映画を方法にする


 つまり表現する内容がすでにあって、それを映画という方法を使って翻訳する(翻訳して伝える)が前者。言葉では現在捉えられないけれど、その方向に向かって進みながら、映画を作ることで、作者が何かを獲得し、観客が(評論家でも良い)映画のもたらした意味を発見してくれるのもが後者。
ko01 甘いことを書くなよという人もいるかも知れない。しかし、映画は自分の現実に対する認識を変革するもの。価値観を変えてくれるもの。煮詰まった僕を破壊してくれるもの。そんなとらえ方をしても良いのではなかろうか。
 一般の映画だって知らないことを教えてくれるし、戦争だって、殺人事件だって見せてくれると反論を受けるだろう。しかし、それらはテレビ的な情報の羅列に過ぎないし、第一、それらはストーリーの中で、安全に僕らに体験のごとき情報を投げかけるに過ぎない。「もしもスパイだったら・・」「もしもテロリストと戦う刑事だったら・・」という、安全な「もしも」から始まるゲームに過ぎない。それだったら、体験の質としては、ロープレゲームの方が密度が濃いし、映画を観終わっても、僕は何ら変わらず、僕のままである現実に取り残されるだけだ。
 もっと、自分の本質的なものと向き合うことを強制するような材料を映画によって切り取り(選択し=撮影)、自分に対して突きつける(編集)行為の中から、よりワクワクする、より面白いと感じるものが生み出されるのではないか。
 敬愛する村上龍氏は氏の最低作品「長崎オランダ村」で、日本のものは自分と向き合ってしまうような白けたものばかりで駄目だ。というようなことを書いているが、それは間違いである。そんなエンタメ擁護論のごとき、あるいは本場の音楽は本場にしかないみたいなありきたりの論理では納得できない。
 まず自分にとってトラウマになるような痛みと向き合うことを強制することから、その作品は無視できない忘れがたい感動(あるいは感覚)を生むのである。その証拠にエンタメ(エンタテインメント擁護論あるいは最高論)志向から生み出された村上龍の映画はどれもカスである。小説はすごいのに、映画は駄目だな。なんて言われるのだ。
 氏の小説には、確かに氏が向き合う世界があるのだ。氏が痛みの中で放出するしかない、時に野蛮で、時にエロで、時に脳天気な魅力的な作品が生まれるのだ。
 だから、そんな意味も込めて、映画を表現のための方法にするのではなく、単に映画を方法化しようと言いたいのだ。
 卓球が映画でヒットしたからって、こんどはビリヤードにしようなんて発想のメジャー映画に何の可能性があるの?よく考えたいね。


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