全73件 (73件中 1-50件目)
ナイチンゲールの世界 (25)遠い異国の戦場に近い野戦病院で、怪我や病気の兵士を看護するのは、大変な仕事です。まして、看護婦という仕事は、いまだ社会的には卑しい仕事と考えられていたのです。こんな仕事の責任者を引き受けてくれる人物など、そう簡単に見つかるものではありません。悩んだ末に、シドニー・ハーバーと軍務大臣は、ローマで知り合ってからというもの、家族ぐるみで、ずっと親しく付き合っているナイチンゲールに白羽の矢を立てたのです。フローレンスが、僅か1年でハーレー街の病院を立て直し、今では指折りの優良病院に転換させた手腕も、病院の理事を兼務しているリズ夫人から、折に触れて聞かされ、承知していたのです。知り合いでもある上流階級の女性に、こんな危険な仕事を依頼してよいものだろうか。彼が逡巡する理由はそこにありました。ハーバーとは、思い切ってフローレンスに手紙を書きます。現存するその手紙には、「政府がスクタリに派遣する看護婦チームの責任者になって欲しい」旨が記されていました。(スクタリは、ボスフォラス海峡に近い黒海沿岸のトルコの町です)ところが、そんな折、フローレンス自身も、『タイムズ』誌の記事を読み、自らクリミアの戦地で、傷病兵の看護をしたいと、考えるようになっていたのです。それには先ず、、ハーレー街の病院における施設長の仕事を辞めなければなりません。フローレンスは、ハーバート夫人に手紙を書き、「病院を辞めさせて欲しい」と願いでたのです。シドニー・ハーバートにとって、フローレンスが引き受けてくれるなら、それは願ってもないことでした。この難しい仕事を、安心して任せられる適任者は、彼女を置いてほかにはいなかったからです。教養があり、ナースの訓練も受けており、計数にも明るく、組織力も備えており、しかも社交界の付き合いを通して、政府関係者にも知り合いが多いと来るのですから……妻に届いたフローレンスの手紙を見せられたとき、シドニー・ハーバートは、狂喜して喜びました。フローレンスもまた、ハーバート大臣の手紙に接して、大いに喜びました。10月18日、フローレンスは、政府から正式の任命書を受領しました。そこには、「ミス・ナイチンゲールを、トルコのイギリス陸軍病院付き看護婦監督官に任命する」と書かれていました。政府のこの決定は、『タイムズ』などの新聞を通じて、すぐにイギリス中に広まりました。気の毒な兵士たちに、救いの手が差し伸べられる。イギリス中がこのニュースを歓迎したのです。しかし、フローレンスには、出発前にしなければならないことが、いっぱい残っていました。それでも出発は急がなければなりません。嵐のような日々が続きました。 続く
2011.10.31
コメント(4)
クロニクル 大気汚染指定地域全面解除1986(昭和61)年10月31日25年前のこの日、中央公害対策審議会は、大気汚染指定地域の全面解除を決定しました。これは、工場排煙、ゴミ焼却場の排煙、自動車の排気ガス等の大気汚染物質の除去が、排煙脱硫装置の普及や、自動車用排ガス浄化装置の発達などによって、大きく前進し、一時期に比べて大気の汚染状況が改善した結果によるものでした。しかし、浄化されたと言っても、都会の空気は、決して美味しいものには戻っていませんね。 しかも今年は、放射能汚染の深刻さが、今になって次々と明らかになってと…。名ばかりの情報公開の悪弊が目立ちますね。マスコミも隠す側に荷担している様子も次第に明らかになりつつあり、今や国民が怒るべき時にきているようですね。
2011.10.31
コメント(8)
クロニクル ラストダンスをあなたと…1940(昭和15)年10月31日71年前の今日のことです。東京の全てのダンスホールが,この夜限りで全面的に閉鎖されました。どのホールも、ラストダンスを楽しむ男女で超満員の盛況だったと、当時の記事は伝えています。日米開戦に先立つ1年1ヶ月余のことですが、日中戦争は泥沼化しつつあり、軍部の横暴に眉をひそめる人々も多かった頃でした。横文字は御法度とされ、タバコも改名を余儀なくされ、当時の人気銘柄の「ゴールデン・バット」は「金鶏(きんし)」、「チェリー」は「桜」に変更されたのも同じ10月31日のことでした。野球用語のストライク・ボール・アウト・セーフなども、敵性語として使用を禁じられたのも、この頃のことです。
2011.10.31
コメント(10)
ナイチンゲールの世界 (24)クリミア戦争の取材に趣いた『タイムズ』誌のラッセル記者は、戦地や軍の野戦病院を精力的に取材し、次々に長文の取材レポートを本国に送りました。彼のレポートは反響を呼び、道行く人たちやコーヒーハウスなどでの出会いの挨拶も、『タイムズ』を読みましたかに染まっていたと、軍の調査報告に記載されています。ラッセル記者のレポートの一部を紹介すると、こんな風でした。「市民の皆さんは、この報告を読まれると、きっと驚きと怒りをお感じになられると思います。戦場では、薬も包帯も不足しています。その上ベッドも足りませんから、深傷を負った兵士たちは、藁の上か直接地面に寝かされています。そのため戦地では、負傷者に対して、何ら適切な処置が取れれていないのです。」「戦地では医師も看護婦も、決定的に不足しています。戦地での傷病兵の取り扱いは、まさに野蛮人並と言うよりほかにありません。その点、フランスの病院の方が、わが国の病院よりも優れています。フランス軍では軍医の数も多く、その上、慈善会のシスターたちが働いています。シスターたちは、みな優れた看護婦なのです。」そしてラッセル記者は、こう締めくくりました。「我々には、何故慈善会のシスターがいないのか?」と。ラッセル記者は、手当てを満足に受けられれば助かるかもしれない多数の傷病兵が、手当てを受けることが出来ないままに、いたずらに命を落としている現実を、ありのまま切々と訴えました。彼の戦地報告は、本国で大きな反響を呼びました。その結果が冒頭に記した挨拶言葉となったのです。しかし、こうした戦場での様子は、上流階級に属する将軍や将校たちが、下層階級出身の兵士を指揮して戦わせるイギリスの軍隊、特に将官たちにとっては、ごくあたり前のことだったのです。ですから、ラッセル記者の記事を読んだ本国の軍幹部は、『タイムズ』誌に大いに腹を立てたのです。このラッセル記者の署名記事をナイチンゲールも熱心に読みました。彼女はシスターの代わりを自分が務めることを考えました。看護婦の一隊を組織して、トルコへそしてクリミアへ渡ろうと考えたのです。しかし、その為には、ようやく軌道に乗ってきたハーレー街の病院を辞めなければなりません。フローレンスは、そのことをシドニー・ハーバート夫人のリズさんに相談しました。リズ夫人は、病院の理事も引き受けていてくれたからです。同じ記事を、1852年からイギリスの軍務大臣という要職についていたハーバート氏も読んでいました。軍務大臣というのは、直接軍を指揮する仕事はしませんが、軍の輸送や物資調達などの一切を監督する部署の責任者です。記事を精読したハーバート大臣は、熟考の末、看護婦の一隊を現地に送り込むことを考えたのです。しかし、責任者を誰にするかが問題でした。 続く
2011.10.30
コメント(0)
クロニクル 文部省学生課設置1928(昭和3)年10月30日83年前のことです。この日、文部省は学生課を設置、各帝国大学や県立高等学校に、学生主事が置かれました。戦前の高等学校は、大学の予科の機能を果たしており、いわゆる一般教育を担っていました。全国8つの帝国大学の総入学定員は、県立高校の卒業生総数よりも多く設定されていましたので、特定大学の特定学科に拘らなければ、県立高校の卒業生は、誰もが確実に帝国大学に入学できたのです。そうした事情から、高校時代は読書と哲学的思索にふけり、「人間いかに生きるべきか」を模索する、思想遍歴の時期だったのです。そうした帝国大学や県立高校に乗り込むことになった主事の主な任務は、学生に対する思想統制にありました。この時期から,次第に思想の取り締まりが厳しくなっていきました。1925(大正14)年に定められた治安維持法が、3年後にして、いよいよ思想統制の牙を剥き始めたのです。ここに大正デモクラシーを謳歌した、自由主義的な空気は次第に失われてゆくことになり、「物言えば唇寒し」の暗い時代が幕を開くのでした。
2011.10.30
コメント(6)
クロニクル 教育勅語発布1890(明治23)年10月30日この日、明治政府は「教育勅語」を発布しました。121年前になります。自由民権運動の盛り上がりは、国会開設の約束でかわしましたが、明治17年の秩父事件では、秩父の農民達がいとも気軽に、「怖レナガラ、天頂様ニ攻敵スルカラ、加勢シロ」と近在農民に呼びかけていたことが伝えられ、政府の魂胆を寒からしめました。徳川270年の支配すら、あっけなく倒されたではないか。ならば、僅か17年の天皇の政府くらい倒すのは簡単だ。これが秩父農民の考え方でした。こうした農民層の受けとめ方は、全国的に共通します。そのことに気付いた政府はあせりました。これは放置できない。天皇を敬う心を教え込み、天皇制イデオロギーを社会に浸透させなければならない。こうして考えられたのが、明治15年に発布されていた軍人勅諭の積極活用であり、この日制定された教育勅語の活用でした。学校と軍隊で思想教育を徹底しようというのです。勅語は、親に孝,主君に忠...などの標語を並べ、「日本は天皇を父とし、皇后を母とする家族国家である」とする事によって、忠と孝の間の相克を取り除いたのでした。そして、勅語の徳目を一つ一つ学習する場が「修身」の授業でした。国史の時間では、歴代天皇の名を全て暗誦することから始めて、天皇の善政と、国民への慈悲の姿勢のみを学ぶことによって、ここでも天皇のあり難さを子ども達に刷り込んだのです。勿論南北朝の抗争など、天皇位を巡る皇族間の争いなど、天皇の名誉に関わることは、教科書ではカットされていました。皇国史観に撚る脚色された歴史教育です。幼い内に刷りこまれる天皇絶対のイデオロギーは、そうした子ども達が親になり,社会の中心になるにいたって完成します。天皇制国家の支配構造は、こうして日露戦争の勝利後、明治末には完成し、いつしか、天皇は日本国民の父といった位置付けから、現人神にまつりあげられていきました。1番困っていたのは、天皇その人だったのかもしれないと、この頃は考えるようになりましたが...。身近の「拉致」の国の、「将軍」様のやっていることは、明治国家版、国民思想教育をそっくり真似しているように思えます。そう考えると、他人事でないような...。それにしてもひどい話でした。国民思想教育の先兵が教育勅語だった事実は、忘れてはいけないことのように思います。
