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黒船来航(18)昨日は4枚の絵を見ていただいて終りましたので、一昨日の続きになります。ペリー側の贈り物作戦は図にあたりました。贈呈式に立ち会った幕府の役人の中には、2kmのレールの上を、黒鉛を上げながら走る機関車に歓声をあげ、そのうち機関車に跨ってはしゃぐ者もあったそうです。しかし、米国側の用意したプレゼントは、これだけではありませんでした。オランダ経由で話が伝わり、さらに黒船という名の蒸気船を認識している幕府側が、蒸気機関車以上に目を丸くして驚いたのは、見えない距離間での交信を可能にした、電信機の実物でした。こちらは、蒸気機関車と違って、実物を運び込むのが可能だったのです。ペリーは近代文明の粋を日本側に見せることで、国を開いて欧米の文明を受け入れることの重要性を、日本側に認識させようとしたのです。この作戦は成功しました。既に鎖国政策の転換を決意していた幕府は、交渉を不調のまま終らせる積りは、元々なかったのです。こうして、交渉が動き始めると、ペリーは最後の一手を繰り出しました。旗艦のポータハン号に、幕府側代表を招いての答礼宴を開いたのです。3月27日のことでした。そうはいっても、ポータハン号の司令長官室での正餐は、27名が限界だったため、甲板にもいくつものテーブルが用意されました。シャンパン、マデイラワイン、シェリー酒、パンチ、ウィスキーなどの酒類も沢山出されました。「日本国皇帝のために」、「アメリカ大統領のために」、「日本の淑女たちのために」……と、次々に乾杯の声があがります。この時ペリーは、条約が締結できるかどうかは、この招宴での歓待の成果にかかっていると、乗組員一同に檄を飛ばしていたのです。米国側は、何とか座を盛り上げようと務めていたのです。座は大いに盛り上がりました。バンド演奏にダンスも始まります。日本側も富士山の営利の扇子などを贈り、中にはちゃっかりと懐中時計をせしめる者も出ました。役人には漢詩を好む者も多く、自分の扇子を羅森に示して、漢詩を書いてもらう者も出ました。 続く
2011.06.30
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東電の賠償問題を考える(9)福島原発事故をめぐる政府と東電のもたつきは、フクシマの事故がチェルノブイリを超える世界最大の原発事故となったことを、世界に印象づけました。そして、科学・技術大国日本の技術の粋を、さらにはそこに世界の技術の粋を加えても、事故処理は遅々として進まない現実をも、世界に見せ付けました。その結果、原発事故処理に追われて、本質的な問題の検討を後回しにしている(それこそが、政府や東電などの思惑通りなのかも知れないのですが)日本を別にして、世界各国は原子力発電をどうするかについてを、人類史の今後に関わる最重要の問題と認識して、各国毎に答えを出そうとしています。3月11日以後、意識するか否かに関わらず、我々はまさに歴史の転換点を迎え、その上に立っています。世界最大の原発事故となったフクシマは、あさに歴史的な大事件そのものとなっています。それなのに、政府も東電もいまだに腰が引け、相変わらずもたれ合いの構図の中にあります。海に流れた放射性物質が、人類にどのような悪さをするのか、或いは大量の海水に薄められて安全となるのか、この点はいまだ結論が出ていないようです。結論が出ていない以上、安直に安全だと主張する向きに組するわけには行きません。疑わしきには用心するに越したことはないのですから。特に我々人生経験の長いものには、将来を担う若い人たちや子ども達を守る責任があります。原発事故の発生まで、東電は良く企業の社会的責任を唱え、自社の活動をPRしてきました。そうした東電の姿勢と、地下ダム建設を先延ばししようとする姿勢には、大きな開きがあります。まさに正体見たり枯れ尾花でしょうか。地下ダム建設の早期着工へ、自分の名を挙げたくて仕方がない菅直人(カン・チョクト)君は、東電の尻を叩き続けて、漕ぎ着けるべきでしょう。実現したら、花道にもなるのに…
2011.06.30
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クロニクル 学童疎開の実施決まる1944(昭和19)年6月30日この時期は太平洋戦争も南方各地の戦線で、日本軍が次々に壊滅的打撃を受けるようになってきた頃のことです。しかし、その事実は国民には伏せられたままでした。6月15日の米軍のサイパン上陸を受けて、本格的な本土空襲が行なわれるであろうとの予測が高まり、この日政府は、国民学校初等科(つまり小学校)児童の疎開を促進する学童疎開実施要綱を閣議で決定しました。国民学校高等科以上の生徒は生産労働の担い手になりうるため、勤労動員の対象とされましたが、小学生は労働人口たりえないため、疎開の対象とされたのです。この日の閣議決定により、京浜、阪神、北九州、中京など工業地帯の国民学校初等科3~6年生のうち、縁故疎開先の確保できない児童が、強制的に集団疎開させられました。1~2年生は、親元を離れての集団生活はまだ難しかろうと判断されたのです。対象となった児童、およそ40万人が、先生たちに連れられて全国およそ7千ヶ所の受け入れ先へ送られ、厳しい規律の下で、乏しい食事に耐える生活を送ったのです。しかしその後、米軍に依る空爆は益々激しさを増し、翌年3月には、遂に1~2年生の縁故疎開の強化と授業の一時的な廃止が、閣議で決定されることになるのでした。
2011.06.30
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黒船来航(17)参考写真の掲載が遅くなりました。先ずは、ペリーの第1回来航から、中国語の通訳として参加したウィリアムズです。彼は日本語の通訳は断りましたが、当時の米国随一のアジア通と呼ばれていました。次は久里浜に上陸したペリー一行です。米国大統領フィルモアの国書の奉呈です。1853年7月14日(嘉永6年6月9日)のことです。それにしても、幕府は、突貫工事で、こんあ立派な仮設の議場を用意したのですね。ペリーの2度目の来航時の旗艦ポータハン号の甲板です。舟を訪れた日本人の描いたもので、柏崎市の黒船館所蔵の絵巻新聞に載りました。人間の姿と比べると、舟の大きさが想像できますね。 続く
2011.06.29
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東電の賠償問題を考える(8)地下ダム建設計画の早期発表が、東電の抵抗で遅れていることが、6月20日に新聞報道されたことから、一時は28日の東電の株主総会後に延期された、地下ダム建設に関する記者発表は、急遽繰り上げられました。事情が漏れては仕方がないと考えたのでしょう。記者発表となれば、当然質問にも答えなければなりません。そこで、官僚機構化している東電は、予想される質問に対して、あらかじめ応答要領を作成して、答弁の刷り合せを行なうのです。内部告発があったのかどうか、その応答要領のコピーが一部マスコミに出回っています、そこにこんな応答が記されていました。曰く「何故、早期に着工しないのか?」に対する答えが、次のように記されています。「地下水の流速は1日5cmから10cmなので、沿岸に達するまで、1年以上の時間的猶予があると考えている」と。そして20日に記者会見した原子力安全・保安院は、記者質問に対して、「根本的な対策を実行してまいりますが、急ぐ必要はないと、認識しております。」と答えています。東電の想定問答とそっくり同じです。何故急がないのか。汚染水は既に何度か海に漏れ出しています。周辺の土中深くに巨大な地下ダムを築き、地下水の海洋流出を防ぐならば、1つの不安は消すことが出来ます。大震災から100日が経過した現在でも、事故原発の処理に関して明るい展望が見えない現実の中で、1つでも明るい展望を灯すことは、国民心理の上から言っても、極めて重要です。それでも、「急ぐ必要がない}などと、ノーテンキな回答しか出来ないのは、おそらくは。原発事故を巡る政府と東電の責任の範囲を巡る議論が、決着を見ていないからでしょう。政府の煮え切らない態度に、原発事故処理の遅れの大きな原因があることも、また確かなことです。しかし、「急ぐ必要はない」ではなく、どうせやるのなら、急いだ方が良いことは、間違いないのですから…。 先送りしてよいことは、何もありません。 続く
2011.06.29
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クロニクル 日本オリンピクに初参加1912(明治45)年6月29日来年のロンドン五輪、日本のオリンピック初参加から、数えてちょうど100年の記念すべき年にあたるのですね、99年前のこの日、第5回オリンピック、ストックホルム大会の開会式が行なわれました。会場となったストックホルム競技場には、3万人の観衆が詰め掛け,大変な人気振りでした。この開会式に、五輪初参加の日本の代表団の姿もありました。面白いことに、この頃のオリンピックは、開会式後すぐに競技が始まるのではなく、競技は7月6日~14日までの9日間で行なわれました。大会には28ヶ国から3282人が参加、日本もこの大会に初めて2人の選手を派遣していました。陸上短距離の三島弥彦選手と、マラソンの金栗四三(しぞう)選手です。またIOC委員として、東京高等師範学校校長、柔道の大家嘉納治五郎氏が参加しました。短距離の三島選手は、100mと200mは予選落ち、400mは準決勝に進出しましたが、負傷棄権となり、マラソンの金栗選手は、猛暑にやられ、25km附近で落伍してしまいました。まさに日本の初参加は、「参加した事に意義がある」の大会となったのでした。
2011.06.29
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黒船来航(16) ペリーは、自ら構想した平和と親睦に限定した条約を、日本政府=徳川幕府と結ぶことを決意しました。そこから、その原則に則って、望厦条約の本文から、不要な条文を削除していきました。ところがペリーは勿論、中国語の担当官兼通訳のウィリアムズも羅森も、タイトルも訂正しなければならないことを、失念してしまったのです。これは重大なミスでした。ペリーが林大学頭に提出した「条約案」の漢文タイトルは、「誠実永遠友睦之条約及太平和好貿易之章程」となっていました。この矛盾を把握したことで、条約交渉では日本側が圧倒的に優位に立ちました。応接掛は、時に応じて、交渉を進めてみたり、米側草案の矛盾点を細かく追及して、時間稼ぎをしたりと、緩急自在に条約交渉の進捗状況を操ることが出来たのです。ペリー側は明らかに劣勢でした。漢文を理解する人数の問題だけではなく、条約内容の一字一句の解釈や分析についても、幕府の揃えた精鋭の方が、はるかに優れていたのです。後に日米和親条約と呼ばれるようになる条約が、日米両政府の代表によって締結されたのは、3月31日のことです。米側が条約の草案を、日本側に手渡した3月8日から数えて、3週間強の日柄です。この間は、口頭での交渉が多く、文書の交換は少なかったので、関係文書はあまり残っていません。気の抜けない駆け引きが続いたのでしょうね。押されに押されたペリーは、これではいけないとばかりに、日本側への招待作戦と、プレゼント攻勢に切り替えて、局面の打開を図ろうとしました。3月半ばのことです。ペリー側は、日本側への土産として用意した、蒸気機関車の実物の4分の1模型を陸揚げして、2km程のレールを敷かせてもらって、石炭も焚いて実際に走らせてみたいと提案しました。近代文明の粋を見せることで、停滞する条約交渉の局面を打開したいと考えたのです。この作戦は、図に当たりました。 続く
