さすらいの天才不良文学中年

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警官は発砲する 経済学

大阪警官発砲事件

 大阪府堺市で警官による発砲事件が先週あった。警官は犯人の脚を狙ったようだが、弾は腹部を貫通して間もなく犯人の一人は死亡した。ニューヨークにいたときの感想から述べる。ニューヨークの警官はすぐに発砲する。現地で、それを前提に対応しない奴は、警官に殺されても同情されない。


C.E


 記憶によれば、日本でも数年前から警官の自衛のため発砲が認められるようになった。時代は動くのである。後、何年かしたら、警官の発砲は日常茶飯事になっているかも知れない。それは、世の中が決めることである。警官を狙う凶悪犯罪が増えれば、警官は発砲する。分かりやすい。

 おいらの主義は、「やられたら、やり返す」である。警官にもその権利はある。すなわち、警官が自衛権を持つのは当然である。しかし、それ以上に、警官にも様々なタイプの警官がいる。最初から拳銃を撃ちたくてたまらない警官がいてもおかしくはない。だから、おいらが思うのは、単純な警官擁護論ではなく、警官はそもそも発砲すると思った方が無難である、と言いたいだけである。


巡査長「注意きかない」少年ら拳銃で脅す

 先週の読売新聞(2月27日付ネット版)によれば、警視庁滝野川署巡査長が「注意きかない」少年らを拳銃で脅したとある。


C.E


「同庁によると、この巡査長は26日午後8時35分ごろ、東京都北区滝野川2の路上で、騒いでいた少年3人に注意した際、言うことを聞かなかったため拳銃を抜き、立ち去るよう脅した疑いが持たれている。

 少年3人にけがはなかった。110番で苦情の通報が入ったため、巡査長のほか、2人の警察官が現場に駆けつけていた。同庁の調べに対し、巡査長は『少年の態度があらたまらなかったので強く出なくてはと思った』と供述しているという」

 前にも書いたことがあるが、この少年たちは命があって良かったと思うべきである。この巡査長を擁護するつもりはないが、拳銃を抜くにはそれなりの理由があったはずである。

 巡査長がプッツンしていなくても、彼にとって射殺する十分な理由があれば、拳銃の引き金を引いていたとしても不思議ではない。

 これがアメリカなら、射殺されていた話しとして充分有り得るケースである(それ自体が適切かどうかは、別の問題である)。それは、アメリカが皆拳銃を持っている国だからということではない。警察官をなめるとどういうことになるかという、想像力の欠如の問題だからである。リスク管理とはそういうものだ。

 いずれ日本もそういう国にならないとは限らない。


 老刑事の活躍

 ニューヨーク駐在のときは、New York Timesと読売新聞を個人で定期購読していた。駅売りのスタンドでは、毎日USA TODAYを買った。会社では日経と日系金融を読んだ。

 USA TODAYはアメリカで唯一の全国紙である。肩の力を抜いて読める新聞だったので、日刊ゲンダイのノリで読んでいた。そのUSA TODAYは、昨年まで大手町に勤務していた時分、サンケイビルの地下でも1日遅れの見本紙がタダで手に入ったので、重宝していた。


USA TODAY


 USA TODAYと提携している産経新聞に、USA TODAYのコラム欄がある。それによれば、「全米各地で60代、70代の一線を引退した刑事たちが未解決事件の捜査にあたっている」という(8月15日USA TODAYコラム欄)。

 その刑事たちはボランティアで週2日程度勤務だが、たっぷり時間をかけて、迷宮入りしそうな事件を解決しているという。古くからの手法である「足での捜査」をベースとし、DNA鑑定に代表される新しい手法を取り入れ、成果を挙げているようだ。


C.E


 引退した刑事には捜査資料に丹念にあたる時間がいくらでもある。当初、見逃されていた情報に光を当てる力もある。しかも、現場に戻れば、活力も出る。こうした捜査によって、数多くの犯罪を解決しているらしい。

 ボランティアの老刑事にとって、現在の捜査技術は格段に進歩している。特にDNA鑑定の威力はすごい。何よりも時間は十分にある。こうした、古いものと新しいものとを融合させての新しい解決手法は、グッド・アイデアである。ボランティアの老刑事が執念で迷宮入り事件を解決するとは、「砂の器」みたいではないか。日本でも真似たら良い(最も日本の硬直した官僚組織で出来る訳もないが)。

 それにしても、時間がゆっくりとあるというのは、こういうことか。如何に現代は、効率的な仕事を求め続けられているのか。それによって失っているものを気付かないおいらたちである。

 スローなヴギにしてくれ。

蛇足
 ひょっとしたら、ジョンベネちゃんの犯人逮捕も、ボランティア老刑事の活躍だったりして。


東電OL殺人事件再審決定

 東電OL殺人事件が再審決定になった(6月7日)。


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 佐野眞一氏のルポを読めば冤罪の可能性が高いと分かっていたので再審の決定が遅すぎたと思うのだが、ここではそれに触れない。

