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「将来のこと考えてる?」って聞かれるんだけれど、何も考えてないと言うか、考えられないまったく想像がつかない…こんなことを言うと、何も考えずにただダラダラと生きているように思われるかもしれないが、決してそんなことはないやってみたいこと、やりたいことはあって、それを目標に頑張っているけれども、それは割りと目先の話であって、しかもそれらは自分の人生において指針となるものではないので、将来のこととなると疑問符が残る将来って何だ!?人生設計?自分の終着点?皆は一体どこまで自分の人生というものを見据えているのだろう正直言って、自分はあまり先を見つめていない一年はおろか、一ヶ月、いや一週間先のことすら考えられないそんな先のこと考えてどうするんだ?って感じ明日は明日の風が吹く…今日という日でさえ、何が起こるか分からないのに、考えるだけ無駄なような気がする考えたところで、自分の頭のなかには何も生まれないし…一日一日を大事に、精一杯生き抜いたほうがいい楽観的ではあるけれども、決して自分の将来は楽観していないこんなご時勢だから、楽な生活ではないだろうねでも、人生なるようにしかならないから…とりあえず今日を生きるべし!
2010年01月23日
生きていると、ほんと色々なことあるね平凡な人生を送っている自分ですら、そう思うよ喜怒哀楽に彩られた日々笑ったり…楽しんだり…そんな日々が毎日送れたら、どれだけ幸せだろうけれども、そうはいかないのが人生というもの哀しかったり…辛かったり…悩み、苦しむ生きていくうえでは到底避けられないきっと、これらは必然的なものなのだと思う試練というのかな?それらを乗り越えたときには、たとえ目には見えなくとも何かを得るだろうし、人としても生長する色々な出来事すべてをひっくるめて、楽しむぐらいの気持ちを持たないといけないのかもしれない人生を歩むこと日々を生きること簡単なようだけれど、実はものすごく難しいなぜなら、正しい答えなどそこには無いから…【迷ったらダメなんだな。 人生の答えなんて、考えたって分かるものじゃない。 ただ、そのときそのときを、 ぎりぎり一杯生きている奴だけにその答えは見えてくるんじゃないだろうか】(作家 藤本義一氏の言葉より)
2009年12月16日
陽は昇れば、また沈む花は咲けば、いつかは散る晴れの日もあれば、嵐の日もある何事もいいことばかりではない当然のことながら、人生も一筋縄ではいかない楽しいこともあれば、辛いこともある希望に満ちるときもあれば、絶望に打ちひしがれるときもある【思った通りの人生ではなかった。しかし、よかったとなら言える人生だったかもしれない】(アルセーヌ・メルセデス・ヒロコの言葉より)夢に破れ…夢を諦め…妥協し…自分というものを押し殺し…決して思った通りの人生を歩んではいないけれども、その人生のなかで、良かったと言えるものにすることは出来るはず生きているとほんと色々なことがある今までもたくさんあった紆余曲折、大きな壁にぶち当たったとき、それが必ずしも正しい選択だったとは言えずとも、その都度乗り越えてきたこれからもきっと、たくさんあるはずある程度の歳を重ねると、将来には明るい希望というよりも、不安や焦燥といったものを強く感じる自分の未来など知る由もないが、どんなことがあろうとも与えられた命を全うすることが自分の使命に違いない我が人生後悔は山ほどあれど、これまで自分なりに生きてきた喜怒哀楽に彩られた数々の思い出は大切な宝物これからも、よかったと言えるような人生を送れるよう生きていきたい
2009年11月07日
町を見渡すと、橙色に熟れた柿が生っている光景を目にするようになったそれを見て、自分は不思議に思うことがあるそれは、なぜそれらを収穫しないのかということ明らかに熟れているであろう柿なのに、採る事もせずに放置しているのが解せないのだ誰にも見向きもされない柿枝から離れ落果し、無残に果てるものもあれば、鳥などに摘まれたのか枝にぶら下がりながら果肉を曝け出しているものもある折角生ったものが勿体無いかと言って、自分がそれに手を伸ばしたら泥棒だよね?ひょっとして渋柿とか!?熟れた柿を見かけるたびに、そんなことを思っている柿は、以前は、ご近所の方からよくお裾分けで頂いていたそのお宅は家をリフォームする際に、立派だった柿の樹を伐採してしまい、それ以来自分の口に柿が入ることはめっきり減った今、柿は旬を迎えているので、比較的手頃な価格で手に入ることができるけれども自分としては、お金を出してまで柿を食べようとは思わない決して今まで貰っていたから、それに狎れてしまっているというわけではない「美味しい!」と思う柿に今まで出合ったことがないから、あえて食べようとは思わないのかもしれない
2009年10月24日
以前から遅刻が多いスタッフが居る無断欠勤もしばしば勤務態度も決して真面目とはいえないので、解雇する話が度々持ち上がるものの、人手不足という現状もあり、幾度となく立ち消えになっていたそんな折、スタッフは今月はじめに無断欠勤をした“さすがに今回は解雇するだろう…”そう自分は睨んでいたしかし、社長の答えはまたしてもNO!「人が居ないから」という事を理由に、見て見ぬフリを押し通そうとした呆れた…遅刻を繰り返すスタッフにそして、決断をしない社長に遅刻を繰り返すスタッフには、これまでにも再三注意をしているしかし、まったく応えていない様子二十代も半ばだというのに、社会人としての自覚はないのだろうか?不思議でしかたないこの状況のなか、なにか解決策はあるのだろうか?そんな時、自分のなかで悪の声が囁いた“もう一度無断欠勤をしたら、絶対クビになる筈”別に仕掛けるわけでも、仕向けるわけでもないただ、そう思っただけ醜い心の持ち主かもしれないけれど、今の自分はそんなことを思っていたしかし、自分のその思いは恐ろしいことに現実のものとなってしまったつい先日無断欠勤したばかりだというのに、また今日も無断欠勤したのであるそしてそのスタッフは、社長に呼ばれ、解雇されることが決まったいくら自分が思い描いた展開を迎えたとはいえ、やはり現実の話となると、気持ちがいいものではないし、どこか後ろめたさのようなものを感じていた「願いは通じる」と言うが、自分の思いが図らずしも通じたのか?それとも、遅かれ早かれ、スタッフはこういう運命にあったのだろうか?それぞれの思惑が交錯した結果に迎えた結末それが最善の解答だったのかどうか、自分には知る由もない【人生には二つの悲劇がある。一つは心の願いが達せられないこと。もう一つはそれが達せられること】(アイルランドの劇作家 バーナード・ショーの言葉より)
2009年10月09日
昭和××年、9月9日23時過ぎ一人の男の子がこの世に誕生した当初は9月7日が出産予定日であったが、なかなか出てこず、帝王切開により出産初産ということもあり、出産はかなり大変だったそうこれは母から聞いた、自分が生まれたときのエピソード男は妊娠・出産を経験することは不可能なので、陣痛・出産の苦しみや痛みというものは知る由もないのだが、それは想像を絶するものだというそんな話を聞くと、女性の強さ・母の偉大さを改めて思いしらされる自分のお腹を痛めての出産まさしく命懸けそう考えると、自分の誕生日は、産んでくれた母に対して感謝する日であるべきものなのかもしれない産んでくれて、そして育ててくれて、ありがとう!!
2009年09月09日
今日は母の日日頃の感謝の気持ちを伝える日母には、本当に感謝している自分が幼い頃に両親は離婚し、母は女手ひとつで家庭を守ってきた反抗期のときには母を泣かせたこともあったし、数々の迷惑をかけてきたそれなのに、よく育ててくれたと思うそんな苦労しっぱなしの母も、去年還暦を迎えた最近の母を見ていると、ほんと年老いたな…と思う60歳といえばそれなりの歳だが、それでも今までがシャキシャキしていた母だけに、弱々しい姿を見ると胸が痛む遺産相続問題など、色々と気苦労が耐えなかったから、急激に老け込んでしまったのだろうそんな母の姿を見ていると、自分が守ってやるしかない!と痛感する親孝行なんて綺麗事を言うつもりはないが、今まで苦労してきた分、第一線からリタイアした今は、少しでも楽しく暮らしてもらえたらと、切に思うのである母の日ということで、プレゼントしたのは、ごくごく定番のカーネーションの鉢植え自分は花屋に勤めているから、花を贈っても特別な感情は沸かないみたい売れ残ってしまったカーネーションの鉢をいくつか持って帰っていくんだけれど、その鉢、近所の人に配っているしねそれから、仕事終わりに寄り道したケーキ屋で買った、母の日らしいケーキ去年の母の日もお世話になったのだが、御茶ノ水にある『ノアパパ スウィーツ』というお店で売られている“スペシャルカーネーション”というケーキこのケーキは、いかにも母の日に相応しい、カーネーションの花が模られているのだ去年はピンクのカーネーションだけのシンプルなものだったけれど、今年はデザインが変わっていたちょっとだけゴージャスな感じになっているでもなんか、心なしかケーキが小さくなったみたい価格も去年は2700円だったのに、今年は2900円になっていたし…カーネーションは、苺のチョコレートで出来ているほんと芸術的センスが窺える一品でもね、このケーキ綺麗なんだけれど、切り分けるとカーネーションのチョコがボロボロ崩れて汚くなっちゃうんだよねなので、あっと言う間に無残なシルエットにお味は変わらずの美味さでしたさてさて、花にケーキと、日頃の感謝の気持ちを伝えるにはこれだけで十分だとは思ったのだが、今年の母の日はもう一つ用意した母がとっても好きなものそれは、6月に日本橋浜町にある明治座で公演される『梅沢武生劇団・梅沢富美男・前川清特別公演』の舞台のチケット 母は前川清氏のファンなのであるこの舞台は、毎年のように明治座で公演が行われていて、その都度母を誘って観劇している今年も公演を知らせる葉書が自宅に届いた際、母は「毎年見ているから…」と言いつつも、内心では楽しみにしていることを知っているので、その期待に応えようと用意したのであるとはいえ、人気公演のようで、既に売切れてしまっている回も数多くあり、自分のスケジュールとの兼ね合いも考えながらのチケット確保は難しかったどうせなら、良い席で見させてあげたい!そう思っていると、幸運にも前から2列目でしかも舞台中央の席のチケットを確保することができたそのチケットを渡すと母は、「間近で前川清を見ることができる」と、とても喜んでいた今から1ヵ月後の公演が楽しみだってオカン、ほんと感謝してるよ!母の喜ぶ顔が見れるだけで、息子の自分は幸せです
2009年05月10日
スタッフの一人が無断欠勤をした携帯電話を鳴らしても、一向に連絡がとれない聞くところによると、昨日スタッフの仲間内で飲みに行ったとのこと要は、昨晩深酒をして起きれず、仕事に来ないのだ当てにすることもできず、結局自分が仕事をカバーすることで、なんとか事なきを得る連絡がついたのは、出勤時間から2時間あまり過ぎた頃だったいかにも寝ぼけた声で、「今起きました…」と、受話器から声が洩れてきたいい歳した大人が何をしているのだろう呆れてしまった呆れすぎて、怒ることも忘れた返す言葉ですら見つからない自分はお酒を飲まない別に美味しいと思わないからだ確かに飲んで騒いでいるときは楽しいでも自分は、すぐに記憶が無くなってしまうあと、二日酔いはほんとキツいひとときの快楽に浸れたとしても、その後には辛い現実が待っているお酒に関していえば、楽しいことよりも、辛いことが多いそれに、自分はお酒には何も求めていないことが判っただから飲まないそんな自分だから、理性を失うほどお酒を飲む人の気がしれないつい先日も、人気アイドルグループの一人が、酒に酔い、全裸になって深夜の公園で騒いでいたということで、公然わいせつ罪で現行犯逮捕されたという報道が世間を大いに騒がせたばかりお酒を飲むことはいいと思う憂さ晴らしに、たまには酔いたい夜もあるだろうけれども、限度っていうものがある我を忘れるほどまで、お酒を飲んでしまうだなんて、一体そこには何が潜んでいるのだろうか?お酒を飲まない自分としては分らないし、また理解もできない“酒は飲んでも呑まれるな”そのまんま楽しむのはいいけれど、人様に迷惑をかけちゃダメでしょ深酒して欠勤した彼「どうもすいませんでした」と電話口で謝っていたけれど、朝が早くても皆きちんときているのに、飲みすぎて起きれなかった…なんてシャレにもならないとにかく同じ過ちは繰り返さないことを願いたい
2009年04月26日
自分の元に、定額給付金の申請書兼請求書が届いた定額給付金申請書に必要事項を記入し、受給者本人であることを確認できる証明書と通帳のコピーを貼り付けて、投函するそうすると、定額給付金の1万2千円が口座へ振り込まれるとのこと申請の状況によっては、振込みまで1ヶ月程度かかる場合もあるんだとかまあ、気長に待ちますところで、そもそもこの「定額給付金」って何なんだろ?“景気後退下での住民の不安に対処するため、住民への生活支援を行うことを目的とし、あわせて、住民に広く給付することにより、地域の経済対策に資するものです”(総務省ホームページより)給付額は、1人につき1万2千円ただし、基準日(平成21年2月1日)において65歳以上、及び18歳以下の者は2万円と言うことで、自分は1万2千円をいただけるというわけこの定額給付金を含む法案の成立が可決されるにいたっては、だいぶ賛否両論があり、疑問視されるところもあったよう自分は政治経済には疎いし興味も無いので、この定額給付金を国民が受給することに関して、背景に潜む弊害など、様々な問題点は判りかねるが、自分の率直な意見を述べるならば、お金を頂けるというのはありがたい政治家の方たちが国会で繰り広げていることって、国民の立場になって物事を考えていないような気がして、なんか別の次元の出来事のようにしか思わなかっただから、こうして定額給付金という目に見えた形を現実にした今、ちょっとだけ身近に政治を感じることができた送られてきた定額給付金申請の手引きのなかに、“給付された定額給付金は、地域経済の活性化のため、できる限り住んでいる区内でお使いいただけますようお願いします”と、書いてあった果たして、定額給付金が成された本来の目的が達せられるのかどうかこのような形をとって現金を撒いたことが正しいのかそのことは知る由もないが、自分がこの先生きていくうえで、年金問題など様々な心配事があることは確か政治家の方々には、目先のことに囚われず、国民の目線になって、安心して暮らせていけるような世の中の仕組みを作っていってほしいものである