2011.10.30
コメント(8)
ナイチンゲールの世界 (23)新聞の発行は、印刷術の普及と共に始まり、次第に普及していったことが知られています。起源は17世紀のドイツとされていますが、新聞の存在が社会的に認知されたのは、何といってもフランス革命でした。そうなんです。初期の新聞はその政治的主張を鮮明にした政治新聞でした。発行は不定期、激動の日々が続くと日刊に近くなりますが、小康状態の日々には、半月近く間が空くことも、良くあったのです。そんな感じですから、定期購読など、勿論ありません。本人が売り歩くことはほとんどありませんが、支持者が街頭で売り歩くのです。またこの時期の特徴は、識字率の関係で、1部の新聞を大勢が取り囲んでの読み聞かせが、広く行なわれていたことです。 コーヒーハウスや居酒屋、そして街頭と新聞を朗読する人の周りを、大勢の人が取り囲む姿が、各所にありました。そうした新聞を日刊化したのは、七月王政(1830年~48年)時代の初期に『ラ・プレス』紙を発行した、フランスのエミール・ド・ジラルダンでした。彼は、新聞広告を採用したこと、折から開通したパリ~オルレアン間の鉄道を利用して、パリ近在の各地にまで売り込みをかけたことで、広告費と発行部数の増加で単価を下げ、今までの新聞の半値以下での発行で、購買層の拡大に成功したのです。また、当時売れっ子作家だったのアレクサンドル・デュマやエミール・シューらを起用して、新たな試みとして、新聞に連載小説を掲載することで、日刊新聞の発行を定着させることに全力を傾けました。しかし、19世紀前半という時期は、日刊紙の発行を定着させるには、まだまだ困難の方が多かったのです。連載小説は、作家からストックを確保する形で、紙面に穴が開くことは避けられますが、なんと言ってもニュースの迅速な蒐集が難物でした。パリ市内とか、ロンドン市内の出来事ならば、無理をすれば蒐集が出来ます。しかし、外国の出来事、植民地の出来事などは、何日も遅れます。それに印刷術が発展しているといっても、なお平台による印刷でしたから、印刷に要する時間もかなりの長時間を要しました。それゆえ、速報性を期待できない新聞を日刊化しても、人々の関心をひきつけるのは、まだ難しかったのです。ジラルダンの試みが、大きく開花するのは、フランスでもイギリスでも、1860年代に入ってからのことでした。ついでに言うと、アメリカでは1880年代、ピューリッツァー賞でお馴染みの、ピューリッツァーの『ワールド』紙が草分けでした。話が長くなりました。クリミア戦争の時代は、イギリスでもフランスでも、定期購読者を持ち、経営的に安定していた何誌かの新聞がありましたが、そうした新聞は速報性の武器にしたものではなく、内容の濃さを売りに、情報を深く掘り下げた週刊新聞だったのです。ウィリアム・ラッセル記者をクリミアの現地に派遣した、『ロンドン・タイムズ』(略して『タイムズ』と呼ばれます)もまた、そうした人気のある週刊新聞だったのです。 続く
2011.10.29
コメント(2)
クロニクル NTT株の公募売出し価格決定1986(昭和61)年10月29日今日でちょうど4半世紀になるのですね。大蔵省(当時)は、この日、NTT株の一般投資家への売出し価格を、1株119万7千円と決めた旨を発表しました。薄く、広く幅広い投資家に行き渡るようにとの行政指導が行き渡ったせいか、我が家でも当時付合いのあった証券会社から、ワイフと私の名義で各1株の割当を受けたことを覚えています。東証等への上場は、翌87年の2月9日でしたが、この日は買いが殺到して、超大型株にもかかわらず、値つかずで終え、翌日10日に160万円の初値をつけました。その後も上昇を続け、318万円で天井を打ちました。そこからの下げは、ご存知の通りです。公募に当たった投資家はそこそこの利益を手にできたわけですが、上場後に参加した投資家の中には、高値のババを掴まされた方も多かったようです。この後、バブルの絶頂の89年12月末まで、株式市場は我が世の春を歌いましたが、その後の凋落は、今もなお回復できておりません。おそらく昨今の欧米の市場も、日本市場と同じ道を辿るしかなかろうと、私は受け止めています。
2011.10.29
コメント(6)
クロニクル 第2次中東戦争勃発1956(昭和31)年10月29日ちょうど55年前のことになります。この日、イスラエル軍は突然ガザ地区の国境を越えてエジプトに侵入、スエズ運河地帯の占領を目指して、エジプト軍への攻撃を開始しました。ここに第2次中東戦争(スエズ戦争)が始まりました。エジプトのナセル大統領は、この年7月26日にスエズ運河の国有化を宣言し、同運河を接収しました。スエズ運河はイギリスとフランスの資本が支配権を握り、実質的に両国が支配していただけに、この措置に両国は仰天し、次第に武力解決やむなしという判断に傾いていきました。この空気を敏感に察知したのが、イスラエルでした。英仏の尻馬に乗って、領土拡大を実現しようと、スエズ攻撃の先兵役を引き受けたのです。翌日、英仏両国軍は、スエズ運河の安全確保と、運河地帯の中立化のためと称して、スエズ地帯に大軍で侵攻しました。イスラエルにエジプトを攻撃させ、それを口実にスエズ運河を再占領しようという、あくどくかつ姑息な方法でした。当然国際世論は、英・仏・イスラエルに厳しく、英仏が期待したスエズ運河の再接収は、失敗に終らざるをえませんでした。12月22日、国連は緊急総会を開いて,英仏両国とイスラエルに撤退を勧告、スエズ再占領の目論見は失敗に終りました。 結果的に英・仏・イスラエルは、ナセル大統領の名声を高める役割を演じて、舞台を降りたのです。
2011.10.29
コメント(4)
ナイチンゲールの世界 (22)英・仏・トルコの連合軍とロシアとの戦いは、、先ずは当時はトルコ領だった、現在のブルガリアからルーマニアにかけての一帯が戦場となったのですが、英仏軍の近代兵器に劣勢となったロシア軍の後退で、やがてクリミア半島が主戦場になったのです。自国領のクリミア半島にまで後退したロシア軍は、天然の要害であるセヴァストポリの要塞に立て篭もったのです。セヴァストポリ要塞は、海側からは見えない高台にあり、海からの砲撃は無理な位置にありました。また要塞の周囲は、岩石の城門が二重、三重に張り巡らされていて、突撃しても狙い撃ちに遭うばかりという、難攻不落の要塞だったのです。このため、1854年夏ごろからの1年余、戦争はセヴァストポリ要塞を巡る攻防戦として行われました。このため、いつの頃からか、この戦争はクリミア戦争と呼ばれるようになったのです。そしてまた、クリミア戦争は、19世紀の30年代から、次第に普及し始めた日刊の新聞社の一部が、戦地からの報道を読者に届けることで、他紙と差別化して、多くの読者を獲得しようと、初めて戦場に記者を派遣した戦争でもありました。従軍記者がここに誕生したのです。日本では、1904~05年の日露戦争に従軍した国木田独歩や田山花袋の戦地からの報道が有名ですが、西欧ではその50年前から、戦場からの記者の報道が、読者に送られていたのです。英紙『タイムズ』のウィリアム・ラッセル記者の従軍記がそれです。そして彼の記事こそが、フローレンス・ナイチンゲールを戦場に向かわせることになるのですが、もう1日余裕をいただいて、明日は、当時の新聞について記したいと思います。 続く
2011.10.28
コメント(0)
