ザビ神父の証言

ザビ神父の証言

第一次世界大戦(23)~(36)



アメリカの参戦

ドイツの無制限潜水艦作戦は、アメリカの参戦をまねきました。

アメリカは開戦当初、ヨーロッパの戦争に中立の態度を貫きました。モンロー宣言以来の、ヨーロッパとの相互不干渉を貫こうとする態度をとったのです。

アメリカ国民にとって、ヨーロッパは遠い存在だったのです。時あたかも1912年に始まったメキシコ革命に介入し、米軍はメキシコに展開中で、米兵の死者も出ていましたから、国民感情からしても、遠くのヨーロッパの戦場に、兵士を送ることなど出来ない相談だったのです。

しかし、米国人の多くはイギリス系移民の子孫で、母国語も英語です。生活週間も法的取り決めも、イギリス流が主力でしたから、政治的には中立を是としながら、心情的にはイギリス側を支援する傾向が主流をなしていたのです。

経済関係を見ると、開戦後海軍力に劣る対独貿易は、大幅に減少し、逆に英仏への輸出は4倍近くに急増していました。

昨日も記した、英国の客船ルシタニア号がドイツ軍の魚雷攻撃で撃沈され、100名を超えるアメリカ人が犠牲になったり、その後も同種の事件が続いた結果、ヨーロッパの戦争に対する関心は、次第に高まりつつあったのです。

再三に亘る逡巡の据え、アメリカが参戦を決意したのが、ドイツによる無制限潜水艦作戦でした。アメリカの世論はにわかにドイツに対して厳しくなり、ここに開戦の条件が整ったのです。

第一次世界大戦(24) 

アメリカの参戦…2

現在のアメリカでもそうなのですが、開戦や戦闘への参加について、アメリカでは議会の承認が必須条件になっています。

この事情を語るには、合衆国の建国史をやや詳しく語る必要があるので、ここでは省かせていただきますが、イギリスからの独立の達成が1783年であったのに、アメリカ合衆国の誕生は、何と5年後の1788年であり、高名なジョージ・ワシントンが初代大統領に就任したのは、フランス革命勃発直前の1789年4月だったことを指摘しておきます。

現在のアメリカ大統領の権限も、諸外国に対する傍若無人振りに比べ、国内では比較にならないくらい、制約されているのです。それだけ州権が強く守られているといえましょうか。

ですから、第一次世界大戦への参戦も、世論の支持を背景に議会の同意をとりつけない限り、できない相談でした。宣戦布告には、議会の同意が必要でした。ヴェトナム戦争への本格介入のために、自作自演のトンキン湾事件(北ヴェトナムの魚雷艇が、米艦船を攻撃したという、有名な出来事)をデッチあげる必要があったのです。

ドイツの無制限潜水艦作戦は、アメリカの世論を参戦に大きく動かしました。この機を捕らえて大統領ウィルソンは、議会に参戦を提案します。上院も下院も圧倒的多数で、参戦を支持しました。こうして、1917年4月、アメリカはドイツやオーストリアに対して宣戦を布告、参戦しました。

海洋自由の原則は、貿易によって利を得ようとする中立国にとって、絶対に譲れない一線だったのですが、ドイツがそれを破り、アメリカ資本主義の利益を否定する行動に出たことが、参戦決定の大きなポイントになったのは、間違いありません。がそれと同時に、アメリカの参戦の直前にロシアで革命が始まっていたことに注意すべきであると、私は考えています。

4月時点ではロシアは、戦争継続を表明していましたが、いつ単独でドイツと講和するかもしれないという危機感も、ウィルソンのアメリカは持ちました。そうなると、連合国の勝利は危うくなるかもしれない。こうした大戦情勢の変化が、いまや巨額に及んでいるアメリカの英仏に対する戦争債権の回収を困難にするかもしれないという、判断もまた米政府にあったことも否定できない事実でした。

第一次世界大戦(25)

戦費の問題

戦争は、膨大な費用を必要とします。そのためより多くの国民から税金を取り、税率を高めることになります。

17年に参戦したアメリカの場合、すぐに新しい税制を定め、年収2400ドル以上の家庭が課税対象になりました。当初の税率は6%でした。この時期の労働者世帯の平均年収は1200ドル程度でしたから、一般家庭が所得税を払うことはなかったのですが、酒やタバコなどは課税対象になっていたため、税負担がゼロだったわけではありません。

