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昔、犬の仕事をしている時に、結構耳にしたのが、アメリカ人は、夏休みになると、犬を捨てて、クリスマスになると、犬を買うんだと言う話。アメリカの、夏休みは長いから、バカンスへ行くのに、犬が邪魔になる人が多いのだと言う。そこで、犬を収容所などに連れて行くのだ。そしてクリスマスがやって来ると、自分の家族などに、可愛い子犬を、バスケットなどに入れてプレゼントするのだそう。これは、アメリカのブリーダーと、取引のある人間から聞いた話だから、多少は信憑性があると思っている。少なくとも、私はそうした国を、見習おうとは思わない。ましてや、犬を純潔だ、血統書だ、などと言って、交配させてお金で売る様な文化は、何があっても肯定出来ない。例えそこで、その対抗策として、州ごとによって、犬を殺さない収容施設があったにしてもだ。どんなに、終わりを綺麗にまとめようとした所で、そもそもの発端に、犬を、自分達が作った「純血種」か、雑種かに分けて差別したり、本人達が、好まない相手とも交尾させ、生まれた子を、お金で売って、ルックスで優劣を付けて喜んだりしている以上、私は犬や猫に関しては、欧米とは絶対に一線を画して行く。あの忌まわしい、ペット産業を止めて、犬をヒトラーが礼賛した、純潔思想から解放しない限りは、犬猫の問題に於いて、欧米は、私の信頼する友人にはなり得ないだろう。彼らと私は、自然や命に対する、世界観が、余りに異なっているのだ。私は、自然を破壊し、命を金で売買する事を認めた、欧米が確立して来た、近代思想には、ついて行く事が出来ない。しかし、世の愛護団体、及びボランティアの方々は、何の反省もなく、欧米が犯した過ちを踏襲している。こうした保護活動は、決して本当の解決には至らせてくれないだろうと、私は思って見ている。犬や、猫達の苦しみや、残酷な処刑は続くだろう。我々も間違った、世界観の元で解決を望んでいる限りは。私は文明と共に、ペット文化の転換も促して行きたいと思っている。今の文化は間違っている。確かに欧米文化を取り入れた事によって、日本人は、昔よりも遥かに、生き者に触れる人が多くなった。それだけは、確かに功績だと思っている。しかし、結局は、中身のない文化に終ってしまっている。犬や猫と暮らす人々は増えたが、簡単に飽きて捨てられると言う、社会現象まで起きてしまった。それを止めようとする流れの中で、返って文化は危機感から、欧米信仰主義に走り、欧米のやり方で、犬や猫を飼うのでなければ、虐待だと言い出すばかりに、偏狭で未熟な思想が幅を効かせるようになってしまった。飼い主達は、マニアックに嵌って行き、客観的に見て、飼い犬との相互理解からは、離れて行く一方である。行き過ぎた、犬へ押し付けている待遇の全てを見ていると、そこでは既に、犬自身の思いは完全に忘れられ、犬を振り返る事すらせずに、飼い主の一人遊びが続いている。この現状を救うには、まず、日本人が、欧米を絶対視する事を、止める事である。欧米文化は、確かに高度な科学技術文明を築き、人間にこの世の春を、謳歌させたかも知れないが、結局は周囲を省みない、幼稚な思想が基盤となった、短命の文明に過ぎない。今や、この欧米文明のお陰で、地球は死に瀕している。翻って日本文明は、古来から、環境との共生型文明を育んで来た。最近になって、それはようやく見直される様になったのだ。この2~30年で、日本人は、これまで積極的に触れようとしなかった、アニマの心に触れて行き、その経験の中で、少なくとも、これ以前とは違った、アニマ観を、持つに至ったのは間違いない。それを生かして、本来の日本人に我々は戻り、日本人らしい、アニマに対する文化を作って行こうではないか。私達の国民は、欧米人ほど、アニマ好きと言う訳ではない。アニマの面倒を見るのは骨が折れるし、例えば他人に自慢を出来るとか、ステイタスと言う、付加的要素がなくては、飼おうと思わない民族ではないか。犬を飼うのは、特別好きな連中に任せて、市民はもっと、他の事で、民族的アイデンティティを磨いて行くべきだ。少なくとも、今の日本人なら、犬達と、違ったやり方で、共存して行く事が、努力すればきっと出来ると私は思う。それは、彼らにも、権利と心を認めた文化であり、己の節度を正しく持ち、最後まで、責任を持てるほど、好きではないなら、それを求めないと言う、成熟した大人たちの文化だ。欧米よりも、よっぽど克己心溢れ、禁欲的で、品位のある文化である。それは本来の、日本文化の特徴なのだ。私は、無類のアニマ好きだが、犬でも猫でも、いつでも買える、ペットショップも、繁殖所もいらない。もし、私の所に犬がいなくて、犬と暮らしたくてたまらなくなったら、私は、犬を飼っている人を探して行って、子供が出来たら、是非分けて下さい、と、お願いする。