クロニクル 「わたし作る人...」なんて差別だわ1975(昭和50)年10月18日36年前になるのですね。当時「わたし作る人、ぼく食べる人...」というハウス食品のコマーシャルが、良くブラウン管を賑わしていましたね。たしか食べ物はカレーだったような...?我家では、当時麺類は私が茹でていたのですが、特に気にすることもなく、ワイフと笑いながら、何気なく見ていましたが、このコマーシャル75年の10月をもって、突然放送打ちきりとなりました。75年は、国際婦人年と銘打たれた年でしたが、「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」という、おそろしく長たらしい名称の団体が、当時人気のあった「わたし作る人、ぼく食べる人」のコマーシャルに対し、「男女の役割分担を固定化する差別CMである」として、提供元であるハウス食品工業に抗議文を送り、放送中止を求めたのです。指摘を受けたハウス食品は、食品メーカーとして婦人団体を敵に回すわけにはいかないとして、この日CMの中止を決断。今月末をもって放送を中止する旨を「行動を起こす会」に伝えました。同会は、今後も女性差別に通じるCMには、抗議を続けるとの姿勢を表明したのですが、テレビCMだけを対象としたため、巷に反乱する差別語は平然と見逃してしまい、そうした差別語が今もって平然と使われ続けるという、弱点も露呈しました。一例をあげておくと、子ども達の小・中・高校のPTAの会合の名称です。「父母会」と自覚的に呼んでいる学校はどれだけあるでしょうか。未だに戦前の家父長制社会そのままに、恥かしげもなく「父兄会」と呼んで憚らない方達が数多く見受けられます。「父兄会」の兄は、家督相続者であり、父に事あれば、弟妹達の生活の面倒を見る責任を負う、浅見光彦君の兄上のような兄を指す語で、実際には存在しない兄を残して、現実には子に対して圧倒的な影響力を発揮している、母の存在をいまだに否定して憚らない鈍感さに、実はわたしは呆れています。「いまどき「父兄会」だなんて、そして「ご父兄の皆様」だなんて、よくもまぁ平気で言ってますねぇ、あんた古いネェ...」これはわたしの1人言です。
2011.10.28
コメント(14)
クロニクル ハチの一刺し1981(昭和56)年10月28日ちょうど30年になるのですね。この日、元首相田中角栄被告に対するロッキード事件、丸紅ルートの公判で、証人として東京地裁に出廷した榎本敏夫被告(田中角栄被告の元秘書)の前夫人三恵子氏は、「榎本は五億円の受領を認める発言をしていた」と暴露しました。当事者しか知り得ない受領の内幕を、詳細にかつ生々しく陳述した証人の発言のインパクトは大きく、ここに田中被告の有罪への流れは決定的になりました。発言は,ハチの一刺しという流行語になって、我々の記憶に残りました。
2011.10.28
コメント(10)
ナイチンゲールの世界 (21) 1853年というのは、日本にペリーの黒船がやってきた年です。この年の8月に、33歳のフローレンスがハーレー街の病院で働き始めたのです。そしてこの1853年という年は、西洋史ではクリミア戦争の始まった年として、記憶されます。ちょっと固い話になりますが、この戦争は1853年の10月にロシアとトルコ(オスマン帝国)の間の戦争として、始まりました。細かな原因の話は省略します。大局的には、ロシア帝国が海外進出を目指して、真冬にも凍らず1年中使用できる不凍港を求めて、トルコ領である黒海から地中海への出口である、ダーダネルス(南)・ボスフォラス(北)両海峡の自由通行権の獲得を目指して、仕掛けた戦争です。この戦争の緒戦で、トルコ海軍はロシアの黒海艦隊に大敗し、壊滅的打撃を受けたのです。そこで慌てたのがイギリスとフランスでした。日頃は犬猿の仲の両国なのですが、この時ばかりは、あっという間に意見の一致を見たのです。ロシアが地中海に出てくると、東地中海がロシアの海になってしまう。となると英仏両国にとって大切なエジプトが危なくなる。エジプトは両国にとって、アジアへの玄関口として重要なところです(スエズ運河はまだありませんが、スエズで荷を陸揚げし、ポートサイトまで陸送すると、喜望峰経由よりもはるかにインドや東南アジアに早く着けるのです)。ここは一番、トルコの味方をして、ロシアが地中海に出てくrるのを防ぐ必要がある。両国の考えは見事に一致し、54年の3月に、英仏は共同でロシアに参戦したのです。こうして当時のトランシルベニア地方(現在のルーマニアに当たります)や黒海、最終的には、ロシア領のクリミア半島を戦場にした、英・仏・トルコ対ロシアの戦争となったのです。クリミア戦争は、ナポレオン戦争の終結した1815年から38年後に起きた、久々のヨーロッパの大国同士の戦争でした。そして皆さんも御存知の通り、この戦争がナイチンゲールをして、世界的な有名人にしたのです。そのいきさつを明日から記します。 続く
2011.10.27
コメント(4)
クロニクル フランス人民戦線崩壊1938(昭和13)年10月27日73年前のことです。この日、フランスの人民戦線が崩壊しました。人民戦線とは、迫り繰るファシズムの脅威に対抗することを基本に、1936年にフランスの左翼並びに中道政党や、労組などの各種団体が連合を組んだ統一戦線です。政党では共産党、社会党、急進社会党の3党が、「パンと平和と自由と」をスローガンに統一戦線を組んだのですが、当時のフランスの選挙制度が小選挙区2回投票制だったからこそ、実現した緩やかな連合でした。2回投票制とは、第1回投票で有効投票の過半数を獲得した候補がいなかった場合に、上位2名で決戦投票を行なうという制度です。したがって第1回投票では候補者調整の必要はなく、2回目の決選投票に残った候補を互いに応援にし合えば良いのですから、協定を結び易かったのです。決戦に残った2名が共に3党の候補だった場合、他の1党は1位の候補に投票する決まりでした。こうして、人民戦線は1936年5月の総選挙に大勝し、社会党のレオン=ブルムを首班とする内閣を組織、労働者に3週間のヴァカンスを保障する労働協定法案などを成立させる成果をあげましたが、スペイン内戦の勃発にどう対応するかで、意見が割れて、戦線は不安定化し、次第に有名無実となり、この日遂に崩壊の憂き目を見たのです。時に第2次世界大戦勃発の、約10ヶ月前のことでした。
2011.10.27
コメント(2)
クロニクル クロニクル 秋月の乱1876(明治9)年10月27日135年前です。この日、福岡県の士族、宮崎車之助らが、秋月で挙兵。小倉の鎮台兵により、鎮圧されました。3日前の24日には、熊本の士族,太田黒伴雄らによる神風連の乱が起きており、ここに明治の日本は、翌年(明治10年)の西南戦争に連なる,士族叛乱の多発時代に突入したのです。
2011.10.27
コメント(2)
ナイチンゲールの世界 (20)昨日の記述に対し、病院の環境改善の費用はどこから出たのかという、御質問を戴きました。昨日記したことの外にも、お金のかかる改革は』ありました。食堂から2階に患者用の食事を上げるリフト風の装置の建設(エレヴェーターはまだありません)がそれです。そして最も多額の費用を要したのが、看護婦の待遇改善のための、給与の引き上げでした。女性の仕事の中でも、最も卑しい仕事の1つと蔑まれている看護の仕事は、実は病人や怪我人の命を救うための、非常に大切な仕事です。「ここに来る患者は、どうせ助からないのだから…」と言った投げやりな態度で、手抜きばかりするのは許さない。フローレンスは、看護婦達にこう厳命しました。そして施設長の彼女自身が、率先して働くと共に、病院の理事長に対して、無給の奉仕活動をしている教会関係者を除く、看護婦給与の改善を願い出たのです。慈善院の付属病院ですから、病院経営は寄付で成り立っています。フローレンスを施設長に推薦したハーバート夫人も理事を務めていたのですが、こうした上流階級の名士の口添えで、寄付を集めるのです。実は、病室に取り付けた、看護婦を呼ぶための紐を引くとベルが鳴る装置や、2階に食事を運ぶためのリフトなどなどは、フローレンスが自分のポケットマネーから出していたのです。彼女の父が生活費として、叔母を介して送ってくれたお金です。そこは英国でも指折りの大地主です。金銭に対する感覚が我々とも違ウのですね。わずかな額と思っている金額で、かなりのことが出来るのです。それでも、看護婦の給与を大幅に引き上げるには無理があります。大きな病院だけに、看護婦も多いからです。こちらはハーバート夫人の出番でした。彼女は、自分や夫の知己に幅ひろく声をかけ、十分な資金を、病院のために確保してくれたのです。一国二国民と呼ばれるほど、上流階級と庶民の階級格差の激しいイギリスですが、ここではイギリスの上流階級のいわば善い面が、奔流のように積みあがったのです。フローレンスは、会計係や理事達の反対に会っても、決してへこたれず、何度も足を運んでは、諄々とその必要性を説き、遂には説得してしまう力量の持ち主でした。理事達は、フローレンスに対し、「背が高く細身であるが、鉄の心臓を持った女性」と、評していました。 続く
2011.10.26
コメント(10)
クロニクル クロニクル 朴韓国大統領暗殺1979(昭和54)年10月26日32年前のことです。この日、朴正煕韓国大統領が、側近の1人だった金KCIA部長の凶弾に倒れました。62歳でした。事件は、韓国中央情報部(KCIA)の部長官邸に付設された食堂で催された政府要人の宴席で、午後7時40分頃のことでした。至近距離からの狙撃で、朴大統領は即死でした。金部長は政権末期の朴政権での、自らの地位に対する不安や、政権の腐敗振りへの批判などから凶行に及んだものと推測されました。朴大統領は1961年に軍事クーデタで政権を握り、65年には日本との国交を回復、漢江の奇跡と言われた経済成長の実現を背景に、72年には維新憲法を制定して,永久政権への道を開いたのですが、73年8月の金大中氏拉致事件など、強権的な反対勢力への弾圧などで、次第に国民の離反を招き、この頃は政権末期の様相を強めていました。朴大統領の死去後、韓国の政局はしばらく混迷しますが、年末の軍事クーデタで、全斗煥が実権を掌握、翌80年5月抵抗する光州市で、血の弾圧を強行し、8月に大統領に就任しました。1979(昭和54)年10月26日この日、朴正煕韓国大統領が、側近の1人だった金KCIA部長の凶弾に倒れました。62歳でした。事件は韓国中央情報部(KCIA)の部長官邸に付設された食堂で催された政府要人の宴席で、午後7時40分頃のことでした。至近距離からの狙撃で、朴大統領は即死でした。金部長は政権末期の朴政権での、自らの地位に対する不安や、政権の腐敗振りへの批判などから凶行に及んだものと推測されています。朴大統領は1961年に軍事クーデタで政権を握り、65年には日本との国交を回復、漢江の奇跡と言われた経済成長の実現を背景に、72年には維新憲法を制定して,永久政権への道を開いたのですが、73年8月の金大中氏拉致事件など、強権的な反対勢力への弾圧などで、次第に国民の離反を招き、この頃は政権末期の様相を強めていました。朴大統領の死去後、韓国の政局はしばらく混迷しますが、年末の軍事クーデタで、全斗煥が実験を掌握、翌80年5月抵抗する光州市で、血の弾圧を強行し、8月に大統領に就任します。
