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すみだトリフォニー 15:00〜 3階左側 モーツァルト:ドン・ジョヴァンニ序曲 ピアノ協奏曲第9番変ホ長調K.271「ジュノーム」 ショスタコーヴィチ:ジャズ組曲第1番 ピアノ協奏曲第1番ハ短調op.35 ピアノ:小曽根真 新日本フィルハーモニー交響楽団 指揮:井上道義 井上道義。来年一杯で引退するんだそうです。まぁ、確かに、その頃には80目前なので、そういうことを考えてもおかしくはないかもね、というお歳ではあります。そういうふうには見えないけどね..... で、このタイトルです。確かにある種の特別演奏会ではあるので、いいんですが。ほぼほぼ小曽根真の協奏曲を聴く会という体でしょうか。やはり小曽根ファンが沢山。うん。まぁ、自分もそうではあるんですけれどもね。 ドン・ジョヴァンニ序曲。うわ、重ったい。重っ苦しい、とまでは言わないけれど、最近の例にはハマらないのは確かとはいえ、現代オケとしても、これはかなり重たい。こういうのは久々に聴いた気がします。まぁ、でも、そうだねぇ。そもそも井上道義という人はこういう方向性の人だったかも。あまり一生懸命聞いている訳ではないのですけれども、新日とか聞いてると時々出会しますのでね。第九を聞いたのは去年のN響で、その時も書いたのですけれども、あの時、演奏は、まぁ、らしい演奏で、というのは、確かに生き生きとして、しかし十分に鳴らしつつ、という、今度の演奏にも通じるようなもので、加えて思いの外丁寧で、まぁそれはいいのだけれど、帰りがけにどこぞの人の会話が耳に入りまして。「井上道義は面白いよね。尾高忠明なんかはなんか退屈というかつまんないよね」とかなんとか。まぁ個人的にはそれは全然違うだろ、というか、尾高忠明を全然わかってないな、と思うのだけれども、一方で、井上道義もちょっと誤解されてるよね、とも思うのですよね。 多分、井上道義という人は、このドン・ジョヴァンニだって、考えがあってこうだろうという組み立ての上に成っている人だと思うんですよ。たとえば今時のオペラハウスでこの序曲で始まってしまうと、ちょっと全編保たないんじゃないかという気がします。オケもだけど、それ以上にオペラ全体が。重過ぎて。だけど、井上道義はぎっちり鳴らしてくる。これは演奏会だから。この後ジュノームだし。だから、この曲はこうやる。多分そういうことなんじゃないかと思います。いや、言えば、「これでオペラ全編でもやるよ」って言うかもしれないけれど。 でも、世間に言う井上道義って、多分、個性的で「面白い」指揮者なんじゃないかと思うんですよね。確かにこの人奇を衒ったようなところはあるけれど、それは少なからず企画としてそう見えるのであって、やってる中ではむしろ大真面目なんですよ。以前やった日比谷公会堂でショスタコーヴィチの交響曲全曲演奏する、みたいなのも、半ば色物的に見えたけれど、あれだって当人はショスタコーヴィチ愛と日比谷公会堂愛を表に出しただけであって、内容的には大真面目なんですよ。受け取る方が歪めてしまうのかな。そういう意味では、岩城宏之が挑んだ大晦日にベートーヴェンの交響曲全曲振る、というのもそんな気がします。ま、それはともかく。 ジュノームと後半のショスタコーヴィチの協奏曲は、小曽根真の独奏。勿論今となっては十八番で、例によって小曽根節を散りばめた演奏で、その点では期待に違わず、良かったのではありますが......ちょっと考えてしまいましたですかね。 小曽根真がクラシックに挑戦しだしたのはもう30年近く前からだそうで、自分が初めて生で聞いたのも、ゲイリー・バートンとのデュオで、アルバムVirtuosoを出した頃の、クラシック楽曲の演奏を含めた物だったので、それ以来ジャズの人だけどクラシックもやる、という位置付けなんですよね。で、いわゆる小曽根ファンというのは、その辺も含めてとはいえやはりジャズピアニスト・エンターテイナーの小曽根真、なんですよね。それはいいんだけれど。 一般に。クラシックを聞いていて、同じ人が同じ曲を演奏するのを何度も聞く、というのはあまりないのです。そもそもそんなに通わないですからね。私が一番聞いていそうなピアニストはそういう意味では多分小曽根真で、だから、ジュノームもショスタコーヴィチも、2度目か3度目か、そういうことになります。というか、小曽根真のスタイルは、この2曲に限らず、必ずカデンツァの部分を中心に、オリジナルにない和声、響き、イディオムを入れてくるのですが、で、それを楽しみに皆聴きに来ているので、それはいいんですけれども。ただ.......私もそうなんですよ。