暖冬傾向で、ゴルフ場の予約が多い!
100万ポイント山分け!1日5回検索で1ポイントもらえる
>>
人気記事ランキング
ブログを作成
楽天市場
275692
ホーム
|
日記
|
プロフィール
【フォローする】
【ログイン】
宗像市民俗調査報告書 第3集
p1からp8は、次回より8回に分けてアップロードします。今回は、資料編の建築年の仕分けをお届けしましょう。
江戸前期
出光トキ、出光文武、下田商店、
江戸中期
石松茂莊、ます屋、
江戸後期
神山書店、庄野文市、田中嘉広、船津英俊、出光スポーツ、出光陶器店、米喜、ナカオ写真、早田薬局、萩尾久資、林克己、出光おもちゃ店、八尋ふとん店、宗像美顔、松尾金物店、石松博、
明治
出光浩、山本剛誌、石松完次、吉田義男、須賀内世紀郎、占部ツヤ子、早田勉、勝屋酒造、船津徳郎、今泉正男、萩尾ガラス店、石松食料品店、永島茂雄、伊豆恵、岡田寅、
大正
出光寿夫、
昭和
中山雅男、次郎丸生花店、ふたば食堂、山路薫、荒川正人、
時代不明
神山自動車部品、岡本縫工、山下商店、早田讃岐屋、伊豆丸武雄、中江元、出光トモエ、高砂薬局、ふくの屋、村山隆雄、椎葉商店、吉村呉服店、石松サイクル、田中俊文、中村金物店、黒田ウメ、
私見⇒江戸期の現存の建物は、以下の通り。
蛭子屋(出光トキ・文武)、田中嘉広、出光スポーツ・岡本縫工(当時は宿屋、持ち主は不明)、宗像美顔(田中小間物店)、勝屋酒造(幕末は滝口新屋)、吉村呉服店(刀鍛治)、以上の6軒のみ。
惜しいかな、米喜や、早田讃岐屋が最近、建て替え。いかに、調査が杜撰か、素人(学生任せ、秋山も見かけだけ)かが、分かる。よくぞ、こんないいかげんな資料を宗像市教育委員会に出し、市民の税金で本を発行するなんて、けしからん。ちゃんとした、せめて、私くらいの見識のある素人に依頼するべきだ。大体、秋山教授というのがけしからん、肩書きの悪用だ。こんな程度の学者もどきに国が給料を支払っていたのが腹が立つ。そのうえ、市はこんな資料をまだ、権威あると思って、蔵に、多分、玄海支所に保管している、馬鹿らしくてやってられない。誰か、精力が余って、正義一途の人、たのんますよ。私の力じゃ、到底、分らず屋どもを動かしがたい。徒労である。
2003年11月27日 11時45分58秒
宗像市民俗調査報告書 第3集2
序
宿場町として江戸時代に栄えた赤間宿は、今でこそ宗像市の一部に包含されてしまいましたが、江戸・明治・大正時代にかけては、この辺一帯における商業の中心的な存在でした。
昔から七浦三里と言われている通り、周辺の漁村・港町である芦屋・波津・鐘崎・神の港・勝浦・津屋崎・福間の七浦から赤間はちょうど三里ほどの距離にあるため、これらの七浦に対する物資や魚などの集散地として栄えた所です。特に周辺の漁村に対しては、地勢的にも扇の要のような位置にあるので絶対的な優位を占めており、宿場町としての役割は非常に重要でした。小倉から黒崎・折尾・海老津を通り過ぎると赤間宿であり、ここから海岸沿いに博多や福岡へ簡単に行くことができた上、港町として栄えた芦屋に行く道もあり、また木屋瀬宿からは、猿田峠を越えて赤間へ通じるなど、まさしく交通と文化の要衝でした。従って当時は旅館と茶宿、魚宿や諸店舗が往還に並び、非常に繁栄したところです。
幸いにして、町を全焼するような大火がなく、かつての宿場町の姿をかなりとどめており、その点では文化庁の宮沢智士氏も、「このように動的な宿場町が残されているのは珍しい」と、赤間の価値を認めています。
そこで今回は、赤間宿のできるだけ古い状態でのファサードと平面図を掲載する為、昭和54年に調査したものをもとに報告します。
