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新連載 ナイチンゲールの世界 (1)フローレンス・ナイチンゲール。この名を知らない方はいらっしゃらないと思います。白衣の天使と敬われ、かつ親しまれた彼女は、1820年に生まれ、1910年に90歳で亡くなっています。あまり丈夫な方ではなかったそうですが、生命力は強かったのでしょうね。昨年は、そんな彼女の没後100年ということで、あちこちで記念のイヴェントや講演会などが開かれました。急な病で入院、手術ということがなければ、私もいくつかのイヴェントに参加する予定だったのですが、残念ながら適わぬことになりました。そこで、ナイチンゲールを縦軸として、当時の英国女性の立場、病院や医療、そして隣国フランスとの類似点や相違点。そういったことをしばらく綴りたいと思います。例によりまして、あまり期待しないでお付き合い下さい。本日は前口上のみで失礼します。 続く
2011.09.30
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クロニクル 日大全共闘の徹夜団交1968(昭和43)年9月30日43年前のことです。この日、両国の日大講堂で、日大全共闘系の学生ら約1万人を集めての全学集会が開かれました。周辺には支援の学生2万5千人、これを妨害しようとする体育会系学生を中心とした800人が集合して異様な空気が漲っていました。国税庁による使徒不明金20億円の摘発に端を発した日大闘争は、やがて広範な学内民主化闘争の様相を強め、5月23日には、同大学で始めてのデモが行なわれ、4日後の27日、各学部から7千人が参加して、全学共闘会議(委員長 秋田明大(あけひろ))が結成されました。日大全共闘は、大学当局との大衆団交を要求して、次々にバリケードで教室等を占拠しながら無期限のストライキに(バリケードに篭ったストライキでしたから、学生用語で、バリストと呼ばれました)突入しました。当局は体育会系学生を使って殴り込みをかけ、さらには再三にわたって機動隊の出動を要請し、学生には多くの怪我人が出る始末となりました。さて、30日に戻ると、3時頃古田会頭が姿を見せると、場内は騒然となり「集会の自由を認めよ」というシュプレヒコールが、沸き起こりました。この集会は翌日午前3時まで、12時間に渡る徹夜団交となり、古田会頭は,これまでの当局の対応を全面的に謝罪し、学生の自治権の確立や体育会の解散などを約束しました。しかし、当局は10月3日になると、学生との約束を一方的に破棄して、秋田議長等学生幹部を当局に告発。秋田議長等には逮捕状が出されるに至ります。こうした当局の態度が問題をこじらせ、長期間に渡って、全学ストライキが続けられる結果となりました。
2011.09.30
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クロニクル 日中国交回復1972(昭和47)年9月29日39年前のことです。9月25日から日中の国交回復を目指して、中国を訪問していた田中角栄首相以下の日本側代表団は、この日、周恩来首相以下の中国側代表との間で、日中共同声明に調印、およそ半世紀振りに日本と中国との国交回復を実現しました。「声明」は前文で、日本が過去において中国に与えた重大な「損害」について、「深く反省」し、「戦争状態の終結(不正常な状態の終結)と国交の正常化」を謳い、9項目からなる本文では、1、日本は中華人民共和国政府を、中国における唯一の合法政府として承認する。2、中国は対日賠償請求権を放棄する3、両国は貿易・海運・航空・漁業などの協定締結交渉に合意する。等の内容が盛り込まれました。これに伴い、日本と台湾政府との国交は断絶、民間交流だけが残される形になりました。
2011.09.29
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ユーロの憂鬱 (14) 昨日のことですが、欧州金融安定基金(EFSF)の基金を、2兆ユーロまで拡充しようというプランが、密かに練られているという話がまことしやかに流れました。2兆ユーロは、イタリアやスペインまで救済するとなると、最低でも必要になる額として、かねてから指摘されていた額です。ですから良く出来ています。おそら非公式にはユーロ圏諸国やEUの蔵相会議などで、話し合われているのでしょう。しかし、実現までには、あまりに多くのハードルが待ち構えています。現在は、2兆ユーロの3分の1までの拡充案に対し、各国議会が自国の負担額を了として、承認するか否かが問題となっているのです。負担額は、各国の経済力に比例して決められるので、単純に現在の3倍強の拠出が求められるのです。選挙を気にする議員たちが、選挙民に不評な救済のための資金拠出に、すんなり賛成してくれるかどうかは、どの国でもかなりシビアな問題です。大丈夫なのですかね。かなりスリリングな問題であることは事実です。 続く
2011.09.28
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明治政府の功績と日本資本主義の特徴(45)農水省と政治家が結託しての農業支援策が、いかに的外れで、農業の発展に心血を注ぐ専業農家の営農意欲に水を指しているか。その点は指摘しました。霞ヶ関界隈を見渡しても、独立行政法人と名を変えた、いかがわしい特殊法人がまだまだ大量に残されています。勿論全てではありませんが…省くべき行政の無駄は、まだまだ多いと思います。昨日の予算委員会でも、みんなの党の質問者が、公務員人件費の2割カットという民主党のマニフェストを取り上げ、この公約を実現すると、毎年1兆円の予算削減効果がある。10年で10兆円になるから、すぐやれば復興増税分10兆円は、増税しなくてもひねり出せると、迫っていました。予算の無駄がまだまだある。それを身綺麗にしないままに増税を許したのでは、またまた無駄遣いの大盤振る舞いになるだけではないか。こういう」意識が増税反対の世論を形成いると、私は考えます。20世紀のはじめ、労働党が誕生し、労働者の代表が議会に登場するまで、イギリスの議員は無給でした。地主として優雅に暮らす有閑階級は、その時間を生かして国政を担当し、国家国民に尽すのが責務と、考えられていたのです。そういう身綺麗で、天下国家を論ずる議員の主張だからこそ、国民もまたその発言を傾聴し、尊重もしたのです。今の日本に国民に対し、「苦い水でも、いま飲むことがひつようなのだ」ということを、根拠を明示して説得できる政治家がいるでしょうか。口利きや斡旋による金儲けに走り、税金から高額の助成金を受けながら、好い加減な政治資金報告書でお茶を濁している人たちの発言を、誰が信じるのでしょう。本来なら、政治家という仕事は儲かるはずのないものです。それが2世、3世と代々政治家稼業を続け、代々資産が増え続ける現実を、私たちは見せ付けられています。何故なのか。このカラクリにも、納得の行く説明がないと、増税話に素直に耳を傾ける気にはなれません。この点が、現代日本の不幸ですね。 完
2011.09.28
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クロニクル 長銀,リップルウッドへ1999年(平成11)年9月28日12年前のこの日、金融再生委員会は、前年(1998年)10月に一時国有化した日本長期信用銀行(略称長銀)を、米国の投資ファンド、リップルウッドに譲渡することを、正式に決定しました。リップルウッドは翌年6月、新たに新生銀行と命名して営業を再開、同行を再生した上で株式を公開、保有株の値上りで利益を得ると言う企業再生の手法をとり、新生銀行は2004(平成15)年2月に株式公開に漕ぎつけるなど、短期間で再生を遂げました。長銀は、バブル期の過大な不動産融資のツケで、経営が傾き、債務超過が疑われる状況に陥ってしまったのですが、98年7月30日に誕生した小渕内閣の下で、大蔵省は住友信託銀行に長銀の救済合併を依頼し、8月20日には、小渕首相と宮沢蔵相が2人揃って、住信の頭取に直々の要請までしたのですが、長銀の不良債権の実態が明らかにされないままでの合併に、住信は最後までOKを出さず、この構想は日の目を見ませんでした。そして、金融国会と称された与野党の攻防を経て、ようやく10月に入って金融再生法が成立。それから間もなく、長銀は自ら金融再生法に基づく一時国有化を申請、実質的に破綻しました。政府は申請を受けて、長銀の全株式を買い取り、公的資金で預金などを払い出すなどして、譲渡可能な姿とした上で、長銀株式の譲渡先を探したのですが、日本企業の応募はなく、僅か10億円という捨て値に近い値段で、前述のリップルウッドが落札しました。住信を始めとする日本の金融界は、自らも不良債権の処理に苦しみ,僅か10億円の出資にすら、手を上げることが出来なかったのです。その限りにおいて、私は、リップルウッドは日本の金融危機の救世主の役割を果たし、ノンリスクで(不良化しそうな債権には、瑕疵担保条項がつけられていました)利益を上げた、有能な投資家集団であったと考えています。
2011.09.28
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明治政府の功績と日本資本主義の特徴(44)日本は、世界でも最高水準の医療保険を保持しています。オバマ大統領が悪戦苦闘している米国の医療保険とは雲泥の差です。社会保険についても、かなりの水準にあります。にもかかわらずGDPに占める税金の割合は、とびぬけて低いのです。GDP比の税収の割合を、世界標準に近づけるだけで、日本の財政赤字は簡単に消えます。この事実を知るからこそ、大きな財政赤字を抱えながら円が買われ、日本国債の金利は世界でグンを抜く低金利で、取引されているのでしょうか。そう思いたくもなってきます。なぜ、日本は他国並みに税率を上げることが出来ないのでしょうか。それは、政治家や官僚が、国民に信頼されていないからではないかと、私は考えています。 続く
2011.09.27