2011.06.28
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東電の賠償問題を考える(7)賠償問題と並んで、東電には震災で傷つき荒れ狂っている、福島第一原発の暴走を終息させる責任があります。その原発の状況は、今日に至るも終息の気配は一向に見えず、状況はもしろ悪い方へ拡大しそうな兆しが見えるようです。そんな状況で、本日東電は株主総会を迎えています。そこで、どんな質疑が行われ、経営陣からどんな発言があったかは、やがて明らかになるでしょう。現時点ではっきりしていることは、東電が民間企業の論理というかエゴイズムを、原発処理に持ち込み、必要な手段を迅速に採用し、実行することを妨げてきたことです。京都大学原子炉実験所の小出裕章先生は、原発に警鐘を鳴らし続けてきた方ですが、「今回のような大事故を起こすまで、原発を止められなかったのは自分達の責任、国民の皆様に申し訳がたたない」と、現在でも様々な提言を発表されていらっしゃる方です。その小出先生が、16日のテレビ朝日に主演し、以下のように一刻も早く「地下ダム」を建設するようにと提言しました。小出氏の発言要旨は、おおよそ「東電の発表を見る限り、福島原発の原子炉は、ドロドロに溶けた核燃料が、圧力鍋のような容器の底を破ってコンクリートの土台にめり込み、地下へ沈みつつある。一刻も早く周辺の土中深く壁をめぐらせて地下ダムを築き、放射性物質に汚染された地下水の海洋流出を止めなければならない」というものでした。この発言を聞いたマスコミ各社の取材に、政府も「地下ダム」建設を準備していることを認めました。ところが、この事実を広く発表することに、東電が激しく抵抗し、計画の発表が遅れているという報道が、それに続きました。昨日の内閣改造で、原発担当の馬渕澄夫首相補佐官が、その任を解かれました。菅内閣の閣僚や補佐官の中で、最も良く状況を理解し、政府高官とされた人々の中で、最も高く評価されている人物が、任を解かれたのです。彼は、小出先生と危機感を共有し、一刻も早く「地下ダム」を建設するために、早期の計画発表を主張していました。その彼の任が解かれたのですから、「地下ダム」の建設は、さらに遅れるのでしょうね。地下ダム建設の費用は、およそ1千億円とされています。この事実を公表すれば、費用を国が払う保証がないのですから、東電の債務がさらに増えると受け止められ、東電株がさらに売り込まれる可能性が高い。そうなっては、株主総会が益々大変なことになる。こう考えた東電が、あの手この手の人脈を使って、計画発表を遅らせたのですね。そんな背景が、ようやく見えてきました。そうした背景が報じられて、ようやく東電も1千億円の地下ダム建設計画の存在を、渋々公表したのですが、「ただちに必要とは認識していない」と、実にのどかな役人言葉での発表に終始し、1日も早く原発災害を封じ込め、状況を安定させたいとする意気込みは、全く感じられないのが現状です。 続く
2011.06.28
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クロニクル サライェヴォ事件1914(大正3)年6月28日97年前の6月28日は日曜日でした。この日、ボスニアの首都サライェヴォは昨夜来の雨もあがり、雲一つない快晴だったと記録されています。このサライェヴォで1ヶ月後の7月28日に,最初の戦端が開かれることになる、第1次世界大戦を招き寄せる大事件が起きたのは、11時15分頃のことだったと伝えられています。そうです。オーストリア、ハプスブルグ家の皇位継承者であるフランツ・フェルディナント大公夫妻が、ボスニアのオーストリアからの独立を支援する隣国セルビアの民族主義運動家の秘密結社「黒い手」が派遣した刺客が放った銃弾に倒れた、あのお馴染みの事件が起きたのが、97年前の今日なのです。あまりの衝撃に、当日の天候から時刻までもが、克明に記録されているのです。ボスニアは旧ユーゴスラヴィア連邦解体後の民族紛争、とりわけ、ボスニアのセルビア系住民によるイスラム教徒(ボスニアではイスラム人として1民族に数えられます)並びにクロアティア系住民の虐殺と民族浄化運動で知られることになりましたが、既に20世紀初頭から民族紛争が絶えない地域だったのです。当時のオーストリア皇帝は、悲劇の皇帝と言われた80歳の老皇帝フランツ・ヨーゼフでした。彼の弟マクシミリアンは,フランス皇帝ナポレオン3世に口説かれてメキシコ皇帝に担ぎ出され、メキシコ人の反乱にあって、1867年に銃殺されました。1人息子のルドルフは、1889年に愛人と変死しました。息子の死の悲劇に耐えた皇帝が、皇位継承者に指名したのが、甥にあたるフランツ・フェルディナントだったのです。皇帝はウィーンの宮廷で、後継者に指名した甥の遺体の到着を待ったのでsu。しかし、疑問は残ります。ボスニアに反オーストリア感情が強いことは良く知られた事実でした。だかたこそ、この日、オーストリア軍は大規模な軍事演習を催し、セルビア系住民を威圧するプランを立てていたのです。そんな危険な地に、オーストリア政府は何故皇位継承者を派遣することにしたのか。軍部は何をしていたのか。オーストリア側の警備は十分だったのか。といった疑問が残ります。そして又,反対側の当事者であるセルビア政府は、オーストリアとの戦争になりそうなことぐらい、すぐに判断出来るハプスブルグ王家の後継者暗殺の動きを、何故止めようとしなかったのか。せめて止めないまでも、胡乱な動きのあることをオーストリア側に伝えなかったのかという疑問が残ります。この先は、過去ログに第一次世界大戦のシリーズがあります。2007年の年末から、翌年にかけての連載しました。ご覧いただければ幸いです。
2011.06.28
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黒船来航(15)ペリーが、日本語を正文としようと考えて、断念したいきさつは既に記しました。中国語を正文としたのは次善の策ではあったのですが、欧文としないで中国語としたことによって、交渉のペースが日本主導となってしまったことは、ペリーの誤算でした。アメリカ側の中国語即ち漢文の担当は、初回の来日にも随行したウィリアムズと羅森の2人です。これに対して幕府側には、漢籍に精通した精鋭はいくらでもいます。昌平坂学問所の林大学頭は、とりあえず20名の精鋭を選抜して、文書係として待機させていたのです。米側の条約草案を受領した幕府側は、すぐに米側草案と望厦(ボウカ)条約とを比較しながら、条約草案の内容点検を進めました。米側草案は24条、それに対して望厦(ボウカ)条約は34条から成っていました。応接掛には、米側草案が望厦(ボウカ)条約の縮小版であることがすぐに見て取れました。その上、米側草案には、いくつもの大きな矛盾があることも、すぐに見抜きました。縮小版を作成する時の削除と、書き換え作業の段階で起きた矛盾であろう事まで、見抜いてしまったのです。文書掛は、その矛盾に優劣をつけて並べ替え、応接掛に提出しました。そこには、最も大きな問題が、削除の原理がタイトルに反映していないこと、即ち内容と形式が一致していない点にあることが、はっきりと浮き上がっていました。ペリーは、日本との条約交渉を、一挙に完成するのは難しいと考え、2段階方式を考えていました。第一段階では、国交樹立の一般的内容とし、第二段階として通商に関わる詳細な条約を結ぶ積りだったのです。ところで望厦(ボウカ)条約は、イギリスがアヘン戦争の結果として清朝と結んだ南京条約に対して、アメリカが最恵国待遇を主張して結んだ条約です。ですから、そこには平和・親睦・通商の3要素が含まれていたのです。当然タイトルもそうなっていたのです。 続く
2011.06.27
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クロニクル 松本サリン事件1994(平成6)年6月27日もう17年になるのですね。この日夜9時半過ぎでしょうか、長野県松本市の住宅街で、有毒ガスが発生(サリンと判明したのは、採取したガスを分析した後日のことでした)、死者7名、入院52名、被害者総数213名に達した、大惨事となりました。翌年3月に霞ヶ関中心に、地下鉄サリン事件が起き、松本サリン事件も、オウム真理教の犯行と分かるですが、当初捜査は難航し、事件の翌日からマスコミは、現場に近い河野義行さんのお宅に、いくつかの農薬類があったことから、まるで河野さんが犯人であるかのように、実名入りで報道しました。TV局のリポーター(この人種、あまり自分がリポートすること、インタビューする内容や取材対象者の人柄や心情にについて、全くといっていいほど勉強していない、不勉強な連中が多いですね)の中には、他社が報じているからと、「あなたが犯人なんでしょう……」と罵声を浴びせる人物もありました。河野さんの夫人は、入院患者の中でも最も重症で、1度も意識を回復されることがないまま、河野さんや病院関係者の手厚い看護を受け、命の戦いを続けていらしたのですが、遂に3年前の2008年8月に、サリン中毒が原因の低酸素脳症による呼吸不全によって、息を引き取られました。河野さんは実名入りで、姿を露出させられて、マスコミに報じ続けられました。不確かな情報で犯人扱いされて…。オウム真理教の犯行と分かって、ようやく河野さんの濡れ衣は晴れたのですが、その間、9ヶ月に渡って、犯人扱いを受け続けたのです。これは,明かにマスコミによる人権侵害でした。松本サリン事件は、報道と人権の問題をも浮きあがらせた事件でした。この反省が個人情報保護法に生かされているかというと、政治家や官僚は都合良く、自分に不利な情報を隠せるようですが、我々の情報が、きちっと保護されているかというと、これははなはだ中途半端なようですね。どうでも良いところにうるさくて、肝腎のところは抜けているような……
2011.06.27
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クロニクル 小笠原諸島返還1968(昭和43)年6月26日1昨日世界自然遺産に登録された小笠原諸島の話題です。43年前のこの日、米国はサンフランシスコ講和後も占領を続けていた小笠原諸島を日本に返還しました。 伊豆七島からは,遥か南ですが、小笠原諸島はこの日から、行政区分としては東京都に帰属することになりました。こうして、日米交渉の焦点は、基地の島として,当時米国のヴェトナム戦争にとって、重要な戦略上の拠点となっていた、沖縄の返還問題に絞られてゆくことになりました。その沖縄、いまだに基地問題が大きな重石になっています。早く何とかすべきなのですが、政治家と官僚、そして防衛省がネックですね。
2011.06.26