2003年11月28日 19時58分23秒
宗像市民俗調査報告書 第三集3
赤間宿における町屋について
1.目的
祖先が自然の風土に合った生活を営んできた民家、すなわちその地方独特の生活様式を今日に伝える貴重な文化遺産を、ただ現状にあわないというだけで滅ぼしてしまうのは、あまりにも大きな損失である。・・・他省略・・・
2.研究方法
調査期間 昭和54年7月31日から8月6日まで ・・・他省略・・・
3.街道としての赤間
慶長8年(1603年)、江戸に幕府が開設されると、交通機関に力を注ぎ、五街道と十脇街道を定めて、寛永2年(1625年)には全街道及び宿駅の整備を完了した。
福岡藩においても、前述十脇街道のうち長崎街道が藩内を通る事になったので、黒田長政が難路である冷水峠を慶長17年に開かせ、内野宿を建てさせた。これにより、福岡藩内の長崎道には、黒崎、木屋瀬、飯塚、内野、山家、原田の6つの宿場が設けられた。筑前六宿だ。これと同時に藩内の交通のため、要所に21宿を設けた。福岡を起点として、東へ博多、箱崎、青柳、畦町、赤間、芦屋、若松。西へ姪の浜、今宿、前原。博多より南へ二日市、宰府。二日市より東へ秋月、日田へ向かい甘木、志波、久喜宮。姪の浜より西南に金武、飯場。飯塚より東南に大隈、小石原。箱崎より飯塚に向かい篠栗。それに福岡を含めての21宿である。九州諸大名の江戸参勤は、筑前六宿を通った。唐津藩主と福岡藩主は、福岡、箱崎、青柳を経て、赤間より木屋瀬へ出て黒崎に向かっていた。筑前の宿場27宿のの中で、幕府の公道である六宿と、大名が宿泊する赤間、青柳、箱崎、姪の浜、前原、宰府、二日市、甘木、小石原は特に精度を厳守させられた。
筑前の街道のうち、福岡と木屋瀬を結ぶ北廻の交通路、すなわち福岡から箱崎、青柳、畦町、赤間を通り木屋瀬へ出る街道は、赤間道と呼ばれ、また東往還(長崎道)に対し、西往還とも呼ばれ、藩の公道として使われていた。
2003年11月29日 12時32分19秒
宗像市民俗資料調査報告書 第3集4
4.赤間の町並みと歴史
赤間の地名の由来として、「風土記」に『大和朝廷の全国統一のさい、神武天皇が東征の途中、岡の湊(芦屋)に、泊まられた。ある日赤間村に来られた天皇が道に迷ったとき忽然として赤馬にまたがった翁があらわれ、くわしく道を教えた』ということが書かれている。この地はこれより赤馬と呼ばれ、江戸時代の文献には赤馬とも赤間とも書かれていたのが、何時の間にか赤間と呼ばれるようになった。
「宗像軍記」を書いた氏貞が、居城を孔大寺山から蔦が岳に移した話の中に、『群臣の家は山上より山下に建ち並び、赤間の町々吉留まで、商売の棚造り出ければ、あたかも京洛の西条五条の辻に異ならず・・・』と書かれており戦国時代に、赤間が城下町として栄えていたという説がある。しかし、慶長五年、黒田長政が入国した頃は、赤間には民家が四~五軒しかなかったということである。(後者が正しいようだ。)
江戸時代になり、伊能忠敬一行が文化十年に赤間街道を測量したときの記録が残っている。『・・・左右赤間村、町並み人家続き、家156軒、右に制札、左に領主の茶屋、左浄土宗受岳山法然寺、木屋瀬、芦屋追分・・・』(伊能忠敬測量日記)とあり、黒田藩の別館である御茶屋や制札場があったことがわかった。また、享和2年に書かれた「筑紫紀行」には、『赤間の駅、畦町、宿より是まで二里、家200軒ばかり、茶屋あり、えびす屋武右衛門という小宿・・・』と書かれており、旅篭屋があったこともわかった。宿場には旅人や馬に飲み水を供給する井戸が必要であった。赤間にも、須賀神社や法然寺の境内のほか、まちのあちこちに計七つの井戸があったということである。それらの井戸も個人の所有物となり、家屋内に入り込み、現在ではどこにあったのかわからなくなっているが、1つだけ道路脇に辻井戸として残っている。(赤間3丁目4番1の松尾昭平氏の向かい=大黒屋分家松尾寛氏の敷地内とも言える、)