何年でも、その日を待つ。私は、そうやって犬と巡り会って来た。物心ついた時から、犬に憧れ、犬を追い求め、11歳の冬、稗田神社で三本足の、野良犬吹雪が、現れてくれるまで、毎日神様にお祈りをしながら、待ち続けた。これほど、犬を愛している者さえが、生体売買はいらないと言っているのだから、ここまで犬を必要としていない人達に、ペットショップが必要な道理があるだろうか。この国で、生体売買を禁じて行けば、犬や猫の数は、近いうちに激減する。そしてこの国に残った犬達と、新しい文化を築いて行くべきだ。自己中心的な物の考えを、歓迎する人間はいない。評価する人間もいない。それはいつも、他人への迷惑だとお叱りを受ける。人間中心の物の考え方は、それと全く同じ事だ。地球で生きている以上、最も犯してはならない、過ちなのだ。お試し版メールマガジンは、ここまでです。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。ごめんなさいーい!!!!!倫理の進化用に、書く思想の記事が、これが最後だったから、気合を入れて書いたら、最長記録になってしまった・・・・。もー、疲れて、疲れて、腕が重くて、いつもほど、読みやすくも出来ませんでした、ごめんなさーい!!実は、今日は7個更新しています。はい。この6個の日記の前に、停止についての序文があります・・。活字中毒の皆様、喜んで下さい!全部で約、6万文字は優にあります!!四百時詰め原稿用紙で、ざっと百枚分でした・・・・(ぎっちり書いてね)。たった一回のメルマガが・・・。自分の手と、脳みそが恐ろしい。どういう構造になってるんだ???これを全て、携帯で読もうとする方へ。健康の保証が出来ませんから、考え直して下さい。せめてネットカフェに行って、プリントアウトして、挑戦してみて下さい!!初回のメルマガ、もっと軽いものにします・・・。エッセイも、試される大地の続編から、入って行くと思います。疲れ目になって欲しくないし・・・。終章第二部は、やっぱり月が代わってから、掲載しましょう。ねっ。
2008.03.27
例えるなら、たまたま外を歩いていた時に、「犬好きな方、ご自由にどうぞ、殺処分問題についても、歓迎します」と言う看板を見て、入ってみた喫茶店が、中にいる客はみんな、ピンクハウスを着たご婦人方だったと言うような、場違いムード。いや、もう少しきついものだった。ちょっと説明をさせて欲しい。それは、例えるならこういうものだ。たまたま外を歩いていて、喉の渇きを覚えたとする。私はコーヒーでも飲もうと、喫茶店を探している。そして、ちょっと時代がかった、色あせた扉のある喫茶店を見つける。入り口には、「ウエスタン・トレイル」と書いてある。きっと中に入れば、ウィルダネスを走ったライダー達の、写真が沢山飾られているのだろう。中には、無愛想なマスターがいて、パイプを吸っているかも知れない。朴訥で、でも、時に見せる笑顔は柔らかい。私は、ライダー達の背後にある、アリゾナの砂漠を連想する。焼けた大地。人によって違うだろうが、私がそこから想像するものは、埃を巻き上げて爆音を轟かせる、ハーレーダビッドソンではなくて、頭に美しい、羽飾りをつけた、往年のネイティブ・アメリカン。凛々しく跨っているのは、バイクではなくて美しい馬だ。そう、コーマック・マッカーシーの著作の題名の様に、「すべての美しい馬」この扉の奥には、きっとそんな心象に浸れる空間がある。扉を押し開けて入った時、中から聴こえて来る音楽は、出来たらジョン・デンバー辺りがいい。風俗や慣習の違いを超えて、何か男としての、同じ美学を心に持っている人間と言う印象を受ける(別に、私は性同一性障害と言う訳ではないのだが、幼い頃から武装キャンプみたいな家庭で育ってしまうと、生き延びる為に、戦士に自分がなって行くしかなくなる。兄からのプレゼントも、カイザーナックルや、ヌンチャクや、トンホー、三段式特殊警棒、メリケンサックとか、止めには、大友克洋が描いた、AKIRAと言う漫画に出て来る、ジョーカーが持っていた、ワイヤーにボルトを幾つも通した、お手製の武器等だった。「これなら、お前の力でも、大の男の背骨も折れる」と、要は父に殺されそうになったら、これを使って先にやれと、渡されていた。私は他にも、兄が持っていた、サバイバル・ナイフを譲って欲しかった。より確実に、暴力の限りを尽くす大人達への対抗手段の武器を欲し、ついつい、「月間GUN]などを、毎月購読してしまった。例えエアガンでも、見ているだけで、勇気になったし、出来たらデリンジャーでいいから、((主にアメリカで女性が護身用に持つ、単発銃))何とか手に入れたいと思っていた。新宿に行けば、トカレフが三十万位で買えると言う話だったから、トカレフ貯金を地味にしていた。