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さすらいの天才不良文学中年
人生とは何か 死とは何か
人は必ず死ぬ
人は必ず死ぬ。誰もがそのことを承知している。
しかし、自分が死ぬことだけは誰も信じていない。
結局、人間とは、自分の身の回りしか考えない動物なのである。死といっても、所詮、それは他人の死のことである。
だから、人間は生きていられるのである。
しかし、最近少しずつ考えが変わった。
年を取ると、自分もいずれ死ぬという感じが自然に出てきた。どうせ人は必ず死ぬのだ。好き勝手して死んでもいいじゃないか。どう生きようが構わない、おいらの人生なんだぜ。
前にも書いたが、年を取ると人間は2種類になる。何時死んでもよいと思う年寄りと、長生きしたいと思う年寄りとである。しかし、いずれの年寄りも時間が経てば死ぬ。
だから、気が楽になる。先に逝くか、後で逝くかだけの差である。
そう思えば、残された人生、棄てたものではない。好きなことをしてみようと気持ちが自由になる。だけど、こういうのを悟ったというのかなぁ。
送り方今昔
驚いた。最近の送り方のトレンドとして、葬式をせずに、火葬のみにするのだそうだ。既に都内では2割もがそうしているという。
このようなスタイルを「直葬」と呼ぶらしい。
亡くなった場所から搬送、安置、火葬の3つしかしないのである。ただし、法律(墓地埋葬法)により、死後二十四時間以上経過しないと荼毘(火葬)出来ないので、一旦は自宅で身内のみの通夜をすることもあるらしい。
今年の春、先輩に誘われて葬儀セミナー(!)に出席したときの記憶によると、葬儀費用は結婚式の費用並みだという。東京都の調査(平成13年)によると、平均葬儀費用は出席者の数にもよるが、約250万円である。それが、「直葬」だと棺桶と火葬費用のみの20万~30万程度で、格安料金となる。
都会の年寄りは知り合いも減り、参列者は身内でも充分らしい。しかし、これでは密葬を通り越して、無縁仏葬みたいだなぁ。いや、無縁仏でもお経だけはあげるだろう。
死ぬ本人がそう望むのであれば止むを得ないとも思うが、葬式というのは宗教儀式(仏教の教え)以前の問題として、いわば社会との決別である。けじめを弁えないと、無用のしっぺ返しを受けることにもなりかねない。しかし、この傾向が続くとしたら、世の中は確実に変わっているのだろう。
長生きはリスクである(前編)
人生80年という。
おいらが物心ついたときは「人生わずか50年」であった。それが世界一の長寿国となり、今では90歳以上の人も珍しくない。
何が云いたいか。長生きしても元気でいればよい。しかし、現実には長生きすれば認知症になったり、介護が必要になるリスクが断然高まる。
自公連立政権は後期高齢者医療問題で75歳以上の人にも応分の負担をさせようとしているが、それは突き詰めれば、自分のことは自分で面倒を見なさいということである。言い換えれば、自分で蓄えなさい、自分で蓄える自信のない人は民間の保険に加入しておきなさいということである。
だが、皆が皆そうすることが出来る分けではない。そうこうしている内に、病気になったり、介護が必要になった場合、その費用を負担する能力がない人は必ず出てくる。働きたくても働けないのである。
つまり、自助努力しなかった高齢者は世の中の足手纏いになるというのである。社会の邪魔者になるのである。しかし、本当にそうか。それでは姥捨て山と同じ論理ではないか。
こりゃ如何にもまずい。「長生きしたらどうしよう」って、そんな国が良い国であるはずがない。
年を取るのはリスクである。一人や二人が長寿になるのであれば個人のリスクだが、皆が長寿になるのである。皆のリスクは個人が取れるリスクではない。であれば、社会(国)が取るしかないのである。
おいらは思うのである。後期高齢者を80歳に引き上げ、「80歳になったら医療費も介護費もタダにしますよ、その代わり、それまでは自助努力で頑張ってくださいよ」とすれば、何が何でも80歳までは頑張ろうと、長生きのリスクを考えずに人生設計を考えることが出来る。そういう目安があれば、老人が将来に不安を感じない国となる。
それ位しても良いではないか。80年も生きてきたのだ。
政治屋どもよ、お年寄りは氷川きよしから元気を貰えだけでなく、こういう施策を考えて初めて政治家である(続く)。
長生きはリスクである(後編)
長生きがリスクとは情けない世の中である。
いや、怖い世の中である。
サマセット・モーム(英作家)の短編小説を学生時代に英語の教材としてよく読まされたが、その中の一つに「ザ・ロータス・イースター」がある。
トーマス・ウイルソンはロンドンで銀行員だった34歳のとき、カプリ島を訪れる。彼はその島に一目惚れしてしまい、永住を考える。
人生設計を考え、35歳になった1年後、全財産をはたいて25年間給付される年金を買う。当時の平均年齢であれば60歳までの確定年金を購入しておけば十分であると考えたのである。それに、それ以上永らえるのであれば、自殺してもよい。60歳までこの世の天国で暮らすことが出来ればそれで十分である。