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ユーロの憂鬱 (13)なぜ、そんな状況になったのか。ヨーロッパ中央銀行(ECB)に日本の金融庁や米国のFRBのような力がないからです。ユーロは欧州共通通貨ですが、各国に中央銀行があり、金融監督は各国政府が行なうのです。その各国政府の了解の範囲でしか、ECBの検査監督体制は、及ばないのです。そのため、昨年、今年とストレステスト繰り返しても、それが信頼できる(=各国金融機関の実態を反映した)調査にならないのです。建前としては、BIS(国際決済銀行)規制でも、各国の国債は返済確率100%で計算されます。しかし、現実にはギリシアの国債が満額返済されるとは、誰も思っていません。そのため短期債の金利が100%を超えるようなことになるのです。こうした南欧の国債は、当然ストレスをかけて、簿価でなく時価で評価しなければ、金融機関の健全性の実像は見えません。90年代末から今世紀の初めにかけて、日本政府が欧米諸国から言われ続けたのと、全く同じ構図がそこにはあります。例えば、ギリシア国債の市場での流通価格を50%、ポルトガル国債を60%、イタリアとスペインを80%程度として(これでもかなり甘いのですが)、金融機関の資産査定をやり直す必要があるのです。ECBはその必要を声高に繰り返しているのですが、各国の反対で、なお実現していないのです。 続く
2011.09.27
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クロニクル 昭和天皇、マッカーサーを訪問1945(昭和20)年9月27日敗戦の年ですから、66年前のことです。この日午前10時、昭和天皇はGHQ総司令官のマッカーサーを米国大使館に訪ね、35分間会談しました。この会談で、天皇はマッカーサーが手際良く占領を遂行したことに感謝の意を述べ、マッカーサーは円滑に占領が進んだのは天皇のリーダーシップのおかげと,先ずはエールの交換が行なわれたように報じられました。会談に先立って撮影された写真が、29日に新聞各紙に公開されると、モーニングの正装で訪問した天皇と軽装のマッカーサーの対比に注目が集まり、これが占領というものかと、悲憤慷慨する声が噴出したと言われます。しかし根本的には、マッカーサーが天皇を訪問するのではなく、天皇の方が足を運ばざるを得なかった事実に、両者の力関係が読み取れました。GHQこそが日本の統治者である現実を、日本国民に最も強く印象付ける方法として、天皇の訪問を劇的に利用する、これがマッカーサーの戦略でした。写真掲載に関して、当時まだ天皇=現人神説に捉えられていた山崎内務大臣は、「天皇の写真を新聞に掲載することは、恐れ多い」と語って、掲載した各紙を、発禁処分としました。直ちにマッカーサーが介入、GHQ本部は発禁解除を命令し、前述の写真が無事掲載される一幕もありました。
2011.09.27
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ユーロの憂鬱 (12)9月10日にかけての週末、欧州ではどの国も、ギリシアが破綻した場合に、自国のメガバンクの資金繰りが大丈夫か否か、様々なケースを想定してのシュミレーションが行われたことが、明らかになっています。ドイツはドイツ銀行の破綻を避けるための備えが急がれ、フランスはソシエテ・ジェネラルやBNPパリバの資金繰りのシュミレーションに、追われました。当然、オランダ、ベルギー、スペイン、イタリアも休日返上で、ギリシアショックをどう吸収するかに、知恵を絞ったのです。その結果、各国のメガバンクの救済体制が整うまでは、少なくともギリシア破綻の引き金は引けないと、当面は期限の来た支払いを完了するための最小限の資金を貸し付けて、破綻を先送りすることを決めたのです。これがギリシアの破綻が先送りされた真相でした。そして各国の金融機関の資金繰りについては、ECBだけではとても支えきれないと、米国のFRB、日本の日銀、さらにはイングランド銀行にも、協力を依頼して、これを支える体制をとったのが、次の週の週末でした。ここで、いつギリシアがデフォルトしても、それが原因となって、世界金融の資金の流れが途絶することはない体制が、準備されたのです。ところが別の問題が起きました。ギリシアのデフォルト、ユーロ離脱が現実味を帯びたのですが、ここに至るまでの時間が長かったために、国債の危機はスペインとイタリアにまで波及してしまったのです。そのため、ギリシアをデフォルトさせてしまうと、ユーロ圏南欧諸国が揃って危機的状況に陥ってしまうことになります。そうなると、EFSF(欧州金融安定基金)に現在拡充しようとしている資金では、到底足りないことになります。現在は、ギリシアがデフォルトすると、財政状況の厳しい他の南欧諸国の国債保有者が、リスク回避に手持ちの国債を売り急ぐことが、予測できます。そうした国々の国債の金利は急騰し、価格は下がります。この状況では、そうした国々はECBの保障がつかない限り、資金の借り入れは出来ないでしょうし、EFSFからの借り入れに頼らざるを得ないでしょう。このEFSFへの各国の資金拠出。各国議会の承認が必要なのですが、現在でもスンナリ議会の承認が取れそうな国は少ないのですから、青天井で拠出金を増やすのは、どう考えても難しい状況にあります。 続く
2011.09.26
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続・クロニクル 青函連絡船洞爺丸沈没1959(昭和34)年9月26日伊勢湾台風として、東海地方に今日でも忘れられない大きな被害を齎した台風15号は、同日の夜になって、もう一つの忘れがたい大災害を齎しました。青函連絡船洞爺丸の転覆事故です。東海地方を直撃した台風15号は、昼頃能登半島を抜けて日本海に抜け、夕刻津軽海峡に到達しました。青函連絡船洞爺丸は、風速40mを越す強風が吹き荒れていたため、出航を見合わせて台風の通過を待ち、風が凪ぐのを待って天候回復と判断し、午後6時39分に函館港を出航したのです。当時の気象情報の限界なのでしょうが、台風の目に入ったことを、通過と勘違いしたのです。そのため、出航後しばらくして、台風の影響による強風に煽られて航行不能に陥ってしまい、近くの港に避難しようと下のですが、波に流されて座礁してしまい、午後10時26分のSOS信号の発信を最後に転覆してしまいました。洞爺丸には、乗員・乗客1314名が乗船していましたが、同時に遭難した4艘の貨物船を合わせて、1155人の死者、行方不明者を出す大惨事となりました。世界の海難事故史上、タイタニック号の遭難に次ぐ、第2位の大惨事でした。生存者は僅か159人でした。
2011.09.26
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クロニクル 伊勢湾台風上陸1959(昭和34)年9月26日もう52年も前のことになります。奇しくもこの1年前、53年前の翌日27日には、静岡県伊豆地方に大きな災疫を齎した狩野川台風が襲来していますから、まさに2年続けての災疫でした。この日、死者・行方不明者合わせて5,101人という、明治以降で最大の被害を齎した伊勢湾台風が襲来しました。伊勢湾台風は、最大瞬間風速48,5メートル、風速30メートル以上の暴風圏が、半径300キロメートル以上という超大型台風でした。この日紀伊半島潮岬付近に上陸すると、時速70キロメートルの猛スピードで北北西に進み、岐阜・富山両県を通過して、いったん日本海に抜け、翌27日には、東北地方に再上陸し、合わせて39道府県に大きな被害をだしたのです。被害家屋は50万戸、被災者数は1,532,954人に及びました。特に被害が大きかったのは、愛知県と三重県で、伊勢湾台風の襲来と満潮の時間が重なったために、5,3メートルという高潮に襲われたこと、また木曽川、長良川が決壊して、桑名市は、全市が水浸しとなり、三重県川越村では、1,500戸が全滅の憂き目を見ました。
2011.09.26
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ユーロの憂鬱 (11)9月9日以降、ギリシアのデフォルトとユーロからの離脱が囁かれていますが、今のところつなぎ融資で何とかデフォルトを避けています。今年、ユーロ圏諸国の金融機関の、2度目のストレステストが行なわれましたが、各国の国債のソブリンリスクは、BISでもゼロとしているのだからと、ギリシアやポルトガルなど、国債の金利が高騰(値段は下落)している国々の国債まで、相変わらず100%で評価していたのですから、たまりません。ギリシアの破綻は、ただちにギリシア国債を抱えたり、ギリシア政府、ギリシアの金融機関や企業に多額の貸し付けを行なっている欧米の金融機関を直撃します。ドイツ、フランス、イギリス……欧米政府は、自国の金融機関の頓死をさけるために必要な資金の確保に、血眼になっていたのです。安住蔵相のデビューとなったG7蔵相・中銀総裁会議で、円高是正などというのどかな話題を取り上げる時間的余裕など、最初からないことははっきりしていました。取り上げられなかったのは、安住蔵相の政治力のせいなどではありません。欧州の金融事情を把握できていなかった日本のマスコミのミスリードに過ぎなかったのです。当然、日銀や財務省は早くから事情を知っていました。しかし、他国それも欧州主要諸国のメガバンクの経営が危ないからなどということは、到底一言といえども漏らすわけにいかないことです。漏らせば、金融危機の引き金を引いたことになってしまうからです。この問題を日本のマスコミが報じだしたのは、欧米のマスコミから5日から1週間遅れてのことでした。 続く
2011.09.25
