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チュニジアからエジプトへ…(47) アラブ世界で、人権団体として活動している「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」のジョー・ストーク氏は、3月17日に治安部隊に連行され、行方不明になっている8名の中の1人、エブラヒム・シャリフ氏の妻、ファリダ・コラムさんから、シャリフ氏が連行された時の模様を取材し、報告しています。以下は、その模様です。「私たち夫婦は、午前1:50頃、門のベルが鳴ったのを聞いてドアを開けました。門の外には黒い平服を着た覆面の集団が見えました。その中の1人がシャリフに銃を向けました。シャリフは彼に『銃を降ろして下さい』と丁寧に言いました。」「私たちは、繰り返し男たちに身元を尋ねまそた。すると中の1人が『国の治安部隊」』だと、漏らしました。」「覆面の男たちは、門を開けるよう命令しました。シャリフは彼らと話そうと門の外へ出ました。男たちは全員で35人から40人ほどもいたでしょうか。銃を持っていたのは、そのうち6人でした。」「男たちは、シャリフが外に出ると、そのままどこかに連れ去ってしまったのです。その場所がどこかは、いまだに分りません。」以上がファリダ・コラムさんの話です。連行された活動家たちの弁護士たちは、治安部隊が彼らを連行した数時間後に、文民検察局と軍検察局の両方に、逮捕・連行された活動家と接見する要求書を提出しました。しかし、当局はこれを拒否し、拘束状況については、一切明かさなかったと、語っています。平和的な反政府運動のリーダーであると言うだけで、予防拘禁の措置をとることは、国際法上許されていません。まして、家族との面会や弁護士の接見を拒否することは、明確な国際法違反です。バーレーン並びにサウジの王政は、国際法を顧みる余裕すら失っているようです。そして、人権と民主化の戦士であるはずのアメリカは、この事態を黙認しているのです。バーレーンの事態は、皮肉なことに、米国政府がいかに恣意的に人権や民主化を、主張したりしなかったりしているかを、白日の下にさらけ出す役割をも、果たしたのです。 続く
2011.03.31
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クロニクル 有珠山23年振りに噴火2000(平成12)年3月31日11年前になるのですね。この日北海道の有珠山が、23年ぶりに大噴火しました。噴煙は火口から3500mに達し、北東側中心に降灰による被害が出ました。火山活動は、その後8月まで続き、9月になってようやく収まりました。有珠山は1944年~45年にかけての大爆発で、昭和新山を生み出したのですが、1977年~78年にかけても大噴火を起こし、高度12,000mにまで噴煙を噴き上げ、農作物に大きな被害を齎しています。この時、洞爺湖温泉小学校の校舎が破損し、同校は別の地への移転を余儀なくされたことも、大きく報じられました。前2回に比べると、2000年の大爆発は、小規模なものでしたが、それでも洞爺湖温泉は、団体や個人の予約キャンセルが続き、大きな痛手を受けました。お気づきと思いますが、有珠山はこのところ23年周期で、大爆発を繰り返していますね。次はないことを願いたいですね。
2011.03.31
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チュニジアからエジプトへ…(46)ここでバーレーンで進行中の事態に触れることにします。バーレーンでは、3月14日に、1千名のサウジアラビア軍が両国を結ぶ国境の橋を渡って、バーレーンに進駐しました。それも、サウジ単独の軍事介入と受け止められるのを畏れて、湾岸協力会議(GCC)に属する、オマーン、カタール、アラブ首長国連邦(UAE)の3国を説得して、GCCの4ヶ国共同軍という形式を整えての進駐でした。しかも、この進駐は、バーレーン王政の依頼に応じて、軍を出したという形式を整えてのものでした。現地の依頼に応じてという方式は、米国や欧州の大国が、途上国に軍を派遣する際の常套手段です。サウジがそれを真似たのですね。進駐したサウジ軍には、サウジの治安部隊も含まれており、進駐直後に、首都マナマのパール広場や金融街などを、平和裡に占拠していた反政府派を暴力的に蹴散らしました。平和的なデモ隊を暴力的に排除したのです。シーア派中心の反政府民衆運動で、バーレーン王政が倒されると、隣接するサウジ東部のシーア派もサウジ王政に反抗する決起を強めるだろうことは、簡単に予測できます。その点を危惧したサウジの王政が介入を決め、デモ隊との妥協を目指していた、バーレーン王政を説得して、軍の派遣を要請させる茶番劇を、演出したようです。サウジの介入は、バーレーンの王政が反政府派によって倒されるかも知れないという危機感を、サウジの王政が持ったことを示しています。GCCの名を使ったサウジ介入の翌15日、バーレーン王政は、3ヶ月と日限を切った非常事態宣言を発動しました。この宣言によって、王政は憲法の規定を超越した超法規的な措置を、自由にとることができるようになったのです。つまり王政は、今までの反政府派に対する融和的態度をかなぐり捨て、反政府派のシーア派勢力を、サウジ軍並びにサウジ治安部隊の力を借りて、徹底的に抑圧する態度に出たのです。果たせるかな17日、バーレーン国営テレビは、治安部隊が「体制打倒を目指し、諸外国と情報授受を行っていた、扇動的な政治闘争の煽動者数人を逮捕した」と発表しました。発表はさらに続き、「市民を殺害し、私有財産を破壊する暴力を誘発させた」として、7人のデモ指導者を避難しています。バーレーンのデモは、民主化を求める平和的なデモで、誰も武器など持っていません。そして、民主化を求める諸勢力の代表を勤める7人のメンバーが、3月17日の夜明け前に、武装した何者かに連行されて以降、行方不明のままになっています。7人の外に、医師のアレクリ氏が、同時刻に黒覆面をした治安部隊に連行された事実を家族が確認しています。アレクリ医師は、2月17日にパール広場を占拠したデモ隊を、政府軍が攻撃して4名の死者と多数の負傷者を出した後に、熱心に負傷者の治療に当たり、王政が負傷者の治療を妨害している事実を、国際社会に厳しく告発している人物です。バーレーン王政と、自国の王政を守るために、バーレーン王政の崩壊を恐れるサウジにとって、都合の悪い指導者たちや、国民的支持を集める8名の人物が捕えられ、行方不明になっている。これが今現在、サウジ介入下のバーレーンで進行している事実です。 続く
2011.03.30
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クロニクル 「巨人の星」放送開始1968(昭和43)年3月30日43年前になるのですね。この日日本テレビ系列で、テレビアニメ「巨人の星」の第1回が放映されました。原作は梶原一騎、作画は川崎のぼるで、1966年から『少年マガジン』に連載されました。同時期に連載され、同じくアニメ化された、同じ梶原一騎原作の「あしたのジョー」と並んで、スポ根ものの草分けとされました。。「思い込んだら試練の道を 行くが男の…」で始まる、行進曲調のオープニング曲からして、いかにもスポ根ものらしい、狙いが込められていました。時代は「巨人、大鵬、卵焼き」と言われた時期。日本経済は順風の右肩上がりを続け、企業戦士が称揚された時代でした。父子で共に見た家庭も多かったのでしょう。視聴率も右肩上がりを続け、1971年9月までの3年半、約180回の放送中、放送開始2年目以降は、コンスタントに30%を超える視聴率を維持したと言われます。その人気振りは、1980年の再放送時においても、25%の視聴率を得たことからも推測できそうです。
2011.03.30
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チュニジアからエジプトへ…(45) シリアやヨルダンでも、独裁政権や王政が揺らいでいます。シリアではアサド父子の長期独裁に対する民衆の不満が爆発し、治安部隊との衝突で死傷者も出ており、デモ隊の怒りが沸騰しています。こちらの動きにも注意が怠れません。反政府デモ隊が、ムバラク独裁政権を追い詰め、軍部が暫定的に権力を握ったエジプトのその後を、見ておきましょう。エジプトでは、日本が東北・関東大震災後の一連の動きに忙殺されている間に、エジプト革命に結集した諸勢力の参加した「憲法会議」で、憲法改正案がまとめられ、国民投票にかけられました。この改正案に、エルパラダイのグループや「ネット革命」を主導したとされる若者グループは、民主化が不十分であるとして、反対投票を呼びかけ、反対票を投じました。しかし、開票の結果はどうだったかというと、4分の3には届きませんでしたが、70%を超える圧倒的多数の賛成で、憲法改正案は成立したのです。これは何故でしょう。若者達に人望がなかったとか、人気がなかったと言うわけではありません。しかし、彼らの影響力以上に、ムバラク独裁の下では、弾圧を危惧してなりを潜めていたムスリム同胞団の影響力と、同砲団に対する民衆の支持が強かったのです。ムスリム同胞団も、憲法改正審議に加わり、改正案支持を熱心に表明し、軍部との関係改善も進めていたのです。ただ、長い弾圧の時代を経験したムスリム同胞団は、表舞台に出ることに大変慎重であり、今度の国会議員選挙にも、大統領選にも、同胞団の候補は立てないことを、明言したいます。そうするとどうなるか。キャスティングボートを握った同胞団の支持を得た政党が、議会での多数派を獲得し、同胞団の支持を得られない候補が、大統領の座を射止めることは、どちらもありえない。こうなります。革命の経過が進む中で、ムスリム同胞団の影響力が、ジワリと強くなっている。これがエジプトの現在です。そしてそれは、イスラエルにとっては、大変に困った事態を招くことになります。 続く
2011.03.29
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クロニクル モスクワ地下鉄爆破テロ発生2010(平成22)年3月29日1年前のことです。当時は日本でも大きく報じられましたが、なんだか遠い過去のような気がしますね。事件はチェチェン独立を目指す過激派による爆破テロでした。モスクワ時間で午前8時前後に、地下鉄の2つの駅で連続的に起きました。まず、7時55分頃にルビンスカヤ駅に停車中の列車で爆発が発生し、24人が死亡し20人が負傷する大惨事となりました。その混乱が続いて、多くの列車が駅に停車中だった約30分後のことです。今度は同じ路線の4駅先の駅で停車中の車両で爆発が起き、12人が死亡し15人が負傷したのです。時刻は朝のラッシュアワーの最中です。現場は勿論、どこの地下鉄駅も大混乱に陥りました。地下鉄の運行は数時間に渡ってストップし、モスクワ中心部への通行は停止されました。市民はバスなどの代替輸送手段を利用することになったのですがが、地下鉄の運行が事故現場以外で再開しても、しばらくの間は、再度の爆発テロを恐れて、地下鉄の利用を取りやめる市民が多かったといわれます。
2011.03.29