他方で年収が100万ドルを超えるような、高額所得者の場合、超過部分には70%という高率の税が課されました。企業の利潤についても同様で、資本の一定割合を超える大きな利潤をえた企業は、超過利潤税という名目で、最高60%もの税を支払う事に成りました。

こうした増税で、政府は歳入を増やし、増加収入の内105億ドル程度は、確かに戦費として使われました。しかし、これはかかった戦費の33%~45%程度に留まっていました。不足分は国債で賄われました。

外にイギリスやフランスに対する戦時借款が、約96億ドルほどに達していました。これだけの費用が遅く参戦したアメリカでさえ、必要だったのです。

東西に敵を受けたドイツは、さらに大変でした。ドイツは当初から、戦費を通常経費と分け、全て戦時国債で賄っていました。それは、勝利の日には全て敵国からの賠償で払わせるので、かかった経費を全てわかるようにしておくという、ムシの良い計算によるものでした。これが、戦後の大インフレの原因となったことは、間違いのないところです。

第一次世界大戦(26) 

ロシアの離脱

ロシアが総力戦体制を構築できず、戦争に耐えることが出来なくなりつつあったことは、既に記しました。

そのロシアでは、戦争に勝てる政府の構築を目指す自由主義ブルジョワと軍部、またパンと平和を目指す兵士や民衆の思惑をないまぜ、ロシア暦の2月に革命がはじまりました(ロシア暦に13日を加えると西暦になります。そのため2月革命は、西暦では3月革命になります)。

やがて、革命勢力は、戦勝による平和を目指す軍幹部とブルジョワの連合に対し、即時平和を目指す兵士と民衆の連合が優勢となり、10月革命によって、史上初の社会主義政権が誕生をみます。

この社会主義政府がドイツに休戦交渉を持ちかけ、1917年11月22日にロシアとドイツの休戦条約が締結され、さらに12月15日には、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国(トルコ)、ブルガリアとも休戦条約が結ばれました。やがて、この休戦条約は、革命ロシアにとって、より厳しいブレスト=リトフスクの講和として3月3日に締結されます。

ここに、戦争当事国の一角が、社会主義革命という衝撃的な方法によって、帝国主義の世界戦争から離脱したのです。ドイツやその同盟国にとって、敵対勢力の一角が、勝手に戦場を離れてくれたのですから、これは大きな朗報となるはずでした。しかし、その影響は決してそんなに生易しいものではなかったのです。

一次世界大戦(27) 

ハプスブルグ帝国の解体

オーストリア・ハンガリー帝国(以下ハプスブルグ帝国)もまた困難に直面していました。この多民族国家においては、ドイツ系住民は全人口の25%に過ぎず、ハンガリー人が20%、以下全体で12の民族がひしめき合っており、夫々が母国語を話す状態で、言語の統一すらなかったため、軍隊内の指揮命令系統も,混沌とした状態のままだったのです。

こんな状態でしたから、ドイツ語を解さない諸民族の兵士には、ドイツ人のために死を賭して戦う意味など、見出せるはずがなかったのです。そのため、東部戦線では戦う前にロシア軍に投稿するスラヴ人兵士も多かったのです。

元来ハプスブルグ帝国にとっての戦争目的は、バルカンへの進出の障害となっていたセルビアの打倒の1点にありました。そのセルビアは1915年に敗北し,降伏していましたから、それ以上戦争を継続する意味は失われていたのです。戦争継続は、経済的・軍事的にその支配下に組み込まれてしまったドイツに引きづられて,仕方なくついていっているだけでした。

そして総力戦の被害は、ハプスブルグ帝国のそこここで大きくなっていました。1848年以来帝位にあった老皇帝フランツ・ヨーゼフは、こうした状況に何ら積極的な手は打たなかったのですが、この老皇帝は1916年11月に死去し、後継に弱冠29歳のカールが即位しました。サラエヴォで暗殺されたフランツ・フェルディナントの弟オットーの息子で、戦争の終結に向けて、様々な努力を試みる気概はもっていました。

しかし、彼の努力も複雑なハプスブルグ帝国を1つに纏め上げる解を導き出すにはいたらなかったのです。そのために必要な経験が,彼には不足していました。

第一次世界大戦(28) 