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黒船来航(14)ペリー一行は、3月8日の昼少し前、横浜村の仮設応接場(ペリー側は条約館と命名しています)に案内されました。ペリー自身にとっては、前年に続く2度目の上陸です。仮設の大広間には、5人の応接掛が着席して、ペリー一行を待っていました。林大学頭、井戸対馬守、伊沢美作守、鵜殿民部少輔、松崎満太郎の5人でした。大勢の従者、番の与力・同心などの侍、通訳も侍していました。双方が席に着いたところで、ペリー艦隊から祝砲が挙げられます。日本国皇帝の栄誉に21発、応接掛に17発の、38発でした。応接掛は、昼食に300人分の献立を用意したのですが、アメリカ側の上陸者は446人でした。不足分を慌てることなく処理したのですから、日本側の対応力は見事なものでした。酒に吸い物と肴、それからが本膳で、一の膳、二の膳と続き、最後の菓子まで、大変な品数であったそうです(ペリー側の、賛嘆しきった報告書が残っています)。食事が終ると、ぺりーは懐からアメリカ側の条約案を取り出し、日本側の首席代表林大学頭に手渡しました。日付は1週間前の3月1日付け、漢文を成文とし、オランダ語訳がついていました。同封文書として、アメリカが清朝と結んだ望厦(ボウカ)条約の漢文版も添えられていました。林大学頭書簡は大統領の考えを述べ、前回の来日後再度熟慮したが、やはり条約締結の時がきたと考えると、記されていました。幕府側は、早速アメリカ側の条約案を精査し、いくつもの矛盾点があることに気がつきます。ここから、日本側がペースを握ります。 続く追伸所用のため、次回更新は、明日の夜になります。 ザビ
2011.06.25
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クロニクル 有権者1億人突破2000(平成12)年6月25日11年前のこの日、第42回衆議院議員選挙が行なわれました。与党は後退しましたが、多数を確保し、他方で民主党もまた議席数を伸ばして、躍進しました。しかし、この選挙で特筆すべきことは、選挙人名簿の確定の結果、名簿に登載された20歳以上の有権者数が、初めて1億人を超えたという事実です。総人口は1億2千万人台でしたから、いかに少子化が進んでいたかが分かりますね。
2011.06.25
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黒船来航(13)何故ペリーは、一番乗りに拘ったのでしょうか。実は、ロシアはそれほど一番乗りに拘っていません。日本への寄港と交易さえ出来れば良いという態度でした。当時の国際法には、「最恵国待遇」という規定がありました。最初に条約を結んだ国と、同等の権益を、後発の国も得ることが出来る決まりです。ですから、大国ほど鷹揚に構えていて、後から登場しては、美味しい分け前をさらっていくということも、日常的にあったのです。ですから、ロシアは勿論、植民地先進国のイギリスやフランスも、アメリカの行動に対して、様子見を決め込んでいたのです。それでもアメリカは急ぎました。それは、当時の国際法における最恵国待遇の規定では、1番乗りの条約に対して、後続の国も同等の権益を獲得できるのですが、それ以上の内容を獲得することは出来なかったからです。そういう意味で、ペリーは一番乗りを目指したのです。2月13日に江戸湾に現れたペリー一行と幕府の間で、先ずは、正式交渉の場をどこにするかで予備的な交渉が行なわれます。この予備交渉がまとまり、横浜村を正式交渉のばとすることで、双方の合意が成立します。こうして、幕府が横浜村に用意した仮説の応接場に、ペリー一行を招いて、本交渉をはじめたのは、3月8日のことでした。 続く
2011.06.24
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クロニクル 壬申の乱始まる672(天武元)年6月24日趣向を変えて,今日のクロニクルは古代史から。 西暦645年の大化の改新を「ムシゴロシ」とゴロ合わせをして、覚えた方もいらっしゃるでしょう。この時の立役者の1人、中臣鎌足は後に藤原の姓を下賜され、藤原氏を名乗ります。平安朝中期の摂関政治の主役となる藤原氏の始祖となったのです。 もう1人の主役が中大兄皇子,後の天智天皇です。大化の改新のクーデタ後、彼は皇太子のまま実質的に政治を担当しますが、中国の新興国家、隋王朝を倒した唐と結んだ新羅に敗れ、命運の尽きかけた百済救援の軍を派遣し、白村江(はくすきのえ)の戦いで、唐・新羅の連合艦隊に惨敗を決します。 日本古代史における未曾有の危機の時代の到来でした。当時の政府当局者は、唐・新羅連合軍が勢いに乗って日本(大和朝廷)攻略軍を起こすのではないかと心配し、当時大阪難波宮の朝廷を、琵琶湖のほとりの大津宮に移したほどでした。 というわけで、壬申乱当時の朝廷は大津にありました。天智天皇は、この大津で即位したのですが、前年671年(天智10年)に亡くなり、天智の子、大友皇子が太政大臣のまま、政治を担当していたのです。 この時、後の天武天皇、大海人皇子は、闘病中の天智天皇の意中の人物が子息の大友の皇子であることを知り、剃髪して仏門に入り、吉野に脱出したのです。671年10月の出来事です。大津にいたのでは、いつ刺客を向けられるか分からない。飛鳥から大和一帯なら、自分の支持者も居て身の安全を確保しやすいと考えたのですね。天智は12月に亡くなりました。この時代、頼朝・義経兄弟をとってもそうですが、名門の家柄では兄弟といえども、乳母・傅役が違いますから、親しい肉親の情などというものは、先ず互いに持ち合わせておりません。 そこには食うか食われるかの権力闘争が存在するケースが多いのです。この場合がまさにそうでした。天智は家臣の信望を集める弟大海人の存在が、息子にとって極めて危険であることを知っていました。大海人の正妻、後の持統天皇は天智の娘で大友皇子の母違いの姉ですが、両者に姉弟の情は見られません。息子の草壁皇子を皇位につけることを考える母は、何としても夫を守り夫に皇位に就いてもらいたいと、弟の追い落としに積極的に協力していくのです。さて、吉野に隠棲しながら、大津宮の情報収集に怠りのなかった大海人らは、次第に吉野も安全と言いきれないと考え、支持者の多い、東国(東海地方)に下って兵を集め、挙兵する腹を固めます。大津の朝廷でも、大海人側の情勢を探っていますから、この脱出策を把握するのですが、事が漏れたことを察知した大海人側は、この日、決死の覚悟で、替え馬の用意もないままに、吉野の離宮を出発。敵側の伊賀越えを敢行して、伊勢に出、鈴鹿と不破の関を占領して、東海・東山地方の兵を集め、美濃に本営を設けます。こうした一連の出来事から、この日6月24日が壬申の乱の始まった日とされているのです。 大海人の挙兵を知り、大海人を慕う武人の多くは、大海人軍に馳せ参じます。最後は決断と人望が勝敗を分けたというべきでしょうか。戦いは大海人側の圧勝に終ります。 近江、大和で敗れた大友が、自害して果てたのは、7月23日のことでした。朝廷と地方の有力者を2つに割った内乱は、こうして僅か1ヶ月で、大海人(後の天武天皇)側の勝利に終ったのです。
2011.06.24
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黒船来航(12)ところで、前年7月の来日以降の7ヶ月間、ぺりーは中国沿岸の港湾や琉球、小笠原などで過ごしていました。本国へは帰っていません。海軍では、司令長官の乗る旗艦が司令部になるのですが、当時のペリーは、司令長官として、多くの課題に直面していました。第1に、ペリーが徳川将軍家に差し出した国書は、共和党の系譜に繋がるフィルモア大統領のものでした。ペリー自身を東インド艦隊司令長官に任命したのもフィルモアでした。しかし、ペリーがアメリカ西海岸を出航した、1852年11月に大統領選挙があり、フィルモアは民主党のピアース候補に敗れ、53年の3月には大統領が交代していたのです。つまり、徳川将軍家が受け取った国書は、正確には前大統領の国書だったのです。そして何より、ピアースと民主党の対外政策は、フィルモア時代よりずっと内向きでした。増強されるはずだった艦船の到着は、延期されていました。第2に、ペリーが中国に長く滞在することになった事にも関係するのですが、国務省の中華弁務官(今で言う中国総領事でしょうか)と、海軍省のペリーの間で、中国重視か日本重視かで、見解が分かれていたことでした。そして第3に、ロシアがプチャーチン使節団を日本に送ったことです。プチャーチンはペリーに1歩遅れましたが、53年の夏に長崎に来航し、米露間の対日一番乗り競争が激化していたのです。上海の各国使節の間では、プチャーチンが先を越すらしいという、まことしやかな噂まで飛び交い。ペリーも心穏やかではなかったのです。ペリーが、航海には不向きの厳冬期にも関わらず、予定を繰り上げて日本訪問を急いだのは、こうした事情があったからでした。 続く
2011.06.23
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東電の賠償問題を考える(6)東電が破綻処理された場合、株主責任や金融機関等の貸し手責任を問うことが出来ます。東電は、株式会社ですから、破綻した場合に株式価値がゼロになることは、中学校で学ぶ事柄で、今さら何も問題はありません。東電の破綻で、株式市場が機能麻痺に陥るとも、考え難いですね。金融機関も、貸し手責任の問題です。心配があるとすれば、社債市場でしょうか。東電はかなりの社債を発行しています。従来は優良社債として、結構人気も高かったようです。この社債が返還されない。あるいは大幅な減額返済になるとすると、他の社債の発行に影響が及び、社債市場が混乱する怖れがあります。そうなると、東電の業務を引き継ぐ「新東電」の設備投資資金の確保に、支障が起きる事も考えられます。しかし、だからと言って、破綻処理はしないというのも、理に合いません。ここでは、社債に限り、前東電の債務を新東電が引継ぎことで、問題は解決します。ここが資本主義社会の原点に戻って、東電は「会社更生法」で処理するべきでしょう。最大野党の自民党が検討中とする対案は、漏れ聞こえてくる限り、民主党案よりもさらに東電に有利な内容のようです。東電と組んで、原子力発電の安全神話を、根拠も確かめずに吹聴してまわった政党ですから、それも頷けます。そして何よりも、東電破綻となれば、他の電力会社も、原発推進の立場を転換せざるを得なくなります。おそらく政府も財界もそれを最も恐れているのではないでしょうか。原発で、東電並の事故が起きれば、会社が吹っ飛ぶ。それはありえないことではないとなれば、なお今後も原発を推進して、一時の利益の確保に勤しむ電力会社は無くなるでしょうし、株主の批判に耐えられないでしょう。東電に会社更生法を適用する案が、政と官で広まらない原因は、実はこの辺にあるのではないかと、私は睨んでします。 続く
2011.06.23
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クロニクル 東北新幹線開業1982(昭和57)年6月23日29年前ですね。この日、東北新幹線の大宮~盛岡間466,6kmが開業しました。同線の着工は1971年11月で、当初の予定では、着工5年後の76年度内の完成が見込まれていたのですが、オイルショックの発生と、大宮以南の住民の騒音と振動公害に対する強い反対運動にあって、工期は2倍に伸び、費用は3倍にふくらみました。この開業により、上野・盛岡間は約4時間となり、2時間30分程短縮されることになりました。なお、上野開業はさらに2年9ヶ月程遅れ、85年3月のことでした。 そういえば、確かに当初は、大宮で乗り換えていましたね。新宿から小田急線を利用する私は、今でも東北や上越方面に出かけるときは、もっぱら大宮に出るのですが…その後、91年6月に、東京・上野間が開業。11年後の2002年12月に森岡・八戸間が、昨年になりますが、2010年12月4日に八戸・新青森間が開業し、工事開始の1971年から40年の歳月を経て、東北新幹線は全線が開通したことになりました。この間には、御承知の通り、国鉄の分割民営化があり、鉄道にも資本の論理が適用される変化がありましたので、私などは、普通に考えても採算に乗らないだろうことがみえみえの、盛岡以北の建設は、ないだろうと考えていただけに、政治とゼネンコンの論理により、整備新幹線として延伸が復活した時には、大いに呆れました。九州や北陸なども同じです。こうした無駄な投資が今でも、あちこちにあるだけに、この程度の政治しか出来ない政治家や、この程度の配分しか出来ない官僚の下での増税などまっぴら御免と、私は考えています。
