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本櫓丁(もとやぐらちょう)昭和45年の住居表示で消えた町名「本櫓丁」は、晩翠通(細横丁)を境に、西側(立町)と東側(国分町)に分かれている。ざっくり言うと、東側には仙台の歓楽街「国分町」があり、西側にはラブホテル街の雰囲気が漂う。「《本櫓丁》通り」の標柱は晩翠通の西側(立町側)に建っていた。標柱の近くにデリヘルの送迎と思しき車が何台か停まっていたので、車のナンバーとかドライバーさんが写り込まないように写真を撮るのがちょっと大変だったけど、声をかけられたりすることもなく無事終了。とはいえ、今はラブホテルが目立つ立町側も、かつては料亭の街だったようで、歩いてみると確かにその雰囲気は感じられた。「割烹 天ぷら 三太郎」「割烹大多安」仙台市のHPには、このあたりが料亭の多い町になったのは明治以降、と書かれている。「藩政時代に国分町との角に火見櫓があったので櫓町と呼んだが、その後定禅寺通(北櫓丁)、元鍛冶丁(中櫓丁)にも櫓が建ったので本櫓丁と称した。(中略)この櫓は元文三年(1738)勾当台に移った。元は侍丁であったが、一部には職人も住み、明治以降は料亭の多い町となった。」(仙台市HP「道路の通称として活用する歴史的町名の由来」より)本櫓丁は、昭和45年2月1日の住居表示で、国分町二丁目と立町のそれぞれ一部になっている。〔仙台市「歴史的町名復活検討委員会報告書(平成21年1月)」より〕夜の飲食店が並ぶ東側(国分町側)にも、芭蕉園という歴史を感じさせるお茶屋さんがあった。元禄元年(1688)の創業とのこと。本櫓丁の歴史を誇りに思う心が、どの店構えからも伝わってきた。かつての本櫓丁は赤いラインのあたり
June 29, 2024
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日曜日の朝、映画館に出かけて「ディア・ファミリー」を観た。主演は大泉洋さん。観ようと思ったきっかけも大泉洋さん。だけど、出演者全員がまるごと主演のような、平たく言うと「ワンチーム」。スクリーン上の一人ひとりから作品への強烈な思い入れがビシビシと伝わってくる映画だった。とにかく最初から最後まで、ただひたすら胸を打たれ続けて、何度も何度も涙腺が緩くなった。なかでも特筆したいのは、幼少期を演じた子役の皆さん。名前がわかるのは坪井佳美(よしみ)ちゃんを演じた鈴木結和(ゆうわ)ちゃんだけだけど、坪井三姉妹も、病院で佳美ちゃんと同室になった女の子も、誰もが一所懸命で、可愛くて、愛おしくて、素敵だった。結和ちゃんの静かでしっかり者の雰囲気は、福本莉子さんに丸ごと引き継がれていて、映画の中の坪井佳美さんは、ちっちゃい頃から最期まで、しっかりとひとりの佳美さんだった。大泉洋が演じた坪井宣政のモデルとなった社長さんは、きっとものすごく真っすぐで、相当強引で、強気な人だったのだろうな、と思った。世の中の役に立つものは、それを切実に、そして愚直に追い求め続けている人からしか生まれてこない。いくら頭が良くても、アドバイザーとかコンサルタントとか、そういう立ち位置からはリスクを取らない耳障りが良いだけの言葉しか出てこない。わかりきってることだけど、そんなことも改めて感じた。私事ながら、街なかで急に心臓が止まって救急車で運ばれた6年前の記憶が、映画を観ながらリアルに蘇った。搬送先で受けた手術は「経皮的冠動脈ステント留置術」。手首から入れたカテーテルで胸の冠動脈までステントを運び、そのステントをバルーンで膨らませて、詰まった血管を広げる手術だった。映画に出てくるカテーテルには鼓動があったので別ものだと思うけど、スクリーンから「心臓」、「カテーテル」、「バルーン」など、そういう言葉が聞こえる度に、当時、全力で僕の命を救ってくれた、たくさんの皆さんの姿が浮かんできた。その姿がまた、劇中の人たちの真摯な姿と重なって、さらに胸が熱くなった。封切り3日目の日曜の朝。通常料金の日だったせいか、映画館はそれほど混んでいなかった。ゆったり観られたのは良かったけれど、この映画はもっともっとたくさんの人に観てほしい。ものすごくそう思う映画だった。