それを聴きに来て、それを楽しんでいるのは確かなんです。ただ、何処かに、既視感を感じるのですよね。それは、いわゆる小曽根ファンと思しき人達の反応を見ているとよく分かる。つまり、反応も同じなんです。既視感が強い。マンネリ、というには、あまりにも音楽がフレッシュに響くとは思うのですが。でも.......これって、予定調和でないかいな? 小曽根真の弾くクラシック楽曲のどこに面白さがあるかといえば、「そこになかったもの」なんだと思うんですね。そこになかったものを見出す新しさ。新しさ、と言ってしまうと陳腐に聞こえるけれども、でも、そうすることで地平を拡げてきたというのはあると思うのです。それは聞く側にとってもそうだし、小曽根真自身にとってもそうだと思うんです。 でも、「また」ジュノームとショスタコーヴィチ。毎回同じではないかも知れないけれども、繰り出されるお馴染みの方向性のイディオム。それを安心して熱狂する小曽根ファン。お分かりだと思いますが、大体が自分のことを棚に上げて聴衆に辛く当たる私としては、この最後の「お馴染みの熱狂」が少々気持ち悪いんですね。君らもう何度も聞いてるんじゃないの?このパターン、このスタイル、この方向のイディオムは、と。 いや、それで何が悪いというわけではないんです。これはこれで間違いではない。でも、ねぇ。このコンサートは、「井上道義・ザ・ファイナル」シリーズなんです。主役は井上道義。その井上道義との演奏歴を振り返る形でのこの選曲は、確かに間違いではない。ないけれど、なればこそ、例えばモーツァルトは他の何かやったことのないもの、でも良かったんじゃないかと思うんです。何故なら、「新しいもの」を追い求めたのが小曽根真の挑戦だったと思うし、井上道義という人もそういう人だったと思うので、別にとんでもないものを持ってくるべきとは言わないけれども、何か新しいものを、出来れば既存のスタイルからまた外れたようなものをやってみても良かったんじゃないかな、と、今回は思ったのです。 簡単に言ってくれる、という話ではあるんですけれどもね。そんなの簡単に出来りゃ苦労はしないよ、と。でも、井上道義との、まぁ、これが本当に最後とはならないんだろうけれども、もう一歩先に何か出していってくれないかな、とは思うんですよね。勝手な話ではありますけれども。
2023年09月18日
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本当はもう少し前に書くつもりだったんですが、書きそびれてしまいました。まぁ、一般発売は今週末だし、まだ参考になるかもしれないので..... ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンの泣き所の一つは、会場の国際フォーラムにあります。まぁ建物自体が問題があるとは言わないのですが、決して音楽ホールとしては優秀とは言えないのです。だから行かないとかいうことはないのですが、そういう欠点は欠点として知っておいて損は無いと思うので..... ちなみに、国際フォーラムの座席表はこちらでご覧になれます。 但し、元々自由配置のB5・B7は座席表は無いので念の為。☆ホールA 設定座席数実に5,004席という巨大ホール。はっきり言ってクラシックには大き過ぎます。東京で一番大きいクラシック用(専用じゃないけど)ホールはNHKホールでしょうが、こちらは大きいと言っても3千人程度です。しかも、ホールAは座席がとてもゆったりしているのです。そのこと自体は大変結構なのですが、ただでさえ大きくゆったりと空間を取っているホールなので、はっきり言って広くなり過ぎます。ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンに関する不評の最大の原因は正直言ってこのホールだと思います。 なので、ここで席を取るなら、出来れば1階の21列目まで、座席番号20番から50番まで、としたいとこですが、まぁ世の中そんなにうまく行きませんからね。私が買ったホールAの公演は悉く外れてます(涙) 本音を言うと、個人的には行きたくないホールです。公平に言って広い割には思いの外聞こえるのも事実ですが、やっぱりねぇ。ただ、どうしてもここでしか聞けない公演もあるので、それはもう覚悟を決めて行くしかないと..... 割り切って言えば、寝不足解消には最高のホールです。いや、本当に、座り心地いいんだこのホール。 それから、このホールはとにかく巨大で収容人員も多いので、人の動きがどうしても悪くなります。ハケが悪い。その点は要注意ですね。☆ホールC 収容人員1,490席と、国際フォーラムの中では最もコンサート向きのホールです。