2011.06.23
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黒船来航(11)老中阿部正弘のその後の動きも、素早いものでした。彼は、解禁の「達し」と同時に、鎖国時代から付き合いの深かった、オランダ商館に蒸気船を発注します。この時発注した数艘の船のうち、1857年に到着した船が、後に咸臨丸と名付けられ、1860年に勝海舟を艦長として、日本で最初に太平洋横断に成功します。1853年7月17日に日本を去ったペリーは、7ヵ月後の翌年2月、厳冬期の日本にやってきました。今回は総勢11艘の大部隊でした。艦隊のうち1艘は、相模沖で座礁しました。厳冬期です。厳しい寒さの中、近在の日本人漁民が自発的に救助に駆けつけました。外国船にも、薪や水を提供するのは差し支えなしとする、天保薪水令が出されており、救助には一切のためらいもなく、義侠心がこうした行動に繋がりました。異国船であっても、海難救助は船乗りの仁義だったのです。この行動にペリー艦隊は、大きな感銘を受けた様子が、記されています。座礁した1艘を除く、10艘の全艦隊が江戸湾に揃ったのは、西暦1854年の2月13日でした。三浦半島の観音崎と、房総半島の富津を結ぶ海防線を突破し、横浜沖に停泊し、その地をアメリカ停泊地としたのです。今回は、大量の小舟が艦隊の周囲に群がりました。中には漁船もありましたが、黒船見たさにやってきた野次馬を乗せ、しっかり料金をせしめるちゃっかり舟が、ほとんどでした。大勢の見物客がやってきたのです。こうした物見遊山が可能だったのですから、当時の日本経済、貧しさで首も回らない状態とは、縁がなかったことは確かです。舟に乗る金はないが、浜辺で黒船見物は出来る。こうした人々も数多く、浜辺も毎日大変な賑わいだったことが、記されています・ 続く
2011.06.22
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東電の賠償問題を考える (5)会社更生法を適用すると、法的処理後に残る賠償費用は、基本的に国の負担になります。その一方で、首都圏の電力は、損害賠償の重荷から解放された「新東電(仮称です)」が担うことになります。旧勘定と分離された「新東電」は、研究開発にも、設備の拡充にも、攻めの姿勢でで臨むことが出来るのです。国や政府の管理下におかれ、長期間の利益を損害賠償に当てていくスキームでは、攻めの経営など及びもつきません。しかも電気料金は値上げされ、その値上げ分が賠償支払いに回されるのです。高い電力料金は、企業に安定した安い電力を求めての、工場の海外移設を促すでしょう。さらには、様々な企業が自家発電に注目し、電力を自ら調達する方向に動くでしょう。数日前の日経新聞の記事に、JR東日本が、6月25日から、夏期ダイヤを編成し、通常より運転本数を間引くと発表した記事が載っていました。ところが、山手線だけは、運転本数で95%が確保されていて、他路線に比べ削減幅がとても小さいのです。不信に思って熟読した所、隅のところに、山手線の電力は、全量を自家発電で賄っていると書かれているではないですか。JRも既に、自家発電に踏み切っているのです。しかも東電から電力を購入するよりも、長期的に見ると経費は安く、経費節減にもなると、大型自家発電装置の導入を、前向きに検討する企業も増えているという記事も、これは日経ではありませんが、散見するようになってきています。政府は何故、東電の存続に拘るのでしょうか。 続く
2011.06.22
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クロニクル 1ドル=100円を突破1994(平成6)年6月22日この日、ニュヨークの外為市場で、史上初めて1ドルが100円を突破しました。細川・クリントン会談で、日米貿易摩擦に対する日本側の反応が鈍いことにいらだった米側が、円高ドル安を容認する姿勢を見せたことが、きっかけとなりました。この後も円高は続き、遂に翌年95年に1ドル、79円台まで円高が進み、そこで天井を打って、円安に転じ、やがて100円台に戻り、日本の金融危機と不良債権問題の闇が意識された2002年当時には、1ドル=140円近くまで円安が進みました。この事情は、サブプライムローンのメッキが剥げ、アメリカやヨーロッパの金融危機が深刻化するに連れて、再度逆転、現在は1ドル=80円前後と、円高というより、ドル安ユーロ安の状況が続いています。
2011.06.22
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黒船来航(10)老中阿部正弘の下に集まった各界の意見書は、現存するものだけで719通にのぼりました。大名地震からも、藩士からも、幕臣もあれば、学者もあるなど、多様な層からの意見書が集まりました。それだけではありません。町人からも意見書が出されました。「商」と区分された意見書の仲には、吉原の遊女渡世と言いますから女衒でしょうか、「藤吉」と記された男からの意見書まで、保存されているのですから、驚きです。意見書の内容は、現状維持論、最小限の開国で止めるが良しとする消極論、そして積極的な開国論の3種に大別されます。その中に、最初に紹介した勝海舟の意見書も含まれていました。さて、老中の意見聴取から、僅か2ヶ月足らずの9月28日、老中の「大船建造」に関する下問がなされます。安倍正弘は、アメリカ大統領国書への対応と、「大船建造」とが、論理的に関連すると考え、世論の形成を睨んで、意識的に下問したと、後になって語っています。それでも、大船建造問題では意見は少なく、提出された意見のほとんどは、解禁案だったと言われます。廻船の海難事故を回避するために、早く大型蒸気船を導入すべしという意見や、「やがて開港して貿易が始まれば、日本も外洋船を持たなければなるまい」とする意見、さらには「幕府も海軍を持たないと外国の軍艦に対抗できないから、蒸気軍艦を早く購入しなければならない」という意見もありました。この下問から僅か3週間後の1853年10月17日、解禁を伝える老中の「達し」が出されます。鎖国体制の最重要の柱であった、日本人の海外渡航の禁が、解かれたのです。渡航禁止は解禁となったのです。これは、まさに家光以来の幕府の方針の、大転換を意味しました。条約締結以前の段階で、幕府は自らの意思により、鎖国の祖法を解いてしまったのです。翌54年の日米和親条約の締結が、無策の幕府が追い込まれた上で結ばされたという 、明治以来の思い込みが、いかにある政治的意図の上に、巧妙に作られた虚構だったということは、この一時をもってしても、明らかなところです。 続く
2011.06.21
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東電の賠償問題を考える (4)東電に会社更生法を適用すると、東電への貸付が不良債権となる金融機関の経営に影響が及び、金融市場が大きく動揺して、日本並びに世界の経済に対する負の影響が計り知れないと懸念する声が、あちこちからあがっていますが、この点については、よりきっちりした議論が必要なので、後に譲ります。ここでは、会社更生法を適用しない、政府のが策定した「賠償支援スキーム」を検討してみましょう。こちらでは、東電の株主や債権者は保護されます。株主や債権者が保護される傍らで、賠償費用は電力料金に転嫁されます。いわば、事実上の国民負担で、株主や債権者を救済しようというのが、民主党提案の「賠償支援スキーム」なのです。この場合、電力料金を一挙に大幅に引き上げるわけには行きませんから、引き上げ幅はなるべく抑えて、長い時間をかけて回収する方法がとられます。政府が口にする、精一杯の合理化を額面通りに織り込んだとしても、株主や債権者が保護されるために、更正法を適用する場合に比べ、かかる経費は確実に大きくなります。実は、この案のミソは、賠償費用を支払い続ける間、東電は政府の管理下に置かれるということです。いくらの設備投資をするか、研究開発にどの程度の資金を投じるか、社員の処遇をどうするかなどまで、政府の監視を受けるのです。そこには、高い技術開発を期待することは勿論、有為な人材をひきつける魅力的で、野心的な経営計画も期待できません。このような企業に、首都圏の電力供給を担うという、国家の根幹に関わる事業を展開させ続けることが、果たして日本全体にとって、ベストの対応と言えるでしょうか。「賠償支援スキーム」は、こうした問題を抱えています。 続く
2011.06.21
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クロニクル 新党さきがけ結成1993(平成5)年6月21日18年前のことです。この日の3日前に、自民党から造反議員が出た結果、野党提出の宮沢内閣不信任案が可決成立しました。6月18日のことでした。宮沢首相は、ただちに衆議院を解散し、国民の信を問うたのです。自民党の造反組が、新党を結成するのは、当然視されていたのですが、この日、小沢新党にまさに先駆ける形で、武村正義を代表とする新党さきがけが結成されたのです。小沢新党とも言える「新生党」の結成は2日後の23日のことになります。さて、この「新党さきがけ」の結成に参加した議員の中に、はとぽっぽさんも、スッカラカンさんのお2人も加わっていました。それだけではありません。前原誠司、玄葉光一郎、枝野幸男、荒井聰らの各氏の名も記されていますから、現在の民主党の反小沢グループの幹部のほとんどは、さきがけ出身ということになるのですね。 ちょっと、驚きです。 、
2011.06.21
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東電の賠償問題を考える (3)東電は、政府により電力供給の地域独占を許されており、株式会社ではありますが、規制業種の代表格の存在です。規制に守られた企業は、競争にさらされることがなく、しかも「電力事業法」によって、電力供給のコストに一定の利益をプラスした電気料金を徴収する権利も有しています。ですから、原発関係の賠償コストや損害は、全て経費に加算して、電力料金の値上げが出来るのです。殿様商売ですね。こうした規制に守られた企業は、堕落する。自由競争の身を晒さない企業は、自由化が進むと、ほぼ確実に衰退に向かいます。規制に胡坐をかいて、必要な改革を怠ったツケなのですね。日本航空がまさにそうでした。3,11は東電も日航と同じようなダメ企業であることを、国民の眼に焼き付けました。さて、その東電、民主党ばかりか、自民党でも救済法案が準備されているそうですね。ヤレヤレですね。私は、東京電力は1度倒産させ、事情は別会社が引き継ぐ方式が、色々な意味で最も優れていると、考えています。多額の賠償負担の生じる東電は、間違いなく債務超過になるでしょう。そこでどうするか。一般に、債務超過の状態にありながら、事業を維持することに社会的価値が認められる企業の場合、破綻処理の最も簡明な方法が、会社更生法の適用を申請することです。東電に会社更正法が適用されると、株主や債権者が損失を負担することになりますし、経営者も総退陣することになり、夫々が明確に責任を問われたことになります。そして、この手法は、自由競争社会である、資本主義社会では、ごく当然の手法です。 続く