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チュニジアからエジプトへ…(44)リビアに注目が集まっている間に、バーレーンやイエメンの動きが急を告げています。とりわけ、報道が極端に限られているイエメンで、サレハ大統領の独裁政権の命運が尽きようとしています。イエメンでは、1967年にアデンを中心としたイギリス領イエメンが、イギリスから独立して南イエメン人民共和国を名乗りました。この時期、北イエメンは、諸部族入り乱れての内戦の最中にありました。この地で、独特の調停能力を発揮して、次第に部族長たちの信頼を獲得したのが、アリ・アブドラ・サレハでした。こうして、最大公約数の支持を確保したサレハは、1978年に北イエメンの大統領に就任し、1990年の南北合併後には、イエメン共和国の大統領に就任したのです。この間33年、エジプトのムバラク前大統領よりも3年ほど長く、再呼応権力の座に座っているのです。当然、長期政権による腐敗も目立ち、強健体質に対する不満、高い失業率などへの怒りも強く、チュニジアやエジプトの動きが伝播するのも、早かったのです。エジプト革命が始まった1月中旬以降、イエメンでも民主化を求める民衆のデモが始まりました。この動きは日を追って大きくなり、デモへの参加者も日を追って拡大し、次第に大統領を追い詰めて行きました。このデモ隊の民主化要求に対し、サレハ陣営は、懐柔と弾圧という、アメとムチの併用作戦で臨みました。先ずは、2月2日に次期大統領選への不出馬を表明したのですが、焼け石に水でした。3月に入り、リビアでのカダフィ派の優勢が明らかにされると、俄然弾圧に転じ、18日には、デモ隊と治安部隊との衝突で、50人以上が死亡する事態となりました。サレハは、この事態に乗じて、イエメン全土に非常事態令を発動して、武器を持っての街頭デモを禁じる措置をとりました。しかし、エジプト同様、民衆への攻撃に軍部が強く反発し、今まで大統領を支えてきた軍部の離反が続き、軍幹部の大半が、反政府運動支持に傾き、サレハは窮地に追い込まれました。追い詰められたサレハは、2013年末の任期切れを待たず、今年末の大統領選挙実施と、その後の辞任を表明して、反政府派にボールを投げたのですが、譲歩は遅すぎました。当然反政府派はそれを認めず、即時辞任を要求しています。この動き、ムバラク辞任を勝ち取ったエジプトの動きと、驚くほど良く似た相似形をなしています。大統領側にある部隊は、サレハの息子が指揮する共和国防衛隊という名の、治安機関だけです。この辺りの構図もエジプトに似ています。サレハ独裁の崩壊は、もはや時間の問題のように見えます。 続く
2011.03.28
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クロニクル スリーマイル島原発事故1979(昭和54)年3月28日福島第1原発の事故で、比較の尺度として持ち出されていますので、32年前のこの事故も、すっかりお蔵から取り出され、日々マスコミにも取り上げられています。この事故の発生は、32年前の今日、午前4時頃のことでした。スリーマイル島の原発は2基の原子炉を有したのですが、このうち前年末に営業運転を開始したばかりの2号炉で、加圧水型の原子炉でした。この事故は、炉心溶融に至った大きな事故でしたが、電源は確保されており、事故に備えた2次的な給水装置やポンプは、異常なく作動したため、比較的短期に回復に向かい、最悪の事態に至る事は、防ぐことができました。しかし、米国内の反原発感情は高まり、そのため米国では、その後約30年間、原発建設は凍結されました。下の写真が、スリーマイル島の原子力発電所です。画面奥の中央のくびれた2つの塔のような建物が放熱塔、その手前の2つのタンク風の建物が、原子炉建屋です。その左横の建物がタービン建屋で、制御室もここにあります。
2011.03.28
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チュニジアからエジプトへ…(43)米軍とNATO軍によるリビア空爆は、19日に開始されました。それまで、空爆を渋っていた米国が態度を変えたのは、このままでは反カダフィ派が壊滅しかねない状況が生まれたからでした。その時期に、米政府の代表がサウジを訪問しています。そこでおそらく米国は、アラブ連盟が「リビアに飛行禁止空域を設定すること」を支持し、その禁止空域の監視に軍をだすことを条件に、「サウジがバーレーンに軍を出し、反王政派を鎮圧することを黙認する」という交換条件を出したものと思われます。事実サウジはバーレーンに軍を派遣し、デモ隊を鎮圧。問答無用の弾圧を加えてはじめました。そして時をほぼ同じくして、リビア空爆が始まったのです。米・英・仏・伊の思惑ははっきりしています。リビア東部は、リビアの油田地帯の大半を含みます。反カダフィ派を支援することは、リビア東部の油田を手にすることに通じます。金のなる木である油田地帯を支配できるチャンスが、ようやく巡ってきたのです。このチャンスを逃してなるか。これが米・英・仏・伊の思惑でした。まして、カダフィは、「欧米には、1滴たりとも石油は売らない」と明言したのです。カダフィに勝利されたのでは、たまりません。これが、介入の論理でした。しかし、昨日も触れたように、介入した諸国も、カダフィ派の一掃までは主張していません。となると、力不足の反革命派が、リビア全土を支配下にする可能性も極めて小さいです。リビアの東西への分裂の可能性が、そして少なくとも独裁者がいない東地区では、部族間の内戦に近い不安定な状況が、続く可能性が高いように思われます。もともと、アフリカでは、エジプトやモロッコ、エチオピアなどを除けば、国境線は植民地列強同士が、夫々の利害によって、勝手に線引きしたものに過ぎません。そこには近代国民国家のような、内発的事情によって、定められた国境はないのです。それゆえ、内戦の危機が絶えず、いまだに殺し合いが絶えない地域も多いのです。 続く
2011.03.27
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クロニクル ガガーリン死す1968(昭和43)年3月27日ガガーリンの名は、年配の方ならどなたも記憶されていることと思います。そうです。人類初の宇宙飛行士となった、ユーリイ・ガガーリンその人です。彼がヴォストーク1号に乗って、世界初の有人宇宙飛行に旅立ったのは、1961年4月12日のことでした。彼の乗った宇宙船は、大気圏外に出て、地球周回軌道を1周して、再び地球に戻りました。この間1時間50分ほどの旅でした。地球に戻ったガガーリンの「地球は青かった」は有名ですね。見事に地球に生還した彼は、一躍と時の人となり、ソ連の広告塔の役割も果たしていたのですが、惜しいことに43年前の今日、飛行指揮官となるための訓練飛行中に、同乗の教官と共に、飛行機事故で墜落死したのです。34歳の若さでした。
2011.03.26
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チュニジアからエジプトへ…(42)3,11以後休載してた、アラブの問題に戻ります。2週間の間に情勢は大きく動きました。バーレーンには、サウジとサウジの子分格のオマーン、カタール、UAEなどの軍隊が進駐し、反体制派を力で押さえ込もうとしはじめました。イエメンでも、武力衝突に発展している様子です。そしてリビアでは、NATO軍(主に仏・英・伊3国)と米軍によるカダフィ派への空爆が始まりました。この2つの動きは、ほぼ同時に始まっていますから、水面下では、これら2つの動きが繋がっていることが透けて見えます。リビア空爆は、早くからフランスとイギリスが熱心でした。しかし、アメリカの腰が引けていましたから、実現には時間がかかりました。そうしているうちに、ハンカダフィ派の劣勢が次第に明らかになってきました。一時は風前の灯に見えたカダフィ派が息を吹き返し、反カダフィ派を追い詰め始め、このままではカダフィ派の勝利、反カダフィ派の敗走が確実視されるに至ったのです。なぜか。革命が成功するか否かは、民衆の幅広い支持が得られるかどうかで決まります。危惧した通りでもあるのですが、反カダフィ派に結集した部族長たちは、内輪もめに現を抜かしたり、利権の獲得に血道をあげるなどして、民心にソッポを向かれたのでしょう。ことは武器の質だけの問題ではないようです。ハンカダフィ派の部族長や幹部に人望があるなら、政府軍兵士に対する説得工作を成功させ、彼らを武器ごと寝返らせることが可能です。南ヴェトナムのジャングルでは、これが功を奏し、米軍の武器は政府軍兵士を通じて、大量に解放戦線の側に渡っていました。リビアではそれは起きていません。つまりリビアの動きは、エジプトやチュニジア、そしてバーレーンの革命の動きとは、異質のものであるようです。親米、親欧州の度が過ぎる政府に対する反発でもあった革命運動と、同質の動きがリビアで起きているのなら、米国やNATOに頼って、カダフィに勝利しようなどとは考えないはずです。そして米国も態度を替え、アラブ連盟もカダフィ制裁に加わるならと、重い腰を上げたのです。これも?マークでした。 続く
2011.03.26
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クロニクル 多摩ニュータウン入居開始1971(昭和46)年3月26日1960年代の高度経済成長期は、真面目に働けば収入は増え、暮らしは良くなるということが、実感として信じることが出来た、今から考えると大変良い時代でした。電化製品の普及が進み、次第にマイホーム主義のムードが漂い始めた頃でもありました。しかし、その結果として、通勤に便利な東京都区部の住宅価格は高騰を続け、若い世代似ての届くものではなくなっていました。一例を挙げると、ミスタープロ野球と言われる長嶋選手が1957年のオフに巨人軍に入団した時の契約金が、週刊誌情報で2千万円から3千万円と書きたてられ、大きな話題となったのですが、そのわけは、この金額があれば当時最高級住宅地として有名だった田園調布に、200坪の宅地を持つ邸宅が4,5軒は購入できると、書かれていたことにありました。長嶋選手の契約金は、推定に過ぎませんが、当時の価格で田園調布の邸宅が、1千万円を大きく切る価格で購入可能だったとする点は、各紙に共通していますし、そう大きくは外れていなかったのでしょう。しかし、1964年の東京五輪に向けて、東京の地価は倍々ゲームのように上昇を続け、普通のサラリーマンの手の届かない価格になって行きました。この状況から、地下の安かった23区の周辺で、民間業者による乱開発が始まりました。多摩ニュータウン構想は、そうした乱開発に歯止めをかけ、住環境の良い住宅を大量に供給しようと言う意気込みで、はじめられました。現在の東京都多摩市、稲城市、町田市、八王子市に跨る多摩丘陵の3000ha(1haが3000坪にあたりますので、900万坪です)という広大な土地を開発し、30万人を上回る居住者に住宅を提供しようという壮大な計画です。宮崎駿監督率いるスタジオジプリが製作した『平成狸合戦ポンポコ』は、この多摩ニュータウンの開発を舞台にした作品でした。計画は65年に立てられ、66年に事業認可を得てスタート。67年に初当選した美濃部革新都政の下でも、遅滞なく推進され、丁度40年前の今日、多摩市永山地区と諏訪地区で、第1次の入居が始まったのです。現場は、バスで京王線の特急、急行の停車駅である聖蹟桜ヶ丘まで15分足らずのところでしたが、74年に京王線が乗りれて永山駅と多摩センター駅が開業し、少し遅れて小田急線の乗り入れも実現し、両線が乗り入れたことで、さらに交通の便が良くなり、当時は入居の抽選倍率は大変高いものとなりました。しかし、時移りて現在はというと、40年という歳月のなせる業なのですが、入居者の高齢化と建物の経年劣化、この地で生まれ育った若者の住職近接への指向などにより、住宅地としての活力が低下が、問題となっています。新たな価値をどのように再生するかは、長い時間を経過した住宅団地に共通する課題ですね。
2011.03.26