2009年03月25日
ふと、虚しくなることがあるわけもなく…ふと、せつなくなることがある息苦しいほどに…ふと、寂しくなることがある一人は慣れているはずなのに…ふと、あの日に帰りたいと思うことがある叶うはずもないのに…ふと、他人の幸せが羨ましく、そして妬ましく思うことがあるそんな時は「自分も幸せ」と、無意味に張り合ってみる…ふと、自分は今のままでいいのだろうか?と思う自問自答したところで、答えなんか出せないのに…空からは眩しいほどの太陽の光が、燦燦と降り注いでいるしかし、自分の心には暗い影が差していたとくに理由などない天気に晴れの日があれば、嵐の日もあるように、自分の心情も日によって変わるただそれだけのこと今日は、ちょっと感傷に浸りたいのだろう刹那的な哀しみが、まるで波のように引いては打ち寄せてくる大海原を前にして、ひとり呆然と佇んでいる感じ自分に去来する不安や哀しみは、今静かにたゆらっています【少しの悲しみもない純粋な幸福なんて、めったにあるものではない】(ドイツの詩人・ハイネの言葉より)
2009年03月18日
自分のことを慕ってくれている年下の子から、「彼女が妊娠したんです」と、報告を受けた自分は素直に、祝福の言葉を述べたしかし彼は、「でも堕ろさせます」と、顔色一つ変えることなく、まるで他人事のように言った訳を聞くと、まだ遊び足りないから子供は要らないのだという子供の為に人生を費やすのではなく、今は自分の自由に生きたいというのだ彼は二十代半ばと、まだ若いから、その気持ちが解らない訳でもないが、それよりも、自分の子供を授かったという喜びのほうが遥かに喜ばしい事だと自分は思うのだが、彼の場合はそうでもないようだった何故ならば、子供を堕ろさせるのは、これで3度目だというのだしかも相手は同じ女性だと言うだから、中絶させることに対して、特別な感情は無いのだと彼はキッパリと言ったそれを聞いて、自分は思わず閉口してしまった…己の欲の為に行為を重ね、その結果授かった命を、邪魔だからという理由だけで葬り去ってしまうこんな我が儘な行為が許されるのだろうか?話を聞いていて、嫌悪感からくる激しい吐き気を自分は覚えた彼とこの話題を続けること自体苦痛だったが、この事実をみすみす見逃すことも嫌だったので、話を続けた二度も中絶をした彼女は、今回のことについてどう思っているのか訊ねると、「産みたい」と言っているそうそりゃそうだよ愛する人の子供を産みたいと思うのは、女性なら普通の考えに決まってるそれにしても、このカップルは、ある意味どっちもどっちだね「子供は要らない」と言っている男なんだから、また妊娠をしたら同じ答えが返ってくるに決まっている筈それなのに、また同じ悲劇が繰り返されようとしているいくらでも避妊する方法はある筈なのに、なぜ同じ過ちを繰り返すのだろうか?これは、二人だけの問題なんかじゃない命から命へと受け継がれていく生命の連鎖、そして、新しく誕生した生命をも冒涜しているのだ結局のところ、彼は、このような話題を自分に切り出してきて、どうしたかったのだろう自分の行為を正当化したかったのだろうか?彼は彼なりに思い悩んでいて、その胸の内の苦しみを聞いて欲しかったのだろうか?子供がいるわけでもなく、結婚もしていない自分が、愛や生命の尊さを聞かせたところで、彼の胸にどれだけ響いているか知る由もないが、自分の思いはストレートにぶつけた彼女は今、妊娠6週目だというまだ答えを焦って出す必要はない話を終えた彼は、「もう少しじっくりと考えてみます」とだけ言った中絶するか産むか、答えを出すのは結局は2人が決めることどのような結果になろうとも、これ以上は自分が口出しすべきではないそれが彼らの愛の形なのだから
2009年03月07日
喜び、悲しみ、怒り、期待、不安…日々を生きていくなかでは、様々な感情を抱いているそんななか、今日の自分は、憎しみという感情を抱いたある人に裏切られ、騙されたのであるそれは、自分の平穏な生活を脅かすほどの許されまじき出来事だったなぜそのような行為に及んだのか?理由は、自分の思うように生きたかったからそんな自分勝手な考えを持つ仲間に裏切られ、自分は踏み台にされ、踏みにじられたのである腹が立って、腹が立って仕方ない止めどなく湧き上がってくる怒りと悲しみが混じった感情は、あっという間に溢れかえり、頭のてっぺんから足のつま先まで身体全体を支配したなんとかしてヤツを陥れる手段はないものか?と、不埒な考えが頭のなかをグルグルと駆け巡るはじめは、あまりの不条理な出来事を受け止めなければならなかったので、なかなか整理がつかず、感情をコントロールするのが難しかっただが、時間が立つにつれ、考え方が変わってきた何かが自分のなかで弾けた“これで縁が切れると思えば、いいか!”ムカつくことは事実だし、やられっぱなしでこのままにするのは納得いかないが、その事にずっと囚われてても何もならないイライラ・クヨクヨしていても仕方ないし、第一憎しみという歪んだ感情を抱いている自分がイヤになってくるそれなら、ここは割り切って、気分を入れ替えたほうがいい前へ進まなければ!もうヤツとは二度と会うことはないだろうけれど、見返すぐらいの気持ちでいないと!オォッ!なんだか力が湧いてきた!【憎しみは人間を生かし、力を与える】(映画「ベン・ハー」の台詞より)ほんと、その通りだね憎しみというエネルギーが、自分に生きる力を与えてくれた…と、ポジティブで前向きな気持ちではいるけれど、自分は強い人間でもなければ、優しい心の持ち主でもない“アイツに罰が当たりますように…”せめて、胸の内の片隅でそう思うぐらいは、許してください
2009年02月05日
自分の日常を綴っただけの拙いブログにも、ありがたいことに丁寧にコメントを寄せてくださる方々がいらっしゃる言葉を交わしたり、交流する為に相手の方のブログを拝見させていただいていると、顔が見えない者同士ではあるが、不思議と親近感が沸いてくるネット上だけで繋がっている関係は、希薄なような気もするが、自分は、これはこれで一種の関係を築けていると思うし、この場を通じて皆さんと交流できることを嬉しく思っている世の中には、ほんと沢山のブログが溢れている自分が生活しているなかで、知り合う機会が無い世代の方や、日本各地の方と気軽に交流が持てるので、限られた時間のなかではあるが、人様のブログを拝見しては情報を得たり、知識を得ているそこでは、自分が感銘したり同調したりすると、コメントを寄せているのだが、その行為に関して、自分のなかで些か疑問を持ち始めていたというのも、自分のコメントに対して何の反応も返ってこないからだ自分の場合で言わせてもらうと、初めてコメントを下さった方に関しては、必ず相手の方のブログへと伺い、その方にお返事を書くこれが、自分の中でひとつの礼儀だと思っているしかしながら、色々な所にコメントを寄せているにもかかわらず、一向に自分のところへは何の音沙汰も無いのである別に、相手に何かを望んでいるわけではない人それぞれブログに対してスタンスがあるのかもしれないから、礼儀だのルールだのと押し付ける気はさらさらないが、自分から声を掛けているのに、それに対して相手から何の反応も無いというのは、なんだか無視されているようで気分がいいものではないそれがあまりにも頻繁なので、まるで自分が否定されているような気がしてならないのだ確立からしたら、9割5分とかなり高い確率なのである相手に対して返事を書かない人なのかブログで交流する気がないのか自分に返事を書く価値がないのかたまたまそういう人に当たってしまうのか様々な要因が絡んでいるのだろうが、ブログを通じて浅く広く色々な方と交流を持ちたいと考えている自分としては、その仕打ちはあまりにも堪える「言霊」という言葉がある言葉に宿っていると信じられていた不思議な力のことだが、本当に言葉には力は宿っていると思う優しい言葉を掛けられれば心は和むし、汚い言葉を浴びせられれば心は荒んだり、痛む発言した人の魂が言葉に乗り移っているのだなにも言葉だけではなく、文章にも魂は宿るのでないだろうかましてや、文章だけだと、感情が伺い知れないだけに、その言葉の持つ意味がストレートに伝わってくるブログを書いているときは、思うまま、感ずるがままに一言一句、自分の言葉で丁寧に書いているので、少なからずとも文章に魂は宿っていると思う言葉は吐き出してしまうと、その場その時だけのものになってしまうが、こうして文章として残しておくとなると、その時に抱いた感情で綴った自分の言葉のなかで、色褪せることなく言霊はそのままに息づくだから生半可な気持ちで言葉を残しているわけではないたとえ短い一文であっても、そのなかには言霊が宿っているのであるそれなのに、相手から何の音沙汰もないとなると、自分の言霊は行き場を失って彷徨っているような気がしてならない「訪問ありがとうございました」そんな杓子定規な言葉だけでも救われるのに、それすらもないだからね、なんだか自分の言霊が軽んじられているような気がしてならないそんな事言うのなら、他人様のブログにコメントなんて書かなければいい!と思うだろうけれど、自分は普段は知り合うことのできない様々な人たちと知り合いたいわけ現に、こうして今交流を持たせていただいている方々も、ブログにコメントを残したことがキッカケとなってご縁が続いているわけなのだから…“数撃ちゃ当たる”じゃないけれど、たくさん言霊を吐き出すしかないのかな?あぁ…今日もあっちこっちで、自分の言霊が居場所を失ってウヨウヨしている…
2009年01月18日
春と秋の彼岸には、必ず墓参りをしている母自分も誘われるのだが、彼岸の時期は仕事が忙しく、一緒に墓参りをすることはできないので、その時は、お墓に供える花を自分が用意して持っていってもらっている今年の正月三が日は、珍しくのんびりと過ごしていて、「折角だから一緒に墓参りに行きたい」と母が言い出したので、お供することにした今日は、母の実母の月命日なのだそうだ車を走らせること1時間弱のところに、先祖代々の墓はあるお正月だというのに、お墓参りに訪れている人が意外といることに驚かされた供えられている花も、松が入っていたりと、いかにも正月らしいそれに比べると、自分が用意した花は、大菊に小菊、カーネーションとあまり見栄えはしない今日の墓参りは急に言われたので、特別に花を準備することができず、あり合せの花で用意したのだお墓や周りを掃除して、花を供えたうん、きれいになったふと空を見上げると、今日も雲ひとつない青く澄んだ空が広がっていて、実に気持ちがいいだけど、風が強いからお線香に火が点きにくいや冷たい風、ライターの小さな炎、なかなか点火しないお線香…格闘すること数分、ようやく火がつき、お線香のほのかな香りが冬の風に揺らめいた今日お墓参りに訪れて、強く思ったことがあるそれは、命のつながりだ普段は一丁前に生きている自分だが、それもこれもご先祖様があっての、今の自分がいることを思い知らされる遥か遠い昔から脈々と受け継がれている命のつながり…そう考えると、なんだか壮大すぎて、自分が自分でないような気がして不思議でならない生きているということ生かされているということ言葉ではうまく言い表すことのできない、重く尊いものを感じずにはいられない静かに目を閉じ、感謝の意と、今年一年無事に過ごせるよう手を合わせた…
2009年01月03日
初詣に訪れる人が多いことで知られている浅草・浅草寺一昨年の元旦に訪れた時、想像を絶する初詣客の多さに、ただただ圧倒されたことを鮮明に覚えている去年は、正月に京都を訪れたので、祇園の八坂神社に初詣したのだが、今年はふたたび浅草寺へ初詣に行こうと考えていたしかし、人混みが苦手な自分としては、混雑していることを分かっていながら、みすみす初詣客に揉みくちゃにされることは避けたかったので、あえて時間をずらして、日が沈んでから訪れることにした冷え冷えとした夜を明るく照らす華やかなネオンがなんとも賑々しい浅草の街は、大勢の人で活気づいていた時間をずらしても初詣に来る人は多いのかな?と思いながら、浅草のシンボルでもある雷門のところまでくると、思ったよりは混雑していなかったので、浅草寺へと続く仲見世をのんびりと歩いたいかにも浅草らしい風景が広がっている仲見世の土産物屋を眺めながら、人形焼や揚げ饅頭といった美味しそうな匂いに誘惑されつつ、人の合間を縫うようにして、目指すは浅草寺へと突き進んだ厳かな空気が張り詰めている浅草寺の本堂心なしか、ちょっと緊張してきたさて、お願い事を…既に願い事は心に決めていたそれは、“健康で一年を過ごせますように”そりゃあ正直言うたら、自分にも欲があるから、お金だって欲しいし、素敵な恋愛だってしたいけれど、身体を壊してからというものの、何だかんだ言っても、結局は健康が一番だな…ってしみじみ思うという事で、今年一年、健康で過ごせるようお願いしたとはいえ、こればかりは神頼みでどうにかなるわけでもないので、自己管理はしっかりとしていきたい願い事は、同時に自分への戒めの言葉なのであった初詣の参拝を終えると、お御籤をひいた結果は“吉”吉とはいえ、なかなか手厳しいお言葉が並んでいる家内に災いが起こる、家庭の不和と、家にまつわる事柄が書かれていることが気掛かりだが、その戒めの言葉を肝に銘じて過ごしていきたいお御籤に書かれていたのだが、病気に関しては「長引くでしょう」との事なるほどね自分が患っている病気は、なかなか完治するようなものではないので、焦ってもしかたないという事を言っているのだろうはじめの頃は、なかなか好転しない診断結果に、焦りや苛立ちを覚えていたが、今では考え方を変え、病気とうまく付き合っていくようスタンスをとっているだから、お神籤で病気が長引くと書かれていても、自分はのんびりと構えたそれから、お御籤には色々なことが書かれていたのだが、願望…後々叶うでしょう失物…遅くなって見つかるでしょう待ち人…遅くに現れるでしょう結婚・付き合い…まあまよいですが、後にはもっと善くなるでしょうと、全てにおいて、“後々・遅くに”というキーワードが登場してくる元旦を家でゆっくり過ごして、今年はスロースタートを切ったのだが、2009年は、どうやらスローな滑り出しみたい後半息切れしないように、とりあえずマイペースで行きます!!