2011.06.20
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クロニクル GHQ第一次追放解除を指令1951(昭和26)年6月20日この日、GHQの指示を受けて、吉田内閣は、第一次追放解除を発令しました。ここに、戦犯として公職を追放されていた石橋湛山、三木武吉ら政財界人2,958人が、公職に復帰できることになりました。GHQは当初、憲法の前文にある如く、日本が再び軍事大国化を目指す事がないようにすることを目的に、日本の民主化を徹底のですが、中国の社会主義化と、1950(昭和25)年6月の朝鮮戦争の勃発で、米国政府は方針を転換、日本を社会主義封じ込めの最前線とするべく、再軍備を奨励し、同時に戦犯の追放解除を示唆し、喜んだ政府がただちにそれに応じた結果が,この日の解除となったのでした。このうち、石橋湛山氏は、鳩山一郎氏に続く、第2代の自民党総裁。岸信介を逆転して総裁になりましたが、病に倒れ、すぐに病床から退陣を表明、岸氏に首相を譲りました。引き際の見事さの目だった、爽やかな政治家でした。平和主義者だっただけに、先般だったことがとても意外でした。三木武吉翁は、鳩山側近として、自由党の大野伴睦と共に保守合同を影で支えた黒子役でした。
2011.06.20
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黒船来航(9)ペリーが日本側の返事も待たず、僅か9日の滞在で、日本を後にした本当の理由は、彼の日記にだけ書き残されています。それは、食糧の備蓄が十分でなく、交渉が長引いた場合に、中途で引き上げざるを得ず、交渉そのものが失敗に終り、自ら墓穴を掘ることになると、畏れたからでした。戦闘に訴えることが出来ないことの弱みが、ペリーをして、早期の日本からの退去を決断させたのです。ただし、彼は本国アメリカに向かったわけではなく(それには食糧も燃料も足りません)、琉球に立ち寄り、そこで水や食糧を得ると、翌年の日本再訪までの期間、1度も本国に帰らず、中国沿岸や琉球、小笠原諸島などで、時を過ごしています。さて幕府はどうしていたでしょうか。外洋船を持たない幕府には、ペリー艦隊を追跡し、行き先を偵察する能力はありません。そこで幕府は、翌春とされたペリー艦隊の再訪に備え、対応策の検討に取り掛かりました。指揮は、35歳の老中阿部正弘。阿部は、23歳の時に福山藩10万石の藩主から老中に抜擢されました。そして25歳に若さで老中首座に就任、すぐに並々でない指導力を発揮した逸材でした。1854年には59歳になっていたペリーとは、親子ほどの年の差がありました。この阿部は、若さを武器に思い切った手を連発して、未曾有の国難に当たります。彼がとった第一の措置は、受理したアメリカ大統領の国書を回覧に付し、広く各界の意見を聴取したことです。受理した7月14日の2週間ほど後、7月31日のことでした。老中が各界の意見を求めるなど、当時の日本では、まさに前代未聞の出来事でした。 続く
2011.06.19
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東電の賠償問題を考える (2)福島原発の被害額は、10兆円規模に及ぶと取りざたされています。これらに賠償責任が生じることから、「原子力損害賠償法」の規定を拠り所に、「想定外の巨大な天災による事故なので、東電は免責されてしかるべきだ」という声が聞かれます。しかし、現在までに明らかにされた事実を総合すると、東電が利益重視路線に走って、予想される災害への備えを、十分にはしてこなかったこと、非常時への備えも怠っていたことなどが明らかになりました。東電の防災対策には、大きな不備があったのです。フクシマの事故は人災の側面が大きいということです。同じく震災被害にあった、東北電力の女川原発では、事故は起きていません。立地の差があったとはいえ、東電の責任は免れがたいところです。アメリカにも、「原子力損害賠償法」と良く似た法規が存在します。大きな原発事故が生じた場合、政府が責任を持とうというものです。ただし、アメリカの規定では、電力会社に、原発事故に対する十二分な備えが要求されています。その中には、事故を防ぐ備えと共に、事故発生時の緊急対策に属する備え、さらに事故発生時の住民の避難への備えまで含んでいます。即ち、電力会社は、近隣の自治体の協力を得て、毎年住民の避難その他の訓練や、事故発生時の対策についての啓発活動なども、自社負担で実施することが義務付けられています。こうした、十分なる備えを、政府が電力会社に法的に強制しているがゆえに、事故への賠償については、政府が責任を持つことになっているのです。東電は、ここに記したような、十分な対策はほぼ何もしていませんでした。対策を省略して得た利益は、株主配当や福利厚生、天下り先として作った子会社の赤字補填などに使われました。こうした事情から、東電免責論は成り立たないと、私は考えています。 続く
2011.06.19
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クロニクル 安保条約自然承認1960(昭和35)年6月19日5月19日深夜に、自民党の強行採決によって衆院を通過した改訂版安保条約は、この日午前零時をまわったところで、自然承認となりました。 それは憲法の規定で、予算案と条約については、衆院の議決を参院が否決した場合は、衆院の議決が議会の決定となること、また参院が衆院の議決後1ヶ月以内に何の決定もしない場合、衆院の議決通りに決定したものと見なすことになっていたからです。これに対し、予算審議と条約審議を除く、その他の法案審議においては、衆・参の議決がことなった場合、衆院は2/3以上の多数で再可決しない限り、その法案は否決されたとみなされることになっています。参院の審議期間は2か月が確保され、しかも参院が衆院通過後2か月以内に議決しなかった場合は、法案は否決されたとみなされるのです。 小泉首相(当時)が、郵政法案が参院で否決されると、ただちに衆院解散に打ってでたのは、衆院で2/3以上の多数で可決することの困難を睨んだからのことでした。安保に戻ります。安保条約は日米2国間の条約であり、外交案件でしたから、参院の審議期間は1ヶ月、採決がされない場合は承認と見なす規定が生きてきます。 こうして,この日、33万人を越えるデモ隊が何重にも、国会を包囲する中、遂に自然承認という事態を迎えたのです。4日前の15日、樺美智子さんの死というショッキングな事件を受け、自民党内にも岸首相のやり口に批判の声が強まる中、岸首相は安保条約の成立を花道に辞任することを約束、総理の椅子を差し出すことで、反主流派の了解をとりつけ、マスコミに退陣表明をすることで、ようやく党内の反対を抑え、この日の自然承認となったのです。 この後安保反対派の陣営は、あれだけの盛り上がりを見せた反対運動を展開しながら、安保改訂を阻止し得なかった事実に、挫折感を深めます。知識人は「言論は空しいか」といった論陣をはリ、反体制運動はしばらくの沈滞期に入ったのです。
2011.06.19
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黒船来航(9)既に記しましたが、ペリー艦隊が日本を目指してアメリカ西海岸を出航したのは、1852年の11月24日です。日本に到着したのは翌53年の7月8日(当時の日本暦では6月3日)、国書の受け渡しが完了したのは、その6日後ですから、この間6ヶ月半の月日を要しています。オランダ語通詞の堀達之助と、与力の中島三郎助の訪問に始まった日米交渉がまとまり、幕府が久里浜で米大統領国書を受け取ったのが、ペリー来航から6日目の7月14日(日本暦6月9日)だったのです。この間、日本側にも色々なことがありました。それは幕閣の中枢というよりも、沿岸警備の任を担っていたいた川越藩など、黒船と直接対峙した武士や、近隣の漁民などにとって、大変なことでした。沿岸警備の湾岸では夜を徹して松明が灯され、厳重な警備が行なわれましたが、夜9時にサスケハナ号が時報を鳴らすと、あたりは1時騒然となり、松明も全て消される一幕もありました。真っ黒な蒸気船なるものを始めてみた恐怖心が良く分かる一幕です。 一方でで、黒船襲来の噂は、瞬く間に全国に及び、異常なほどに多数の瓦版が発行されました。そのうちの一部は現存しているのですが、中には多色刷りのものもあります。川柳や狂歌も多数作られました。幕府は火消しに懸命でしたが、当時の日本人のカルチャーショックがいかに大きかったかが、伝わってきます。しかし、久里浜での国書の受理とは、幕府も上手いことを考えたものです。ペリー一行に日本に上陸したという成果を与えながら、江戸の土は一切踏ませない妙案を考え出しています。久里浜には、素早くしつらえた仮説の応接場を設けて、接待までしています。この場でペリーは、幕府の正史戸田伊豆守氏栄、副使井戸石見守弘道の両名に、大統領国書を手渡し、来航の目的を簡単に述べると、「国書への返答は、来年受け取りに来る」とのべて、あえて幕府に即答を求めず、以後3日にわたって、周辺を探索して、帰路につきました。この間、僅か9日の滞在でした。 続く
2011.06.18
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東電の賠償問題を考える (1)菅内閣が作成した、「東電賠償法」の評判が良くありません。お膝元の民主党内からも異論が続出する状況になっています。政府が策定した「賠償支援スキーム」は、東電の株主や債権者は保護され、賠償費用は電力料金に転嫁される仕組みになっているからです。つまり、実質国民負担として、長い時間をかけて回収しようという考え方です。このシステムでは、株主や債権者の責任を問い、彼ら彼女らにも責任を分担してもらうシステムよりも、回収すべき金額は大きくなり、回収に要する期間も長くなります。このシステムでは、東電の破綻は回避されますが、果たして、東電を会社更生法を適用して破綻処理するよりも、高い経済合理性を持つといえるでしょうか。私は、そうはいえないように思いますので、数回にわたって、この点を考えて見たいと思います。 続く
2011.06.18