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原発事故を考える(10)日本政府が、茨城県の東海村に実験用の原子力発電所を設置し、「東海村に原子の火」という標語を作って、原子力の平和利用を高らかに宣言したのは、私の高校生の頃のことでした。以来自民党政府も、現在の民主党政府も、原発推進の姿勢においては、何の変化もありません。3日前の22日ですが、菅改造内閣で閣僚となった与謝野経済財政相は、「将来とも原子力は日本の社会や経済を支える重要なエネルギー源であることは間違いない」と語っています。事故から間もない時点では、随分と大胆な発言ですが、こうした考えは、彼1人のものではなく、今の政界の主流は、ニュアンスの差はあっても、原発推進派が多数派であることは間違いないでしょう。その点は、世界で日本だけが拘っている、高速増殖炉の実用化に向けての執念を、いまだに捨て去っていないことからも明らかです。高速増殖炉の実用化試験炉「もんじゅ」、この名前をお聞きになった方も多いでしょう。福井県敦賀市にある「もんじゅ」は運転の初期段階から事故に見舞われ続けてきました。95年の火災事故発生後、事故を過少に見せようとした運営主体(当時は動燃)の隠蔽体質が露見し、計画が頓挫しかけた際も、政界は時間をかけて地元の沈静化と説得に努め、10年をかけて県知事を説得、2005年に改造工事の了承を取り付け、昨年5月から、MOX燃料を使用して、運転再開に踏み切っています。事故発生当時は村山内閣、運転再開は鳩山内閣の時でした。この事実は、日本の政界の大勢が、原発容認であることを如実に物語っています。「もんじゅ」の後日談を記すと、運転再開後の8月に、炉内中継装置が原子炉容器内に落下する事故が起き、現在まで再び運転を休止する事態に立ち至っているのですが、未だ収拾の見通しは立っていないようです。「もんじゅ」は民間の機関ではなく、初期には動燃(=動力炉核燃料開発事業団)が、現在は独立行政法人日本原子力研究開発機構が運営しています。こうした政府系機関も、電力会社も、事故を隠蔽したり、過少に報告したりする傾向が強く見られます。私の想像になりますが、そこには政府や政治家、そして官僚らの強い要請や指示もあるように思われます。ところが現在進行形の福島の事故では、初期のテンヤワンヤの時期を覗けば、東電からも政府からも、比較的に正確な数値が発表されています。国際的な注目を浴びており、国際的な支援チームの応援を得ているだけに、数値を隠すことができないという事情も働いていルノでしょうが、パニックを招くような事実は、可能な限り国民には隠すか、過少に報告することが常だった(そのため、国民に信用されてないので、ミネラルウォーターがあっという間に品切れになると言う、笑えないパニックが起きてしまうのですね)政府が、何故?という疑問が残ります。私は、うがった見方かも知れませんが、事故が終息した後に、「やはりたいしたことはなかったでしょう。だから原発は安全なんです。CO2も出さないクリーンなエネルギーなんですよ。資源の乏しい日本で、便利で快適な生活を続けるには、原発は欠くことができないのですよ。速やかな運転再開に協力してくださいね。」と、国民や地元を説得する材料にしようとしている。こう読んでいます。しかし、原発は決してクリーンなものではなく、廃棄物の処理も決まっておらず、核のゴミを子どもどころか、孫の世代に残して知らん振りをするしかないエネルギーであることが、今回事故で、我々も知るところとなりました。こんなエネルギーを今後も使い続けることは、孫世代や地球に対する裏切りだと私は考えます。幸い、今回の日本の事故が、世界的な注目を浴び、波紋を広げたことで、世界規模で原発を見直す動きが出てきました。今回の事故を奇禍として、原子力という麻薬のようなエネルギーに頼らず、早急に自然エネルギーの活用という、真にクリーンなエネルギーの実用化に周知を傾けるべきだと、私は考えています。明日から、アラブの問題に戻ります。あちらも随分と動いていますね。
2011.03.25
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クロニクル 釜石の高炉閉鎖1989(平成元)年3月25日昭和が平成に変った年、そしてフランス革命200年の節目の年、ベルリンの壁崩壊に象徴される東欧革命の年。22年前は、そんな大きな潮目の変化があった年でした。そしてこの日、新日本製鉄釜石製鉄所の最後の高炉が火を落としました。釜石は近代日本における鉄鋼生産の発祥の地でした。その創業は、官営八幡製鉄所の影に隠れていますが、1880年に操業を開始し、86年には利益を計上して操業を軌道に乗せていますから、1901年操業の八幡製鉄所よりも、ずっと老舗なのです。日米戦争の過程で、米軍の艦砲射撃の標的とされ、壊滅しますが、戦後の1950年には復興を遂げ、合併前の富士製鉄の主力工場の1つとなりました。しかし、高度成長の後半、1970年の新日鉄発足と共に、設備の縮小に軸足が移り、この頃から社員の縮小が始まりました。1980年には大形工場は閉鎖され、そして22年前のこの日、遂に最後の高炉の火が消えたのです。現在は、棒線事業部のみが残り、僅かに223人の社員が線材圧延設備を動かして、仕事をしている状態になっています。ブロ友の「じゅぺ理」の郷里であり、彼が時折「釜石嘆き節」とも言うべき内容を綴るのも頷けます。その町が今、大きな津波の被害を受けた町のひとつとなり、再建に向けての長い道のりを歩み始めているのですね。
2011.03.25
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原発事故を考える (9)使用済燃料棒という核のゴミをどうするか。この大問題が残っていることを昨日書きました。同時に廃炉とする原発自体をどうすかという大問題も残っています。福島第1原発は、まず間違いなく廃炉でしょう。しかし、他の原発はどうでしょうか。福島第1原発の1号機と同じように、耐用年数を大きく過ぎながら、廃炉に出来ないという理由で、ダマシダマシ使い続けている原発も増えています。そして、どの原発もやがて寿命が来ることは、明らかです。ここにも高濃度の放射性物質や汚染物質が大量に存在します。例えば廃棄処分しなければならない原子力発電装置や補助装置があり、そして話題になった建屋もあります。これらも重機で破壊して、ドラム缶につめてどこかへ運ぶのでしょうか。原発1基を解体処理するだけで、放射性物質にまみれた廃棄物の量は、数万トンに及ぶと試算されています。日常の生活ゴミの捨て場にさえ困っているのですから、放射線で汚染された物質の捨て場が、簡単に見つかるとは、考え難いですね。今日まで、東電に限らず電力会社や政府は、原子力発電は安全でクリーンなエネルギーであると、猛烈な宣伝にこれ努めてきました。火力発電に比べ、温室効果ガスを発生させないので、地球温暖化防止に役立つというのも、その1つです。でも、良く考えてください。処理方法も決まっていない、大量の核のゴミを排出し、処理に困る高濃度汚染物質である使用済み発電機という厄介な超粗大ゴミが残るのです。最終処理まで見通した時、誰が原発は安全でクリーンと言えるのでしょうか。我が家に近い某大学の実験用原子炉のことは、お話しました。実はその隣に日立製作所の原子力研究所があり、そこにも実験用原子炉がありました。こちらは事故と無関係に、早くに役割を終え、運転を休止していましたので、5~6年前に使用済み核燃料を運び出し、その後に閉鎖作業を行い、昨夏に移転を完了しています。しかし、使用済み核燃料は運び出しましたが、大量の放射性廃棄物の引き受け手などありません。こちらはコンクリート詰めにして、深い穴の底に埋め込んでいます。そのため、研究所は東戸塚に移転しましたが、この場の管理のために、最低限の要員が現在も残っているのです。昨年8月の閉所のパーティには、私も招かれたのですが、その時の所長挨拶のなかで、「結果的に高いものにつきました」と語っていたことが、印象に残っています。言うなれば、原子力力発電というのは、廃棄方法とか、廃棄コストといった最終処理までを、きちんとシュミレーションをして、安全と採算の確保を担保した上で、始められたものではなく、言わば、出口戦略は後で考えれば良いとした見切り発車だったこと、安全確認をしないまま「安全」を主張してスタートした、巨大な実験装置だったことが、今回の事故で、はっきりと明らかになったように思います。 続く
2011.03.24
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クロニクル 合掌!高知学芸高校1988(昭和63)年3月24日もう23年になります。この日上海郊外で、急行列車同士の衝突脱線事故が起き、この列車に乗り合わせていた、修学旅行中の高知学芸高校の生徒27名と引率教諭1名が犠牲となりました。この事故による死者は、全体で29名、負傷者は99名と発表されています。このうち高知学芸高校の修学旅行団の死者が28名、負傷者が36名です。このわけは、事故により、最もひどく損壊した2号車に、修学旅行団が乗車していたからでした。この事故に限りませんが、事故の報道を見聞きするにつけ、運不運というのは紙一重なのだと、いつも感じます。
2011.03.24
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再び ブロ友の吉祥天さんからの転載です。「ペットと共に避難できない」悩みを抱えた被災者の方に朗報です。皆さんからも拡げて下さい。そして被災された方にお伝えする機会があれば、伝えてください。緊急!無料!ペット連れでの避難 「プチホテルサンロード」 「伊豆高原(静岡県) プチホテルサンロード」さんより 緊急!!無料!被災者受け入れ開始! 緊急につき、拡散お願いします。 各県自治体が被災者受け入れを開始したが、ペット連れでの避難が出来ず、バスにも乗れない。 泣く泣く犬や猫を置いて来る人達が増えているとの事。 (市営住宅や県営住宅・ホテル等は受け入れ禁止となっている為) 中には、犬のリードを外し一旦避難をしたが、どうしても諦めきれず、泣きながら徒歩で引き返し置いてきた犬を探したが見つからなかったという人も・・ 人命も大切です。 でも、家庭犬で育った犬や猫が一人で生きていけるでしょうか? 被災に遭われ、心に傷を持った人達から愛するペットを引き離す事が、どんなに苦しい事か・・・ 大きな避難所には自衛隊や愛護団体・ボランティアの方々が行ってくれています。 しかし、小さな避難所には救援物資も届いていない状態。 わんこを置いて避難できない人は、壊れた家で寒さに震えながら、わずかな食料で命を繋いでいます。 わんこも茹でていないパスタをかじっているとの事。 三日も四日もご飯を食べていない人も動物も・・・ 私たちは決断しました。 無料で被災者を受け入れる事を! 一家族でも多く救いたい!! 一匹でも多く家族の側で暮らさせてやりたい。 伊東市も救出・移動手段など検討会議して下さってます。 わんこを手放すこと最後まで諦めないで下さい。 ペット宿を営んできて11年。 これからが私達の恩返しかもしれません。 伊豆高原(静岡県) プチホテルサンロード 大川 愛子(ポチ母)緊急ですので実名を入れて戴いて結構です。 http://www.mmjp.or.jp/echobridal/sunroad.htm 【追記】3月19日 ◆出入り八百屋さんが仕入れ料金半額以下の申し出をして下さいました。 ◆クリーニング屋さんが、被災者の寝具は無料にしてくれました。 ◆ガソリンスタンドさんがガソリンの確保(被災者移動用)してくれました。 ◆popwanさんから体力が落ちているわんちゃんの為に手作り食の提供をお申し出戴きました。 *********************************** ここなら津波の心配はない高台だし、揺れも少ない場所です
2011.03.23