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明治政府の功績と日本資本主義の特徴(43)農水省と農水官僚、そして彼らとタッグを組む政治家達の問題点、日本農業に与えるマイナス効果は、あげればキリがありませんので、前回のところで打ち止めにします。ただこうした愚策が、明治以来営々と積み重ねてきた日本資本主義の将来像を、大変暗いものにしていることは事実です。財政再建も遅々として進みません。何故でしょうか。この稿を閉じるにあたって、最後にこの問題を考えておこうと思います。恐縮ですが、後数回お付き合い下さい。OECDのシンクタンクが発表した資料ですが、世界各国の税収が、対GDP比でどのくらいの割合を占めるかが、公表されています。この統計によりますと、世界主要国の税収額がGDPに占める割合は、2009年度で平均33,7%に達しています。国別に見ますと、最も税収の割合の高い国(それだけ国民の負担は重くなります)は、デンマークで48,2%に達するそうです。以下フランスの42%、ドイツの38%、イギリスとアイルランドが共に35%、スペイン31%、ギリシア30%と続きます。韓国は26%で、アメリカは24%です。そして問題の日本はというと、GDPはおよそ500兆円、税収は約40兆円ですから、、およそ8%に留まっているのです。日本は経済先進国のなかで、際立って国民の税負担が少ない国なのです。これを仮に米国並みの24%に引き上げるとどうなるか。たちどころに税収は120兆円まで膨らみます。昨年の総予算が90兆円程度ですから、単年度の予算は大幅黒字となり、財政赤字は毎年の黒字分で消してゆくことが可能となるのです。何故できないのでしょうか? 続く
2011.09.25
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クロニクル 怪人21面相森永も脅迫1984(昭和59)年9月25日もう27年も経つのですね。半年前の3月にグリコの江崎社長を自宅から拉致し、高額の身代金を要求、その後毒入りのグリコ製品をばら撒くと同社を脅迫していた、怪人21面相を名乗る犯人グループから、この日標的を森永製菓に代えた,新たな脅迫状が在阪のマスコミ各社に送られてきました。書状には青酸ソーダが同封されており、森永製菓に1億円を要求したことも記されていました。以後マスコミ各社は、この事件をグリコ・森永事件と呼ぶようになります。事件は犯人グループの1人と思われる人物がコンビニに毒入り菓子を置くところと思われる、店側の防犯ビデオの写真が公開されたり、同じくキツネ目の男の似顔絵が公開されたりしましたが、遂に迷宮入りし、今日まで未解決のままになりました。森永への脅迫は10月に入るとエスカレートし、京阪神や中京地区の店に、「毒入り危険」という警告文をつけた森永製菓の菓子7個が置かれるなど、次第にエスカレートし、その後も計18個の菓子が置かれる大騒ぎとなりました。森永製菓の売上げは激減。年末にかけ、社員が総出で、社員直販なので、ここで買う菓子は安全ですと、必死の売上げ作戦を展開するなど、大きな社会問題になりました。脅迫は丸大食品、不二家、ハウス食品にも及びましたが、薬品の売上げが伸び、多角経営の進んだ明治製菓は外されるなど、食品専業で脅迫しやすい企業を狙い撃ちしていること、巧みにマスコミを利用して、消費者の不安を煽っていることなど、相当の悪知恵の持ち主が仲間に加わっていることが、推量できました。
2011.09.25
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ユーロの憂鬱 (10)ユーロ圏の財務省・中央銀行総裁会議に、米国のガイトナー財務長官が特別参加したり、G20が欧州諸国を激励したりと、色々なニュースが報じられますが、具体的な進展は、全く図られていないことは、新聞報道からもはっきり読み取れます。具体的成果があれば、それは見出しにも反映されますから、各新聞社のデスクも、毎日「ヤレヤレまだかよ」とグチリながら、1日2回の見出しを考えているのでしょうね。少々気の毒です。このブログでも、かなり前から指摘してきましたが、経済活動では信用が大事です。信用を築き上げるには長い時間を要しますが、信用を失うのは簡単です。そして、信用は目に見えるものではありませんし、口で証明できるものでもありません。とりわけ金融機関、金融問題では、「危ない」という噂が立つだけでも、致命傷を負います。経営者が「ウチは大丈夫。十分な備えがある」などと、語らざるを得ない時は、この金融機関は、極めて危険な状態に追い込まれているのです。経営者自身、自分がこう話しても、ほとんど誰も信じてくれないことを知りながら、話しているのです。信用とは行動で証明するものであり、言葉で証明するものではないからです。現在のギリシアや南欧の危機は、金融機関ではなく、国家の危機なのですが、事情は同じです。ギリシアやポルトガルといった、小さな癌細胞を早期に切除することをためらったがために、イタリアやスペインンという、非常に大きな細胞にまで転移してしまい、大きすぎて切除は勿論、救済することもままならない状態に陥ってしまったのが現在です。 続く
2011.09.24
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1年経ちました昨年9月21日に入院し、1年前の今日、肝臓がんを摘出する手術を受けました。手術室を出たのが、12時半頃だったようなので、今頃は縫合を終えての最終チェックの頃合だったのでしょう。皆様から色々な激励をいただき、おかげをもちまして、今のところ大変順調に恢復しつつあります。有難うございました。現在は3ヶ月ごとの検査で、チェックを続けており、10月はじめの検査結果で、少量のアルコールは許可してもらえるのではないかと、少々期待しているこの頃です。それだけ、恢復を実感しているということでしょうか。「好事魔多し」楽観しすぎないよう、自重しながら、これからもボチボチ参りたいと考えています。今後ともどうぞよろしく。別件です。ブログ仲間のkopanda06さんが、紹介くださっているのですが、熊野の水害で被災された「平八工房」さんのブログに、台風12号による熊野水害の様子が、写真付きで詳細に綴られていました。熊野から十津川を通って、吉野へ抜けたり、逆に吉野から熊野那智大社を目指したりと、熊野古道を辿る旅は、私の好きな旅行コースだったこともあり、土砂ダムのことなど、気にしてはいたのですが、被害実態の凄まじさは、TV報道だけでは十分に伝わらないものですね。「平八工房」さんのブログのアドレスを記しておきます。よろしかったらご覧になって下さい。http://plaza.rakuten.co.jp/heihachi/diary/201109230000/
2011.09.24
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クロニクル 西南戦争終了へ1877(明治10)年9月24日134年前になります。この日、郷里鹿児島の城山に篭っていた、西郷隆盛ら旧薩摩藩士を主力とする反乱軍は、政府軍の総攻撃を受けて、西郷や桐野利秋らが自刃し、西南戦争は終結を迎えました。熊本城攻略に失敗した西郷軍は,熊本を撤退して、人吉、都城、宮崎と転戦したのですが、苦戦を続けて、遂に鹿児島に引き返す決定をします。しかし、数と物量に勝る政府軍は先回りして鹿児島市内を抑えており、やむなく西郷軍は城下を見下ろす城山に篭り、政府軍と対峙したのです。9月1日のことでした。しかし、兵力400名弱、小銃僅かに150丁の西郷軍は、8個旅団約5万名の政府軍の攻撃になすすべもなく、この日の総攻撃を迎えたのでした。西郷の自刃により、2月以来、7ヶ月に及んだ西南戦争(近代日本における最大の武力反乱でした)も、遂に終りを告げました。 ここから時代は、武力ではなく言論による反政府運動=自由民権運動に軸足を移してゆきます。
2011.09.24
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ユーロの憂鬱 (9)8月14日以来、久し振りにユーロの問題を取り上げます。ギリシアがいよいよ断末魔の様相を示しています。国債の金利が異常に跳ね上がっています。10年物で、20%台、2年物では120%超え、1年物は何と150%超えです。表面金利が5%だとすると、1万ユーロの国債の金利は500ユーロです。それが20%になるということは、国際の市場での取引価格が下がって、額面1万ユーロの国債が、2500ユーロでしか売却できなくなっていることを示しています。これで利息の500ユーロが20%になります。利息が100%なら、売買価格は500ユーロです。常識的にはありえない価格ですね。ギリシア国債の所有者の多くが、近くギリシアは国家破産して、国債は踏み倒されて0になる。こう考えているからこそ、こうした値が付くことになります。EU首相国の首脳が、どう発言しようと、市場がそれを信じていないことを示しています。ギリシアの破綻は、近そうですね。 久し振りで、ユーロのことを少し書き足してみようと思います。 続く
2011.09.23
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明治政府の功績と日本資本主義の特徴(42)私は、日本農業の足腰を強くするための補助金の支給(=税金の使用)には反対しません。補助金なしでは成り立たない、原価割れの赤字作物に多額の補助金をばら撒く非効率を問題にしています。私も最近知ったのですが、四国は香川県の名産「讃岐うどん」の原料となる小麦は、なんとその95%がオーストラリア産だそうです。「国産小麦は品質の点で、外国産に遠く及ばないので、外国産の半値であっても使いたくない」のだそうです。実際は、日本産小麦の生産者価格は、外国産の6倍以上もします。この点は隠すことも出来ないので、農水省や農協も、日本産小麦の品質の低さは認めているのです。その上、収穫量の点でも見劣りがします。2007年の統計ですが、日本産小麦の1ha当りの収量は平均3,2トンです。イギリスは6トン、そして砂漠の国サウジアラビアでさえ、4,4トンです。米の減反で、農水省の指導に従った作物を作付けしていれば、多額の転作奨励金が手に入るのです。奨励金目当ての作付けですから、品質の向上や収量の増加には、関心が向きません。補助金が、農家の自立心を削いでいる例がここにあるのです。日本農業を巡る闇も深いですね。
2011.09.23