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クロニクル 大森貝塚発見者モース博士来日1877(明治10)年6月18日134年も前になるのですね。この日、日本滞在中に大森貝塚を発見することになる、米国人の動物学者エドワード・モース博士が、助手や学生たちと共に、来日しました。日本の貝類の研究が主目的でした。飛行機のない時代ですから、到着は当然ながら横浜港になります。モース博士は、横浜に滞在中の2日後の20日に文部省顧問で旧知のマレー氏を訪ねるため、横浜から汽車で新橋に向かいます。その途中、汽車は大森海岸を通ります。車窓から日本の風物に見入っていたモース博士は、白っぽい崖を発見、そこが貝塚であるに違いないと直感したのでした。この日、面会した旧知のマレー氏等からモース博士は、全く予期していなかった東京大学教授への就任を依頼されます。当時の日本の大学には、雇われ外国人が多く、彼等の尽力で西洋の学問を吸収、次第に成長していくのが、一般的でしたから、モース博士もその1人に選ばれたというところでしょうか。博士はしばしの塾考の後、申し出を受諾します。東大教授となれば、文部省の後援を得て、大森での発掘がやりやすくなると考えたことは、大いにありえるだろうと、私は想像しています。博士の東大での初講義は、9月の12日に行なわれ、その4日後16日の日曜日には、はれて学生たちと大森海岸を訪れ、そこが貝塚に間違いないことを確認します。モース博士の報告は,大変なセンセーショナルを呼び、大森海岸の名は一躍全国に知れ渡ります。ここに、日本の考古学がはじめて産声を上げました。新しい学問が誕生したのです。モース博士は2年後の1879年に東大を退職、米国に帰りますが、それまで精力的に日本各地を調査して歩き、日本の考古学と人類学の揺籃期に大きな足跡を残しました。
2011.06.18
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黒船来航(8)ペリーは、こうした準備の末に日本にやってきました。当時の日本の暦では6月3日、西暦では7月8日のことでした。この時ペリーは、東インド艦隊司令長官の肩書きに、勝手に特命全権大使の肩書きを加えて、自らの立場を補強しています。帰国後その事実が問題視されたことはないのですから、当時のアメリカは、こうしたことにおおらかで、現地指揮官の裁量権の範囲は、かなり広かったようです。ところで、ペリーの艦隊は、来航から6日目の6月9日(西暦では7月14日)に、大統領国書を日本側に手渡すと、国書への即時の回答を幕府に要求することもなく、その3日後に、僅か9日間の滞在で日本を去っています。これはなぜでしょうか。実は、ペリー一行の売り物であった、当時の最先端技術の塊である黒船(蒸気船)には、重大な欠点があったのです。それは石炭の補給が断たれれば、自由に動くことが出来ず、巨大な漂流物に成り果ててしまうことでした。当時の国際法では、どこかで2国間の戦争が起きた場合、第3国が中立を宣言すると、交戦国の船は、中立を宣言した国の支配下にある港(当然植民地等を含む)には、入港できなくなるのです。当然物資の補給は出来なくなります。イギリスの消極的な妨害工作にあって、ペリー艦隊は、僅かな燃料や水、食糧しか積んでいなかったのです。長くは浦賀沖に滞在できない制約を持っていたのです。大統領からの砲撃禁止令、蒸気船に必要な石炭の不足、そして日本と戦争状態に入ると、イギリスが確実に中立宣言を発して、アメリカの艦船は中国の港へ立ち寄り、食糧や燃料などの提供を受けられなくなるという、三つの制約が、ペリー艦隊にはあったのです。こうしたペリー側の重大な弱点の一部を、幕府側は見抜いていました。翌年再度来航したペリー一行との交渉に活躍した林大学頭は、当時幕府の学問所である昌平坂学問所の代表で、弟子と共に漢文の文書係として、任についていました。「ペリー艦隊は、補給線を持っていない。従って今回は長居は出来ず焦っている」と、林大学頭の臣下の1人が、書き残した記録が現存しています。ペリー側は、交戦を避けつつ交渉せざるをえない。その弱みを、幕府側はほぼ正確に掴んでいた。こういう図式が浮かんできます。 続く
2011.06.17
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クロニクル ウォーターゲート事件発覚1972(昭和47)年6月17日39年前のこの日、ワシントンの民主党全国委員会本部に、盗聴器を仕掛けようと侵入した5人の人物が逮捕されました。現職大統領の犯罪として、ニクソン大統領の辞任に繋がった、世に名高いウォーターゲート事件は、この比較的些細な事件がきっかけとなって、世界を騒がせた大事件へと広がっていきました。
2011.06.17
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黒船来航(7)通訳はどうしたのでしょう。ペリーは出発前に、日本と何語で交渉するかを検討しました。最初に彼は。英語で交渉する案を捨てました。日本人は英語を解さないと考え、門前払いされることを恐れたのです。日本人官吏がオランダ語と中国語に通じているという情報は、東インド艦隊を通じて入っていました。しかし、ペリーは、交渉を日本語で行なうことを考えたのです。かなり大胆な発想のできる人物であることが、ここから読み取れます。それからペリーは、アメリカ人の中で、最も日本語に通じた人物を探します。白羽の矢が立ったのが、41歳の宣教師ウィリアムズでした。中国での宣教に20年の経験を持つ人物でした。そのウィリアムズが、当時広東で布教中と聞き、ペリーは香港から広東へと急いだのです。ウィリアムズに会ったパリーは単刀直入に切り出しました。「君がアメリカ人の中で、最高の日本通であり、日本語の分る人物である。我々に同行し、通訳の任に当たって欲しい。」請われたウィリアムズは、困惑し頭を抱えました。彼の日本語は、日本人漂流民を先生として、10年ほど前に、マカオで学んだものでした。通訳をするような自信はもてないと、彼は語りました。漂流民の先生は、難破した廻船の乗組員なのですから、先生自身が、読み書きについては十分な訓練を受けていなかったのです。そういう先生から学んだ自分の日本語は、到底通訳の任に堪えない。こうウィリアムズは、申し訳なさそうに語りました。ぺりーは大変驚き、困惑します。ペリーは、中国語と日本語の違いを、そう大きなものとは考えていなかったのです。ウィリアムズの説明で、中国語と日本語の違いを朧げながら認識したペリーは、日本語での対日交渉を諦め、中国語かオランダ語で交渉する方針に切り替えます。こうしてペリーは、改めてウィリアムズに、中国語の通訳として同行することを、求めたのです。ウィリアムズは快諾して、彼が推薦した羅森(らしん)と共に一行に加わりました。さらにペリーは、オランダ語の通訳も探し、上海で若いポートマンを雇い入れたのです。 続く
2011.06.16
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クロニクル 新潟地震発生1964(昭和39)年6月16日東京オリンピックの年のことです。この日、私は教育実習中で、東京北区の岩淵中学校におりました。お昼は食べ終えて教員室に戻り、指導の先生と午後の授業の打合せをしていた時でしたから、12時50分前後だったと思います。大きな揺れを感じました。教員室においてあった金魚鉢(当時エアポンプ付の水槽なんて、見かけたことはありませんでした)の水がこぼれおちましたから、かなりの揺れでした。居合せた教生や先生方は,全員大急ぎで教室へ行き、生徒の無事を確認しました。なるほどこんな時は、こう動くのかと良い勉強になりました。 夕方になって、震源は新潟で、新潟市内に大きな被害が出ていることが分かりました。ここから後日談です。この頃、ゼミの合宿を毎年新潟県の阿賀野川沿いの津川の町に近い、麒麟山温泉で実施していました。別のゼミでしたが、親しい友人が新潟市内に住んでいて、見せたいところがあるから、合宿の帰路、新潟に寄れというのです。そこで、ゼミのメンバー全員で、岐路新潟に立ち寄りました。駅の改札を出て、先ずビックリです。当時駅前に大型のホテルが出来ていたのですが、そのホテルが見るも無惨な姿をさらしていたのです。横長のホテルでしたが、中央部が2階部分まで地下に陥没して、両サイドは逆に浮きあがるように変形していました。信濃川にかかる橋のうち、古い橋はビクともしていなかったのですが、前年の国体用に作られたばかりの新しい橋は、完全に倒壊していたのです。国体のメーンスタジアムしかりです。 国体がいかに、地方ゼネコンの儲け仕事であったのか、おそらく政治家にも相応の金額を贈って、儲けを分け合っていたのでしょうが、国体翌年の大地震は想定外だったのでしょうね。手抜きの欠陥工事であることは、新旧の橋のコントラストが、雄弁に物語っていました。 ゼネコンと政治家の癒着の決定的証拠がここにあるんだと、その友人は力説していましたが、確かに良いものを見せてもらいました。 あの印象は強烈で、今でも鮮明に脳裏に浮かびます。
2011.06.16
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黒船来航(6)アメリカ西海岸を出航したペリーの艦隊は、そのまま大西洋を南下し、アフリカ南端の喜望峰を回って、アフリカ東海岸を北上しました。遠い昔ヴァスコ・ダ・ガマの一行が、インドの目指した航路を、ほぼ忠実に辿ろうというわけです。このときペリーは、蒸気船の燃料である石炭の輸送船である帆船を、目的地に先行させ、テーブル湾での水と石炭の補給に当たらせています。アメリカの補給路はここまででした。インド洋に入ると、アメリカの補給路はありません。そこでは、イギリスの船会社の貯炭所から、水や石炭を購入するしかなかったのです。当然イギリス側は、ペリー艦隊の目的地を知っており、通常の2倍も3倍もの高値での引き取りを迫り、消極的にペリー艦隊の日本訪問を妨害しようとしたのです。イギリスが、自ら日本に出かけようとしなかったのは、ちょうどこの時期が、中国における太平天国の乱に遭遇しており、それもこの時期が太平天国の最盛期にあたっていたからでした。このためイギリスは、アメリカを追っての日本進出を諦めざるを得なかったのです。石炭のみでなく、食糧や炊事用燃料の確保もまた、大きな難題でした。肉類の冷蔵・冷凍装置など、考えられない時代です。牛、羊、鶏などは艦内で飼育されていましたから、こうした食用動物の飼料も必要でした。ペリー艦隊は、地球の4分の3を航海して、137日後の西暦1853年4月7日に、香港に到着しました。しかし、ペリーは先を急ぎ、すぐに船を広東に進めました。この地で通訳を確保する必要があったのです。外国との交渉には、優秀な通訳が欠かせません。その点で、通訳の確保は最重要な課題でした。その通訳が、米国西海岸を出航したペリーの艦隊には、乗船していなかったのです。 続く
2011.06.15