まぁ、その目的に作られたホールですから。但し、元々国際フォーラムは会議場ですので、このホールCも音楽専用ホールというわけではありません。 で、そのせいかあらぬか、このホール、どうも定在波があるような気がします。定在波というのは、その空間固有の「鳴り」があって、その空間内で音を出すと、その音の波の一部が共鳴して唸りを生じてしまう、と、まぁ大体こんなような事です。詳しくは辞書でもお調べ頂ければ幸いです(^^; 日光の鳴き龍とか、あれは定在波を逆に利用したものです。 で、通常、音楽ホールではこういう音が出ないようにするのですが、どうも、国際フォーラムの場合、例えば1階席の端の方に座ると、横に高い木の壁が迫るのですが、これがどうも唸りの原因になっているような。ちょっと響きすぎるのもあって、そういう問題が出てしまうようです。 それを除けば、まぁ悪いホールではないので、1階席の端の方は避けた方が無難かも。それ以外は大丈夫だと思います.... このホールではオーケストラ物の公演が多いですが、ここで聞く声楽曲も良いものです。今回で言えばフォーレのレクイエムやドヴォルザークのスタバト・マーテルなど、目玉の一つになりますね。 人の動線もこのホールは一番よく出来ていて、出入りでもたつくことはあまりないのではないかと。本当の「メイン」のホールはここかなぁ。 後のホールについてはまた明日にでも。
2007年03月12日
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オペラシティコンサートホール 19:00〜 3階正面 ベートーヴェン:ピアノソナタ 第30番 ホ長調 op.109 ピアノソナタ 第31番 変イ長調 op.110 6つのバガテル op.126 ピアノソナタ 第32番 ハ短調 op.111 ピアノ:ゲルハルト・オピッツ ゲルハルト・オピッツ。どうなんでしょうね、評価は。日本ではドイツの大ピアニスト的なことになってるらしいですが、まぁ、そうですねぇ.....ブレンデルやシフは、オーストリアの人ですしねぇ......... 確かに何度も聞いたことはあって、そう悪い人ではないとは思います。ある意味安定しているというか。 そのオピッツが、来日公演をすると。まぁ、確かに、今は向こうでもなかなか演奏会は出来ないでしょうし。で、11月の上旬には来日して、2週間の隔離の上、演奏していると。今日は、ベートーヴェン生誕250年記念のリサイタルということで、最後の3大ソナタとバガテル、というプログラム。 実際行ってみると、ピティナの後援ということもあってか、ピアノ講師風の人が少なからず。それはいいんですが、ちょっと客層がね.......あの、こういうこと言うのもなんだかなぁな話なんですが、客層とか雰囲気で、「あ、これはあかんやつや...」って思うことは、実はあるんですよね。お客がダメだから演奏会がダメになる、のではなくて、そういう雰囲気のお客が多い公演というのはつまりそのくらいの.....というような。いやまぁ偉そうなことは言えなくて、そういうのに自分も行ってるんで、人のこた言えんのですが。まぁでもそういうことはあるのです。 加えて、今日は隣にどうにも鼻息の荒いお客がいましてね.......呼吸が下手なんですよね。音楽的じゃない。そういうお客が集まっちゃうのも、まぁ、あまりいい演奏会ではないことが多いんですが...... それはそれとして、実際の演奏は、じゃぁどうだったのか。 良く言って、微妙、かなぁ.......演奏のレベルとしては、まぁ、確かに、相応のものだったとは思うんですけどね。 前半は109と110。悪くはないんですけれどね、確かに..... 正直言うと、op.109, 110, 111は、結構聞いているわけです。生でも随分聞いているし、その中でもやはりシフの演奏が頭にあったりする。では、オピッツは? 悪くはないです。ただ、なんというか、不安定なんですよね。何がと言って、何処に行こうとしているのか、分からない感じ。ミスがあるかと言われれば、まぁ、無いと言えば無いんですが........フレージングがなんとも言えずブレるんですね。そしてテンポが揺らぐ。 ベートーヴェンは、最後の3つのソナタは、古典派なのかロマン派なのか。そういう区分けは意味が無いといえば無いのだとは思いますが、しかし、やっぱり、これらはどういう音楽なんだろう?というのを考える上では、意味がないわけではないと思います。ベートーヴェンはあくまでこれらの楽曲を「ソナタ」として書いています。