2009年01月02日
どうして、自己中心的に物事を考えるかな“思いやる”ってことが何で出来ないの?自分が気に食わないことがあれば不機嫌になる自分の思い通りにならなければ不満をたらす自分の考え方に反する者は皆敵一人で生きていくのであれば、それでもいいかもしれないでも、皆で仕事をしていくとなれば、そんなワンマンプレイは許されることではない社会の中で揉まれて生きていくうえでは、時には我慢や辛抱も必要なのだところが、うちのスタッフ達はそれができないんだなすぐ何かあれば不平不満に愚痴を溢すその輪が徐々に徐々に大きくなって、やがて大きな渦となり、その渦は周囲を巻き込んでいく不平不満が出るのは仕方ないことかもしれない自分も、今の職場の環境や現状に100%満足しているわけではなく、色々と思うところはあるスタッフらの苦言に改善の余地があるものなら自分も考えるが、しかしながら耳に入ってくることといえば、「あの人とはソリが合わない」だの、「そんな仕事はしたくない」といった、どれもこれも幼稚な理由ばかりほんと呆れる仕事をなんだと思っているんだろうね数々の不平不満は言霊となり、うようよと漂っていて、職場を不穏な雰囲気に染め上げていたその汚染された空気をたっぷりと吸い込んでしまったせいか、スタッフたちは歪んだ感情を胸に秘めているようだ最近では、いくつかの派閥に分かれ、暇さえあれば陰で悪口を吐いている誰かがちょっとでもミスを犯そうものなら、まるで鬼の首でも取ったかのごとく自分に報告してくる“そんなん一々自分に報告してこないで、自分たちで解決できないの!?”と、思うほど、自分の耳には醜く汚らわしい毒しか届いてこないのだでもね、キミたちは勘違いしているよちょっと冷静になって考えてごらん相手だけが悪いんじゃない自分自身も悪いんだよでも、今の彼らにはそのことが解かっていない“自分は正しい”そう思い込んでいるからこそ、相手を色眼鏡で見て、ちょっとでもヘマをしようもんなら一斉に叩く“人のふり見て、我がふり直せ”という言葉があるが、今の彼らには、自分自身を見つめなおすという面が欠如しているようだだからこそ、叩かれた人間も、叩いた人間を一方的に悪とみなし、そのことを同情してくれる仲間に告げるこうして標的となる悪者がまた1人誕生する悪のスパイラル悪が悪を招き、また新たな悪を呼ぶ…終わりが見えない輪廻が続くもし不平不満があるのなら、そのことを相手に直接言えば、何らかの解決策を見出せるかもしれないところがそれを彼らは決して相手には言わない心のどこかで、「言ったら嫌われる」「言っても無駄」と、そう自分のなかで勝手に解釈をつくり思っているから、面と向かって言わずに、陰口を叩くその繰り返しが、すれ違いを生み、不満を募らせ、やがてそれが悪の塊と化していく結局は自分で自分の首を絞めているだけなんだよね思ったことは、どんどん口に出して言うべきなんだよ勿論、そこには感情があってはいけないお互いが良い方向へ答えを模索していくための過程として、思ったことがあるのなら言葉をぶつけていけばいい自己中心的になるのではなく、相手の意見も聞き、互いが歩み寄って、互いを思いやることによって、解決策が見出されていくのだここは学校じゃない皆は子供ではない自分の好き嫌いで物事を選り好みして生きていけるほど世の中は甘くない色々な人、幾多の紆余曲折の局面と付き合っていかなくてはならないのだそれらのことを踏まえて考えれば、ただ陰でコソコソと悪口を言っていることが、いかに無駄なことか、そして何ひとつとして良い結果を生んでいないということに気づく筈であるしかし残念ながら、うちのスタッフたちはその事にまだ気づいていない今日も陰で、悪口を肴に盛り上がっているそうかと思えば、今さっきまで悪口を言っていた人物を相手に、ニコニコと平然とした顔で会話をするオマエら、なんやの?ここに居たら、人間不信になりそうやわッそれぞれの色々な思惑が、自分の身体にまとわりついてくるのを解かっていながらも、傍観者としてただ眺めていて、何もしない・何もできない自分も、結局は彼らと一緒で“同じ穴のムジナ”ってことだよね偉そうな事言えないか
2008年12月11日
一昨年の早春、祖父が他界した突然昏倒したかと思ったら、その日のうちに亡くなってしまったのであるその死はあまりにも呆気ないものだった亡くなった祖父当人も、唐突に訪れる自身の最期を予期していなかったのか、遺言状は残していなかったこのことが後々、サスペンスドラマ顔負けの骨肉の遺産相続争いに発展しようとは、親族一同思いもしなかったのである…祖父はお金持ちということではなかったが、多少の土地を持っていたそれが財産ということになるのだが、我が家は複雑な家庭環境にあり、物語の登場人物たちは一癖も二癖もある連中ばかり遺言状が無かったこともあり、遺産相続の分配に関しては、相続人全員の受諾が無ければならないのだが、皆が皆欲の皮を突っ張らせて強欲になるものだから、祖父が亡くなってから2年が経とうというのに、一向に解決の目処は立っておらず、現在も審議中であるそれでも、遺産分配のため、駅前の土地だけは処分することが決まったその駅前の土地には一軒の古びた蕎麦屋が建っている祖父が開店させた店だ親族経営ではあるが、他に2店舗店を構えるほどで、電話帳には一応本店と記されている店は母も手伝っていたので、自分も幼い頃はよく店に遊びに行っていた調理場に入っては、その当時は大好きだった“なると”を、周囲の目を盗んではつまみ食いしてたっけこれはお世辞でもなんでもないが、うちの店が出す蕎麦は結構美味しかった調理場の奥には大きな機械があり、粉から蕎麦を作っていたのである麺のつゆはかなり濃いめビックリするくらい、ほんと濃い!でも、そんな濃い口の味が自分は好きだったある日のことだが、とある俳優さんのインタビュー記事を目にする機会があったその俳優さんは、近くに住んでいて、数年前まで頻繁に蕎麦を食べにきてくれていた記事は、自分が住んでいる街を紹介する…といった内容だったのだが、そのなかで、うちの蕎麦屋のことが取り上げられていて、『つゆがすごく濃いけど、それが美味しい』と、語っていたのであるその記事を目にしたとき、ちょっとだけ嬉しくて、何度も何度も文章を繰り返し読んだものだそれにしても、皆、うちの蕎麦のつゆは濃いと思っていたんだね祖父が亡くなってからというものの、一度も暖簾が掲げられることはなかった店は、今月中に取り壊されることとなった今はただ、その時が来るのをじっと待ち受けているかのように、静まり返っているこうして店の前に立っていると、祖父が築き上げた歴史が散り、そして、あの濃~いつゆがもう二度と味わえないのかと思うと、寂しさとやるせなさがこみ上げてくるが、それらの思い出は、自分の記憶のなかにいつまでも生き続けることだろう
2008年09月03日
今日は母の誕生日いつもなら何かしら用意しておくのだが、今回にかぎっては、仕事の忙しさと暑さに感けて、すっかり忘れてしまっていたせめて、美味しいバースデーケーキでも用意しようと、仕事を終えると銀座へ急ぎ足でいくつか廻ってみたが、時間が遅めだったせいか、“コレダ!”と思わせるケーキが見つからない今日の東京は気温が30℃まで上がらず、いつもの日に比べたらしのぎやすいものの、銀座の街を駆けていると、うっすらと汗が浮かんでくる涼を求める意味で、銀座三越に入ったさすがは老舗の有名デパートなだけあって、地下の食品売り場は威勢ある賑わいをみせていた折りしも今日は、これから東京湾で花火大会があるせいか、数々のショップは、それを意識して気軽に食べられる弁当や、おつまみ感覚の食品などを多く取り扱っていて、花火見物に行くのであろう人たちが、それらを買い求めているそんな人ごみを掻き分けるようにして、自分はケーキを探していたしかし、ここでも自分のなかでピン!とくるケーキがみつからないあんまり遅くなってもいけないので、銀座三越の地下1階にある、7月末から9月初めまでの期間限定のショップ『岡山屋』でケーキを買うことにした白桃やマスカットといった岡山県を代表するフルーツを取り揃えているショップで、フルーツを使用したスイーツも取り揃えられているほんとうは、小さなケーキをいくつか買って、母に好きなものを選んでもらおうと思ったのだが、あいにくさほど種類を置いていなかったので、5号サイズのイチゴのケーキを購入シンプルなケーキなのだが、スライスしたイチゴをケーキの周りに配しているデザインが可愛かったので、これに決めたケーキを注文すると、店員の方に「お誕生日用ですか?」と訊かれたので、その旨を伝えると、ロウソクの本数を訊ねられたその問いかけに、「6本です」と答えながら、自分は、この店員さんは6歳の子供にバースデーケーキを買って帰るんだワ…と思っているに違いない!と勝手に想像していた残念だけど、それは違うんだな正解は、今日60歳になる母親のためのバースデーケーキなんだまさか、ロウソク60本ください!なんて言えないので、1本を10歳として、それで合計6本というわけ今日8月10日で、我が母は60歳を迎える60歳といえば還暦自分が子供の頃、還暦のお祝いを迎える人は、ものすごぉぉく年寄りに思えたのだが、こうして自分の母親がいざ還暦を迎えてみると、そんなに年寄り臭くないじゃん!と思うとはいえ、足腰が弱くなってきて、階段の昇り降りが難儀するようになった母の姿を見ると、やっぱり歳を取ったんだなぁ…と思い詰まされる実母を幼い頃に亡くし、後添いに虐げられながらの生活、縁あって結婚するものの夫に裏切られて離婚、それからというものの女手一つで3人の子供を育ててきた母ずーっと苦労してきた姿を間近で見てきただけに、母には“生きてきてよかった…”と思えるような人生を送ってもらいたいまた、そう思えるようにしてあげたいケーキはというと、生クリームの甘さがかなり控えめだったので、あまり洋菓子を口にしない母も喜んで食べてくれた「美味しいネ」そう言いながら、ケーキを食べる母を見て、いつまでも元気でいてもらいたい…と、切に願う息子であった
2008年08月10日
日々の出来事を綴ってきたこのブログも、始めてから今日で923日目…今書いているもので、丁度1000回目という節目を迎えた1000回かぁ改めて振り返ってみると、自画自賛になってしまうが、我ながら凄いなだって、1000ものことを書いたんだよ見たり感じたりしたこと、仕事のこと、時には感情のおもむくまま綴ったり、愚痴をこぼしたり、弱音を吐いたりと、まぁ一言で片付けてしまえば、くだらないことばかり書いてきたそれだけに、正直言って、沢山のことを綴ってきたわりには、何のことを書いてきたか殆ど覚えてないというのも、自分は記憶力がかなり欠けていると思うほかの人たちがどれほどかは判らないが、昔のことをあまり記憶していない自分のなかで何かスッポリと抜け落ちてしまっているかのように、記憶の線が途切れ途切れになっているのだまぁ大した人生を歩んできたわけではないので、記憶が欠落していても構わない思い返そうとしたところで、欠落しているものを思い出せるはずもないからだしかし、それはちょっと寂しいことなんじゃないかなぁ?と、ふと思った自分が歩んできた道が、波打ち際の砂の城のように、どんどんとかき消されていってしまうのであるそのことに、一抹の不安と侘しさを覚えた自分は、これからの人生はそんなことがないよう、日々何を思い、そして何を感じて生きてきたのか、忘れないために始めたのがこのブログいわば、自分にとってここは記憶の倉庫なのであるこれからも、一日一日の平凡で小さな出来事を綴り続けていくことだろうこれは、ある心理学の先生の話なのだが、人間が記憶する思い出には、6:3:1という比率があるそう6割が楽しい思い出、3割が辛い・悲しい思い出、残りの1割は普通の思い出とのことそこで、今まで生きてきたなかで楽しかったことを思い出してみた「………」すぐには思い出せないじゃあ、辛かったり、悲しかった思い出は?「………!」それなりに思い出せるなら、普通の思い出は?「………!」これも、それなりに思い出せるムムッ?自分のなかで良い記憶はどこへ行ってしまったのだろう!?楽しい思い出はある筈なのに、なかなか思い出せない普段、なかなか思い出すことなんてないから、きっと奥の方に仕舞われてしまったのかもしれない自分が言うのもなんだが、若かりし頃は、いろいろと辛いことが多かったもしかしたら、そんな辛い過去の出来事を思い出したくがないゆえに、記憶の扉が封じられ、昔のことが断片的にしか思い出せないのかもしれないでも、そんな人生を送ってきても、もう一度生まれ変われるとしたら、また同じ人生がいいと思う悪いこともあったが、良い事もあったそしてそれらの出来事を包み込むようにして、平凡な日常がたくさんあっただからこそ、自分のなかで悪い思い出だけが色濃く残ることなく、トータルで見たら、自分の人生も捨てたもんじゃないと思えるのだろうこれから先、良い事も待っていれば、辛いこと、苦しいことも沢山待ち構えているはずでも、それらの未来も自分を過ぎ去ってしまえば、過去のものとなるそして、6:3:1の記憶の比率により、辛い記憶は、自分のなかで忘却の彼方へと葬られるのだろう人間の記憶って、よくできてる…【過去は常に、今から見れば実際の過去より美しく思える。過去が楽しいのは、過去が今ここにないからに過ぎない】(ピーター・フィンリー・ダン氏の言葉より)
2008年07月31日
“不平不満を言うよりも、進んで灯りをつけましょう”これ、昔放送していた『心のともしび』という番組のオープニングのセリフ今の自分に、ものすごく沁みこんでいる言葉不満や愚痴を口にしたい気持ちは自分も持っているが、それを周囲に向かって吐いたところで何も解決にはならない不満をこぼすまえに、なんとかならないものか、まず行動をとってみるのが大事しかしながら、世の中はどうにもならないことで溢れかえっているだからといって、不平不満を言ってみたところで、やっぱり何も始まらないし、何も変わらない心のなかにモヤモヤとした苦々しいものが残るだけそれならば、現実を受け止めて、前向きに物事を捉えようじゃないか仕事で、ちょっとストレスを抱えているなんとか良い方向に舵を取ろうとするのだが、様々な思惑が絡みついて、どうもうまくいかないそこで思った世の中や人を変えることは、そう容易いことではないが、自分を変えることならできるならば、自分が考え方を変えればいいのだ“なんで自分が?”という自己犠牲の考えを持つのではなく、今自分が置かれている現状の中で、自分は何をすべきなのかを考え、行動するよっしゃ!やってやろうじゃないかプライベートで、ちょっとした希望を見出していたところだったので、気力は漲っていた身体のなかの奥底から沸々とパワーのようなものが湧き上がっているのがわかるこの調子のまま、苦手な夏、そして自分の前に立ちはだかる壁を乗り越えられればいいのだが、間違いなく途中でガス欠するだろうなまだまだ夏は始まったばかりだが、その暑さに負けないくらい、今の自分は燃えている今まで、ダリアという花はあまり注目していなかったのだが、なぜか今年に限っていえば、自分のなかで、ちょっとしたダリアブームが起こっていた市場に出揃っている色とりどりのダリアは、見ているだけで目を楽しませてくれる今日仕入れたダリアは、『ショーンテル』というものカクタス咲きのそのダリアは、1枚1枚の花びらの先端が二股に割れていて、そのフォルムは、インパクトがあり、かつゴージャスな雰囲気を漂わせている茶色を混ぜたよう深い赤と黄色の色合いが醸し出すその表情は、まるで燦燦と輝く真夏の太陽のようショーンテルの情熱さと眩さは、生きることに燃えたぎっている今の自分の姿を見ているように思えた
2008年07月21日