続ハプスブルグ帝国の解体

チェコ・スロバキアは、1990年代に、分裂してチェコとスロバキアに分かれましたが、オーストリア帝国に従属したチェコとハンガリー王国の支配下にあったスロバキアが、第一次大戦中に共同戦線を組んでハプスブルグ王国からの独立によって、新生チェコ・スロバキアを建設する道を選びました。マサリクをリーダーとするこの運動は、何度も苦難に陥りますが、粘り強く運動を続け、1918年春の戦局の転換の中で、大きく独立への道を開く事に成功してゆきます。

ポーランドは、ガリツィア地方がハプスブルグ帝国に組み込まれており、ロシア、ドイツ3国に分割されていましたが、1815年以降ドイツ・オーストリア連合軍の支配を受けていました。占領下に戦争への協力を強いられていましたが、ロシアのボリシェヴィキ革命の成功後、革命政府は民族自決原則を掲げて、旧ロシア領ポーランドの放棄と、その独立の容認を明言しました。ここに、ドイツ・オーストリア占領下のポーランド住民は、不服従運動を通じて、ドイツ・オーストリアの戦争遂行を妨げ、ドイツ軍の崩壊現象のいっそうの進行に貢献し、ポーランド独立への道を探りました。

ユーゴスラヴィア、90年代に崩壊し、血みどろの民族紛争を展開したことは、なお記憶に新しいこの国は、第一次大戦後にセルビア中心に作られた、南スラヴ系住民とハンガリーからの念願の独立を達成することになるクロアティア人の2つを核とする連合国家です。セルビアはドイツよハプスブルグの混成軍に対し、良く戦いましたが、15年末までには降伏に追い込まれました。しかし、その後もパルチザン活動を続け、17年央から、次第にまた反撃の態勢を整えて行くのです。

チェコ・スロバキア、ポーランド、ユーゴスラヴィアの三国は、ハプスブルグ帝国の敗北をバネに、最終的な独立を獲得したのでした。革命によって崩壊したロシア帝国とは異なり、ハプスブルグ帝国は、敗戦と共に崩壊したと言えましょう。

フランツ・ヨーゼフを継いだ若き皇帝カールの努力は、時既に遅かったとも言えます。具体的成果を上げないままに、18年のはじめに、遂にブルガリア戦線が、米・英・仏(まだ米軍は実戦の配備にはついていないのですが)連合軍に突破され、オスマン帝国軍や、ハプスブルグ帝国軍は、防戦一方に追い遣られ、いつ前線を突破されるか分からない危機的な状況に陥ったのです。長かった総力戦もついに終りが見えてきたのでした。

第一次世界大戦(29)

占領地の悲惨

第一次世界大戦が、予想もしない長期戦になり、国家の総力をあげた総力戦となったこと、総力戦体制を築けなかったり、途中で破綻にいたった国では、敗北や国家体制の転換が起きたことは、既に記しました。

ところで、1914年に始まった戦闘においては、初期の東部戦線を除くと、一貫してドイツ中心の同盟側が国外に前線を設けて一部地域を占領している状況が続きました。膠着した西部戦線でも、前線は占領下のベルギーから、北フランスにありました。だからこそ、1916年までの大会戦は、マルヌ、ヴェルダン、ソンムといずれも北フランスを戦場として戦われました。

南部戦線では、セルビアとルーマニアを占領下に置いていましたし、ロシアとのブレスト=リトフスクの講和条約ではフィンランド、バルト三国からポーランドそしてウクライナを占領下において割譲させていました。

戦線では国土の外に対陣しているドイツ側同盟諸国が、しかし海上封鎖にあって、食糧や工業原料の不足に見まわれ、物資の欠乏に悩まされていました。海外の広大な植民地や米国や日本といった連合諸国から必要な物資や資金を補充できる協商諸国は、挙国一致の国民合意内閣の指揮下に、物資不足はほとんど問題にならない状況にありました。

こうなると、占領下の民がいかなる扱いを受け、いかなる苦しみを蒙るかを想像することは難しくありません。原料や食糧の不足を補うための、力づくの調達は、占領直後から始まりました。オーストリアはセルビアから40万頭以上の牛や羊を奪い、ロシア領ポーランドからは、16,17の2年間だけで貨車2万輛分の穀物とジャガイモ、30万トンの石炭を強奪しています。ドイツもロシア.フィンランドから牛馬で10万頭を3ヶ月で移送しています。これに占領軍による大量の消費が加わるのですから、押収量はここにあげた数字をかなり上回るのです。