命中度が、滅法悪いと言うのが引っ掛かったが、至近距離で打てば、バカでも外すまい。衝撃に耐えられる様に、パワーリストを手首に付けたりしていた。こういう家庭に生まれた少女は、リボンさえも、髪を愛らしく飾る小物ではなくて、敵の背後を取れた時、首を締める為の道具と考える様になって行く。畢竟長じて人生を考える時、女性としての振る舞いどうのと言うよりも、男としての美学が指針になって来る。と言うだけの話である)。力強き者だからこそ、それを制御する心の強さ。彼の歌声からは、そんな本当の男らしさが伝わって来る。表音文字で歌われる洋楽は、表意文字の日本語で歌われる邦楽よりも、より音感的で、音楽に馴染んでいる気がする。扉を開けて、異国の友達に会いに行こう。かかっている曲は、「リービング・オン・ア・ジェット・プレーン」なら最高だ。哀切を込めて、まるでサイモン&ガーファンクルの「スカボロー・フェア」の様に繊細に歌い上げて、そしてなお、もっと不器用な男の弱さを感じさせる。そんな思いを持って、ぶっきらぼうなマグカップに注がれたコーヒーを求めて、喫茶店の扉を開けてみたら、何とメイドカフェでした、みたいなね。勿論かかっていたのはアニメソングって奴で、客の男共が、メイドの格好をした女の子に合わせて、幼稚園のお遊戯みたいな踊りを踊っていると。取り敢えず、自分がどれ程場違いな所の扉を開けてしまったのか混乱の内にも察し、今は兎に角、如何に渋く、取り乱す事なくさわやかかつ、冷静に、ここから出て行く事が出来るかに、自分の尊厳がかかってしまっていると言った様な体験。ご静読、まことに有り難うございました。どうぞ中断して目薬を。ただでさえ文章量の多いものをパソコンで読むのは疲れると言うのに、こんな心境描写までつき合わさせて、本当に申し訳ないと思っています。しかし兎に角、「うちの子だけ裸んぼうでした」と言うブログの扉を開いてしまった時の私の心境は、正しく全てがこの通りだったのだ。結局こうしたペット文化に対するマニアックな姿勢には、当の犬猫を無視している現実がある。お受験や何だと、幼い子供を自分の描いた通りの人生を送らさせようと、面接だ試験だ好感を持たれる服装だと、子供を置き去りに、勝手に盛り上がっている、母親達と酷似している。勿論同じ時代に育った、同じ国の人間達なのだから、対象は変われど干渉の仕方が同様なのは、是非もない。しかし、この新生ペット文化は、紛れもなくオタク、或いはマニアックな世界に陥ってしまっている。犬達を、飾り立て、贅沢をさせ、いい者を食べさせているのは結構なのだが、それよりも、犬達を人間が振り回してしまっているのが、とても苦しく、やり切れない。これは正に、ペット文化の問題点の、一番核となる部分である。結局の所、このペット文化の担い手達は、本当の生き者好きでは全くなくて、ただ単に、「ステイタス・マニア」と言うべきものなのではないのだろうか。日本の近代化が進み、洗練された文明人とは、まずカラーテレビや、冷蔵庫、電子レンジ、エアコンなど、一般的な家電の全てを備えている事から始まって、それをクリアして行くと、最終的に、最も都会的な市民とは、まず、自分の身なりを完璧に整えて、そして尚、犬や猫に代表される「ペット」を、この上なく、優雅に、装わせる事だと、考えているのではないだろうか。いみじくも、よく語られる、「人間の文明の進歩とは、そこで暮らす生き者に対する、人間の寛容の度合いによって測られる」と言う言葉が、完全に誤って理解されてしまっているのである。新生ペット文化の担い手達は、人間の文明化の証は、犬や猫に、洋服を着せる事だと、完全に履き違えてしまっているのだ。本当の、高次の文明とは、完全なる、生態系との共存である。生態系に、一切影響を与える事無く、全ての種の生業を、そのまま受け入れた上で、尚高度文明社会を作れるのならば、それは決して内的原因からの、終焉はあり得まい。そして最後に、ペット文化の抱える最大の問題、殺処分と、それに対する、ペット文化の対応についての検証である。全国で、犬や猫の保護団体、里親探しの組織、ボランティアなどが雨後の筍の様に乱立し始めたが、その背景には今度は、パソコンに於ける、インターネットの普及が挙げられる。ネットなどを通し、犬猫や、アニマ実験、毛皮に、化粧品などの実験による惨劇を、早い段階から問題視いていた団体などが、HPに掲載したり、また、ネットを通じてこうした問題を、広く渡り歩いて、自身のHPやブログに載せる人達が増えて、ネットワークが誕生して来た。その頃を契機に、愛護団体や、ボランティアを自称する人々は、爆発的に増えて来た。これらの人々は、多くが女性であり、この、ペット文化(彼女達は、ペットブームと呼んでいるが)でたち現れた、多くの無責任な飼い主を批判している。