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クロニクル 久保山愛吉さん死す1954(昭和54)年9月23日57年前のことです。この年3月1日、焼津のマグロ延縄漁船第五福竜丸が、米国が大気圏内核実験を強行したビキニ環礁の、航行禁止区域外で操業していて、大量の死の灰を浴びました。水爆の威力が、米軍の推定よりもはるかに大きく、指定された航行禁止区域のはるか外まで、死の灰が降下したことが原因でした。事情を知らない漁船員たちは、降り積もる死の灰を浴びながら23人の乗組員全員が、甲板での作業を続け、全員が原爆症の症状に苦しみながら帰港し、そのまま全員が入院しました。その中の1人で特に症状の重かった久保山愛吉さんが、秋の彼岸のお中日にあたるこの日、半年近い闘病と、ご家族、仲間、治療に全力を尽した医師団、そして唯一の被爆国民として原爆症の苦しみと痛みを共有しえた全国民の願いも空しく、遂に亡くなりました。「原水爆による犠牲者は、私で最後にして欲しい。」この言葉が、久保山さんの最後の言葉でした。私はこの時、小学校の6年生。プロ野球(この年は魔球の杉下投手の大活躍で、中日ドラゴンズが優勝しました)や大相撲(最近は全く見なくなりました)の記事を中心に新聞に親しみはじめた頃でしたが、久保山さんや第五福竜丸、原爆症関連の記事は、読みやすかったのでしょうか、良く読んでいた記憶があります。そして第五福竜丸の被爆と久保山さんの闘病の報道は、8月の杉並の主婦たちの署名運動をきっかけに、日本が世界に発信して大きなうねりになった、原水爆禁止運動に結実して行きます。核兵器、原子力発電所と共に、命あるうちに廃絶出きると良いのですが……
2011.09.23
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明治政府の功績と日本資本主義の特徴(41)農水省は、良く食糧自給率を上げることを主張します。「世界人口が増えている以上、いずれ食糧輸入が途絶する事態もありうる。その日に備えて自給率を上げておかないと、大変なことになる。」 こう主張されると、ついなるほどと思ってしまいます。しかし、次の数字を見てください。耕作放棄地が問題となったことは御記憶と思いますが、日本ではここ10年で70万ヘクタールの農地が減少しています。この農地の減少=耕作放棄地の増加は、日本だけの減少ではなく、フランスで54万ヘクタール、イタリアで146万ヘクタール、アメリカでは373万ヘクタール減少しています。注意すべきなのは、これだけ農地が減少しながら、日本を含めた各国の農業生産量は、減少するどころか、順調に増加していることです。生産技術の向上で、単位面積当たりの収穫量が増加しているからです。人口の増加よりも、食糧増産のピッチの方が早いからこそ、生産効率の悪い農地が、放棄されているのです。ですから、「やがて食糧輸入が難しくなる」ことは、考えなくてもいいのです。農水省は、食糧自給率を引き上げるためと称して、家畜に食べさせる飼料米の生産にも、多額の補助金を支給しています。2009年を例に取ると、1反(約10アール)あたり8万円で、総額1872億円です。細かい計算は省きますが、飼料米1kgあたり133円の補助金が支給されている計算になります。ここ数年で、輸入トウモロコシの価格はかなり上昇しましたが、それでもキロ当たり30円程度です。多くの畜産農家は、自家生産の牧草に、青刈りしたトウモロコシなどに、輸入したトウモロコシや大麦などを混ぜ合わせた配合飼料を使っています。その大部分が輸入飼料です。わざわざ補助金を投入して、高価な飼料米を加える必要など、どこにもないのです。畜産農家は、補助金目当てに作られる飼料米よりも、国際競争を勝ち抜くことを意識して生産されている、高品質な外国産飼料の方を、好んで使っているのですから…ここにも、農政の無駄が息づいています。 続く
2011.09.22
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クロニクル イラン・イラク全面戦争に突入1980(昭和55)年9月22日31年前のこの日、既に小競り合いを続けていたイランに対し、イラク軍は本格的に主力軍による越境攻撃を仕掛け、イラン領土への侵攻を開始しました。そうしたイラクの越境攻撃を、イラン革命の自国への輸出を恐れるサウジアラビアや湾岸諸国はこぞって支持し、フセインのイラクに対する資金援助を惜しまなかったのです。イラン革命の輸出を警戒するアメリカもまたイラクを支援、対仏大同盟軍に包囲されたフランスさながらに、イランは対イ大同盟軍に包囲されながら、粘り強く戦い抜き、革命の防衛に成功したのです。
2011.09.22
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明治政府の功績と日本資本主義の特徴(40)農水省の地方出先機関に「農政事務所」があります。農水省職員の労働組合「全農林」は、組織率90%を誇っていることで知られ、組合員数は2万2千人を数えるのですが、その組合員のほとんどが、「農政事務所」の職員です。三笠フーズの「事故米問題」が、一時マスコミを騒がしましたが、録に調べもせずに、大量の「事故米」を三笠フーズに売り渡していたのが、「農政事務所」でした。食用に出来ない「事故米」の大量買いを、おかしいとも思わずに、ホイホイと売り渡していた職員は、自分の職務に忠実に、熱心に仕事をしていたと言えるでしょうか。そもそも「農政事務所」は、何を仕事にしてきたのかというと、当初は米の作柄を調べる小所帯の組織だったのです。それが70年代に始まる自民党農政の悪政、「減反政策」が導入されると、あれよあれよという間に所員を増やしたのです。休耕田として届けられた田が、本当に稲を植えないでいるかどうかを、全国各地の田を1枚1枚見回るために、万単位の職員が増員されたのです。まさに減反政策によって、作り出された公務員のムダな仕事の典型がここにありました。やがて見回るほうもイヤになります。「どうせ作っちゃいないだろうから、お互い見回ったことにしとこうや」と、偽の出張届けと出張報告書を作っての、組織ぐるみのカラ出張が出来上がります。この問題もマスコミを騒がしました。所得補償政策が本格的に導入されれば、「補償の対象となる作物を指定面積通りに作っているか」を確認する作業が加わりますから、「農政事務所」の仕事量は、さらに大きく膨らむことになります。農水省にとってこれほど美味しいことはないのです。この戸別所得補償政策については、自民党筋からはしきりに反対の声があがりますが、農水官僚からはそうした声が聞こえないのは、こうした裏事情が働いているからのようです。こんな制度は、まさに税金の無駄遣いの屋上に屋を築くようなものですから、早期に廃止しないといけませんね。 続く
2011.09.21
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クロニクル 室戸台風襲来1934(昭和9)年9月21日15号が上陸しそうですね。そこで、本日のクロニクルは、人間で言えば喜寿にあたる77年前に、四国の室戸岬に上陸した台風を取り上げます。この日、午前5時過ぎ、高知県の室戸岬に超大型の台風が上陸しました。台風は午前8時過ぎには大阪市に達し、最大瞬間風速60メートルを記録する猛威を振るいました。その結果、四天王寺では国宝の五重塔が中段から倒壊、搭の下に避難していた20人が下敷になりました。また大阪各地の木造小学校164棟が倒壊、児童676人、教職員18人が犠牲となりました。滋賀県の瀬田川鉄橋では、東海道線の下関行き急行列車が強風に煽られて転覆、175人の死傷者がでました。また大阪湾の高潮は4メートルに達し、多くの船舶や家屋が飲み込まれました。被害は大阪と兵庫を中心に2府32県に及び、死者・行方不明者3246人、家屋の全半壊88046戸に達する大きな被害となりました。
2011.09.21
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明治政府の功績と日本資本主義の特徴(39)兼業農家と言っても、農業収入が生活費の主要部分を占めるような、専業に近い農家を支援するなら、話は分かります。しかし、農外収入が生活費の過半を占める農家にまで、補助金をばら撒くことは、農業の足腰を鍛えるどころか、経営拡大を図ることで国際競争に立ち向かおうとしている、専業農家の足をひっぱっているのが現実です。経営拡大を目指す専業農家は、経営を放棄した耕作放棄地を借り受けるなどして、飛び飛びの農地とながらも、少しづつ経営を拡大してきたのが、最近までの動きでした。そこへ、民主党の「個別所得保障方式」が登場したのです。田畑を耕していれば、作物ごとに市場価格と平均的なコストの差額が、補助金としてもらえるのです。僅かな小作料収入よりも、補助金の方が大きいのですから、当然多くの兼業農家は、専業農家との土地貸借契約を破棄して、とりあえず作付けを再開します。当然、収量は専業農家に及びもつきません。せっかく専業農家中心の農業経営が進みかけていた段階で、強烈な揺り戻しが来たことになります。こうした時代錯誤の農政の展開を、民主党の政治家だけで考えたのでしょうか。おそらく、農水関係の官僚や労組が、既得権を守り、さらに拡大するために、民主党議員に知恵をつけたのではないかと考えるのは、私の邪推でしょうか。 続く
2011.09.20