この頃には彼のソナタは随分と型破りで形式に捉われないようなものに見えてはいるけれど、でも、やっぱりそれは何某かの形式というものを引きずっているのですね。たとえばこの頃のベートーヴェンは変奏曲形式を多用しているけれど、変奏曲というのは自由に見えてあくまで元の主題という縛り、求心力があるわけです。そういう意味で、これらの楽曲は、決して自由な幻想曲のような音楽ではない。見通しが必要なのですが、どうも、オピッツの演奏では、全体としてどういう音楽として構築しようとしているのかがよく分からない。敢えて言えば、細部の揺らぎに拘ってしまう、そんな感じなのですね。 そういうものがいい効果を出すことも勿論あると思います。でも、今日の場合、そもそもどういう音楽像を描いているかが見えないので、どうにも気ままに弾いているように聞こえてしまうのですね。 正直言うと、オピッツは、妙な言い方ですが、この曲を信じていないのかな、と思わせるような演奏でした。嫌いなのか、と言ってもいいのかも知れませんが、手を入れずにはいられない、といって、じゃぁ明確なコンセプトがあるのかというとよく分からない、そんな感じでしょうか。 後半はバガテルとop.111。 結論から言うと、後半の方がまとまりが良かったと思います。特にソナタはこちらの方が落ち着いていて、いい演奏。ただ、やはり、どこか揺らぐのですね。正直に言うと、今日の演奏の中では、バガテルが一番良かったんじゃないかと思います。こちらがよく知らないから、というのはあろうとは思いますが、でも、個々の曲をそれぞれに気持ち良く演奏して完結させればいい、というような。 そして、op.111は、前半の2曲よりはまとまりはありました。ただ、構成感は希薄だったかなぁと思います。 まぁ、わかんないですけれどね。所詮こっちは素人なのだし。聞く人が聞いたら、素晴らしい名演だったのかも知れない。けれども、なんというのか、これは私の知っているベートーヴェンの最後のソナタではない。斯くあるべしと言うのが細かく決まっているようなものでもないのではあるけれど、でも、振れ幅はあるとしても、これはちょっと..... あまり、こういう演奏をする人というイメージではないんですけれどね。或いは、なにしろこんな環境下での演奏だから、決していいコンディションではなかったのかも知れない。 ただ、意地悪い言い方すると、日本人は、日本のピアノ教師なんかは、こういうの好きなのかも知れないですね。構成とか、全体としての音楽のあり方とか、そういうものにあまり拘らずに、その場その場できれいな音ですね、というような演奏をよしとするならば、こういうベートーヴェンはいいのかも知れません。 比べるのはどうかという話ではあるけれど、たとえばシフなんかの演奏は、同じように揺らぎがあるとしても、そもそも何処に行こうとしているのかが分からないではないから、聞いていられるんですけれどね。日本の演奏家だって、この3つのソナタでいえば、最近でも小山実稚恵とか、仲道郁代とか、児玉麻里とか聞いてはいるけれど、あるは稚拙であったり、あるはミスがあったり、いろいろあっても、構成感、音楽としてのデザインはやはり押さえられていたと思うんですけれどね。
2020年12月12日
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みなとみらいホール 15:30〜 2階舞台脇 モーツァルト:クラリネット協奏曲 イ長調 K.622 <アンコール> モーツァルト:クラリネット五重奏曲 K.581 〜 第2楽章49小節から マーラー:交響曲 第5番 嬰ハ短調 クラリネット:松本健司 NHK交響楽団 指揮:ファビオ・ルイージ オーチャード定期は今回はみなとみらいの回。というか次シーズンでオーチャード定期自体終了だそうで、まぁ、いいんですけどね。元々持ってた席は消滅してしまいます、ということだそうで、正直勘弁してくれと思うのですが。東フィルはちゃんとしてね......... で、今回は、ルイージが出ます。マーラーの5番で、サントリーのBプロと同じなのかな。オーチャード定期ってのはある意味自称他称「コア」なファンは普段は鼻も引っ掛けないくせに、こういう時だけしたり顔でやってきて埋め尽くすので、ちょっと嫌気がさしてきます。その割につまるところは皆ただのミーハーなんだよなぁ.....これ、たとえばメインがラフマニノフの交響曲とかだったら、全然入りが違うんですよ、きっと。まぁ、別にいいけどさ。 もうなんとなくお分かりでしょうが、正直、あまりいい評価はしてません。御承知置きの程を。 まぁ、こっちもピットに近い裏側席で聞いてるんで、よく言うよと言われそうな話であるのは承知してるんですが、ね。 