しかし、現実には彼女達も、その、ペット文化によって、犬や猫に、それまで以上の関心を持って現れた、一夜漬けの飼い主がかなりの割合を占めるのを、否めないのである。だからここでもやはり、マニアックボランティアの空気が色濃く漂っている。とかくこの人達は、日本語を使いたがらない。何でも英単語で格好を付けて言い表そうとする。多頭飼育崩壊は、そう日本語で言えばいいのに、「アニマル・ホーダー」等と呼ぶし、野良猫を捕まえて、手術してまた放す事を、「トラップ・ニューター・リターン」と表現したりする。以前ブログでも指摘したが、イベントなどで団体が売っている、殺処分反対とか、「動物」愛護のキャッチコピーを書いたTシャツは、まず、絶対英字で書かれていて、相当単語を知っている人間でなかったら、何が書いてあるんだか、さっぱり誰も分からない。自分達だけで理解し合って、外の世界とは、意思の疎通が、マニア用語を用いる為に、素直に行っていないと言う事くらいは、認識出来ていると解釈したい。外に対して訴える為にやっている事が、自分達の世界でしか、暗号の様に通じないでいるのを楽しんでいるのは、完全なマニアであるし、本気で殺処分を憂慮したりはしていないだろう。そうでないと言うのなら、犬でも猫でも、発情期でも、多頭飼育でも謳い文句でも、何でも万民が分かる様に、言葉を日本語で発言すべきだ。一体、この人達は誰に訴えたいのだろうか?日本人は見限って、在日英語圏の人間だけを、相手にするつもりなのだろうか?それでは殺処分はなくせまい。ディープに通じているのを鼻に掛けて、知らない人間を見下しているとさえ、見受けられてしまうのだ。これも、マニアックな専門知識を手に入れた人間に、よく見られる行動である。この「動物」愛護の傾向は、勿論、そのまま欧米思想を受け継いでいる。彼女達が、犬や猫の惨状を指摘する時、決まって繰り返される言葉が、「欧米では・・」、「欧米だったら・・」と、言うものである。日本のペット文化が、欧米の文化を、魂だけは移入出来ずに(そもそも文化が違うのだから)、外側だけを丸ごと日本にコピーして、持ち込んでいる以上、解決策に、似たり寄ったりの問題を抱える欧米の、先に進んだ保護対策を真似ようとするのは致し方ないだろう。実際犬猫問題にかけては、欧米よりも、タイを象徴とする、東洋や、自然民族の方が、具体的な答えを出している。それは、人間の都合を抑制しても、他の種族の生きる権利を奪ってはならないとする、共生の概念である。タイでは、狂水病の蔓延の為、予防策として、犬の殺処分が始まったが、これに犬好きで有名な、プミポン国王が猛反対。野良犬の避妊、去勢をして、ワクチンを接種して、元の場所へ帰す。咬み癖がある犬は、国の保護施設で隔離される代わりに、死ぬまで面倒を見られる。この様にして、タイは狂水病常在国でありながら、毎年被害を減少させ、尚且つ殺処分をゼロにしているのである。こうしたタイの取り組みは、日本でもテレビなどで報道されているし、愛護団体の人方もご存知のはずだ。しかし、日本では、命を殺してはならないと叫んでいるにも関わらず、現実に殺処分を撤廃した(それも最近に)、タイの様な国を見習おう、とは、絶対に言わないのだ。代わりに、まだまだ自分の国で、殺余分を完全になくす事が出来ないでいる(犬とは日本など、比較にならない程の文化と歴史を築いて来ている人々が)、欧米の尻を追って行くのに、余念がない。
2008.03.27
名高いザル法である、「動物の管理及び保護に関する法律」が、イギリスのエリザベス女王来日の際に、愛犬国から女王陛下を迎えるに当たって、アニマに対する法律がなくては赤恥をかくと、大急ぎで作られたと言う裏話もある。我々が、社会の中で、「日本的」な部分を減らし、「欧米的」な部分が増えて行く事は、つまり日本人に取って、自分たちの近代化の物差しになっていたのだ。犬を、汚い小屋で、鎖で繋いで残飯を与えている事は、恥ずべき事だと見なされる様になった。それは、近代化されていない、発展途上の、時代に後れた国の証明だと、強迫観念さえ抱いていたのだ。戦後の焼け野原から、奇跡的な勢いで立ち直った一途な努力は、近代文明人の、象徴とも言える、「ペットの待遇を充実させる」と言う命題に向かっても、全力で行われたのである。では、それが「ペット」の中でも、特に対象とされる犬や猫、その他のアニマ。そして取りも直さず、人間自身に取って、どういう結果を齎しているのかを、検証しなければならない。ペット文化は、これまでアニマに対して、侮辱的で、距離を取り、偏見と先入観で接していた日本市民に、アニマと直接触れ合わせ、互いの距離を詰めたと言う、功績を確かに挙げている。これまで先入観から、犬を飼いたがらなかった人間達も、美しい洋犬が巷に出回る事によって、時代のブームと憧れや好奇心から、犬を飼い始めた。