それでもドイツ,オーストリア国内の物資や食糧の不足は収まりませんでした。1918年に入ると、両国の国内では民衆や兵士の不平不満は高まり、不穏な情勢は次第に深刻化していきます。しかし、こうした占領地における食糧や物資の調達が、占領地の民衆には、いかに苛酷で絶えがたいものであったかは、これから20数年後にわが日本の軍隊が戦地で行ったであろうことを、想像する必要と合わせて、重く受けとめておく必要があると、私は考えています。

第一次世界大戦(30)

ドイツの博打

革命ロシアの戦線離脱は、形成不利だったドイツにとって、一挙に形成を挽回する千載一遇のチャンスが巡ってきたように見えました。ドイツ軍部もそう考えました。

しかし、革命ロシアの混沌と兵士の戦線離脱に付け入って占領地を広げたドイツは、占領地支配のために100万人もの兵士を、戦争の終結した東部戦線に残さざるを得ませんでした。それゆえ、西部戦線に回せる兵員には限りがありました。

それでもドイツ軍は、東部戦線に配置した30個師団を西部戦線に投入し、18年3月21日から、西部戦線での最後の大攻勢に出たのです。世に言うミヒャエル作戦です。それは、ようやく兵士の徴集を本格化し、欧州の戦場に続々と兵士を送り込みつつあったアメリカ軍が戦闘配備を完了する前に、英仏軍を叩かなければという、思いからでした。この時点での在欧アメリカ軍は、まだ14,5万人であり、前線には配置されていなかったからでう。

ドイツ軍は6600門もの砲を、一挙に投入して大砲撃を行い、決死の攻撃を仕掛けました。この攻撃は一時的には成功し、3月末には英仏両軍の中間線を突破し、連合軍を危機的状況にまで追い詰めるにいたりました。

この優勢は6月までは続きましたが、しかし、ドイツ軍の攻撃は英仏両軍に戦線を離脱させることは出来ませんでした。予備の師団を含めて全軍を繰り出したドイツ軍に対し、後退しながらも英仏軍にはなお余裕がありました。予備の師団を続々と繰り出す事も出来ましたし、アメリカ軍が大西洋を渡って、続々と来援してきてもいたからです。

ドイツでは、軍部から戦勝の報が届くと、学校を休日にして祝賀の日を設けたりして、最終的勝利への期待が盛り上がったりしましたが、それは一場の夢に過ぎなかったのです。

このドイツ軍の一時的優位の状況下で、皮肉なことに前線の将校や兵士は、後退した敵軍の残した物資を見て、ドイツの勝利がありえないことを悟っていたのです。

第一次世界大戦(31)

同盟国側の疲弊

占領地での徴発も、物資や食糧不足の本格的な改善に繋がらなかった同盟諸国(=ドイツ側)の疲弊は着実に進行し、兵士らの戦意は、綻びを見せていました。

オーストリアでは、18年1月に始まった軍需工場でのストライキは、燎原の野火のように各地に広まり、2月にはドイツにまで飛火して、100万人を超える軍需労働者の反戦ストライキに繋がりました。そこでは食糧の増配、戦時利得者の厳罰が公然と要求され、さらに進んで戦時体制の廃止と即時和平とが掲げられたのです。

慌てたドイツ政府と軍部は、徹底した弾圧政策で答え、積極分子は悉く前線に送ることで、ようやくストを抑え込んだのです。

こうして3月から、乾坤一擲大攻勢に出たのですが、皮肉なことにその攻勢の中で、多くの将兵がドイツ軍の将来に悲観的になっていきました。

損失を補填するすべを失っているドイツ軍に対し、在欧アメリカ軍は、7月には100万人に達し、さらに毎月25万人規模で、増援部隊が到着する手はずになっていました。

4月以降は、比較的余裕を持ってドイツ軍の攻勢を凌いだ連合軍は、7月に入ると大量の戦車を先頭に反撃に出ました。持ち堪えられずにドイツ軍は敗北し、退却に次ぐ退却が始まりました。連合軍は豊富に準備したトラックに分乗して前進するのに対し,ドイツ軍は軍馬を使って物資を運び、兵士は徒歩で退却するのです。軍馬の飼料にすら事欠くようになったドイツ軍の軍馬はやせ衰え、物資の輸送は余計に滞ったのです。

戦いの行く末に希望を持てなくなったドイツ軍将兵の絶望感は、退却を諦めての大量の投降となって現れました。7月のみで30万人を超える将兵が捕虜となりました。

オーストリア軍では、2月のカッタロ軍港での水兵の反乱に続いて、大規模な蜂起や集団脱走が続き、イタリア戦線での攻撃失敗もあって、6月中頃には、南部戦線の戦力は半減したのです。

