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さすらいの天才不良文学中年
函館 尾道 呉 竹原探訪記
函館探訪記(その1)
愚妻には苦労をさせどおしである。罪滅ぼしにと、JR「大人の休日倶楽部」を利用して、二人で函館を訪問することにした。
乗車したのは、「はやて15号」東京午前10時56分発。先々週、仙台に出張しているので、デジャブの感覚だ。滑るように出発した「はやて号」は一路八戸を目指す。11時過ぎに大宮を過ぎると、次の停車駅は仙台である。平日にもかかわらず大宮で満席となる。やはり、明日が休日となると、旅行客が急増するのだろう。
妻はおいらと同じ広島生まれで、東北方面以北に行ったことがない。海外には家族や二人で多方面に旅行しているが、お膝元の日本で可愛そうなことをしたことに気付いた。
そこで、三日間JR乗り放題で、一人12,000円の特別パス(今回の特典は11月26日から12月9日まで=>大人の休日倶楽部)を二人分購入し、ネットで函館の宿を予約した。冬の北海道を見たいのと、おいらも函館にはまだ行ったことがないのだ。鉄道で行く北海道も捨てたものではない。
ところで、国内旅行は下手を打つと、海外旅行よりもコストが断然高くなる。しかし、今回は初老(大人の休日倶楽部=>50歳以上)のおかげで、安く旅行が出来るのである。
さて、乗り込んで間もなく東京駅で購入した駅弁にありつく。妻と二人分の駅弁であるので、今回は「北海味メッセ」(1,700円)(写真上)と「鮭いくら寿司」(1,200円)とした。二人で取り分けっこをしながら、駅弁を食す。これもまたおつなものである。この駅弁、両方とも合格。早くも駅弁で北海道モードに突入、準備は万端である。
仙台を午後12時半過ぎに通過、かなりの乗客が降りた。家内と二人で三人掛けのシートであったが、C席の人が降りたので、ゆったりと出来る。恐らく次の盛岡でも相当の人間が降りるのだろう。「はやて号」は、弾丸のように八戸を目指す。
1時半過ぎに盛岡に到着、ここで先頭に連結されていた秋田行きの「こまち号」を切り離した。4分間停車。盛岡を過ぎると、右手に見える連峰の冠上に雪のいただきを見る。東北は冬なのだ。
ところで、苦情を一つ。新幹線内の温度はやたら暑いのだ。暖房のし過ぎである。何も東北に行くから暖房を強めにすれば良いというものではない、ねぇ、JRさん(続く)。
函館探訪記(その2)
「はやて15号」は八戸駅に2時3分に到着した。
あっという間に在来線に乗り換えである。新幹線口を出て、5番線に停車している「白鳥15号」に乗車する。グリーン車と同じ号車なので、半分のスペースの車両である。可愛くて良い。この列車、平日なので、ガラガラ。前の座席をくるりと回して、4人席とし、二人で占拠する。ゆったりして気持ちが良い。
車内販売がやってくる。ビールを所望する。銘柄は、サッポロしか置いてない。北海道に行くのだ。納得する。思えば今日は昼からビールでまどろむ旅である。昼酒は旨い。旅館についたら、温泉に浸かって、またビールを飲もうと思う。今、隣の座席には恋女房が座っている。こういうのをプチ幸せというのだろう。
三沢を経由して、野辺地、浅虫温泉を経て、青森には、午後3時20分に到着した。今年の春に、三沢、恐山、青森を訪問しているので、ここもデジャブである。
青森駅は何故かスイッチバック方式で、進行方向が逆になった。さあ、ここから青函トンネルを通過して一途に函館を目指すのだ。
青函トンネルは青森方面から10個目のトンネルである。突然、津軽海峡の海底に入るのではなく、かなり前の場所からトンネルを掘っていることが分かる。傾斜をほとんど感じさせない訳である。