その結果として、彼らはこれまで偏見を加えて来た、犬と言う者の、本当の愛らしさ、誠実さ、優しさ、やんちゃさ等を理解して、彼らに好感情を抱く事になって来た。実際、犬好きでない人間に、犬に対する偏見を解いてもらうには、犬を飼ってもらうのが一番の早道なのだが、それが至難の業で、偏見を駆逐して行く上での、一番の壁となってしまう。しかし今回は、日本人が欧米文化の心棒者になった事と、道徳観念を持たない貴族達が、見栄え目的などで作り出した、「雑種」のルックスに惹かれて、憧れから飼う人間が後を断たなかった為、お陰で犬に対する偏見は、大分減少して行ったと思う。そういう意味では、ペット文化も、アニマに対する先入観や、偏見や蔑視の駆逐と言う、意味ある仕事を成し遂げてくれた訳である。他方、ペット文化は、欧米文化の心棒者と言う、宗教的傾倒、或いはざっくばらんにミーハー根性と言ったものを背景に、何ら責任感も、アニマに対する誠実な愛情も、持たない非常識な飼い主を、大量に生み出す結果になった。その結果、途方もない数の犬や猫が、飼われては飽きて捨てられると言う、信じられない不道徳の犠牲になって、収容所の中で、命を落とす事になった。そしてその傾向は、現在でもまだ続いている。ペット文化は、それまで生き者に興味が薄かった人間達にも、広く生き者と共同生活を育ませる功績は挙げたが、その反面、飼い主として、求められるべき意識を、そもそも持っていなかった、資格のない人間を大量に生み出し、更にその者達によって、捨てられ、殺される膨大な数の犬や猫と、そうした無責任な飼い主から、捨てられる運命を辿る事になった犬猫の救済と言う、余りに大きな負債を、元来の生き者好きに、背負わせる結果になったのだ。捨てられる犬や猫を引き受ける事になった、過剰多等飼育が全国で報告される様になったのは、こうしたブームの歴史と比例している。そこで、ここ十数年前から、今度は動物愛護運動が、日本でも盛んになって来た。犬や猫に対する意識の高まりから、ようやく殺処分にも、関心が向けられて来たのだ。さて、それを論ずる前に、このペット文化の中で起きている、異質な問題にも着目して行きたい。それは、昨今の飼い主達に、著しくマニアック化の傾向があるという事である。日本風に言うのであれば、「オタク化」と言うのであろうし、私が見てきた人々も、方向性としては、「マニア」と言うより、オタクと言った方が近い気はするのだが、私はオタクと言うものを、生理的に苦手としてしまう為、敢えて「マニア」と言っておきたい。楽天や、ヤフーで私はブログを持っているし、そうでなくても、幾らでもその気になれば、愛犬家のブログを梯子出来る。ブログを始める様になって、ここ一年半ほど、多少のブログを見て回ると、飼い主達や、愛護団体、ボランティア達が、どうも一種倒錯した世界を、共有していると思えてならない事実が見えて来た。ペット文化によって、逆に簡単に、犬や猫が飼われて、捨てられるようになってしまった事が、ペット文化の弊害であるならば、これから挙げる問題は、ペット文化の真髄ではないだろうかと、私には思えてならない。異質に思った事は、飼い主達の、一般的な言動なのだ。後から詳しく説明するが、先に挙げた通り、ペット文化は欧米から輸入したものであって、自国から発生したものではない。しかし、本来なら文化とは、その地域に於いて、長い年月をかけて、習慣化され、根付いて行くものである。食文化の様に、輸入に問題がなく、健康上、他国の文化を取り入れた方が有益なのは、いい意味での輸入文化になるが、犬や猫の様に、生き者を飼う事を、他国の人間や、他の文化一般に、憧れる為に、取り入れてしまうのは、短慮に過ぎる。そもそも、それまでの、人間とアニマの付き合いに於いて、その幅や、深みを広げて行く為には、何よりも、その対象への理解や、精神が不可欠である。にも関わらず、そうした種と種の、結びつきを築かないまま生まれた、性急な日本のペット文化は、欧米の様な、やり方はともあれ、長年パートナーとして生きて来た、歴史や経験や、友愛(そう呼んで構わないだろう。欧米人は、世界観は歪んでいたが、犬が好きなのは、結構事実であると、認める事も、出来なくはないから)の精神が、全く備わってはいない。つまり、箱物だけ立派で、中身が空洞となっている文化なのだ。その空洞部分を、恐らく日本人は、しっかりと意識をしていると思う。少し、欧米の映画を観ただけでも、役者と犬の、一体感や、息の呼応は、見事な程に合っていて、到底、そこらの、一夜漬けの愛犬家の比ではない。そこで、その両者のムードを、何とか演出しようとして、フリスビーを持ち出してみたり、犬の首に、バンダナを巻いてみたりと、苦労をしているのが、見て取れる。