∋(。・"・)_†:*.;".*。彼方野まりあ、世界中で愛を叫ぶ!◆

羅生門 下


 下人の眼は、その時、はじめて、其(その)屍骸(しがい)の中に蹲つてゐる人間を見た。
 檜(ひ)肌色(はだいろ)の着物を著た、背の低い、痩せた、
 白髪頭(しらがあたま)の、猿のやうな老婆である。
 その老婆は、右の手に火をともした松(まつ)の木片を持つて、
 その屍骸(しがい)の一つの顏を覗きこむやうに眺(なが)めてゐた。
 髪の毛の長い所を見ると、多分(たぶん)女(をんな)の屍骸であらう。
 下人は、六分の恐怖(きようふ)と四分の好奇心とに動かされて、
 暫時は呼吸(いき)をするのさへ忘れてゐた。
 舊記の記者(きしや)の語を借りれば、「頭身(とうしん)の毛も太る」やうに感じたのである。
 すると、老婆(らうば)は、松の木片を、床板の間に挿(さ)して、それから、
 今まで眺めてゐた屍骸の首に兩手(りやうて)をかけると、
 丁度、猿の親が猿の子の虱(しらみ)をとるやうに、
 その長い髪(かみ)の毛(け)を一本づゝ抜きはじめた。 髪は手に從(したが)つて抜けるらしい。
 その髪の毛が、一本づゝ抜(ぬ)けるのに從つて下人の心(こゝろ)からは、
 恐怖が少しづつ消えて行つた。
 さうして、それと同時(どうじ)に、
 この老婆に對するはげしい憎惡(ぞうを)が、少しづゝ動いて來た。
 >――いや この老婆(らうば)に對すると云つては、語弊(ごへい)があるかも知れない。
 >寧、あらゆる惡(あく)に對する反感(はんかん)が、一分毎に強さを増して來たのである。
 この時、誰(たれ)かがこの下人に、さつき門(もん)の下でこの男が考へてゐた、
 饑死(うゑじに)をするか盗人になるかと云ふ問題を、改めて持出(もちだ)したら、
 恐らく下人は、何の未練(みれん)もなく、饑死を選んだ事であらう。
 それほど、この男(をとこ)の惡を憎む心は、老婆の床(ゆか)に挿した松の木片のやうに、
 勢よく燃(も)え上(あが)り出してゐたのである。
 下人には、勿論、何故老婆が死人(しにん)の髪の毛を抜(ぬ)くかわからなかつた。
 從つて、合理的(がふりてき)には、
 それを善惡の何れに片(かた)づけてよいか知らなかつた。
 しかし下人にとつては、この雨(あめ)の夜(よ)に、この羅生門の上で、
 死人の髪の毛(け)を抜くと云ふ事が、それ丈で既に許(ゆる)す可らざる惡であつた。
 勿論 下人(げにん)は さつき迄自分が、盗人になる氣でゐた事なぞは
 とうに忘れてゐるのである。
 そこで、下人は、兩足(りやうあし)に力を入れて、いきなり、梯子(はしご)から上へ飛び上つた
 さうして聖柄(ひぢりづか)の太刀に手をかけながら、
 大股(おほまた)に老婆の前へ歩みよつた。
 老婆が驚いたのは 云ふ迄もない。
 老婆は、一目下人を見ると、まるで弩(いしゆみ)にでも彈かれたやうに 飛び上つた
 「おのれ、どこへ行く。」
 下人は、老婆が屍骸(しがい)につまづきながら、
 慌(あは)てふためいて逃げようとする行手を塞いで、かう罵(のゝし)つた。
 老婆は、それでも下人をつきのけて行(ゆ)かうとする下人は又、
 それを行かすまいとして、押(お)しもどす。
 二人は屍骸(しがい)の中で、暫、無言(むごん)のまゝ、つかみ合つた。
 しかし勝敗(しようはい)は、はじめから、わかつてゐる。
 下人はとうとう、老婆の腕(うで)をつかんで、無理にそこへ(ね)ぢ倒(たほ)した。
 丁度、鶏(とり)の脚のやうな、骨と皮ばかりの腕である。
 「何をしてゐた。さあ何をしてゐた。云へ。 云はぬと これだぞよ。」
 下人は、老婆(らうば)をつき放すと、いきなり、太刀(たち)の鞘(さや)を拂つて、
 白い鋼(はがね)の色をその眼の前へつきつけた。 けれども、老婆は默(だま)つてゐる。
 兩手(りやうて)をわなわなふるはせて、肩で息(いき)を切りながら、
 眼を、眼球(がんきう)が(まぶた)の外へ出さうになる程、
 見開いて、唖のやうに執拗(しうね)く默つてゐる。
 これを見ると、下人は始(はじ)めて明白にこの老婆の生死が、全然、
 自分の意志(いし)に支配されてゐると云ふ事を意識(いしき)した
 さうして、この意識は、
 今(いま)まではげしく燃えてゐた憎惡の心を何時(いつ)の間にか冷(さ)ましてしまつた。
 後(あと)に殘つたのは、唯、或(ある)仕事(しごと)をして、
 それが圓滿(ゑんまん)に成就した時の、
 安らかな得意(とくい)と滿足とがあるばかりである。
  そこで、下人は、老(らう)婆(ば)を、見下しながら、
 少し聲を柔(やはら)げてかう云つた。「己は檢非違使(けびゐし)の廳の役人などではない。
 今し方この門(もん)の下を通(とほ)りかゝつた旅の者だ。
  だからお前に縄(なわ)をかけて、どうしようと云ふやうな事はない。
