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Over The Moon.
【れ】【と】
【れ】レタスとキャベツとマヨネーズ
★同時消化★【と】取り返しのつかない失態
「うわぁ信じらんない」
その声に振り向くと、麻由子が僕の買ってきた買い物袋を吟味しているところだった。テーブルの上に品物がいくつか並べられ、腕まくりをした麻由子が、今は緑色したボール状の野菜を手にしている。
「へーちゃん、これレタスじゃなくてキャベツだよ?」
まつげを綺麗にカールさせた目でこちらを見、呆れたように言った。
僕は寝転がった状態から身を起こす。
「あれ、そうだった?」
「そうだよー。もー。レタス買ってきてって言ったじゃない」
頬をふくらませてそのキャベツをにらむ。
「悪かったよ」
僕はそう言いながら、どっちでも一緒だろうと思った。キャベツもレタスも薄緑の葉っぱの玉、ということに変わりはないのだから。僕は再び絨毯に横になり、リモコンでチャンネルを変える。
だが麻由子は不満らしく、スーパーの袋をがさがさ言わせながらまだ何か言っていた。
「せっかくサラダ作ろうと思ってたのにー。これじゃあ千切りか何かしないと食べらんないね」
「すればいいだろ」
僕は、何気なく言っただけだった。
でもそれが、麻由子の機嫌を完璧に損ねたらしい。
「――へーちゃん!」
麻由子の本気の怒りの混じるその声に、僕はびくりと身を跳ね上がらせた。
「どーしてそんなに無頓着なの!? 私、せっかく、美味しいお料理作ろうっていつもいつも頑張ってるのに!」
これはまずい、と思って麻由子を見ると、なんと彼女は、怒り泣きのような表情で僕をみつめていた。単に怒ってるだけならいいが――いや、もちろんよくはないが――、泣きまでされてはたまったものではない。いつの世も、女の涙は最大の武器だ。
「ごめん、悪かった」
僕はあわてて立ち上がり、キッチンの方へ行った。けれど僕は麻由子の急激な感情の変化についていけず、戸惑っていた。
「泣くなって」
「泣いてないもん!」
「泣いてんじゃん」
僕がそう言ったのを合図に、見る見るうちに麻由子の目には涙が盛り上がって、しまいにはぼろぼろ崩れ落ちてきた。僕がとどめをさしてしまったようだ。
「もういい!」
そう言って、麻由子は玄関へ向かい、サンダルを突っかけ、あっという間に外へと飛び出してしまった。
「おい!」
僕はそのあとを追いかけるべきだったのかもしれない。だができなかった。馬鹿な話だが、ドアを開け、そこで見たアパートの廊下を走る麻由子の姿が、あまりにもせつなすぎて見とれてしまったのである。僕はただ呆然と薄黄色のカーディガンと栗色のウエーブが揺れるのをみつめていた。それが曲がり角で見えなくなったとき、ようやく自分が取り返しのつかない失態をしたことに気づき、僕は頭を抱えた。
ただレタスとキャベツを間違えただけなのに。
とても面倒なことになってしまった。
僕と麻由子が出会ったのは3年ほど前になる。
その出会いは劇的でもなんでもなく、大学のイベントの際にたまたま友人の友人の友人として知り合ったのだ。そのときお互いレトロにもカーペンターズを愛していることが分かり、僕らはアドレスを交換した。麻由子は同じ市にある女子短大の学生だった。偶然下宿が近かったせいもあり、よくお互いの家へ遊びに行った。
麻由子がいわゆる彼女の位置についたのは1年前である。その頃には僕への呼び方が「平和くん」から「へーくん」、「へーちゃん」と三段階の進化を遂げていた。因みに僕の名前はヘイワという。由来を説明する必要はないだろう。
麻由子はとりたてて美人というわけではなかったが、その雰囲気がかわいらしかった。いつもつけているピンクの口紅は誰よりも似合ったし、髪の長さも肩を少しすぎるくらいの適度な長さを常に保っていた。そして何より、僕に対して「かわいい彼女」であろうとしている姿勢が全身から伝わってくるのがいじらしかった。