しかし、そう簡単に、狩猟民族で、犬と長年に渡るパートナーだった、欧米人の真似が、実現出来ようはずもなく、畢竟日本人は、日本の犬文化について、マニアックになる事で、精神的空洞の文化を、補って行こうとしているのである。ネットで、愛犬家や、ボランティア同士の方のやり取りを見ていると、まず、マニア用語に私は驚いた。その最たるものが、「わん」や「にゃん」である。幼児ではない、普通の大人の方々が、赤ちゃん用語で犬と猫の事を呼んで、会話をしているのだ。更に衝撃を受けたのが、この人方は、犬や猫の人数を数える時に、一般的な、「一頭、二頭」とか、「一匹、二匹」とは言わない(私は、人と言う文字が、一人では生きて行けないから、寄り添い合う形の文字になったと聞いてから、これは素晴らしいと、全ての生き者を、一人、二人と、呼んでいる。何しろ、一人で生きていける命なんて存在しないのだから)。代わりに、1わん、1にゃん、とか数えるのである。全く知らなかった方の為に補足しておくが、1わんとは、犬が一人(失礼、一頭かな?)いると言う事で、1にゃんとは、勿論猫が一人(また失礼)いると、言う事である。例えば、こんな会話になるのだ。「家には、1わんと、2にゃんが一緒に暮らしています(ハートマーク)」これを、普通に自分は主婦だと名乗っている人間達がタイプしているのだから、その感性は、少々常識から外れている。ネットではなくて、現実の世界の喫茶店などで、20代から50代くらいまでの主婦達が集まって、身を乗り出すようにして、犬や猫を、わんやにゃん達が、どうしたとかこうしたとか、激論交わしていたとしたら、大抵の人間は引き下がって行くと思う。少なくとも、私は河岸を変えるか、せめてそうした会話が耳に入らない様に、コーヒーのお代わりを頼むのを止めて、ビールでも頼む。あるなら是非ともスコッチを。日本酒なんて気の利いた飲み物が、この状況で喫茶店にあったら、涙ぐむかも知れないので、返ってない方がいい。それから、また、この人々は、犬や猫の発情期の事を、「ヒート」と呼んでいる。最初は、全く何をネットで語り合っておられるのか分からなかったが、暫く読んで、やっと理解出来た事だった。マニアと言うのは、言うまでもなく、「ディープ」な世界にはまって行くオタク達の事で、その、同じ趣味の者達でないと、理解出来ないマニア用語が通常ある。東京を離れて、北海道に来て暫くしたら、いつの間にか愛犬家は、完全にマニアックな世界になってしまっていたのだった。私に合点がいかないのは、この人方は何故、露骨な蔑称である、「動物」と言う言葉を使うのは躊躇しないのに、蔑称でも何でもない、犬や猫と言う呼称を拒否して、赤ちゃん言葉を使いたがるのであろうか、と言う事であった。「犬」は、漢字の故郷中国では、「狗」と言う、差別的な表現をされているので、それを日本でも用いているなら、私も「動物」と言う言葉同様、拒否もしただろう。しかし、「犬」は、犬が確か座っている姿勢から作られた、文字であって、何ら差別的要素を含んでいない。「猫」にしても、ケモノ辺に苗で、何ら差別的意味合いは感じられない。日本語の「ねこ」と言う訓読みの理由は、一説には、「寝る子」縮めて作られたとも聞いている。この正当な日本語を排して、「わん」や「にゃん」と言った、造語を何故作る必要があるのか。これはやはり、マニアとしての自負心が、他人(犬猫マニア外)との差別化を、明確にしたいと言う意識が働いているのではないかと思う。実際、ブログを持つようになって、例えば楽天なら楽天の、「ペット」ブログの中で、覗いてみたペット文化世界は、余りにディープになっていた。以前はなかった犬に関する、様々な世界の広がりに、どっぷりと嵌っている人達の会話。1わん、2わん、と数える人達の、言わばマイ・ワールドと言った所。ドッグランの比較をして、うんちくを講釈していたりするし、その中でもマニア用語がそこらじゅうに出て来る。読んでて一番強い衝撃を受けたのが、あるドッグランに、自分の犬を連れて行った人が、(犬種は、マルかビションかだったと思う)他の犬達が、みんな洋服を着ているのを見て、「裸んぼうは、うちの子だけだった。今度来る時は、必ず洋服を着させてあげよう。」と、言う日記を見た時だった。別に皮膚病で、被毛が全部抜け落ちてしまっている訳ではない。立派な、美しい純白の毛を持っているのに、犬が洋服を着ていないと言う事を、「裸んぼう」と表現するのは、空恐ろしくさえあった。一体今日日の犬の飼い主達は、どうなってしまったのだろうと、危機感を感じた。犬ってどういう者なのか、ほんの少しでも分かっているのだろうか?こうした盛り上がりに、私は強い違和感を感じた。全く、お呼びでない場所に迷いこんでしまった様な。
2008.03.27