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反原発集会とマスコミ報道昨日、東京の明治公園で、大江健三郎、内橋克人、澤地房江氏らが呼びかけ人となった「原発は入らない」集会が、「さよなら原発5万人集会」と銘打って開かれました。3月以来の、フクシマ第一の大事故以降の、日本のマスコミの報道姿勢は、報道の自殺と呼ぶのが相応しいほどに、政府・財界・官界・学界・東電がスクラムを組んだ原子力村の意向に沿った報道に偏っています。当然、原発反対運動に関する報道は影を潜め、民間団体の地道な活動は、ほとんど全てを無視して、報道しない姿勢をとり続けてきました。しかし、さすがに昨日は、ビッグネームが発起人となって呼びかけているだけに、無視は出来なかったようです。夜9時台のニュースから報道が流れ、今朝の各紙にも記事が載りました。しかし、その記事たるやです。集会に参加した友人が、昨夜送ってくれたメールを転載します。勿論本人の許可を得ています。>「今日は大江健三郎・澤地久枝らがよびかけた明治公園での「原発はいらない」集会に出か けてきました。公園に入りきれなほどの人びとが集まっていました。福島県からもバスを組 んで参加した人たちの代表の方が涙声で「みなさん助けてください」と発言していました。 今、午後7時のNHKニュースを見ているのですが、報道されません。そこで、インターネ ットをみたら、こんな投稿がありましたので、コピーします。 今日の反原発デモ 主催者発表人数は、6万人 大手テレビ報道は・・・ NHKは、6万人 朝 日放送は、3万人 日本テレビは、4万人 TBSは、2万7千人 東電からお金貰ってるからっ て・・・コレはヒドイ!! 明日の新聞各紙はどう報道するのでしょうか。ともかくすごい人でした。」…<と。ツイッターから拾ったものを、次にのせます。◎Shoko Egawa のツイッターでは >明治公園で行われた「さようなら原発5万人集会」の参加者。「2万5000人以上」(FNNニュース)、「およそ2万7000人」(TBSnews)といった警察発表を報じるメディ アと「主催者発表で約6万人」(毎日、朝日など)とするメディアに分かれる。読売は人数 載せず。(ネットでの報道)< ◎池田香代子のツイッターでは、 >デモ、国会裏などで顔見知りの日本山のお坊さん達と歩かせてもらいました。警察から一 番安全なグループだと思ったからです。途中で、今日は警察やる気ないとわかりましたが。 うちわ太鼓は元気が出ます。私も入れていただいている以上は日本山式シュプレヒコールに 加わりました、「南無妙法蓮華経」って …<◎金子勝のツイッターでは、 >「雪国まいたけ」が郷ひろみを使って「放射能検査をやってます」のCMが流れています が、一民間企業がここまでやらなければいけない状況を誰が作ったのか。宣伝力のないキノ コ栽培農家はどうなるのか。つい考えてしまいます。なぜ食品全量検査をやらない…<池田さんの文にある「警察やる気ない…」は、デモ隊を挑発して、殴る蹴るの暴行を加えた上で、めぼしをつけている活動家数人を、公務執行妨害で逮捕する手です。1960年代に開発され、以後機動隊の18番となっている、かねてからお馴染みの手段なのですが、この日はその手を封印して何もしないと決めて出てきたことを、池田さんが敏感に察知したということでしょう。金子氏の言う食品の全量検査、怖くて出来ないのでしょうね。ヤレヤレ、この政府は、この国の宝である子ども達や若者達を、まだモルモットにし続けるのですかね…
2011.09.20
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クロニクル 中国憲法採択1954(昭和29)年9月20日この日、中国共産党が指導する中華人民共和国は、開会中の全人民代表者会議(略称 全人代)の席上で、中華人民共和国憲法を採択しました。憲法は共産党の指導を明記した上で、全人代で国家主席、首相を指名することなどを明記したもので、初代国家主席に毛沢東党主席を、首相に周恩来氏を指名しました。
2011.09.20
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台湾からの義捐金知人の池田香代子さんが、ツイッターで「転載希望」と銘打って、次の記事をリツイートしていましたので、皆様にもお知らせします。内容は、面積的に九州とほぼ同じ、個々人の収入も日本人の3分の1程度の台湾の人たちの東日本大震災に対する義捐金額の大きさについてです。>【拡散希望】地震から半年…台湾からの義援金がついに、世界ダントツ一位の200億突破!!九 州ほどの大きさしかなく、日本人と比べで収入も3分の1くらい。親日台湾からの思い!!悲 しいことに、メディアではほとんど報道されない…。だからネットで知らない人達に、伝え たい!!" <
2011.09.19
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明治政府の功績と日本資本主義の特徴(38)日本の農政で救いがたいのは、農村出身の議員は、自民党の議員だけでなく、かつての社会党の議員も、現在の民主党の議員も、ほぼ例外なく農家保護に多額の税金を投入することに、熱心なことです。生産性の向上や農業経営の近代化、そして日本農業の国際的競争力の向上に熱心な農家を保護し、支援するための財政出動なら、理解できます。しかし、現在の日本の農家の大半は、とうちゃんは会社勤めをして一家を支え、かあちゃんとじいちゃんばあちゃんで、田畑を耕す兼業農家です。家計はとうちゃんの収入で維持され、田畑で収穫した作物は、先ず自家消費をし、都会に出てしまった息子や娘の家族に送り、残ると農協に出荷する、いわば腰の座っていない片手間農業です。これを保護する必要はどこにあるのでしょう。選挙区とする代議士にとっての票の意味しかありません。民主党が始めた農家に対する「戸別所得保障政策」は、その最たるものといえます。米を例にすると、対象農家は約180万戸、そのうち100万戸の農家は、現在でも1ha未満の農家です。農業所得はごく僅かで、労賃を計算するとマイナスにさえなります。しかし、こうした農家の所得平均は、約500万円です。父ちゃんが役所や企業、農協などに勤めて得る賃金が所得の大半です。こうした家庭を兼業農家に分類し、赤字農家を手厚く保護しないと、日本の農業はダメになる。こう叫んでいるのが政治家と農水官僚です。こうした農家は、農業で生きていこうとか、農業で食おうとしているとは、到底いえません。そこに出てきたのが、個別所得保障の民主党プランでした。 続く
2011.09.19
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クロニクル アルジェリア臨時政府成立1958(昭和33)年9月19日53年目になります。この日、北アフリカのフランス植民地アルジェリアで、血みどろの独立戦争を戦っていたアルジェリア民族解放戦線が、臨時政府の樹立を宣言しました。仏領インドシナの一角、ヴェトナムでホー・チ・ミンをリーダーとするヴェトミン軍との戦いに敗れ(ディエン・ビエン・フーの戦い)フランス軍がヴェトナムから撤退したのが1954(昭和29)年ですから、僅かに4年後のことでした。フランスの植民地支配は現地住民の強い反発を受け、民族解放を目指す現地住民の独立運動との、血みどろの戦いに巻き込まれることが多かったのです。映画「アルジェの戦い」は実話を基として脚本が出来たのですが、民衆の海に隠れたゲリラとの戦いに疲労困憊したフランス軍は、ここでも民族解放戦線との戦いに敗れ、臨時政府の誕生から僅か4年後の1962年、アルジェリアは念願の独立を達成するのです。このアルジェリア、ジャスミン革命のチュニジアの隣国ですが、アラブの春と称された若者中心の一連の動きは、この国を素通りしています。北アフリカ諸国の中で、最も激しい解放戦争を戦い、独立を達成した過去を持つために、長期独裁政権の登場を許さないだけの政治経験を国民が積み、10年程度での政権交代を実現しているのが、その理由です。
2011.09.19
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明治政府の功績と日本資本主義の特徴(37)1960年代半ばには、稲の作付面積の増加と、生産性の向上により、米の自給率は100%を超えるようになりました。またこの頃から食生活の欧風化が進んで、米の消費量が落ちてきました。資本主義の論理に従って、農業を強化するには、この時期に食糧管理制度を段階的に廃止する決断をすべきだったと、私は考えているのですが、政府・国会・官僚等が農業団体の圧力の下に考えたことは、稲の作付けを制限して、米の全量買取を続ける減反政策の導入でした。70年代初めのことでした。減反奨励金とはいえないので、つけた名前が添削奨励金。要するに、水田の一部の作付けを見送ると、補助金を出すというとんでもない制度でした。一方で、減反に至るまでに溜まった在庫があります。保管料もただではありません。当然古米を管理する食糧庁は、米穀商に売り渡す米は、古米中心にブレンドして、古い米から出火します。当然米の味は落ちますから、益々米の消費量は落ちる。この悪循環に陥りました。政治による保護は、こうして既得権化し、政治家と官僚にたかる体質を身につけてしまった農家は、1部の篤農家を除いて経営努力を怠ります。農業の国際競争力を削いだのは、日本のダメ政治家と農水官僚、そして農協のトリオなのですね。そしてそれは、農村に厚い選挙制度によるところが大きいのです。戦後復興期という一時期に効果を発揮した政策を、必要性がなくなった後にも、廃棄せずに維持し続けた咎めは大きかったのです。 続く
2011.09.18
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クロニクル カップ麺の登場1971(昭和46)年9月18日ちょうど40年前のことです。この日、日清食品は、即席麺の新商品として、発砲スチロールの容器入りで、熱湯を注いで3分間待てば、食べられると言う「カップ・ヌードル」を発売しました。今までのインスタントラーメンのように手間がかからず、どこでも手軽に食べられる点に特徴があり、発売当初は知名度獲得のため、日曜・祝日の度に、営業部隊が銀座や新宿などの歩行者天国で試食販売なども行ない、好評を得ました。しかし、何といっても知名度を全国区にしたのは、翌72年2月の浅間山荘事件でした。管理人を人質に山荘に立て篭もった連合赤軍を包囲して雪の山荘前を取り囲んだ機動隊や長野県警の警察官達が、交代で指し入れられたカップヌードルで飢えを凌ぐ姿がTV放映され、一躍カップ麺とカップヌードルは茶の間に認知されたのです。後は自動販売機でも買え、すぐに食べられる手軽さから、ファーストフード感覚で食べられる食品として、爆発的なヒット賞品となり、カップ麺市場は、数年後には年間50億食を売り上げるようになりました。発売から9年、1980年のレークプラシット冬季五輪では、カップヌードルはオリンピックの公式商品に採用されました。
2011.09.18
