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チュニジアからエジプトへ (84)スーザン・リンダワーの叙述は続きます。リビアで、高等教育の奨学金利用者数を見ると、男性よりも女性の方が多いことに気付きます。女性のプロフェッショナルは、社会のいたるところに進出しています。科学者、大学教員、弁護士、医師、政府職員などにも、多くのリビア女性が進出しています。カダフィの政府は、一貫して女性が自らの生き方を、自由に選択できるような政策を進めてきたのです。リビア国軍にも、多数の女性兵士が採用されています。こうしたことから、反カダフィ派は、カダフィのことを、「異教徒」とか「不信心者」と呼び、自分達は「リビアにイスラム法典の権威を復活させるのだ」と、主張しています。米軍とNATOは、こうしたりビアの実情に「知らぬ振り」を貫いて、反カダフィ派を支援しているのです。スーザン・リンダワーは、以上のような主張しています。カダフィは辣腕の独裁的政治家でした。それは間違いないでしょうが、彼の国内政策については、我々は何も知らずにいたようです。無知とは恐ろしいですね。我々は無知であるがゆえに、米政府が仕掛けた次のようなカダフィ派への、露骨な誹謗中傷を、危うく信じさせられるところでした。日本の新聞にも載りましたので。御記憶の方もあろうかと存じます。オバマ政権の国連大使であるスーザン・ライスは、「カダフィは、軍の兵士たちにバイアグラを与えて、反カダフィの女性市民をレイプさせている」と、記者会見で自信ありげに語りました。自分の話した内容が、真っ赤な嘘であることを知りながら…。リビア正規軍には、女性兵士も多いことを、ライス大使はCIAを通じて知りうる立場にありました。彼女は事実を知っていながら、リビアの実情には目を瞑り、大きなウソを付く事でNATOと米軍によるリビア攻撃を、正当化する役割を担ったのです。 続く
2011.08.31
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クロニクル 「北朝鮮」ミサイル発射1998(平成10)年8月31日この日、「北朝鮮」は弾道ミサイル「テポドン」を発射しました。日本政府、とりわけ自衛隊の防空レーダー網は、このミサイルの航跡を捕らえることが出来ず、どこに着弾したかを特定できませんでした。日本海のどこかに着弾したものと、日本海上を捜索していたのですが、韓国政府並びに米軍から、着弾は日本列島を飛び越えた三陸沖であることが発表され、遅れてその事実を追認したのです。見事な醜態でした。「北朝鮮」は、人口衛星の打ち上げだと発表しましたが、「北朝鮮」に日本本土を攻撃する能力があることがわかったと、政府・自衛隊は大騒ぎをし、ミサイル防衛網の整備を金科玉条とする、防衛予算の拡大に成功しました。本来ミサイルは命中精度が問題であり、どこに着地するか分からない程度の、精度の悪いミサイルの脅威など、決して高くはないのですが、国民にはその旨は知らされませんでした。最後に、ミサイルは何故日本方面に発射されたのでしょうか。これは日本敵視とは無関係で、地球の自転の方向と関係しています。ミサイルを少しでも遠くに飛ばすには、地球の自転と反対方向に飛ばすに限ります。北朝鮮政府と軍部は、まさに地球の自転の逆方向へ、つまり日本の方向へ、ミサイルを発射したというのが、事の真相でした。
2011.08.31
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チュニジアからエジプトへ (83)アラブ世界では、女性に離婚して、結婚を解消する権利はありません。女性の離婚請求権は、法的に認められていないのです。他方で夫たる男性の方は、2人の証人の前で、妻と離婚する旨を、3度宣言すれば、離婚が成立したとみなされるのです。ところがカダフィ体制下のリビアでは、女性は自らの意志で、離婚を請求することが出来るのです。米国と同じように、リビアの女性は、離婚届けの提出権を持っていたのです。リビア女性は、自分自身の財産をもって結婚することが出来、離婚となると、夫は妻の財産をそっくりそのまま返さなければならず、一切手を触れてはならないことになっていました。この点は、保守的な立場の人々が、カダフィ政権を批判してやまない点でした。女性はまた、結婚の自由を入手した結果、しばしば結婚の時期を遅らせる道を選びました。そのことは、子どもを産む年齢が、高くなることを意味します。その間女性たちは、より高い教育を受け、就職する道を選んだりすることが出来たのです。 続く
2011.08.30
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クロニクル 三菱重工ビル爆破事件1974(昭和49)年8月30日この日、午後0時50分頃、東京丸の内の三菱重工ビル正面玄関前で、時限装置付きの爆弾が爆発、死者8名、重軽傷者380名という大惨事が起きました。昼休みの終りに近く、そろそろ勤務先に戻ろうかという男女でにぎわうオフィス街に、突然大音響が轟き、爆風がビルの谷間を吹きぬけました。10階建ての三菱重工ビルをはじめ、付近のビルの窓ガラスおよそ2500枚が、こなごなになって飛び散り、ガラスの破片で多くの通行人が巻き添えとなって負傷しました。三菱重工には、爆発の約10分前、0時40分頃に爆破予告電話があり、同社が防衛庁納入実績でNO,1の防衛産業であることが、爆破の狙いであることが伝えられていました。しかし、僅か10分では対応のしようがありませんでした。1ヶ月後、「東アジア反日武装戦線 狼」と名乗るグループから犯行声明が出され、その後も同じグループに属する「さそり」…といったグループによって、三井物産ビル、大成建設ビルなどで爆破事件が相次ぎ、都心部の会社員達は、しばらくの間、命がけの心境での通勤を強いらました。連合赤軍の浅間山荘事件と、その語の展開によって、すっかり落ち目となった過激派グループ残党による、最後の抵抗とも言える事件でした。一般市民を標的にするようになっては、まさに断末魔でした。許される行為ではありませんね。
2011.08.30
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民主党代表選あれこれ民主党の代表選に関する報道と結果を見ての感想を記します。結果については、5人の候補のなかで、最も原発推進のバイアスが強かった海江田候補が、予想通りではありましたが、当選できなかったことで、まぁ、最悪は防げたかなと見ています。今日書きたいのは、この件ではなく、マスコミ特に新聞記者の報道の外れ振りです。この点を、2つの報道から考えて見ます。まず第1は、小沢神話の過大評価です。彼の神通力は、菅代表が勝利した昨年の代表選での敗北によって、昔日の影響力を失っていることは、誰の眼にも明らかでした。そんな小沢神話を大々的に報じたのが、3大紙などの新聞でした。海江田候補を担ぐにいたった時点で、彼の神通力の衰えは、はっきりしていました。海江田候補は勝てる候補ではなく、小沢の決断以前では、立候補に必要な20人の推薦人を集められるかどうかも危ぶまれていた泡沫候補だったからです。何故、そんな候補を担ぐことになったのか? 人材不足の民主党でも、よりマシな候補は、何人もいます。そうした人たちに次々に立候補を断られ、その結果として、海江田候補を担ぐことになったのです。狂喜した海江田候補は、小沢元代表にひたすらすりよりました。曰く3党合意の見直しや。自説をまげてTPP参加を見合わせるとまで発言しました。これでは支持が広がるはずがありません。TPP参加は、海江田氏の基本理念に合致する政治課題でした。それを、すんなり捨て去ってまで小沢氏にすり寄る、そんな姿勢が忌避されるのは、まさに自明でした。新聞報道の第2は、遅れて立候補を表明した前原候補の件です。「いよいよ本命の登場」とはやし立てましたが、結果は無惨でした。発言のぶれる、そして目立ち屋で発言の軽い前原候補支援の輪hは、予想以上に拡がりを欠きました。第1回の海江田候補の得票は140余票。2回目は170余票。小沢グループと鳩山グループ以外に拡がりを欠いた海江田氏に、決選投票での票の上澄みは、僅かしか期待できない以上、この結果は、おそらく読み筋だったでしょう。小沢氏は、今回も負け戦を仕掛けるしかなかったのでしょう。民主党の鳩・菅・小の時代は、どうやら終わりを告げたようですね。
2011.08.29
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チュニジアからエジプトへ (82)1日開きましたが、スーザン・リンダワーの著書の紹介を続けます。女性の結婚の問題です。アフガニスタンの首都カブールでの話です。カブールですから米国とNATOの駐留軍が常駐し、その本部も存在しています。そんなカブール市内で、若い女性が、父親が選んだ男性との結婚を承諾しなかったら。どうなると思いますか?彼女は、前言を翻して結婚をOKするまで、牢獄に閉じ込められるのです。そこへは父親が選んだ男の母親(将来の姑候補ですね)が、毎日のように訪ねてきて、「息子の何が気に入らないのか」などなど、やいのやいのと彼女を攻め立てるのです。凄いですね。ここまでは行かなくても、ほとんどのアラブ世界で、サウジやイエメン、イラクからシリアなどでも、父親や兄が、娘や妹をいつ嫁に出すかを決めるのです。思春期のうちに大抵の娘が嫁に出されます。彼女たちには、一生で最も大事なことを決めるというのに、何の選択権も与えられないのです。ところが、リビアだけは違うのです。カダフィは、政権発足当時に女性の強制結婚を禁じる命令を出したのです。そのため、リビアの女性たちは、夫を選ぶ権利を持っていたのです。リビアでは、男たちは女性に結婚を強いることは、出来ないのです。では、離婚はどうでしょうか。 続く
2011.08.29
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クロニクル 宝塚歌劇団ヴェルばらを初演1974(昭和49)年8月29日37年前になるのですね。この日、兵庫県宝塚市の本拠地で、宝塚歌劇団月組が、池田理代子氏の長編人気漫画『ヴェルサイユのばら』を初演しました。夏休みも終了間近でしたが、特に女子中高生に人気の高い池田漫画の代表作のタカラズカ公演とあって、大入り満員が続き、それが人気が人気を呼ぶ形となって、同歌劇団創設以来の大ヒットとなりました。『ヴェルサイユのばら』は、私が2007年7月~本ブログで連載した、フランス革命に題材を求め、男装の麗人オスカルと、彼女を助ける貴公子アンドレを中心とする恋と冒険の物語であると要約すると、要約のし過ぎでしょうか? ともかく大スペクタルとアバンチュールに満ちた物語で、確かに宝塚公演に向いた仕立てになっていました。こうしてヴェルばら公演は宝塚歌劇団のドル箱となり、何度となく繰り返し公演が行なわれながら、今日にいたっています。このブログを訪問してくださる皆様の中にも、ヴェルばらファンは、大勢いらっしゃるような気がします。
2011.08.29
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クロニクル 日本テレビ本放送を開始1953(昭和28)年8月28日58年前のこの日、日本テレビが先陣をきって、民放初のテレビ本放送を開始しました。放送時間は1日6時間でしたが、スタジオや現場からのナマ放送中心でしたから、スタッフの苦労も大変だったようです。コマーシャルもまた現在のようにあか抜けたものではなく、何となくたどたどしいものでした。土・日はナイターではなく、デーゲームで行なわれていましたので、後楽園球場で行われるプロ野球の巨人戦や、力道山のプロレスがドル箱でした。しかし、当時一般家庭には高額商品であるテレビを買う資力などなく(この点は、人気になった「三丁目の夕日」をご覧になると、当時の雰囲気がわかります)、実況中継中は、テレビのある床屋さんなどが、満員の盛況になるのが常でした。
2011.08.28