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原発事故を考える (8)運転を停止した原発でも、長期に渡って水を循環させ、核燃料棒を冷やし続ける必要があると書きました。その間、部品の不具合はないか、配管は大丈夫かなど、日常的な監視と定期的な検査が必要です。完全に冷え切った核燃料を別の場所に移し、ようやく具体的な処理作業が始まるのです。1基だけの、そしてMOX燃料などなかったスリーマイル島の原発処理でも14年はかかったのですから、福島第1原発の6基の原発を処理するには、20年はかかるだろうと、予想されています。そして、処理すべきものには、もう一つの難問があります。使用済みの核のゴミ、使用済みの核燃料棒をどうすかです。低レベル放射性廃棄物と名付けられていますが、当初、1969年までは、ドラム缶に詰めて海に捨てていたそうです。さすがにそれはまずいということになって、現在はドラム缶に詰めて、青森県の六ヶ所村に運ばれ、そこで保管されています。その数既に300万本を超えているそうです。これをこの地で300年間保管するのだそうですが、ドラム缶を何度も取り替えなければならないでしょうし、大変気の遠くなるような時間がかります。今から300年の昔というと、1711年ですから、丁度元禄の世が終ってしばらくした頃でしょうか。そこから現在まで、そんな時間が必要なのです。そしてもう一つ、使用踏み核燃料を再処理して、プルトニウムを取り出した後の、高レベルの放射性廃棄物もあります。日本ではフランスに再処理を依頼し、1995年に28本が帰ってきています。これは、どろどろの高レベル廃棄物をガラスと一緒に固めて、金属容器に入れたものです。この廃棄物も、一時的に六ケ所村に置いて、30年~50年くらい冷やし続け、その後、どこか他の場所に持って行って、地中深く埋める予定とされています。しかし、どこに埋めるか、予定地は全く決まっていません。この問題は、他国もまた同じように困っています。計画だけはあっても、実際にこの高レベル廃棄物を処分した国は未だ1ヶ国もないのです。どの国も困っているのですね。 続く
2011.03.23
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クロニクル 広島カープの存続決定1951(昭和26)年3月23日1950年は、プロ野球がセ・パ両リーグに拡大した年です。戦後日本の復興の中で、スポーツといえば、野球と相撲がほとんどだった人たちに、楽しみの機会を増やそうという試みでした。広島カープもこの時に誕生しました(正確には1949年の12月15日に加盟が承認されています)。「廃墟の広島の復興のシンボルに」と、市民や県民が資金を寄付、他に例のない市民球団としての誕生でした。市内を流れる太田川は鯉の産地、広島城の愛称は鯉城だったことから、球団名は広島カープと決まりました。球団は出来ましたが、初年度の1950年は、勝率3割を切る最下位。オフには解散案や太洋ホエールズとの合併が真剣に検討される事態となったのです。何か楽天の事態を思い出しますね。このとき、立ち上がったのは、なお放射線の被害に苦しみながらも、復興に向けて立ち上がっていた市民たちと、その市民を後押しする中国新聞社でした。市民たちは、居酒屋で相談をしたのでしょうか、大きな酒樽を募金箱とする「樽募金」をはじめ、中国新聞社の協力もあって、球団存続に必要だった、当時のお金で400万円を集めきったのです。こうして、51年度の開幕も近づいたこの日、広島カープの存続が、正式に決まったのです。廃墟に立つ人の力が、球団を存続に導いた過去が、市民球団広島カープの今日に繋がっているのですね。廃墟から立ち上がった日本人の底力。その典型の1つが凝縮されているように感じられる、広島カープ創世記の物語でした。
2011.03.23
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原発事故を考える (7)私の地元の小さな実験用原子炉でさえ、廃炉と決まったのに、現在も手付かずのまま残されています。米国で事故を起こしたスリーマイル島の原発は、処分の完了に14年を要しています。原子力発電装置の厄介な所はここにあります。放射性物質から発する放射線濃度の高いところには、人は近寄れません。爆発で破壊された建屋近くに散乱する瓦礫の放射線濃度が高いことは、マスコミでも報じられました。建屋内部の放射線濃度は、当然ながらさらに高いのです。ですから事故と関係なく、日常の作業で建屋内部に入る人々は、防護服を二重に纏ったごく限られた一部の人たちだけなのです。仕事を終えると、彼らは先ず上の防護服を隅々まで水で流し、次にもう一枚の防護服を水洗いし、最後に全身をシャワーで洗い流します。そうしてパンツ1枚になって、ガイガーカウンターの検査を受け、OKが出て初めて外にでるのです。つまり原子炉を保護している建屋の中は、放射性物質の宝庫なのです。問題の福島第1原発は、誰が見ても廃炉と結論付けるでしょうが、この廃炉が簡単ではありません。この原発の1号機は、1971年に運転を開始したのですが、当初は耐用年数を10年と見込み、10年後の廃炉を考えていたそうです。それが何故40年も動き続けてきたのでしょうか。それは、放射性物質が満ち満ちた原発を、無理やりに廃炉、解体しようとしても、製造時の何倍もの費用がかかることと、作業員の大量被曝が避けられないなど、簡単に手をつけることが出来ないことが、明らかになったからでした。とりわけ、原子炉の真下の放射線量は飛びぬけて多く、基準を守るとすると、1回に1分もいられないのだそうです。ですから、廃炉と決めても、建屋内の放射性物質の量が、大きく減少するのを待たないと、具体的な廃炉のための作業は始められないのです。その結果、福島第1原発では、1号機以下、10年の耐用年数が過ぎた原発を、その都度修理しては、今日まで使い続けてきたのです。そうする方が、費用がかからないからなのです。さすがに今回は、修理してというわけにはいきません。世界各地で廃炉を前提に、閉鎖された原発はいくつもあるそうです。ですが、放射性物質が限りなくゼロに近付くまでは、貯水槽につけて、水を循環させながら、管理を続けなければならないのです。我が家に近い、実験用原子炉が、廃炉と決まってもなお電力を必要とする事情は、ここにあったのですね。 続く
2011.03.22
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クロニクル ダークダックスデビュー1957(昭和32)年3月22日今年1月、メンバーで一番若かった、トップテナーのバクさんが亡くなりましたね。レコードデビューから54年。長期療養中のマンガさん(セカンドテナーでメロディパート担当)も合わせ、創立以来のメンバーは、バリトンのゲタさんとバスのゾウさんの2人になりました。ダークダックスは、御存知の通り、全員慶應義塾大学の出身です。同大学の男声合唱団、ワグネルソサエティのメンバーで構成されたグループです。その団結力が、音楽グループにありがちな仲間割れを起こすことなく、超長期の活動を可能にしたのでしょうね。グループの結成は、1951年のクリスマスパーティで、まだ入学前のバクさんを除く3人が、「ホワイト・クリスマス」の合唱を披露したのがきっかけでした。やがて、遅れて入学したバクさんが加わり、4人編成になりました。当初は、ジャズや黒人霊歌を歌っていたのですが、ロシア民謡の『ともし火』をレコーディングして、この日メジャーデビュー。あのきれいな歌声とハーモニーが歓迎されて大ヒット。一躍人気グループとなりました。結局この年だけで、6枚ものアルバムを発売する程のブームを呼び、歌謡界にコーラスブームを巻き起こしました。
2011.03.22
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原発事故を考える (6)大震災の発生は、週末の金曜日でした。東電の管内では、14日の月曜日から、「計画停電」が始まりました。東京都心の1部の区のみが、計画から外れているように報道されていますが、実は停電区域から外れている地域も何箇所かあります。実は私の住まいの地区も、停電区域から外れています。一面有り難いとも思うのですが、なんだか停電で困っている方たちに、申し訳ないような気がして、落ち着きません。その分せっせと節電しようと、近所の皆さんと一緒に知恵を絞っています。何故外れているかというと、我が家から徒歩で15分ほどのところですが、横浜市との境に、某工業系大学の原子力研究所があり、研究用原子炉があるからです。実は10数年前のことですが、この原子炉から基準値を超える放射性物質を含む排水が流れ出てしまい、下流に当たる横浜市側で、大騒ぎとなりました。神奈川版を中心に、新聞各紙にかなり大きく取り上げられましたから、御存知の方もいらっしゃると思います。以来この研究用原子炉は、運転を停止し、3~4年前に正式に廃炉となりました。ですから現在、完全に低温保管が出来ており、密閉もされています。それでも東電は、この地区は停電させるわけに行かないと判断しているのです。そこで、現在の福島第1原発の状況と重ねて見ましょう。昨日のkopandaさんのコメントに、排水問題の指摘がありました。各地の原発でも、使用済冷却水を海に捨てることで、海水が汚染されると、随分問題になりました。以来、放射性物質を含んだ排水の処理は、随分慎重になってきました。今はどうでしょう。より大きな災害を防ぐためには、やむをえないというのでしょう。関係者の必至の努力には、敬意を表することしか出来ないのですが、電気系統の故障で、水を循環させることは出来ないのですから、放射性物質を含む大量の汚染水が、原発の周囲に大量に撒き散らされていることになります。爆発した建屋の瓦礫も、高濃度の汚染物質です。こうした汚染は地中に染み込みます。半減期の短いものは、そのうち消えていきますが、プルトニウムのように気の遠くなる程、半減期の長い長い物質もあります。おそらく、事故を起こした原発の周囲は、長期に渡る立ち入り禁止区域にせざるを得ないのではないでしょうか。福島第1原発の廃炉は当然のことですが、実はこの廃炉後の処理が大変なことなのです。わが町に立地する、小さな小さな出力しか持たない研究用原子炉ですら、未だに燃料棒を取り出して、大きな処理施設に運ぶことすら出来ないでいるのですから… 続く
2011.03.21
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クロニクル 高松塚古墳で…… 1972(昭和47)年3月21日もう39年が経つのですね。この日、奈良県明日香村の高松塚古墳の発掘調査中に、極彩色の壁画が発見されました。 古墳内部の石壁に、白虎や青竜、金箔の星座や男女の像が色鮮やかに描かれていました。明日香村の依頼で、調査を担当していた橿原考古学研究所が発見、発表したのです。当時の考古学界では、近畿地方には装飾古墳は無いとする考え方が、定説の地位を占めていましたので、この発見は、定説を覆す大発見として、当時の考古学会及び、日本の古代史学会に大きな波紋を呼び起こし、さらにマスコミも、この話題に飛びついたものですから、この発見をきっかけに、古代史ブームが巻き起こったのは、御存知の通りです。しかし、この高松塚古墳の主は、いったい誰なのでしょうね? 実は現在でも謎のままで、埋葬者が誰かは、皆目分かっていないのです。そこがまた古代史のロマンでもあり、古代史ファンにはたまらないところなのでしょうね。邪馬台国はどこだったかと共に、謎のままの方が、良いのかもしれません、
2011.03.21