僕の下宿で同棲し始めて半年になるが、麻由子は毎日かわいい彼女だった。
僕の些細なミスで飛び出していく、そんなときまで、ずっと。
僕は重い足取りでキッチンに戻った。
テーブルの上には問題のキャベツが転がっていた。なんだか切り口から僕をにらんでいるように見える。僕はそれを手に取った。片手だと結構重かった。
これがレタスではない、と言われると、成程そうかもしれないと思う。だがこの大学在学中、ほとんど自炊をしなかった僕にとって、レタスとキャベツの見極め方など身についているはずがない。それにキャベツと言えば薄い色合いのイメージがあるが、このキャベツは青々としていて、上の葉っぱなんてふんわり開いている。これがスーパーに入ったとき、前面に安売りで出ていようものならレタスだと思うに違いない。現に僕はそう思った。
けれど麻由子のような料理上手に言わせると、きっとレタスとキャベツには天と地ほどの差があるのだろう。だってあの麻由子が、めったに怒らなかったあの麻由子が、レタスとキャベツを間違えただけで泣いて飛び出してしまったのだ。多分僕が思うような、硬いと柔らかいの違いだけでは両者は語れないのだ。
僕はキャベツのふんわりした方を上にしてテーブルに置いた。そして周りにある、麻由子に頼まれた買い物類を眺めた。これらは大学の図書館の帰りに入っていたメールに準じて買ってきたものたちだ。どれも食料品だった。
僕は一方で間違えてすまなかったと思い、もう一方でたかがレタスだろ、と思っていた。そして正直に言えば、後者の思いの方が強かった。なんでそんなことで麻由子はあんなに怒ったのか。僕との仲なんてレタス以下か?
そう思うと、急に僕は悪くない、という気がしてきた。僕だったら例え麻由子が実験にやってきて、塩酸と間違えて硫酸をかけたとしても、怒らない自信がある。塩酸と硫酸なんて似て非なるものだが、別にいい。そんなことで僕は麻由子を追い出したりしない。きっと麻由子も頭が冷えたら、それに気づいて戻ってくるに違いない。どう考えてもキャベツとレタスなんて小さな違いだ。戻ってきたなら、僕ももう一度謝ろうと思うけれど。
そこまで考えて、多少気がまぎれた僕は、広げられた食料たちを棚や冷蔵庫に収めることにした。調味料を棚へ置き、キャベツを野菜室に入れようとして取っ手を引いて始めて、そこに見慣れない野菜がたくさん入っていることに気づいた。ここ最近酒か氷のためにしか冷蔵庫を開けてなかったため、野菜室の中身なんて把握してなかったのである。麻由子は料理好きだし、僕は料理下手だから、自然と食事は麻由子にまかせっきりになっていた。
僕は緑が広がる野菜室を眺めながら、この野菜が腐る前に戻ってきてほしいと思った。
けれど麻由子は、3日経っても帰らなかった。
3日目に呼び出しをくらった。けれどそれは麻由子からではなく、麻由子の友人に当たる人からだった。麻由子は前日までその人の家に転がり込んでいたらしい。
何を言われたか細かくは覚えていない。麻由子の心境を代弁しに来たらしいが、なんだかひどく愚痴めいていて、その人の主観が多分に混じっていて、麻由子の真意が読み取れなかったからだ。内容は要約すると、
「麻由子がかわいそう」
であったように思う。これもその人の主観でしかないことは十分に理解していたが。
けれどともかく、僕はその日のうちに麻由子の下宿を訪ねる約束をしてしまった。
麻由子の下宿は、以前より遠いところにあった。僕の下宿の近所にあったのは学生マンションだったので、昨年の春一足早く大学を卒業している麻由子は他のところを探さねばならなくなったのだ。麻由子は一人娘なので、同棲を始めてからも彼女の下宿の家賃は実家の口座から支払われていた。差し止めをお願いすると同棲していることが両親にばれる、とも言っていた。同棲のことはあまり両親には言いたくないらしい。僕だってそうだった。もっとも、僕の場合は今更親親と言うような年ではなくなったということもある。二つ年下の麻由子はちょっとのことで若いし、いつでも親の存在を感じている。