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チュニジアからエジプトへ (81)昨日紹介したコメントに絡んで、スーザン・リンダワーが今年7月に上梓した著書”NATO'sWar for the Abaya ”に出会いました。タイトルにある「アバヤ」は、イスラム圏の女性たちが身に纏う伝統的な民族衣装のことです。全身を黒などの単純な布で覆うスタイルを指します。ですから、このタイトルは「NATOが、リビアの女性の自由を奪おうとしている勢力に、荷担している事実を、詳細に紹介しています。その中に、昨日のコメントを補強するような記述が並んでいましたので、紹介します。著書のなかでリンダワーさんは、アバヤの持つ象徴的意味をこう語ります。「リビアの女性たちにとって、アバヤは婦人としての徳や淑やかさのシンボルではありません。アバヤの着用は、彼女たちの結婚と離婚の権利、教育や就職のために出産を遅らせる権利といった、女性の独立性の維持に関わる全ての要素に、有害な影響を与えるでしょう。アバヤの着用は、全面的に保守的原理を再導入するための、きっかけとなるでしょう。」「アバヤの廃止は、イスラム近代化の歩みのなかで、大きな意味を持っていました。それは、女性の権利を擁護する広範な改革政策の一部でした。そしてリビアの改革は、アラブ世界全体のなかで、最も進歩的な改革でした。リビア女性の地位の変化は、とても大きかったので、イランのアヤトラ、有名なホメイニ師は、カダフィ政府はイスラムの伝統を冒涜していると、非難したほどだったのです。」「いくつか例を上げましょう。リビアの女性は、買い物に出るとか、友達の家を訪ねるとか、市内を自由に動き回ることが、自由に出来ます。しかし、こうした行動の自由は、アラブ世界のほとんどの国で、認められていません。」「パキスタンでは、成人女性が買い物に行くには、どんな場合も男性のエスコートが必要なのです。最近は、幼い男児でも良いことになったのですが、それでも女性の外出には、男性との同伴が義務付けられています。」「サウジアラビアやクウェートでは、さらに深刻です。父親、夫、兄弟らが働きに出ている間は、ともかく女性は家から出てはいけないのです。まさに籠の鳥よろしく、家の中に閉じ込められているのです。」「リビアでは、こんなことは許されません。カダフィ政権が、女性の行動の自由を制限することを、法的に禁止したからです。多くのアラブの国々では、女性が車を運転する権利を認めていません。リビアでは女性が運転免許を取得し、自由に車を運転することが出来るのです。」 続く
2011.08.27
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クロニクル 東海村に原子の火1957(昭和32)年8月27日54年前のことです。この日午前5時23分、茨城県東海村の日本原子力研究所で、実験用1号原子炉が臨界に達し、日本で始めての原子の火が灯りました。実験炉は燃料に硫酸ウラニウム水溶液を使う湯沸型原子炉で熱出力は50kwでした。この日臨界に達した実験は、前日の午前9時から始められ、日米の技術者が見守る中で、午前11時20分に最初の燃料注入が行なわれました。それから数度、最後の燃料注入は臨界に達する50数分前の、この日の午前4時30分でした。4時56分頃から、制御棒の抜き取りが始まり、最後の制御棒を抜きとっている最中に臨界に達したと記録されています。この実験の成功で、日本はインドに続いて、アジアで2番目の原子力発電装置の保有国になっりました。被爆国の日本がなぜという声もありましたが、正力松太郎や当時若手の中曽根康弘らが、熱心にその必要性を説き、実用化に向けて動き出したのです。フクシマの挫折にいたる第一歩が、ここに記されなした。なお熱出力50kwは、世界の実験用原子炉の中で最小のものでした。
2011.08.27
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チュニジアからエジプトへ (80)8月3日のニューヨークタイムズに、David KIRKPATRICK記者による、カダフィジュニアに対するインタビュー記事が載りました。この記事に寄せられたコメントは、100を超えていましたが、中に次のようなコメントがありました。「1969年のカダフィ革命の核の1つは、女性の地位向上にありました。北アフリカと中東の全域は、男性中心の価値と伝統に深く根ざしていたのですが、カダフィの政府は、この伝統を根底から覆しました。」「例えば、イスラム法は男性に4人まで妻を娶ることを許していますが、リビアでは複数の妻を娶ることに、かなり高い所得制限を設けて、条件を厳しくしていました。実際リビアでは、女性は選挙で投票する権利を持ち、法的に財産を保有し、自動車を運転して行きたい所に行く自由があり、銀行から借金する主体になれ。遺産を相続することも可能でした。」「それでもなお、リビアの女性も一定の制約を受けていましたが、他のイスラム諸国に比べると、格段に恵まれていました。反カダフィ勢力は、カダフィ政権が認めた女性の権利に対して、根強い反感を持ち、その権利の剥奪に強い決意を表明していました。我が政府(アメリカ政府を指す)が、我々の税金を使って、こうした連中を支援するなどあってはならないことです。」「もしリビアで、明日選挙があったとすると、少なくとも女性票では、カダフィ陣営が圧倒的多数を獲得することは、間違いないでしょう。アメリカは、リビアからそしてアフリカから立ち退き、浮いた費用は、アメリカ国内の人たちの必要を満たすために使うべきだ。」日本では、リビアの情報は極端に少なく、この記事に目を留めるまで、私もカダフィ政権の内情には無知でした。そのため、カダフィ政権についても、間違った認識を持ち、それをそのまま発信していたことを、皆さんにお詫び致します。このコメントの主は、おそらくアメリカに居住する、教養ある黒人女性であろうと私は推測していますが、こうした背景があるとすれば、反カダフィ派の勝利に浮かれる人たちのほとんどが男性で、女性が極端に少ない事実も、納得できます。カダフィ政権の女性の権利の擁護について、もうしばらく続けたいと思います。 続く
2011.08.26
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クロニクル シャウプ勧告出る1949(昭和24)年8月26日62年前のことです。この日、来日中のシャウプ博士を中心とする使節団が、日本の税制改革に関する勧告文をまとめ、その概要をGHQに提出しました。勧告の全文は、9月15日に公表されましたが、日本語で10万字に及ぶ長文でした。それまでの日本の税制は地租を中心にしたものでしたが、これを所得把握を徹底した上で、個人及び法人の所得税を中心とした税制に改めること、不動産税(固定資産税として実現)や住民税といった地方に固有の税源を配備することの2点が勧告の中心でした。その後、1989年に大型間接税としての消費税が導入され、特に富裕層の所得税と法人(所得)税が軽減されましたが、今日なおシャウプ勧告のかなりの部分は、日本の税制の根幹を占めています。その第1は、会社員の所得の源泉徴収制度の徹底です。税務当局が企業等から直接社員等への人件費の総額と支払い調書を受け取り、所得税の徴収を代行させる世界に冠たるシステムです。そして第2が、地方格差を埋めるための地方交付税交付金の制度です。都会に住もうが、地方に住もうが、同じ日本人として最低限の行政サーヴィスは平等に受けられるようにしよう。住む地域によって,受けられる行政サーヴィスの質が大きく違うことがあってはならない。これがシャウプ勧告の精神でした。そしてこの点は、当時ようやく根付きはじめていた民主主義的な平等意識によって、多くの国民に受け入れられたのでした。当時も今も、米国の地方税の中心は市町村が徴収するレイト(不動産税、日本の固定資産税にあたる)です。地方交付税はありません。そのため行政サーヴィスの質は、住んでいる地域のレイト収入の差によって大きく違ってきます。義務教育経費もレイトによって賄われるのは、日本でも公立の小・中学校が市町村立であることを思い出すと、理解しやすいと思います。そのため、アメリカでは、きれいな街並みを維持し、お洒落な校舎で少人数学級制を採り入れるに十分な教員を配備した学校と、スラム化した街並みに、薄汚れた校舎での多人数学級の学校とが併存しています。シャウプらは、母国アメリカで実現できない,自分たちの理想を日本で実現しようと考えたのでしょう。この試みはあたりました。日本の教育における全国レヴェルでの一定の標準化は、ある程度実現したからです。しかし、小泉・安倍ラインによる構造改革路線の産む矛盾として、財政破綻した夕張市(箱物を大量に作った夕張市当局と市議会と監督する北海道庁に99%の責任がありますが)は、財政破綻都市として、市内の小・中学校を各1校に縮小する案を立てています。これは、国民にとっての最小限の行政サーヴィス、シビルミニマムの無視ですから、シャウプ勧告の生み出した日本型システムの長所を捨て去り、問題の多過ぎるアメリカ的システムへの安易過ぎる追随として、批判されてしかるべきであると、私は考えています。
2011.08.26
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明治政府の功績と日本資本主義の特徴(22)日本資本主義は、地租の重さに喘ぐ貧農の家族を労働力とすることで発達しました。家族ぐるみの工場労働者は。家族を養う責任意識から、次第に労働者としてのプロ意識を持ち、家族を養える賃金を求めて、労働運動にも関心を持つようになります。しかし、日本の労働力のなかでは、こうしたプロ意識に目覚め、労働運動に身を投じる労働者は少数でした。労働者の多くは、農村の貧しい実家に片足を残している、出稼ぎ型の労働者だったのです。工場で働いている自分は、本当の自分ではない。そうした意識が、資本家に好都合に働いたのです。しかし、この事実は好都合なばかりではなかったのです。資本主義は市場経済です。資本主義が成長すればするほど、市場に出回る商品は多くなります。沢山の商品を売り切ることが出来るのは、商品の人気と共に、広い市場が存在するからです。しかし、日本では人口の圧倒的多数を占める貧農達が、大変厳しく、かつ貧しい生活を続けていました。農民達の多くは、工業製品を買いたくても、買える資力など持ち合わせていなかったのです。欧米列強による植民地化を防ぐために、殖産興業政策を推進し、工業化に全力をあげている日本は、必死の努力で、資本主義の発達を図ってきました。明治20年代、その甲斐あって工場制度は拡がりを見せるようになったのです。政府関係者はホットしたでしょうね。その気持ちは痛いほどわかります。しかし、好事魔多しです。そうなんです。大量生産が実現した途端に、狭い国内市場では捌ききれなくなったのです。そうなんです。日本は、早熟的な過剰生産恐慌に陥ったのです。この状態を改善するには、低賃金労働者の賃金を上げ、国内市場を広げるか、海外に市場を獲得するかの、どちらかしかありません。僅かな輸出は安価な労働力のおかげですから、労働賃金が上がっては困るのです。それゆえ、とりうる手段は、海外市場の確保。即ち植民地の獲得しかなかったのです。10年に1回の戦争の秘密はここにありました。 続く
2011.08.25