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原発事故を考える (5)こうして現在も、福島の原発危機は続いています。自衛隊員、消防士、警察機動隊員の皆さん、原子力発電所で働く東電の下請け企業の皆さん、そしてごく僅かの東電社員が皆さんの必至の努力が続けられています。こうした皆さんの努力を見守るしかないのが残念でなりません。そして、もっと残念なのは、「原発は安全安心な施設だ。技術の粋を尽して、何重もの安全策を施している」と、国民に対して岸発の安全を売り込み、原発推進のプロパガンタを果たしてきた旧通産省(現経済産業省)や旧科学技術庁(現文部科学省)の官僚、東電幹部、そして原発推進派の学者の姿が、現場にないことです。戦前の日本を破滅に導いた旧軍部は、世界と国民に対して、大きな罪を犯しましたし、卑怯者もおりました。しかし、上官の多くは部下を死なせた責任を回避することなく、部下と運命を共にする道を選びました。東電の幹部、特に原子力発電担当重役は、何も出来なくても、現場に張り付いて、現場で頑張っている皆さんと、共にあるべきではないでしょうか。それはチームの士気に、大きく関わるのではないでしょうか。福島原発には、不運なこともありました。1号機は40年も前の施設です、原発の建設には、着工から営業発電の開始まで、4,5年はかかりますから、発電装置の発注は、運転開始に先立つ1965年前後です。当時の日本というか、当時の日立や東芝、三菱電機に原子力発電装置を製造する実力は、まだありません。設備は米国GEに発注され、日本とは仕様の異なる米国の電圧を使っていると思われるのです。ですから、津波によって、何重にも施した安全対策が、すべてぶち破られた時、即ち全ての電源が使用不能となった時に、制御室から原発をコントロールする手立ては、全て失われてしまったのです。この点は、大前研一氏が既に主張しています。原子炉のある建屋ではなく、中央制御室のモニターで全てを監視するのですから、電源がなければ何も監視できません。確実なデータが得られないのは、このためでした。そしてもう1点、これも大前氏が、その可能性を指摘していたのですが、津波によって東電の福島県内の変電所のいくつかが、破壊されてしまっていたことも、大きなダメージでした。この事実は、一昨日から報道されているように、現在福島第1原発に電力を引き込む作業がなされていますが、その作業は東電ではなく、東北電力の電力を借用する形で行なわれていることから、明らかになりました。原発の発電装置を製造したGEは、9台の発電機を福島に送ると表明し、実際に行動を起こしています。このことは、日本標準の電圧仕様でない電源を持つ発電装置を据え付けたことと関連付けると良く理解できるように思います。こうしている現在も、海水の注入は続けられていようです。今は、決死の覚悟で敷設した送電ケーブルを機器に接続する作業が続けられています。これで機器が作動するなら、暴走する原発を制御する可能性が、いくらか見えてくるのですが、そうなったとしても、その先に長い長い問題が山積みになっています。 続く
2011.03.20
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クロニクル 第1回WBCで日本チーム優勝2006(平成18)年3月20日5年前の今日だったのですね。あのキューバ戦。8回に追い上げられて6:5、やはり強豪、危ないかなぁと思った9回表、一挙に4点を取った攻撃に、しびれました。奇跡が起きての優勝でした。そうです、5年前の今日が、第1回ワールド・ベースボール・クラシックの決勝戦が行われた日、そしてこの時間が、まさに決勝戦が戦われていた時間なんです。最初の予選ラウンドで韓国に敗退、アメリカに移っての第2ラウンドでは、世紀の誤審問題もあって米国に惜敗、韓国にも再び惜敗して、2時予選敗退の危機にたちましたが、ここでメキシコが、再び起きた誤審に奮い立って、米国に勝利したことに恵まれ、3チームが1勝2敗で並び、得失点差で2位に入り、決勝トーナメントに残ったのでした。準決勝では6:0と韓国に圧勝。この日の決勝では、初回と最終回の4点が効いて、10:6でキューバとの激闘を制したのでした。5年前は、野球に熱狂できたのですが、今は3月中に開幕しようと勝手なことを言っている、セリーグに対し、非難の集中砲火が飛んでいます。今の日本社会に、理不尽で傲慢な球団経営者に、集中砲火を浴びせる元気があることを喜びながらも、少々複雑な気分です。
2011.03.20
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原発事故を考える (4)実は、この3号機は、福島第1原発の中でも、特に厄介なシロモノなのです。プルサーマル燃料というウランにプルトニウムを混ぜた燃料を使っているのです。プルトニウムは自然界には存在しません。原発で燃やしたウランの燃えカスから取り出します。いわゆる再処理の過程で、生じる放射性物質です。そしてプルトニウムは、核分裂の力がウランに比べると格段に高いのです。しかも半減期が2万4千年と、物凄く長いのです。まさに悪魔そのもののような物質です。1度プルトニウムで汚染された土地は、使い物にならないです。日本政府が東電の尻を叩き、3号機を優先して、放水作業を続けている理由はここにあります。毒性も強く、猛毒と呼ぶのが相応しいプルトニウムが、大量に漏出したら…… この先は創造したくないですね。建屋に傷がなく、後回しにされている2号機も、格納容器下部の圧力制御室が破損していますから、早期に放水することで、核燃料を冷やすことが必要です。そして使用済み燃料のプールの問題と、同じ場所に6機もの原発を造った咎目が、今まわってきていると言えましょう。原子力保安院は、福島の原発事故を、レヴェル5に引き上げました、レヴェル5はスリーマイル島の事故と同じレヴェルです。そうでしょうか。スリーマイル島の事故は、1つの原子炉のみの部分的な炉心溶融で、放射性物質の外界への放出も比較的少なかったと言われます。福島の事故は、四つの原子炉が同時進行で重大な危機を迎えており、放射性物質の漏洩も起きています。IAEAは、既にスリーマイルとチェルノブイリの中間、即ちレヴェル6と考えているようであり、保安員の評価は、国民を安心させようというバイアスのかかった、実態より甘い評価のように感じるのは、私だけでしょうか。 続く
2011.03.19
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クロニクル 『日本沈没』発売1973(昭和48)年3月19日38年前のこの日、小松左京氏の出世作『日本沈没』が、光文社のカッパノベルスとして、上下2巻が、同時に発売されました。この作品は、未発表の書き下しで、小松市は東京オリンピックのあった1964年から書き出して、9年間を経てようやく完成に至った、渾身の作でした。当時は、田中角栄首相が今太閤ともてはやされ、彼の唱えた「日本列島改造論」がブールを呼んでいました。それゆえ、この作品は、ばら色の未来を描いて、強気一辺倒に傾いていた日本社会に警鐘を鳴らすものとして、驚きをもって迎えられました。当初上下2巻とも、3万部の発行だったのですが、その衝撃の構想が社会に受け入れられ、何度も版を重ねるベスト・セラーとなリました。同年秋に発生した石油ショックで生じた社会不安が、同書の人気を高め、翌年春にかけ絵爆発的な売れ行きを見せました。光文社の発表によると、同書は上巻が204万部、下巻が181万部と、当時空前の売り上げを記録し、空前のベストセラーとなりました。映画界もこの大ベストセラーを見逃すはずもなく、映画化権を獲得した東宝は、翌年の正月映画として製作を急ぎ、橋本忍脚本、森谷司郎監督で撮影したフィルムを、73年の12月29日に公開しました。映画も大ヒットし、88万人の観客を動員し、興行収入は約16億4千万円と、74年度の邦画部門でダントツのトップとなりました。2006年の再映画化作品もヒットし、邦画の興行収入で第4位という好成績を残しました。
2011.03.19
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原発事故を考える (3)昨日の記事のうち、格納容器の破壊が現時点では起きていないという部分が、正確でないという御指摘を戴きました。確かに、2号機の格納容器の下部の圧力制御室の一部が壊れ、炉心溶融が起きていることは事実ですが。この2号機については、今なお建屋の崩壊はなく、放射性物質が広く大気中に流れ出している事実はないようです。噴出の多くは3号機からのようで、だからこそ3号機への放水が、危険を賭して行なわれているのでしょう。さて、この状況で出来ることは、炉心の水位が下がらないように注水を続け、冷却水の循環が続くように、どれかのポンプを動かし続けて、燃料棒の溶融が広がらないようにすることです。その努力が、現在必死になって行われています。消防車のポンプや、自衛隊が運んできたポンプなどで外部から注水したり、真水がなくなると海水を注入して、炉内の温度が上がらないようにする努力が祓われています。炉内は高圧ですから、馬力のかなり大きなポンプでないと外部から注水できません。そこで、格納容器の非常用バルブを開けて外部に水蒸気を逃がし、炉内の圧力を下げて注水しました。その結果、放出した水蒸気には炉内の放射性物質が混じったわけです。そうしている内に、先ず4号機の使用済み核燃料を納めてある水槽(プール)の水が沸騰して蒸発し、水位が下がって使用済み核燃料の上部または全部が外気に露出したことが発表されました。プールに注水する努力が行われていると発表されていますが、ここでもポンプの燃料の問題で、作業が難航しているうちに、3号機の貯水プールでも同じことが起きました。使用済み燃料も、なおかなりの高温を持ち、常に水を巡回させていないと、熱を発して水を蒸発させるのですね。そうだとするとこの現象は1~6号機の全てで起こりえます。こうなると大変です。4号機は定期点検中で、地震が起きる前に、炉内の燃料棒は全て抜き出して、横上にあるプールに移動してあリました。プールには1,331本の使用済みの燃料棒があるそうですが、その多くは、今回より前の定期点検時に炉心から搬出したものですから、それらはすでにほとんど余熱を発していません。しかし、地震直近に搬出したものは、まだ余熱が高かったのです。プール上部の建屋の屋根は、高温の被覆管が水と反応して発生した水素の爆発で、吹き飛んでいます。水素爆発の際、被覆管内部のウラン燃料の一部が吹き飛び、大量の放射性物質が大気中に放出された可能性もあります。プールの水位が下がったままで、冷却されない状態が続くと、この余熱で被覆管が溶融し、プールの下部にたまり、そのたまり方の状態によっては、ここでも再臨界が起こる可能性があります。再臨界が起きると、莫大な熱量の発生によって爆発が起き、建て屋が壊れて、中性子が大量に発生して被害が大きくなります。一方、4号機と同じく定期点検中だった5、6号機でも、使用済み核燃料プールの水温が徐々に上がっていると報じられています。そうした中で、3号機の格納容器の亀裂部分からと思われる、放射性物質の量が、大変危険な濃度となって大気中に噴出されました。 続く
2011.03.18
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クロニクル 「青い目の人形」日本に到着1927(昭和2)年3月18日>あーおい目をしたお人形は アメリカ生まれのセールロイド…<子供の頃に覚えた童謡の1つです。野口雨情のこの詩は、人形の日本到着の1年前の詩作ですが、贈られてきた人形とオーバーラップして、歌い継がれたました。この「青い目の人形」は、米国人宣教師シドニー・ギューリック博士の呼びかけで、全米から集められたものでした。ギューリック師は、日露戦争後の日本の満州支配の進展で、次第に緊張を高めていた日米関係を憂慮して、民間の文化的交流を通じて、緊張を和らげようと、『日本のひな祭りに人形を贈ろう」と、全米に呼びかけたのです。この呼びかけに応えて、集まった人形は、全部で12,739体に達しました。その全てが、ひな祭りには間に合わなかったのですが、84年前の今日、横浜港に到着したのです。この人形は、全国の小学校などに1体づつ贈られ、子ども達の手で夫々に名前がつけられ、大事にケースに入れられて、昇降口や校長室や職員室前の廊下に飾られました。米国に対する返礼として、渋沢栄一が中心となり、今度は「アメリカのクリスマスに、答礼の人形を贈ろう」と、全国の学校を通じて集められた58体の市松人形が、アメリカに贈られました。時移りて、日米間戦後、敵国のものとなった「青い目の人形」は、軍国主義の狂気のなかで、その多くが焼却処分されました。しかし、1部の心ある人々が、貧しい日本の子ども達が大切にしていた人形を、焼却処分するのは忍びないと、密かに1部の人形を倉庫の置くなどに隠したのです。こうして焼却を免れた人形323体が、現在も保存されているそうです。
2011.03.18