 某国営放送の「クローズアップ現代」(7日放送)を観ていたら、警視庁の元捜査一課長が

「再審はありえない。間違いなく『クロ』と自信を持って逮捕した」

とインタビューに答えていたので、驚いたから書くのである。

 凄い自信である。

 おいらはテレビを観ながら、警視庁の捜査一課長となるとああいう人物でないと務まらないのかと素朴に思ってしまった次第である。

 おいらが勤務した企業でもああいう自信過剰の先輩は掃いて捨てるほどいた。押しが強く、デリカシーという言葉を知らない。早い話しが、相手のことなど考えない。しかし、成績はちゃんと上げるというタイプである。

 だが、こういうタイプは偉くなると必ず馬脚を現した。部下をダメにし、組織をダメにするのである。

 だから、という分けではないが、今回も絵に描いたような冤罪事件である。

 事は殺人である。東電OLとマイナリ被告に関係があったのは事実だろうが、それと殺人は別である。警察の立件に検事も踊らされたのである。

 忘れてならないのは、警察の本分は真犯人を探すことであるが、またもや取り逃がしてしまったことである。不幸な事件である。



経済学と数学(前篇)

 今の経済学を学ぶには、数学が必須である。


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 最近のピケティ理論でも、最初に出てくるのが r>g という数式である。だから、経済学より数学の方が偉いと云う風潮がある。しかし、おいらは思うのである。本当にそうかと。

 ちょっと専門的になるが、火災保険で「比例てんぽ」という制度がある。

 分かりやすく書くので読んでほしい。

 1千万円の建物に1千万円の火災保険をつけていれば問題ないが、1千万円の建物に半分の5百万円しか保険をつけていなかった場合、火災で全焼しても5百万円しか貰えない。

 そりゃそうだ、自分が保険料を半分けちったためで仕方がない。ここまでは小学生でも分かる話しだが、この場合、半焼したらどうなるかという疑問が生じる(疑問を感じない人もいるか。許してケロ)。

 損害は5百万円で、保険をつけていたのは5百万円だから、5百万円がおりてもよいと思うのだが、これが保険の世界では何と半分の250万円しかもらえないのである。

 これを保険では「比例てんぽ」というのだが、こうなると大人でもこの理屈が分からない。

 この仕組みのカギは、保険料の計算の仕方にある。

 Aさんが1千万円の家に1千万円の火災保険をつけていた場合に半焼したら、5百万の損害で5百万円の保険金がおりる。この場合の保険料は(例えば)1万円。

 Bさんが1千万円の家に5百万円の火災保険しかつけていない場合に半焼したら、5百万の損害で5百万円の保険金がおりる。この場合の保険料は1万円の半分で5千円。

 そうすると、BさんはAさんの半分の保険料しか払っていないにもかかわらず、Aさんと同じ5百万円をもらうことになる。これでは不公平ではないかという思想!がこの根底にあるのである。

 そこで保険会社はこの場合、保険数学を持ち出して解決する。

 具体的には、Bさんは建物全体の半分しか保険をつけていないので、支払いも保険料に比例して半分しか支払いませんというのが「比例てんぽ」の考え方である(注)。

 確かに数学の世界では頷ける話しである。実際の損害額を支払って欲しいなら全部に保険をつけるのがスジである。

 だが、この「比例てんぽ」は不評である。

 そりゃそうだろう、こんな理屈は数学的には正しくてもそれは保険会社の理屈だからだ。余談だが、だから、保険会社は駅前にビルを建てることができるのである(この項続く)。

(注)厳密には80%条項というものがあるので支払いは緩和されているが、理屈上の話しをしているのでここでは捨象している。


経済学と数学(後篇)

 では、この「比例てんぽ」で何が云いたいのか。


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「比例てんぽ」の考え方は保険数学的には正しくても、感覚的には理解しづらいということである。

 早い話しが、この仕組みは世間の常識とずれている。

 そこで、保険料が少々高くなってもよいから、つけた保険金額までは保険金がおりる保険商品を創ればよいではないかという考えが生まれる。

 これはいわば経済学の思想である。

 その新商品の保険料は少々高くなるかも知れないが、それでも商品の分かりやすさを優先すべきという思想である。そして、その新商品に見合う保険料水準は数学で計算すればよいとして、この問題を解決するのである。

 これが経済学と数学との関係だと思うのである。

 いってみれば、数学は経済学の下請けと考えるのである。そして、実際に今ではそういう火災保険が売られている。

 要は、経済学の発展に数学は必要だが、数学が経済学を牽引するわけではないということである。

 あの発明王エジソンも数多の科学的発明をしているが、数学はさっぱりだったらしい。計算はお抱えの数学者にさせていたという。

 おいらも数学音痴だが(しかし、数学自体は昔から大好き。これを下手の横好きと呼ぶ)、経済学は嫌いではないので経済の本も乱読している。経済の本は実に面白いからだ。

 なお、ピケティについてはいずれこのブログで書きたい(この項終わり)。




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