一体、日本に於ける、生き者に対する国民性と言うものは、たった20年から30年位で、劇的に変化が可能なのだろうか。日本は農耕民族で、そもそも犬をパートナーにして、生活していた、狩猟民族のルーツを持つ、欧米人とは、犬に対する理解や姿勢、愛情に、温度差があると言う現実がある。先に書いた通り、自分の子供の頃を思い出してみても、日本人は、犬好きとは全く言えない民族だった。犬は番犬、と言う、使役動物と言う意識が根付いていて、犬を大切にしている人間が、精神異常者のレッテルを貼られていた時代は、まだ、たった20数年前の事だ。決して犬好きでない人間と、犬の両者の間には、一定の距離が存在していて、精神的な、非干渉地帯が存在していた。それが、犬が犬らしく振舞える事を可能にしてもいた。何故なら、犬好きな人間は、犬の本質を大切にしたし、犬に興味のない人間が、ブームに乗って、犬を飼うなんて事もそうはなかったからだ(例外は、スピッツ・ブームだろうが)。少なくとも当時の人間は、犬に洋服を着せようとは考えたりしなかった。あの時代でも、今より良かったと思う事の一つは、人間は、犬を大切にはしなかったが、その在り様を、そのままに受け入れていたという事である。今の人間は、余りに生き者の習性や、本能的な部分に干渉を行い過ぎている。特に犬に対して、この傾向は厳然として存在する。まるで、犬を人間に「進化」させようとしている様だ。犬を簡単に去勢、避妊して、洋服を着させて、エステに連れて行って、あの、犬独特の毛者臭を奪い取って、家で猫可愛がりをしている昨今の飼い主は、私には実に、ただの「犬嫌い」にしか見えないのだ。だから、犬から犬らしい習性を排除しようと躍起になる。確かにこれは、欧米でよく見られる、犬に対しての接し方だ。少し前、確か愛犬国オランダで、犬も一緒に行ける映画館と言うのが出来たとCNNが報じていた。オランダの犬と言うのは、人間との混同種なのだろうか?彼らはどんな映画に興味を持つのだろうか?頑張れベンジー?名犬ラッシー?あれを見て、自分もスター犬になりたいとか、オランダの犬は思うのだろうか。そうだとすれば、犬も長年犬らしさを否定されて来ると、生き残りを賭けて、どんどん世俗化して来てしまうらしい。まるでマイケル・ジャクソンみたいだ。誇り高い、優勢血統である、黒人種の肌を捨てて、白人の姿を追い求める様な。種としての、アイデンティティを奪われた為に起きる、悲劇か喜劇だ。私だったら、犬は映画館には連れて行かずに、山や川や、海に連れて行く。男に生まれていたら、絶対狩猟に連れて行ったはずだ。何しろ犬は、狩りが至上の喜びなんだから。歴史的に見ても、欧米は、犬の交配や、純血種と言う「雑種」を作り、散歩をリードに繋いでしたり、様々な訓練を入れて、人間の思うとおりに動く犬を作って来た。それに対して、日本はこういう「ペット文化」を持っていなかった。犬は昔から、そこらに生きる雑草の様に、素朴に、変わりなく生き続けて来たのだ。それが、80~90年台辺りから、一変してきた。ペットブームは一過性のものではなく、恒常的なものとなり、最早「ブーム」ではなく、「文化」にまで発展した。犬に対しての意識や接し方、その全てが、欧米的特徴を、そのまま輸入する事になったのだ。「ペット」に対する日本の文化は、たったこの20年ほどで、驚天動地の如く成長を遂げた。しかし、本来アニマ観(分かりやすく言えば、動物観)と言うのは、そう簡単に転換が可能なものではない。農耕民族の歴史を受け継ぐが故に、祖先から、犬との繋がりを学んで来なかった日本人の文化の中には、明らかに生き者を、人より劣った「物」と見なす傾向があった。こうした傾向は、日本の歴史の中で、一貫してあったと思っている。農耕民族である日本人が、逆に敬ったのは、犬ではなくて、野生のオオカミであった。彼らは大口の真神と呼ばれ、それがつまってオオカミになり、中国語の、「狼(ロン)」と言う漢字の訓読みになった。オオカミは、鹿を捕食する為に、畑の守り主として、信仰されていたのだ。埼玉県にある、三峰神社は、そうしたオオカミを祭っている。しかし、殆どの場合、オオカミ以外のアニマは、畑を荒らす「害獣」か、汚らしい野良犬として、日本人は、一般に、無下に扱う事が多かった(勿論いつの世でも、無類の生き者好きは、この国でもいるに違いはないが)。そうした日本人の「動物観」が、たった20年や30年で、どうしたらここまで変われる事が出来たのだろうか?あれほど犬は汚いから、家に入れるなと言っていた国家の人々が、今じゃ犬の室内飼いは、当然だと主張する。それどころか都会を見ると、犬同伴可のホテル、喫茶店、仕舞いに犬用エステまで、まるで犬達中心に、経済が動いて、社会が再構築されていると錯覚(でもないかも知れないが)してしまう程になっている。私はこの日本民族の血を受け継いだ人間の一人として、冷静に見極めたいと思っている。即ち、日本人は、本当にアニマ好きになったのか。嗜好が急激に変化した理由は何故か。