その青函トンネルには、4時13分に突入した。昭和60年に貫通して、63年に営業を開始した「世界一長い鉄道トンネル」である。最深部は海底240メートルであり、思ったほどの深さではない。全長は約54キロ、海底部の長さは約24キロ。世界で始めての海底トンネル内の駅もある。
約30分間トンネルの中を通過して、トンネルを抜けたのは、4時41分。そこは、既に北海道であった(続く)。
函館探訪記(その3)
函館駅に到着。午後5時半過ぎである。おいらにとって初めての函館上陸である。
日は暮れ、駅前のネオンがきらびやかである。思った以上に函館は大きな街だ。実際、旭川市に次ぐ北海道第3の都市で、人口は約30万人である。
観光案内センターで市内ガイドと地図を貰い、旅館への移動方法を尋ねる。駅前から市電に乗車すれば良いという。函館市内の移動は、市電が便利なのだ。広島同様、チンチン電車が市民の足のようである。
そこで、函館駅前から市電に乗り、終点の「湯の川(温泉)駅」で下車する。流石に寒い。完全防備で来たことを頼もしく思う。徒歩で宿に入る。宿の支配人が「ま、函館の寒さとはこんなもんでしょう」とのたまうが、例年に比べて今年は寒いと解説してくれる。
今回の旅は二泊三日である。一泊目は旅館とし、二泊目はホテルとした。旅館の宿泊料金は、一般に土曜日泊の場合、平日料金の5割増し(ひどいところは倍額)である。したがって、今回は金曜日泊を旅館とし、土曜日泊をホテル(ホテルは、旅館のように土曜日泊料金の差を設けない)としたものである。
部屋に入り、早速、露天風呂に入る。風呂は大きい。おいらのほかに誰も居ないので、思わず泳ぐ。快感である。
露天風呂も大きめで外は寒いが(何せ冬の北海道である)、湯は熱めで心地よい。頭寒足熱とはこのことである。首から上は寒いが、湯に浸かっている部分は熱いのだ。こりゃ、たまりません。
晩餐は、部屋で嫁と二人でさしつさされつ水入らずである。函館の夜は更け行く。
函館探訪記(その4)
高校時代、日本史の教科書で五稜郭の挿絵を見たとき、その浮世離れした設計振りと、旧幕府軍に刃向かった榎本武揚とは何者ぞと思っていた。その後、司馬遼太郎の「燃えよ剣」をテレビ朝日のビデオ版で全巻鑑賞走破したとき、最後は函館を死に場所と定めた土方歳三の生き方に共感を覚えていた。
余談となるが、男の生き方として「何も云わずに実行する」、こういう生き方が至高である。最近の日本は腐っているが、昔は、こういう美徳を誰もが持っていた。この男を演じたのが、栗塚旭である。ほとんど口を開けないで、「コンドーサン」と喋るのである。
ハリウッド映画で栗塚旭に匹敵するのがロバート・スタック(アンタッチャブルのエリオット・ネス役。声は、劇団四季の日下武史。しぶい)である。これをおいらに教えてくれたのは、おいらの恩師である人生の達人S氏である。
その五稜郭を高校時代から数えて約40年後、愚妻と尋ねるとは思ってもみなかった。感無量である。地元の人の話しによると、五稜郭タワーは成金趣味で好ましく思っていないらしい。そりゃそうだろう。五稜郭にタワーという、あまりにも風情のない発想は、普通の人にはあり得ない。
しかし、ミーハーのおいらは展望台に昇り(一人840円。暴利である)、市内を一望する。高さ107メートル。五稜郭も鳥瞰視出来るので、再び感動する。
五稜郭を散策後、土方歳三の死地を訪ね、手を合わせた。
函館探訪記(その5)
旅行して現地を感じる一番良い方法は、市場に行くことである。
おいらは海外旅行でも最初に現地の市場を尋ねることにしている。果物や魚介類を眺めながら、そこに住む人たちの生活感を知るためである。
函館の市場は、朝市と自由市場とである。お昼を過ぎていたので、自由市場に顔を出すことにした。中に入る。