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三陸大津波死者2万7千人 追記作夜半の記事へのコメントに、釜石ご出身の「じゅぺ理」さんが、小学生時代に、明治の大津波を体験されたおばあちゃん先生に教えられた話を、紹介してくださいました。そして、北海道は北の果てにお住まいの「宗谷のアザラシ」さんは、>この時の津波の教訓が、今回の地震による津波に生かされていたらと思います。<と記してくださいました。明治の津波の記憶より、はるかに近い昭和の戦争の記憶、広島と長崎に投下された原爆の悲惨、東京・横浜・名古屋・大阪・神戸という大都市と、地方基幹都市を灰燼に帰した空爆や艦砲射撃の非人間性の記憶すら、忘れられつつある現在ですから、忘れられていたのも、無理はないようにも思います。しかし、同時に今回の大震災は、歴史を語り継ぎ、過去の教訓を生かし続けることの重要さを余す所なく、我々に教えてくれました。高い高い授業料が必要でしたし、いまだどうなるか終息の方向が見えない福島の原発を考えると、授業料は当分払い続けることになるようですが…明治の大津波の後、海岸線の村や町には、津波の到達点の最深部に、「これより海側に家を立てるな」と刻まれた碑が建てられていました。ところが、当初は良く守られたこの碑文に刻まれた教えも、その後に続いた安穏な日々と、土木技術の発達に伴い完成された防波堤、防潮堤の存在によって、次第に忘れられてしまいました。科学技術文明への過信という点で、原発安全神話という過信と、同質のものだったと思います。結果はどうだったか。その後の報道によれば、今回の津波の到達点は、碑文が立てられていた、「ここより海側に家を建てるな」の地点と、ほぼピタリと一致していたそうです。人間は忘れやすい生き物です。忘れることで精神の平衡を保つのも事実です。しかし、中には忘れてはならないことがある。悔しいことですが、この事実を改めて噛み締めています。どうしたら、風化させることなく、伝え続けることが出来るのか、最近は、このことを考え続けています。答えがだせるのかどうか…
2011.06.15
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クロニクル 三陸大津波死者2万7千人1896(明治29)年6月15日この日、岩手県の三陸沖約200kmの海底で、マグニチュード7,6の地震が発生、地震に伴う津波が岩手、宮城、青森の海岸を襲い、死者約2万7千人という大被害を齎しました。当時の記録によると、地震の発生は午後7時32分、震度は2程度の弱震で、当初の被害はありませんでした。しかし、地震から約40分後に到達した津波は大きく、一瞬の内に三陸海岸の町や村を飲み込みました。最大の津波は、後に調べたところ、気仙沼郡の綾里村で38,2mに達したとされています。この年は、日清戦争終結の翌年でしたから、この日岩手県の大槌町では、浜辺で出征兵士の凱旋を祝う花火大会が行なわれていました。お祭り騒ぎの中、小さな地震は当然無視されます。そこへ午後8時10分頃、皆の歓声を打ち消すような大轟音と共に、襲ってきた大津波によって、一瞬の内に浜にいた人達が飲み込まれました。村の全戸が流出した地域も数多くありました。流出家屋のみで、3県合わせて8891戸にのぼったと記録されています。被害の程度は、3月11日の東日本大震災の被害に匹敵する大津波でした。
2011.06.15
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黒船来航(5)ペリーは、フィルモア大統領によって、東インド艦隊司令長官に任命され、海軍の作戦行動の一環として、日本と条約交渉を行なうよう指示されました。これはかなりの困難が予想される任務でした。それは米国憲法の規定にありました。合衆国成立の事情により、連邦政府の権限には大きな制約があり、諸外国との交戦権(宣戦布告権)は大統領にはなく、議会上院が握っていたからです。その議会の多数派は民主党であり、大統領フィルモアはウィッグ党(後に共和党に取って代わられ、消滅します)に属していたため、議会の協力を得ることが不可能だったのです。そのためペリーは、出港前に「発砲厳禁」という大統領命令を、受け取っているのです。内閣が交戦権を持つイギリスと違い、アメリカは本格的な砲艦外交を展開できない国でした。この点が徳川幕府に好感をもたれることに繋がっていたのが、歴史の面白い所ですね。当時ペリーは58歳の高齢でした。引退年齢が近いのですから、もっと穏やかで安全な任地を希望することも出来ました。それでも彼が、日本開国という困難な任務を引き受けたのは、1つには、「地上で最も若い国が、世界でもふるい国に入る日本の扉を開ける」ことへの自負心でした。これは、晩年の彼の言葉として、家族が書き残しています。もう一つは、彼の趣味に関係します。ペリーは、知る人ぞ知る玄人はだしの植物コレクターでした。長きに渡って鎖国体制を敷いてきた日本は、植物の交雑がそれだけ少なかったことになるので、きっとかなりの数の新しい品種や固有種を発見できるのではないか。こちらの期待もペリーにとっては、大きかったのです。ペリーが、アメリカ東海岸を日本に向けて出港したのは、1852年11月24日のことでした。出発港が東海岸ですから、彼は太平洋を西航したのではありません。 この点は明日記します。 続く
2011.06.14
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クロニクル 南北共同宣言発表2000(平成12)年6月14日前日の続きの記事になります。大韓民国(略称 韓国)の元首として、初めての朝鮮民主主義人民共和国(略称 北朝鮮)訪問を果した金大中大統領は、金正日朝鮮労働党総書記(北朝鮮の元首)と勢力的にトップ会談を行ない、この日南北統一問題の自主解決などを盛り込んだ「南北共同宣言」に調印し、両首脳が揃って、にこやかに共同発表の場に現れました。1950年~53年にかけて行なわれた朝鮮戦争は、休戦協定が結ばれたままでしたから、形式的には現在も、両国は戦争状態のままでした。従って、両首脳による南北共同宣言の発表は、抗戦状態が形式的に継続している両国の間で、今後は南北対話を継続しながら、統一問題は話し合いで解決してゆこうという強い意志を、表明したものとなりました。この功績を認められ、金大中大統領は、10月、ノーベル平和賞を賦与されました。
2011.06.14
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黒船来航(4)米側の事情を見ましょう。ペリーは何故1853年に日本にやってきたのか。フィルモア大統領がペリーに与えた指示書が残っています。そこには以下の3点が記されています。(1) 日本国沿岸で遭難したアメリカ船舶・乗員・財産の救助と保護(2) 日米両国の自由貿易(3) カリフォルニア~中国間の定期汽船航路の石炭供給基地(貯蔵庫)の確保確かに重要な要素ですが、どうして1853年の派遣だったか。そして国書を渡すと返事も待たずに帰国した理由などの説明には、不十分で、弱いです。そこには、ペリーの側、つまり海軍側の事情が働いていました。1846年にアメリカはメキシコとの戦争を始めました。日本では米墨戦争と言われますペリーはこのとき米艦隊の司令官でした。彼は、1837年に米海軍の最初の蒸気艦船フルトン2世号の艦長を務めて以来、蒸気海軍の父と称されており、蒸気船の増強を主張してきました。そのペリーにとって、米墨戦争は絶好の機会を提供してくれました。彼は戦争に蒸気軍艦の増強が必要なことを説いて、予算化に成功したのです。ところが戦争は2年で米国の勝利に終わり、カリフォルニアなどの領土獲得に成功しました。戦争のたびに軍備を拡大するが、終れば縮小して軍事予算の縮小をはかり、中央政府直属の軍隊は、小型で軽装備とするのが、当時のアメリカの常でした。放っておくと、蒸気軍艦の売却を議会から要求されかねない。それは避けたい。こうしてペリーや海軍は、蒸気軍艦の配備先を探したのです。米墨戦争の勝利で、カリフォルニアなど西海岸を領有したアメリカは、太平洋の彼方を展望できる時代に入りました。やがては太平洋航路が必要になる。イギリス由来の自由貿易も活発になるだろう。こうした理由を並べることで、ぺりーは議会から、東インド艦隊に最先端の蒸気軍艦を配備する許可を取り付け、海軍の経費削減を回避することに成功したのです。
2011.06.13
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クロニクル 金大中韓国大統領、北朝鮮を訪問2000(平成12)年6月13日11年前のこの日、金大中韓国(大韓民国)大統領が北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)を訪問、金正日総書記と会談しました。同じ朝鮮族の兄弟国家でありながら、1950~53年の朝鮮戦争以来、首脳同士の相互訪問は絶えてなかっただけに、両国関係の改善に向けての一歩でした。南北ヴェトナム、東西ドイツと冷戦の申し子だった分断国家が、次々と統一国家建設を進めているだけに、最後の分断国家である南北朝鮮の統一が待たれるところです。とりわけ、この国の分断は、日本の降伏の遅れによって、齎されたものであるだけに(45年8月8日のソ連参戦以前に、ポツダム宣言を受諾していれば、日本の植民地朝鮮が分断されることはなかったのです。)、何とか早く南北の統一が実現して、日本の植民地支配以前の状態に戻ってくれると良いのですが…。 そして、そのことが拉致問題の全面的解決の早道だろうと、私は考えています。
2011.06.13
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黒船来航(3) 結論を先に記しますと、実は徳川幕府は、米国艦隊の来航を予想し、消極的ながらそれを歓迎する雰囲気を持っていたのです。いきさつを記します。幕府は、砲艦外交で中国を屈服させたイギリスのやり方に反発し、強い反英意識を持つようになっていましたし、イギリスのやり口に大きな脅威を感じていました。その反動から、同じように日本への接近を試みている、アメリカとロシアには、比較の問題ですが、多少の親近感を抱いていました。ロシアは既に何度か開港を打診してきています。一方、アメリカは最後に日本にやってきた国です。1846年に2艘の軍艦が浦賀沖にやってきました。このときは、結論を出す以前に、アメリカとメキシコとの戦争(米墨戦争1846~48年)が始まり、急遽帰国しました。アメリカとの2度目の接触は、49年3月の長崎でした。米国東インド艦隊のプレブル号が、自国の漂流民の救出に来たのです。実は前年48年に蝦夷地(北海道)に漂着した捕鯨船員が、長崎に送られているという情報が、オランダ経由で伝えられたのです。徳川幕府は外洋船を持ちません。そこでオランダ船に依頼しての送還を思いついたのです。プレブル号のグリン艦長は、捕虜が軟禁されていると考えて救出に来たのですが、事情は違っていました。漂流民の待遇は悪くなかったのです。ここでは、長くロシアで漂流民として暮らし、やがて送還された大黒屋光太夫らからの、事情聴取の成果が生かされていたのです。グリン艦長は感激します。結果として、長崎奉行との話し合いは円滑に進み、この件は円満に解決したのです。この経験から、幕府はアメリカに好印象を持ったのです。頻繁に日本を訪れるようになった外国船の様子から、鎖国体制の維持が難しそうだと悟った幕府は、列強と交渉するならどこが良いか、友好国オランダの情報も参考に、一応の判断をもつに至りました。その選択肢において、幕府はアメリカを第1位に推したのです。ペリーの名はありませんが、アメリカ艦隊の来航を予想する情報は、1852年に長崎にやってきたオランダ人によって、齎されました。有名な『オランダ風説書』です。来航の時期は明白ではなかったですが、アメリカ東洋艦隊は、翌53年には、条約の締結を目指して日本にやってくるだろうと、記していたのです。反英意識とイギリス脅威論が強い幕府は、アメリカの来航を心待ちにし、来航地は長崎か浦賀のどちらかであろうと想定しました。そこで問題となったのが、長崎には常置しているオランダ語通詞が、浦賀にはいないことでした。そこで、優秀なオランダ語通詞の堀達之助を浦賀に赴任させたのです。浦賀沖での堀の英語の一文は、アメリカ船との交渉のために、堀が準備したものだったのです。ペリー艦隊の浦賀来航は、徳川幕府にとって、想定外の事態ではなかったのです。 続く