バスにしばらく揺られ、その下宿近くに着いた。研究室帰りなので、もうとっくに日は暮れていた。僕は麻由子のいるマンションを見上げ、部屋に明かりがついていることを確認し、中に入った。
麻由子の部屋に行くまでに、僕は誰ともすれ違わなかった。その何の支障も無く茶色い扉の前まで来られたことが、変に居心地悪かった。僕はきっと、誰かに咎められたかったのかもしれない。あれこれ理由をつけられ、行かなくてもよい口実を環境が作ってくれることを望んでいたのかもしれない。足取りが重かったのもそのせいだ。
インターホンを押すと、中で音が響くのが聞こえた。ややあってから、麻由子の「はい」という控えめな声でスピーカーがしゃべった。僕はそのスピーカーに顔を近づけた。
「僕です」
しばらく待ったが返事は無かった。
僕を呼び出したあの人から絶対連絡は行っているはずなので、開けるか帰すか、少なからず麻由子は考えたはずだった。なのに反応が無いのは、無視を決め込んだか、まだ迷っているかのどちらかだろう。
僕は後者であることにかけて、再度呼びかけた。
「謝りに来ました」
返事は無かったが、気配を感じて、僕は扉を少し離れた。
予想通り、扉が開いて麻由子が顔を出した。
麻由子は一瞬こちらをみるとすぐに目を伏せ、小さく、「・・・どうぞ」と言った。カールした長いまつげは、3日前と同じく愛らしかった。
僕は黙ってリビングに招かれ、僕らは白い絨毯の上で向かい合って座った。
しばらくお互い無言だったが、まず僕から口を開いた。
「ごめん。悪かった」
いざ言い出すとすんなり続きが言えそうで、何か言おうとしたがすぐに麻由子が
「ううんごめん私が悪かったの」
と、早口に言った。端から聞くとそれは昭和のメロドラマだったが、実際このような場になるとそういうことしか言えないんだということが始めて分かった。真面目に謝ろうとすると、どうしてもありきたりな言葉にしかならない。嫌だったが、しょうがなかった。
けれどまた沈黙が訪れた。僕は木目調のテーブルをみつめながら言った。
「今度からは、もうちょっと料理とか手伝うよ。なんか何にもしてやれなかったし・・・その、レタスくらい、ちゃんと見分けられるようになるから」
麻由子の反応を見ると、麻由子は、苦笑してこちらを見ていた。目が合うと彼女が口を開いた。
「・・・別にいいよ、そんなの」
それは「そんなのどうでもいいからそれよりも」という響きがあった。「それよりも」、麻由子は僕に何を望んでいるのだろう。元はといえば、僕がレタスを間違えたことに原因があるのに。
僕は下手なことは言わないほうがいいという気がして、黙って麻由子をみつめた。麻由子も僕をじっとみつめてきた。その形のいいピンクの唇がわずかに開く。
「・・・へーちゃん、私のこと好き?」
「・・・へ」
僕は呆気にとられた。何の脈絡もない質問である。これではいよいよメロドラマじゃないか。
けれど麻由子の瞳は真剣で、ただ切実に僕の答えを待っていた。僕は答えるしかすべがなかった。
「そりゃ、好きだけど・・・」
「だけど何?」
麻由子がつっこんでくる。僕の文末なんて意味がなかった。そこに逆接の文章が続くわけではないのだ。
「いや、好きだよ、ちゃんと」
僕は言いなおす。
けれどこんなことに、何の意味があるのだろう、と思っていた。好きという単なる言葉、それを言うからどうなんだというのか。好きでなくても言葉は発することが出来る。それを麻由子は理解しているのだろうか。こんなことを言ってほしくて、麻由子は怒っていたのだろうか?