2011.10.26
コメント(8)
クロニクル 伊藤博文公暗殺1909(明治42)年10月26日101年前のことです。この日、前韓国統監 伊藤博文(69才)公は、清国黒竜江省の省都ハルビン駅頭にて、朝鮮人青年安重根の凶弾に倒れました。この日、伊藤公は日露戦後のロシアとの関係修復をはかるために、ロシア蔵相ココフツェフとの会談のため,ハルビンを訪れ、駅構内の列車の貴賓室での会談を終えて、列車を降り、居並ぶ各国領事と挨拶を交わした直後に、安の銃弾に倒れたのです。日本国内は,この報に強い衝撃を受けましたが、統監として、日本の朝鮮支配を強化した伊藤は、韓国民衆にとっては怨嗟の的であり、暗殺者安重根は、韓国では独立運動の義士として、今も英雄視されています。1つの事件も、見る角度が変わると,全く異なった顔を見せる,歴史理解の難しさの一端を示す、好例がここにあります。日中・日韓の歴史理解を擦り合わせる作業はやらなければならないことなのですが、その作業はなお前途遼遠だと思わざるをえません。しかし、独・仏はヨーロッパ連合の前進に向けて、過去の怨念を捨てて、共通の歴史教科書の作成に向けての困難な作業を続け、遂にその作業を完成させました。アジア特に北東アジアの日・中・韓の努力が、今や世界から問われています。
2011.10.26
コメント(8)
ナイチンゲールの世界 (19)そんな時、フローレンスに待望の仕事の依頼が舞い込んだのです。ローマで知り合い親しく往き来するようになっていた、政治家のハーバート氏の夫人エリザベス(愛称リズ)さんからでした。ロンドンのハーレー街にある慈善施設で、貧しい女性のための病院の施設と運営を改革するための新しい施設長に、彼女を推薦してくれたのです。勿論仕事は無給ですが、病院のことは全て任せるという条件でした。やりがいはあっても大変な仕事です。フローレンスは喜んでこの仕事を受けました。困難に立ち向かう覚悟無くして、看護の仕事をライフワークになど、出来る時代でないことは、先刻承知していたからです。1853年8月、フローは勇躍ロンドンに移り住み、病院経営と改革の仕事に取り組んだのです。彼女は、看護の現場にも立ちながら、不都合と思えることを次々に改善して行きました。患者のために清潔なベッドを用意すること。栄養のつく食事を与えること。病室と看護室を繋ぐベルをつけることなど、お金のかかることから、人種や宗教によって患者を差別し、入院を断っていたのを改め、病人なら誰でも受け入れることにしたことなど、矢継ぎ早に改善措置が施されました。彼女の着任前と着任後のあまりの違いに、慈善院の理事達も目を丸くしました。その噂は社交界にも届きます。悪い評判ではありませんから、推薦者のハーバート夫妻も面目を施したのです。 続く、
2011.10.25
コメント(2)
クロニクル 外交権の喪失1945(昭和20)年10月25日66年前のこの日、GHQは日本政府に対し、日本政府の外交権を停止する旨を通達、ここに占領下の日本における統治権は占領軍であるGHQに属し、GHQに委任された範囲でのみ、日本政府に存在価値がある状況が、以後しばらく続くことになりました。この状況が本格的に解消するのは、サンフランシスコ講和によって、占領状態が解消され、日本が主権を回復した1952年4月28日(条約締結は1951年9月8日)になります。
2011.10.25
コメント(2)
クロニクル レイテ沖海戦,連合艦隊潰滅1944(昭和19)年10月25日67年前のことです。前日24日からこの日にかけて行なわれた、レイテ島沖の海戦で、日本の連合艦隊は、米軍の機動部隊の攻撃により、空母4艘以下を失い、潰滅状態となって完敗しました。この作戦は、20日に米軍がレイテ島に上陸したと聞いた大本営の指令で始まりました。連合艦隊は22日に一斉に出撃、米艦隊をレイテ湾外におびき出すことには成功したのですが、レイテ湾突入を図った艦隊は、米軍艦載機の波状攻撃に対応出来ず、圧倒的な航空機部隊の機動力の前に、大損害を受けて完敗、狙いのレイテ湾突入は、果たせませんでした。特筆すべきは、このレイテ沖海戦に際して、虎の子の海軍航空部隊に、神風特別攻撃隊(神風特攻隊)が編成,組織されたことです。250kg爆弾を装着した零戦が、敵艦に体当たり攻撃すために出撃し、25日には敵の空母2艘を撃沈させるなど、この時は一定の成果を上げました。しかし、レイテ湾に入れなかったため、レイテ島の日本軍部隊との連絡はとれず、レイテ島の日本守備隊7万5千人は補給路を断たれて万策尽き、12月には、全滅状態となりました。どうみても、この時点で一発逆転の可能性は、完全に閉ざされたことが、明らかなように思えます。それなのに、何故、多くの犠牲を払うことになる、翌年8月15日まで戦い続けたのでしょうか。政治や軍隊が国民のためのものになっていない悲劇が、そこにありました。そして今、フクシマを巡る政治の対応を見ていると、今の政治も67年前と同じ構造を持っていることに、慄然とせざるをえません。そこには、こんな政府、こんな政治の存続を許してきた、我々国民の責任も大きいのですが…。
2011.10.25
コメント(8)
ナイチンゲールの世界 (18)1850年の8月、カイザースヴェルトでの2週間の研修の余韻を身にまとって、30歳になったフローレンスは、家族が夏を過ごすリーハースト荘に帰りました。ここで彼女は、家族にカイザースヴェルトでの体験を話し、どうしても病人や怪我人の世話をする仕事に就きたいと、懇々と自分の気持ちを話しました。勿論、神の啓示を受けたことも含めて。それでもなお、母と姉は、猛烈な勢いで反対しました。最後には2人ともヒステリーの発作を起こすほどでした。こうなると2人とも病人のような状態ですから、フローレンスの性格として、2人を放置して家出するわけには行きません。母のファニーは、「貴女は何と恥知らずなの。どうしてそうナイチンゲールの家名に泥を塗るようなことをするの」と、うわ言のように訴えます。ヒステリーの発作の収まった姉のパーセノーブは、今度は欝の症状を示しました。フローレンスは、姉の症状が落ち着くまで、自分がそばにいることにしました。瞬く間に半年が過ぎ、51年の春には、姉の症状も改善してきました。フローレンスは、家を出て独立する決心を固めていました。3月末、フローレンスは1人でカイザースヴェルト慈善院に向かい、6月末までの3ヶ月、院内の捨子院で寝泊りしながら研修を受けました。食事は日に2回、お茶とライ麦パンと野菜スープという質素なものでした。(1日2回の食事は、19世紀中頃の上・中流階級では、一般的な食事形態でした。仕事のきつい工場労働者だけが、空腹では昼までの労働に耐えられないと、朝食をとるようになっていました)働きながらの研修は厳しく、自分の汚れ物を洗濯する時間もないほどでしたが、毎日が充実していました。3ヵ月後、フローレンスが看護婦試験に合格しました。カイザースヴェルトでの研修を終えたフローレンスは、今度はフランスに向かい、パリ市と周辺地域の病院や施設を訪ねて、看護の実際の外に、病院の組織と運営の実際を勉強しました。フランス特にパリと周辺の病院は、病院施設と組織の近代化の先頭を走っていたのです。あまり知られていないのですが、フローレンスはマネージメントの才にも長けており、病院や施設で働く人たちをまとめ、管理し運営する組織についても、強い関心を持っていたのです。そんな彼女の才は、この時期のフランスでの研鑽で、磨かれたと考えて良いようです。 続く
2011.10.24
コメント(6)
クロニクル 国連憲章発効1945(昭和20)年10月24日66年前のこの日、国連憲章が発効し、国際連合が正式に発足しました。国際連合は第1次世界大戦後に発足した国際連盟が武力行使権限を持たなかった故に、大きな力を発揮し得なかったことを反省して、安全保障理事会に国連軍の編成権限と、武力行使の権限を付与し、さらに第2次世界大戦の源連合国である米・ソ・英・仏・中(中華民国)の5カ国を安全保障理事会の常任理事国に指定いていました。この5ヶ国は安保理の議決に拒否権を持ち、5ヶ国中の1ヶ国でも反対に回ると、反対が1票であっても、その決議案は否決されたことになるのです。最近の日本政府は、経済力の強化と、国連分担金の負担額の多さを理由に、ドイツなどと共に、この国連常任理事国に加わることに熱心なようですが、私は、本来公平であるべき国際社会の集まりである国際連合において、1票の価値に不公平のある仕組みそのものに問題を感じます。なすべきことは常任理事国への加盟ではなく、常任理事国制度の廃止を提案し、その実現に努力することだと思うのです。
2011.10.24