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原発事故を考える (2)そこまでは良かったのですが、地震とともに外部からの送電が停止し、通常使っている冷却水循環用のポンプが使えなくなりました。これも想定のうちでした。ですからただちに、ディーゼルエンジンで動かす非常用ポンプが稼働したのです。ここからが想定外の事態になります。地震に伴う津波が、想定の2倍以上(想定値は5mでした)の高さに達し、しかも震源が岸に近かったため、到達までの間がほとんどなく、そのため軽油タンクが流されて使えなくなってしまったのです。そこで、バッテリーで動かすポンプ(当然出力は弱い)で冷却水を循環させたのですが、出力が弱いために、次第に冷却水が不足勝ちになって、炉心(圧力容器)内の水位が下がり、燃料棒の上部がむき出し状態で、水上に顔を出すことになり、部分的な炉心溶融が起きてしまったのです。それは、1号機から3号機まで、稼働中の全ての原子炉で起きました。燃料棒は水で冷却しないと、1時間ほどでわが身を覆う被覆管の金属(ジルコニウムです)部分が溶けはじめる温度を超えてしまい、溶融しはじめます。 燃料棒が溶融し、ウラン燃料ペレットが落下して炉心の底部にたまります。そのたまり方が運悪く密集した状態になると、核分裂が連鎖的に始まり、再臨界に達する心配が生じます。そうなると、巨大な熱が放出され、炉心の本格的な溶融や、炉心爆発によって大量の放射性物質を巻き散らかしかねません。原子炉は圧力容器(炉心)と、その外側にある格納容器によって放射性物質が外部に出さないようにしているのですが、格納容器が壊れると、収拾のつかない大事故となってしまいます。炉心溶融が起きた時、どのような条件下で再臨界が起きるのか、いろいろ調べてみましたが、私が理解できるような説明は、残念ながら見つけることが出来ませんでした。何とか、再臨界が起きないうちに、事態が終息してくれると良いのですが、事態は楽観を許さないようです。さて、再臨界が起きなくても、ジルコニウム製の燃料被覆管が高温になると、水と反応して水素が発生します。炉心で発生した水素が格納容器内に出てきても、格納容器内には水素が爆発しないように、窒素が封入されています。しかし格納容器内の圧力が上がりますと、格納容器の破裂を防がなければなりませんから、外部につながる弁を開いて減圧することになります。当然放射性物質が外に出て来ます。12日の最初の報道が、この段階を示していました。近くは放射能で汚染されますが、より広い範囲に大量に広まることを防ごうというわけです。そしてこの時に、放射性物質だけでなく窒素も放出されますから、窒素の濃度が下がって、格納容器の内部で水素爆発が起こりうる状況が生まれます。現在まで、福島第1原発で起きた水素爆発は、格納容器の外側(原子炉建屋の内側)でしか起きていませんので、建屋の屋根や壁は吹き飛きとびましたが、格納容器は大きくは壊れていません。ただし、今後いずれかの原子炉の格納容器の外側でなく、内側で水素爆発が起きた場合、格納容器に大きな裂け目ができてしまうと、今までよりもはるかに多くの放射性物質が、大気中にに漏洩することになります。一昨日15日からの状況は、どうやら3号機の格納容器の一部が破損した結果のようにも思われます。それでも、再臨界も格納容器の本格的な破裂も、共に現時点ではまだ起きていません。しかし、可能性としては十分に起こりえます。フランス政府を手始めに、各国政府が次々に自国民に対して、首都圏からの退避さらには日本脱出を勧告したのは、こうした重大な危険性を勘案したからと考えられます。 続く
2011.03.17
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クロニクル アサヒスーパードライ発売1987(昭和62)年3月17日もう24年経つのですね。24年前のこの日、アサヒビールは、新商品「アサヒスーパードライ」を関東地方限定で発売しました。その後の「スーパードライ」の快進撃は御存知の通りで、各社は競ってドライビールを発売、ビール業界はドライ戦争を繰り広げましたが、結局アサヒビールの1人勝ちとなりました。発売9年後の96年6月には、ビール業界のガリバーだった「キリンラガービール」を抜き去って、業界no,1の月刊シェアを獲得、翌97年には、年間シェアでも1位となりました。それも、僅差の1位ではなく、「キリンラガービール」と「キリン一番絞り 生」の合計シェアよりも上位になると言う、ぶっちぎりでした。昨年まで、私も愛好していたのですが、再び口に出来るのは、いつの日になりますやら…
2011.03.17
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原発事故を考える (1)今日から大震災の経済的影響を記そうかと考えていたのですが、それとの絡みもあって、次第に大事になりつつある原発事故を取り上げることにしました。文系人間のにわか勉強ですから、間違いがあったら御指摘ください。今回の大震災の直撃にあった原子力発電所は、全部で4ヵ所です。東北電力の女川原発と東通原発、そして東京電力の福島第1原発と第2原発です。このうち、今回の事故に絡んで、全く話に出てこない東北電力の東通原発は、定期点検中で稼動していなかったのだそうです。稼動していた3ヶ所の原発では、稼働していた原子炉全てで、地震発生時に自動的に燃料の間に制御棒が差し込まれ、ウラン燃料の核分裂は止まりました。このうち、女川原発と福島第2原発では、すべての原子炉で、炉内の温度が100度以下になる冷温停止状態に達して、安全確保に成功しています。問題は福島第1原発についてのみ、残ったのですね。この福島第1原発には6基の原子炉があり、このうち4~6の3基は、定期点検中で原子炉は稼働していませんでした。運転中に原子炉内にあった使用済み核燃料は、原子炉の上部から取り出され、使用済み核燃料貯蔵プールに入れられていました。稼働中の1~3号機では、地震発生時、稼働中の原子炉内にあった燃料棒の集合体の間に制御棒が自動的に落下し、核分裂は止まりました。しかし、ウラン燃料の分裂が止まって原子炉内の主な熱源がなくなっても、まだ炉内には超高温の余熱があります。核燃料であるウランの核分裂の過程で、中間的な物質として炉内に生まれたセシウムやヨウ素同位体といった放射性物質の核分裂が続くからです。その余熱的な核分裂が少なくなって炉内の熱が下がり、冷温停止状態になるまでの2日から数日間、原子炉内の冷却水を循環させて、核燃料を冷却し続ける必要があるのです。原子炉停止直後の余熱的な核分裂は、ウラン燃料の核分裂で出る熱量と比べると20分の1程度とされ、比率としては小さいのですが、余熱を冷ますためには、炉内の冷却水を炉外の冷却装置(復水器)に送り込んではまた戻すという、循環作業を何日か続ける必要があるのです。この冷却水を循環させるにはポンプを動かし続けることが必要です。福島第1原発でも、すべての原子炉が地震の揺れには耐えました。M9,0という今回の地震の強度は、原子炉の設計時に想定した上限の震度(M8,2))を大きく越えていたのですが、地震で原子炉が壊れることはなく、制御棒も自動的に落ちて燃料の核分裂を停止させることは出来たのです。ここまでの耐震設計には、何も問題はありませんでした。 続く
2011.03.16
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クロニクル キリンレモン発売1928(昭和3)年3月16日さすがに最近は、年齢のせいかほとんど飲まなくなっていますが、若い頃は、喉が渇いて水分の欲しい時など、良く飲んだ記憶があります。「キリンレモン キリンレモン…」と繰り返すCMソング(コマソン)も、耳に心地よく響いたものです。アサヒ系列の三ツ矢サイダー、札幌系列のリボンシトロンと並ぶ、サイダー系飲料の三羽烏だった、キリン系のキリンレモン、83年前の今日が、発売日だったのですね。ちょうど、関東軍の暴走による、張作霖爆殺事件が起きた年、軍部の暴走が始まり、暗い時代へ向かっていく、そんな時代のなか、長きに渡って、子ども達は勿論、大人たちにも愛された商品の1つが、この日生み出されたのでした。
2011.03.16
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東北・関東大震災の影響 (1)政治今回の大震災は、日本と世界にどのような影響を与えるのか。少しまだ早い気もしますが、その点を数回にわたって分析してみようと思います。つくづく菅直人という人物は、運の良い人だというのが、東北地方の津波被害の様子が、刻々と入ってくる、11日夜の感想でした。これで、3月末から4月にかけての政治危機は、確実に回避されたからです。少なくとも数ヶ月は彼の首は繋がりました。このような国家的危機に際して、解散だ総選挙だなどの政争にウツツを抜かしていることなど、とても国民に許してもらえませんし、第一、東北各地の皆さんは、投票所に足を運べる状態にありません。4月10日の統一地方選すら、延期が必至の地域が数多く出そうなのですから。そして、もう1点、菅首相の最大の懸念材料だった予算関連法案のうち、最大の懸案だった「公債特例法案」が、成立する可能性が大きくなったことです。公債特例法が成立しないと、災害復興のための予算の執行が出来ないからです。野党としても、公債特例法を潰して、災害復興のための支援を滞らせたのでは、国民から一斉に批判されることに繋がり、大変まずい事態に追い込まれてしまいます。それゆえ、災害復興という錦の御旗を得た菅政権は、野党の協力を期待できる状況に恵まれたことになります。何というツキの良さでしょう。ただし、この数ヶ月の延命をさらに先に延ばすことが出来るかどうかは、今回の災害からの復興を、いかに手際よく進めることが出来るかどうかにかかってきます。ここ数日の原発事故や計画停電への対応を見ていると、そのまた先は難しそうですね。 続く
2011.03.15
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クロニクル 大岡越前の登場1717年3月15日(享保2年2月3日)江戸時代の名奉行といえば、北町奉行の遠山の金さんと、大岡裁きでお馴染みの南町奉行大岡越前の2人が通り相場です。実は294年前の今日、大岡裁きでお馴染みの大岡忠相が、それまでの普請奉行から、南町奉行に取り立てられ、越前守を名乗るようになりました。任命したのは、前年8代将軍に就任した吉宗です。時に忠相41歳。従来、江戸の町奉行職は、60歳前後の長老クラスの旗本が就任することが多かったので、吉宗の抜擢は異例のことでした。実は、忠相は1712年から、幕府直轄領の伊勢山田奉行を務めており、その折に幕府領の農民と、伊勢山田の農民との土地争いを裁いており、幕府御三家である紀州家に何の遠慮もしない、厳しくあっても公明正大な裁きであったことが、当時紀州藩主であった吉宗に、強い印象を残したのでした。この事実が、吉宗による忠相抜擢に繋がリました。町奉行となった忠相は、老中と江戸三奉行らで構成する評定所に出座することになり、1751年に75歳で引退するまでの34年間、吉宗の厚い信頼をバックに、享保の改革の推進に、辣腕を振るいました。
2011.03.15