そうして、会社を辞めてカプリ島に移り住んだ。
私(サマセット・モーム)がそのウイルソンに会ったのは、彼の移住後15年目であった。当時50歳である。それから13年後、カプリ島を再訪したモームは彼の悲惨な姿を見る。
ウイルソンは一酸化炭素中毒による自殺を試みたが死にきれなかったのである。半病人となって島の厄介者になり、彼は66歳で死ぬまで惨めな日々を過ごさなければならなかったのである。
モームは呟く。「自業自得だが、それにしても悲惨な話しだ」
25年間の年金はその間の理想的な生活を保証したが、その対価はその後の6年間に渡る屈辱と果ては野垂れ死にであった。
モームの小説は怖い。
この年金の支給時期を60歳に置き換えて、25年間の年金を購入したとすれば85歳で打ち切りとなる。しかし、今や90歳以上生きる人は珍しくない。
ウイルソンは、未来のあなたかも知れない。長生きはしたくない。リスクである(この項終わり)。
人は何で生きるか
人は何で生きるか。哲学の主題でもあり、宗教の主題でもある。
ロシアの文豪で思想家、宗教家であったトルストイ(レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ、1828年~1910年)は、彼の著書「人は何で生きるか」の中で、次のように説く。
「死を恐れることなく、自分がこの世の中のために貢献したかどうかを思うことが死を生にする」
トルストイはロシアの貴族の家に生まれたにもかかわらず、農民のような質素な生活をしながら、
「世のため、人のため」に働いたのである。
おいらも、かくありたいものである。
彼を調べてみると、その思想の中心にあったものは愛と宗教である。
しかし、そのトルストイも晩年の作品である「復活」がロシア正教会の教義に触れたとして、1901年に破門の宣告を受ける。トルストイに対するこの措置は当時の大衆の反発を招いたが、現在でもこの破門は取り消されていない。
また、皆から慕われたトルストイであったが、家庭では暴君として、夫人との仲は険悪であったという。
彼の有名な言葉で締め括ろう。
「過去も未来も存在せず、あるのは現在という瞬間だけだ」
なるほど、思想家である。
人生とは何か(その2)
別の観点から、人生について述べる。
「人生とは、死ぬことと見つけたり」
人間は一度死ぬ。これまでもこのブログで書き込んでいるが、死ぬと分かっているのは他人の死であり、決して自分の死ではないのである。
医者から「後、3カ月の命です」と宣告を受けて、初めて人は死を意識するのである。肉親が死んでも、伴侶が死んでもそれは自分の死ではない。
何が云いたいのか。
おいらは自分が死ぬときにジタバタしたくないのである。見苦しく死にたくないのである。象が「象の墓場」で人知れず死ぬように、寿命を悟ったら、枯れていくようにひっそりと、そうして、出来れば喜んで死にたいのである。
そのときに思うのが、「思う存分生きたわい」と云えるかどうかである。仕事と家庭で悔いが残らなかったかどうかである。
おいらの座右の銘は「義理と人情と浪花節」である。したがって、その人生訓に反したことがあったかどうかも大切である。そうであったのであれば、寿命を待たずして死ぬべきであるし、なければ寿命に従えばよい。
ところで、最近感銘を受けた書に「自死という生き方」(須原一秀著、双葉社、08年)という本がある。これは内容が重い本なので軽々に論評できるというものではないが、日本人の持つ美意識を解明した「葉隠」に匹敵する哲学書だと断言してよい。
著者は「老人道とは死ぬことと見つけたり」としているが、おいらはそのパクリで「人生とは、死ぬことと見つけたり」と思うのである。
人間はどう自分の人生に、すなわち、どう自分の死に向き合うのか。そう分かったときに人間は初めて、自分が今生きていることの重要性に気付くのである。
これが人生とは何かということでもある(この項終わり。なお、上記「自死という生き方」については、別途項を立てる予定である)。
霊界はあるのか
死後に霊界はあるのか。
霊界とは、「あの世」や「来生」などに置き換えてもよい。
普通の感覚では、あの世や来生などない。
したがって、馬鹿げた質問のように思えるのだが、死後にそういう世界があるのかないのかが証明出来ていないのも、また事実である。
霊界の存在も証明出来なければ、霊界がないということも証明出来ない。やはり、死んでみないと分からないのである。
ということは、今の科学水準とは、所詮その程度のものなのか。
このブログでも既に「死後の世界を確かめた少年」で書いたが、死ななければ分からないというのも非科学的である。
はっきりと「死後の世界などない、霊界など存在しない」とあの大槻教授が証明出来ないものなのか。
しかし、ないと証明することは限りなく不可能に近い。実際にどのような形であれ、死後の世界が少しでもあれば、照明出来なかったことになるからである。
