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The Lost Decade


「The Lost Decade」  2008.01.17日記









建築家の高松伸の著書の中にフィッツジェラルドの本からの引用箇所がある。
「失われた十年」という短編小説に登場する建築家が自らの手によるビルの礎石を見つめながら呟く場面からの引用である。

「そう私が設計したんだ。・・・・・しかし私はこの年に深酒するようになったんだ・・・・・完全な飲んだくれさ。だからこれを見るのは初めてなんだ。・・・・・中に入ったことはある。何度も。しかし見たことはないんだ。それに今はこんなもの見たいとも思わんよ。もうこんなもの見ることもないだろう・・・・・」

フィッツジェラルドの短編小説の言葉を引用した後に高松氏は次のように自身の言葉を続ける。

”The Lost Decade”・・・・・失われてしまったのは歳月だけだったのだろうか。私はあれ以来アール・デコ建築そのものよりも、つくりそして語ることによって建築家が失わざるをえないものについてあらためて考え始めている。



作り終えることで或いは語り尽くすことで消失してしまう何か。
それは確実にある。誰にとってもそうであろうし、建築家に限ったことではない。
しかし、語り終えぬうちに失われてしまう何かも同時にこの世には存在することも事実だ。
また、何も語っていないのと同じ状態であるにも関わらず、ブランクな時だけが流れてゆく場合もある。現代の日本のように。
たとえば昨年末の紅白歌合戦にて披露された最先端の流行歌群に触れたとして、それらの歌に共振し自分自身の一年の締め括りに胸を焦がす人が果たしているだろうか。
いないと思う。音楽のメインストリームにおいて歌う方も聴く方も実は既に何も語っていないし何も聴いてもいないのである。

そう考えると、作り終えることで或いは語り尽くすことで消失してしまう何かを追い求めていた人々のエネルギーが山火事の如くに広がっている時代の方が生きている心地はすると思う。
たとえそれが、語り終えぬうちに失われてしまった無数の炎が燃え滾っていた時代であろうとも。
フェリーニが「甘い生活」を撮った時代のローマは不幸だったかもしれないが、同じ時代にアメリカにはモハメド・アリがいた。
翻って現代の日本はどうだろう。
経済の活性化もなければ街に巣くう人々の躍動感にも燃え滾るものもなく、
誰も、何も、語らない。
時代を代弁し底上げする力を宿した流行歌もない。
失われるものさえ、ない。
このような時代の方が実は人にとって病的に不幸であるとはいえないだろうか。















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