油価格の急落には驚いた。
あれは生産調整をして下がらないように売っていたのに、である。
だから、おいらなどは「奈辺に真理がありや」と考えてしまうのである。
だって、石油は有限だよ。いずれは枯渇する。産油国がいばっていても昔の石炭と同じで石油には限りがあるのだ。だから、安く売るのはバカである。
しかし、この状況が変わった。米国でのシェールオイルの増産とトヨタに代表される水素(燃料電池)自動車の登場である。
原油はシェールオイルよりも高ければ売れなくなり、水素自動車になればガソリンはいらなくなる。ま、そうは云っても、水素自動車が普及するまでにはまだ相当の時間が必要だ。そんなに簡単にいく分けがない。
そこで、出た説がオペック陰謀論で、シェールオイル潰しのために減産を控え、油を供給過多にして在庫を増やしたという説である。
そのお蔭で原油価格は暴落し、シェールオイルは大損となる。日本の商社が大打撃をこうむったというニュースは最近の出来事である。
だが、ことはそんなに簡単でもないようだ。こういう話しはきな臭い。油の世界は、政治の世界になるからだ。シェールオイル潰しに米国が黙っているはずがなく、また、減産をしなかったサウジアラビアと米国は同盟国である。
となると、西側によるロシアやイランなどへの制裁と勘ぐるのもあながち間違ってはいないようだ。実際、原油価格の急落はロシアなどへの産油国に対して大打撃を与えている。どうやら真相はこのあたりか。
やはり、原油価格の問題は一筋縄ではいかない。いつまで経っても原油は世界情勢と切り離せないことが分かる。
ところで、石油っていつ枯渇するのだろう。昔おいらが聞いたのは「後、30年」説であった。しかし、昔というのは無論30年以上前のことである。あれからとっくに30年以上経過しているのに、未だに今後30年は持ちそうである。
これって、一体何なのだ。
稲田防衛相、可哀想だねぇ
国会中継を見ていて、どうしてこのような人を大臣にしたのかと思う人が少なからず、いる。
今回取り上げるのは、ディベイトができない稲田防衛相である。
一昔前には、マスコミであれほど次期首相とまでもてはやされたのに、国会答弁をさせると本当に可哀想な人になってしまった。
弁護士の資格を持っているというが、資格とセンス(才能)は全く別だと思わされるよなぁ。
南スーダンの自衛隊による日報の紛失(実は存在)や昨年の大規模な交戦を「戦闘」と明記していた点などで野党に追及されると途端にバンザイになってしまうのである。
これでは、あきれてものが云えないを通り越して気の毒になってしまう。
こういう場合に助け舟を出す方法は、古今東西、一つしかない。
仮病を使って入院してもらい、大臣のポストをご辞退いただくのである。そうすれば、怪我人は出ないのである。
でも、日本の防衛は大丈夫なのかね。
ところで、ここまで書いたところで、今回の金正男暗殺事件の報道を観ていての感想を述べる。
数多、解説その他が述べられているので、おいらの出番はない。
感想はただ一つ。
おいらは、映画「暗殺者のメロディ」を思い出したのだ。
暗殺者のメロディ(原題: The Assassination of Trotsky ジョゼフ・ロージー監督)は、おいらがまだ22才のときのイギリス、イタリア、フランスの合作映画である。
メキシコに亡命したトロツキー(リチャード・バートン)を執拗に負うソビエトの暗殺者ラモン・メルカデル(アラン・ドロン)の映画だが、暗殺という国家の意思の凄みを感じる映画であった(おいらは、リアルタイムで観た)。
組織は狂うし、狂わないように歯止めをかけていたとしてもトップが狂うと組織は狂う。
また、暗殺者という駒も、突き詰めて考えれば組織の中ではただの記号にしかすぎない。つまり、駒には人生などない。しかし、個々人の立場になると果たして本当にそうなのかと、これは永遠の課題である。
本日はこれにてオシマイ。
トランプ大統領の英語の和訳
今更のことではあるが、英語と日本語との大きな違いに1人称や2人称、3人称の訳がある。
英語では1人称の場合、Iしかないが、この和訳は日本語では、私、あたし、おいら、自分、拙者など性別や身分などによってさまざまな訳に変わる。
何が云いたいかというと、トランプ大統領のメディアでの和訳は例えば、「やつら」とか「嘘つき野郎」など品のない和訳のオンパレードである。
具体的には、不法移民のことを
They are rapist.