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明治政府の功績と日本資本主義の特徴(36)つい回り道をしました。低米価低賃金政策に戻ります。1950年代末に始まった日本経済の高度成長は、弱電や造船を中心に輸出企業の隆盛を招き、若年労働力が不足がちな状況を招きました。こうなると、好調な企業は、毎年のように初任給を上げて、予定採用数を確保するようになります。新人の給与が昨年実績を上回るのですから、先輩である社員の給与も引き上げざるを得ません。新人の給与が先輩より高いのでは、洒落にもなりませんから…賃金が上がるのですから、低米価政策はもはや不用です。それにも関わらず当時の農林水産省と自民党政権は、食糧の配給制を維持し、米の全量買取を続けました。1946年の人口分布を基に作成された、衆議院(中選挙区制でした)と参議院地方区の選挙制度が、農村に厚く議員数を配分していたからです。国会では衆参両院とも、農村出身議員が多数派でした。彼らは農民票をバックに当選してきます。天下国家を論ずるよりも、自らの議席が大事な議員たちは、米を市場商品とせず、政府の全量買い付けを続けました。安い米を市場に提供するのではなく、農民から高く買い、そのお礼に自らに投票してもらうためです。右肩上がりの日本経済を背景に、消費者の給料は毎年上がっています。消費者は少々高い米でも買う力を持つようになっている。ですから、この時期には米価も高いものになっていたのです。それでも食糧管理会計は、相変わらず赤字のままでした。 続く
2011.09.17
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クロニクル 自衛隊海外へ1992(平成4)年9月17日もう19年も経ったのですね。この日、8月10日に施行されたPKO協力法に基づいて、自衛隊の第1陣がカンボジアに向けて,広島県の呉港を出発しました。戦後の日本は、平和主義を国是に、2度と戦争の惨禍を引き起こさないことを誓い、国際紛争解決の手段としては、武力による威嚇も、武力の行使も決して行なわないことを宣言しました。そしてそのために、陸・海・空軍その他の戦力はこれを保持しないと高らかに宣言しました。私はこの精神を大いに評価し、世界に対して誇らしく思っています。それが、いつのまにか自衛のための戦力は、国際紛争解決に使うわけではないから……とこじつけて、自衛隊は軍隊ではないと,言い逃れて…、次第に戦力を整え、自衛の…という言い訳が国際的に通用しなくなると、今度は国際貢献を…と論点をすり替え、治安維持部隊は紛争に参加するわけではないとこじつけて、とうとう自衛隊を海外に派兵するに至ってしまいました。カンボジアに続いてはアンゴラ、続いてと、遂にはあの不道徳なイラク戦争のイラクにまで、自衛隊は派遣され、今またインド洋で、海上自衛隊が給油という名の、作戦行動に従事しています。私は、9条の熱心な支持者ですから、自衛隊の海外活動そのものを、一切支持しませんし、ただちに撤収すべきであると考えています。既成事実の積み重ねは危険です。それは次なるエスカレートに繋がるからです。
2011.09.17
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明治政府の功績と日本資本主義の特徴(35)吉田内閣は、米国の占領政策の転換を、一面では歓迎しつつも、その性急な再軍備要求に困惑しました。軍部の横暴を苦々しく思っていた国民の大多数が、憲法9条を歓迎し、支持していたからです。そして同時に、国防予算の軽さによる予算編成の自由度の向上を、手放したくなかったからです。そこで、吉田内閣は、米国の方針に正面から反対することは避け、のらりくらりと米側要求の実現をサボタージュし、米側の非難には、国民の抵抗をあげて、時間を稼ぐ手に出たのです。そんな状況のなかで、1950(昭和25)年6月に起きたのが、朝鮮戦争でした。朝鮮戦争は、中国革命の勝利に奮い立った「北朝鮮」の金日成が、スターリンを説得して始めた戦争です。先制攻撃に成功した北朝鮮軍は、韓国軍を各地で撃破、韓国軍は釜山とその周辺に包囲され、まさに降伏寸前の状況に追い込まれました。慌てた米国は、ちょうどドイツ問題の拗れで、ライバルソ連が国連ボイコットに出ていたことを幸いに、「北朝鮮」を侵略者と断定し、韓国救済に国連軍を派遣する決議を、安保理で通すことに成功しました。こうして、国連軍という名の米軍が、朝鮮半島に大挙派遣されたのです。しかし、超音速ジェット機が太平洋を気軽に往復する現在と違い、当時の航空機による人員輸送は限られたものでしかありませんでした。兵員輸送の大半は、船によるしかなかったのです。当時の船足で、米西海岸から兵士を輸送したのでは、釜山防衛にはとても間に合いません。この時米軍は、北朝鮮軍の裏をかき、仁川に上陸して、「北朝鮮軍」を挟み撃ちにして、大打撃を与えて配送させたことが知られていますが、この軍隊は、どこから調達できたのでしょう。そうなんです。仁川に上陸した部隊は、GHQの駐留軍として日本に駐留していた米軍だったのです。沖縄や横須賀から、佐世保に集結し、一路対馬を経由して仁川に向かったのです。佐世保からですと、1日で到着できます。朝鮮有事、さらには台湾有事の際には、自由に動ける在日米軍の存在が、大きな力となることを、米政府と軍部の要人は、この出来事でしっかり学習したのです。日本に米国が望むだけの武装を整えさせるよりも、米軍の駐留を認めさせ、アジアの有事に自由に行動できる権利を確保するほうが、はるかに効率的である。仁川上陸作戦の成功から、米国はこう考えました。それはまた吉田内閣の考え方にも、合致するものでした。独立国日本に、外国軍(具体的には米軍)の駐留を認める屈辱を我慢することで、軽武装を貫き、国防費を安く抑えることで、経済活動の支援に投じることの出来る予算を、潤沢に確保する。吉田内閣の経済優先路線が、ここに確立したのです。こうして、米軍との約束の下に、サンフランシスコの講和と日米安保体制が出来上がったのです。 続く
2011.09.16
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クロニクル モース博士大森貝塚発掘1877(明治10)年9月16日大森貝塚発見者のモース博士の来日については、以前に触れました。博士の来日は、同年の6月18日でした。博士は到着2日後の20日に、知人を訪ねて、船で到着した横浜から(ヨコハマのハトバから~ふねにのーって…と歌われたように、飛行機のない当時、日本の首府への表玄関は横浜港でした)、東京まで汽車に乗りました。その車窓から大森海岸周辺の地層を見て、そこが貝塚であることを確信したことについても、その時記しました。その確信をいよいよ実行に移したのが、134年前の今日だったというわけですこの年発足したばかりの草創期の東京大学教授への就任を要請されたモースは、迷った末に受諾し、9月12日から教壇に立ち、最初の日曜日となったこの日、助手や学生等を伴って大森海岸を訪れ、ここが間違いなく貝塚であることを確認したのです。日本で考古学という学問分野が発足し、認知された瞬間でした。高松塚を始めとする古墳群、三内円山遺跡などの縄文遺跡の発掘などの、目覚しい成果の原点は、ここにあったのです。
2011.09.16
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明治政府の功績と日本資本主義の特徴(34)ところで。日本を再び軍事大国にはしない。そのために徹底的に民主化し、憲法で戦争放棄を規定させ、戦力不保持も明記させる。これがGHQの(ということは実質米国の)対日占領方針でした。ところがこの方針は1848~49年を境に大きく変貌します。戦争直後には、予想もしなかった(これは米国のみでなく、ソ連を含む世界中がそうでした)変化が中国で起きたからです。日中戦争の開始後、中国では内戦状態にあった国民党と共産党が、日本の侵略に対抗するために、内戦を中止して手を組み、対日共同戦線を張りました。国共合作です。戦争が終わり、国共両党の統一戦線も、目的を達成して解散します。この時国民党系の国民革命軍は約430万人、共産党系の中国紅軍(後の人民解放軍)は約120万人と大きな差があり、ソ連のスターリンさえ、毛沢東に対して、しばらくは国民党の支配に服して、軽挙妄動を慎むようにと、内戦再開を自重するように求めていたのです。それぐらいですから、米国は中国が蒋介石の国民党の下で安定し、社会主義封じ込めの最前線の役割を果たしてくれるものと、信じて疑わなかったのです。それが故に「日本は東洋のスイスに」という構想だったのです。しかし、僅か3年でこの構想は崩れたのです。中国の社会主義化は、米国にとってまさに青天の霹靂でした。中国を失った今社会主義封じ込めの最前戦としての役割を担えるのは、資本主義化の進んでいる日本しかありません。ここに米国の対日政策は大転換を遂げました。米国は日本政府に政策転換を迫ります。「速やかに憲法9条を改正して、再軍備を進めて欲しい」と。当時の政界には、憲法9条の盛り込みに反対した人たちも降りました。彼らは大喜びだったのですが、吉田首相はガンとして米国の要求に、ノーと首を振り続けたのです。彼の頭には、軽武装を続けることで、国防予算を抑え、浮いた予算で経済再建を進める、平和的経済大国化への道が構想されていたのです。 続く
2011.09.15
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クロニクル 立憲政友会結成1900(明治33)年9月15日19世紀最後の年ですから、111年前のことです。この日、午前10時より、帝国ホテルで立憲政友会の結成大会が開かれました。総裁に就任した伊藤博文は、「これからの政党は、国家の利害を第一義として、私的利害を捨てて活動すべきである」と強調しました。日本の政党は、自由民権運動を背景に、1890(明治23)年の国会開設に先立ち、板垣退助らの自由党と大隈重信らの立憲改進党等が、反政府派によって結成され、総称して民党と呼ばれていました。これに対し、政府支持派による政党作りは遅れていました。政党作りを意識するようになったのも、伊藤が1898(明治31)年に第3次内閣を組織した際に、その必要を感じたのがきっかけでした。この時の伊藤の試みは成功しなかったのですが、それから2年、ようやく最初の政府系政党(政府党と言われます)として、この日の立憲政友会の結成となったのです。こうして政府支持派も反政府派も、政党に結集して理非を争う時代が誕生しました。日本にもようやくにして、政党政治の時代が訪れたのです。この立憲政友会を基盤に、翌月には第4次伊藤内閣が誕生し、閣僚のほとんどが立憲政友会の党員が占める内閣(陸相、海相、外相以外の全員)が登場したのです。