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続・計画停電という名のドタバタ劇昨夜来の東電ドタバタ劇場が、あちこちに巨大な迷惑を撒き散らしながら、現在も続いています。どうやら本日も終日続きそうです。計画停電が困る。やるなとは私は申しておりません。やるからには、危機管理を徹底し、どう実施するかを周知し、停電の結果として生じるであろう可能性について、関係機関と協議する程度のことは、どんなに時間が限られていたとしても、巨大企業で役員の数も半端でない東電としては、そのメンツにおいて、なさねばならなかったと思うのです。それなのに、いったい何をしているのかと言っているだけです。停電は、電車の運行に影響するぐらいのことは、その道の素人である私にもすぐ分かります。それなのに、東電は電鉄各社は勿論、許認可権を持つ国土交通省にすら、一言の相談はおろか、事前通告もなしに一方的に発表したというのです。呆れますね。そしてその上、先ほど3時過ぎの時点で、本日は、電力使用料がピークになる17時~19時にかけての時間に、第5グループの一部で停電となると発表しました。何たることかです。この時間に、調理器具なども使われますから、電気の利用がピークに達することは分ります。しかし、春の彼岸に近いこの時期は、午後6時というと薄暮を迎え、7時は闇の中です。そして夕方の交通ラッシュ。ただでさえ、焦りがちで事故の多い時間帯です。その時間帯に、街路灯も消え、信号機も作動しない状態になるとしたら、事故発生の可能性はかなり高くなります。なんでこんな時間に停電を持ってくるのか。1日中停電が続いていても、この時間は避け、前後の時間を停電とする配慮が欲しいような時間なのです。電力は足りていたとしても、何故日中の時間に停電を実施し、未使用電力を貯めておいて、使用の増える宵闇の時間に備えなかったのかと、私は呆れています。今朝の我が家周辺では、運休した電車を諦めて、車で勤務先や学校へ向かう車の列で、細い迂回路までが大渋滞を起こし、車よりも徒歩の方が早い珍現象も出現しました。この混雑に、地元の養護学校は、生徒に不測の事態が起きては大変と、明日に予定されていた高等部の卒業式を、急遽中止することに決めました。卒業生たちが可哀想だけれども、生徒たちの安全を考えると、やむをえない措置と、断腸の思いで決断されたのです。さて、実際の停電となると、住宅団地やマンション居住者が、低層住宅居住者に比べて、難儀が多いように思います。各戸へ水道水を供給するために、電圧をかけてポンプで屋上のタンクに水をあげ、そこから各戸に給水しているからです。3階以上の校舎や病室をもつ学校や病院も同じです。5階以上で、エレヴェーターの設置されている建物の方は、その時間外出を控えれば、歩かずには済みますが、自家発電装置を備えた高級マンションを除けば、こうした建物では断水がついてまわります。最も困るのは、トイレが使えなくなることです。停電に備えて、風呂に水を張っておく必要のあることに、関係する居住者の皆さん全員が、気付いているでしょうか。少なくとも東電は、水道局に助力を頼んででも、こうした情報を周知する責任があるはずです。困ったことは他にもあります。私と同じ地域のある町は、町が2分されて、2グループと5グループに分かれています。おそらく送電線の関係なのでしょうが、どこからどこまでが2づループで、どこが4グループかは、東電のどこにも告知されていないのです。これも、困りますよ。福島原発の事故対応も、今の東電を見ていると、心配ですね。これほど、人材が枯渇しているとは、おそらく「お釈迦さまでも、御存じなかった」のでしょうね。
2011.03.14
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クロニクル 大阪万博開幕1970(昭和45)年3月14日>コンニチハ コンニチハ ニシノクニカラ コンニチハ コンニチハ ヒガシノクニヘ…<三波春夫が歌う、この歌が、日本中で流れていましたね。そうなんです。41年前の今日、大阪吹田市で日本で初めての万国博覧会が開幕したのが、今日でした。開機は9月13日までの183日間でした。日本経済が右肩上がりの元気いっぱいの時期だったこともあり、入場者は3千万人の目標に対し、6421万8千人を越えました。何と目標の2倍を越えたのでした。東日本大震災の最中、東北には、道路を寸断されたまま、どこにも連絡だとれず、孤立無援の状態で、耐えている人たちがまだ多数いらっしゃり、食糧以上に水の補給が心配されている状態です。そんな時なので、あえて元気の出そうな話題を記してみました。「計画」停電について、コメント有難うございました。続きを後ほど書かせて戴きます。
2011.03.14
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計画停電という名のドタバタ劇大変唐突に、東電が明日からの「計画停電」を発表しました。平日の使用電力に発電量が足りないので、突然の全面的停電を避けるために…と。私は、この発表は二重の意味で、東電の怠慢だと受け止めています。大企業の週給2日制の定着で、土日の電力使用量が、平日に比べ少ないことは、現代の常識です。そして、東北から東海村にかけての太平洋岸の原発の全てが、運転停止状態にあり、すぐには稼動させられないことは、東日本大震災の発生直後に分っていたことです。さらには、火力発電所の多くも、修理点検を済ます必要があることも。福島原発の事故処理に忙殺されていたとはいえ、まともな経営者なら、発電量を計算させた上で、使用電力とのギャップを計算させ、土曜日のうちに、「計画停電」計画を発表し、本日1日を使って、周知徹底を図ることが、出来たはずです。しかも東電は、一片の記者会見での発表を除けば、ネット検索が必要なホームページでの告知しかしていません。ネットになじみのない人たちはどうする積りなのでしょう。この点は、ブログ仲間の「オジャルさん」が、私より先に、しっかり怒っていらっしゃいます。ましてや、首都機能の維持とかいう、あるのかないのか分らないような機能の維持を持ち出して、1番電力消費の激しい、東京23区を除外するというのですから、呆れます。東京タワーや都庁のライトアップなんか要らないし、第一次石油ショック時に経験ある、都心部のネオンの夜10時以降の消灯。コンビニの終夜営業の自粛要請。昭和20年代はずっとそうだった、夜10時以降の送電中止など、やれることは山ほどあります。そして首都機能。官邸や国会、霞ヶ関、自衛隊などは、自家発電装置くらい備えているでしょう。都区内に送電する施設が破壊された時の備えぐらいは、当然もっているのですから…。首都機能って、これで十分じゃないですか。 それを「23区は除外」というのでは、国民に我慢を強いる時の成功の秘訣、「我慢は公平に皆に降りかかる」という、忍耐の鉄則を最初から放棄しているとしか見えません。こんなことで、23区以外の住民に我慢を強いてうまく行くと思うのでしょうか。先ずは。あちこちのライトアップを全て自粛してもらうべきです。その上で、深夜帯の一斉停電を強行する。そして、首都機能云々は自家発電に任せて、23区もまた「計画停電」のなかに加える。最低限、この程度のことは実施し、停電予告は、選挙カーのような宣伝車を通じて、周知徹底をはかることが、必要だと、申し上げておきます。不公平は、1番遺憾です。
2011.03.13
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転載ご依頼四国の吉祥天さんのブログからの転載です。ご覧の皆様もよろしくお願いします。緊急!東北地方太平洋沖地震 被災地の皆様へ 被災地の皆様へ この度の東北地方太平洋沖地震では、被災された方々に対して、 お見舞いを申しあげますと共に 亡くなられた方々へのご冥福を心よりお祈り申しあげます。 今でも余震が続き不安な毎日を過ごされていると存じます。 避難所で大切な家族(犬・猫)と離れなければならないという不安、 復興するまで安心して預かって欲しいという方のために、 一般社団法人UKC JAPANとしても関東を拠点に 全面的にご協力させていただきます。 詳しくは、下記までご連絡ください。 被災地動物緊急本部 UKC JAPAN 湘南を拠点に活動いたします! 一般社団法人UKC JAPAN 〒621-0046 京都府亀岡市千代川町北ノ庄惣堂6番3 TEL : 0771-24-6324 FAX : 0771-24-6504 一般社団法人UKC JAPANのブログ http://ameblo.jp/dog-rescue/ 一般社団法人UKC JAPAN http://www.amane-taz.com/ *ブロガーさんへ この記事の転載、お願いいたします。 *追記(2011/03/13 8:37) 関東でボランティアとして動ける方限定です 下記にご連絡いただければ幸いです 一般社団法人UKC JAPAN 代表理事 携帯090-1157-2499
2011.03.13
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クロニクル 東京駅発のブルートレイン全廃2009(平成21)年3月13日2年前の今日のことです。寝台特急「はやぶさ」と「富士」が、この日限りで運行をストップしました。その結果、東京・九州間の定期寝台列車、東京駅発着のブルートレインの全てが、運行を廃止したのです。
2011.03.13
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一夜明けて…東北地方の惨状、凄いの一語ですね。言葉もありません。三陸一帯は旅したこともありますが、あの複雑なリアス式の海岸、各所で道路が寸断されましたから、陸の孤島の如く、孤立無援で助けも呼べない地区が、まだいくつもあるようです。現在の被害の集計も、分っている限りでのもの。まだまだ拡大しそうですね。そして気仙沼市。水と火災でまさに大空襲後の東京のような姿に、言葉もありません。外にも、被害の大きな地域も沢山ありますね。亡くなられて皆さんに哀悼の意を表し、罹災された方にお見舞いを申し上げることしかできません。とりあえずは、水が引くのを待ち、行方不明の皆さんを探し、瓦礫を片付けながら、生活の再建を図る作業にかかれる日を待つしかないのでしょう。それも辛いことですね。工場などの火災や、爆発も起きているようですが、ここに来て福島第一原発の事故が心配です。炉心溶融という、想定される原発事故の中で、最悪の事態が始まっているようです。原発で考えられる1番憂慮すべき事故です。水位が下がって原子炉圧力容器が熱で融け、内部の放射性物質(燃料棒)が露出し、ウランが核分裂を繰り返す際に生成されるセシウムが地上に放出され、検出されています。現在、格納庫内部の圧力を下げる努力が続けられているようですが、冷却水が漏れている一方で、停電のために十分な冷却水の注入が出来ていません。今のところ、周囲10km以遠は安全といっていますが、炉心溶融というと、米国のスリーマイル島の事故が思い出されますね。ですから、10km四方の避難に留まらず、より広い範囲に放射能が撒き散らされる可能性も、否定できません。そうなるとすると、最悪の被害がさらに、上乗せされます。福島第一原発の情報に、注意する必要があるようです。
2011.03.12
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クロニクル タリバーン、バーミヤンの石仏を破壊2001(平成13)年3月12日丁度10年前になりますね。この日タリバーンが、バーミヤンの巨大石仏を破壊し、その映像を世界に配信しました。この日映像を、バーミヤンの巨大石仏を世界遺産に登録していたユネスコも確認、この日が、石窟に刻まれた巨大石仏の爆破された日と確認されました。なお、破壊されたのは、生物だけではなく、バーミヤンの石窟の壁面に描かれた仏教画のおよそ8割も、同時に失われたことが報告されています。その後、国際的な支援の下に、修復作業が進められているのですが、前途は遼遠なようです。
2011.03.12
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無事でいます 地震御見舞い御礼震源は宮城県の三陸沖だそうですね。それにしては、川崎も凄い揺れでした。かなり広い範囲で断層が動いたのでしょう。私が揺れを感じたのは、14時48分頃です。出先から戻り、三つある最寄り駅の1つから、バス停にして1停留所離れたスーパーで、そこにしか置いていない我が家のニャンコの大好きなキャットフードを買って、バス停でバスを待ち始めた瞬間でした。外にいるとき、歩いている時などは、建物内部にいる時に比べ、地震の揺れを感知し難いのですが、今日は別でした。足元が揺れはじめ、しかもその揺れが次第に大きくなるではないですか。思わず電柱に掴ると、その電柱も揺れています。街路灯が揺れ、すぐ横の広場のケヤキの大木も揺れています。突き上げるような縦揺れに続いて、大きな横揺れも。この場は危ないと思っても、大揺れで歩くのは無理。とりあえずバス停の皆さんと共に、荷物を載せて頭を保護するのがやっとでした。第1派が収まったところで、ケヤキの大木の下に避難。5分遅れで到着したバスが、地震速報を流しながら走ってくれました。金曜日が休日の娘が自宅にいてくれましたので、ニャンコは無事でしたが、動物も揺れで酔います。1頭は揺れの最中から盛大に戻し、もう1頭は揺れの時間は耐えていたようですが、揺れが1度収まった直後に戻しと、大変だったようです。私が帰りついた直後の2度目の揺れで、また戻していました。身体が小さいだけに、大揺れは大変なようです。ところで、私のところは、川崎市の一番奥、小田急線の沿線です。そのため海岸部に比べると揺れは幾分小さく、停電、断水等の被害は出ていません。それであの揺れなのですから、大震災級の揺れでは、咄嗟に動けないことが、実感として良く分かりました。そして、現在川崎でも、沿岸部を中心に約20万戸で停電状態が続いています。東京では、お台場や千代田区などで、火災や家屋の一部倒壊もあります。九段会館では死者も出ていますね。千葉県や茨城県は、震源との距離からして、さらに大変な状態だろうと思います。理解できた範囲の関東の様子について、記しました。おかげさまで、私は無事で降ります。御見舞い有難うございました。