と決めつけているのだが、その訳は「やつらは、ごうかん魔だ」となっている。
これなどは「やつらは」ではなく、「彼らは」と訳してもよさそうだが、トランプ大統領はもともと品のない英語を喋っているので、この訳は「やつらは」しかないのだという。
ま、これには一理あるね。品のない英語には品のない日本語が当てはまる。
もう一つ。
これは英語とは直接は関係ないが、トランプ大統領の使う筆記具においらは引っかかった。
彼は大統領令の署名に万年筆を使わないのである。知識人の常識の一つとして、署名には万年筆を使うというものがある。
おいらも現役時代は、ここぞというときに万年筆を使わないビジネスマンは信用しないことにしていた。
では、トランプ大統領は何を使っているかというと、クロス(CROSS)社製のサインペン、センチュリー2ブラックラッカーだという。
この値段は、10,800円(実売価格は8,000円程度)だそうだ。大統領の使うものにしては安い。
それ以前に文具マニアのおいらとしては、やはり万年筆を使って欲しいよなぁ。そういうところに教養がにじみ出る。
リベラルの意味がチガウダロ~
日本にはリベラルは存在しないのに、リベラルは単に左翼と解釈されてしまうのが今の日本の現状である。
これには解説が必要である。
リベラルの本来の意味は、自由主義と進捗主義の組み合わせである。
自由にしておけばよいというだけでは、政治にはならない。自由は世の中をよくしよう(これを「進捗」と呼ぶ)と結びついて、初めてリベラルとなるのである。
だから、リベラルはエリートが考える理想を世の中(人民)に押し付けようとする共産主義(左翼)とは相いれない。
それが国際水準でのリベラルの解釈であり、おいらはリベラル派を自認していたのである。
だが、今回の選挙ではリベラル派は単なる左翼となり、立憲民主党がリベラルとされてしまった。
これでは、リベラルは旧来の左翼と同じ解釈にしかすぎない。
チガウダロ~。
そう思っても、現実問題として日本にはリベラル派の受け皿となる政党がない(希望も維新も保守である)。
したがって、リベラルは十把一絡げとなり、立憲民主党がリベラル派の巣窟のようにされてしまうのである。
なんだかなぁ~。
結局、いつまで経っても日本にはリベラルが根付かないのである。無党派層が増えるのも無理はないだにゃぁ。
陸自ヘリ墜落といつか来た道
今月初め(18年2月5日)、佐賀県神埼(かんざき)市で自衛隊ヘリの墜落事故が起きた。
ところが、この事件の巻き添え事故で家を失った住人がネット上で罵声を浴びたり、沖縄での米軍ヘリ不時着や部品落下事故では「それで何人死んだんだ!」と国会でやじが飛んだのである。
こりゃ、あかんわ。
いつから日本人はこういうふうに想像力を欠如するようになったのだろうか。
事案は、自衛隊ヘリが墜落した際、家に一人でいた11歳の女児は軽傷で奇跡的に難を逃れたことに対し、翌日、父親の「許せないですよね」というコメントが新聞で報じられると、ツイッター上に非難の投稿があふれたというのである。
<は? 許せないとか何様? 墜落して亡くなった隊員の事考えねーのかよ>
<わざと落ちた訳じゃないと思うし許せないの意味が分からん>
<平和ボケも過ぎたものだ まずは国のために死んでしまった人を追悼でしょ>
同時に、これらのコメントに対し、
<人の心はないのか?>
<自分の家に落ちてきても、同じことが言えるのか>
おいらも首都圏のはずれにいるので米軍基地がそう遠くない。だから、今回の事件は他人事ではない。
ネットによれば、今回のツイッターの中には意味深長な投稿もあったようだ。
<時の権力者の判断で自衛隊員の生命が失われるような事案が起こっても、自衛隊員が死んでいるんだぞ、自衛隊批判とは何事か、黙れ、と言われるんだろう>
ごもっとも。そして、日本人は皆、黙るのである。昭和初めの日本がそうだったように。
日本人は空気を読む。そして、見事に想像力を消す。
その極地が政治である。
政治は観念の世界である。観念の世界を押し通すと想像力が欠如して大本営のようになってしまう恐れがある。大本営は現実を観念の世界であるゲームと混同して失敗した。
今の政治がゲーム化していないことを祈る。
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