「嫌いなら、ここまで来ないって」
僕は一応、そう付け加えた。
その付け加えがよかったのか、麻由子はしばらく沈黙しながら、徐々に気を落ち着かせているように見えた。いろいろ考えを巡らせているのだろう。失礼ながら、これほど思案深げな麻由子を見るのは初めてかもしれない。麻由子は僕の目の前では、少なくとも今までは、喜怒哀楽の喜と楽を中心に構成されていたような気がする。
そして伏し目を上げたときには、麻由子は笑っていた。
「ごめんね、ありがとう、ここまで来てくれて」
「いやいや」
「ご飯食べた?」
「まだだけど」
「よかった」
そういうと麻由子は立ち上がり、リビングと一続きのシンクへ行った。鍋のふたを開けて微笑む。
「夕ご飯二人分はあるから」
そこから肉じゃがのにおいが漂ってきた。
麻由子は電気コンロのスイッチを入れ、温めなおしをし始めた。食器の準備をしているのを見ながら、僕は気づいて立ち上がる。
「ごめん手伝う」
言った手前、手伝わなくてどうする。麻由子は「えー?」と言って笑っていたが、嬉しそうだった。
「じゃあ冷蔵庫のサラダ出して」
「おっけ」
僕は冷蔵庫を開けた。中に大皿に盛り付け済みのサラダが、ラップに包まれて入っていた。周りにはレタスがあり、中にキャベツの千切り、シーチキン、キュウリや黄色の野菜、中心にはトマトが四つ乗っかっていた。
僕はそれをリビングにもって行き、テーブルの中心にすえた。シンクに戻ると、麻由子が肉じゃがを中鉢に盛っていた。それを受け取って、またリビングへ行き、サラダを少しずらして二つを均等に並べた。
そうやって食事の準備が完了し、僕らは向かい合わせに座った。目が合って、麻由子が微笑みながら手を合わせる。つられて僕も手を合わせ、僕らは同時に「いただきます」と言った。
「・・・すごいなぁ」
僕はテーブルを眺めて思わず言った。麻由子が吹き出す。
「何が?」
「いや、豪華な食事だなって」
麻由子がいなかった3日間、僕はろくな食事をしなかった。それに比べるとこの色彩豊かなテーブルは雲泥の差だ。いやに緑がまぶしくて落ち着かない。
「ちゃんと食べなきゃだめだよへーちゃん」
そう言って麻由子は僕の皿にサラダをとりわけた。緑が麻由子の手元に伝播していく。
「はいどうぞ」
「ありがとう」
僕はサラダが盛られた皿を受け取った。配色豊かなサラダがそこにある。
僕はそれを見て気づいた。マヨネーズがかかってない。
取り分け中の麻由子の皿を見る。そこにもマヨネーズはない。僕はテーブルの上を見やって、まだどこにもマヨネーズがないのを確認してから、おもむろに立ち上がる。
「? へーちゃん」
麻由子が手を止めるのを尻目に、僕はシンクの方へ向かう。
冷蔵庫を開けるとドアポケットに使いかけのマヨネーズがあった。おろしたてなのかまだたっぷり入っている。それを手にリビングへ戻ると、麻由子が僕ではなく、マヨネーズをぼんやりと目で追っているのがわかった。
僕はマヨネーズを差し出す。
「はい」
麻由子は皿を置いて、左手でマヨネーズを受け取る。そして受け取ったマヨネーズの重みを確かめるように、それをじっと見つめた。
そんな風に麻由子の反応がちょっと奇妙なものだから、僕は内心焦りを感じた。
「使わないの?」
麻由子はマヨネーズが大好きだった。「マヨネーズは全ての味を中和してくれる」そうで、麻由子は何にでもかけるのだが、マヨネーズを全く使わない僕とは正反対の嗜好だった。だから僕は麻由子がたっぷりマヨネーズをかけるのを見るたび閉口していたのだが、麻由子の仕草に慣れっこになってしまい、すっかりサラダにはマヨネーズがつき物だというイメージが僕の中に定着してしまっていたのである。
だがそんなのは3日前までの話で・・・もしかして僕は、余計なことをしたのかもしれない。
けれど麻由子はすばやく首を左右にふってから、
「・・・ありがとう・・・!」
箸を持ったままの手を口元へやって言った。感謝の仕方が大げさな気もしたが、僕はとりあえず救われた思いだった。
僕はほんのり湯気の立つジャガイモを、中鉢からそのままつついて食べた。味はさほど染みていなかったが、ほっくりしていて美味しかった。
麻由子のほうは、取り分けたサラダに嬉しそうにマヨネーズをひねっていた。キャベツとレタスが混在した上に、もったりと黄色い渦巻きが描かれる。
「使う?」
麻由子がマヨネーズを差し出してくる。僕は笑って首を振る。僕は今でもマヨネーズは使わない。
「やっぱりね」
へへっと麻由子は嬉しそうに笑い、赤いキャップをしめた。
「肉じゃがくらい作れるべきかな」
僕は絶対無理だと思いながら言うと、麻由子は
「いいよぉ。私に作らせて」
とありがたい言葉を述べてくれた。
「でもレタスくらいは見分けてほしいなぁ」
「はいはい」
僕は口の中に肉じゃがの味を保ったまま、サラダを放り込んだ。口の中で、そのレタスがしゃっきりと音を立てた。
++Fin.++
+・・+・・+・・+・・+・・+・・+
話的には結構気に入ってます。
色々考えながら書いた部分もあったりして。
季節感ないですが、設定は春です。
へーちゃんは春キャベツとレタスを間違えたんですね。
こういう幸せっぽい話は好きです。
●●●
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