コメント(6)
クロニクル ウォール街の暗黒の木曜日1929(昭和4)年10月24日82年前のことです。世界恐慌の幕開けだったとされる、有名な株式大暴落の話です。10月はじめから微妙な値動きを示していたNY株式は、この日の朝は平穏でしたが、10時前から急激に下げ始め、売りが売りを呼ぶパニック状態になりました。昼近くには、取引の正確な情報さえ分からないという混乱状態に陥りました。しかし、午後になって金融界が急遽対応策を練っているとの情報が伝わると、急速に持ち直して、この日の取引を終えたのです。しかし、これは1時的な凪に過ぎず、翌週29日には終日売りの嵐が吹き荒れたのです。「暗黒の木曜日」に続く「悲劇の火曜日」の追い討ちでした。ここに、株価は10月だけで、37.5%も急落、上場株式の時価総額は9月末評価の896億ドルから、12月1日には、なんと635億ドルへと、259億ドル強の減少となりました。NY株式の工業株平均は、ニュヨークタイムズの発表によれば、1926年末の180ポイントから上昇を始め、28年1月には240ポイント、29年1月には330ポイントと、倍近くに上昇していました。その後も、実態経済の変調、フォード車の売れ行き不振が報じられる中、なお夢見る投資家の参入で上昇を続け、10月には440ポイントの高値を付けていたのです。バブルの崩壊、ユーフォーリア(根拠のない熱狂)の醒めたあとを知る我々には、何かわが身に起こったことのような感じもします。さて、米国の株価大暴落は、実態経済の変調に目をつぶっての買い漁りの結果でした。それだけに投資家の受けた傷は大きく、資金繰りに窮した投資家は、欧州への投資を回収して、損失の穴埋めをせざるをえなくなったのです。こうした行動は、米国からの資金流入に頼って、第1次大戦の破局から、経済再建を進めていたドイツ経済を直撃し、そのドイツからの戦争賠償に頼って経済再建を進める仏・英の経済にも大打撃となったのです。この混乱は植民地経済にまで波及して、ついにはソ連を除く全世界を巻き込む世界大恐慌となったのは、御存知の通りです。
2011.10.24
コメント(6)
ナイチンゲールの世界 (17)この旅の帰路、友人のブレースブリッジ夫妻は、デュッセルドルフに友人を訪ねることになりました。その2週間を利用して、フローレンスはデュッセルドルフの郊外にある(現在はデュッセルドルフの一部)、カイザースヴェルト慈善院を訪問したのです。1849年の7月31日、フローレンスは前から訪ねたかった施設に到着しました。カイザースヴェルト慈善院は、彼女が訪ねる13年前にルター派の司祭テオドル・フリードナーが創設した施設でした。そこには、慈善院で奉仕活動をするルター派の修道女たちに、看護の基本を叩き込む訓練施設が備わっていたのです。病院の実態を改善するには、先ず看護の基本をマスターした看護婦を養成する必要がある。こうした考えはフランスで生まれ、地理的に隣接する南ドイツに波及したのです。先進的なフランスや南ドイツに比べ、ドーバー海峡を隔てたイギリスは遅れていました。フローレンスは。実際に看護の現場に出ることは出来なかったのですが、各国の看護の現場に関する報告書等を読むことは出来ました。ですから、フランスや南ドイツの状況は、良く知っていたのです。フローレンスは、カイザースヴェルト慈善院に、僅か2週間でしたが泊り込みで訓練を受けることを許されました。フリードナー院長は、はるばるイギリスからやってきたフローレンスに目をかけてくれたのです。一緒に訓練を受けているのは、修道女達ですから、フローレンスほどではないですが、中産階級以上のきちんとした家柄の娘たちです。看護婦は下層階級に属する教養のない女たちの仕事と考えるイギリスとは、何という違いでしょうか。修道院廃止令の影響は、こういう所にもでていたのです。フローレンスはまさに生き生きと、働きながら夢中になって勉強したのです。しかし、2週間はあまりに短すぎました。「いつかもう1度、ここに戻って、続きの勉強をしなければ…」、こう彼女は自分に言い聞かせたのです。 続く
2011.10.23
コメント(4)
クロニクル オルブライト国務長官訪朝2000(平成12)年10月23日11年前の話です。任期満了間近の、米国クリントン政権のオルブライト国務長官が、この日朝鮮民主主義人民共和国(略称北朝鮮)を訪問。金正日総書記と会談し、米朝間の関係改善について、意見を交わしました。オルブライト長官の訪朝は、米国政府の現役閣僚としては、初めてのものでした。このとき米国は約2週間後の11月7日に、ブッシュ・ゴア両候補による大統領選挙の投票を控えており、何とか自分の任期中に、北朝鮮との関係改善の道筋をつけておきたいという、なみなみならぬ大統領の決意が伺われました。こうしたクリントン政権の努力も、次のブッシュ政権ですべて反故にされ、「北朝鮮」との関係改善は、先送りされ今日に至っています。
2011.10.23
コメント(2)
クロニクル 長銀一時国有化を申請1998(平成10)年10月23日13年前のことです。春以来,迷走を続けていた日本長期信用銀行は、この日債務超過から、金融再生法に基づく一時国有化を申請し、その46年の歴史に自ら幕を下ろしました。政府・大蔵省は、危機的状況にある長銀の救済合併を住友信託銀行に依頼したのですが、住信は、資産査定の曖昧さが残り、債務超過の可能性が残る銀行を救済することは、自らの経営体力を損なうので出来ないと拒否したのです。このため、危ない銀行を健全銀行が救済合併するという、大蔵省得意の筋書きは、封印されてしまったのです。こうして万策尽きた長銀は、この日、実質的に倒産したのです。
2011.10.23
コメント(4)
ナイチンゲールの世界 (16)ローマ旅行は、ミケランジェロとの出会いもありましたが、後にフローレンスをクリミアでの戦争に導くことになる、より大きな出会いを、彼女に用意していました。それはシドニー・ハーバード夫妻との出会いでした。国会議員として多忙な日々を過ごしていたハーバードは、妻と共に熱心な慈善活動家としても知られる人物でした。旅先で親しくなった夫妻は、その後も年上の友として、フローレンスの心の拠り所となりました。ローマの空気で元気になったフローレンスは、イギリスに戻ると再び元気を失います。社交界の会話やダンスは、フローレンスにとって次第に退屈で、仕方のないものになっていたのです。鬱病の再発したフローレンスは、再び両親の友人夫妻と旅に出ます。今度はエジプトとギリシアへの旅でした。 続く
2011.10.22
コメント(8)
クロニクル トウ小平氏来日1978(昭和53)年10月22日33年前になります。この日、トウ小平中国共産党副首相が来日しました。この年8月12日に日中平和友好条約が調印されたことを受けてのものでした。トウ小平氏は、86年1月に逝去された故周恩来首相に重用された人物でしたが、プロレタリア文化大革命の時代と、周首相逝去後に起きた、76年4月の第1次天安門事件に絡んで2度失脚しており、2度の復活から不死鳥と呼ばれ,肩書きは副首相でしたが、事実上中国共産党の最高指導者の地位にありました。そのため、日本側も国賓待遇の接遇で臨み、来日翌日の23日には、昭和天皇との会見もセットしました。席上昭和天皇は、予定になかった日中関係の過去について自ら言及し、「両国の間には、一時不幸な出来事もあったが…」と述べられ、感激したトウ氏は、「天皇の訪中を中国人民と中国政府は、共に切望しています」と述べて、天皇の訪中を招聘しました。しかし、昭和天皇の訪中には、国内保守勢力の反対が強く、天皇ご自身の強い意欲にも関わらず、ついに存命中に実現することはありませんでした。天皇訪中の実現は、1992(平成4)年に、息子の平成天皇の訪中として、ようやく実現を見ました。
2011.10.22
コメント(6)
クロニクル キューバ危機発生1962(昭和37)年10月22日49年前のこの日、アメリカ合衆国大統領ケネディは、カリブ海の隣国キューバに、ソ連がミサイル基地を建設中である証拠を掴んだと発表、今後の武器等の搬入を阻止するために、キューバに対する海上封鎖を実施する、ソ連船といえども、臨検の例外とはしないと発表しました。すわっ米ソの軍事衝突は避けられない、第3次世界大戦=核戦争の勃発かと、世界は悲壮な覚悟を迫られました。この日は丁度私の20才の誕生日でした.米国時間の22日でしたので、日本でニュースを知ったのは、23日の夕刊でしたから、良かったのですが、それでも20才になった翌日から暗い気持にさせられるとはと、忘れられない苦い記憶が今も鮮明に残っています。数日後、ソ連共産党のフルシチョフ第一書記は、キューバ近海に達していたソ連船に引き上げを命じ、危機は回避されました。世界が第3次世界大戦に最も近づいた1週間でした。
2011.10.22
コメント(6)