ドイツでも8月に入ると、脱走兵と休暇からの未帰還兵の合計は100万人を超えました。ようやく大戦の終りが見えてきたのです。

第一次世界大戦(32)

ドイツの混乱

戦争末期の、敗色濃い国の軍部ほど身勝手な存在はありません。第一次大戦時のドイツ軍部がまさにそうでした。

東部方面から撤収した全兵力を投入した西部戦線での大攻勢が、失敗に終った7月下旬には、ドイツ軍に勝ち目がないことは、誰の目にも明らかでした。

追い討ちをかけたのが、バルカン半島での戦闘に敗れたブルガリアの戦線離脱でした。9月15日に始まったマケドニア戦線での戦いは、数日のうちに、連合軍の勝利となり、ブルガリア軍は崩壊しました。バルカンに出来た大きな穴を埋める力を、西部戦線に全兵力を注ぎ込んでいるドイツには、もはや残っていなかったのです。

オーストリア=ハンガリーも、オスマン帝国も、近い内に降服するに違いない、そうなってからでは、交渉でドイツに有利な条件を引き出すなどということは、到底不可能となるだろう。

こう考えたドイツ軍は、9月下旬になって方針を転換、連合軍に休戦を申し入れることを決意するに到ったのです。しかし、軍部の提案では、相手側に無視されることもありうると、軍部自らが、軍以外から宰相を推薦すると言う不可思議な事態になったのです。

第一次世界大戦(33)

ドイツ軍部のあがき

ドイツ軍を掌握していた参謀総長ヒンデンブルクは,東部戦線のタンネンベルクで、ドイツ軍の劣勢を盛り返して勝利に導いた救国の英雄でした。彼はヴェルダン攻囲戦の失敗の責任をとって辞職した前任者の後任として参謀総長に就任すると、総力戦論者のルーデンドルフとのコンビで、軍部独裁を築き上げていました。

彼等は反対派を次々に排除し、ユンカーや独占資本、そして保守党を味方に引き入れ、民主勢力と社会主義者を排除しつつ、皇帝をも脅したり,すかしたりしながら、不利な情報を隠して権力を維持してきたのです。

その二人が、ブルガリアの降服を知り、西部戦線でのドイツ軍の退却の報と照らし合わせた時、多方面で戦線が崩壊する可能性を、さすがに認めざるを得ませんでした。

彼等は、突然休戦の必要を政府に伝え、「平和交渉を有利に進めるため、議会の有力指導者に全て参加してもらった、広い国民戦線的な内閣を組織する」ことを要請しました。

今まで真相を何も知らされずに、ひたすら軍部の言うがままになっていた政府と議会は、さすがに二人の豹変振りを怪訝に思います。「頑固に平和と国内民主化に反対してきたのに、何故急に180度の政策転換を主張するのか?」

実はブルガリアが降服する半月ほど前の9月14日にオーストリアも講和交渉を求める声明を発表していました。そしてドイツ帝国議会の多数派も、戦局の不利を薄々察知して、全国民の結集による決戦態勢の構築を目指して、こっそりと協議を開始していたのです。

この状況で、軍部も議会も共に宰相(首相)候補に擬していたのは、バーデン大公のマックス卿でした。自由と国際協調の必要性を説く、温厚篤実なマックス卿は、協商諸国にも広く名を知られた貴公子でしたから、国内は勿論、協商諸国も彼の登場を歓迎し、交渉に応じてくれるだろうと、軍部も考えたのでした。

しかし、ここからマックスら議会側と軍部の間で、話し合いは縺れました。

第一次世界大戦(34) 

ドイツ軍部のあがき…2

軍部から首相就任と休戦交渉をまとめてほしいと依頼されたマックス大公は、すぐに休戦を申し入れてほしいという軍部の要請に対し、いきない休戦を申し込むと、足元を見られて不利になることを上げて、ドイツの現状から見て,無理でない戦争目的の先ず内外に宣言すべきだと主張しました。

10月2日、参謀総長のヒンデンブルクが,大本営を離れてベルリンにマックスを訪ねてきます。平和交渉の担い手に相応しい人物は、マックスをおいていない。だからマックスには是非とも首相を引きうけてもらいたい。こう考える軍部の必死さが読み取れる行動でした。