2011.06.12
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クロニクル 大平首相死去1980(昭和55)年6月12日31年前のこの日未明、選挙戦の最中に心不全で倒れ、東京女子医大病院で療養中の大平首相の病状が急変、手当ての甲斐なく不帰の人となりました。行年70才でした。大平正芳首相は、幹事長当時の1978年に、自民党が初めて実施した全党員・党友参加の総裁予備選に出馬し、ライバルの福田赳夫首相に圧勝。第8代自民党総裁に就任、同時に首相になりました。大平首相は、財政再建に執念を燃やし、79年に大型間接税としての付加価値税の導入(後、中曽根内閣で売上税、竹下内閣で消費税と名を変え、10年後の1989年に、ようやく実現を見ました)を提起したのですが、79年10月の解散総選挙で歴史的な大敗を決し、無所属議員を追加公認して、辛うじて過半数を確保しました。ここに付加価値税導入を断念、自民党は福田・大平の因縁の対決が再燃、40日抗争の果てに、辛うじて政権を維持したのですが、80年5月16日に、野党の社会党が提出した、大平内閣不信任案が、党内の反主流派が賛成票を投じたために、可決成立をみたのです。大平首相は、この挙に応じて、ただちに衆院を解散、初めての衆参同日選挙に訴えました。前年の借りを返すべく、解散後、告示前からから全国を遊説、無理をしすぎたのでしょうね。選挙戦の最中に倒れたのです。心不全との発表でしたが、政治家の病状は、実際より軽いと発表されるのが常のこと、実際は心筋梗塞だったのでしょう。この日未明に息を引き取りました。選挙は弔い合戦の様相を帯びて、自民党が圧勝。まさか可決する事はあるまいと考えて、不信任案を提出した社会党は、判断ミスが祟って、大敗を決しました。なお、後任首相には、党内に敵の少ない、同じ大平派の鈴木善幸総務会長が就任しました。
2011.06.12
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黒船来航(2)初日のやり取りは、緊迫したものとなりましたが、どちらからもドンパチの応酬はありませんでした。場所は三浦半島の浦賀です。長崎ではないことに注目してください。長崎を遠く離れた浦賀に、何故オランダ語の通詞がいたのでしょうか。この点を考えると、庶民はともかく、幕府の上層部にとって、浦賀に西洋の船がやってくるかもしれないことは、半ばありうるかもしれない事として、認識されていたことを示します。沿岸警備隊の小船が、ペリーの艦隊を取り囲む中、浦賀奉行所の1艘の小船が2人の役人を乗せて、艦隊に近付きました。与力の中島三郎助とオランダ語通詞の堀達之助でした。堀は巨大な黒船に向かって、大声で呼びかけました。I can speak Dutch 「私はオランダ語が話せる」と。何と、彼は英語でこう言ったのです。これなら、甲板上の水夫達も誤解することはありません。発砲の応酬は、避けられて当然でした。すぐに艦内に連絡が行き、ペリーの副官コンティとオランダ語の通訳ポートマンが現れ、話し合いが始まりました。国交のない日米の初対面でした。しかし、アメリカ側は勿論、徳川幕府もまた、アメリカの情報を集め、分析して、それなりに来航に備えていたのです。日本史の常識とされてきた、無能な徳川幕府が、屈辱的な不平等条約を押し付けられたとする説は、実を言うと幕府を打倒して政権を獲得した明治政府が、自らの行動を正当化するために流したものです。幕府の無能無策振りを、国民に浸透するためでした。では真相はどうだったのか。数回に分けて記していきたいと思います。 続く
2011.06.11
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クロニクル 南ヴェトナムで抗議の焼身自殺1963(昭和48)年6月11日48年前ですから、東京オリンピックの前年ですね。48年前の今日、衝撃的な写真が世界を巡りました。そうです。敬虔な仏教徒の多い南ヴェトナムで、多くの仏教徒の尊敬を集めていた老齢の高僧、クワン・ドゥック師が、政府の仏教徒弾圧に抗議して焼身自殺を遂げたのです。抗議の焼身自殺は、事前にマスコミ等に報じられており、官憲の妨害を避ける意味もあって、仏教寺院の僧侶から一般の市民まで、6千人を越える人々が、老僧のクワン・ドゥック師を守って、大きな円を描いて、ドゥック師と共に念仏を唱えながら、焼身自殺の1部始終を見守りました。それは異様な光景でした。ドゥック師は袈裟姿で、静かに路上に座ると、手ずからガソリンをかぶって、火をつけ、正座のまま、手を合わせて、祈りを捧げながら、自ら命を断ちました。このニュースは外国通信社や特派員の手によって、ただちに世界各地に打電され、日本の夕刊各紙には、手を合わせた姿のまま、黒焦げになって横たわった老師と、涙ながらに見送る群衆の写真が、掲載されました。それは、何よりも、1954年のフランスとヴェトナムとのジュネーヴ協定の約束を無視して、一方的に居座りを策した南ヴェトナムのゴ・ジン・ジェム政府と、ジェム政府を支える米国政府にとって、大きな打撃となった出来事でした。48年前のこの日は、南ヴェトナムには米国の傀儡政府があり、その政府がとんでもない圧政と国民弾圧を行なっている事実が、広く世界中に知れ渡った1日となったのです。
2011.06.11
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黒船来航(1)昨日記した、ペリー艦隊持参の国書問題、もう少し記したいと思います。艦隊が三浦半島にやってきたのは、1853(嘉永6)年6月3日のことでした。この日の江戸や三浦半島は、前夜からの土砂降りの雨が上がったものの、なお黒雲がたれこめ、蒸し暑く視界の悪い日だったと記録されています。この日浦賀水道に黒船が姿を現したのは、午後5時頃と記録されています。最も伊豆沖に現れた正午過ぎには、騒ぎになっていたようです。一般に4艘の黒船と言われますが、やってきたのはアメリカの東インド艦隊所属の蒸気船2艘と帆船2艘。2艘の蒸気船も燃料節約のため、風があれば帆を張るのですが、この日は帆を全て丸めて黒煙をあげて蒸気力のみで航行、2艘の帆船は帆を張って後を追っていたと記されています。日本人と徳川幕府を脅す積りだったのでしょうね。黒船現るの報が浦賀奉行所に届くと,直ちに厳戒体制が取られ、沿岸警備の川越・彦根・会津・忍の4藩は御用船に漁船を動員して、4艘の艦隊を取り巻きました。やがて奉行所の役人がオランダ語の通詞と共に旗艦のサスケハナ号に乗り込み、長崎への回航を求めますが、拒絶されます(米側の対応はペリーの副官コンティ大尉でした)。大尉は将軍に宛てた当時の大統領フィルモアの親書の受け取りと上奏を迫り、受け取らなければ砲撃も辞さずと脅迫まがいの言動に及びましたが、今度は奉行所の代表が権限外と拒否、緊迫した初日の交渉は物別れに終りました。 続く
2011.06.10
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クロニクル ハガチー事件1960(昭和35)年6月10日60年安保の話ですから、51年前のことになります。ハガチー氏は、時のアメリカ大統領アイゼンハワー(愛称アイク)の新聞係秘書でした。そのハガチー氏が、アイゼンハワー大統領の訪日を控えて、露払い役として、この日来日したのです。 我々、60年安保世代には有名な話です。安倍元総理の母方の祖父に当る岸信介首相は、サンフランシスコ講和条約と同時に締結された日米安全保障条約が、米軍と米国が一方的に日本防衛の任を負う内容だった事を改め、極東の範囲内に おいて、駐留米軍が攻撃された場合、日本の自衛隊が米軍と共に、共同で防衛の任に当るという双務的内容に書き換えた安保条約改定案を米国と結んだのです。これが新安保条約、60年安保です。この改訂に対し、国内では日本が戦争に巻き込まれる危険性が強まるとか、極東(far East)とは一体どこまでなのかが曖昧なままでは困る。範囲を限定せずにいては、なし崩しに範囲が拡大し、東南アジアにまで広がってしまうことも考えられるなどと、強い反対論が唱えられました。衆議院での白熱した議論の模様は、当時普及期に入っていた白黒テレビや新聞、雑誌で連日のように報道されていました。国会も今と違って、勉強家の議員たちがしっかりと新安保条約を勉強して、その問題点を次々に追及したのです。実に面白い国会中継でした。そうした衆議院での論戦が続く中、通常国会の会期も迫ってきます。今と違って強行採決などタブーの時代だったのですが、自民・社会両党の激突(公明党も民社党もなく、2党以外には共産党が僅かな議席を持つだけでした。)の中で、自民党は5月19日未明、遂に新安保条約の強行採決に踏み切ったのです。これが中立系の人々をも反対運動の環に押しやりました。民主主義とりわけ議会制民主主義は、議論を尽すことで、少数意見をも尊重するものだと考えた大勢の国民が、この日以降、安保反対の陣営に積極的に参加したのです。強行採決に民主主義の危機を感じとったのです。こうした国民の政治的感度も、今とは違って鋭いですね。こうして「安保反対」に「民主主義を守れ」のスローガンが加わったのです。 国鉄労働者の時限スト(朝9時までとか、正午までが多かったように記憶します。多少不確かですが)には、出勤に遅れる会社員たちから、「頑張れよ」の声が数多く寄せられたのもこの頃です。米国大統領のアイクは、新安保条約の調印後、この新安保の成立を待って、歴代米国大統領として初めての、そして15年前まで、激しく戦った国の大統領としても初めての訪日を実現して、2期8年の任期を間もなく終えるに当っての花道にしようと考えていたようです。ところが日本側の様子がおかしい。大使館情報では、大統領訪日を歓迎する雰囲気など日本側には無いという。下手に訪日して傷を負う愚は避けたい。こうした思いが19日に予定されていたアイク訪日をおよそ10日後に控えた時点での、ハガチー新聞係秘書のお忍びでの訪日となったのです。日本の実情視察が、彼の使命でした。しかし、この情報が事前に漏れ、羽田空港周辺は、ハガチー帰れのシュプレヒコールに埋め尽くされ、空港周辺の道路はデモ隊で埋まり、通行困難の状況になっていたのです。 午後3時過ぎ、都心に向かおうと羽田空港を出発したハガチー氏を乗せた車は、一歩空港外に出た途端に、立往生してしまい、全く身動きできなくなってしまったのです。身の危険を感じたハガチーは、空港に引き返し、米軍立川基地に救援ヘリの来援を要請、ヘリで立川基地に降り立ち、そこに一泊することになったのです。翌日に延期された日本政府要人との会談は、結局実現できないまま、彼は翌11日、米軍機で帰国する破目になりました。その翌日、岸内閣は「警備に万全を期す自信が持てないから…」として、アイク訪日を日本側から辞退することになりました。米国大統領に恥をかかせるわけにはいかない以上、やむをえなかったのでしょうが、岸首相はさぞ、悔しかったでしょうね。でも、当時の日本人の多くにとって、ハガチーが実質的に日本の土を踏んだと言えない状態で、ホウホウのテイで逃げ帰らざるを得なかったことに、してやったりと快哉を叫んだのでした。高校3年生だった私もその中の1人でした。
2011.06.10
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