 唯(たゞ)今時分、この門の上で、何(なに)をして居たのだか、
 それを己に話(はなし)しさへすればいいのだ。」
 すると、老婆は、見開(みひら)いてゐた眼を、一層(そう)大(おほ)きくして、
 ぢつとその下人の顏(かほ)を見守つた。
 の赤くなつた、肉食鳥のやうな、鋭(するど)い眼で見たのである。
 それから、皺(しは)で、殆、鼻と一つになつた唇を、
 何か物でも噛(か)んでゐるやうに動かした。
 細い喉で、尖つた喉佛(のどぼとけ)の動いてゐるのが見える。
 その時、その喉(のど)から、鴉(からす)の啼くやうな聲が、喘ぎ喘ぎ、
 下人の耳(みゝ)へ傳はつて來た。
 「この髪を抜いてな、この女の髪を抜いてな、鬘(かつら)にせうと思うたのぢや。」
 下人は、老婆の答が存外、平凡(へいぼん)なのに失望した。
  さうして失望(しつばう)すると同時に、
 又前の憎惡が、冷な侮蔑(ぶべつ)と一しよに、心の中へはいつて來た。
 すると その氣色(けしき)が、先方へも通じたのであらう。
 老婆は、片手(かたて)に、まだ屍骸の頭から奪(と)つた長い抜け毛を持つたなり、
 蟇(ひき)のつぶやくやうな聲で、口ごもりながら、こんな事を云つた。
 成程、死人の髪(かみ)の毛(け)を抜くと云ふ事は、惡い事かも知(し)れぬ。
 しかし、かう云ふ死人の多くは、皆その位な事(こと)を、
 されてもいゝ人間(にんげん)ばかりである。
 現に、自分が今、髪(かみ)を抜いた女などは、
 蛇(へび)を四寸ばかりづゝに切(き)つて干したのを、
 干魚(ほしうを)だと云つて、太刀帯(たてはき)の陣へ賣りに行つた。
 疫病にかゝつて死ななかつたなら、今でも賣りに行つてゐたかもしれない。
 しかも、この女(をんな)の賣る干魚は、味がよいと云ふので、
 太刀帯たちが、缺かさず菜料(さいれう)に買つてゐたのである。
 自分は、この女のした事が惡(わる)いとは思はない。
 しなければ、饑死(うゑじに)をするので、仕方(しかた)がなくした事だからである。
 だから、又今、自分(じぶん)のしてゐた事も惡い事とは思(おも)はない。
 これもやはりしなければ、饑死(うゑじに)をするので、仕方がなくする事だからである。
 さうして、その仕方がない事を、よく知つてゐたこの女は、
 自分のする事を許(ゆる)してくれるのにちがひないと思(おも)ふからである。
  ――老婆は 大體こんな意味の事を云つた。
 下人は、太刀を鞘(さや)におさめて、その太刀の柄を左(ひだり)の手(て)でおさへながら、
 冷然として、この話を聞いてゐた。
 勿論 右(みぎ)の手(て)では、
 赤く頬(ほゝ)に膿(うみ)を持た大きな面皰を氣(き)にしながら、聞いてゐるのである。
 しかし、之を聞(き)いてゐる中に、下人の心には、或(ある)勇氣(ゆうき)が生まれて來た。
 それは さつき、門(もん)の下(した)でこの男に缺けてゐた勇氣である。
 さうして、又(また)さつき、この門の上(うへ)へ上(あが)つて、
 この老婆を捕へた時の勇氣とは、全然(ぜんぜん)、
 反對な方向に動(うご)かうとする勇氣である。
 下人は、饑死をするか盗人(ぬすびと)になるかに迷はなかつたばかりではない。
 >その時(とき)のこの男の心もちから云へば、饑死(うゑじに)などと云ふ事は、
 殆、考(かんが)へる事さへ出來ない程、意識の外に追ひ出されてゐた。
 「きつと、さうか。」老婆の話が完ると、下人は嘲(あざけ)るやうな聲で念を押した。
 さうして、一足(あし)前(まへ)へ出ると、不意(ふい)に、右の手を面皰から離して、
 老婆の襟上(えりがみ)をつかみながら かう云つた。
 「では、己が引剥(ひはぎ)をしようと恨むまいな。
 已もさうしなければ、饑死をする體なのだ。」
 下人は、すばやく、老婆の着物(きもの)を剥ぎとつた。
 それから、足(あし)にしがみつかうとする老婆を、
 手荒(てあら)く屍骸の上へ蹴倒(けたほ)した。
 梯子の口までは、僅(わづか)に五歩を數へるばかりである。
 下人は、剥ぎとつた檜肌色の着物(きもの)をわきにかゝへて、
 またゝく間に急な梯子を夜の底へかけ下りた。
 暫(しばらく)、死んだやうに倒れてゐた老婆が、屍骸の中(なか)から、
 その裸(はだか)の體を起したのは、それから間(ま)もなくの事である。
 老婆は、つぶやくやうな、うめくやうな聲を立てながら、
 まだ燃(も)えている火の光をたよりに、梯子(はしご)の口まで、這つて行つた。
 さうして、そこから、短い白髪(しらが)を倒にして、門の下を覗(のぞ)きこんだ。
 外には、唯、黒洞々たる夜があるばかりである。
 下人は、既に、雨(あめ)を冐(をか)して、京都の町へ強盗を働きに急いでゐた。




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