ヒンデンブルクに対しても、マックスは持論を展開し、すぐに休戦を提案することの愚を説きました。
「軍部はウィルソンの14ヶ条を基礎とした平和条約を結びたいと言っていられるが、その際にはエルザス・ロートリンゲン(アルザス・ロレーヌのドイツ語表記)2州と東ドイツのポーランド人居住地域(ポーランド回廊ほか)を失う事を承知しているか?」とマックスは、ヒンデンブルクに問い掛けます。

ヒンデンブルクの答えは書面で寄せられ、現存しています。彼は、ドイツが割譲を求められる領土は少なくて済むと,考えていたのです。
「最高軍司令部は、フランス語を話すエルザス・ロートリンゲンの小部分の割譲には賛成する。しかし東ドイツの領土割譲など、もってのほかだ」と。

今にも全戦線が崩壊するかもしれないという危機にあって、なお敗戦は部分的であるという幻想にしがみ付いているのですから、あきれたものなのですが、これが当時のドイツの最高権力者の実態でした。軍人にはとかく、この手のタイプがいるようです。第2次大戦の日本が、あの状況になるまで、敗戦を受け入れなかったのも、この手の軍人が独裁権力を握っていたが故であったことが、思い起こされます。

ヒンデンブルクらは、休戦期間中に部隊を再編成して、再度戦闘に踏み切ることが可能であると判断していたのです。

ドイツが再び戦闘を起こしうるような条件で、協商側が講和に応じてくれる可能性がないという事など、彼等は考えようともしなかったのです。

休戦になれば、敵側の軍事的優位を知る兵士達が、再び立ちあがる戦意など、まったく見せないであろうことに、現場を知らない軍指導部は、思い至らなかったのです。彼等は、ドイツ国内の、特に農村部の不満と窮乏が,既に沸騰点に達していることにも、気づかずにいたのです。

第一次世界大戦(35) 

ドイツ政界と国民の動揺

軍指導部が唐突に休戦交渉の必要を口にするようになったことを訝った帝国議会は、10月2日(この日は参謀総長ヒルデンブルクが、大本営を離れてベルリンを訪れ,自らマックス大公に首相就任を要請した日です)各党の指導層を召集して、参謀本部の代表に戦局の実際について、説明を求めました。

参謀本部は、何が何でも休戦交渉をまとめなければならないという考えから、戦局の実情を包み隠さず説明する態度に出ました。これまで、議会や国民に対して、「ドイツ軍は必ず勝利する」とのみ語りかけ,戦局が不利であること、そして今や絶望的であることなど、気配も見せていなかった態度を180度転換したのです。

このため国民も政界も、ドイツ軍がよもや負けるとは考えていなかったのです。ところが参謀本部の代表者の説明は、議会の指導層にとっても大変な衝撃でした。話のメモが残されています。

「ブルガリア戦線の崩壊によって、全戦線がすべて危険な状況になった。崩壊したブルガリア戦線を、ドイツの予備兵力で補充しなければならないのに、悲しいかな我が軍にはその余裕がない。既に全予備兵力を西部戦線に繰り出してしまって、辛うじて敵の進撃を食い止めていたのだから…。いまや敵に強要して、講和を結ばせる見込みはゼロである。」

「敵側は多量のタンク(戦車を指す)を戦線に出動させて、我が軍陣地を突破して、多くのドイツ兵を捕虜にしている。残念ながら今のドイツには、敵に匹敵するだけのタンクを作る工業力がない。我が軍の補充兵力も欠乏している。1大隊の兵力は4月には800人だったが、今や540人が精一杯である。しかも歩兵22個師団を解散して、編成し直した結果として得られたのが、個の数字である。」

「ドイツ軍の損害は、我々軍部の予想すら遥かに上回っているが、特に将校の死者が多いのが痛手である。これは将校が攻撃の際も防禦の際も、常に第1線に立って部下を指揮しなければならないからで、ある師団では、2日間の戦闘で将校全部が死傷し、連隊長4人のうち3人が戦死した。下士官の死傷者も破滅的である。」

「今や我が軍には、予備兵力は皆無である。絶え間ない敵の攻撃に対し、ただ退却しているのが現実である。以上の形勢からヒンデンブルク、ルーデンドルフの両将軍は、カイザーに対し戦争を止め、これ以上の死者を出さないように進言した。1日遅れれば、敵側はそれだけ勝利に近づき、ドイツ側の耐え忍べる条件で講和を結ぶ気をなくしていくだろう…」