「おはようございます」相手から、元気のいい挨拶が送られてくると、パワーを貰えるような気がするなので、自分も朝の挨拶は努めて明るく振舞うようにしているうん、朝から気分がいいねしかぁし!中にはいるんだなぁまったく挨拶を返さない人が…仕事の取引先をいくつか廻った顔を出しては、「おはようございます!」と挨拶をする向こうから先に声を掛けてくださったりと、大抵の人とは挨拶を交換するのだが、聞こえていないのか全く無反応だったり、なかにはわざわざ人の顔を確認してそれでも無視する人もいるそんなん態度をとられると、俺の振りまいた笑顔返せェェェ!!と、思うのだが、自分も大人なので、内心は不愉快ながらも、そこはサラッと流すことにしているなんで挨拶をしないんだろうこの行為、年配の方に結構見受けられるたかだか一言だけのことなのに、なぜ言えない・言わないのか、その事に関して一体どんなポリシーを持っているのか、訊いてみたいものこちらのことを下に見ていて、挨拶されるのは当たり前とでも思っているのだろうか?だとしたら、ずいぶんと心の狭い人やねぇそんな人、自分が見下し返しますワたまたま機嫌が悪かったから、挨拶しなかった?そんなん表に出さんといて!こっちまで、機嫌悪くなるやないのとにかく、失礼だよね挨拶をしないだなんて、人としてどうかと思うね、ホント挨拶を返してこない人は毎度のことなので、自分の頭の中にインプットされているのだが、その人たちに対して挨拶をしないことはない返事が無かろうが、無視されようが、挨拶はするこれは礼儀だからねそこで変な感情に捕らわれて、こっちまで挨拶しないようになったら、同じ穴のムジナになってしまうそんなこんなで、今日も明るく振舞ってます
2008年07月02日
どういった話の経緯でそうなったのか忘れてしまったが、ブログの話題で盛り上がっていたその話の流れのなかで、「どういうブログを書いてるの?」と、訊ねられる他愛もない日記であることを答えると、相手は、「じゃあ教えてくれない?」と言ってきた「イヤダ!」って、言ったら、「なんで嫌なの?」だって嫌なモンは嫌なんじゃぁぁぁ!ていうか、普通は教えないんじゃない!?このブログは、自分の消えゆく日々の生きた証を記そうと始めたことなので、他愛もないことばかり綴っているけれど、そのなかには、自分の心情を吐露していたり、時には鬱憤を晴らすかのような毒も吐いているネット上で公開しているからには、自分から放たれたそれらの言葉や思いは周知の目に晒されている事は百も承知だが、それは、自分は相手の事を知らない、また相手も自分のことを知らないという、どこか一線を引いた関係だからこそのなせる業それを、自分が知っている人間に見られるとなると、話は別普段、顔をつき合わせていても自分の胸の内まで見透かされているようで嫌でしょだから、教えるのは絶対イヤ!友人にしろ、好きな人にしろ、やっぱり踏みこんでもらいたくない領域ってあると思うこうして生身の人間として対峙しているわけだから、相手が何を考え、何を思い、どういう風に日々を過ごしているのか、ブログで何を綴っていようが、そんな心の奥底まで何もかも知ろうとまでしなくていいと思うんだけれど…好きな人のことなら、その人のこと全部知りたい?自分はそうは思わないその考えの違いだけなのかな話の話題を変えようとすると、相手は最後に、「必ずブログ探し出すから」と、捨てゼリフを吐いたで、見つけたあかつきには、「見つけたよ」と、コメントを残すんだって無茶苦茶怖いんですけれどォォォ!何が、そこまでさせるの?本気で探し出しそうだから怖いよでも、ブログといえどその数は星の数ほどなんだから、見つかりっこないか…いや待てよ?ここには、自分の仕事、趣味、好きな食べ物、買った洋服などを挙げているから、本気で血眼になって探そうと思えば、見つからないという断言をすることはできないかって、そんな事考えるだけで気味が悪いお願いだからソッとしておいて…
2008年06月10日
5月21日付けの讀賣新聞の朝刊に、ある映画の広告が掲載されていたキャッチコピーに惹かれるものを感じ、観てみたいなぁ…と思ったその映画のタイトルは『美しすぎる母』“求め合い、奪い合うこの愛は、タブーなのか?すべてを求めた母と、愛だけを求めた息子母はなぜ、息子に殺されたのか?”今日、ちょっとした用事があり渋谷へと出かけたので、そのついでに、東急本店横にある映画館“Bunkamura ル・シネマ”へと足を運んだ『美しすぎる母』の前売鑑賞券を購入するためであるただでさえ、映画を見ることなど稀なのに、前売券を購入するのは初めてのことそれも、なぜわざわざ上映を予定している映画館まで足を運んだのか?それには、ちょっとした秘密があった実は、新聞広告に、前売鑑賞券を購入された方に、劇場窓口特典として、石鹸がついてくると書かれていたからである別に石鹸につられた訳でもないのだが、通常1800円のところ、前売り券だと1500円と300円お得なうえに、さらに石鹸がついてくる…と、要はセコイんですわまぁ石鹸ひとつの為に、わざわざ渋谷に出かけることまではしないが、今日たまたま行く用事ができたので、映画の前売券をゲットしたというわけそれにしても、前売券に石鹸をプレゼントだなんて、面白い発想やねぇ特典として戴いたのは、マリウスファーブル製の美しくなるというマルセイユ石鹸ワイルドローズという種類で、ものすごぉぉく、華やいだ香りがするもの映画のタイトルになっている“美しすぎる母”は、こんな香りがするのかしらん?なんて、不埒な妄想を抱いてしまったさて、6月7日から封切られる『美しすぎる母』いつ観に行こうかな?それにしても、ここまで期待してしまって大丈夫だろうか?と、我ながらに思う期待して良作だったら、ヨカッタ…と思うし、駄作だったら、損した気分になる期待しないで良作だったら、スッゴイヨカッタ!と思うし、駄作だったら、こんなもんかぁ…と思う要は、期待しないほうが、感情の振り幅が良くも悪くも抑えられるというワケしかしだ、期待するな!というほうが無理な話であって、この映画を観たい!と思った時点で多少なり期待しているわけだって、興味も関心もない映画なんて、端から見向きもしないからネやっぱり観るの楽しみ…【幸福の最も大きな障害は、過大な幸福を期待する事である】(フランスの著述家・フォントネルの言葉)
2008年06月04日
小さな花が咲いていた夏の青空を思わせるような、きれいなスカイブルーをしているその花の名は『わすれな草』花言葉は“わたしを忘れないで”さわやかな花色とは裏腹に、なんともせつない花の名前と花言葉であるが、それは中世ドイツの悲恋伝説に由来するその昔、騎士ルドルフは、ドナウ川の岸辺に咲く青い花を、恋人ベルタのために摘もうと岸を降りたが、誤って川に転落してしまうルドルフは川の流れに呑みこまれるなか、最後の力を尽くして花を岸に向かって投げ、「Vergiss mein nicht!(僕を忘れないで)」という言葉を残して、亡くなってしまった残されたベルタは、ルドルフの墓にその青い花を供え、彼の最期の言葉を花の名にしたという(某サイトより引用)自分は、生まれてからずっと同じ地域に住んでいるので、近所の方と顔を合わせれば、会釈なり、一言二言言葉を交わしたりする自宅から程近いY字路の角の家に住んでいるご老人は、とても愛想がよかった顔を合わせるたびに、ニコニコとした表情をして、他愛もない会話をするここ最近は久しく姿を拝見しなかったのだが、今日家の前の道を通ろうとすると、ご家族の方と一緒にいるのを見かけたので、いつものように「こんにちは」と挨拶をしたすると、どうだろういつもなら、柔らかい表情で、「これからお出かけかい?」なんて声をかけてくるのに、今日にかぎってはどこか様子がおかしかったこちらに顔を向けたものの、キョトンとした表情をするだけで、なんら反応が無かったのである視線はどこか虚ろで、覇気が見られないその時は、あまり深くは考えなかったのだが、あとで、ご老人が認知症にかかっていることを知ったその事実を聞かされて、今朝の不可解な接し方の理由がわかった相手にしてみれば、自分のことは忘れてしまっているので、突然見ず知らずの人に声を掛けられて、キョトンとしたのだろうでも、その話を聞かされたからといって、ふたたびご老人に会ったとき、以前と変わらぬように挨拶するだろうな、きっとたとえ相手が自分のことを覚えていなくても…だって、自分は忘れていないわけだから、無視して素通りしていくだなんてできないよVergiss mein nicht!今日もわすれな草は静かに咲いていた…
2008年04月27日
最近、楽天のブログが変わったいつの頃からか、コメントを書き込むと、デカデカとした広告が目に飛び込んでくるようになったし、つい最近のことだが、自分の日記を見ていると、左側側面に変な広告が掲載されていることに気づくその広告は、よぉく見てみると“おすすめリンク”と括られているたしかこれって、表示する・しないは、ブログパーツのなかで個人で自由設定できて、自分は非表示にしていたはずなんでこんな急に広告が目立つようになったんだろう自分としてはシンプルな画面でいきたいんだけれど…誰かが勝手にカスタマイズしているのだろうか?で、気になって、普段は確認することすらしない楽天のお知らせを見てみると、今月の18日から、“おすすめリンク”の表示は強制的に義務付けになったようなのだが、これが、楽天ブログを利用している方々から反感を買ったようで、わずか2日後の今日20日のお知らせでは、お詫びとも弁明ともとれるような内容のものが掲載されていたそれによると、現在強制的に画面に躍り出ているおすすめリンクを非表示にする対策が実現されるのは、8月から9月頃になるというふ~ん、だいぶかかるんだねぇところで、このおすすめリンクって、一体どういう基準でチョイスされているのだろう?今のところ、自分のブログで表示されているリンクは、ハンバーガーの検索、ピザの検索、料理を綺麗に撮ることができるデジカメ…といった食品に関連するものが多いこれって、ブログの内容からキーワードを拾っているのかなぁ?そんなに食べ物に執着して書いているつもりはないんだけれど…まぁ自分的には、このおすすめリンクの表示に関してはさほど気にはならないのだが、なかには、金融関連、ある特定の病気専門のクリニックといった、見るものに不快感を与えかねないリンクも表示されることがあるというそんな自分のブログの存在価値を汚しかねない今回の唐突過ぎる出来事に関して、楽天ブログ利用者からは「見切りをつける」といった声まで挙がっているブログの移転かぁ…実は、1度だけブログを引っ越そうかと思ったことがあるその理由は、ブログの書籍化だここに綴っていることは日常の些細な事だが、自分の生きた証でもあるその時何を思い、何を感じ、何をしていたかそこには、なんの飾り気もない等身大の自分がいるただ書き捨てていくだけの行為がなんだか勿体無く、何か形として記念に残しておきたいと思いついたのが、ブログの書籍化サイトによっては、サービスの一環として行っているところもあるが、あいにく楽天ブログの書籍化の対応は難しいみたいその時真剣に、書いたブログを書籍化できるサービスのあるサイトへの移行を考えたのだが、1からやり直す気力も無かったのと、第一、このブログを通しての交流を絶ってまでするような事ではないな…と、結局は断念したのであるもう今となっては、変な広告を挿し込まれようと、何をされようと、ここ楽天からブログを移転する気はさらさらないここには、濃縮還元100パーセント果汁ジュースのように、濃ゅ~いものが仰山詰まっているし、それになんといってもタダでブログやらせてもらってるからね…およそ2年前に、ひとつの言の葉がこの地に芽吹いた始めは誰も見向きもしなかったそれは、月日が経つとともに生長していき、今ではこの地に根を張り巡らせて大きく育ったその樹には、850あまりの思いが詰まった言葉という葉が青々と生い茂っている花が咲いて楽しませるわけでもなく、実がなって喜ばすわけでもない樹ではあるが、それでも、ごくごく稀に鳥が囀り、樹の下では雨宿りをしている人もいれば、またある時は、木陰に身体を休めていく人もいるなんの変哲もない大木でも、誰かのためにはなっているようだ今日も、明日も、明後日も…来る日も、来る日も、大木は活き活きとした言の葉を漲らせ、誰が来るでもないひっそりとしたこの場所に佇んでいる…
2008年03月20日
目覚まし時計が鳴った反射的に瞼を開ける目は覚めているものの、寝たりないせいか、頭の中はまだ夢の中にいるようにボーっとしている目を覚ます意味でも、浴室に向かい湯船に浸かるあぁ~いい気持ち……で、気づくと湯船に浸かったまま眠っていたそんな日々が最近続いているので、万が一湯船に浸かったまま眠り込んでも、寝過ごすことがないように、浴室にも目覚まし時計を置いているう~ん、ここのところ忙しいから、疲れはなかなか取れないし、つねに眠気に襲われているような気がする気だるい感じがする身体に鞭を入れて、身支度をすると、家を出た車のハンドルを握ると、暗闇の街のなかを疾走する車内では、お気に入りの音楽を聴いていた信号が赤に変わったので、車を停めたときのことスローテンポの曲調の音楽から、突然まるで地響きに似たような不気味な男の声が聞こえてきた???な、何だ!?今の声は…問題の部分をかけなおしてみたが、変な声は入っていなかった寝ぼけてたのかなぁ?すると、またしても、今さっき耳にした謎の声が聞こえたよぉく耳を傾けてみると、その声は音楽からではなく、外から聞こえているようだパワーウィンドーを開け放つと、なんとも心地のよい夜の空気が頬に触れたこんなひっそりと寝静まった街のどこから、あの気持ち悪い声が聞こえるのだろうかそう思ったときである『ブヒィィィィィ!!』ぶ、豚ァ!?!?!?!?その声の主は間違いなく豚だったしかもその数たるや、鳴き声からして1頭や2頭ではなさそうここら辺に養豚場はないし何故だろう?と、辺りをキョロキョロしていると、自分の隣り車線に停まっている大型トラックから、ブヒブヒ聞こえてくるではないか荷台の囲いが高くて窺い知ることはできないが、間違いなく、あの中にたくさんの豚がいるに違いないそういえば、ここから車で走ること数分のところに、食肉市場があるということはだ、荷台に乗せられている豚たちは、そこに出荷されるということかはたして、これから待ち受けている運命を、車に揺られている豚たちは知っているのだろうか?鳴き声は、一体何を自分に訴えようとしているのだろうドライブを楽しんで賑わっているだけか助けを訴える悲痛な叫びか腹をくくって覚悟を決めた悲壮の絶唱か残念ながら、自分には豚の気持ちを計り知ることはできない信号が青に変わった豚の鳴き声を背に、車をスタートさせるバックミラーを見ると、豚を乗せた大型トラックは、食肉市場がある方角へと向かっていったするとだ、自分の目から涙が溢れてきた1粒、2粒と、涙が頬を伝っていくどうしたことだろう何が悲しくて涙が溢れるんだ?豚が市場に売られていくことが悲しいのか?ウン、悲しいよ豚のために涙するだなんて、疲れが溜まっていて、ちょっと情緒が不安定になっているのかもしれないとはいえ、普段はそんなことおくびにも見せないが、こうしてみると、人が生きていくうえでは様々なものが犠牲になっているのだと痛感した自分も肉や魚といった生物は口にするから、そんな奇麗事を言っていたら生きていけないことは重々承知しているが、せめて頂くときは“いただきます”と唱え、感謝という気持ちを忘れないで食したいそれが人間が生きていくうえで犠牲となったモノたちへのせめてもの敬意だと思うこうして文章を書いている今、夜明け前に出会ったあの豚たちの命は、もうこの世にはないのだろう『ブヒィィィ!!』あの時聞いた鳴き声は、今でも耳に残っている……【悲壮】悲しい中にも雄々しく立派なところがあること(辞書調べ)
2008年03月19日