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チュニジアからエジプトへ (79)リビアのカダフィ政権の崩壊を伝えるテレビの画面には、「カダフィを倒した」「自由を取り返した」と小踊りしている若者や兵士の姿が、大写しとなって出てきます。新品らしい自動小銃を手にしながら… しかし、エジプトやチュニジアのケースに比べると、そこには驚くほど女性の姿が少ないのも見て取れます。カダフィは確かに独裁者でした。しかし彼は、フィリピンのマルコス一族やインドネシアのスハルト一族のような、欲の塊ではなかったようです。石油産業だけではなく、治水事業や通信事業も国営にして、各地の部族長や私企業が入り込み、利権漁りをすることを、許さなかったのです。ですから世界銀行の融資をエサにして、欧米企業が入り込む隙が、リビアにはなかったのです。リーマンショックからの回復が思わしくなく、遂にユーロの危機にまで拡大した世界恐慌の現実の前で、豊かなリビアの利権を入手することは、欧米企業にとって、垂涎の的だったのです。確かにカダフィも蓄財に励んだでしょう。しかしその一方で彼は、社会インフラの整備、教育、医療。生活保障などに、惜しげもなく国家収入をつぎ込んできました。ところがカダフィ後に登場する新政府は、まず国民大衆のためではなく、私腹を肥やすことに熱中するでしょう。ブッシュによるタリバーン打倒後のカルザイ政権がまさにそうでした。それこそ、欧米の政府や企業にとって好都合な状態です。リビアの富の大部分を、彼らが握ることが出来るからです。リビア民衆のための社会政策経費は、大幅に削減されるでしょう。今は「自由だ自由だ」と叫んでいる若者達は、本当の自由を得るために守るべきものが何なのか、やがて思い知ることにならずに済むと良いのですが、どうでしょう。彼らの前に待ち構えているのは、「空腹からの自由」「失業からの自由」「医療費の心配からの自由」「教育費からの自由」などの生存権や社会権に関わる自由を失い、生活の足しにはならない「言論の自由」だけが、それも不十分に与えられるだけの、エセ「民主主義社会」で。今リビアの民衆にとって大事なのは、カダフィ政権の負の側面である独裁者を除いて、そのプラスの側面である、住民の福祉そして女性の権利を、さらに充実していく新政府を構築することです。果たしてそれは可能なのでしょうか。 続く
2011.08.25
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クロニクル ソ連共産党解散1991(平成3)年8月25日早いもので、今年で20年になるのですね。この日、長期にわたって、一党独裁体制を誇ってきたソ連共産党が解散しました。8月19日にゴルバチョフ書記長を軟禁してクーデタを起こした保守派が、内紛から自滅し、エリツィンロシア共和国大統領の支持派が力をつける中で、共産党は自ら解散する道を選んだのです。この日の共産党の解散に続き、ソ連邦自身もこの年12月26日に消滅するに至ります。ソ連最高会議自身が、自らの決定としてソ連邦の消滅を宣言したのです。5日後の31日、旧ソ連邦の多くは、独立国家共同体(CIS)に結集して活動をはじめました。
2011.08.25
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明治政府の功績と日本資本主義の特徴(21)不況期に、工場や鉱山での人員縮小のターゲットになるのは、農村出身者である貧農の次男や三男でした。彼らは女工たちと違って、やがて農村に戻るわけではなかったのですが、困り果てた場合は、実家に戻ることがあったのです。工場側は、そのことを知っていたいました。だからこそ人員整理においては、農村出身者がまず狙い撃ちにあったのです。そして明治時代にあっては、彼らは従順に首切りに応じたのです。やむを得ず、彼らは実家に戻り、両親や兄の下に居候することになります。父や兄はどうするのか。息子を、或いは弟を家から追い出した負い目、内心の忸怩たる思いを彼らも負っています。ですから、景気が戻り再び仕事が見つかるようになるまで、居候させてやることになります。勿論帰ってきた弟たちも、農作業に荷担したり、村の仕事(道普請など)に加わったりと、決してただ飯を食べていたわけではないのですが…。このように、農家の次・三男も、出稼ぎ人的心情を持ち続けていたのです。こうした農村出身の労働力を大量に動員することで、日本資本主義は、低賃金の労働力を確保し続けることが出来たのです。しかし、その結果として生じた、重大な欠陥も指摘しなければなりあせん。それは国内市場が極めて狭いという欠陥でした。 ザビ
2011.08.24
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チュニジアからエジプトへ (78)リビア情勢の続きです。もはや反政府勢力とは書けない情勢になっていますので、反カダフィ派と書きますが、このグループは寄り合い世帯です。しかも、全ての反カダフィ派の寄り合い世帯ですから、保守反動派から原理主義者までを含んでいます。カダフィという共通の敵が倒れるなら、当然彼らの同床異夢は終ります。アフガンやイラクがそうだったような内戦の事態がやってくることは、無理な想像とは言えないように思います。米国の元国連大使だったネグロポンティが、「カダフィが倒れた後にこそ、本当に大変な仕事が始まる」と語っていますが、これは、上に記した事態を、米国や欧州が十分に承知していることを示しています。米国や欧州にとっては、リビアに誕生する新政権から、彼らにとって好ましからざるイスラム原理主義の勢力を、如何に排除するか。原理主義者を排除した後に、欧米にとって最も好ましい傀儡政権をどのように組織するのか、関心はその点に移っているように思えます。米欧勢力にとって都合の良い勢力は、カダフィ政権の下で、利権にありつけずにいた部族長クラスの地域的有力者です。彼らを利権で釣って甘い汁を吸わせ、原油その他の採掘・開発利権の一切を握ることこそが、経済的に弱り目に祟り目状態にある欧米にとっての狙いです。果たしてうまく行くでしょうか。ところでこのところリビア関係を少し調べてみたのですが、カダフィ政権の評価を、改める必要のあることに気付きました。明日から数日、その点について、記させてもらいます。 彼は、独裁者ではあっても、決して傲岸不遜な独裁者ではなかったようです。 続く
2011.08.24
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クロニクル 参院全国区比例代表制に1982(昭和57)年8月24日29年前のこの日、公職選挙法が改正公布され、参議院全国区に拘束名簿式比例代表制が導入されることが、正式に決まりました。なお、当選者の決定はドント式となることも、同時に決まりました。この選挙方式は、各政党や政治団体が、あらかじめ候補者の順位を示した名簿を提出しておき、選挙民は候補者名ではなく、政党名を投票し、各党は得票数に応じて議席の配分を受け、名簿順位の上位の候補者から、順に当選となる仕組みです。ドント式という方法は、得票数が最も多かった政党に先ず1議席を割り振り、次ぎにその政党の得票を2で割り、再度最も得票数の多い政党に1議席を与え、その政党の得票を2で割っていきます。この場合、既に1議席を獲得している政党の場合は、総得票数を今度は2ではなく、3で割ります。その次は4で割るという形になります。 具体的には10人が当選する選挙とした時に A党が300票、B党が250票、C党が160票、D党が90票を獲得したとします。先ずA党が1議席を得、次ぎのA党の票は150票となります。すると次ぎに最も多いのは、B党の250票ですから、B党が1議席を得、125票となります。従って次にはC党が1議席を得て80票となります。こうして、4人目の当選は150票のA党となり、票は今度は300を3で割りますから100となります。これを繰り返すのです。5人目は125票のB党、6人目は100票のA党、90票のD党、83票のB党、80票のC党、75票のA党までの10人がこうして決まります。A党4議席、B党3議席、C党2議席、D党1議席となりました。 この方式での初の参院選は翌83年6月26日に行なわれましたが、92年の参院選からは、非拘束名簿式に改められ、比例選ですが、候補者名を書くことも可能な方式に改められました。なんともややこしいですね。
2011.08.24
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明治政府の功績と日本資本主義の特徴(20)同じことが、農家の次男や三男についてもいえます。ただし彼らは、姉や妹と違って、長男である兄貴が亡くなるか、運よく貧農の家庭に婿入りしない限り、農村での根のある暮らしができるわけではありません。彼らもまた姉妹たちと同じように、食べ盛りになると家を追われるように、働きに出ます。彼らの行き先は、職人としての弟子入りか、鉱山の鉱夫といった仕事です。鉱山の仕事には、良く言われるタコ部屋もどきも、数多くありました。そんな世界でも、家に帰るわけに行かない彼らは、ひたすら耐えるしかありませんでした。弱音を吐いて、家に買えるわけには行かないことは、分かっていたからです。そんな彼らも、不況の時期には、人員整理の対象になり、家に帰る事がありました。 続く
2011.08.23
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チュニジアからエジプトへ (77)6月8日の第76回を最後に、長く休んでいたアラブのイスラム世界で、大きな変動が起きているようです。リビアでカダフィ独裁体制が、倒壊寸前となってきたようです。カダフィ政権の後継者と目されてきた、大佐の長男と次男は反カダフィ派に拘束され、大佐と支持派は、首都トリポリ市内の狭い領域に包囲されているようですから、ここから態勢を立て直して、形勢を逆転するのは、もはや無理なように見えます。欧米の反カダフィ派への武器援助、英国諜報部による、まるで秀吉まがいのような大佐周辺への調略活動、そして大佐周辺の海外口座封鎖による資金の途絶などの、複合作戦がジワリジワリと効果を発揮し、8月半ば以降、カダフィ政権の内部崩壊が急速に進んだのでしょう。情勢急転の理由は、今はこの程度しか分かりません。しかし、分かることもあります。それはカダフィ政権の崩壊は、リビア国民ににとってめでたしメデタシではなく、今後長く続くであろう苦難の始まりだということです。リビアで起きた反カダフィの動きは、チュニジアやエジプトで起きた「アラブの春」を掲げた民衆革命とは、本質的に異質のものです。それは、リビア東部のベンガジに籠もった反カダフィ派がNATOの支援を頼ったこと、その行動を旧宗主国のイタリアとイタリアに近いフランスが、熱心に支持したことからも明らかです。チュニジアやエジプトでは、親米親イスラエルの旧政権を妥当し、パレスティナを支援する政府が登場しました。リビアでは、親米、親NATOの政権が登場する可能性が高いのです。リビアの政変劇は、アラブの革命に対する欧米側の反撃という色彩が強いものです。さて、こうした欧米側の思惑は、上手くいくのでしょうか。 続く
2011.08.23
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クロニクル 日本、第一次世界大戦に参戦1914(大正3)8月23日97年前のこの日、日本はドイツに対して宣戦を布告し、東洋の果からヨーロッパの戦争に参戦、作戦行動を開始しました。といってもヨローッパの戦場に加わるのではなく、アジアにおけるドイツ拠点をたたき、その地を日本の影響下に置くことが狙いでした。日本の参戦で、ヨーロッパの戦争はアジアにも拡大、世界戦争の様相を強めました。第一次世界大戦の開戦に至る経過は、過去に何度か取り上げました。7月28日の開戦から僅か8日目には、イギリスも参戦し、ドイツ・オーストリア・トルコ対ロシア・フランス・イギリス・セルビアなどを夫々の陣営の中核とする大戦争に拡大しました。こうした中でイギリス政府は、日本に対しても、日英同盟を根拠にして、ドイツの武装商船の撃破に限定した参戦を要請してきました。8月7日のことでした。ヨーロッパ列強は、欧州の戦火の拡大で、アジアの植民地の防衛に多くを割くことが出来なくなっていたのです。日本側にとっては、アジア地域で影響力を拡大する絶好のチャンスの到来でした。そのため、日本にとって、イギリスの誘いは願ってもないチャンスだったのです。日本は、翌日元老と大臣の合同会議を開いて参戦を決定、9日には第2次大隈内閣の加藤高明外相名で、「ドイツ勢力を東アジアから一掃するため、日英同盟に基づき参戦する」旨を回答します。ところがイギリス政府は、日本のあまりに積極的な姿勢に、中国や南洋方面への勢力伸張の意図を感じとり、翌10日には日本への参戦依頼を取り消してきます。このあたりが外交交渉のかけひきなのでしょうね。加藤外相は、イギリスに再考を求め、イギリス政府も日本の参戦範囲(戦域)の限定を条件に、日本の参戦に同意します。この合意を梃子に、日本は15日に御前会議を開いて、ドイツに最後通牒を伝達します。日本及び中国近海からのドイツ艦艇の即時退去、膠州湾租借地の引渡しの2点について、23日正午までの受諾を求める内容でした。この一方的な要求をドイツが認めるはずはありませんから、これはまさに、宣戦布告のための儀式だったということが出来ます。こうして23日午後、ただちに日本の作戦行動が開始されました。
2011.08.23
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納涼祭点描20日(土)、地元の納涼祭でした。天候が危ぶまれましたが、翌日の天候がさらに悪い様子だったので、決行と決めたのですが、何とか持ちこたえてくれ、助かりました。終了を30分繰り上げたところ、それが正解で、その直後から激しい雨、役員は合羽を羽織って、テント内に諸道具を収納して、解散しました。これが午後4時ころの様子です。ちょっと周囲が明るくなりました。こちらが午後7時半頃の様子です。何とか持ってくれたのですね。そしてこちらが、昨年発足した和太鼓の会の太鼓打ちです。メンバーの子ども達も嬉しそうに叩いています。しっかり曲に合っていました。昨日は雨の中での後片付け。きれいにふき取るのに時間がかかりましたが濡れたままでは片付けられないテントの片付けは、市きり直しになりました。飾りの提灯は、町内会館のホールに干して、乾かします。そんなわけで総員60名ほどの役員による打ち上げは、まるで。赤提灯モードのなかでとなりました。皆さん雰囲気もあって、良いの周りが心持早いようでした。いかがですか。雰囲気を感じ取ってください。
2011.08.22
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クロニクル 学童疎開船対馬丸沈没1944(昭和19)年8月22日67年前のことです。この日、近い将来に米軍の上陸攻撃が予想される沖縄からの疎開者を乗せ、九州へ向った疎開船対馬丸が、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて撃沈されました。対馬丸には、九州各地の集団学童疎開先へ向う、700人の沖縄の小学生が乗船しており、この700人に及ぶ学童達と、一般の疎開者800名を合わせ、それに乗組員を加えた全員が犠牲になりました。商船でも、物資輸送船でもない、疎開船を襲撃し、700名もの学童を含む、1500名以上の命を奪った米軍の攻撃は、都市への焼夷弾攻撃による住民虐殺や広島・長崎への原爆投下に勝るとも劣らない非道な攻撃であり、人道に対する卑劣な罪であり、明かに国際法に反する行為でした。
2011.08.22
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クロニクル アキノ氏マニラ空港で暗殺1983(昭和58)年8月21日28年前のことです。この日、日本時間午後、長期に及んだ米国滞在を切り上げ、帰国の途についた、ベニグノ・アキノ元上院議員は、陸軍と警察による厳重な警備の中、フィリピンのマニラ国際空港に到着、タラップを降りて、ターミナルビルへ向けて歩き出したところを、ヒットマンに銃撃され、即死しました。先日、1973年8月8日の金大中氏拉致事件を記しましたが、金氏も朴大統領との選挙戦で健闘、次回は逆転もと言われていた時期の、日本での拉致事件でした。その金氏同様アキノ氏も、長期政権を担う独裁者、マルコス大統領との選挙戦で善戦健闘、次回は勝利もと期待された民主派の有力者でした。米国の受けも良く、それだけにマルコス大統領にとっては、眼の上のコブのような存在でした。それだけにフィリピンに留まっていては、危険が多いと各方面から説得され、長期に米国に滞在していたのですが、フィリピンに帰って国民の中で、その声を聞き、政策課題に反映させるのが政治家であると、あえて火中の栗を拾うとばかりに、強引に帰国の途についたのでした。暗殺の情景は日本でもテレビで実況中継され、夏休み中だったおかげで、私はその瞬間を生放送で見ておりました。並み居る警官や軍人の間から発砲したのですから、これは軍首脳が、マルコス大統領自身かその側近と綿密に打ち合わせて仕組んだ、権力による暗殺であることは明かでした。米国政府もそう受けとめたのか、マルコス政権に強い不快感を示したほどでした。それほどですから、フィリピン民衆のアキノ暗殺への怒りは深く、マルコス政権が実行犯を逮捕し(警察と軍人が多数警備に当たっていた中での犯行ですから、逃げられるはずがありません)、背後関係のない単独犯だったと発表しても誰も信じませんでした。8月31日にアキノ氏の葬儀が行なわれたのですが、何と100万人以上の民衆が参列する大葬儀となり、以後各地で反政府運動が地鳴りのような広がりを見せたのです。この怒りは2年6ヶ月後の1986年2月に行なわれたフィリピン大統領選で、夫の弔い合戦だからと説得されて立候補したコラソン・アキノ夫人を支援する運動の起爆剤になり、選管の不正を暴くことから始まった、フィリピン革命へと繋がりました。
2011.08.21
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クロニクル みずほFG誕生へ1999(平成11)年8月20日この日、富士銀行・第一勧業銀行、日本興業銀行の3行は、2002(平成14)年春をメドに経営を統合する旨決定したと発表しました。やがて、新社名はみずほフィナンシャルグループに決定します。当時、総資産140兆円の世界最大のメガバンクが誕生すると騒がれましたが、その後世界的な金融再編が起きたこと、日本の銀行の不良債権に対する引当て不足を、厳格に再査定させる方向へ、金融当局の姿勢が変化したことから、みずほFGの総資産世界一は、幻となりました。
2011.08.20
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明治政府の功績と日本資本主義の特徴(19)こうした女工たちの労働は、勤め(年季の場合が多い)を終えて農村に帰るまでの、いわば出稼ぎに近い性質を持っていました。労働者保護の意識のないしょきの工場制度の段階の労働条件は、英仏米などの経済先進国でも、ひどいものでした。当然、日本における女工の扱いも例外ではありません。一応12時間労働になっていましたが、サービス残業が入って15時間、16時間労働になることもありました。当然、量に戻って、煎餅布団にバタンキューです。それでも睡眠不足の日々が続きます。紡績工場で糸くずを吸い込み、湿った布団での短時間睡眠ですから、まさに結核で肺をやられるケースが多く出てきます。それでも、女工たちが団結して立ち上がり、自分達の要求を資本家側に訴えることは少なかったのです。彼女たちは、働きに出るとき、女工集めにやってくる会社の人間が、親にいくばくかの金を渡しているのを知っています。それゆえ、自分が労働に耐えることが、家族のためなのだと、必死に頑張るのです。しかも逃げ出して家に帰っても、自分の居場所のないことも承知しているのです。こうして、病を得て追い返される場合を除けば、親と会社の相談で郷里に帰るのが普通でした。それは、地主さんを返しての縁談が待っているということです。ここに、女工たちの人生が凝縮されていました。食べ盛りの時期に、口減らしと家計補助のために女工となるが、それは一時の仮の姿で、やがて彼女たちは生まれ故郷に帰り、母親と同じような貧農の嫁として、残りの人生を全うするのです。自分はやがては農村に帰る。そして母と同じ人生を送る。だから工場にいるのは仮の自分なのです。そこに人生がかかっているわけではありません。ですから、女工たちが労働条件の改善とか、賃金の引き上げを要求するというのは、メッタにないことでした。資本主義の未成熟が、貧農層に家族を上げての離農を逡巡させ、貧農が農村に滞留するからこそ、地主は強気に高額な小作料を請求できる。こうして、高率な小作料を負担しつつ、僅かな耕地を耕して生活する貧農は、娘たちを女工として送り出し続けるのです。幸い農村に帰還した娘たちは、勧められた貧農の嫁として、さらに貧農を再生産するという、資本にとって、大変好都合なシステムが、ここにあったのです。 続く
2011.08.19
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クロニクル ソ連保守派のクーデター1991(平成3)年8月19日ちょうど20年前のことです。この日、クリミア半島にある別荘で休暇を過していたゴルバチョフソ連邦大統領は、ソ連の保守派と結んだ一部軍部の襲撃にあい、同別荘に幽閉の身となりました。 1964(昭和39)年10月のフルシチョフ失脚を実現した時以来の、クーデターが発生したのです。しかし、ゴルバチョフ大統領を幽閉したものの、それ以後反乱側には大きな動きはなく、内輪揉めの状態にありました。ソ連邦の代表的な共和国である、ロシア共和国のエリツィン大統領は、モスクワの路上で、公然と軍部と保守派への抵抗を呼びかけ、多数の人民を結集して、保守派の行動に正面からの批判を浴びせ、ゴルバチョフ大統領の復権を後押ししました。ソ連邦の武力や警察力に依ってではなく、エリツィン氏の率いるロシア共和国の力によって、軍の一部と保守派が計画したクーデターは脆くも崩れ去りました。3日後の8月22日、クーデターの首謀者8人が逮捕され、クーデターはあっけなく崩壊します。このクーデターはソ連大統領ゴルバチョフとロシア共和国大統領エリツィンの力関係の逆転を、はっきりと示しました。とりわけ、ソ連共産党の内部崩壊は止めようもなく進んでいることが明かとなりました。解放されたゴルバチョフは、24日にソ連共産党書記長を辞任し、トップを失ったソ連共産党は、翌25日に解散を決定、栄光の歴史に幕を下ろしたのですソ連邦崩壊の、約4ヶ月前の出来事でした。
2011.08.19
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明治政府の功績と日本資本主義の特徴(18)日本の資本主義は、貧しい農村を労働力の供給源として、発達しました。既に記したことですが、近代日本は租税収入を地租に頼っていました。農業人口が圧倒的に多いこと、資本主義の育成には、資本になりうる資金を蓄えている層は、優遇する必要があったからです。地租の負担が重かったことも既に記しました。地租は土地所有者が負担しましたが、その分は小作料に転嫁され、その大半は小作人の負担となりました。明治10年代後半から、機械制工場が次第に普及しますが、人口の大半を占める農民の、そのまた大半が貧しい小作農である日本では、国内市場は狭縊なものに留まっていました。その事情は、農民達自身が良く知っていました。それゆえ、どんなに農村での暮らしが厳しくても、村を捨て、農業を捨てて、家族を上げて都市や工場地帯に引っ越す農民は、ごく僅かな数に留まったのです。「太った豚よりも、やせたソクラテスになれ」と卒業生に語りかけた、東大総長としての式辞が、マスコミに大きく取り上げられた大河内一男氏は、戦前期の日本の労働市場の構造を「出稼ぎ型」となずけました。この出稼ぎ型の労働構造が、日本的な低賃金を生み出した温床であるとしたのです。貧しい農村の娘たちは、年頃というか食べ盛りを迎えると、いわざ口減らしのために、働きに出されるのです。家の貧しさを知る娘たちは、親の進めるままに、黙って家を離れざるをえません。行儀見習いとして、子守や下働きとしてお屋敷奉公が出来るのは、幸運なケースでした。彼女らの多くは、女工として、紡績工場などに働きに出たのです。そこに広がる世界は、「女工哀史」や「ああ 野麦峠」などで御存知の世界です。工場は住み込みです。狭い部屋に何人も押し込められますが、そこには煎餅布団とはいえ、自分の布団がありました。横山源之助は、その著「日本の下層社会」の中で、「女工たちの食事は、金持ちの家の犬の食事よりも劣る」と憤りをもって記していますが、」その食事を、女工たちは、「こんなに腹いっぱい食べたことはない」と、喜んでいたというのです。いかに、下層農民の暮らしが大変なものであったかが示されるエピソードです。女工たちの給料は、ごく僅かでした。そこから寮費と食費が引かれるといくらも残りません。仕事がきつく、休日に遊びに出ることなどまずありえないことでしたが、僅かな残りは、工場内の売店での、僅かな買い物で費やされたそうです。家への仕送りなど、とても無理だったのです。家族もまたそのことは期待していませんでした。 続く
2011.08.18
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クロニクル 中国で文化大革命勝利の祝典1966(昭和41)年8月18日45年前になるのですね。この日、北京の天安門広場に約100万人と発表された大群衆が集まり、プロレタリア文化大革命の勝利を祝う大集会が開かれました。毛沢東、劉少奇、周恩来、林彪などの共産党幹部が勢ぞろいし、開会挨拶に立った陳伯達は「文化大革命の益々の徹底」を指示しました。文化大革命は、中国が資本主義へ傾斜することを予防し、社会主義的精神革命の徹底を期すための広範な運動で、前年11月の文芸論争に端を発し、8月1日に共産党中央委員会が本格的な開始宣言を発表したところでした。この運動の先兵になったのが、10代の少年、少女からなる紅衛兵で、連日連夜市内を駆けまわっては、知識人や市民を吊るし上げていました。この運動で、多くの知識人や学生が大学を追われて、地方へ下方させられ、長い目で見ると、中国の近代化、科学・技術の発展に、20年以上の遅れを齎したであろうと、今日では指摘されています。今の中国の実情からすると、隔世の感がありますね。ともあれ、この祝典後、文化大革命の嵐は約10年ほど中国全土を吹き荒れ、大きな影響を齎したのでした。
2011.08.18
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明治政府の功績と日本資本主義の特徴(17)さて、様々な問題を孕みながらも、日本資本主義は、明治20年代に入る頃には、繊維産業を中心とした消費財生産部門(一般的には軽工業と呼ばれる分野が中心となります)の工業化が一定の水準に達しました。それでも英・仏・米などの製品に比べると、質的には劣りました。それゆえ、輸出するには、値段の安さで対抗するしか方法がありませんでした。国内市場を開拓すれば良いではないか。それは無理だったのです。その理由を記す前に、ちょっと日本の近代史を俯瞰してみましょう。近代日本の戦争の足跡です。1 日清戦争 1894(明治27)年~95(明治28)年2 日露戦争 1904(明治37)年~05(明治38)年3 第1次世界大戦への参加 1914(大正3)年~18(大正7)年4 シベリア出兵 1918(大正7)年~1922(大正11)年5 満州事変 1931(昭和6)年~33(昭和8)年 以後、日中15年戦争並びにアジア・太平洋戦争へ突入ご覧下さい、近代化特に工業化に成功した日本は、日清戦争を皮切りに10年に1回は、侵略のための戦争を繰り返し、戦争による領土獲得、即ち日本資本主義のための市場の獲得を目指しています。即ち、国内市場が狭いため、工業化が進むと、その工業製品を売り捌き、かつ工業製品の生産に必要な原料を入手する市場の確保が欠かせなかったのです。それは、短期間で工業化を進めなければならなかった日本は、国内市場が狭いという、大きな欠点を持っていたからなのです。 続く
2011.08.17
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クロニクル 松川事件 1949(昭和24)年8月17日62年前のこの日、午前3時9分頃、東北本線の松川駅(福島県)付近で、上りの旅客列車が脱線転覆し、乗員3人が死亡する事故が起きました。事故現場のレールの釘が何者かによって、抜き取られており、それが事故の原因でした。翌18日、内閣官房長官が、「集団組織による計画的妨害行為」とする政府見解を公表、警察の捜査をその方向に向けました。福島県警は、内閣の見解を忠実に守って、その線での捜査を行い、9月に入って、国労福島支部の組合員と東芝松川工場労組の組合員ら計20人(その多くが共産党員でした)を逮捕しました。折りしも、ドッジラインによるデフレ政策の進行で、不況色が強まっており、行政整理や企業整理による失業の増大に対する、労働者の抵抗運動が強まっていた時期でした。こうした時期に、下山事件、三鷹事件に続く、国鉄をめぐる第3の怪事件と、マスコミは書き立てました。裁判は、急ピッチで進められ、翌1950年には一審判決が下り、死刑を含む全員有罪が宣告されました。しかし、裁判の進行に連れて、弁護団の生半可ではない努力の結果、警察および検察が、共産党員らの犯行だという、予断をもって捜査したことによる冤罪事件ではないかという、疑いが強まり、作家の広津和郎らを先頭に、精力的に裁判批判の運動が広がることになりました。ここから、公正な裁判を獲得して、民主主義と人権を守る運動が、大きく高まりを見せたのです。こうして、高裁からは、一転して慎重な審議が行われ、最高裁は原判決を破棄して、差し戻しを決定、ようやく1963年に全員の無罪が確定しました。しかし、事故から14年が経過しており、時効が成立していたため、真犯人の究明は行われないこととなりました。政治の介入が、公正な捜査を曲げ、犯人追及を不可能にした事件として、松川事件は、忘れられない事件となりました。
2011.08.16
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8月15日は終戦記念日か?今晩は。ブロ友の皆さんにも、8/15を終戦の日と記している方が多いですね。私は、8/15を終戦の日とすることに、ずっと強い違和感を持っています。終戦ですから、確かに戦争の終わりを意味します。敗戦の受諾即ち降伏もまた、そこで戦争が終りますから、終戦は敗戦を含むことも事実です。しかし、あれだけ徹底的な空襲に遭いながら、ほとんどなすすべなくやられっ放しだった日本、そして2発の原爆投下に抵抗のすべも無く、ソ連軍の侵攻に慌てふためき、居留民保護の任務を放棄して、我先に列車に乗って逃亡した軍隊しか持たない当時の日本に、抵抗の余力が無かったことは、誰の目にも明らかでした。ポツダム宣言の受諾は、万策つきた日本の支配層が、連合軍に突きつけられた降伏条件の全てを受け入れて、降伏したことにほかなりません。「参った、負けました」と手を上げたことを意味します。そこには「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び…」といった、自らになお余裕があるのに、国民のためを思って降伏するのだといったような、一緒のゆとりはカケラもありませんでした。終戦という語に、日本が主体的に戦争を終らせるために行動したというニュアンスを感じ取るのは、私だけでしょうか。敗戦の日を終戦記念日と言い換えることは、ポツダム宣言受諾を、天皇や支配層が国民のためを思って主導したという主張に、正当性を与える策謀が潜んでいる。それは、戦前の支配層を復権させる道に繋がる危険を持っているのではないか。私はこのように考えています。皆さんは、「マスコミが使うから」、「わりとポピュラーに使われているから」といった理由で、無意識に「終戦」という語を使われているのだと思いますが、私からのお願いとして、もしよろしければ、「終戦記念日」という語に籠められた「戦前回帰」の危険について、1度お考え戴きたい申し上げます。よろしくお願いします。
2011.08.16
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クロニクル 経団連の誕生1946(昭和21)年8月16日65年前のこの日、日本経済団体連合会(略称経団連)が創立されました。経団連創設の構想は、戦後すぐに経済問題の処理と経済再建に向けて、経済界の総力を結集し、総意を動員するための機関を作ろうということで、生まれました。設立宣言には、「経済界における各部門の連絡をはかり、財政経済に関する内外の諸問題を研究して、経済界の公正なる意見を取りまとめ、その実現に努力し、もって国民経済の自立と健全なる発展を促進することを目的に…」と記され、各種経済団体並びに企業の総意結集のために創設されたことが読み取れます。後に財界の総本山と自他共に認める組織に成長する経団連はこうして誕生し、経済団体の中核として、経済政策の樹立、経済行政の整備、経済法規の改善などについて、政府・関係官庁との協議などに尽力し、諸外国の経済団体との連絡などにも注力して、存在感を発揮しました。日経連と合併した現在は、そうした存在感も、心意気も失ってしまったようですね。
2011.08.16
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明治政府の功績と日本資本主義の特徴(16)10年以内に国会を開設するという詔勅は、守られました。それが1889(明治22)年2月の「大日本帝国憲法」の発布に繋がり、この憲法に依拠する形での、1890(明治23)年の第1回帝国議会の開設に繋がります。それではこの間、殖産興業の方は、どうなっていたのでしょうか。資本主義の発達なくして、工業化が不可欠の高性能の兵器は作れません。兵士の質と武器の質がそろってころ、強力な文体が出来上がります。その点で、欧米列強の侵略に備えるためにも、資本主義的工業化は急ぐ必要がありました。教科書的な説明で恐縮なのですが、資本主義の発達には、生産手段を備えた工場を建て、人を雇い、原料を手当てする資本が必要です。同時に、その工場で働く労働者が確保できなければなりません。江戸時代の大商人、両替商などは、大きな資本を蓄えていましたが、彼らは慎重です。確実に成功する見込みが立たないと、大事な資本を投ずることはしません。このため、欧米から機械を導入しての工場の建設は、先ずもって政府が工場を運営する官営工場の形を取ったのです。1872(明治5)年には、イギリスから技術や機関車、それにダイヤ運営等のソフト面まで導入して、早くも新橋~横浜間の鉄道が開業します。この試みは図にあたり、年間営業した幼年には、早くも大きな利益が実現したことから、鉄道事業は民間でも盛んに行なわれようになります。機械制工場では、教科書にも出てくる官営「富岡製糸場」が有名です。絹織物の盛んなフランスから技術を導入したこの工場は、当初労働力の調達に大変苦心します。工場制度の元祖イギリスでも、産業革命の前半期には、今までみたこともない大きな建物に、凄い騒音を出す機械がすえつけられているのを見て、誰もがそこで働くのをためらい、人集めに大変苦労した記録が残されています。有名なアークライトの水力紡績機の工場では、当局と掛け合い、囚人を借り受けて労働させた記録まで、残されています。当然富岡製糸場も、近隣の貧農達の余剰労働力を吸収することが出来ませんでした。そこで政府の取った奇策が、官吏の妻女や娘に協力を頼んで、工場労働の奉仕をかって出てもらうことでした。中央政府の役人の家族が〇人行く、ついてはそちらも…と頼まれると、県令以下地方役人も、必死で家族や親族その他関係者を集めざるを得ません。富岡製糸場の絵にある、粗末でない和服に襷をかけ、髷を結った髪に手拭を巻いて作業している御婦人達は、こういう人たちでした。地域の上流階級の奥様やお嬢様が中で働いて御無事だったことを、尻込みする地域の貧農達に見せつけ、これなら大丈夫と思わせたのです。作戦は図に当たり、約1ヶ月の苦心の末に、富岡工場は労働力集めの苦心から解放されたのです。やがて、こうした官営工場は、民家資本の充実を根拠として、安い価格で民間に払い下げられてゆきます。余談ですが、富岡製糸場の工場は、保存されており、現在世界遺産への登録を目指していると聞きます。うまく行くと良いのですが、果たして平泉のように行くでしょうか… 続く
2011.08.15
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クロニクル ニクソンショック世界を走る1971(昭和46)年8月15日66年目の敗戦記念日ですが、こちらを取り上げました。ちょうど40年前のことです。この日、ニクソン米大統領はテレビを通じて、ドル防衛策を含む新経済政策を発表しました。その最大の目玉が金=ドル交換停止でした。第2の目玉が10%の輸入課徴金の創設でした。アメリカ経済が如何に貿易収支の赤字に悩んでいたかが、分かる措置でした。しかし、戦後ブレトンウッズ体制を構築し、「米ドルを持つことは金を持つことと同じである」とすることで、自国通貨をドルにリンクさせて(日本で言えば、1ドルを360円とすること)、通貨価値を安定させてきた各国にとっては、これは晴天の霹靂でした。ヴェトナム戦争の戦費負担に苦しみ、その上西ドイツ(当時)や日本の経済的発展によって、貿易収支までもが赤字体質を強めていた米国にとって、ドルはいつでも金と交換できるという神話を維持することは、苦痛以外の何物でもなくなっていたのです。こうして、この日のニクソン大統領による金とドルとの交換を当分の間停止するという、強硬策の発表となったのです。これはある意味で正論でした。「米国経済の力が衰えてきたので、今後は世界各国の経済のお守り役までは務められないので、その地位はおります。各国通貨も各国の責任で交換レートを決めて下さい」としたのです。日本のみならず、世界の為替市場はパニックに陥りました。自国通貨の対ドル相場の急騰を見越して、翌日から当分の間為替市場を閉鎖した国がほとんどでしたが、1人日本だけが市場を開き続け、1ドル=360円でドルを買い支え、円高に振れるのを防ごうと務めたのでした。各国の為替ディーラーは狂喜して日本市場で(当時日本の為替取引は自由化以前なので、日本の業者に委託しての取引でした)ドルを売り続け、政府・日銀は世界の趨勢を読もうともせず、ひたすら米国への陳情によって、円切り上げを防ごうの1点張りだったのです。しかし,経済先進国でただ一つ為替市場を開き続ける日本の愚かさは際立っていました。その日本政府が円切り上げ不可避を悟り、1ドル=360円でのドル買い介入を止めたのは、何と2週間後の8月28日のことでした。この間1ドル=360円で買い支えたドルは、およそ40億ドル。現在ならどうということもない額ですが、当時としては大変な額でした。米国は変動相場制への意向を持っていましたが、日本のみでなく西欧各国もドルの基軸通貨体制維持に執念を燃やし、渋る米国をこぞって説得し、ドルに対して各国通貨を切り上げることを了承する替わりに、ドルは基軸通過であり続けることを約束して、一時的にこの騒動が収束するのは、12月18日のことでした。スミソニアン協定がそれです。円のレートは1ドルが308円と16,88%の切り上げとなりました。円切り上げで輸出企業は大打撃を受けると、産業界中心に悲観論が勢い良くぶち上げられ、政府は補正予算を組んで公共事業の大盤振る舞いを行なうなどの、ドタバタ劇が演じられましたが、日本や西ドイツ経済の足腰は強く、ドルの固定相場はこの後1年少々しか持ち堪えることは出来ず、73年2月には現在に繋がる変動相場制に移行しました。それにしても、70円台だと円高、85円程度だと円安。時代が変わると人間の感覚も変わるものですね。93年と95年の1ドルが100円を割っていた時代に、フランスやイタリアにしばらく滞在した身にとっては、今のユーロ対円、1ユーロがなお110円程度というのは、円が安すぎる感が拭えないのですが……。私の感覚では1ユーロは80円程度が、程よい水準に思えてありません。それにしてもニクソンショックにおける大蔵省と日銀の対応はオソマツでした。思考が内向きに過ぎ、経済の国際派を育てる努力を怠ったツケは大きかったようです。最近は、少なくとも日銀は、だいぶ変わってきたようですが…
2011.08.15
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ユーロの憂鬱 (8)ユーロ加盟国ではありませんが、EUの重要なプレーヤーの一郭を占めるイギリスも、ずっとピンチの中にあります。ドルにとってかわられるまで、世界通貨の地位を占めていたポンドへの強い愛着からユーロに加わらなかった国です。実を言うと私は、ユーロの危機が叫ばれて一番ホットしているのは、この国だろうと睨んでいます。ユーロに注目が集まる限り、ポンドは蚊帳の外にいられるからです。欧州の危機が叫ばれ、アイスランドがデフォルトした時、いち早く預金の全額保護を打ち出し、EU内で抜け駆けしたのは、アイルランドでした。そのためイギリスの大口預金の多くが、アイルランドに流出したのが、ことの始まりでした。リーマンショックにいたる、米国の住宅並びに金融バブルの崩壊は、イギリスを直撃、イギリスのバブルも崩壊しました。かつてのイギリスは、「ゆりかごから墓場まで」と言われ、福祉国家のモデルと称された社会保障の充実した国でした。しかし、植民帝国の甘い汁を失い、それにつれて貿易立国の覇権も失った老大国イギリスは、次第に衰え、遂に新自由主義を掲げるサッチャー改革によって、福祉国家の看板を下ろし、自助努力を看板に金融自由化を進めて、福祉の切捨てと金持ち優遇に活路を求めたのでした、そこには米国以上の金融自由主義が、根を下ろしていたのです。レバレッジを最大限に生かしたバブル経済は、バブルがはじけると同時に急速にしぼみます。この時、社会保障というセーフティネットは既にないのです。強欲な大金持ちの失敗のツケは、社会の底辺の人たちが払わされるのです。それでもブラウン労働党政権の時代は、まだ良かったのです。ブラウン政権は、財政の中で今以上の福祉切捨てには、ガンとして応じなかったからです。キャメロン政権に替わって、財政均衡が標榜され、緊縮政策が取れれました。不況下に政府支出まで減らすとどういうことになるかは、言うまでもありません。不況は深刻化し、税収はさらに落ち込みますから、結果的に財政の赤字は拡大します。余談ですが、菅首相や野田財務相は、この原理が十分理解できていないようですね。野田総理は、日本経済にとっても最低の選択肢になるように思えてなりません。こうして、キャメロン政権の誕生後、イギリスの経済不振は、深刻の度を増しているのです。そしてその皺寄せは、社会の底辺の人々に押し付けられているのです。今でも良く覚えているのですが、高校一年で学んだ「一般社会」の教科書に、「民主主義の進展度は何で計るか」という問いかけがあり、「社会の底辺の人々の生活と権利が、どこまで保証されているか」で計ることが出来ると指摘され、日本国憲法の第25条が紹介されていて、強い感銘を受けました。それは、資本主義の対抗勢力としての社会主義が健在だった時代だからこそだったのですが、社旗主義が滅亡したのを良いことに、セーフティネットを奪い取って、貧しき人々に対して、平気で暴力的に振舞う資本主義は、どこかで貧者の反撃を受けることになります。8月に入って、ロンドンに始まり、瞬く間にイギリスの主要都市に広がっている貧者の叛乱は、60年代の日本の夏に毎年のように繰り返された山谷や釜ヶ崎の叛乱などと同質のものです。そして、その根が深く、食い詰めた貧困者の範囲が広いだけに、金欠病のイギリス政府を、大いに悩ますことになるでしょう。解決を間違えたり、手間取ったりすると、ロンドン五輪の開催に影響が及ぶ可能性も、出てくるかも知れませんね。イギリス、日本どころでない重傷です。少なくともフランスよりは、はるかに深刻です。 続く
2011.08.14
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明治政府の功績と日本資本主義の特徴(15)「地租改正」条例によって、地価の3%とされた地租は、その後の引き下げで2,5%とされたことは、既に指摘しました。書き落としたのですが、この地租は土地所有者(地券の持ち主)による金納とされていました。それゆえ、西南戦争による戦費負担は、政府による紙幣の濫発を招き、明治10年代の日本は、インフレに悩まされることになりました。しかし、このインフレは、地券に記された地価の2,5%を、地租として収める地主や農民には朗報でした。農産物価格が上昇して、地租の負担が相対的に軽減したからです。こうしたゆとりが、豪農と称された階層に、国会開設と政治参加への欲求を高めたのです。しかし、政府にとっては、インフレは深刻な問題でした。国際的に見るならば、通貨の価値が安定しているか否かは、国家の信用に関わったからです。1国の政府が国民に信頼されてるならば、物価は安定し、大きな変動は起こりません。その状態にあってこそ、列強の日本に対する評価も上がるという寸法です。列強による侵略の危機が、なお残っている日本にとって、インフレ状態をいつまでも放置することは出来ない相談でした。こうして、政府内には、インフレ財政を主導した大隈重信への批判が高まります。そこへ、有名な北海道開拓使の官有物払い下げ疑惑が、民権派の新聞にすっぱ抜かれたのです。開拓使長官の黒田清隆が、盟友の五代友厚に破格の安値で、官有物の払い下げをしようとしたというのです。1881(明治14)年9月~10月にかけてのことでした。守勢に立った政府は、先ず、話題となった官有物の払い下げを中止し、同時にインフレ財政派で、民権派にも近い大隈を更迭します。そして、今後10年以内に国会を開設するという、天皇の詔勅が発表されたのです。政治家の口約束ではなく、天皇の詔勅です。ここにウソがあってはならないのですから、この約束は絶対でした。高揚した民権派の運動は、この詔勅を契機に、いったん沈静化し、板垣や大隈らは、来るべき国会開設に備えて、政党作りに沈潜してゆくのです。一方政府は、民権運動の沈静化をよそに、大隈に替わる財務卿に松方正義を起用して、インフレ退治に乗り出したのです。世に言う松方デフレです、 続く
2011.08.14
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クロニクル 片山・プレハーノフの握手1904(明治37)年8月14日今日から107年前、日露戦争の最中のことです。この日、オランダのアムステルダムで、第二インターナショナルの第6回大会が開幕しました。日本からは渡米中の片山潜が欧州に出向いて参加、日露戦争の最中ということもあって、大会当事者の粋な計らいだったのでしょう、ロシア代表のプレハーノフと共に、大会の副議長に選出されたのです。2人は壇上で固い握手を交わし、大きな拍手を浴びました。第1次世界大戦前夜の反戦運動を綴る時に、必ず取り上げられる、世界史や日本史の教科書でお馴染みのシーンです。片山は、日露両国のプロレタリアが,万国の社会主義者と共に戦争に反対することの意義を強調し、プレハーノフもまた日本が専制的なロシア政府という巨人を悩ませていることを指摘しました。これより先、平民新聞の3月13日号は社説に「露国社会党に与える書」を掲載。「日露両国の社会主義者は、共通の敵である帝国主義や軍国主義と、共に勇敢に戦おう」呼びかけていました。この文章の英訳が欧米の社会主義系の機関紙などに紹介され、大きな反響を呼んでいたのです。ロシア社会民主労働党も、機関紙「イスクラ」5月14日号に返書を掲載、日本の社会主義者の勇気に敬意を表し、「ロシアでは困難な状況の中で、戦いが続けられている」旨を記しました。しかし、その後ロシアでは、反戦平和を求める革命運動が大きな広がりをもって、支持を広げていくのですが、日本の反戦運動は少数者の微々たる運動に留まり、ロシアのような広がりは持てませんでした。
2011.08.14
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ユーロの憂鬱 (7) 欧州各国は、金融株の空売りを禁ずる強硬策をとり、欧米の株式市場は、とりあえず強硬策に敬意を表して、更なる売込みに出ることは、とりえず中断し、様子見に出ました。しかし、この措置で金融株の経営危機が改善するわけではありません。1990年代の日本のバブル崩壊後の金融危機の際に、欧米各国は、盛んに日本の簿価評価を批判して、時価評価の導入を迫りました。それはある意味では正しく、簿価評価による先送りが、被害を拡大したことは、紛れもない事実でした。しかし、その欧米諸国が日本の経験を学ばず、驚愕のマイナスに恐れをなして、簿価評価に逃げ込み、不良資産隠しに躍起になっています。この措置が永遠に続けられるものではないことが、明らかなのにも関わらずです。彼らは、揃って、いつか来た道、日本の辿った道を、いまや日本に遅れて、仲良く連れ立って歩いているに過ぎません。欧米日の先進国(G7)経済は、ある意味仲良く、長く続く経済不振の道、過去に経験のない迷路に踏み込みつつあるようです。分かっているのは、欧米は、日本の踏み固めたルートを辿っているということでしょうか。 続く
2011.08.13
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明治政府の功績と日本資本主義の特徴(14)自由民権運動は、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平らが、1874(明治7)年に、政府に提出した「民選議員設立建白書」を契機に始まったとされます。しかし、この時期の運動は、士族反乱の別働隊のような存在で、不平士族の範囲を超える拡がりにかけました。また運動の中心人物の1人江藤新平が、建白書提出の直後に、佐賀の乱に加わって逮捕され、死刑を執行されるなどしたため、益々士族不平派以外の人々への拡がりを欠く事になり、パットしないままに終りました。運動の再生は、西南戦争以後にやってきます。武力叛乱の限界を知った板垣らが、地主や富農といった地方の名望家層を、運動に巻き込むことを考え、言論による反政府運動の広がりに照準を絞ったことがきっかけでした。この方針は成功し、1878(明治11)年に再興した愛国者は、順調に成長し、1880(明治13)年には、国会開設期成同盟の発展し、全国各地から、次々に国会開設の建白や請願が、政府に対して提出されるようになりました。ここに運動の中心は、不平士族から、全国各地の豪農層に移ったのです。 続く
2011.08.13
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クロニクル 在日朝鮮人の「北朝鮮」帰還協定調印1959(昭和34)年8月13日1910(明治43)年から1945(昭和20)年まで、35年間日本の植民地支配を受け、45年8月15日の日本の敗戦とポツダム宣言の受諾によって独立した朝鮮半島の人々は、独立後38度線を境に、南は米国軍の、北はソ連軍の保護下に国家並びに行政機構を整えました。そして、折りからの米ソ冷戦の激化を受けて、1948(昭和23)年8月と9月に、相次いで大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国として独立、2つの国家への道を歩み始めました。この体制は、1950~53年のまる3ヵ年にわたって戦われた朝鮮戦争によって決定的になり、在日朝鮮人の団体も、韓国系の韓国居留民団と北朝鮮系の朝鮮総連に分かれました。その後、朝鮮戦争からの復興が軌道に乗るに連れ、経済発展をより確実にするために、在日朝鮮人家族の希望者の帰国事業が推進されることになり、52年前のこの日、朝鮮民主主義人民共和国との間に、「朝鮮総連系の在日朝鮮人家族の帰還に関する日朝協定」が調印されたのです。この協定を受けた第1次帰還船は、同年12月14日に新潟港を出航しています。当時の日本国内では、北の経済は南に比べて数段進んでおり、社会主義の下で貧富の差は最大でも5倍程度と、社会的平等が実現している。まさに地上のパラダイスであるとする神話が広く信じられておりました。そのため帰還事業も当初は好調に推移しました。吉永小百合主演、浦山桐郎監督の『キューポラのある街』に主人公の弟の友人が父と共に北朝鮮に渡る話が出てきますが、帰還船に乗るために、新潟へ向う上越線に乗車した帰国者の集団の熱気は、当時の雰囲気を良く捉えていると評判になりました。帰国者が帰国後、経済不振の中、厳しい状況に追い込まれてゆくのは、この数年後からのことだったと伝えられるのですが、どこでシナリオが狂ったのでしょうね。
2011.08.13
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ユーロの憂鬱 (6) ECBが自己資本の棄損に眼を瞑って、イタリアやスペインの国債の買い支えに走ったのには、わけがあります。そのわけは、水曜日からの欧米の株式市場の動きに、見事に反映されました。フランスの銀行を中心とした、欧州の主力銀行の株価急落です。御丁寧にフランスのソシエテ・ジェネラルは倒産が噂され、防戦に躍起になっています。昨日には、この動きが米国にも飛び火し、まさに欧米の金融危機が再燃する雰囲気となってきました。そうなんです。ギリシアはまだ小粒なのです。そのギリシアですら、デフォルトさせてしまうと、ユーロ圏主力国の金融機関に深手を負うところが出てくる。だからだましだまし、止血程度の支援を繰り返して、先送りにしているのです。それがイタリアとなると、支援金額も半端ではありません。そのイタリアがデフォルトするとなると、果たして、先送りにための支援を続けられるのか。こういう疑念が市場を覆ってしまっています。欧州各国の金融機関並びに政府による、イタリアへの融資残高は、フランスが5千億ユーロ(約55兆円)、ドイツが1900億ユーロ(約20兆円)、イギリスが770億ユーロ(約8兆5千億円)にも達しているのです。こんな調子ですから、デフォルトの危機に陥っている国々、デフォルト予備軍とされている国々の債権を保有している金融機関は、どこもこうした不良資産を時価評価すれば、債務超過に陥るのが確実な状態にあるのです。そこを、投機筋に狙われたというわけです。現在、フランスやドイツの国債に危機があるわけではありません。両国の金融機関も、大量の不良債権を抱えて、倒産の懸念がありますね。そこをマルマル抱え込んでは、両国といえども持たないでしょう。さて、どうなさいますか?と、市場からの問が、欧州各国に発せられているのです。 続く
2011.08.12
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明治政府の功績と日本資本主義の特徴(14)秩禄処分は、旧時代の支配層だった士族を切り捨てる、思い切った策でした。勿論士族の全てを切り捨てたわけではなく、軍人や官吏、警察その他、一芸に秀でたものは、新政府に登用されなしたが、昨日記したように、その数は全体の3分の1程度でした。当然切り捨てられた士族には、大きな不満が残ります。それを承知で、秩禄処分を強行したのですから、1876(明治9)年~77(明治10)年にかけての時期に、明治政府がかなりの自信を持つようになっていたことが、覗えます。実は、1876(明治9)年3月、政府は廃刀令を発しています。これについては、司馬遼太郎の「翔ぶが如く」に詳しいですが、帯刀を禁じる太政官布告が公布された後、木刀であればよかろうとか、袋に入れて抜けないようにしておけばよかろうなどと、木刀や袋入りの刀を持ち歩く者が、しばらくは後を絶たなかったほどでした。明治政府は、早くから武士の身分の存続を否定していたのですが、当初は大変慎重でした。廃藩置県で、旧来の藩の存続を否定した時も、散髪脱刀令(明治4年)を出して、髷を落とすか残すかは、各人の勝手とする。同じく外出時の帯刀も各人の自由とすると、定めただけでした。髷を結う結わないも、刀を持ち歩くか否かも、好きにしてよろしいとしただけでした。義務付けられたのは、軍人、警官、官吏が制服を着用する時の帯刀だけでした。それが、5年後の明治9年には、帯刀は明瞭に禁止されたのです。武士の身分は既に否定されていたのですが、「自分は武士の出だ」ということを、ただ一つ他者への誇りだとする人たちは、現在でも結構多いですね。廃刀令は、彼らの誇りをずたずたに切り裂きました。そうした不満が、1876(明治9)年~77(明治10)年にかけての数々の士族反乱となって、噴出しました。秩禄処分という経済的打撃よりも、武士の特権を奪われたことへの怒りが大きかったのです。明治7(1874)年の佐賀の乱は、早熟的なケースでしたが、明治9(1876)年の神風連の乱(熊本)、秋月の乱、長州の萩の乱と続き、翌明治10年の西南戦争に続きます。西南戦争は、1977年2月中旬から、同年9月下旬まで、7ヶ月に及ぶ激戦でしたが、ここで、徴兵令に基づく農民中心の軍隊が、訓練を施し近代兵器で武装すれば、十分役に立つことを証明する結果に終りました。この点が何より重要でした。その点は、西南戦争以後、不平士族は勿論、反政府派の不満は、武力による叛乱ではなく、言論による抗議へと、大きく形を変えていったことからも明らかなのです。反政府の行動は、自由民権運動へと、大きく舵を切ったのです。 続く
2011.08.12
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クロニクル 御巣鷹の悲劇1985(昭和60)年8月12日26年目になるのですね。この日、午後7時数分前頃、日本航空の羽田発大阪往きのボーイング747SR機が、群馬・長野両県の県境に位置する御巣鷹山の山中に墜落して炎上、乗員・乗客524名のうち、520名が亡くなる、日本の航空機事故としては最大の犠牲者を出しました。機体は翌朝発見され、現場には焼け爛れた機体や遺体が散乱し、さながら地獄絵のような姿だったと、現場で救助と遺体の収容にあたった、警察や自衛隊の関係者が語るほどでしたが、機体の後部座席の近くで、女性ばかり4名の生存者が救助され、感動を呼びました。その後生存者の証言などから、離陸後しばらくして隔壁に穴が開き、バランスを崩した飛行機が迷走しながらも着陸を目指して苦闘していたこと、墜落後もしばらくは、助けを求める生存者の声が聞こえていたのに、その声も次第に弱弱しくなり、遂には聞こえなくなったことなどの、生々しい証言が得られ、その都度涙を誘いました。犠牲者には、歌手の坂本九さん、阪神球団社長の中埜肇さんなどが含まれていました。航空機の中で、最も安全性が高いとされたジャンボ機でなぜ事故が起きたのか。この点が疑問視されたのですが、調査の過程で、もはや言い逃れが出来ないと判断したボーイング社が、同機の修理の際に、隔壁の修理にミスがあったこと、そのため機内の気圧を一定に保つために行なう加圧に絶えきれず、隔壁が飛ばされたことを認め、日航並びに遺族に謝罪する一幕もありました。私はこの日、5才の息子と2人で愛知県の篠島に海水浴に出かけており、13日朝のニュースで事故を知りました。9ヶ月の娘を連れて行くには無理があるため、父親と2人だけでも行くかと息子に聞いたところ、海と乗り物の大好きな息子は、イチもニもなく、「行く」の一言。出かけていった先での事故のニュースでした。
2011.08.12
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明治政府の功績と日本資本主義の特徴(13)さて、明治政府には、もう一つ大きな課題が残されていました。江戸時代の支配階級、旧武士、当時の士族の処遇です。版籍奉還以後、将軍家や諸藩に雇われていた武士階級の家禄は、当面は、秩禄として政府から支給されることになりました。明治政府にとってこの負担は、馬鹿になりません。何しろ当時の歳出の30%強が秩禄の支給に費やされたのですから。そこで政府は、旧支配階級である士族の禄を整理することを決意します。政府の要職にある者は、秩禄の支給を辞退すれば済みますが、地方の警官など、地方政府の役人に採用された者などには、二重取りも存在しました。議論の末に、明治9(1976)年に実施されたのが、秩禄処分でした。これは、士族の秩禄を発行額面に応じて、4分~7分利付き(利息4%~7%)の金禄公債に換え、7年据え置き30年返済とするとしたものです。利息は当然額面の少ない公債は高く、高額の公債は低くなっていましたが、当時、物価は上昇傾向にありましたから、禄の低い下級士族などは生活に困り、公債を売り払って生活に足しにする者も、続出しました。1882(明治15)年の鳥取県の調査には、県内全士族の9割が既に金禄公債を売却していると、記録しています。また1883(明治16)年の政府の記録は、全士族41万8千世帯のうち、軍人を含む現職官公吏と、府県議会の選挙権を持つ有権者(地租5円以上を納税する非官公吏)の合算は、全体の37,6%であったと記録しています。残りの62,4%は没落士族と推定できるわけです。彼らが手放した金禄公債は、金融業者や商人の手に入りました。また、金禄公債を現金代わりに出資して、金融機関等の出資者となった殿様クラスも何人も出ています。零落して北海道の屯田兵の募集に応じた士族も、かなりの数にのぼりました。こうして、旧次代の支配層、士族階級は切り捨てながら、彼らが安く手放した金禄公債は、日本資本主義の発達過程における、初期の資本に組み入れられる結果となりました。こうしたことが、1877(明治10)年をピークとする士族反乱に繋がってゆきます。 続く
2011.08.11
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クロニクル 日本政府,閣議で南ヴェトナムへの緊急援助決定1964(昭和39)年8月11日この日、日本政府は南ヴェトナムのドン・バン・ミン政府に対する緊急援助を決定しました。1954年のジュネーブ協定は、北緯17度線の北をヴェトナム政府が治めることを認めましたが、17線の南については、2年後に国民投票を実施して帰属を決めると定めました。そのため、当時反共主義であれば、どんな政府でも認めて支援していた米国は、フランスに替わって同地に進出、自国で亡命生活を送っていた、ゴリゴリの反共主義者ゴ・ジン・ジエムを首班とする傀儡政府を樹立、ジュネーブ協定を無視して、反共の南ヴェトナム政府を作り上げ、南北統一を徹底的に妨害する挙にでました。それは、ヴェトナム全土の植民地からの独立を希求するヴェトナムの人々の希望に反する事でした。そのため60年代に入ると、南ヴェトナムの解放闘争が激しく戦われるようになり、62年には南ヴェトナム解放民族戦線の活動が、活発になりました。国民の支持のないゴ政権には、独自で解放戦線と戦う力はなく、米国は軍事顧問団の名目で米兵を派遣し、南ヴェトナム政府軍の指導と訓練を行なうと称して、次第に戦争を丸抱えするようになりました。ゴ政権は民衆の反発を力で抑えこもうと、恐怖政治を敷きますが、かえって国内各層の反発を招き、63年秋には穏健派の仏教徒をも怒らせてしまい、民衆の尊敬を集める高僧達が、相次いで政府に対する抗議の焼身自殺を公開の場で行ないます。信仰心の厚いヴェトナムの人々にとって、これは衝撃的でした。同時に、ゴ政権にとっては致命的な痛手になりました。命運尽きたゴ政権は、米国にも見放され、63年11月のドン・バン・ミン将軍を中心とするクーデタで政権を追われ、ゴ・ジン・ジエムは、弟のゴ・ジン・ヌーと共に、殺害されました。こうしてドン・バン・ミン政府が誕生したのですすが、戦局は改善せず、94年7月米国は「北ヴェトナム魚雷挺が、米国の駆逐艦を攻撃した」とするトンキン湾事件をでっち上げて、議会からフリーハンドを獲得、8月9日には初めての北爆を実施するなど、南ヴェトナムでの戦争に本格的にのめり込んで行ったのです。そんな時期での政府の緊急援助の決定でした。
2011.08.11
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ユーロの憂鬱 (5) S&Pによる米国の格付けの引き下げが、話題を呼びました。そのおかげで欧州は助かリました。何のことかというと、G7の蔵相と中央銀行総裁の電話会議の件です。この会議は、イタリアやスペインの国債価格の急落を受けて、各国がどう介入するかを話し合うために急遽開催が決まり、日程の都合で電話会談となったのでした。ECB(欧州中央銀行)による、ギリシアのみでなく、ギリシア以外の金利が急騰してしまっている国の国債の買い付けに、道を開くのが狙いでした。この措置には、それではECBの資本が大きく毀損し、ECBの信任が危うくなると、ドイツが強く反対していたのです。G7の会議は、アメリカや日本の口を借りて、ドイツを説得しようとしたのです。こうして、今週月曜日からECBはイタリアやスペインの国債を買っているのです。それで危険な国債を市場から隔離して、時を稼ごうというのですね。前回、先送りが失敗の原因であることを指摘しましたが、ECBはいったいどこまで危ない国々の国債を買い続けるのでしょうか。ECB自身、自らの資本を毀損し、自らの財務の健全性を傷つける国債の買い付けに、反対していたはずなのですが…そして現在も、ユーロ圏諸国の行動は、決して足並みが揃っているわけではないのです。 続く
2011.08.10
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明治政府の功績と日本資本主義の特徴(12)日本各地に、地元提供による自前の小学校が建設され始めた1877(明治10)年は、最初の帝国大学として。東京帝国大学が創立された年でもあります。以後、高等教育と初等教育が、轡を並べて成長していくのが、近代日本のもう一つの姿でした。といっても、義務教育がスンナリと社会に受け入れられ、就学率がすぐに飛躍的に高まったわけではありません。就学率が上がり、識字率が大きく向上するようになったのは、明治30年代の前半、1900年前後なのです。その間、明治政府は、「広く民間から埋もれた才能を発掘するようように…」と号令を発し、村の神童探しを呼びかけたのです。その結果、村一番の秀才は、それが貧しい小作農の子であっても、地主さんや村長さんらが面倒を見る形で、高等小学校(5年、6年の2年間)から中学校へと進む道が用意されました。各地の小学校から、集められた人材が篩にかけられ、中学校出も優秀な人材と認められると、帝国大学の予備門でもある高等学校への道が開かれます。ここでは村の名望家がツテを辿って、高等学校所在地の資産家の家の書生となる道が用意され、3年後に帝国大学へ入学すると、帝大所在地での書生となるのです。こうして卒業後は、将来の日本を担う人材として、社会に巣立つのです。勿論、そこまで至らず、村一番の神童の輝きがいつしか色あせ、ただの凡才に終るケースの方が、数としてはずっと多いことは、明白です。しかし、教育を受けることでチャンスが広がり、貧しい家庭の子どもにも、ある意味で現在よりははるかに公平に、立身出世のチャンスが確保されたことも、また確かでした。地方の名望家にとって、1人でも2人でも、帝大を卒業した将来ある人材を支援すれば、それは大変な名誉として、時には村や地域への利益誘導として、大きな果実を産むことに繋がるのです。別の機会に何度も指摘してきましたが、明治の指導者達は、自分の立身出世を顧みて、地位や官職を世襲することは一切しませんでした。自分に代わる人材は、広く優秀な部下の中から、さらには世間から、これはと思う人材を引き抜いたのです。こうして与えられたチャンスを生かしたシンデレラ・ボーイの出現が、教育制度がスタートして20年もすると、教育を受けることは出世のチャンスに繋がるという認識が広がり、立身出世主義の風潮を生み出し、強めることに繋がって行きました。 続く
2011.08.10
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クロニクル 国鉄分割・民営化のプラン出る1984(昭和59)8月10日もう27年も経っているのですね。この日、国鉄再建管理委員会は、中曽根首相宛ての第2次緊急提言を発表、その中で、初めて国鉄の分割・民営化の方向性を明示しました。分割・民営化を目指す路線はここに登場、強力な労働組合対策も兼ね、急速に実現の方向性を強めてゆきます。分割民営化の実現は、2年8ヶ月後の1987年4月のことでした。国鉄の抱える赤字は、国鉄清算事業団が抱え、金融機関に利子の減免を求めることもなく、国有地となった旧国鉄の所有地を次々に売却したり、民営化会社の株式上場によって得た利益などを次々に注ぎ込んで、返済を続けましたが、高率の利息のために元金はほとんど減らず、最後は20兆円を上回る国庫資金(税金)の投入によって、清算されました。この赤字のほとんどは、代議士達の地元サービスと地元の土建業者へのサービスとして建設された採算無視の赤字路線が積み上げたものでした。また分割民営化は、動労、国労といった労働組合の活力を削ぐためにも利用され、民営化に反対する労組の組合員は、民営化会社への再就職に関して、不利な扱いを受けることになりました。動労の幹部は、この状況をうまく読んだのか、途中で民営化反対の旗を降ろし、組合員が不利な扱いを受けることを防ぎましたが、国労は最後まで民営化反対を貫き、組合員の多くは、債務を処理した後に解散となる、いわば一時的な身の置き所にしかならない、国鉄清算事業団にしか入れませんでした。不等な差別として、国労と組合員は裁判闘争に訴えますが、明るい展望の開ける戦いではなく、組合員は大きな犠牲を払わされることになりました。幹部の判断ミス、ミスと気付いても路線の変更に踏み出せない勇気の欠如が、多くの仲間にとんでもない犠牲を強いた例が、ここにもありました。
2011.08.10
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明治政府の功績と日本資本主義の特徴(11)さて、学制が公布された翌年1874(明治7)年末、全国に設置された小学校の数は、既に12,558校という驚くべき数に達していました。6歳以上の子どもは、小さな大人として扱われ、労働力としてそれなりに期待されていましたから、学制令は別種の税金だとする、猛烈な反発もありましたから、まだこの時期は、通学する子どもの数が多かったとはいえないのですが、子どもにせめて「読み書きソロバンぐらいは…」という親の思いが、全国的に強かったことが伺われます。ただし、小学校の校舎が、こんなに早く建設されるわけはありません。解説された学校の多くは、寺や神社に間借りする仮住まいでした。広さに問題がありますから、午前中は1,2年生、午後からは3,4年生といった半日交代の2部制がほとんどでした。私の住まう地域の例を、挙げてみましょう。山間の僅かな平地にへばりつくように田畑を開墾して住み着いたこの村では、近隣の数ヶ村と共に、麻生不動のダルマ市で近隣に知られる王禅寺の別院「不動院」を拝借して、明治7年に開校しています。しかし、腕白どものイタズラが嵩じたらしく、1年で不動院に追い出され、村の名望家の作業小屋の2階を借りて、その後の2年を過ごしています。そして1877(明治10)年には、近隣を含む地元住民の労働奉仕で、地力で「下麻生学舎」と呼ばれた校舎を建設し、自前の校舎での授業を始めています。校舎と言っても小さなものですが、住民の労働奉仕によって建設し、市や郡に寄贈しているのです。この構図は、全国各地で、そう大きな開きなく、実践されたものと想像できます。先生はどうしたのでしょう。寺子屋の先生や失職した士族たちが、先生になることが多かったのですが、算数では、和算ではなく、西欧式の洋式算を教えることを義務付けられ、夏休みに国の主催する研究会に出席して、苦心惨憺して洋式算を身につけたことが、日記に書き残されています。これが、日本の義務教育元年の姿でした。 続く
2011.08.09
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