ナイチンゲールの世界 (15)病院で働きたいという、フローレンスの願いは、当然の如く家族の猛反対を受けました。娘たちを由緒正しい名門の御曹司に嫁がせることが、自分の仕事と考えていた母のファニーは、激しく反対しました。母にとっては、上流階級の人間が働くなどということは、とんでもないことだったのです。ただこの母は、看護婦の仕事が、当時の西欧世界で、どのように評価されていたかは、知らずにいたのです。知っていたら、その反対はより激しいものになっていたでしょう。姉のパーセノーブも同じでした。家族のメンツが傷つけられると、彼女も反対したのです。しかし、フローレンスにとって、一番辛かったのは、いつも彼女に優しく、大抵の願い事を聞き入れてくれ、数学を学びたいという要望も叶えてくれた、父からも強く反対されたことでした。ウィリアム氏は、病院の実情や看護婦に対する社会の評価を、正しく把握していたのです。娘が看護婦になることを認めた場合、社交界がナイチンゲール家をどのように見るかも、ウィリアム氏には、手に取るように理解できました。ですから、フローレンスに甘い父にしても、フローのこの願いだけは、認めるわけには行かなかったのです。病院で看護婦として働きたいというフローレンスの願いは、見事に却下されたのです。彼女の鬱屈とした辛い日々が始まりました。フローがこの時期に、親しい友人に書き送った手紙が残っています。そこにはこうあります。「私は、このまま生き続けたとしても、何の役にも立たないでしょう。私は、何も出来ないつまらない人間なのです。」落ち込んだ彼女は、次第に鬱病の症状を呈するようになってゆきます。さすがに家族も心配になりました。両親は相談の上、ローマへ出かけるという友人夫妻に、フローを一緒に連れて行ってもらうことにしたのです。1847年10月のことでした。彼女がシスティーナ礼拝堂に描かれた、ミケランジェロの天井画『天地創造』に魅入られたのは、この時でした。フローレンスは、ここで買い求めたこの絵の複製画を、以後亡くなるまで自室にかけていたと言われています。 続く
2011.10.21
コメント(4)
クロニクル 農地改革の断行1946(昭和21)年 10月21日本日二つ目のクロニクルポツダム宣言を受諾し、GHQの占領下にあった日本は、商工業における財閥支配と、農業における地主支配を抜本的に改めることを迫られ、ここに財閥解体と農地改革の断行によって、日本社会の民主化が進められました。1946年のこの日、前年12月29日に公布された第1次農地調整法に続いて、自作農創設特別措置法と農地調整法の改正法(第2次農地調整法)が公布されました。その結果、農地改革が本格的に実施されることになりました。4年後の1950年に完了した農地改革では、(1)不在地主の全貸付け地(2)在村地主の法廷所有地(1町歩=約1ha=3000坪、 ただし、北海道ではその4倍の面積)を除く全貸付け地の公定価格による強制買い上げ と、同じく公定価格での小作農などへの売却(3)残存する小作地の小作料は、田は生産量の25%・畑は15%を上限として、金納とするこ と。以上の点が厳しく実行に移されました。こうして、農民の80%以上が自作農または自小作農となり、残存小作地は10%余にまで減少しました。山林には手をつけなかったとはいえ、小規模自作農が多数を占める農村は、冬場の出稼ぎや、中卒男女の大都会や工場地帯への集団就職によって、商工業への労働力の供給基地ではあり続けましたが、もはや『女工哀史』や『あぁ、野麦峠』に描かれたどん底の貧しさとは違った社会に変身していったのです。公定価格での買取り、売却の決定後に顕著になった悪性インフレや新円切換えによって、地主は実質的に農地をただ取りされたような状態に陥り、農民達はただ同然の安値で自作農に変身できたのです。こうして小規模な土地所有者が多数を占める農村は、戦後保守の強固な地盤を形成することになったのでした。
2011.10.21
コメント(4)
クロニクル ウーマンリブ登場1970(昭和45)年10月21日もう41年経つのですね。この日は国際反戦デー。各地で学生や労働者がヴェトナム反戦の集会を開く中、東京京橋の水谷公園では、ヘルメット姿で「男は立ち入り禁止」とした集会が開かれていました。60年代の後半から欧米で盛んになった,女性自身による女性解放運動、「ウーマンリブ」の日本でははじめての街頭への進出でした。デモに参加したのは、いくつかの女性解放団体のメンバー,約200人程で、ほとんどが20~25歳と思われる会社員か学生といった若い女性達でした。夫々が思い思いのヘルメットを被り、「男達を喜ばせるための服装や化粧はしない」とか「妊娠中絶の禁止反対」などを掲げて、数寄屋橋から新橋まで、短い距離でしたが、派手なジグザグデモを繰り広げました。このデモがきっかけとなり、11月14日には、日本初のウーマンリブの大会が開かれ、「性差別への告発」をテーマに活発な討論が行なわれました。女性の社会進出が、なお道半ばの時代の出来事で、ウーマンリブ運動の参加者達は、現在のように自然体のままで、何気なく女性解放運動に力添えすることが出来ず、やがてジリ貧に陥って行きます。肩に力の入りすぎたままの運動は、長続きしないことを地で行った出来事でした。
2011.10.21
コメント(4)
ナイチンゲールの世界 (14)1843年、フローレンス・ナイチンゲールは次のように記しました。彼女の『自分だけのメモ』の1ページです。「私の心は、人間の苦しみ、悩みという考えでいっぱいになっている。私の見る限りの人たちは、心配と貧しさと病気に、食い殺されている。」と、フローレンスがいつ頃からこのような考えを持つに至ったかは定かでないのですが、このメモを記した23歳の時には、彼女は自分の進むべき道が、不幸な人たちと共に生きようとする方向にあることを、自覚していたと考えて良いようです。アメリカの社会事業家として高名なサムエル・ハウ博士は、眼の不自由な人の教育法を考案し、後にヘレン・ケラーさんも学んだパーキンス学院の創立者としても知られる人物です。このハウ博士は、フローの父の友人でもあったので、イギリスを訪れると必ず何日かはナイチンゲール家に滞在するのが常でした。このハウ博士は、1844年にフローたちのエンブリー荘に滞在した時に、24歳になったばかりのフローから「病院で恵まれない人々のために働きたいけれど、それはとんでもないことでしょうか」と、相談を受けた際のことを書き残しています。フローの思いつめたような顔を見て、私はこう答えたと博士は記します。「イギリスの上流家庭では、一般にそれはとんでもないことだと、考えられています。しかし、私はあなたに『進みなさい』とお話します。そういう生き方を、神様から与えられた仕事と感じておられるのなら、それに従いなさい。あなたが恵まれない人々の幸福のために働くことは、とんでもないどころか立派な行いです。私は、神様があなたと共にいてくださることを祈ります。」と。フローが、はっきり「病院で働く」意志を、人に相談した最初のケースでした。しかしまだフローには、自分の決心を両親や姉に打ち明ける勇気はありませんでした。そんな彼女の背中を押したのが、両親も認めるヘンリー・ニコルソンのフローへの求婚でした。彼女のメモに立ち返ります。「ヘンリーと結婚すれば、私は広い屋敷に住み、多くの召使に囲まれ、なに不自由なく暮らせるだろう。ヘンリーは教養も高く、人柄も良いから、私たちの結婚生活は素晴らしいものになるだろう。」「けれど、私が心の中の秘密にしていることを実行するには、ヘンリーは夫として相応しくない。」こう考えた彼女は、両親の勧めも振り切って、この縁談を断ってしまったのです。いぶかる両親に、「病院で患者の世話をする仕事がしたい」と、フローが自らの意志を明確にして、願い出たのは、25歳になった1845年の暮のことでした。 続く
2011.10.20
コメント(14)
クロニクル 中曽根裁定下る1987(昭和62)年10月20日今日もまた、24年前の出来事です。昨日記したNYのブラックマンデーの影響で、東京市場は朝から売り一色。買い物が入らないため、ストップ安売り気配の銘柄が続出するパニック状態にありました。そんな24年前のこの日、引退を表明していた中曽根首相は、後継総裁に名乗りをあげていた、安倍晋太郎・竹下登・宮沢喜一の3氏の白紙委任を取り付けた上で、自らの後継に最大派閥竹下派の竹下登氏を指名しました。最大派閥からの総理・総裁の登場は、田中角栄元首相の辞任後、13年振りのことでしたから、長期安定政権誕生かと思われたのですが、「好事魔多し」というべきか、竹下首相が、リクルート事件に連座して、一般消費税の導入を花道に在任2年足らずで辞職を表明したのは、89年4月末のことでした。
2011.10.20
コメント(4)
ナイチンゲールの世界 (13)公衆衛生学者たちは、病院の不衛生で悲惨な状況にも眼を向け、きつい調子でその改善を提言しました。しかし、上下水道事業を優先する政府は、病院の状況改善には手がまわりません。その結果、病院環境の改善は、人道主義者の自発的な行動に負うしかなかったのです。1820年生まれのナイチンゲールが、看護の仕事の重要性に目覚めたのは、こうした時期だったのです。病院は身寄りのない最も卑しい人たちが収容される、不衛生で悪臭の漂う場所でした。ですから、看護婦の仕事は、夏冬を問わず川の浅瀬で洗濯をする、重労働の洗濯婦(石鹸のない時代です。白生地の汚れを落とすのは、大変な重労働だったのです)と並んで、最も卑しい職業に数えられていたのです。その上、病院に収容されているのは、社会の底辺に属する人々です。産業社会化の進展のなかで、貧しき労働者の数が増えてくると、他に行き場のない病人も増えてきます。当然病院に収容される貧民も増えます。収容患者数に応じて、看護婦の数を増やしてくれるわけではありませんから、当然仕事はきつくなります。こんな状態で、しかも最も卑しい仕事と蔑まれている看護婦達に、誠実な仕事振りを期待することの方が無理です。どの道全員にまで眼が届かないのなら、助かりそうもない人たちから見捨てる。看護婦達は仕事のきつさから、自然にそうした手抜きの論理を身につけます。熱心に誠実に仕事を続ける看護婦は、救貧活動に力を入れる修道会から派遣されてくる、修道女達に限られるのですが、英国国教会(日本では聖公会)を国教とするイギリスには、修道院は16世紀半ばに廃止されているため、彼女たちに期待することも出来ません。上流階級、それも超上流階級とも言うべき、一握りの恵まれた家庭の令嬢であるナイチンゲールが、身内や社交界の場で、「看護婦の仕事をしてみたい」と一言でも漏らしたらどうなるか、想像はつきますね。 続く