職場に、以前勤めていた男性が懐かしい顔を覗かせてくれた何年ぶりだろうか?すぐには思い出せないほど、久しぶりである特にこれといって用事があるわけではなく、たまたま近くを通りかかったので、顔を出してくれたんだとかなんだか、そういうのって嬉しいよね近況を聞くと、腎臓を患ってしまい、今は自宅で朝昼晩と1日3回透析をうけているのだというそれを聞いて、驚きのあまり、思わず返す言葉が見つからなかった前々から身体は丈夫とはいえなかったけれど、そこまで体調が悪くなっていたとは…腎臓を患ったことに関しては、様々な要因があるようなのだが、仕事がハードだったこともあって、体調の異変に気づきながらも病院になかなか行かず、結果的に今に至っているというそれで、そのスタッフにこう言われた「くれぐれも無理はしないでくださいね」経験した者だからこそ言える、すごく重みのある言葉自分が仕事で多少なり無理をしている姿をその男性も知っているので、声を掛けてくれたんだと思う本来なら、腎臓を患って普通の生活がなかなか儘ならない男性に対して、自分が勇気づけて励まさなければならない立場なのに、逆に心配してもらうだなんて…腎臓の病気や透析に関しては、ほとんどと言っていいほど知識を持っていないのだが、男性の話によると、病状は回復に向かうことはなく、現状維持、もしくは悪化の一途を辿るのみなんだとか自分の前では、おどけた表情を見せるなどして気丈に振舞ってはいるものの、時々ふと覗かせる寂しげな表情に、彼が抱えている大きな闇を垣間見たような気がしたその闇を自分は払拭してあげることができない彼の話にただただ耳を傾けるだけである何か声を掛けてあげたいという気持ちは自分の中で渦巻いているのだが、その思いをうまく言葉にすることができない我ながら、言葉のボキャブラリーの少なさには嘆きたくなる結局、ろくな言葉を掛けることもできないまま、つかの間の再会の時は終わった大病を患ってもなお前向きに生きようとする男性の姿には、大きく揺さぶられるものがあった生きることへの執着心にも似た人間の力強さを見たと同時に、どんな状況下に置かれてもそれらの事実を受け止めて生きていかねばならないという、抵抗する術がない人間の非力さをも見た去っていく彼の後姿を見ながら、言葉では言い表すことのできない悶々とした感情を抱くのであった
2008年03月18日
今日から3月花の配達途中、信号待ちをしているときにすぐ傍の公園に目を向けると、紅白の梅が見事な花を咲かせていた自分が好きな花である木蓮の樹は、春の訪れを今か今かと待ちわびているかのように、蕾を大きく膨らませている降り注ぐ太陽の陽射しは、暖かさのなかに優しさを感じ、なんとも気持ちがいいいつもは窓を閉めきって暖房を入れている車内も、今日ばかりは窓を開け放った車のスピードをあげると、なんとも心地の良い風が頬を伝わっていく春はすぐそこまで来ているんだなぁ春を思わせる陽気に誘われて、すっかりご満悦なのかと思いきや、暖かな陽気とは裏腹に自分の心には翳りが生じていた日々を過ごしていくなかで、大なり小なり何かしらは抱えているが、今日一日だけでたくさんのことが自分の身に降りかかってきてしまったからであるそれらは、自分ひとりでなんとかなるものであるのなら、疲れている身体に鞭を打ってでも奮い立たせて躍起になることもできるのだが、いかんせん対象となるものが漠然としすぎていて、目の前に立ちはだかっているものに対してどうしたらいいのか解らず悶々としていた“どうして?”と、疑問に思うだけでは何も始まらない“なんで自分だけがこんな目に遭うのか?”と、運命を呪ってみたところで何も生まれない“自分には関係ない”と、目を背けても現実からは逃れられないこれは因果なのだ自分の身辺に起こるべきして起きた出来事なのだそれならば、今現実に直面していることから目を背けることなく、ひとつひとつ解決していこう今までも数多の苦難が自分の前に立ちはだかった時には挫折し、またある時には光を見失って彷徨い続けたこともあったここまで歩んできた道のりは決して平坦なものではなかったそれでも、なんとかこうして生きているきっと、今回も自分なりに答えを見つけ出して、一歩一歩踏み出していける筈である梅や木蓮の樹を見て春の息吹を目の当たりにし、太陽の日差しを浴びて、春を感じた今日まだまだ、そんなところに目がいくということは、心に余裕がある証拠いや、無意識のうちに心の拠り所を求めていたのかもしれないとはいえ、暖かな陽気は自分の背中を後押ししてくれたほな、頑張りますか辛くなったら、空を見上げようやわらかな陽射しは、きっと荒んだ心を労わってくれるに違いないから【今あなたが不運な状態にあるなら、それはあなたがそうなるように仕向けた結果です。逆に、今あなたが幸運に恵まれているなら、それもあなたがそうなるように仕向けた結果です】(アメリカの啓蒙家 J・マーフィー氏の言葉より)
2008年03月01日
ある人のことが頭から離れなかったその人とは仕事を通じて知り合ったのだが、まだ数えるほどしか会ったことはない元気があって、笑顔が素敵な人気になる存在ではないと言えば嘘になるが、特別な感情を抱いているわけでもないいつもは、その人の影は自分の心の片隅に存在している程度なのだが、なぜか今日はその想いが表立っていたなんなのだろう、この気持ちは…意識しているわけではないのだけれど…う~ん、自分でも自分がわからない昼休憩のとき、振込みをする為に某銀行のATMへと出かけたその帰り道、別に寄り道をする気は一切なかったのだが、なぜかATMの近くにある弁当屋が気になった最近は無駄遣いを減らそうと、家から弁当を持参しているので、弁当屋で買うものなど何も無い筈なのだが、なにかに導かれるように足がそちらを向いていたのであるお店に入ると、入口の近くに1人の人が立っていたふと視線が合った瞬間、自分は驚いたなんとその人は、今日半日の間ずーっと自分の頭から離れることがなく想っていた人だったからであるこんな偶然があるのだろうか?思いもかけない展開に、ただただ驚いてしまった自分は、寒さから身を守るために目深に被っていた赤いフードを脱ぐこともなく、「どうも…」と、声を掛けるのが精一杯だったすると相手は、「こんにちは!」と、笑顔で言葉を返してくれたあぁ、なんて眩しい笑顔なんだろう…その後、何か言葉を交わせばよかったのかもしれないが、なんとなく遠慮してしまい、社交辞令のような挨拶を交わしただけにしてしまったそれからの自分は、別に買う必要もなかった惣菜を手にすると、お会計を済ませてそそくさと店を後にした折角の会話するチャンスだったのに…惣菜の入ったビニール袋を提げながら、自分はちょっと後悔をしていた挨拶だけだなんて、愛想のない人ね…なんて思われたかもしれないだって、ほんとに偶然の出来事にただただ驚いて、心の準備ができていなかったんだもんえぇ、ビックリするほどウブで、アドリブが利かない自分ですそれでも、会うことができただけで、自分の心の中はハッピーになっていた数回しか会ったことがないのに、ちゃんと自分のこと覚えていてくれていたということだけで十分それにしてもほんと驚いたなぁ今日に限って、その人の事を強く思い続けていたら、偶然にも再会するそんな言葉ではうまく説明できないような出来事ってあるんだね自分の思慕の念が通じて、二人の出会いを演出すべく、弁当屋に導かれたのかな?それとも、相手も自分のことを気に留めていてくれて、手繰り寄せられたのかな?…って、それは無いかこれは、ほんとのほんとの偶然だよね、きっと
2008年01月28日
今日でこのブログを開設して、丸2年が経った始めるとき、飽き性の自分がまさかこんなに長く続けられるとは思ってもいなかった(ほんと我ながらビックリです)始めるとき、ブログを通してさまざまな出会いや繋がりが生まれようとは思ってもいなかった(日々感謝感激です)始めるとき、我ながら漢字や言葉の意味を知らず、辞書を引きながらブログを書くとは思ってもいなかった(少しは賢くなりました)始めるとき、こんなに嵌るとは思ってもいなかった(今ではライフスタイルの一部です)始めるとき、ブログの更新がこんなに億劫だとは思ってもいなかった(えっ?)いやね、自分は毎日パソコンと向き合えるわけではないそのくせして、毎日の出来事を欠かさず書こうとするそれもこれも、このブログは自分の人生において、日々感じたことや思ったこと、身の回りに起きた出来事を記すための日記と位置づけているためその為、平気で更新が遅れても、マイペースを貫いている2、3日の遅れは当たり前で、酷いときは1週間も遅れて更新することもしばしばさすがにそこまで溜めてしまうと、正直言ってブログの更新はかなり億劫になる自分は小説家か?と錯覚してしまうほど、暇を見つけてはパソコンと睨めっこで、ひたすら言葉を綴るこの小説家、かなり遅筆で、一稿を仕上げるだけでも相当時間をかけているらしい気分が乗っているときは、スラスラと言葉も出てくるが、必ずしもそうとは限らない特に最近は、自分の発想力の未熟さ、ボキャブラリーの無さが災いしてか、自分の言葉を紡ぎ出せなくなってきている書きたいことはあるけれど、その思いや気持ちを伝える、自分なりの言葉が浮かんでこないゆえに、最近は特に更新が遅れがちになってしまっている焦りと苛立ちのなかから、必死に自分の言葉を生み出し、編み出し、一つのものとしてなんとか紡ぎだしているもうね、大げさな言い方かもしれないけれど、ここのブログには、魂というか、生き様というか、自分の人生そのものが詰まっている他人様のブログを見るのは楽しいでも、以前にも書いたが、できるだけ見ないようにしているなぜならば、嫉妬してしまうからである面白いものや、勉強になるもの、感銘を受けるものなど、たくさんの魅力的なブログが巷には溢れかえっていて、そのどれもが語られているものの趣旨が一環しているそれらのものに比べたら、自分のブログはどうだろう?なんと未熟なのだろうか仕様も無いことを長々と書きやがってと、いろいろと比較してしまい、自分もあんなブログを書けたら…と、不埒な考えが頭を擡げ、自分らしいブログを見失ってしまいそうになってしまうのだただ幸いなことに、そんな苦々しい気持ちを抱きつつも、自分には人々を突き動かすような芸当も文才も無いので、ただただ、日常の生活を綴っているいや、自分にはそれしか綴ることができないのだ気取ることなく、着飾ることなく、言葉を華やかに演出することもなく、ありのままの等身大の自分をさらけ出しているので、今日までこのブログを続けることが出来たのだと思うきっと、これからもそのスタイルは変わらないと思うそもそもこのブログは、薄れゆく記憶のなかに、自分が歩んできた日々を書き記しておきたかったという思いが事の始まりその事さえ念頭に置いておけば、自分のブログにおいての信念のようなものが揺らぐことはあるまい誰しも、ハッピーで幸せに満ち溢れるばかりの人生を送ることなどまずあり得ない喜怒哀楽に塗れた日々を過ごすだからこそ、辛い悔しい思いをしても、明日を夢見て頑張り励み、幸せが訪れた時は噛み締めることができるのだそして何よりも、何事もなく平穏に日々を過ごすということがどれだけありがたいことかを思い知らされるこれからも、日々暮らしていくなかで感じた喜怒哀楽な部分を、自分の言葉で紡いでいきたいそれらの日々は、振り返って読むとき、きっと自分へのエールになるに違いないなぜならば、そこには紛れもなく自分が生きた証が残されているから…
2008年01月21日
新年が明けて4日経ち、ようやく今になって年賀状を書き始めた12月の早いうちから年賀状を書いてしまえばいいのだが、どうも年の瀬が迫らないうちから年賀状を書く気にはなれないそうこうしているうちに年末の仕事の忙しさに追われて、書いている余裕が無くなり、気づいたら年が明けていた…そんなパターンを、懲りもせず毎年繰り返している届いた年賀状を見る大半が、子供が写っているものである自分もそんな歳なんだなぁ…なんて、年賀状を見るたびにしみじみ思うでも、正直言ってお子さんが写っている年賀状って、どうなのかな?自分的には、???であるまぁ友人の子供の成長が判っていいとは思うのだが、微笑ましくもあり、妬ましくもあり、返答の仕様に困るんだよね“お子さん、ずいぶんと大きくなりましたね”なんて、毎年、決まり文句のように同じセリフを書いているような気がする子を持つ親の気持ちが判らない者の発言かもしれないが、自分も子供を授かったときは、親バカぶりを発揮して、子供の画を使った年賀状を作ってしまうのだろうか?それから、困る年賀状といえば、印刷だけのもの相手は大量に送っているからかもしれないが、印刷だけのものって、堅苦しいというか、事務的というか、人間味が感じられない何か、一言だけでもいいから、直筆のものがあれば、だいぶ違うんだけれどねと、年賀状をいただいておきながら散々うんちくをたれたが、そんなこと、きちんと元旦に年賀状が届くように書いた人間が言えって感じですねハイ、スミマセンあれこれ言える立場の者ではありません皆は元旦に届くよう律儀に送ってくれたのに、なんだか申し訳ない気持ちでペンを取るいくら遅れて出すとはいえ、形式ばった堅苦しい新年の挨拶だけは嫌なので、一人一人文面を考えながらペンを走らせていると、ふと数日前に読んだ新聞記事を思い出した12月27日付けの讀賣新聞、一面の下のほうに載っている“編集手帳”というコラムのようなものであるそこには、【辞書の中に『戻り年賀』という言葉を見つけたときほんの少し気分が軽くなった覚えがあり、”無精年賀”とか”無礼年賀”とは呼ばずに、『戻り年賀』は風雅な響きがありがたい】と、書かれていた『戻り年賀』とは、“年賀状を受け取ってからその相手先に出す年賀状”である確かに、戻り年賀という言葉は響きがきれいで、それはそれで一つのものとして地位を確立しそうではあるが、やはり送った相手から遅れて返事がくるだなんて、あまり気持ちがいいものではないんだろうねとはいえ、性懲りも無く自分は毎年戻り年賀を書いているわけだが…ほんと申し訳ないですでも、誰か特定の人に…というわけではなく、皆が平等に戻り年賀なので、どうか“年賀状が遅く届くのは自分だけか?”なんて思わないでください自分の年賀状は、皆さん遅く届いています(胸を張って言うことではないが…)ちなみに、松の内の1月7日までに郵送されないと思われるので、『寒中お見舞い申し上げます』と、させていただきましたあしからず
2008年01月04日
午前3時目覚まし時計の音で目を覚めす瞼を開けると、冷え切って張り詰めた空気が自分のことを取り囲んでいたその寒さときたら、部屋の中にいるとは到底思えないほど凍てついている慌てて、まるで揺らめく蝋燭の炎に暖を求めるように、布団に残されているわずかな自分の温もりを手探るその温もりも、悪戯されているかのようにすぐ消えてしまうそうなると、悪足掻きは諦めてようやく観念し、意を決して寒さのなかに身を投じる目覚めは良いが、寝起きはイマイチそう、寒い時期は、布団の中からなかなか出ることができない起床すると、浴室へと向かう長年の習慣なのだが、朝風呂に浸からないと、どうも目覚めが悪いのである身にまとっている衣を脱ぎ、浴槽に身を沈める冷えきった身体が芯からジワジワと温まっていくこの瞬間、すごく幸せを実感できるひとときすっかり凍りついていた身体の足先や爪先に血が行き渡り、細胞のひとつひとつに生命の活力が湧いて、ようやく身体が目を覚ますこのとき、普段であるならば、まだ思考は働いていないのか、何も考えないでいるのだが、今日は、見た夢を覚えていたので、その夢を思い返しながら湯船に浸かっていたその夢は、実に殺伐としたものだったその夢の内容とは…〈自分の身に降りかかる火の粉ではなかったのだが、親切心から首を突っ込んだところ、ちょっとしたトラブルに巻き込まれてしまい、暗がりの路上で見ず知らずの男数人に囲まれて全身を刺されてしまう全身を駆け抜ける激しい痛みと同時に、紅い血が身体の中から迸る寒い夜なので、湧き出る自分の血に暖かさを感じていただんだん意識が薄らいでいく…このまま死んでいくのだろうか…………瞼が開いた気づくと、どこだかわからないが、雑然とした室内にひとり自分は横たわっていた生きていたんだ!ふと、何気なく着ている服を捲って、自分の腹を見たそこには、無数の刺し傷が残っていた…〉そこで、目が覚めた我ながら、なかなかしんどい夢を見たもんだと思ったこれから一日が始まるというのに、おかげで、ヘビーな幕開けとなってしまった見る夢には、なんらかの暗示・メッセージや、今自分が抱えているものなど、深層心理が隠れているという自分が見た夢の内容には、いったいどんなメッセージが込められているのかが気になり、夢を占うことができるサイトをみつけた250字以内で、自分が見た夢をまとめると、その文章の中からキーワードを拾い集め、占ってくれるというものその結果をすべて信じ受け入れるわけではないが、参考までに、今日見た“全身を刺される”という夢を診断してみたすると、結果は…『やることなすことうまくいかない』との事!!!当たってますワほんとね、人生うまくいかない…色々なしがらみから解放され、夜眠りにつくときぐらい、楽しい夢を見たいと思うのだが、自分の生活が侭ならないと、楽しい夢を見ることもできないのか要は、現実逃避して夢のなかで生きようとするのではなく、今自分が置かれている立場に真正面からぶつかりなさいと夢は語っているんだねいい夢を見られるように、日常生活を送ります