June 22, 2024
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南カリフォルニアにあるサン・クレメンテ(San Clemente)という海沿いの小さな町に、3日間滞在した。青い空、青い海、スペインを思わせる白い壁と赤い屋根の家並み。旅行パンフで目にするカリフォルニアのイメージ写真そのままの景色に360°囲まれながら、穏やかな時間を過ごした。サン・クレメンテはロサンゼルスとサンディエゴの間にあって、どちらからもすごく遠いわけではない。だけど、毎日の通勤となると結構遠い。という立地なので、サン・クレメンテは退職後に暮らす町としてとても人気があるらしい。確かに、海岸や住宅地を散歩している人も、カフェやレストランで食事や会話を楽しんでいる人たちも、比較的年齢層が高めに見えた。そして白人の割合がかなり高い印象も受けた。さて…とここで思った。リタイヤ後に住みたい町、と言っても、今まで暮らしたことのない土地で暮らすことにアメリカの高齢者は不安を感じないのだろうか…?知ってる人のいない土地で暮らすことに抵抗はないのだろうか…?滞在中、この疑問を直接誰かにぶつけたりはしなかったけど、何気ない会話の中から一つの答えらしきものは見えてきた。それは、教会の存在。初めての土地に行っても、教会に行けば「仲間」がいて笑顔で迎え入れてくれる。日曜礼拝や聖書の勉強会など、教会の活動に顔を出していれば、次第に知り合いも増えてくる。だからアメリカの多くの人たちは、新しい土地に移り住むことにそれほど不安を感じないのではないか。ざっくりとそんな推測をしてみた。宗教は、人を孤立や孤独から守るためにはありがたいシステムなのかもしれない、という推測もしてみた。僕は教会には通っていない。でも、いろいろな町で暮らしてみたい願望はある。さて、どうしよう。。。
June 15, 2024
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2024年5月31日、東京国際フォーラムで「中島みゆきコンサート 歌会 Vol.1」を聴いた。(開演前のホワイエ。軽い飲食とか、みゆきさんへの「お便り」書きとか、皆さんそんな感じで過ごしていた)3月8日に中島みゆきさんの公式HPから5/8と5/31のコンサートに応募して、3月23日に「5/31公演に当選!」のメールが届いた。最終日の公演に当選…!!信じられなくてメールを何回か読み返したあと、じわじわと感激した。5月22日にチケット発券開始のメールが届き、ファミリーマートでチケットを受け取った。チケットに書かれていた僕の座席は、5千人収容の東京国際フォーラムホールAの2階席の最後列だった。2階席の最後列…!!!微妙に信じたくなくて、チケットを何回か見返したあとスポーツ観戦用の双眼鏡を探し出し、チケットと一緒の場所に置いた。だけど、東京国際フォーラムの2階席最後列は決して悪い席ではなかった。オペラグラスがあるに越したことはないが、強めの傾斜のある2階席からはステージが良く見渡せて、音もきれいに聴こえたし、ステージとの一体感もしっかりと感じられた。(コンサート会場「東京国際フォーラム ホールA」)この日、みゆきさんは、アンコール2曲を含め、19曲を歌ってくれた。長いツアーの最終日だったためだろうか、冒頭の2〜3曲、声が少し荒れていたが、本人もトークの中で冗談交じりに声の調子に触れたあと、すっかり復活。迫力の演奏とともに中島みゆきさんの力強い歌声が満席のホールに響いた。