2011.10.19
コメント(4)
クロニクル ブラック・マンデー1987(昭和62)年10月19日24年前のことです。この日、NY株式市場が急落、ダウ工業株30種平均は、一挙に508ドル32セント、率にして22.6%もの急落を記録しました。そうなんです。当時のダウ平均は2400ドル前後だったのです。米国ウォール街での株価急落は、あの世界恐慌の引き金を引いたことで名高い、1929年の暗黒の木曜日が有名ですが、あの29年当時の暴落でさえ、下落率は12.8%だったのですから、記録を10ポイントも上回る大暴落でした。レーガノミックスによる財政と貿易という双子の赤字が、アメリカ経済を蝕んでいたとか、システムトレードの普及が、サーキットブレーカーを発動させ、売りが売りを呼ぶ連鎖となって、下落幅を拡大したとか、色々な検証結果が発表されましたが、おそらくその全てが一分の真実をついていたものと思われます。一夜明けた火曜日の東京市場も、日経平均は3836円安と、14.9%の急落を記録、翌日こそ戻しましたが、その後再び下げに転じ、年末まで約2ヶ月の調整を余儀なくされました。しかし、欧米市場に比べると、日本市場の下げは小さく、翌88年1月から、89年12月にかけて、いわゆるバブル景気を謳歌することになります。
2011.10.19
コメント(6)
クロニクル ミニスカートの女王来日1967(昭和42)年10月18日44年前になるのですね。この日を境に、ミニスカート旋風が日本を席巻することになりました。オリンピック後の不況を克服し、再び勢い良く成長を続けた日本経済は、「昭和元禄」と命名されたのを、御記憶の方もいらっしゃると思います。消費の好調が続き、女性の服装も次第に派手好みになり、欧風ファッション、特にパリモードがもてはやされ、スカート丈も少しづつ短くなりだしていた頃です。そんな時に登場したのが、ミニスカートの女王ともてはやされたツイッギーでした。彼女の来日を機に、日本でも若い女性を中心にミニスカートが爆発的に流行し、駅の階段や歩道橋などでは、目のやりばに困ったものでした。ただ、このミニスカート、流行としての息の長さは大記録もので、現在では社会的に定着しています。女性の支持を得た結果といえましょうか。
2011.10.18
コメント(18)
クロニクル OAPEC石油戦略を発動1973(昭和48)年10月17日とりあえず、昨日分のクロニクルをアップします。この日、ペルシア湾岸6ヶ国は、原油公示価格を21%引き上げることを決定、OAPEC(アラブ石油輸出国機構)10カ国の石油担当相会議は、イスラエル支持国向けの原油生産を5%削減するという、石油戦略を発動しました。6日に始まった第4次中東戦争において、この日いよいよ産業社会の命綱,石油を武器とした石油戦略が発動されたのです。史上に名高い第1次オイルショックは、この日の決定が基礎となって、スタートしたのです。
2011.10.17
コメント(2)
クロニクル 北炭夕張新鉱でガス事故1981(昭和56)年10月16日ちょうど30年前になります。この日、午後0時40分頃、北海道夕張市の北海道炭鉱汽船(略称北炭)の夕張新鉱で、坑口から約3000メートル、地下約800メートルの地点でガス事故が発生、構内で作業中の坑夫が酸欠やガス中毒で次々に倒れました。危険度の高い有毒ガスが蔓延しているため、救出も難航を極めたのですが、追い討ちをかけるように、午後10時過ぎに坑内火災が発生、大惨事になりました。「北炭」夕張新鉱は、「北炭」夕張炭鉱が5年の歳月と300億円もの巨費を投じて開発、75年6月に操業を開始した深部採炭型の炭坑でした。最新の設備を誇っていたのですが、最深部の可燃性の高い質の良過ぎる石炭を採掘するため、ちょっとした火気でもすぐに火災が発生したり、有毒ガスが噴出したりするなど、操業当初から事故に苦しめられていたのです。操業1ヶ月の75年7月には、早くもガス突出事故が起きて、5人が死亡、14人が負傷しました。80年の8月にも坑内で火災が発生しています。そんな矢先のこの日の事故だったのです。そして、この日夜10時過ぎに発生した火災は、なかなか鎮火せず、1週間後の23日になっても燃え続けていました。そこで、会社側は23日に至って、救援に入ったまま行方不明になっていた救援隊の10名も、坑内で死亡したものと判断、3次、4次の災害を防ぐための苦渋の決断として、坑内に救援隊を含めて59人の行方不明者を残したまま注水を開始したのです。死者は総計で93人にのぼりました。この事故が原因で、北炭夕張炭鉱は12月に倒産、再建計画も不調に終り、翌82年10月、夕張新鉱は閉山を迎えました。2006年に財政破綻した夕張市の苦難は、ここに始まったのです。追記 明日から小樽まで出かけてきます。 火曜日の夜戻ってきます。
2011.10.16
コメント(18)
クロニクル 拉致被害者5名帰国2002(平成14)年10月15日本日2度目のクロニクルです。こちらも落とすわけには行きませんね。もうあれから9年も経つのですね。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に拉致された拉致被害者のうち、9月の小泉首相の訪朝の際に、北朝鮮が生存を確認した5名の皆さんが、この日久々に日本の土を踏みました。蓮池夫妻、地村夫妻、そして曽我ひとみさんの5人です。他の方々は死亡と発表されました。この報に接した時の私の印象は、よくぞまぁ、拉致という国家犯罪を認めたものだという点にありました。「国家は過ちを認めないし、あやまらない」の倣岸不遜を貫く日本の官僚機構であれば、拉致を認めることは絶対になかっただろうと、考えているからです。それだけに私は、拉致被害者家族会の皆さんが、帰国しなかった自分たちの家族が、なお北朝鮮で生存していると思って活動されているお気持ちを理解しながらも、9年前に死亡と発表された皆さんについては、生存の可能性は低いのではないかと受け止めています。ともかく、日本政府のすべきことは、1日も早く南北統一を早期に実現して、朝鮮半島全域をくまなく探せるような環境を整えることではないでしょうか。
2011.10.15
コメント(10)
ナイチンゲールの世界 (12)当時の病院は、救貧院を兼ねた場所でした。底辺の労働者達もまた病院を嫌っていました。彼らは病気や怪我の仲間を、病院に送るのは自分達の恥だと考えていたのです。ですからなけなしの金を出し合って、治療費をカンパしたり、僅かのパンを分け合って面倒をみたりしたのです。次は自分が助けられる番になるかもしれない。こうした良い意味での共同意識が残っていたのです。逆の面から見ると、病院とは貧民達にさえ、嫌われる場所だったのです。ベッド数は常に足りず、1つのベッドに2人の病人が押し込まれることも稀ではなかったのです。空気はよどみ、衛生状態も劣悪です。当然医師も看護婦も足りませんから、処置がよければ助けることが出来たであろう人でも、命の火を消してしまうことが多々ありました。病院のこうした状態が、社会の注目を浴びるようになったのは、1830年代中頃から40年代のはじめにかけてのことでした。原因は1831年~33年にかけてヨーロッパ全域で猛威をふるったコレラ禍でした。コレラは東インドのベンガル地方の風土病でしたが、この地に西欧人が足を踏み入れ、さらに各地に散っていたことから、世界的な大流行になったのです。欧州へは、インドからインドシナ半島を経て、中国大陸からモンゴル、ロシアを経由するルートと、アラビア半島からアフリカを席捲して至るルートの2方向から、襲ってきました。今まで経験したことのない奇病です。特に貧困層の犠牲が多かったことから、イギリスでもフランスでも、貧民達の間では、「金持ちが我々を邪魔にして、密かに毒を撒いている」という噂が広まり、貧民による暴動まで起こる騒ぎとなったのです。こうなると、時の政府も放っておくことは出来ません。この時に、政府の依頼を受けて活躍したのが、公衆衛生学者の一群でした。彼らは、地域別の死亡者や罹患者数を調べ、罹患率の違いの原因を探り、飲み水が原因である確率が高いと、結論付けたのです。こうして、大都市部における上下水道の分離と、水道の普及の必要が意識されるようになり、衛生状態改善の必要も、意識されることになりました。しかし、救貧院の性格を持つ病院の状態を改善することは、後回しとされたのです。 続く
2011.10.15
コメント(6)
クロニクル サンフランシスコシールズ来日 1949(昭和24)年10月15日62年前のことです。この日、戦後初来日の米国プロ野球チーム(ただし、マイナーリーガーです)、サンフランシスコシールズの来日第一戦が巨人軍との間で行われました。場所は東京後楽園球場でしたが、本日一番書きたい事はこの後です。この試合の観覧席で、この日、日本初お目見えの商品が販売されました。 その品というのが今やお馴染みのポップコーンとコカコーラでした。両品とも爆発的人気を博するのは、もうしばらくあとのことになりますが……