2007年12月17日
黄色いバラの花言葉には、“友情”や“冷めた愛情”、“愛情のゆらぎ”といったものがあるが、なかでも一般的に有名なのが“嫉妬”そんな訳か、女性に贈るにはあまり好ましくない花とされている節があるまぁ確かに花言葉を気にする方もいらっしゃるけれど、そこまで気にすることもないんじゃないかなぁ?花を贈る相手が好きな花、喜んでもらえそうな花なら、花言葉に囚われることはないと思うだって、一般の人で花言葉に精通している人はそう多くはないからそれにしてもうちのスタッフは、男性客が花束の注文で黄色いバラを指定すると、「花言葉の意味知っているのかしら?」なんて言うお客さんが贈りたい花を選んでいらっしゃるんだから、余計な心配しなくてよろしいッ!嫉妬といえば…昔は、それはそれは嫉妬の塊で、他人と自分を比べては一喜一憂して、そんなことでしか己の存在意義を見出せなかった自分に、反吐が出るような思いを抱えていた自分に自信がなかったゆえの表れなのか、日々その繰り返しで、自己嫌悪な日々を送っていたが、歳を重ねるにつれ、嫉妬という感情も薄れていったいまでは、ほとんど人に対して嫉妬することはないなぜか?己の実力を知ったからハイ、大人になりましたそれでも嫉妬という感情はあるそれが如実に現れるのは、他人様のブログを見ているとき“なんてうまいこと書いているんだろう”“面白い!”ブログを楽しむと同時に、嫉妬の感情が紡ぎだされてくるどうして自分には、こういうものが書けないのか?とか、自分の文章力や言葉選びの無知さに打ちのめされてしまうのだなので、あまり時間が無いということもあるが、極力他人様のブログは見ないようにしているちょっとでも興味を惹くものや、面白いブログを見つけてしまうと、そのブログに影響されて、自分らしいブログ色を見失ってしまいそうだからであるやはり、自分のブログは自分の言葉で語っていきたい黄色いバラ→嫉妬→ブログ…気づいたら、話の流れがだいぶズレていた要は、自分らしくってことだろうか?????自分という確かなモノを持っていれば、いただいた花の花言葉が不吉なものでも気にならないだろうし、人に嫉妬することもないだろうから支離滅裂な話を無理矢理、強引に纏めました
2007年12月06日
12月4日付けの讀賣新聞・社会面に掲載されていた記事『吉野家で悪ふざけ“超盛り豚丼”』記事によると、インターネット上の動画投稿サイトに、牛丼最大手の吉野家の店内で、店員とみられる人物が、どんぶりに豚丼の肉を大量に盛って、ふざけている映像が公開されていることが判明同社には、消費者から「食べ物を粗末にするな」といった苦情が相次いでおり、吉野家では、撮影者を特定して厳正に処分する方針だという(新聞記事より)今日、事件の続報が知らされた吉野家は全国で約1000店舗を展開しているなか、今回の撮影を行った人物を特定し、処分を下したという尚、処分の内容は明らかにされていないこの記事を見たとき、なんともお粗末な話だなぁ…と思った後先のこと考えられなかったのかなぁ?事件の背景の詳細は判らないが、当人はバレないとでも思ったのだろうかだとしたら、その考えは浅はか過ぎるといえようインターネット上に情報を晒すということは、周知に晒されることであり、好意的な見方をしてくれる者もいれば、その逆の考えの者もいて、実に様々な人々が見ているのだ今回が実にいい例である自分が向かっているパソコンの画面の向こう側には、無限の世界が広がっていて、そこには光も闇も存在していることを認識しておかなければならないインターネットは色々な情報が氾濫していて便利な反面、顔が見えないというところで、様々な危険も潜んでいるのである今回の騒動を引き起こした当人の思惑を知る由はないが、おおまかなところ、面白いことをしてやろう!話題をつくりたい!といったところではないだろうかその結果は、計らずとして全国紙の新聞に載るような騒動を巻き起こし、軽率だった行動とはいえ、その代償はあまりにも大きく、事の顛末は滑稽としかいいようがない当人の思惑とは違うところで、面白い!話題を提供したい!という考えは達成されたこととなったのだから、なんとも皮肉な話である最近の傾向として、巷では、メガマックや、メガ牛丼といった大盛りの商品が世間を賑わせている新聞記事に取り上げられた、今回の吉野家の騒動もその奔りを受けての悪ふざけだったのではないだろうかそんな訳(どんな訳?)で、巷のメガブームに乗って、自分はケーキでやってみた冷蔵庫の中に、コージーコーナーで購入した、チョコレートのミルクレープが3つあったので、皿に重ねてみたトリプルミルクレープであるどう?面白い?「………………」やっていて虚しさだけが残った夜も遅くに、ひとりで何してるんだろブログのネタ作り?いやいや、自分はブログのネタには困っていないだって、ごくごく日常のことを書き綴っているだけだからこのブログを誰かが期待しているわけではないので、愚痴を書き、中身の無いくだらないことを長々と書く虚栄を張ることも偽ることもなく、自然体のままの自分を晒しているそう、面白いことなんて狙って書けるものでなく、真面目に生きているなかに、ちょっとした笑いが隠れているのであるそんな自分のブログも、誰とも知らない人が覗いているのかと思うと、不思議でもあり、また怖くもあるのであった※おことわり(画像のミルクレープは演出の一環であり、その後きちんと頂きましたので悪しからず)
2007年12月05日
気がつけば、もう12月月日が流れるのは本当に早い毎日が充実しているから?毎日流されているから?自分でも何がなんだかわからないうちに、時の流れがどんどん自分を通り過ぎていく照る日、曇る日、雨が降る日目覚めて、働いて、疲れて、眠りについて…毎日毎日、その繰り返し太陽が東から昇り西へと沈んでいくのがあたかも当たり前かのように、何もかもが自分に与えられた宿命のように日々同じことを繰り返していく自分はそれが退屈だとは思いやしないどんな平凡な日常であっても、喜んで、泣いて、笑って、怒って、悔やんで…日々、様々な出来事が待ち受けていて、同じ日など1日としてないだからこそ、毎日同じ繰り返しでも飽きることなく生きていくことができる二度とない今日という日を大切に生きようと思うそれなのに、こうして自分が歩んできた道を振り返ってみると、自分の中ではほんの一瞬の出来事のことでしかないような短さにしか感じられない楽しくてあっという間に過ぎた日、辛くて1日がとても長く感じた日、たくさんの喜怒哀楽に塗れた1日を過ごしても、過去のものとなってしまえば、それはフィルムのネガのほんの1コマほどの、とるにたらない記憶となってしまうそう考えると、日々を生きるということに、なんだか虚しさにも似たものを覚えてしまうが、それでも自分は1日1日を大切に生きるたとえ記憶にすら留まることのないような平凡な日々でも大事に生きたいそれが、自分の人生だから今日も、明日も、明後日も、そんな日々をこれからも積み重ねていくことだろう
2007年12月02日
山手線に揺られていた帰宅ラッシュの時間帯と重なったためか、仕事帰りの人々で車内は混雑している本を読んでいる人、寝ている人、音楽を聴いている人、携帯電話をいじくる人、車窓の風景を見ている人、同僚や友達と喋っている人、楽しそうな人、疲れている人…偶然にも同じ電車に乗り合わせた人々ではあるが、そこには色々な想像をかきたてる様々な人間模様が繰り広げられていたさて、そんな中で、自分は何をしていたかというと、車内に設置されている液晶モニターを見ていたニュースや天気予報などが無音で流れているものだ誰かが見ようと見まいと、淡々と情報が垂れ流されている別に見たくて見ているわけではなく、手持ち無沙汰だったので、なんとなく見続けていたすると、ちょっと興味をひく話題を取り上げていたそれは睡眠に関すること寝不足気味だと、日中睡魔に襲われることがある…あるある!自分の場合、朝が早いので睡眠時間が短く、つねに寝不足気味だからしょっちゅう襲われているその眠気をたった5分で解消する方法があるんだとか…たった5分で?その方法とは!?早く知りた~い!で、気になるその結果とは…“5分間、目を瞑ること”?????目を瞑ることによって、視界から受ける様々な情報を遮断すると、脳波からα波が出て、睡眠しているのと同じ効果が得られる んだとか何分うろ覚えのことなので、根拠の説明やニュアンスが間違っているかもしれないが、ハッキリ言えることは、5分間目を瞑りなさいということいかがですか?この方法ちょっと実践しづらいよねぇ本当に眠くて仕方ない状況で目を瞑ったら、5分どころか、そのまま寝ちゃうよそれに、周囲の目があるなかで、仕事中に5分間も目を瞑っていることなんてできないでしょそれこそ、何寝ているんだッ!ってツッコミが入りそう古典的なところで、瞼に黒い瞳を書いておけば誤魔化せますか?いやいや、5分如きでそこまで身体は張れないでしょなので、自分の環境下では、この方法は非現実的かな今までは眠気に襲われると、無意味に身体を動かしたり、冷水で洗顔したり、自分で自分の顔を殴ったりしていたので、抜本的な眠気解消方法を期待していただけに、ちょっと残念睡魔との闘いは、これからも続く…
2007年11月28日
目覚めると、すぐに体調の異変に気づいた数日前ひいた風邪が、再びぶり返したらしいどうやらここ数日の冷え込みの厳しさに、自分の身体がまだ慣れていないようだ身体全体に蔓延する倦怠感にくわえ、今日は激しい吐き気に襲われたお手洗いで悶えつつ吐き気と闘っていると、今度は言葉にすることすらできないほどの激痛が、導火線に火がついたように一瞬にして頭の中を駆け巡ったそれは、毛細血管が切れたのでは?と思うほどの衝撃だった耳元の傍で銅鑼を打ち鳴らされているような衝撃波が、絶えず頭の中を駆けるもう立っているのも辛い状態ではあったが、今日は人手がギリギリで仕事を休むわけにはいかなかったので、身支度を済ませると、車のハンドルを握り職場へと向かうその車中でも、絶え間なく頭痛と激しい吐き気に襲われるものの、責任ある立場ということだけがつっかえ棒となって身体を支え、なんとか自分を奮い立たせた職場につくと、車の運転で神経を使ったせいか、より一層頭痛が酷くなっていただらしない格好をスタッフの前では見せられないので、息絶え絶えながらも、自分に言い聞かせるようにして、騙し騙し仕事をこなしていくそんななか、就業開始時間を過ぎても、一人のスタッフが出勤してこない携帯電話に連絡するも音沙汰なし無断欠勤だ今日は祝日ということもあって出勤している人員は最低限で、それぞれに仕事を任せてあるので一人でも欠けると困るのだが、連絡がつかないスタッフを当てにしていても何も始まらない他の者は手一杯で、仕事をこれ以上割り当てることはできなかったので、自分の仕事を後回しにしてカバーすることにそれにしても、普段のときであるならば何とかなるものの、タイミングが悪いことに今日は体調が悪すぎるよりによってこんな日に!と、身体の底から怒りと憎しみに似たどす黒いものが沸々と湧き上がってくるのが自分のなかでわかった勢いに任せて汚い言葉の一つや二つを吐きたい気持ちでいっぱいだったが、周囲に当り散らしたところで何になるでもなし、そこはグッと堪えたが、如何せん体調が悪いせいか、いまいち自分のなかで抑制のコントロールが効かず、どうにもこうにも怒りが収まらないいまやその怒りが、病と対抗して身体を動かす原動力となっているのだから、なんとも皮肉な話であるすぐにでも出発したいのは山々だったが、どうにもこうにも頭痛と吐き気が酷く、とてもではないが車のハンドルを握る自信がなかった事務所でしばらく横になったが、回復の見込みはなさそうなので、気合いを入れて出発途中、マスクを購入しようとコンビニへと立ち寄った意識は朦朧としていても、相変わらず無断欠勤したスタッフへの怒りだけは収まらなかった自分自身こんなに嫌な人間だったのか?と思うほど、新たに出現した醜い人格が自分の身体を乗っ取り、絶えず恨み辛みといった憎悪の念を抱かせるもはや自分には抵抗する余力もなく、なすがままにどす黒い感情に押し流されていたレジで会計を済ませて、コンビニを出たときだった丁度、買い物に来た知的障害者の少年とすれ違った見ると、その少年はとても楽しそうな表情を浮かべていたいや実際のところ、その少年が今本当に楽しいのかどうかなんて自分には知る由もないのだが、とにかく自分の眼には、その少年はとても楽しそうに映ったのであるそのなんの曇りもない屈託のない笑顔を見たとき、自分のなかで何かが音を立てて崩れていくのがわかったたかだかスタッフが無断欠勤したぐらいで、何を自分は捻じ曲がった根性を抱いていたのだろうか今すれ違った知的障害者の少年は、ハンディキャップを背負いながらも懸命に生きているというのに、自分は一体何を勢いに任せた感情を剥き出しにしていたのだろうかそう思ったら、なんと自分は醜く愚かな人間なのだろうと恥じるのであったそれからも、自分の愚かさをひたすら責めていた思い出すのは、さきほどすれ違った少年の純粋な笑顔すると、自然と自分の眼から涙が零れた悲しいわけじゃないそれなのに涙が溢れてくるこの感情はいったいなんなのだろうか?愚かで情けない自分を恥じる涙か無力で非力な自分に対しての悔し涙か止めどなく流れる大粒の涙手で拭っても拭っても、涙が頬を伝う今は高速道路を運転しているし、マスクをしていて顔半分は隠れていて表情を読み取られることもないので、この際思いの丈、泣きたいだけ泣いた涙が枯れると、なんだか肩の荷が下りたかのように、不思議と自分の身体のなかからどす黒いものが消え去っていた自分を支配していた醜い感情が、涙と一緒に流されたようだ体調は相変わらず絶不調ではあったが、気分が晴れて穏やかになったせいか、不思議と身体は動き、仕事はなんとか事なきを得た五体満足で生まれてきた自分は、障害者の方に比べたら幸せだなんて、そんなことで幸福の比較をしたつもりはないいや、そうは言いながらも、心のどこかでは思っているかもしれないしかしながら、今日出会った少年からは、眩しいばかりの生へのエネルギーを感じた“生きる”という事に関しての力強さを感じた生きていれば、楽しいこともあれば辛いこともあるそれでも、どんな時でも人間の心を忘れずに、感情に押し流されることなく生きていきたい!いや、そう生きなければいけないそう思ったいつも心に太陽をキミの笑顔は忘れません今日流した涙を無駄にはしませんでも、無断欠勤したスタッフを許したわけではありません
2007年11月23日
ちょっといろいろな事が、一度に怒涛のごとく自分に押し寄せてきたそれは、絶え間なく打ち寄せられているさざなみであり、すべてをも呑み込んでしまう津波のような大きな波でもあった儚いことと知りつつも、波打ち際に砂の城を建てては、波にかき消され、また建ててはかき消され…その繰り返し生きていると、ほんと色々なことがある自業自得の所業であるならば、どのような結果であれ、その現実を甘んじて受け入ることができるが、人によって生活をかき乱されたり脅かされたとなると、どうも納得がいかないとはいえ、それもまた現実なり受け止めなければならないそれが人生これも人生【生きる、それは自分の運命を発見することである】(フランスの劇作家、アルサン・サラクルーの言葉より)
2007年11月21日