私見⇒上記のうち、( )書きは、私見。もうひとつ、辻井戸について私見を付け加えるなら、883番地にもあった。宗像市民俗資料調査報告書 第1集に記載されている。その位置は、我が家(884)と、庄屋恵比須(880)の向かいの白木禎治氏宅である。大黒屋の前、そして恵比須屋・蛭子屋の前に、35年前まで、祇園神輿が留まっていたことを考えれば、納得がいく。
2003年11月30日 13時05分06秒
宗像市民俗調査報告書 第3集5
4.赤間の町並みと歴史(続き)
赤間宿の戸数は、「筑紫紀行」(1802年)では、約200軒、「伊藤忠敬測量日記」(1813年)では、156軒と、10年間に50軒ほど減少しており、この数値に疑問は残るが、おそらく150~160軒くらいはあったと思われ、黒田長政の入国時に比べ著しく増加している。
1780年ころ、奥村玉欄が描いた「赤間駅の絵」から、宿場の入り口に構え口があること、直方に向かう道が現在のバス路線ではなく須賀神社の前の道であること、わら屋根と瓦屋根が混在していること等を知ることができる。
幕末、「五郷の都落ち」があり、25日の間、赤間の御茶屋に滞在した記録がある。また、明治意向の赤間は、石炭産出で賑わう筑豊地方をバックにかなりの繁栄をしていた。町には大きな商店、製造元、卸、小売とあらゆる店がそろい、取り扱う品も呉服、雑貨、食料品と多種多様で、どんな品物も赤間に行けば買えるとか、赤間に行けば嫁入り道具がそろうといわれていた。
呉服、荒物、その他の問屋には、各地から仕入れ客が訪れ、正月や盆の前には、馬車や牛車を連れて遠賀や鞍手、直方の方から買い物にくる人で賑わったという。町内にも下町の方には、店舗のほかに人力車夫、大工、畳かえ、鍋打ち直し、運送屋、小間物売りなど色々手に職をつけた人達がいた。また、遠くから買い物にくる人の為に、各店の表には牛馬をつなぐための駒つなぎがあったり、遠来の客のために宿が立ち並んでいた。この様に発展した赤間の宿場町も、鉄道の開運とともにその生命を失った。
2003年12月01日 18時20分49秒
宗像市民俗調査報告書 第3集6
5.赤間の町屋
(1)住居の種類
赤間の町屋は持ち家が多い。古い町並みをよく残している奈良県柏原市今井町は持ち家が20%であるのに対して、赤間は78%が持ち家である。
純住宅53%と店舗46%である。
(2)建築年
建築年は、住んでいる人が世代がわりしたり、記憶していないなどで、おおよその時期しか分からない。江戸後期から明治に集中しており、52%を占めている。この時期が赤間の最も栄えた時期に相当する。建築様式は、江戸の建築様式を明治に入ってからも受け継いだものと思われる。
軒高については、時代差がある。土地の人の話によると、軒の低い方が建築年が古いという。これは、殿様が通るのに2階から見下ろす形となり、まずいので、軒を低くし2階の窓を小さくしたという。軒が高く、窓を大きくしたのは、明治以降のことだという。
(3)建坪
建坪は、日本の民家の平均が39.1坪であるのに対して、赤間の平均建坪は73.0坪と、広い。百坪以上の建坪を持つ家が12戸(20%)であるが、米屋、酒屋、菓子問屋、こんにゃく屋など製造業や倉庫を必要とする家であり、町屋が栄えた頃、格式が高く、広い建築面積が許された家である。
(4)居住面積
赤間の1戸当たりの平均畳数は、45.1畳である。これは、昭和53年の住宅統計調査の福岡県の平均25.3畳の約1.8倍に相当する。