だから、この問題の優れた解答は、次のものである。
「『ある』ともいえるし、『ない』ともいえる」(玄侑宗久「死んだらどうなるの?」ちくまプリマー新書、05年)。
哲学的な解答である。
ま、死後の世界があろうがなかろうが、どちらでも良いのだが…
おいらの座右の銘は「所詮、この世は夢よ」である。問題は、生きたと感じる中身である。
だから、この問題に対する答は、今を、思うように生きる。それしかない。
人生は100年
今や人生100年だそうだ。
おいおい、ついこの前、人生80年といったばかりじゃないか。実際、調べてみると、平均余命は、
男性79歳
女性86歳
である。人生100年と云えなくもない。
考えてみれば、母が入所している施設では90歳以上がザラである。80歳では、まだ若いのである。
しかし、寝たきりや、そうならないまでも、認知症のまま長生きする人が溢れかえるというのは、恐ろしい世の中でしかない。
実際、施設での光景を見ると、90歳以上のお年寄りは食事をするとき以外ほとんどのお方がベッドで寝たきりである。そういう人も食事は食堂で皆と一緒にするのだが、食事中も口を開けたきりで目を開けていない人が多い。
申し訳ないが、自分はああはなりたくないと思う。しかし、そうは云っても本人たちが望んでああなっている訳ではない。そうだとすると、未来の私かも知れない。怖い話しである。
元気であった場合でも、意欲能力が衰えるかも知れない。そうであれば、馬齢を重ねるのみである。人生の希薄化が進むだけである。
一体どうなっちゃうんだろうねぇ、高齢化社会の行く末は。
生きながらえば、恥多し。
無縁社会
先日のNHKスペシャル「無縁社会」で孤独死と無縁仏が取り上げられ、反響を呼んだようだ。
見応え十分。誰でも都会で孤独死する可能性がある。そして、身元をはっきりさせておかなければ、「行旅死亡人」として無縁仏となる。いや、身元がはっきりしていても親戚が葬儀を断るケースがあるという。
しかし、それは我々がそういう社会にさせたということである。長寿で一人暮らしが増えれば、孤独死する人間が増えるのは当たり前である。社会が血縁、地縁をないがしろにすれば、無縁が増えるのは目に見えている。
それが嫌なら、集団で生活するしかない。だが、都会にはそういう場所がない。公的な、老人が集まって生活する場所がない。
海外では老人同士がルームシェアリングしているという話しも聞くが、果たして日本にそういう生活形態が根付くか?
いや、そうなったとしても、無縁の問題が片付く訳ではない。
この問題は火を噴くだろうなぁ。いや、もう火を噴いている。
では、どうするか。
もしおいらがそういう境遇になったら、永井荷風の死に方がヒントになると思う。
荷風は市川の自宅で敷布団の上に伏せて死んでいた。吐血して、ズボンを脱ごうとしていた。どうしてそれが分かったかというと、検死があるまで死んだままにさせられていたからである。そこに報道陣が殺到し、写真を撮り続けたのである。
ズボンを脱ごうとしていたのは、死ぬ前に寝巻に着替えようとしていたのか、それともトイレに行こうとしていたのか。
荷風は、そのとき死ぬことが分かっただろう。彼のことだから、ニヒルに死んでいったに違いない。アア、モウオワリダ。オレハシヌ。
エゴイストであった彼は誰の世話にもならず、一人で死んでいったのだ。一人で生きることを貫き通す。だから、死ぬときも一人だったのだ。
それは彼の矜持である。そして、思想である。孤独死、それがどうした。無縁、それがどうした、である。死ぬということはそういうことでもある。
生きる価値とは
新聞の人生相談は、まことに面白い。
定期的に読んでいるのは、読売新聞のネット版と産経新聞のそれであるが、読売などは、HPを拝見すると売り物にしている気配さえある。実際、読売の人生相談は面白い。
そういう中、産経新聞で「生きる価値」について論じたものがあったので、取り上げてみたい(12年3月24日付)。
相談内容は、50代の男性がひきこもり状態で(無職と思われる)毎日寝てばかりでいるため母から怒られ、自分に生きる価値があるのかどうか、と問うものである。
早い話しが、ダメだし連続の人生をどうしたものかという相談であり、こりゃ重い質問である。
さぞかし回答は困るだろうと思っていたら、回答者の精神科医(熊木徹夫氏)は大したものである。
「『ただ息吸って食べているだけの、誰の役にも立たない自分でも生きていていいんだよ』
と心底思えるようになることが遠い人生の目標」
と説くのである。
これには参った。仏陀の教えか、キリストの教えである。
おいらなどは俗物だから、未だに生きる価値とは何ぞやと悶々しているのだが、生きる価値とは「ただ生きる」ことだとさりげなく教える姿勢は捨てたものではない。
そうか、ただ生きることが生きる目的なんだ。なんだか、肩の荷が降りたような気がするのである。
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