これから寒い時期になってくると、毎日必ず一杯はあたたかい紅茶を飲む身体が温まるし、気持ちも落ち着くんだよねぇ毎日飲むほど紅茶は好きだけれど、まったくこだわりはないひとえに紅茶といっても色々な種類があるが、自分は舌が肥えているわけではないので、ポピュラーな“ダージリン”、しかも安いものを飲んでいる味覚音痴な自分には、これで十分である仕事から帰ってきて、何気なくテレビをつけると、『21世紀冒険スペシャル 世界秘境列車の旅』という番組が放送されていた世界遺産に指定された最古の山岳鉄道、ダージリン・ヒマラヤ鉄道に乗って、沿線周辺を旅するという番組シリグリ駅からダージリン駅まで、標高2260mを走る列車は、唯一の“動く世界遺産”であり、機関車がまるでおもちゃのように見えることから別名“トイトレイン”と呼ばれているそう特に興味があって見始めたわけではないのだが、終着駅がダージリンと聞いて、もしや紅茶のダージリン?と見続けていたら、やはりそうだった番組では、標高およそ2000mの斜面一面に広がる紅茶畑で、茶摘をしている女性たちの姿を映し出していた普段何気なく飲んでいるダージリンティーだが、こんな高地でしかも手摘みされていることをはじめて知り、ここら一帯で採れた紅茶を自分は毎日飲んでいるのかと思うと、ちょっとした感動を覚えるのであった紅茶が好きだと言っておきながら、なんの知識もないので勉強になりましたいつもは、紅茶本来の風味を楽しむことなく、ミルクをたっぷり、砂糖を少々…と、自分好みのミルクティーにしてしまうのだが、番組を見て心突き動かされるものがあったのか、何も入れずにストレートで飲んだう~ん…瞼を閉じれば、ダージリンの茶畑の風景が目に浮かぶ……ハズがないかなんだかいつもとは違う、ちょっと格別な味がした……ような気がするハイ、感化されやすいんですでもね、やっぱりミルクと砂糖が入っているほうが、紅茶は美味しいや!【ダージリン】インド北部・東ヒマラヤ山麓で栽培された、マスカットに似た芳醇な香味と明るい水色が特徴の紅茶
2007年11月18日
自分の場合、ブログを書くときは、その日のうちにパソコンの前に座ってダイレクトに打ち込むことはまず無い毎日パソコンを覗ける環境でもないので、空いている時間に打ちまとめておいたものを、時間に余裕があるときにブログの更新にとりかかるなので、内容を忘れない為にも、まず仮題の題名をつけておくそしてブログを更新する際、一通り文章を書き上げると一度読み返し、はじめにつけた題名と内容がそぐわない時は、その時に題名を変更する題名をつけるときは、ちょっとだけこだわっているそれは、自分がそうなのだが、他人様のブログを覗く際、タイトルを頼りに見てまわるのが理由あまりにもストレートなタイトルだと、おおかた内容が予想できてしまうが、ちょっと思わせぶりだったり意味深なタイトルだと、なんだろう?と覗きたくなるからだだからというわけではないが、自分がブログを書く際、あまりストレートな表現なものは避け、かつ、奇をてらいすぎて意味不明なタイトルをつけないよう心がけているなんでタイトルの話をしたかというと…実は今日の讀賣新聞朝刊の社会面を読んでいたら、こんな記事を見つけたからだった【家政婦は盗んだ】事件の内容は、60歳代の女性家政婦が、働いていた女性宅から、金の延べ板15枚(計15kg、4100万円相当)を盗んだというもの事件そのものは窃盗事件なのだが、この記事につけられた【家政婦は盗んだ】という見出し!これって、市原悦子氏が家政婦として派遣された先の家の秘密をあら探しする内容で好評を得ている人気サスペンスドラマ『家政婦は見た!』というドラマのタイトルを完全に意識してつけているでしょ?いや、ユニークだとは思うけれど、全国紙の新聞がつけるような小見出しかなぁ?なんて思ったたしかに目を惹くし、インパクトあるタイトルだけれど、なんとなく事件そのものが軽視されているような気がするんだけれど…で、この事件の報道は、讀賣新聞の記事だけでなく、たまたま朝のニュース番組を見ていたら同じ事件を取り上げていて、こちらはさらに露骨に、【家政婦は見た! そして盗んだ!!】なんてタイトルをつけて、事件を報道していたニュース番組といっても、エンターテイメント性が高い情報番組だからかもしれないが、なんかねぇ…事件の被害者の方や、真面目に働いていらっしゃる他の家政婦の方たちの事を考えると、今回の報道のあり方はいかがなものか?なんて思うのであった
2007年11月11日
仕事柄朝が早く、新便配達が来る前に家を出てしまうので、朝刊は帰宅後に読む仕事から帰ってくると、昨日の朝刊に目を通していなかったので2日分の新聞を読んでいると、昨日の6日付の社会面に載っていた1つの記事に目が留まった[バイクに幅寄せ 衝突死させる]記事によると、オートバイに追い抜かれたことに腹を立てた乗用車の運転手が、抜き返したうえ、歩道側に車を幅寄せするなどしてオートバイの進路をふさぎ、その結果、オートバイ運転手を信号機の柱に激突させ死亡させたというもの乗用車の運転手はそのまま現場から走り去ったが、目撃者の証言などから車種を特定、約2000台にも上る同車種の所有者から容疑者を割り出し、事故からおよそ5ヵ月後に逮捕した(新聞記事より抜粋)ただ単にバイクに追い抜かれただけで立腹して、そこまでの行為に至るだろうか?そこらへんの経緯は新聞記事には載っていないので、事の背景を知る由はないが、それにしても乗用車の運転手の行動はあまりにも短絡的といえようもう少し冷静に物事を考えていられれば、このような事態を招くことはなかった筈であるしかしながら、今回の容疑者を擁護するわけではないが、気持ちが解らないわけではないいや、追い抜かれたら自分も腹が立つ…というような次元の話ではない自分はマイカー通勤なので毎日車のハンドルを握るが、我が物顔で走行するバイクには時々ヒヤッとさせられることがあるからだ(運転中にヒヤッとする思いは、バイクに限っての話ではないが…)というのも、それはあるトラウマからきているものであったあれは忘れもしない2年前の1月の出来事時刻は18時前後都内某所の片側3車線の一般道で、自分は渋滞に巻き込まれていた一向に渋滞の列は進む気配を見せないそんなとき、自分の右後方から1台のバイクがスーッと現れたバイクは合間を縫って前に進みたいようだったが、真ん中の車線にいる自分の車と、右側には大型のトラックが停まっていて、どう見ても幅が狭くて前には行けない様子しかし、バイクの運転手はあろうことか強引に進んだのであるすると、バイクが自分の車に傾きかけてきたかと思ったら、バリッ!!という物凄い音が轟いたその瞬間何が起こったのか自分には解らなかったバイクの運転手を見ると、こちらを振り返ったかと思ったら、そのまま逃走してしまったのであるその慌てぶりを見て、バイクが自分の車に衝突したんだな!と直感した今すぐ車外に飛び出して相手を捕まえるなり、状況を確認したかったのだが、何分渋滞に巻きもまれていてノロノロと動いている現状では、身動きをとることができず、ただただ車のハンドルを握っているしかない出来ることといえば、スルスルと渋滞の列を縫うようにして走り去っていくバイクを目で追いかけていくことぐらいすると、そのバイクは前方(現場からおよそ100メートル先)の赤信号で止まった当て逃げしたくせして、律儀に赤信号で止まってんじゃねぇよッ!!相手が追いかけてこないからの余裕の表れなのだろうクッソー!追いかけたいが、まさか渋滞の列に車を放置するわけにはいかないし、たとえ車を乗り捨てて走って追いかけたとしても、相手はバイク、青信号になってしまえば振り切られてしまうだろうでは、『そいつ、当て逃げ犯だから捕まえてくれぇ!』と大声で叫べばいいのか?世知辛い東京のど真ん中で、そんな事を叫んだとしても、雑踏に掻き消されてしまうだろう犯人が目の前にいるのに、追いかけることができないこの悔しさときたら半端ではないそうこうしているうちに信号は青に変わり、犯人は走り去ってしまった自分の車がどんな状況なのか、窓から顔を突き出して覗いても確認することができなかったので、渋滞からようやく開放されると車を路肩に止めて、確認したすると!!!!!なんと、車のバンパーが引きちぎられていたのであるバイクが自分の車のバンパーに引っかかるように接触し、そのまま強引に進んだために、バンパーが裂けてしまったのだ見るも無残な姿あのバイクの運転手は振り返って確認したのだから、自分が何をしたのか把握していたにも関わらず、現場に留まるわけでもなく、頭を下げるでもなくそのまま走り去っていったのであるムカツク~!!自分の被害状況が解った今になって、怒りが沸々と沸いてきた勢いに任せて110番のダイヤルを押すも、「本日都内は事故が頻繁している為、現場に伺うのは時間がかかります」と、実に事務的な声ようやく警察官の方が来て聴取を受けたのだが、「相手のバイクは?」「特徴は?」と聞かれても返す言葉がなかったそう、ナンバーはおろか、バイクに興味が無いので、相手がどんなバイクに乗っていたかもわからないし、服装や身体的特徴なども何一つ覚えていなかったのであるただ答えられたのは、逃げていった方面だけ手がかりが何も無いんじゃ、調べようもないよね我ながら、咄嗟のときの自分の判断力と記憶力の無さが情けなくて仕方ありませんハイ、わかりました泣き寝入りします結局バンパーの修理費の4万円は自腹まったく泣くに泣けませんワ当て逃げした犯人さん、恨みまっせぇ!!もう2年前の話だというのに、なぜかついこの間の事のように今でも覚えているいや正しくは忘れられないのだなので、その件を機にバイクが嫌いになったというか、今日のような記事を目にすれば記憶が鮮烈によみがえってくるし、車の走行中に、網目を縫うように車線を変更しながらバイクを運転されたり、渋滞中に無理に横を通ろうとすると、2年前のことがトラウマとなってか心が乱れる自分はバイクを運転しないので、バイクの運転感覚は解らない当人たちは車の合間をすり抜けて走行するのはなんとも思っていないのかもしれないが、車の運転している立場からすると、あまり気持ちがいいものではない自分がバイクの運転を不快に感じるように、バイク側からもしてみれば、車の運転手に対して危険や不快に感じることがあることだろう要は思いやる気持ちだよね自己中心的な運転をするから、そうなるんだと思うちょっと割り込みされようものなら入れさせなかったり、遅い車が走っていたりすると煽ってみたり…公道は自分だけの道で無いってことを認識しなければならない皆が互いを思いやる気持ちをもって、安全運転を心がければいいんじゃないかなそうすれば、少なからず昨日の新聞の社会面に載ったような不条理な交通事故は起こらないと思う
2007年11月07日
安い値で仕入れた金木犀の苗木折りしも街は、金木犀の香りに包まれて華やいでいた時期だったので、「我が家にも植えようかしら?」なぁんて思われるお客様がいるに違いない、これは売れる!と思って勇んで仕入れたものの、まったく売れなかった他人の庭先で匂いを楽しむのはいいけれど、自分では育てようとは思わないということかまぁ大きく育つ金木犀は、育てるにしてもそれなりのスペースが必要になってくるし、そう気軽に育てるというわけにはいかないからね気づけば、金木犀の苗木はスクスクと順調に芽を伸ばし、仕入れたときよりもだいぶ背丈が伸びていたずいぶんと大きくなって…さてさて、売れない金木犀の苗木、どうしようか?そもそもは市場で見つけたとき、売れ残ったらその時は自分が買って、我が家に植えようかな?なんて思って仕入れたのが始まりだったのだが、まさか1鉢も売れないとはねこうなったら自分が買って帰りますよと言っても、ぜんぶ植えるほどのスペースはないので2鉢ほど今までは他所様の庭や街に咲く金木犀の香りを楽しんでいたが、それって人目があるから、十分に満喫することができないんだよねその点、自分の庭先であれば、誰に気兼ねすることなく、花も香りも思う存分楽しめるそのときは、金木犀の花のなかに顔を埋めたい無事に生長して花が咲くかどうかもわからないのに、早くも来年の秋が楽しみでしかたない
2007年11月01日
仕事で車を走らせていた東京の街はまだ目覚めていないようで、人影の少ないお台場から有明へこの地区は、しばらくこない間に、徐々にではあるが開拓が進められていて街の風景が変貌を遂げつつあった一昔前は、銀座から有明に行くには、晴海通りを豊洲経由で、ちょっと遠回りするかたちだったのだが、いつの間にか新しい道路が開通したようで、銀座から一直線の道で有明に行けるようになった時間も短縮できて非常に便利である未開拓な部分が多いだけに、交通の需要が少ないのか、真新しく感じる道路を銀座に向かって走るゆりかもめ(臨海副都心を走る新交通システム)の有明テニスの森駅にさしかかったときだった駅の両脇は広大な空き地となっていて、周囲はフェンスが張られ、その敷地内には大きな立て看板だけがあった高層マンションでも建つのだろうか?大きな立て看板に眼をやると、こう書かれていた“2016年・東京オリンピック 選手村予定地”東京オリンピックぅ!?そういえば、自分の記憶が正しければ、だいぶ前にオリンピックの候補地として東京と福岡?(うろ覚え)が争っていた…なんて報道を見たような気がするが、東京に決まっていたんだねぇスポーツには関心がないので、まったく事の顛末を知りませんでしたところで選手村って、スポーツ選手が宿泊するところだよね?その予定地とされている広大な敷地には草が伸び放題になっている海を挟んで見えるのは、レインボーブリッジに高層ビル、そして東京タワーなんだかこうして殺風景で、夢の欠片すら見えないようなその現場に立っていると、まったく将来の画の想像がつかないそれもその筈だよねだって、東京オリンピックが開催されるのは9年も先の話なんだから今日や明日のことだって、何が起こるか想像もできないのに、9年先のことなんていったら尚更な話に決まっている東京オリンピックかぁさぞかし盛り上がるのだろうか?その時自分はどうしているんだろう?そんな事を思いながら、夢の地をあとにして、ふたたび車を走らせた…
2007年10月19日
東京のはずれでの仕事を終えると、職場に戻る為に車に乗り込んだラジオのスイッチを入れる普段はラジオを聞かない自分だが、仕事の車に乗るときだけは聞いている特にこれといって聞きたい番組がある訳ではなかったので、BGM代わりに流していた耳を傾けているわけではなく、かといって聞いていないわけでもない車の運転をしているので、軽く聞き流していると、ちょっと興味を惹く話題が取り上げられたそれは、今日10月1日、東京タワーがピンク色にライトアップされるということ『乳がん早期発見啓発キャンペーン』である“ピンクリボンキャンペーン”の一環として、世界中の150以上ものランドマーク的な存在の建造物をピンク色にライトアップするもので、「乳がんへの正しい知識を持ち、早期発見の大切さ」をアピールしようという企画に、東京タワーが賛同し、数年前からライトアップが実施されているというこれは、素敵な情報をゲットしましたという事で、今日一日の仕事を終えると、マイカーに乗り込んで東京タワーへと向かった考えてみれば、東京タワーは殆どが赤い鉄骨だから、ピンク色のライトを当ててもあまり効果がないんじゃないかなぁ?遠くから見る東京タワーの姿は、照明が効果的でないのか、ピンク色には見えるものの薄らぼんやりとしか見えなかったようやく近くに望めるところまで来ると、ハッキリとその姿を確認することができた立ち並ぶビルの合間から見えた東京タワーの姿は、ラジオで言っていた通り、ピンク色にライトアップされていたいつも見る姿は堂々としたものだが、今日の立ち姿は、やさしい色に包まれているせいか、優しく感じるというか、妖艶というか、いつもとは違った表情を見せていた東京タワーの足もとに到着遠くから眺めていた時は、「あぁ色が違うなぁ」ぐらいにしか思わなかったのだが、こうして足元のすぐそばにきて、333メートルもあるタワーを仰ぎ見ると、その迫力に圧倒される東京タワーには、今宵のライトアップを楽しもうと、沢山の人で賑わっていたカップル、友人、会社帰りの人…皆が皆揃って、携帯電話やデジカメで、夜空に浮かび上がるピンク色の東京タワーを撮影していた自分も何枚もシャッターを押したほんと、夜景はうまく撮れないしばらく写真を撮っていたり、東京タワーを見上げたりしていたと、その時、ふと思ったそもそも、なんで東京タワーがピンク色のライトアップをされているのかそれは、『乳がん早期発見啓発キャンペーン』の一環である果たしてその趣旨を、今ここで賑わっている人々のどれほどの人たちが理解しているのだろうか?なぁんて偉そうな事を言っている自分も、ラジオで聞いただけの受け売りだから、殆どキャンペーンに関しての知識は無いに等しいラジオを聞かないでいたら、なぜ今日の東京タワーはピンク色なのだろう?あぁ綺麗だなぁ…ぐらいにしか思わなかっただろう折角のキャンペーンもそれでは成果が得られないというものではないだろうか?いや、自分が情報に疎いだけで、皆知っていることなのかもしれないだとしたら生意気な口を叩いてスミマセン乳がんと聞くと、やはり女性の病気というイメージが強い以前、母が乳房に“しこり”があると言って、非常に気にしていたことを思い出した(結果的には乳がんには結びつくものではなかったが…)それだけ、女性の方にとっては気になる病の一つなのだろうこの“ピンクリボンキャンペーン”が世間巷に広く知れ渡ることを祈りつつ、ピンク色に染まる東京タワーを後にするのであった