(5)屋根
・・・省略・・・
赤間のこの街道は、1戸建ちがほとんどで、妻入り、平入、妻平混合が通り全体に散在している。このことについて、宮沢智士は、「日本の美術4」に、『この町並みの特徴は、いろいろな型の民家が並んでいることである』と述べている。また、『九州地方で最も、伝統的な姿をよく保っている町並みの一つである』とも述べている。
2003年12月02日 14時39分55秒
宗像市民俗調査報告書第3集7
(6)間口
敷地割のある畦町が隣の宿であるので、赤間にも敷地割の基準があったと考えられるが定かではない。・・・他省略・・・
(7)間取り
赤間の町屋の間取りは、他の町屋に多く見られる片土間形式が主であり、中土間は4戸(5%)しかない。・・・他省略・・・
(8)間取りと間口の関係
「オモテ」、「ナカノマ」、「ザシキ」と並ぶ1列3段型が最も多い。いずれも、通り庭が広い。
・・・他省略・・・
(9)通り庭
町屋は間口が制限されていることと、表通りから裏通りへ抜けるため、通り庭は不可欠。赤間の町屋は通り沿いに東西に建てられているため、通り庭は家の中の南側にくるか、北側に来るか、三列住居だと中央のいずれかにくる。現在、通り庭が残されている家は88%である。
(10)前土間
前土間が建築当初から土まであったか板間であったか、この調査でははっきりしないが、町屋としての前土間の機能は、一室目に並べられた商品を通り庭からだけでなく前からも眺められるため、客の寄り付き場として、また風雨や日差しから畳を守るのにも有効であったと思われる。
(11)吹き抜け
町屋は表から裏にかけてうなぎの寝床のように部屋が並んでいるため、中央の室は天井を張らずに吹き抜けにしたらしいが、近隣の農家にも数多く見られるので、宗像地域の特徴かも知れない。吹き抜けはすべて、「ナカノマ」にある。
(12)まとめ
赤間の町屋は、奈良県の今井町と違って1戸建てがほとんどであること、1列三段型が75%をしめる、部屋が「オモテ」、「ナカノマ」、「ザシキ」の形態をとる、建築年が江戸、明治のものが多い、屋根は妻入りが多く大壁塗籠造り、前には三段構えの蔀戸がまだあちこちに見られる、等の特徴がある。
2003年12月10日 15時18分55秒
宗像市民俗調査報告書 第3集8
6.今後の赤間宿に対する提言
赤間宿も比較的昔の姿をとどめているとはいうものの、このところ急激に次々と古い民家が壊され、昭和54年に調査した段階からみると非常な様変わりをしている。
平成元年4月、特に若い住民40名位が中心となり、「まちづくり赤間会」(出光太蔵会長)という積極的に民家を守ろうとする会が結成された。門に竹筒をかけて町並みを花で飾る運動、「商い中」の札を門に掛ける、長崎街道の説明の立て看板、案内板を置くなど、自ら進んで若者達がこの赤間宿を少しでも保存しようという運動が起こりつつある。
また、市当局もふるさと創生事業の一環として「町並みマップ」を取り付け、要所要所に「赤間宿」の辻行灯を置いて協力するなど、やっとまちづくり運動が軌道に乗り始めたところである。
※明日は最終回「そこで今後の赤間宿の保存に際して考えられることは」
⇒私見ではなく、1989年に宗像市教育委員会がまとめているものを、そのまま公開します。ほとんどの人に読まれないまま、玄海支所の倉庫に眠っているのは残念でたまりません。市のトップ、区のトップは、まずこういう提言を理解した上で発言しないと、行政の一貫性、市民運動の一貫性は断ち切れです。前提のない、過去を持たない、流れ者たちがし切って、どう世の中を変えていけましょうか?