これが参謀本部の議会指導者に対する告白でした。4年もの間、飢えに苦しみ、寒さに凍えながら,軍部の専横を耐え忍んだ結果が、そして軍の言いなりにモクモクと働き、戦い続けた結果がこういうことだったとは…。やりばのない憎しみと怒りが、政界にも国民にも燃え広がるのに、時間はかかりませんでした。国内情勢は一夜にして大きく変化したのです。

軍部の独裁をいままで通り支えようなどという国民は、ほとんどいなくなったのです。

第一次世界大戦(36) 

ドイツの迷走

10月2日の軍部の告白を受けて、翌日の3日、ウィルヘルム2世の臨席を得て、御前会議が開かれました。この席でもマックス大公は、休戦の提議に反対を唱えました。

その言葉を途中で皇帝(カイザー)が遮りました。軍司令部の要求通りに動くべきだというのが、この時点での皇帝の判断だったのです。皇帝はなお軍司令部に信をおいていたのです。こうなるとマックス公も折れざるをえません。
「誰かが軍部の要求を実行しなければならないとすれば、自分が犠牲になろう。祖国が犠牲を要求しているのだ。」
マックス公は側近の部下に、こう漏らしたと伝えられています。

マックス公は、せめて休戦と講和を切り離して扱おうと努力しますが、ルーデンドルフはどうしても承知しようとしませんでした。敗勢濃い中で、休戦と講和を同時に求める提案をすれば、それは実質的に無条件降伏を提案したとみなされることを、マックス公は良く承知していたのです。提案は参戦間もないアメリカ合衆国大統領ウィルソン宛になされました。

ルーデンドルフは、一方で狼狽のあまりとしか受け取れない、無条件降伏宣言に等しい休戦提案を要請しておきながら、講和になれば相当の要求を提出できるし、拒絶されれば最後の一兵まで戦うと広言していたのです。自らの提案の持った意味を、いくら丹念に説明しても、彼の混乱した頭は、遂に理解しなかったのです。

しかし、ドイツ軍の状況は、まさに絶望的でした。この10月の段階では、協商諸国は、ドイツ軍の要求を入れて講和する気など、全くありませんでした。事実上ドイツは、無条件降伏を受け入れるしかなかったのです。

マックス公の内閣には、シャイデマンとパウエルという2人の社会民主党幹部が、閣僚として加わっていました。社会民主党を支持するドイツ民衆の支持なしに、今後の難局を乗り切ることは不可能だと、考えたからでした。公は、アメリカ大統領ウィルソンと、休戦交渉を続けながら、大幅な民主化に手をつけ、革命派に先手を打ちました。社会革命の防止には、先手を打つことが急務だと、判断したからです。

こうして先ずは上からの発議として、民主的諸改革が進展したのですが、カイザー、ウィルヘルム2世の退位問題だけが残されたのです。

10月23日、ウィルソンから3通目の覚え書きがドイツ政府に手渡されました。そこには、
「連合国は、もはやドイツ軍部の支配者や王朝的専制君主と,交渉を持つ気はない」と、
威圧的に明言されていました。当然、この言葉がヒンデンブルク、ルーデンドルフ、そしてカイザーを指していることは明らかでした。連合軍はそこまで強きだったのです。目指すはドイツの体制転覆にあるというのですから…

憤激したヒンデンブルクとルーデンドルフは、状況も顧ず、一転して徹底抗戦を全軍に呼びかけました。一刻も早い休戦をと、ついこの間まで矢の催促をしていた、舌の根も乾かないうちの豹変振りでした。

ここまで4年に亘り、事実上軍部の言いなりになってきた議会や政府、それに皇帝までもが、これには怒りました。もはや軍部に任せておくことはできない。マックス公は、全閣僚の辞表を集め、戦争を継続するかしないかは、政府が決める事であり、軍が決めることではない。事ここに到っては、軍指導部が辞めるか、我々が辞めるかだと、皇帝に迫ったのです。皇帝は迷わずマックス大公を慰留しました。常勝将軍の威光を失ったルーデンドルフは、ここに辞職せざるをえなかったのです。

しかし、ヒンデンブルクはなお残り、軍部に対する国民の信頼を、何とか繋ぎとめようと、努力を続けることになります。

こうして問題は、皇帝の退位問題に収斂していきました。


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