2011.03.11
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クロニクル 『風の谷のナウシカ』封切り1984(昭和59)年3月11日27年前になるのですね。この日、宮崎駿監督作品のアニメ映画『風の谷のナウシカ』が封切りになりました。この作品は、徳間書店と博報堂が出資した製作委員会方式で製作され、全国の東映洋画系の映画館で上映されました。環境問題を取り上げていることが話題を呼び、全国で91万人の観客を動員、7億円の興行収入を上げた上に、いくつかの映画賞を受賞して、アニメ映画監督としての宮崎駿の知名度を高めた作品となりました。以後、宮崎監督は『天空の城ラピュタ』、『となりのトトロ』とヒット作を連発し、アニメ映画会に不動の地位を確立しました。
2011.03.11
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チュニジアからエジプトへ…(41) ところで、燃える中東の背景を探ってみますと、1つの共通項が出てきます。経済不振による失業の増大と、生活必需品、特に食糧価格の高騰です。あたり前のことですが、失業率が高いということは、代替労働力が豊富に存在することでもありますから、この状態にある時には、生活費が急騰しても、賃金の上昇は微々たるもので、職のある人にとっても、生活苦は深刻になる一方なのです。不景気で消費が落ち込んでいる時に、なぜ食糧や生活必需品が値上がりするのか。それは、商品相場における、食糧や原油、その他商品の猛烈な価格上昇に原因があります。その原因の1つは、中国やインドなど、圧倒的な人口大国でもあるBRICs諸国などの高度経済成長の進行によって、人口大国の実需の増大にあります。これは確かです。1人あたりGDPが3千ドルを越えると、消費のあり方が大きく変わってくるといわれますが、今まさにそういう状態が起きていることは、間違いのないところです。そして、もう一つ。こちらの方がより大きく、深刻なのですが、リーマンショックを契機とする経済先進国の経済政策です。ドルとユーロと円、世界の3大通貨が、いずこも軒並みに低金利政策を続け、さらにそれだけでは足りずに、市場に資金を大量供給していることです。しかし、90年代末からずっと消費の不振に喘いでいる日本だけでなく、住宅バブルがはじけた米・欧もまた、深刻な経済不振に悩みんでおり、大量供給された資金は、行き場を探して、株式市場と商品市場に、大量に流入しているのです。米国でバーナンキFRB議長の旗色が、甚だ悪いのですが、QE2こそが商品価格の高騰の大きな原因だと考えられているのです。マネーゲームが貧しい人々を飢えさせ、大量のマネーを日々動かす商品先物トレーダーのおもちゃにされている。この現実が、末端における食物価格の高騰をまねき、低賃金に喘ぐ人々の生活を破壊し、彼等彼女らをして、政府への抗議運動に立ち上がらせた。こういう面が確かに大きなウェートをもっています。米国から始まった金融危機、マネーゲームの破裂による危機の連鎖が、中東の現在を生んでいるのです。である以上、この連鎖は、中東のみで終るものではなく、まだまだ連鎖が続きます。世界は、未知の新しい領域に足を踏み入れつつあるのかもしれません。 続く、
2011.03.10
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クロニクル 道長摂政となる1016年3月10日(長和5年1月29日)今日は大昔平安時代を取り上げました。995年も前の摂関政治全盛期のことです。道長は、摂政藤原兼家の5男でしたので、兄たちの影に隠れる存在でしたが、父を継いで摂政となった長兄の道隆、3兄の道兼の2人が、相次いで伝染病に倒れ、次兄、4兄は早逝していたために、後継のチャンスがまわってきたのです。3兄道兼の死によって、チャンスを掴んだ道長は、兄の後継として、政治の実権を握ることに成功し、やがて娘を天皇に嫁がせて、男児の誕生を待ちます。摂政や関白の座は、天皇に嫁がせる娘がいること、その娘が皇子を産むことの二つが重ならないと不可能です。道長はこの二つともをかなえることが出来たのです。彼の娘は一条天皇、三条天皇、後一条天皇と、3代の天皇の皇后として立后しているのです。そして995年前のこの日、眼病が嵩じた三条天皇が譲位し、道長の外孫後一条天皇が即位し、道長は摂政の地位を受けたのでした。彼が、有名な「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」の歌を詠んだのは、これから2年後のことでした。
2011.03.10
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チュニジアからエジプトへ…(40) リビア情勢は、混迷を深めていますね。情報もまた虚実取り混ぜて飛び交っていますから、しばらく情勢を見守ることにしたいと思います。アラビア半島の情勢も流動的ですね。サウジの周辺国、イエメンとバーレーンは燃えていますが、その火がオマーン、カタール、クウェートへと、燃え移りつつあるようです。アラブの激動に火をつけた、チュニジアとエジプトでは、軍部が中に入って、政治体制の刷新に向けた協議が進んでいるようですね。特にエジプトの軍部には、個人なのかグループなのかわかりませんが、実に優秀な軍師的な人物がいるようです。そうでないと、ムバラク退陣後の、あの水際立った権力の掌握と、諸勢力を納得させる暫定政権の指針の表明は、不可能だったでしょう。軍部は権力を握らない。憲法の制定と新憲法下の議会選挙を待って、権力の座から身を引くとして、諸勢力を納得させました。また旧政権が結んだ国際条約の遵守を表明して、関係諸国を安心させました。その一方で、イラン艦船のスエズ運河航行を認めて、旧政権との違いも際立たせました。この手際、並みの権力集団では、とても実行不可能です。勿論、日本のヨタヨタ政権では、とても残念なことではありますが、到底不可能でしょう。今後の様子からも、眼が離せませんね。 続く
2011.03.09
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クロニクル イタイイタイ病原告団、三井金属を提訴1968(昭和43)年3月9日43年前のことです。この日、昭和の4大公害病の1つ、富山県の神通川流域で発生した、イタイイタイ病の患者と遺族28人が原告となって、原因物質であるカドミウムを垂れ流した原因企業の、三井金属鉱山を相手取って、損害賠償を請求して提訴しました。イタイイタイ病が、カドミウムの大量摂取による骨軟化症によるものであることが、厚生省の委託研究によっても、明らかにされていたこともあって、第一審は比較的スムーズに進行し、1971年6月に原告側勝訴の判決が下りました。三井金属は控訴しましたが、二審も翌年8月に、原告勝訴の判決を出しました。ここに三井金属も最高裁への上告を断念し、原告側(患者側)の勝訴となりました。公害病の損害賠償訴訟の判決としては、異例の早期結審となった背景には、当時の厚生省が、原告団の提訴直後の1968年5月に、「イタイイタイ病はカドミウムの慢性中毒による骨軟化症であり、カドミウムは神通川上流の神岡鉱業所の事業活動のよって排出されたものである。」と断定し、イタイイタイ病が政府によって認められた第1号の公害病となり、三井金属を原因企業として、特定していたことにありました。こうして三井金属は、1、損害賠償金の支払い、2、農業被害の賠償と汚染土壌の復元、3、住民の立ち入り調査を認めた公害防止協定の締結、以上の3点を内容とする和解に応じることになりました。日本経済の高度成長期に、各地で起きた出来事でした。おそらく今は、中国やインドなどで、日本の事例をより大型にしたような、公害が発生しているのでしょうね。こうした経済成長の負の側面は、似て欲しくないと思うのですが…
2011.03.09
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チュニジアからエジプトへ…(39) リビアの反政府勢力が、何を目指しているのかは、なかなか複雑なようです。欧米諸国に飛行禁止区域の設定を求めるかと思えば、地上での軍事作戦への参加は、明確に拒否しているのです。こんな話があります。数日前のことですが、イギリス政府とイギリス軍とが、リビアの反政府勢力の中心地ベンガジに、特殊部隊と諜報部員(MI6)で構成される8人の部隊を、派遣しました。8人は、武器やゲリラ戦用通信器具などと共に、ヘリでベンガジに送り込まれました。イギリスの心積もりでは、反政府勢力の軍事顧問団として活躍させ、反政府勢力がカダフィ政府側との戦いに勝利して、正式なリビア新政権になった暁には、英国と親密な関係を結ぶように働きかけ、リビアの石油利権を英国の石油会社(BP)が握れるようにしたかった。おそらくこういうことだったのでしょう。しかしこの計画は、ものの見事に肩透かしにあいました。反政府勢力は、イギリスの誘いに乗らず、外国の軍事介入は不要だと宣言して、英軍部隊を歓迎せず、即座に8名全員を逮捕して投獄、数日後英国側に引き渡したのです。また、こういう話も伝わっています。米国がサウジ軍を強化するために、サウジ政府に引き渡した武器の一部を、リビアの反政府軍を強化するために、ベンガジに空輸してくれないかと、サウジに求めたというのです。しかし、自国の反乱を封じ込めることに必死のサウジ王家は、リビアの反政府派に、武器支援をしたいなら、米国が直接輸送すれば良いとして、米国の要請にダンマリで通したというのです。どうやら、サウジの王権は、エジプトのムバラク前大統領を見限った米国に、相当な不信感を持ったようですね。ムバラクの次は、わが身かもしれないと考えたのかもしれません。中東の激震は、しばし続きそうですね。 続く
2011.03.08
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クロニクル ハチ公死す1935(昭和10)年3月8日渋谷駅、道玄坂方面の出口、いつも待ち合わせの人の波で混雑している所です。「ハチ公」の銅像でお馴染みの場所です。この場所の主人公、「忠犬ハチ公」の祥月命日が、実は今日なのです。76年前の今日、ハチ公は亡くなりました。秋田犬のハチ公は、飼い主の死後、毎日渋谷駅頭に現れ、主人の帰りを待ち続けたと言われ、近在の人々に知られるようになりました。やがてそのことが、東京朝日新聞の記事になり、広く世間に「忠犬ハチ公」として、知られるようになりました。ハチ公の主人は、東京帝国大学農学部教授の上野英三郎氏、自宅は現在の東急本店周辺だったとされています。ハチ公は有名犬になりましたので、死後東京大学で病理解剖が行われ、心臓と肝臓に大量のフィラリアが寄生し、そのため大量に腹水がたまっての死であることが分りました。彼の遺体は剥製にされ、国立科学博物館に保存されています。人間の年で数えると12歳でした。
2011.03.08
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