2007年10月01日
頻繁にというわけではないが、一般の方・著名人の方含めて、いくつかのブログを定期的にチェックしているそのうちの一つのブログを読んでいたときのこと“このブログが本になります!”と、誇らしげに書かれていた正直なところ、たいして話題にも評判にもなっていなさそうなのに何故?と、ちょっと不思議に思ったすると、ブログの最後にオチ?として“自費出版です”と締め括られていたそのブログのサイトは、オプションの一つとして、書き溜めたブログを書籍化するサービスがあり、それを利用するんだとかなるほど!そういうわけかいいなァ、いいなァ、ブログを本にできるだなんて凄いなァ羨ましいなァ今、自分で書いたブログを書籍化する人が多いそう記念になるし、宝物になるよねそんな情報を耳にしてしまうと、なんだか、自分のこのブログも書籍化したくなってきた他愛も無いことばかり綴っているだけなのに、本にする意味があるのか?なんて思われるかもしれないが、ここには、その日感じたこと、思ったこと、体験したこと、いわば自分の生きた言葉、自分の生きざまが詰まっているそんな自分史を一冊の本としてまとめられたら、どれほど素晴らしいことだろう自分のため、自己満足のための書籍化である早速、ブログを簡単に書籍化するサービスを行なっているサイトをいくつか見て回ったのだが、ブログのサイトと書籍サービスが連動しているものが殆どブログを本にしたいが為に、愛着あるこの楽天ブログを捨ててまで、ブログを新しく始めるのには些か抵抗があったブログを本にする夢は半日ともたずして、断念せねばならないのか?と、検索を続けていると、ようやく該当する1件を見つけた読んでいると、楽天ブログの書籍化に対応しているのは、自分が調べた限りでは1件のみらしいこれで、自分のブログも本にできる!と喜んだのも束の間、価格を見て目が大きく開いた参考価格の一例としてあげられていたのだが、その金額、なんと約10万円也!10万円ですかぁ?出版に関してはズブの素人だから相場が判らないんだけれど、そんなもんなのかなぁ?自分史の集大成としてなら、その金額も惜しみなく出すかもしれないけれど、1年分のブログを本にまとめる為に、そこまでの金額はさすがに出せへんなぁその後も色々調べてみた自費出版の窓口として、色々な出版社がブログの出版を取り扱ってはいるが、出版社相手となると、色々と細々な打ち合わせやらなんやらで、なんだか本格的な感じ気軽に出版したい自分としては少々尻込みしてしまうブログの自費出版は、しばらくはお預けにしとこうかなでも決して諦めたわけじゃないいつかは、このブログを本にしたい実現させたいな実現できたらいいなそんな夢みたいなことを考えながら、今日のブログを書く自分です
2007年08月30日
『仕事辞めたいんですけれど…』不平不満ばかりたらしていたスタッフが、そう言った人手不足とはいえ、モチベーションが下がった人材を無理に引き止めても仕事に影響を及ぼすと思い、9月末日付けということで受諾したそれから一ヵ月が経った…辞めると喚いていたスタッフから、一向に退職届が出される気配がない痺れを切らして、早く退職届を出すよう促すと、そのスタッフから意外な答えが返ってきた『辞めたくないんですけれど…』はぁ?今さら何言ってるの?話を聞くと、一ヶ月前はつい勢いに任せて辞めると口走ってしまったが、それからよくよく考えて、気持ち新たに頑張ろうと決意したのだとか…って、思っているだけじゃなくて、口にしなけりゃ判らないだろうに!こちとら、人材確保の為に、求人紙に募集をかけて、もう替わりの人材の雇用決めちゃったんだからそう、遅すぎたよ…その旨を当人に伝えると、覇気の無い声で、『どうにかなりませんか?』って、はじめに辞めるって言い出したのはオマエだろッ!!と、ニベもなく突っ込んでやった自分も若かりし頃は、勢いに任せて“こんな仕事辞めてやるッ!”と息巻いた事があった毎日が不満ばかりで、よそに行けば、ここより悪い職場はないだろうと思ってのことだったしかし、数ある職場を渡り歩いた結果は、どこも一緒!不満の無い職場なんて無い!(自分の経験談ね)高校を卒業して花屋に就職し、その後いろいろな職種を経て、ふたたび花屋へ傍から見たら、遠回りしているように見えるかもしれないが、自分はそうは思っていない確かに横道にそれて、先が見えない道を進んでいった時は、自分は何をすべきか迷い、自問自答の日々だったが、自分の選択した道に後悔はしていなかったし、違う世界を見たことで、色々な人と出会い、さまざまな経験をさせてもらったそれらは自分の人生において、かけがえのない財産となったそして、自分は何より花が好きなのだということに気づかされ、花屋という職業に舞い戻った自分の人生において、無駄な日々というものは無かったのであるだからというわけではないが、退職発言を撤回してきたスタッフに対しては、退職を促した(なんだか変な話だけれど)色々な事にチャレンジできるのは、若さの特権なのだから、いまのうちに自分の興味あるものに挑戦していけば、そのうちに答えを見つけることができるのではないだろうかそれに、そもそもは自分の軽はずみな発言から起こった、いわば身から出た錆なわけで、社会人である以上は、自分の発言には自分で責任を持たなければならない今回の件でわかったでしょ?怒りの感情にまかせるのではなく、すこし冷静になって考え行動しなさいすでに退職を見越しての準備に入ってしまった以上は、余分な人材を抱える訳にもいかないので、再三の退職撤回も、断腸の思いで突っ撥ねた退職まであと1ヶ月…最後にそのスタッフはこう言った『あと1ヶ月で、自分のやりたいことを見つけます』それだけ時間があれば、きっと見つかるはず【怒りは無謀をもって始まり、後悔をもって終わる】(ギリシャの哲学者・ピタゴラスの言葉より)
2007年08月24日
…前日の、間もなく日付が変わろうとしている夜のこと明日は3週間ぶりの休みと言っても、とり立ててなんの予定も入れていないただ、慢性的な寝不足なので、休みの日ぐらいは、目覚まし時計をかけないで思うがままに寝ようとだけ思っていたそのうえで、早く起きることができたら、どこかへ出かけよう…と漠然とした考えを抱き、瞼を閉じた………そして今日のこと目が覚めた時刻は3時前哀しいかな、目覚まし時計をセットしていなくても、長年の生活のリズムが身体に刻み込まれているのか、いつも起床する時間に目覚めたさすがにこんな時間から起きて活動するのはまだ早いだろうと、再び瞼を閉じた眠りから目覚めたときは、すでにお天道様は高いところにあった頭上にある窓からは、容赦なく強い日差しが差し込んでくる十分に眠って、自然に目が覚めたというよりは、猛暑のせいか、部屋が異常なほどの熱気に満ち、その暑さで目覚めたという感じだった全身にひどく汗をかいていたので、すぐさま浴室にむかい、湯船に気が済むまで浸かってから出てくると、部屋のクーラーを入れて一息ついた時刻は14時を少し過ぎたところ窓を開けると、燦燦と太陽が照り、外は灼熱の世界と化していたとてもじゃないが、この暑さのなか出かける気にはなれなかったので、今日一日は家のなかで大人しくしていたほうが賢明と、のんびり過ごすことに決めたこんな悠長な時間はなかなか取れないので、読書をすることに読んだのは、女優・五大路子氏著の『白い顔の伝説を求めて~ヨコハマメリーから横浜ローザへの伝言』先日、五大氏のひとり舞台を観に行ったときに劇場で購入したもので、舞台を観てからというものの、モデルとなった“ヨコハマのメリーさん”が気になって仕方ない自分は、まだ観劇の余韻が残っているうちに一気に読み上げてしまおうと手にとった事の発端は、1991年5月3日、横浜港まつりの日審査員として招かれていた五大氏が、審査員席から、街中にひとり佇む白塗りで腰をかがめた女性を見かけたその女性に興味を持った五大氏は、その白塗りの女性(ヨコハマのメリーさん)は一体何者なのか?独自の調査を開始していくメリーさんに縁ある方々から話を伺い、いつしか、その情熱は劇作家の方までも突き動かし、様々な方々の協力のもとで、ついには、ヨコハマのメリーさんをモデルにした『横浜ローザ』という物語が完成 1996年4月、東京日本橋の三越劇場で公演される五大氏のバイタリティーがきっかけで生まれた作品の誕生であるあの横浜港まつりの日に、メリーさんを初めて見かけてから、実に5年もの歳月が流れていた…五大氏が、ヨコハマのメリーさんに興味を抱き、色々と彼女について独自で調べるのだが、なかば都市伝説と化していたメリーさんの話は、街にはさまざまな憶測や噂が飛び交い、聞く話すべてがすべて、真実かどうかは本当のところは誰にもわからない後世に語り継がれるような偉人でさえ、どんな思いでその時代を生き、人生を歩んできたなどわかるわけなどないのだから、それが、一般の人なら尚更である真実は自分の心の中のみにしか存在しない彼女の生い立ちや生き様は、本書では深くは追求されていないので、ヨコハマメリーという人物を知りたくて読むと、いささか物足りなさを感じるのは否めないが、興味深いことも書かれているそれは、なぜヨコハマのメリーさんは、顔を真っ白に塗って街中を歩いていたのかその大きな謎が、関係者の証言によって解き明かされているだけでも、本書を読んだ価値はあった本書は、ヨコハマメリーさん、そしてメリーさんをモデルにした舞台『横浜ローザ』に対する五大氏の思いや情熱、愛がストレートに伝わってくる1冊この本を読んで、益々『横浜ローザ』という舞台の虜になってしまったいまや女優・五大路子氏の代表作と言っても過言ではなかろう『横浜ローザ』五大氏ご本人が仰っていたが、来年も夏に公演があるという今夏はじめて舞台を拝見した時は、ただただ五大氏の熱演に圧倒されたが、本書で舞台の裏側を拝見したので、次観る機会が訪れる時がくれば、その時は、より一層深く胸を打つことに違いない読み終える頃には、だいぶ陽は傾いていた窓から差し込むその日差しは、本のページをオレンジ色に染めていた…そのなんともいえないやさしい色に包まれて、自分の3週間ぶりの休日は終わろうとしていた【白い顔の伝説を求めて ヨコハマメリーから横浜ローザへの伝言】五大路子・著1050円(税込)壮神社刊
2007年08月21日
今夏、知人から暑中見舞いを兼ねた結婚報告の葉書が2枚舞い込んだ幸せそうなそれぞれの花嫁姿の写真を見ながら、自分もそういう年頃なんだなぁ…と、しみじみ思ったそういえば、年賀状もここ数年は子供が映っているものを貰うことが多くなっている同級生や知人とたまに会っても、『うちの子供は…』なんて話題をされると、自分は話の中に入ることができず、少々居心地が悪い周りがどんどん結婚をしていっても、それは人それぞれの人生の選択なので、自分自身に焦りや妬みはないのだが、会うたびに、『いつ結婚するの?』『なんで結婚しないの?』なんてセリフを聞かされると、少々癪にさわる喧しいわッ!!放っといてちょうだい!!なんて思うわけである結婚願望がないわけじゃないし、早く子供も欲しいんだけれども、こればっかりはねぇ……自分ひとりでどうにかなるものじゃないからそういえば、一度だけ手相を見てもらったことがあるのだが、その時言われたのが、『あなたは晩婚ですね』だって今はまだまだ自分のことだけで精一杯だから、結婚のことなんて考えられへんね【平均結婚年齢(2005年データ)】男性 31.7歳女性 29.4歳(厚生労働省資料より)
2007年08月19日
以前バスツアーに参加した旅行会社から、旅行の案内が届いていた定番の日帰りバスツアーや、湯けむり宿での1泊旅行、東北四大祭りや阿波踊り、越中八尾おわら風の盆といった祭りを見に行く旅、今の季節にピッタリなハイキング、さらには海外旅行など、実に多種多彩なツアーが組まれている自分の休みが思い通りにならない自分にとっては、先の予定など決めることはなかなか難しいので、ツアー案内のチラシを見るなんて、目に毒でも、どうせ行けないのだからと割り切って、見て楽しむだけというなんとも寂しいかぎり自分は、北海道と九州・沖縄の地を踏んだことが無い実際訪れた地で、一番北は十和田湖、一番南は日本三景のひとつである安芸の宮島である世界からしてみれば日本は小さな島国だが、そんな小さな島国のなかでも、限られた場所にしか行ったことがない自分の行動範囲はなんて狭いのだろう日本に住んでいながら、まだまだ日本を知らないなんて、なんだか勿体無い(東京に住んでいながら、まだまだ東京も知らないんだけれど)時間とお金に余裕さえあれば、すぐにでもどこかへ旅立ちたい気持ちではあるのだが、なかなか現実はそうもいかなくて…現実味が少ない話なだけに、かえって旅への思いも強く募るのかなもし、旅行に行けるのならどこへ行きたいかなぁ…なんて考えてみるまぁ夢見るのはタダやしね大好きな街の京都にも行きたいが、どうせならまだ訪れたことのない地に行ってみたいバカンスらしいバカンスをするよりも、風光明媚で、情緒があって、日本を感じられるところで、ゆっくりのんびりと過ごしたいまぁ夢のまた夢の話やけどいつか、それが現実となって訪れる日を信じて…
2007年07月28日
『普通そういう事はしないだろ』『普通にやってくれればいいから』何気に普通と言う言葉を使っている今日もまた、普通という言葉を使うと、スタッフの一人に言われた『普通って何ですか?』普通、そんな事聞く?って、また使ってる…『普通は普通だろ』ん!?答えになっていないかあらためて普通とは何かと聞かれても、きちんとした答えが返せない辞書で調べてみた【普通】特別ではなく、一般的であること(辞書調べ)一般とは?さらに辞書で調べる【一般】いろいろの事物・場合に広く認められ、成り立つこと(辞書調べ)う~ん…判ったような、判らないようなやっぱり、普通は普通なんだよごくごく当たり前のようなことができていないから、自分は言葉のなかに“普通”という単語を忍ばせているのだと思う例えばだ◆社員が遅刻するか?◆自分で何も考えないで仕事するか?◆いくら理不尽なことを言われたからといって、そのお客様に向かって顔や態度に表すか?◆自分に非があるのなら、まず謝らないか?◆社長に刃向かうか?◆燃えるゴミと燃えないゴミは分別しないか?明らかに普通では考えられないでしょ常識や自覚が無さすぎこれも時代の流れで、ジェネレーションギャップなのだろうか?自分が思考が凝り固まった古臭い人間で、今の風潮に追いつけていないのだろうかいやいや、そんな言葉で片付けていいものではないだろう何も自分は無理難題や高望みをしているわけではないただただ、普通であることを望んでいるだけところが、それすらできない当人たちは、自分に非がある自覚はなく、さもそれが普通のように振舞っている姿を見ていると、なんだか自分の考えている普通が、普通じゃないのか?なんて思えてきた人によって、普通であることの線引きが変わるのであれば、普通が普通で無くなるいったい、普通って何なのさ何が普通なのさ誰か教えてぇぇぇ!!
2007年07月27日
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