2011.10.15
コメント(8)
ナイチンゲールの世界 (11)フローレンスは弱者を思いやる心を持っていました。それゆえ病人の看護を任せると、とても親身に甲斐甲斐しく世話をします。それゆえ、いつの頃からか、彼女の身内はみな具合が悪くなると、フローレンスに来てもらい、世話してもらいたいと望むようになっていました。フローレンスが、看護婦が自分の天職かもしれないと思うようになったのは、こうした看護体験が背景になっていたのだと、思われます。しかし、ここに大きな問題がありました。上流階級のトレードマークは内閣の一員として行政に関わるのでない限り、自由な時間がタップリとあることでした。それゆえたとえ無給だとしても、忙しくて自由な時間が持てない仕事をするなど、とんでもないことだったのです。まして女性であるフローレンスのすることではない。これが社交界の共通認識でした。そして、より本質的で大きな問題がありました。それは当時の病院というものに共通した大問題でした。皆さんも同じだと思いますが、大きな病気を患った時には、ホーム・ドクターの紹介などで大病院の診察を受け、そこでの治療を選択される方が多いですね。私もそうでした。大病院は先端医療も可能な、最新の設備を誇り、腕の良い医師を揃え、病室も清潔で……と、全ての点で安心できる環境にある。こんな認識を現代の人々は持ちます。しかし、19世紀の病院に現在のイメージを持ち込むと、大きな間違いを犯すことになります。フローレンスの若かった時代、ヴィクトリア前期のイギリスの病院は、いやイギリスだけでなくヨーロッパ中の病院は、現代の大病院とは似ても似つかぬシロモノだったのです。まず、医師は自分の患者を病院に任せようなどと考えませんでした。当時の医師は往診治療をしていたのですが、病人は誰であろうと、自宅で家族の看護を受けながら養生をし、治療も受けるのが最も良いと考えていたのです。病院になど入るものではない。病院は身寄りにない貧民の入る場所だ。当時はこう考えられていたのです。 続く
2011.10.14
コメント(6)
クロニクル 「日本史」の授業再開 1946(昭和21)年10月14日65年前のこの日、GHQは国民学校(小学校)における、日本歴史の授業再開を許可する覚え書きを発表しました。前年の12月31日、GHQは「修身」「日本歴史」「地理」の授業停止と教科書回収の覚え書きを出し、この年46年1月25日には、有名な「墨塗り教科書令」を発令するなど、学校教育は激しい変化の中にあったのですが、7月の「地理」、9月の「公民」に続いて、この日,最も遅れていた「日本歴史」の授業再開許可を出したのです。授業は『くにのあゆみ』と題する全く新しい歴史教科書を用いて行われ、神話からではなく考古学的叙述から始まる画期的な内容で、学問上の成果を無視する皇国史観とは一線を画したものでした。
2011.10.14
コメント(12)
ナイチンゲールの世界 (10)ナイチンゲールの話に戻りましょう。彼女はいつ頃から看護の仕事に興味を持つようになったのでしょうか。この点については、明確な答えは出ていません。おそらく10代後半の社交界にデビューした前後だろうと、考えられています。フローは優しい子でした。幼い頃に怪我をした子犬の世話を、毎日犬小屋に通って何時間も付き添ってするような子でした。この点は、彼女の叔母(父の妹)の証言から明らかになっています。10代の前半には、女性たちの慈善活動の一環として、貧しい人たちにスープやパンを配る仕事を、教区の婦人たちと共にし始めました。彼女はこの活動にも熱心に参加しました。参加を続ける中で、彼女は活動の問題点にも気付くようになります。パンやスープを届けても、寝たきりや、手足が衰えた病人は、自らそれを口にすることが出来ないのです。病人には、世話をする人が必要なことに、彼女は気付いたのです。慈善活動なのに、何故そうしないのか? 彼女は心を痛めました。そこから彼女は、上流階級の婦人たちの慈善活動が、自分達のプライドを満足させるための活動に過ぎず、本当に貧民達の暮らしを思いやってのものではないことに気付いたのです。貧しき者、弱き者を思いやる心。この心をフローレンス・ナイチンゲールは、幼い頃から持ち合わせていました。それが長じて看護婦になりたいという、強い意思を持つことに繋がったであろうことは、容易に理解できる所です。こうして彼女は、看護婦として働く希望を持つに至りました。しかしそこには、大きな問題があったのです。 続く
2011.10.13
コメント(14)
クロニクル 社会党の統一 1955(昭和30)年10月13日56年苗のことです。この日、当時の左派社会党(鈴木茂三郎委員長)と右派社会党(河上丈太郎委員長)が一同に会した社会党の統一大会が開かれました。この大会で、4年余に及ぶ分裂に終止符が打たれ、衆議院156議席、参議院118議席の日本社会党が誕生しました。この革新政党の統一に刺激を受け、自由党と民主党が自由民主党として、合同することを決議して、保守合同が実現したのは、同年11月15日のことでした。ここに二大政党対立時代、55年体制が成立をみました。合同した自民党は憲法改正を党是として,議会で2/3の議席を確保することを目指し、逆に憲法擁護を掲げた護憲政党の社会党は議会で1/3の議席を確保することを目指しました。
2011.10.13
コメント(6)

ナイチンゲールの世界 (9)続写真 昨日の記述に関わる写真をもう一枚掲載します。フランス女性は、結婚後は自由で、彼女らにとって恋愛の自由は結婚によって得られると記しました。勿論仲の良い夫婦もありますが、結婚が家の体面や事情によって左右されるものである限り、こうした幸せな夫婦は、一部にしか存在しなかったのです。そして、一方には夫婦が互いの婚外恋愛を認め合っているケースあり、他方には妻が他の男と親密であることに気付かずにいる、間抜け男(コキュと言います)の存在もあります。下の絵は、19世紀の30年代から70年代にかけて、息長く活躍した名高い版画家ドーミエの、「夫婦の暮らしぶり」と題する連作の1つです。この夫婦、皆さんはどうご覧になりますか。窓というかベランダへの出入り口を大きく開け、三日月を見てウットリと忘我の境に入っている妻と、寒そうに早く扉を閉めたそうな亭主の間は、一見親密そうに見えながら、超えがたい互いの溝を感じさせます。そうなんです。この絵でドーミエが表現しているのは、妻を寝取られていることに気付いていないマヌケ男(コキュ)と、ウットリと恋人との情事を思い返している妻の姿なのです。この時期の絵に描かれる三日月は、妻を寝取られた男を表すものなのです。しかも間の抜けた男の長い鼻に向かって、三日月の先端が延びています。三日月が名指すように男に向かって延びている場合、それは大衆が、「ヤーイ、このマヌケ野郎」と、男をはやし立てていることを示しているのです。どうぞ、そのつもりで、もう1度この絵をご覧下さい。この時代のフランス生活事情を、実に見事に表現しているではありませんか。 続く
2011.10.12
コメント(18)

ナイチンゲールの世界(9)写真昨日の女学校には付き添いが一緒の部分、やっと写真を見つけましたので添付します。この写真は、1820年代末のフランスの少女のための音楽学校を描いたものです。付き添いの乳母や召使いが大勢教室の隅にいます。近くに立っているのは母親でしょうか。出来たら午後、もう一枚アップします。
2011.10.12
コメント(8)
クロニクル サラ金の実態調査結果発表 1978(昭和53)年10月12日33年前です。この日,警視庁はサラ金等貸し金業に関する実態調査の結果を発表しました。この時期は、サラ金等による40~60%という高額な利息と苛烈な借金の取立てが社会問題化していた時期でした。調査によると、同年1月から8月までの8ヶ月間で借金苦による自殺者130名、蒸発等行方不明者1,502名、自殺者の88.5%が男性、女性は主婦が大多数だったと報告されています。また特に女性の借金の大部分は、30~50万円の小口で「家計のやりくりのために借りたが、利息があまりに高く、元金が減らずに困っていた」人だったという実態が示され、また家出人の多くが20~40代だった事実も明らかになりました。ここに、サラ金規制の必要性が明かにななったのですが、サラ金等からの政治献金がネックになったのか、国会での審議はなかなか進まず、世論やマスコミの指弾を受け、ようやく「サラ金等規正法」が成立をみたのは、なんと1983年11月でした。警視庁による実態調査発表の5年後です。ここで留意したいことは、この時の規制が高利規制、過剰融資規制、強制取り立て規制の3点の眼目を持っていたことです。それでも、利息制限法の上限金利とは別に、出資法に定めるより高い上限金利という2種類の上限金利が併存したために、サラ金各社は、「グレーゾーン」と呼ばれた出資法の上限金利を適用して、高収益をあげていました。こうした実態に対する批判に対しても、「金利を下げれば生活困窮者は融資を受けられなくなる」との主張が業界寄りの議員や官僚からしきりに出され、2006年の最高裁判決で、「グレーゾーン金利は違法であり、その差額は過払い金として返還される必要がある」とされるまで、より高い金利が適用され続けました。その後、過払い金返還請求が殺到し、返還に追われた業界が不振に陥ったのは、まさに自業自得というべきでしょうか。
2011.10.12
コメント(14)
全73件 (73件中 1-50件目)