2011.09.15
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明治政府の功績と日本資本主義の特徴(33)農地改革で、貧農層が消費市場に登場したことで、国内市場は広がりました。低米価低賃金政策で、低賃金労働者を確保し続けることも出来ました。しかし、戦後しばらくの日本では2年周期の景気変動が続いたことも、今では周知の事実です。敗戦国日本の通貨である円の国際信用は地に落ちていました。世界規模で流通する通貨の中で、最も信用力の高く、これだけ財政の赤字が膨らみ、原発事故の終息の気配すら見えない現実がありながら、なお信用は揺るがず円高が続いている、現在の円からは想像も出来ない状態にありました。安値輸出でドルを稼ぎ、そのドルを使って、ようやく必要な工業原料や資源の輸入が出来たのです。それゆえ、国内景気がちょっと良くなり、工業原料の輸入が増えると、すぐに外貨が不足してしまうのです。政府はやむを得ず金融引き締めによって、景気にブレーキをかけ、外貨(ドル)が溜まるのを待つわけです。この間約2年、ようやく金融緩和に転換して、景気は回復、好景気に向かいます。しかしそれも2年で外貨不足に陥るのです。この間2年の繰り返しだったのです。さて、そうなると景気の減速期には、倒産や失業が発生します。放置すれば社会問題が発生しますし、更なる景気の落ち込みに直面します。ここで政府が実施したのが、失業保険制度の整備と、失業対策事業の導入でした。失業半年間の失業手当の支給と、日給240円(当時100円玉は発行されていないのに、ニコヨンと称されました)で、道路工事人足などの仕事を提供したのです。丸山明宏の名曲「よいとまけの唄」の世界に近いと申し上げると、想像しやすいかもしれません。日曜日や雨や雪の日は仕事がありませんから、仕事にありつけるのは、平均して月間20日程度でしょうか。月収5000円弱程度です。コッペパンが1個10円、コロッケが1個5円の時代でしたから、何とか家族が食いつなぐことは出来たのです。失業者が10万人としても、1ヶ月で5億円の出費です。当時の人口はまだ1億人には遠いですが、ベビーブームの時期を過ぎていますから、7千万人は超えてきています。不景気の底で失業者が僅か10万人ということはありえません。不況期の失業対策費は、1ヶ月50億円に迫っていたのです。総予算は1兆円以下ですから、年間では総予算の5%強になります。国防費がほとんどかからない予算では、こうした措置も可能だったのです。 続く
2011.09.14
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クロニクル 住専8社の不良債権総額8.4兆円に1995(平成7)年9月14日16年前です。この日、大蔵省は実質的に破産状態に陥っていた住宅金融専門会社(略称住専)8社に対する立ち入り検査の結果を発表しました。それによると、8社合計の不良債権総額は8兆4千億円に達するという事でした。8社のうち7社の不良債権額は自己資本を大きく超えており、7社の倒産処理はこの時点で不可避となり、7.6兆円に達する7社分の不良債権を、誰がどれだけ負担するかが、大きな政治問題になりました。民間会社の不良債権処理が何故政治問題になるのかというと、そこには、金融機関でもある農協を救済すべきか否かという問題が横たわっていたからです。
2011.09.14
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明治政府の功績と日本資本主義の特徴(32)そこで政府が目をつけたのが、戦争中の1942年に導入された食糧の配給制、とりわけ日本人の主食である、米の配給制でした。敗戦直後は、経済混乱と猛烈なインフレの中でしたから、当然ただちに、食糧の配給制を止めるわけにはいきません。この残されていた食糧の配給制を、政府は利用したのです。米穀通帳を御存知の方は、このブログをご覧くださっている皆様の中でも少数派でしょうか。1970(昭和45)年に結婚し世帯を構えた時、住民登録と同時に真新しい米穀通帳を渡され、ワイフとシゲシゲと見入ったものでした。さすがに、それからしばらくすると、スーパーなどでも自由にお米が買えるようになりましたが、敗戦から25年を経た1970(昭和45)年においても、米の配給制は存続していたのです。戦後長期に渡って、米の配給制を続けた論理については後述しますが、先ずは、当面の1950年代です。意外に思われる方も多いと思いますが、実の所日本の米生産が国内の需要を賄えるようになるのは、1960年代の半ばからなのです。それまでは、不足する米は輸入されていたのです。政府は、食糧管理制度と米の配給制を、戦後も続けることにしたのです。農家の生産する米は、生産家庭で消費する分を除き、全量を政府が買い上げ、全国に張り巡らされた米穀商(米屋さん)を通して、各家庭に割り当てられた範囲で、売られたのです。農家が生産した米は、その全量を食糧庁が買い付け、食糧庁が必要量を米穀商に売り渡し、米穀商を通じて消費者の手に渡るのです。この際政府は、買入価格は生産費を上回る価格で買い入れ、売り渡し価格は、消費者の多数を占める都市の賃金生活者を意識して、低く抑えたのです。物価上昇を見込むと、買入価格は毎年上昇します。一方で売り渡し価格は、昭和20年代の後半は、ずっと据え置かれ、30年代に入ってもごく僅かな値上げに留まったのです。当然、買い入れ価格は売り渡し価格を上回り、毎年赤字が出ましたが、その分は税金で賄われたのです。主食である米が安く買えるのですから、企業は労賃を低く抑えることが出来ます。これが低米価低賃金政策です。この政策は、一見労働者保護に見えて、実質は企業の人件費を補填する役割を果たしたのです。 続く
2011.09.13
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クロニクル オスロ合意調印1993(平成5)年9月13日18年前のこの日、ノルウェーのオスロで、パレスチナ解放機構(PLO)のアラファト議長と、イスラエルのラビン首相は、パレスチナの暫定自治に関する基本協定(オスロ合意)に調印しました。パレスチナ解放機構(PLO)に、第3次中東戦争以来イスラエルが占領中の、ヨルダン川西岸地区とガザ地区における自治権を賦与、いずれは政府と認めることで、アラブ・イスラエル紛争に終止符を打とうとする野心的な協定でした。この協定がアメリカ及びイギリス政府の頭越しに、密かに計画され、そして結ばれたことの意味は、将来のアラブ・イスラエルの関係を見て行く上でも軽視されてはならない、重要な示唆を含んでいるように、当時私は考えましたが、ラビン首相の暗殺で事態は変り、イスラエルの強硬姿勢で、残念ながら事態は、泥沼化の一途を辿っているように見えます。
2011.09.13
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明治政府の功績と日本資本主義の特徴(31)1948(昭和23)年10月~1954(昭和29)年12月まで、6年2ヶ月弱に渡って政権を担当(これに先立って、46年~47年にかけても半年ほど政権を担当)した吉田茂は、ワンマンとして知られる頑固な宰相でしたが、彼の頑固一徹振りを示す最適の例として、私は国家予算の1兆円突破を、断乎として阻止した事実を挙げます。「何が何でも1兆円以下」、「誰が何と言おうと1兆円突破は認めない」など、新聞が伝えた吉田語録は有名です。御存知の通り、現在の国の借金は900兆円に迫りつつあるのですから、この間57年間の物価上昇を考慮しても、吉田首相以後の日本の財政運営が、いかに放漫財政になっていたかを伺い知ることが出来ます。ところで、戦争直後こそ、戦争中の借金の返済で、日本の財政は苦しかったのですが、戦後インフレのおかげで,その苦境を脱すると、以後の財政運営は比較的順調でした。なぜか。憲法9条体制のおかげなのです。戦争放棄を国際的に宣言した日本は、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」ことになったのです。そのため、戦前特に昭和期においては、平時でも国家予算の40%を超え、戦時では最大予算の80%を占めた軍事費が、ほんの2%~3%にまで減じたからです。旧軍人の恩給分の支出がありますので、ゼロにはならなかったのです。吉田政府は、財政のゆとりをもっぱら経済復興に回しました。その最大の眼目が、低賃金で働く労働力の確保でした。といって、企業に直接労働者数に応じて厳禁を渡すことは煩瑣で出来ません。労働者1人1人に、直接配ることはもっと大変です。そこで政府が目をつけたのが、日本人の主食である米の価格を安く据え置くことで、間接的に企業を支援することでした。名高い低米価低賃金政策です。日本人は腹いっぱい米が食えれば文句を言いません。だから米を腹いっぱい食える賃金であれば、暴動や労働争議は起きません。政府はこの点を狙ったのです。 続く
2011.09.12
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続・鉄道の開通クロニクルの続編です。さて、明治5(1872)年の日本に独自技術で鉄路を作り,機関車を作る実力はまだありません。いずれも輸入品でした。イギリスが狭軌の鉄道を広軌の鉄道に切替えていたため、不要になった狭軌の機関車や客車を譲り受けたのです。新品を購入するほどの資金もなかったのかもしれませんが、それ以上に1日も早く鉄道をという、新政府の意気込みが中古品でも早く引き渡してもらえる方が良いという、判断になったそうです。さて、駅は当時停車場と呼ばれていたのですが、その停車場の位置は、新橋は汐留にありました。既成の市街地の一角を壊して、そこに鉄道を引き入れ,大名屋敷の敷地に停車場が作られたことは、汐留の再開発のために近年実施された発掘調査で明かになっています。一方横浜停車場は、市街地には入らず開港場の北西の外れに出来たばかりの埋立地でした。現在の桜木町駅がその後身です。開業当初の新橋ー横浜間の所要時間は53分。運賃は上等が1円25銭5厘、中等が75銭、下等が37銭5厘の3段階になっていました。現在の2段階になったのがいつかは、忘れてしまいましたが、私の子どもの頃はまだ、1~3等の3段階だったことを覚えています。1日の運行本数は午前に4往復、午後に5往復の9往復でした。停車場は途中に、品川,川崎、鶴見、神奈川の4ヶ所が設けられていました。