モーツァルトは、恐らく弦五部が12-10-8-6-4の編成。正直、これは、モーツァルトとしては今時はかなり大きめの編成です。で、これで、クラリネット協奏曲をやる。しかも響き過ぎのみなとみらいで。いや、やれなくはない。間違っては、いない。ただ、これでどういう演奏になっているか?というと..... 私は、モーツァルトのクラリネット協奏曲は、結構繊細な作品だと思っています。五重奏曲のイメージに引っ張られているのかも知れないけれど、それなりに繊細な響きやニュアンスを要求する作品ではないかと。協奏曲ではあるけれど、たとえば20番以降のピアノ協奏曲のようなものとは少し違うのではないかなと。実際にどういう目的で、どういう演奏会を想定して書いたのか、調べるのめんどくさいので調べてないですが、ピアノ協奏曲なんかは「演奏会の目玉」なんですよね、やっぱり、あり方が。だから、どうしてもピアノにスポットライトを強く当てる形になる。 この日の演奏は、その系譜に連なるようで、更に先を見ているような。率直に言うと、私は、ベートーヴェンの初期のピアノ協奏曲に連なるような印象を受けました。オケも独奏も輪郭がはっきりしていて、聞かせようという意欲に満ち溢れているというか...........いや、聞かせちゃいけないなんてことはないんですけれども。でも、そうじゃない感が強いというか。オケで言えば、後期の交響曲、たとえば40番や41番みたいなものをこういう風に演奏するのはまぁありかも知れない。私は現代オケが現代オケとして、ピリオドチックなものでないモーツァルトをやるのは全然ありだと思っています。でも、この曲の場合は、この演奏は、そうじゃないと思うんですよね。これは古楽器演奏かどうかという問題ではないです。曲として何を中心位持っていくのか、そういうことだと思います。 そういう演奏が出来ないわけじゃないと思うんですよ。それは、アンコールの五重奏を聞けば分かる。やりゃ出来るんです、そういう風には。でもやらなかった。これは結局は好みの問題だと思います。私は好みじゃない。まぁ、それだけのことではあります。悪い演奏ではないんだろうけれどもさ。 後半はマーラー。 で、結論から言うと、いいとは思わなかった。どのくらいかというと、1月に聞いた東フィルを渡邊一正がバッティストーニの代振りで振った1番や、2月に聞いたアマオケの9番の方が良かった。 その辺の話は上記にリンク貼ったので見て貰うとして、簡単に言うと、何したいのか分からなかった。特に、オーケストラがどういうつもりで演奏してるのか、というのはつまり、この曲を、どういう音楽と捉えて、どのように再構成するか、というイメージがまるで分からなかった。 東フィルの時に書いたのだけれど、あの「巨人」は見通しの効いた、よく整理された演奏だったと思います。それは渡邊一正のアプローチであって、それが唯一無二の正解というわけではないのだろうとは思うけれども、オーケストラは少なくともそれに応えていた。ファビオ・ルイージのアプローチは、あまりそういう感じはしなかった。正直言うと、考えあんのかな?と思わなくもないくらい。いや、ルイージの問題というより、オーケストラの問題が大きいのだと思います。 いつも言うことだけれど、私はマーラーはあまり好きではない。いい聞き手ではないのです。だから、いつも「わっかんねーなー」と思いながら聞いている。それはその通りだけど、まぁ、そういう視点なりに思うところはあるのです。 で、そういう身で言わせていただくと、とっ散らかってるならとっ散らかってるなりに、どういう音楽なのか、全体としてどうなのか、個々の部分ではどうなのか、というのが無いと、本当に何やってるか分からなくなるのですね。1月に聞いた渡邊一正指揮東フィルの「巨人」は、指揮者もだけれど、オーケストラも限界はあるなりに、どうしようという意思が見えた。だから、ああいう音楽でも、私みたいに苦手な人間でも、見通しの効く音楽になっていたと思うのです。2月のアマオケの9番の場合は、まぁ、率直に言って失礼ながら未熟ではあるし、同列で論じてはいけないけれど、少なくとも「これどうするんだっけ」というのが見て取れた。マーラーという人の音楽自体が破綻しているけれど、破綻しているなりにまとめようとしているのが見て取れて、それが、音楽として一応形を成していることに繋がっている。 じゃぁ、N響は?一応プロオケなんだから、その先を考えて欲しいのだけれど、正直言うと、破綻している以上のことはなかった。ルイージの問題?それもあると思います。けれども、オーケストラ自体がその先を全然考えていないように見えた。マーラーの5番は5楽章あって、第4楽章が例のアダージェット。で、この5楽章、殆ど関係のない音楽に聞こえてしまうものですが - ちゃんと分析すると関係性はあるんでしょうけれど、正直、まとまりのないびっくり箱みたいな交響詩だか狂詩曲だかが5つ並んでるだけみたいに思ってしまうのです、私は - それをそれ以上のものに聞かせるのが、一つの音楽として聞かせるのが、いわば期待値だと思うのですが、とてもそんな風にやっているようには聞こえなかった。 いや、マーラーってそういうもんだよ、って?じゃ、東フィルの巨人とか、去年ザルツブルクで聞いたウィーン・フィルの10番は?私はよくわかってないけど、多分それだけじゃないんです。 あるいは、そういうとっ散らかったものとして聞かせるのがルイージの目的だったのかも知れないけれど、そうなのかしらね? 5楽章の頭、管が牧歌的というか、アルプホルン的な、伸びやかで長閑な、何も考えてないだろ、とまで言いたくなるようなメロディーを奏でるのだけれど、あれは、第4楽章のアダージェット、人気があるけれど、交響曲の1楽章として置くと、終わった時に少し息が詰まるような気分になる、それを柔らかに一掃してくれる一節なのだけれど、正直、どういうつもりで聞かせたいのか、分からなかった。聞いてる方はどういう風にこれを聞くのか、考えてるのかしらね。 最初から最後まで、なんならモーツァルトもそうなのだけれど、終わってみて一貫して思ったのは、音楽的に鈍いんだろうな、この人達、ということ。音楽性が無いとか、腕・技術が無いとか、そういうことはないんでしょう。N響は一応日本でトップクラスということなっているし。でも、率直に言うと、音楽的に鈍い、鈍感なのではないかな、というのが今回の感想。それは、恐らく、聴衆によって育てられてしまったのでもあると思います。 終わったら例によって大喝采で、如何にも「首席指揮者の名演を聞きにわざわざ横浜くんだりまで来てやったぜ」風の「うるさ方」が大喜びしてましたが、そもそもこれマーラーとしても楽しいのか?マーラー嫌いの私としては、そもそも楽しくはなくて、それでも聞いてみなけりゃ分からないと思うし、1月のようなこともあるから聞きに来るわけだけれど、最低の期待値以下だったのは事実。これがどうしていいのか、あの連中に、そもそもお前はどういうものがいい音楽で、それはどうして足を運んでまで聞く価値があると思っているのか、問い糺したいくらいで、割といつもそう思ってるわけなのですが、多分、音楽的に鈍いからなんじゃないかな、と思い至った次第。それがいいって言うんだから、皆そうなるよね。それは。 N響も、時期によって良し悪しはあるのだけれど、今はコロナ禍以上にダメになっってる気がするんだよなぁ。腕はあるんでしょうけれどもね。でも、腕じゃないのよ。まずこれはどういう音楽か、そのイメージをきちんと持てない以上、決して音楽としてよくならないのよ。ロックバンドとかが「音楽性の違い」とか言って解散するじゃないですか。大抵ありゃ全然違うみっともない、あるいはドロドロした理由を美しく言ってるだけだけど、中には本当にそういうのも3%くらいはあるんじゃないですかね。あれと同じですよ。 一度解散してみたらいいのかもね。解散コンサートとか言って荒稼ぎして。オケとして解散しろとは言わないけれど、一度団員総とっかえでオーディションしてみたら......同じか。あれがいいと思っている人間が多い以上、同じことだな。きっと。
2026年04月27日
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すみだトリフォニーホール 14:00〜 3階正面 ブリテン:イリュミナシオン ブラームス:ドイツ・レクイエム ソプラノ:リーサ・ラーション バリトン:ロベルト・ホルツァー 合唱:栗友会合唱団 新日本フィルハーモニー交響楽団 指揮:クリスティアン・アルミンク 新シーズン定期の初回ですが.... 前は去年同様行儀の悪い夫婦。両隣はこれまた落ち着きのないオッサンに爺さん。自分も大概落ち着きの無い方だけれど、こいつらは格別。ああ、こいつら単発ならいいんだけど.....今年は行きたくなくなったぞ、もう。なんで50絡みとか、年寄りのクラシックファンとかって始末に負えない連中がこう多いんだろうか...... 愚痴でございます。 イリュミナシオンはあまり聞く機会の多くない曲だと思いますが、ボストリッジがブリテン曲集を録音した中で歌っていたり、録音でも珍しいというほどではなし。 ラーションはこの曲を得意としているそうで、確かに歌い込んでいる風で、安定した歌唱。これはとても良かった。この後、月曜日に聞いたピオーもブリテンを取り上げていたけれど、ブリテンは英語圏の歌ものでは貴重な歌曲作家ではあるし、それがまた佳曲が多いので(洒落ではない)、もっと聞かれてもいいと思うんですけどね。 ドイツ・レクイエム。今回のメインは勿論これではあるんですが... まぁ、正直、ガッカリ、です。 問題はやっぱり合唱。 前回聞いたのはマーラーだったか、あれよりは多少いいとは思うんですが、正直、平版なんですよね。失礼だけれど、何を歌っているのか分かってやってるんだろうか、と。音楽的にも、言葉としても、抑揚というものがあると思うのだけど、まるで下手な読経のよう。別に「ドイツ・レクイエム」だから言っているのではありませんが。 ざっくり100人くらいは載っていると思いますが、きちんと歌っていればこんな人数は音楽的に必要は無いと思います。人数増やして音量大きくすればいいというものではない。むしろ、人数はある筈なのにスケールの小さい歌になっている。発音にしても、抑揚、ひいては音楽的表現にしても、無駄に人数増やすものだからぼやけてしまう。要するに、「つまらない」んですよね。 他のオケにしても、例えば東響のように、アマチュアを起用することはよくあるのだけれど、正直、当人達の「つもり」と実際に聞いてる側の受け止めとでは相当ギャップがあるのだろうと思います。冷たい言い方だけれど、聞き手は音楽を聞きに来ているのであって、発表会に来ているのではないのだから、つまらないものはどうしたってつまらない。送り手の事情は知ったこっちゃない。 たとえば、ちゃんとした合唱団なら、フルオーケストラに対しこの半分程度の人数でも十分伍して行けると思います。無論、ひょっとするとトゥッティ勝負になれば苦しいかもしれないけれど、音楽としてきちんとしたものをそれで出せるなら、聞く側は納得するというものです。 定期会員継続の特典CDは「ジークフリート牧歌」とベートーヴェンの1番。今年は楽章抜粋ではないのね〜
2012年09月19日
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武蔵野市民文化会館 14:00〜 2階右手 バーンスタイン:「キャンディード」序曲 「ウェストサイド物語」〜 マリア / トゥナイト セレナード <独奏アンコール> ヴァインベルク:24の前奏曲 op.100 〜 第5番 (クレーメル編) ワーグナー:「さまよえるオランダ人」〜 「期限は切れた」 「ワルキューレ」 〜 「冬の嵐は過ぎ去り」 「タンホイザー」 〜 夕星の歌 R.シュトラウス:4つの最後の歌 〜 「夕映え」 「薔薇の騎士」組曲 <アンコール> R.シュトラウス:4つの歌 「明日」 op.27-4 菅野よう子:花は咲く テノール:ルチアン・クラズネツ ソプラノ:レーカ・クリストフ ヴァイオリン:ギドン・クレーメル バリトン:マティヤ・メイッチ バイエルン州立ゲルトナープラッツ劇場管弦楽団 指揮:ミヒャエル・バルケ 武蔵野市民文化会館の自主公演。昔、一時期、よく行ってたことはあるのですが、最近はあまり行きません。正直、企画がクセが強すぎて、来るお客もクセが強すぎて、そこまで行くことないや、と思ってしまったらもう行かなくなった。 なのですが、今年の正月にウィーン・リング・アンサンブルの演奏会をやるというので、久々に来たのです。その時、この公演のチラシがあって。で、例によって、細かいこと分かりにくくしか書いてないので、なんだかわからんけどクレーメルが弾くのか、休みの日だし、買っておくか、くらいで、ろくにプログラムもチェックせずに買ってたんですよね。なんかバーンスタインとワーグナーなのね、名曲集的なものか、くらいのノリで。で、会場に来るまで、「今日はクレーメルを聞く日」という認識でやってきたわけです。だから、殆ど何も期待してなかったんですよね。期待してないというよりただただフラット。一曲だけだけどクレーメルの伴奏なのね、くらいの勢いで。我ながらなんぼなんでも酷い話だ... ただ、言わせてもらうと、私、ミュンヘンには何度も行ってるけど、ゲルトナープラッツって何処にあるのか知らないんですよね。確かにミュンヘンにはStaatsoperの他にも劇場はある、という認識ではあるし、確か旧王宮の中だかに劇場があるんだっけか?くらいの記憶はあるけれど、ゲルトナープラッツ劇場というのは知らない。1865年に創設されたらしいんですが。ちなみにゲルトナープラッツ自体は、市庁舎があるMarienplatzの南東、ドイツ博物館の西にあたる場所らしいです。多分通ったことあるとは思うんだけれど... で、来てみたら、これ、どちらかというと声ものメインじゃないですか。とはいえ、歌手は知らない人ばかり。どうやらこの劇場の座付き的な歌手を連れた来たということらしいです。 結論から言うと、何の期待もなく聞いたせいもあろうけれど、結構良かったです。 まずクレーメルの話をするなら、私も何度も聞いたことある人ではないのだけれど、音がこんなに綺麗な人だったか、と認識を新たにした、というのが一つ。まぁトップクラスのヴァイオリニストだから、音が綺麗なのは当たり前だろと言われればそうなんでしょうけれど、まず思ったのがそのこと。技巧的にはどうなんでしょうね。流石に衰えはあるのかな、とは思いましたが、それは技巧派の極みのようなクレーメルなればこそ、と言うべきで、やっと普通の凄いヴァイオリニスト、ということでしょうか。ちょっとグルベローヴァを思い出しました。グルベローヴァも晩年は往年の超超絶技巧は影を潜めて、ただの空前絶後のトップソプラノに成り下がっていましたが - 成り下がってやっと空前絶後のトップクラスだったのですよ...空前絶後と言える程度に比較出来るようになったという....(個人の見解です) - 、クレーメルもそれに似たところがあるというか。ああいうの聞いて「このくらい弾く人は一杯いる」とかいう人もいるんでしょうかね。まぁ、私はヴァイオリンは詳しくないから、きっとよく分かってないんでしょう。 バーンスタインのセレナードというのは、要は協奏曲。聞いたことなくて、思いの外大曲で、ちょっと弾いて終わりなのかな、と思っていたけれど、そこそこ長い結構面白い曲でした。バーンスタインらしい、現代曲だけれどちゃんと旋律のある曲。 アンコールのヴァインベルクも聞いたことなかったのですが、しかし、あれ、あれが終わりで間違いないのかな?ちょっとよく分からなかった。演奏はやっぱりとてもいい綺麗な音で、もっと聞きたかったんだけどな。 歌手陣は、前半後半ともにまぁこんなものかな、という感じでしたが、バリトンはそこそこ悪くなかった。一番良かったのはソプラノでしょうか。特にアンコールのR.シュトラウスの「明日」はとても良かった。この曲は、グルベローヴァが、特に晩年、リサイタルで歌っていたけれど、いい曲です。これを久し振りに聞くとは思っていなかった。この佳曲をやっぱり綺麗に歌っていました。夕映にも良かったけれど、歌唱としてはこっちの方が気に入ったかな。テノールは....まぁ、可もなく不可もなく、かなと。 でも、正直言うと、こういうプログラムだと思わずに来たので、なかなか楽しめました。なんだろうな。上手い下手とか凄い凄くないとかいうことと違って、ちゃんと歌ってるんですよね。音楽になっている。「音楽になってない演奏会なんてあるのか」と言われそうですが......まぁ、ありますよ。音楽になってはいてもまるで音楽として楽しくないのとか。 オーケストラも勿論悪くない。正直、たとえば縦の線があってないとかいうことはあったと思います。上手い下手を言えば下手だと思います。でも、音楽になっている。引き合いに出すのもアレですが、先週聞いたN響の方が、きっと技術的には上手いのでしょう。たとえばバリバリの現代曲とかやらせたら、N響の方が上手く演奏するのかも知れない。でも、こういう音楽、というのはつまりショスタコーヴィチやストラヴィンスキーあたりまでだったら、きっとこっちの方が上です。なぜそう思うかというと、この人達は自分がどういう音楽をやろうとしているか、多分きっちり入っているから。 前に、日本の合唱団について、この人達一人で自分のパート歌ったら多分歌になってない、という話を書いたと思いますが、それと同じで、N響のあの演奏会では、一人一人がどういう音楽をやるのか、その中で自分がどういう音を奏でるのか、という見取り図があるように見えなかった。だから、技術的には「合っている」のかも知れないけれど、音楽として何やりたいのか分からなかった。 このオケは、何をやろうとしているのか、分かるのですよ。薔薇の騎士組曲なんか、決して綺麗に揃ってはいない。でも、何をやろうとしているのか、ちゃんとわかる。だから、音楽として楽しいのです。それがあるから、R.シュトラウスの歌曲がとても面白かった。歌唱だけじゃないんですよ。 指揮者は若手らしいですが、勿論悪くないのでしょう。 他を引き合いに出して褒めてしまうというのはちょっと失礼ではあるんですけどね。ただ、先週のそれからするととても良かったのですよ。本当に。まぁ、だからといって、次ミュンヘンによる機会があったとして、Staatsoperを振ってまで行くかと言われると、多分それはないんだろうなとは思うんですが。でも、本当に楽しかったですよ。
2026年05月01日
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