付け加えると、少し荒れ気味のみゆきさんの歌声にはソウルシンガーのような迫力があって、僕は痺れながら聴いていた。ステージの終盤、「先患い」(さきわずらい)という言い方を、みゆきさんはしたと思う。「先のことを心配して、今、この瞬間を疎かにしてしまうところが私(みゆきさん)にはあるけれど、明日何が起きるかなんて誰にもわからない。こうして皆さんの前に立って、歌っている《今》に心から感謝したい。」めちゃくちゃな超訳で申し訳ないけど、そんな趣旨のことを、みゆきさんは最後に話してくれた。コロナ禍の時、「音楽は不要不急」と決めつけられ、長い間ステージで歌うことができず、その間に長年頼りにしていたバンドマスターが亡くなってしまい、悩んだ末に4年ぶりのステージに立ったみゆきさん。力強い歌声も、歌詞も、そして相変わらず軽妙なトークも、どれもこれもググッと心に響いてきた。僕の人生、これまでその都度頑張ってきたつもりだけど、結果として平凡の一語に尽きる。それでも、みゆきさんはステージの上から暖かくて柔らかい光を当ててくれているように思えた。ほんわかと嬉しくて、有楽町駅前のでっかいホールの片隅で、中島みゆきさんから一生分のご褒美をもらえた気持ちになった。「みゆきさん最高。ありがとう」そう思いながら、ほぼ外国語しか聞こえてこないコロナ禍後の夜の銀座を、地下鉄駅までゆっくり歩いた。【当日のセットリスト】1.はじめまして2.歌うことが許されなければ3.倶に(ともに)4.病院童5.銀の龍の背に乗って6.店の名はライフ7.LADY JANE8.愛だけを残せ9.ミラージュ・ホテル10.百九番目の除夜の鐘11.紅い河12.命のリレー13.リトル・トーキョー14.慕情15.体温16.ひまわり“SUNWARD”17.心音18.野うさぎのように19.地上の星(終演後のエントランス)
June 8, 2024
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祖母の母校、北海道庁立札幌高校女学校の跡地に行ってみた。所在地は札幌市中央区北2条西11丁目。今は札幌市立大通高校になっていて、その敷地の一角に「北海道庁立札幌高等女学校」の碑があった。母によれば、祖母は南1条西2丁目、今の丸井今井大通館の場所にあった自宅から女学校まで、人力車に乗って通っていたらしい。「歩いてもすぐなのに」と母が言う通り、道のりにして1.7キロ。「すぐ」ではないにしても歩いて通える範囲ではある。『僕のおばあちゃんは、もしかすると良いところのお嬢さんだったのかな』と思った。そして、碑の隣に建つ説明板には次のように書かれていた。(抜粋)・北海道庁立札幌高等女学校は明治三十五年本道女子中等教育の嚆矢としてこの地に創設された・高潔・清楚・温雅・堅忍の校風に育てられた有為の人材は校庭の楡の大樹を母校の象徴・心の故郷としつつ家庭に社会に多大な貢献をなした(※嚆矢はコウシと読み、「ものごとの始まり」の意だそうです。)「家庭に社会に多大な貢献をなした」という書きっぷりに、戦前の教育思想っぽい雰囲気が感じられて面白い。おそらく明治時代に作られた北海道唯一の女学校には、全道から優秀な女学生が集まってきて、良妻賢母になるための教育を受けていたのだろうと思う。『いつもニコニコしていた優しいおばあちゃんは、もしかすると勉強がよくできる女の子だったのかな』とも思った。母に聞いても、おじさんに聞いても、祖母は自分のことを余り話さなかったそうで、実際のところはわからない。碑の建つ大通高校の敷地の東側には北海道大学の植物園が広がり、南側には国の合同庁舎や裁判所が並んでいる。昔から大通公園の北側は、賑やかな「すすきの」がある南側に比べると静かなエリアだったようだ。
June 1, 2024
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