2011.09.12
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クロニクル 新橋~横浜鉄道開通1872(明治5)年9月12日139年前のこの日、明治天皇をお迎えして,新橋・横浜の両駅で鉄道の開業式が行なわれました。当初は9日に予定されていたのですが、台風の襲来が予想されたために、12日に延期されたものでした。いかにも日本の9月という感じがします。一般客を乗せる本格的な営業は、翌13日から開始されました。この日天皇は新橋から乗車、小1時間の旅で横浜に到着、式典後すぐに列車で新橋に戻り、新橋でも式典を行ないました。この日新橋駅では、観客席が設けられたのですが、先着の約2万名に赤飯を配り、天皇の戻られるのを待ったといいます。観客は出発後,僅か3時間程度で天皇が戻られたのを知り、あまりの早さにびっくり仰天し、陸蒸気(おかじょうき)と呼ばれた鉄道のスピードに感心しきりだったと、伝えられています。
2011.09.12
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明治政府の功績と日本資本主義の特徴(30)さて、植民地を失った日本資本主義はどうなったでしょうか。戦後の奇跡的な経済復興は、どのようにして可能になったのでしょうか。農地改革は、極貧の生活に甘んじていた小作農の生活を、劇的に変えたのです。5反とか6反程度の小さな農地ですが、彼らは土地所有農民になりました。彼らの暮らしの大きな重荷になるかもしれなかった土地代金の支払いは、猛烈なインフレのおかげで大きく軽減されました。貧農世帯は、植民地に変わる、新たな日本資本主義のための消費者となったのです。1家族1家族の消費支出は僅かでしたが、彼らは数が多いのです。農民達が市場に加わるようになったことで、資本家たちは国内市場の恩恵に浴すことが出来たのです。しかし、喜んでばかりはいられません。企業が必要とするだけ、十分な低賃金労働力を提供してくれた、口減らしのために働く女性は、もはや出てきません。農地改革はなお不十分だったとはいえ、貧農の生活条件を大きく改善したのです。企業は、国内の商品市場が広がったことで、植民地に押し込み販売が出来なくなった痛手を軽減することは出来ましたが、今度は低賃金労働力を確保できないという難問に、ぶつかったのです。この難問の解決が、GHQ占領下の日本政府の大きな仕事になったのです。 続く
2011.09.11
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クロニクル ニューヨーク9:112001(平成13)年9月11日本日は9:11の10周年です。それにちなんで、4年前のブログを再録します。あれは、日本時間で夜10時を回った頃でした。当時大学4年で理系の卒論準備中だった息子が、この夜は大学のスパコンが使えない日だとかで、珍しく自室のPCで複雑なエクセルの計算をさせながら、TVを見ていたようで、帰宅直後で、リビングで夕刊を読んでいた私に「オヤジTVを見ろ、すごいぞ!」と大きな声で教えてくれたのです。習慣で夜10時頃に自宅にいると、久米宏のNステを点けっぱなしにして、見るというより聞いていたのですが、画面に目をやると、NYのツイン・タワーにまるでスローモーションか、何かSFの撮影かのように飛行機が吸い込まれていくところでした。大きさの実感のない私は、小型機が操縦ミスで突っ込んだのかなと思ったのですが、実はハイジャックされたジャンボ機と分かって2度ビックリ。「事実は小説より奇なり」を地で行く出来事をTV桟敷で目撃したのです。やがて上階の火災が原因でツインタワーは脆くも崩落、見ているのがTVなもので、それは映画の中のシーンのように思えたものです。その後が悪夢でした。オサマ・ビン・ラーディンはともかく、実態がどの程度あるのかも定かでないアルカイダという組織が悪役に指定され、そのアルカイダをかくまい、追放もしないという口実で、長い内戦を収拾し、ようやく治安を回復したタリバーン政府のアフガニスタンが攻撃されたのです。これは明かにとんでもない拡大解釈に基づく復讐でした。仇討ちは復讐の連鎖を呼ぶ。だからそれは悪であると規定して、近代世界は仇討ちを禁じてきました。それは国家においても変わることのない真理であると私は思います。米国とブッシュはそれを破りました。国内の荒廃は内戦である南北戦争による破壊が最も大きく、独立戦争は米国建国前の出来事とですから、米本土を敵に攻撃されたのは、1812年の米英戦争の時にか経験のない(因みに、米国国歌「星条旗よ永遠なれ」はこの戦いの際に作られた曲です)米国人は、当時植民地ハワイの海軍基地が攻撃された以上のショックを受けたのでしょう。理性では理解できるはずの、アフガン攻撃の不当性は無視され、反対派への嫌がらせすら続出する中で、アフガン攻撃は実行に移され、その後にはイラク人の政府に難癖をつけ、ここまで攻撃してしまったのです。その米国もようやく反省期に入ったのか、最近になって9:11前後に大きなテロが起きるかも知れない事を察知しながら、ブッシュ政府は意図的にそれを防がなかったのではないかと考える人達も増え、ようやく精力的な9:11前後の状況の検証が始められたようです。ヴェトナム戦争では、トンキン湾事件が実は米側のやらせであったことが、米国マスコミの努力で証明されています。どうなるのか、米国の自浄作用の結果を見守りたいところです。以上2007年の今日のブログです。その後オバマ政権に変わりましたが、ブッシュ政権の戦争責任追及の動きは、実に鈍いですね。
2011.09.10
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明治政府の功績と日本資本主義の特徴(29)本論に戻ります。この農地改革は日本に何を齎したでしょうか。隣国中国をご覧下さい。中国は、米英の支援を受けて日中戦争を耐え抜き、文字通り日本に惨勝しました。この勝利に当っては、国民党と共産党が、対日戦争の勝利まではと、内戦を中止し「国共合作」を成し遂げ、中国国民の総意を結集できたことが、大きな力となりました。それゆえ、惨勝とはいえ対日戦に勝利したことで、再び国共は対立関係に戻りました。そうはいっても、当初は国民の間に平和を求める声が多く、対立は局地的な小競り合いに留まっていました。しかし、翌年1946年の7月頃から、国共対立は再び激しくなりだしたのです。ここで、日本の降伏当時の国共両勢力の軍事力を比較してみましょう。国民党の兵力、国民革命軍は約430万人、対する共産党の兵力、中国紅軍(47年人民革命軍と改称)は120万人。国民革命軍は紅軍の3,5倍強の軍事力を保持し、圧倒的に優勢だったのです。それが、49年秋には、壊滅的な打撃を受けて敗退、米海軍の支援で辛うじて台湾に逃げ延びたことは、御存知の通りです。圧倒的に優勢で、欧米どころかソ連までもが、中国は蒋介石の国民党の下で安定するだろうと考えていたというのに、何故国民党は敗れ去り、共産党の支配が確立したのでしょうか。ここに日本と中国の違いがあります。国民党は地主や富農を支持基盤とする勢力でした。それゆえ当然ながら、貧農の要望の強い土地改革の冷淡です。そして中国の農村地帯では、土地改革を求める貧農や極貧農が、文句なしの多数派だったのです。共産党は、こうした貧農や極貧農の支持を固め、侵出した地域で貧農層の求めに応じて、地主や富農の土地を没収し、貧農層に分配したのです。共産党の部隊は土地改革をやってくれる。この噂が噂を呼び、47年夏以降は、雪崩を打つように共産党の支配地域が広がっていったのです。これが、中国の社会主義化のポイントでした。翻って日本はどうか。GHQ命令という形でしたが、日本政府も加わって農地改革、即ち貧農への土地分配が行われたのです。土地を阿多農民は、やっと手に入れた農地を手放すまいと、必死の努力をします。土地を手に入れた農民は、現体制支持に変わります。かくして日本における社会主義革命への道は、農地改革によって閉ざされたといって良いのです。 続く
2011.09.10
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クロニクル カラーテレビの本放送始まる1960(昭和35)年9月10日51年前のこの日、NHKに民放各局を含めた五つの放送局で、一斉にカラーTVの本放送が始められました。肝いりは政府とりわけ、郵政省と通産省の連携プレーでした。4年1ヶ月後の1964年10月10日には、東京でオリンピックが開かれることが決まっていましたから、その五輪中継をカラー放送すれば、カラーTV受像機の売り上げは飛躍的に伸びることが期待できる。こう考えて電機業界にハッパをかけた通産省と、カラー受像機が増えれば、カラー契約によって、受信料収入が飛躍的に伸び、NHKの経営改善になると期待する郵政省の思惑が見事に一致したのです。こうして、この日始まった本放送は、今からみると、色も悪く、色合いや濃淡の調整に苦心するシロモノでしたが、映画のような天然色が可能になったと、国民の興味を多いにそそりました。当初のカラー番組は1日に1番組程度でしたが、その後次第にカラー番組が増え、ナイター中継も63年にはカラー化し、オリンピックのカラー中継にメドを立てました。そこからです。「オリンピックをカラーで見よう」の大キャンペーンが華々しく展開されたのは…。かくいう私は大学生でしたが、我家のTVがカラー化したのは、オリンピックの1ヶ月くらい前のことだったのを覚えています。
2011.09.10
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