2003年12月11日 09時42分59秒
宗像市民俗調査報告書 第3集9
そこで今後の赤間宿の保存に際して考えられることは
(1)現在の生活にマッチしにくい内部の構造は改造しても、通りに面したファサードの部分はできるだけ昔のままの形で残す。かぶと造りの形とか、2階の装飾鏝絵、蔀戸は寒いので内側にアルミサッシを入れ外観のみ昔の上下3枚あげおろしの蔀戸にする。具体礼として、赤間下町の萩尾和彦氏宅が参考になる。
(2)今掲げている2階屋根一面の看板を軒吊り看板にしたり、袖壁や戸袋に屋号を彫り込んだり、入り口に暖簾や軒提灯、辻行灯を置くなど工夫する。
(3)赤間宿に車を乗り入れないで迂回路にする。ただし、店のための品物の搬入は朝と夕の時間を制限して、その他の時間は歩行者天国とする。
(4)赤間宿での買い物、見物などをし易くするため、赤間宿の上か下かに駐車場を確保する。
(5)できれば赤間往還のどこか空家に街道の資料を展示し、この地の物産を展示(販売)するような場を作る。街道の店マップを作って、商業の活性化を図る。
以上のように赤間の町を今後昔の宿場の形をとどめながら保護していくには、文化庁の宮沢智士氏のいうように、動的な形(生活しながら)で保存されるのが望ましい。
私見⇒今日で宗像市民俗調査報告書 第3集は終わりとします。ま、びっくりするような資料が眠っていますので、是非是非、一読してください。ご愛読有難うございました。
2003年12月12日 10時28分35秒
ジャンル別一覧
出産・子育て
ファッション
美容・コスメ
健康・ダイエット
生活・インテリア
料理・食べ物
ドリンク・お酒
ペット
趣味・ゲーム
映画・TV
音楽
読書・コミック
旅行・海外情報
園芸
スポーツ
アウトドア・釣り
車・バイク
パソコン・家電
そのほか
すべてのジャンル
人気のクチコミテーマ
タイガース党
西田陸浮
(2026-05-27 09:56:59)
GOLF、ゴルフ、そしてgolf
⛳️昨日も何時もの⛳️スコアで蟻地獄…
(2026-05-27 08:42:49)
サッカーあれこれ
【ハイライト動画🎥】川崎フロンター…
(2026-05-27 06:29:52)
© Rakuten Group, Inc.
共有
Facebook
Twitter
Google +
LinkedIn
Email
Mobilize
your Site
スマートフォン版を閲覧
|
PC版を閲覧
人気ブログランキングへ
無料自動相互リンク
にほんブログ村 女磨き
LOHAS風なアイテム・グッズ
みんなが注目のトレンド情報とは・・・?
So-netトレンドブログ
Livedoor Blog a
Livedoor Blog b
Livedoor Blog c
楽天ブログ
JUGEMブログ
Excitブログ
Seesaaブログ
Seesaaブログ
Googleブログ
なにこれオシャレ?トレンドアイテム情報
みんなの通販市場
無料のオファーでコツコツ稼ぐ方法
無料オファーのアフィリエイトで稼げるASP
ホーム
Hsc
人気ブログランキングへ
その他
Share by: