“お笑い”哲学論のページにようこそ!

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◆私の居場所◆


私の居場所はどこにあるのだろうか。
せめて、心が和む場所はどこだろう。
会社か、家か、車の中か、私の心の中なのか。
哲学的な疑問ともいえるし、弱気な着想でもあります。

ふと、心が和む場所というものを考えた時、私にはあるだろうか、という疑問が浮かんだのです。

私は人が好きなのですが、人と一緒にいる時に心が和んでいるかというと、そうではないような気がします。
私の場合の条件を挙げてみると、
1. 人間がいない
2. 自然がある(動植物がいる)
の二つの条件は最低限、不可欠な要素でしょう。

この条件を満たす場所が、会社の近くにあります。
(近くに会社が無ければ、もっと心和むところでしょう)
私の会社は広島駅のすぐ近くにあって、今も新幹線ホームのアナウンスが聞こえてきますが、少し歩くと小高い山に神社が点在しています。
神社には鳩がいて、公園には猫がいて、山の坂道の杉木立にはミノムシがぶら下がっている低木があります。

そこを歩きながら、仕事を考え、日本経済の将来を考え、世界の恒久平和を考え、仕事が遅れている口実を考えています。
そういうひと時に、動植物を眺めて、そういう問題に無縁な生き方に接すると、ほっとします。
ほっとし過ぎて問題が何だったか忘れてしまうのが難点ですが、少なくとも、重大だと思っていた問題が、忘れてもいい程度の問題である事に気付かせてくれます。

だが、動植物がほっとしているかどうかは疑問です。
とくに鳩や猫は、構われるのを迷惑がり、私を避けようとします。
杉の木やミノムシは、おそらく私を避けるどころか(避けられないのですが)、私の存在など全く無視して生きているのです。
そこに心が和む理由があるのではないでしょうか。

しかし、考えてみると、周囲の人間も私を無視する点では樹木やミノムシと同じです。
それなのに、なぜ周囲の連中のそばでは心が和まないのか、不思議でなりません。



〔蛇足〕
ミノムシは私の記憶が正しいなら(言い換えれば、信憑性が低いが)、たしか、メスは一生変態せずに、ミノムシのままでオスのミノ蛾を待つはずです。
姿かたちを装うことなく、オスを呼び、交尾するのです。
それを想う時、私はミノムシの姿に欲情するオスの蛾が不憫に思え、やはりオスは変態なのだと、変な納得をしながら、会社へ帰って行くのでした。





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