圧巻である。
新巻鮭の前で思わず足が止まった。おいらの大好きな塩鮭があるではないか。焼くと塩を吹く、塩で固めた鮭である。一匹1万2千円。1年でも持つという。迷わずクール宅急便で送ってもらうことにする。
おいらが鮭を買っている間に、嫁が市場の中にある食堂「市場亭」を見つけていた。市場の中にある食堂ほど旨い食堂はない。
二人で鼻息を荒くしながら、「うにいくら丼」(2,300円)を所望する。注文すると、店の人がうにを買いに市場に出て行った。帰ってきたその手にうに。こりゃ、たまらんのう。
味はもちろん、絶品。うにが、いくらが、口の中で溶けました。
食後、観光都市函館を満喫する。一日乗車券(市電専用。600円)を購入しているので、市電を乗り継ぎ、駅前に戻る。ホテルにチェックインして、荷物を身軽にし、月光仮面像、外人墓地、ペリー提督像、公会堂、ハリストス正協会、明治記念館、函館山、そこから望む夜景などを楽しみ、駅前大門町まで今度はバスで戻った。
夜は大門町食堂街で広東料理とした。久し振りに青島ビールを愉しむ。函館を満喫した一日であった。
函館探訪記(その6)
三日目。いよいよ帰路である。
白鳥18号、函館を午前10時40分発。遅い朝食を済ませ、ホテルを9時半に出る。駅前のホテルなので、直ぐに函館駅に到着である。お土産に「白い恋人」をお願いされていたので、駅構内の売店で購入しようとすると、売り切れである。何も「いわく付き」のものを頼まなくても良いようなものだが、手に入らないと思うと無性に欲しくなるものらしい。
国営放送で「販売再開し、即日完売した」と云っていたのは本当だと思い、駅前商店街のみやげ物やまで戻って探すが、やはり売切れである。今度は駅前の「棒二森屋」百貨店の地下まで探したが、本日は入荷しないという。
恐るべし、「白い恋人」
諦めて、駅弁と牛乳を所望する。北海道の牛乳は美味しいのである。山川牧場の特濃牛乳である。110円。最初は振らないで飲むと、乳脂肪分が浮いているので、すごく濃い牛乳である。旨い。
駅弁は、2種類。数ある中から選考したのは、「イカ八方詰め漁火寿司」と「蝦夷寿司」。イカ寿司は駅弁コンクール優勝作品であり、一日5個しかつくらないという。まずは、これに決定。680円。次に北海道の海鮮寿司を彷彿とさせる蝦夷寿司。1,260円(写真上)。いずれも合格。サッポロビールを嗜みながら、美味しくいただいた。
八戸から東北新幹線に乗り換え、麦焼酎のウーロン茶割りを嗜んだ。車中で眠るためである。仙台からぐっすりと眠ったので意外に早く東京に到着した。
帰路も同じだが、温度調節がなっていない。汗をかいた。熱すぎるのである。東北は寒い。だから熱くしているとしたら、JRは大ばか者である。責任者の顔が観たい。
さて、今回の旅行で驚いたのは、特急白鳥号に乗車していたのが老人ばかりであったということである。無論、おいらもその仲間には違いないが、こりゃ、ちと度が過ぎている。皆、大人の休日倶楽部の乗客なのだろう。若者のいない世界である。
近未来を予測する一こまなのであろう。あな、恐ろしや(この項、終わり)。
尾道探訪記(その1)
尾道(広島県尾道市)と云えば、坂の街である。
坂を上ると尾道の街並みが眼下に拡がり、遠くは瀬戸内海の島々の絶景が見えてくる(写真上)。
実は、おいらの伯母さんが住んでいた街でもある。
だから、尾道は幼少のころ母に連れられて何度も訪問していたという記憶がある。だが、所詮子供の頃の記憶というのはあてにならない。当時の記憶は未だに曖昧のままである。
しかし、尾道は魅力的な街なのだ。
小津安二郎の「東京物語」は尾道が舞台である。新藤兼人の「裸の島」も瀬戸内海の小島と尾道とが舞台である。大林宣彦も尾道の映画三部作を撮っている(写真下は、三原市にある新藤兼人の映画記念碑)。
また、志賀直哉や林芙美子、中村憲吉という文学者は尾道に居を構えていた。
考えてみれば、尾道はおいらが育ったF市の隣の街でもある。親近感がある街にもかかわらず、じっくりと訪問したことがない。それに昔から噂に聞いていた生口島(尾道市瀬戸田町)の「耕三寺」も一度観てみたいと思っていた。
耕三寺は、日光東照宮の陽明門を模した門があるお寺である。この寺を紹介した雑誌などを観る限り、ディープな世界としか表現がしようがない。一度は探訪しておかなければならない秘寺である(写真下)。
そう思うと矢も盾もたまらない。ここは一つ訪問するしかないではないか。そう思って、広島からの帰路は尾道で途中下車しようと考えたのである(この項続く)。
尾道探訪記(その2)
広島から横浜への帰路を考えた。
尾道を訪問するのだから、当初は尾道に泊まろうと思った。しかし、本土(山陽側)から耕三寺のある生口島を訪れるルートは、船またはハイウェイ(しまなみ海道)である。
今回の移動も車ではない。だから、しまなみ海道を使わない。
と、すればフェリーしかない。この船のルートは、三原と尾道からの2ルートがある。
おいらは考えた。
広島方面からであれば、三原から生口島に渡り、そこから尾道に渡るという手がある。
折角、尾道を訪れるのであれば、三原にある三原城跡も観ておきたい。三原城は戦国時代、浮き城と云われた名城である。
それに、耕三寺を訪れた後は、生口島から尾道にフェリーで行けば良いではないか。
そう思ったら早い、山陽本線に乗車、三原で途中下車した。三原は何回も途中通過した記憶があるが、下車したのは始めてだと気付いた。
早速、三原城天主台跡を訪問する。
既に述べたように、この城は瀬戸内海から観ると、海の上に浮かんで見えたことから別名「浮城」と呼ばれていた。毛利元就の三男である隆景が竹原の小早川家の養子になり築城したもので、高松城、今治城とともに日本三大「海城」と称されている。
明治27年、山陽鉄道(明治時代の私鉄。本社神戸市。現在のJR山陽本線)がこの城の本丸を貫いたため、三原城の城郭は天主台跡を除いて痕跡が残っていない。
実際、天主台も三原駅の一部となっており、天主台に上るには三原駅構内から入らなければならない有様である。
市内を散策すると、三原は今でも昔の街並みの残る典型的な城下町だということが分かる(この項続く)。
尾道探訪記(その3)
いよいよ潮聲山「耕三寺」(浄土真宗本願寺派)のある生口島を訪問する。
三原港からフェリーに乗船した。約30分で生口島に到着する。片道の乗船賃は800円。
瀬戸内海の水道には、無数の島が浮かんでいる。この水道に村上水軍がいたというのも頷ける。水路を制する者が覇者になるというのは、船に乗るとよく分かる。いや、船に乗らなければ実感はできないだろう。
さて、生口島に上陸。
生口島港から古い町並みを歩いて、耕三寺を目指す。耕三寺の隣には「平山郁夫美術館」もある。平山郁夫はここ生口島で生まれたのだ。生家も存在している。
島の中心部に10分程度歩いたろうか。突然、目の前に耕三寺の山門が現れた。この山門、京都御所の御門と同じ様式だという。
意外だったのは、境内が広大であるということである。
イメージとしては、田舎にある寺の典型で、境内に入る門と本堂、それに墓所程度から成っているのではないかと考えていたのだが、全く違った。
小高い丘(山)全体を寺にし、本堂、五重塔、多宝塔、宝物院、伽藍堂など多数の建築物から成り立っているのだ。
だから、ゆっくりと境内全体を観るとなると優に半日は必要だろう。
最初に目に付くのが「孝養の門」。
圧巻である。日光陽明門の設計図を取り寄せ、金に糸目を付けずに原寸どおりに忠実に造った門である。だから、ちゃちくない。悪趣味でもない。これは、本物である。
次に本堂。
平等院鳳凰堂を模して造っている。これも舌を巻く。
五重塔もある。これは奈良室生寺がモデル。
小高い丘の上には大理石で造られた、生口島を見下ろせる「未来心の丘」もある。
ここも立派なテーマパークである、でも、誰が、一体何のために、こんな寺を造ったのだ(この項続く)。
尾道探訪記(その4)
この寺は、耕三寺耕三(こうさんじ こうぞう。本名:金本耕三)和尚が造ったのである。
金本耕三氏の経歴を調べてみると、大阪で「径大鋼管」(大口径特殊鋼管製造会社)社長となっている。当時で云う立身出世である。
その氏は大変な親孝行で、母親が生存中からこの地に母親のために書院(潮聲閣=ちょうせいかく)を建立している。
そして、母親が他界した後は母親への恩返しとして出家し、昭和11年から約30年かけてこの寺を造ったのである。だから、この寺は別名「親孝行の寺」(写真上は、潮聲閣のご母堂室天井)と呼ぶ。
戦前の金持ちというのは、やはり桁が違うのである。金を惜しみなく使って、こういう寺を造るのである。本堂や孝養門には驚くが、それ以上に驚いたのが、母親が晩年住んでいたというこの書院である。
書院造を主体としながら、洋館とを組み合わせた大邸宅である。しかも、材料を厳選し、入念な造りになっており、これ以上の建築物はない。
書院の仏間も仰天物である。おいらは、これまで見た仏間では太宰治生家(津軽)のそれが一番だと思っていたが、上には上がある。
この書院「潮聲閣」は、必見である。
孝養門や本堂も桁外れだが、この潮聲閣はそれ以上の価値がある(写真下は潮聲閣から臨む中庭)。本当に良いものは、やはり良いとしか云いようがない。
だが、何故かこの書院を目にして、おいらは思ったのである。どれだけ贅を尽くしても、死ねば全ては無意味である。
座って半畳、寝て一畳。
どうしてそう思ったかは分からない。やはり、過ぎたるは及ばざるが如しか(この項続く)。
尾道探訪記(その4)
さて、尾道の最終回は、やはり千光寺である。
尾道の代名詞だろう。
千光寺(真言宗)は、同山の中腹に舞台造りの本堂が張り出しているという珍しい造りである。また、寺の周囲の巨岩も有名である。
尾道駅に到着したので、駅構内の観光案内所で千光寺までのルートを訪ねると徒歩15分程度でロープウエイの入り口だと云う。
「尾道古寺めぐりコース」のパンフを貰ったので拝見すると、尾道は古寺の街なのだと分かる。
それによれば、千光寺に到着するまでに複数の古寺がある。幸い千光寺を含めていずれも徒歩圏内である。おいらは歩き始めた。
途中、宝土寺の入り口で見付けた詩である。
坂村真民(しんみん)氏の詩である。同氏は仏教詩人。恥ずかしながら、おいらは坂村氏のことを知らなかった(熊本県出身、明治42年生、平成18年没)。
足ることを知る
これ第一の富
咲くも無心
散るも無心
花は嘆かず
今を生きる
いやあ、まいったなぁ。坂村真民、恐るべし。
そうこうしているうちに、千光寺の参道(山道)を上る。ロープウエイなんかには乗らないもんね。
途中、坂から下を覗くとこういう景色に巡り合う。
千光寺から下界を望む。
下山だけはロープウエイを利用。3分で下山となった。
尾道、ありがとう。尾道、短期間でも良いから一度は住んでみたい街である(この項終り)。
呉を歩く(その1「大和ミュージアム」探訪 前篇)
今年(15年)8月中旬の広島への帰省を利用して、マッサンの生まれた竹原を散策したいと思った。
竹原市にはJR呉線を利用して行くので、途中、呉市に立ち寄ることを考えた。
呉には、「大和ミュージアム」があるからである。
今年は戦後70年、同時に戦艦大和が沖縄へ玉砕のため向かい(沖縄特攻(=菊水作戦))、米軍に撃沈されて70年目の節目でもある。
そこには、実物の10分の1のスケールの戦艦大和が展示されている。縮尺10分の1と云っても約26メートルあるのだから相当でかい(本物は263メートルだからでか過ぎ)。
さて、呉は軍港であった。しかし、タダの軍港ではない。東洋一の規模を誇る軍港だったのである。呉は、明治22年に呉鎮守府となり、その後海軍工廠を設置、戦艦大和を建造した町である。
だから、呉はいわば軍需工場の町として栄えたと考えると分かりやすい。深作欣二の名画「仁義なき戦い」もそういう背景を考えるとすんなりと腹に収まる。
そういうことを思いながら、呉駅に到着する。
駅構内では、今年が呉線全線開業80周年だとして、駅員がJR呉線の利用者にうちわを配っている。へぇ~、そうなんだ。戦前の昭和10年には既に呉線が広島と三原を結んでいたのだと感心する(正確には海田市駅~三原駅間)。当時、戦争するくらいだから、それだけの国力が十分にあったのだと感心する。
呉駅から歩いて数分のところにある「大和ミュージアム」に入る。
特別企画展「日米最後の戦艦展」をやっている。面白そうだから、特別展も見たいと思い、入場券800円を払う。
入場し、特別展(大和とミズーリの関わりが中心)を観た後、館内中央に目を向けると縮尺10分の1の戦艦大和がでーんと鎮座している。
圧巻である。端から端までゆっくりと歩く。実物がこの10倍の大きさであったと考えると、化け物のような大きさの戦艦であったことが分かる。
なお、噂ではこの大和の原型は東映映画「男たちの大和」で使われたもので、広島出身の岡田茂元東映社長が寄贈したということだが、もしそうだったとしたら、岡田茂はエライ(この項続く)。
呉を歩く(その1「大和ミュージアム」探訪 後篇)
さて、常設展を観て驚いた。
この科学館は大和の模型だけが目玉で、後はチャチイと思っていたのだが、どうしてどうして充実した内容であった(写真上はゼロ戦)。
この大和ミュージアムは、正式には「呉市海事歴史科学館」と呼ぶのである。
だから、戦艦大和の建造計画や科学的な技術分野だけではなく、呉の歴史や戦時下の市民生活、それに加えて太平洋戦争へと歩んで行った日本海軍の顛末などを惜しみなく大パノラマに取り上げ、見どころが満載なのである。
また、沖縄特攻に出撃した乗組員の遺書や遺品も展示されており、日本海軍が米軍との海戦で叩かれた海戦図も展示されていた。
おいらはボランティアの解説者に随行して館内を回ったので、展示内容を十二分に堪能することが出来たのである。
面白かったことは、戦艦大和の建造は極秘事項であったにもかかわらず、呉市民は皆、巨大戦艦を建造していることを知っていたということである。
同じことは、ミッドウエー海戦において日本軍の暗号が米軍によって解読されていたため、日本海軍は壊滅状態とされたのである。
だが、それだけではない。当時の東京市民は皆、ミッドウエーで日本海軍が米海軍を奇襲する作戦を知っていたというのである。
だから、当時の日本軍には情報戦と云う概念などなかったことが分かる。これで戦争に勝とうとしたのだから、当時の軍部の頭は相当犯されていたに違いないよなぁ。
以上、大和ミュージアム、一度は足を運ぶ価値が十分にある(この項終わり)。
呉を歩く(その2「潜水艦あきしお」に乗船する)
大和ミュージアムを堪能した後、向かったのは、「てつのくじら館」である。
なぜなら、呉駅から大和ミュージアムに行く途中、巨大な潜水艦が地上にさらされていたからである(写真上)。
海上自衛隊が使用していた本物の潜水艦あきしおである。そのあきしおが「てつのくじら館」の一部として展示されており、そこでは潜水艦の内部も見学可能である。
行かない手はなかろう。
大和ミュージアムに隣接した「てつのくじら館」に入る。入場無料。
「てつのくじら館」の正式名称は、「海上自衛隊呉資料館」である。つまり、海上自衛隊が仕切っているのである。入館したら、制服を着た自衛官が出迎えてくれた。
う~む、これは複雑な心境である。良心的兵役拒否の思想を持つおいらとしては、自衛官と仲良くはなりたくない。しかし、潜水艦の中には入ってみたい。純粋に血沸き肉躍るからだ。男の子なのである。
館内で展示してあったのは、まず、海上自衛隊の歴史、続いて、掃海(機雷の除去活動)の様子である。機雷の除去で自衛隊の果たす役割が大きいことが分かる。
そして、潜水艦の歴史、技術、活躍などである。これは割愛。
最後に、おいらは潜水艦あきしおの中に入ったのである。興奮したねぇ。
あきしおは、昭和58年三菱重工神戸造船所で竣工、60年に進水。排水量2,250トン。全長76.2メートル。乗員75名。水中での速力は20ノットである。平成16年に除籍されている。
館内の写真撮影は許可されているので、以下、掲載する。
おいらはニューヨークにいたとき、空母イントレピッド号の内部を見学したときのことを思い出していた。空母イントレピッド号は、1982年以来マンハッタン中部のハドソン川側に係留されており、博物館になっているのである。
イントレピッド号に乗船したときも血わき肉躍ったのである。同じじゃのぅ。何のことはない、ただのミーハーなのである。
広島に行ったら、1日は呉に行くべし。それだけ内容のある展示館がある(この項終わり)。
小京都竹原を行く(前篇)
本日より3日間は、関ネットワークス「情報の缶詰15年9月号」に掲載された「小京都竹原を行く」をお送りします。
小京都竹原を行く
母が亡くなって今年が初盆となった。併せて母の一周忌の法要を広島で設営したので先月中旬、一週間あまり故郷の広島に滞在した。おいらは、時間を創ってマッサンとエリーの町、広島県竹原市を探訪してみようと思ったのである。
1.竹原の位置
竹原は広島県の真ん中から右寄りに位置しており、場所から見れば安芸か備後か迷うところだが、安芸広島藩である。JR呉線が走っており、広島駅から約1時間半の距離である。したがって、広島市内から日帰り旅行には打ってつけである。
そこで、おいらは早朝広島を出て呉駅(広島県呉市)で停車し、呉の歴史を詳しく紹介している「大和ミュージアム」を訪問しようと思った。
呉は明治22年に呉鎮守府となり、その後海軍工廠を設置、戦艦大和を建造した町である。呉は東洋一の軍港であった。
呉には、海上自衛隊の本物の潜水艦が陸上で展示してある「てつのくじら館」もあり、そこでは潜水艦の内部も見学可能である。おいらはその呉経由で竹原に行くことにした。
2.昼過ぎに竹原に到着
上述のとおり、呉で寄り道をして昼過ぎに竹原に着いた。
おいらが最初にしたことは、竹原の観光案内所を訪れたことである。
観光のポイントを確認すると、やはり、朝の連続ドラマ「マッサン」の影響もあって、竹原の旧家が並ぶ「町並み保存地区」の人気が高い。
その中で一番注目されているのはもちろん竹鶴酒造である。現在は「歴史民俗資料館」で「竹鶴政孝常設展」が開催されているという。
また、この町で忘れてならないのは小早川隆景である。NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」では、鶴見辰吾が演じていた毛利元就の三男である。小早川隆景は幼少を竹原で過ごしている。豊臣秀吉からは「日本の西は小早川隆景に任せれば全て安泰である」とまで評価されていた名将である。
そして、忘れてならないのが「貧乏人は麦を喰え」と云った池田勇人である。池田は所得倍増計画を打ち出し、戦後日本の高度経済成長時代の礎を築いた総理である。
池田の銅像もこの地に建立されており、彼が蒐集していた美術品が「たけはら美術館」に寄贈され展示されているという。行かない手はない。さあ、時間は夕方までたっぷりあるぞぅ(この項続く)。
小京都竹原を行く(中篇)
3.池田勇人の蒐集した美術品は本物
観光案内所は竹原駅前にあり、そこから池田勇人の銅像までは徒歩5分程度であった。
国道432号線を北上し、竹原市役所の交差点を左折するとまもなく「市立竹原書院図書館」がある。
その図書館の敷地に銅像があった。いやぁ、おいらが小中学校時代に見た池田勇人がそこにいましたよ。
池田は昭和40年に喉頭がんで没している(満65歳)。おいらが中学校3年生のときであった。時の総理でもがんには勝てないのだと子供心に妙に納得したことを覚えている。この池田の銅像は没後6年目に建立されている。
さて、そこから近くの「たけはら美術館」に向かった。今年は池田の没後50年にあたるということで、10月から「池田勇人展」が開催される予定である。
ただし、おいらが訪問したときは「池田コレクション展」であり、これが見応えのあるものであった。
なにせ、横山大観の墨絵が展示されているのである。上村松園もある。富岡鉄斎もある。頼山陽の書もある。おいらは、だから池田勇人のコレクションを真剣勝負で一点一点拝見させてもらうことになった。
総理というのは良いものを持っているのだと思い知らされた。やはり、良いものは一か所に集まるのだ。
4.竹鶴酒造
池田コレクションを堪能したおいらは町並み保存地区に向かった。
竹原は「安芸の小京都」と呼ばれているが、酒造業が盛んなことから「安芸の小灘」とも呼ばれている。また、かつては赤穂から製塩ノウハウを輸入し、製塩業が盛んであった町でもある(昭和35年まで製塩していた)。
さて、市の中心を走る本川を超えると頼山陽(父が竹原出身)の広場があり、そこには頼山陽の銅像が置いてあった。
そこを過ぎればもう町並み保存地区だ(この項続く)。
小京都竹原を行く(後篇)
4.竹鶴酒造(続き)
5分程度歩くと朝ドラで見覚えのある竹鶴酒造が見えてきた。
この日はお盆休みで開店していなかったが、もともと内部は公開されていないので(酒販売のみ行っている)、文句はない。
マッサンはこの家で生まれた。忠海中学校に入学、大阪高等工業高校(現阪大)卒業後、スコットランドに留学し、グラスゴー大学で応用化学を学んだ。
スコットランドでエリー(本名リタ)と結婚し、竹原にエリーを連れて帰ってきたのは皆さんご存知のとおりである。
そして、そこから近いところに「竹原市歴史民俗資料館」があり、そこで「竹鶴政孝展」が開催されていた。
当日はお盆ということもあって訪問する人が多く、館内は活況であった。
その資料館の隣にはマッサンとエリーの銅像があった。マッサン効果は絶大じゃのぅ。ミーハーのおいらはそこでマッサンとエリーの二人と並んで記念写真を撮影したのである。
さて、竹原は小さな町であるが、こうして酒造と観光で生き返った町になったことが分かる。その中心近くにある道の駅も人だかりで繁盛していた。
竹鶴酒造がお休みだったので清酒竹鶴が買えなかったことが残念だったが(市内の酒店でも竹鶴は完売)、こうして地方の町が活気を出すヒントをもらったような気がした。
皆さんも一度竹原に足を運ばれてはいかがだろうか。訪問する価値のある町である(この項終わり)。
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