そして、その新生文化は本物であるのか、このまま日本社会に根付くと思って良いのかを。まず、日本の近代ペット文化の成り立ちを見ていると、これは紛れもなく、自国から発生したものではなくて、アメリカを初めとする、欧米のペット文化を、そのまま受け入れている事が分かる。敗戦後、日本は、それまでの封建主義から解放された反動で、一気に世俗化が進んで行った。民衆は、金髪に青い目で、白い肌で長身の、アメリカ人や、欧米人に夢中になった。彼らの装いや、建築や食生活、更には音楽に至る様々な文化を、砂漠の砂が、水を吸い込む様に吸収して、自国の文化からの脱却を図り、新たな文化として、受け入れ、社会の中で確立して行ったのだ。記憶にある限り、東京から、日本らしさが消滅して行ったと感じたのは、昭和50年代末辺りである。「ペットOK」のマンションが、出現を始めたのは、もう数年後になる。冷静に物事を分析してみれば、私は、日本人を打ち負かしたのが金髪で白い肌の欧米人ー、つまり、コーカソイドと言う人種ではなくて、黒人種である、ネグロイドであったなら、こうしたミーハーな狂乱は見なかったのではないかと思えてならない。我々黄色人は、自分の中にメラニン色素を持っている。ネグロイドは、更に多くの色素を有している。反対にコーカソイドは、その色素が全ての人種中、最も少ない。自分の人種にないものを、病的に憧れてしまっているだけなのではないだろうか。確かに、それに輪を掛けて金髪や、青い瞳と言うのは、とても美しい色彩だ。金色の髪は、相手がそう言わなかったとしても、モンゴロイドよりも、神に近い人種なのではないのかと、無知な人間には錯覚させる。ミーハーも、度が過ぎれば宗教的崇拝の色が濃くなって来る。日本人が、無批判に欧米の文化を取り入れ、それを尊び、有り難がり、誉めそやすのは既に、宗教的傾倒にまで、陥ってしまっているせいだと言って、過言ではない。結局日本は、敗戦と言う歴史的転換期を経験し、それまで信仰を捧げていた、神や仏を信じるのを止めて、(自国が敗戦したと言う事実の中で、神や仏は存在しなかったのだと言う、信仰を瓦解させる経験に、直面してしまったからである可能性が高い)代わりに、金髪碧眼の欧米人を、新たな「神」として、信仰の対象にしてしまったのではないだろうか。精神的な神々ではなくて、欧米人の駆使する、近代技術科学にこそ、絶対観と、万能観を見出してしまった。故に、欧米とは日本に取って、「絶対的存在」なのだ。現代の日本人は、あらゆる局面に置いて、「欧米ならこうしている」と、言う様に、彼らの文化や考え方を、行動の指針と見なしてしまっている。こうやって日本人の魂の遍歴をとき解いて読むと、やはりこの国の人々は、とても信心深く、敬虔な部分がその魂の奥に、連綿と受け継げられているのではないだろうかと感じて来る。勿論、この信心深さは、どちらかと言えば、求道者的な信心深さではなくて、むしろ信仰を求めるのではなく、信仰による支配を良しとする、無教養さや、意思の弱さ、そう言った欠点によって、導き出されて来るものなのだ。つまり、圧倒的な存在や力に屈し易く、洗脳をされ易い人々(つまり、一般の民衆)に見られる傾向なのだ。求道者は、何でも自分の心で考え、見極めようとするから、簡単にはそうした存在に左右される事がない。彼らに取って大事な事は、「凄いか」ではなく、「正しいものか」なのである。一般大衆は物事を分析するだけの、思慮深さに欠ける傾向がある為、集団心理に流されると言う欠点がある。マスコミが当時、ラジオや白黒のテレビの放送で、欧米の文化を賞賛を持って報道すれば、民衆はいとも簡単に、その称えられたものを欲してしまうのだ。彼らは、その社会に何らかの精神的指導者がいない場合では、烏合の衆と化してしまう。一人一人には、論理的判断を下すだけの、十分な知性を兼ね備えているにも関わらず、それを発揮出来ないのだ。彼らがそれを発揮するには、外側からの、精神的知性への呼び掛けが不可欠となる。そうした存在を欠いてしまっている世界では、彼らはさながら、海の中で群れ、それを全く崩さずに、一つの動きを維持する事だけを目的とする、魚たちの様なものなのだ。行動は常に、状況によって左右されるものであり、意思によって決定されているものではないのだ。そして、近代から歴史を遡ってみても、日本には悲しむべき事に、殆どの国民が認め、かつ、歴史の中で語り伝えて行く、精神的支柱となるべき、精神的指導者が、一度も出現した事がなかった。我々が道に迷った時、心に甦り、助けてくれる日本人を、誰か思い描く事が出来るだろうか?自分の個人的な支えではなくて、全ての日本人の、心の基盤になれる様な誰かを。歴史や、社会問題に詳しい人間でなくても、必ず思いだせる様な誰かを。日本の精神的支柱といえば、現実には天皇が挙げられるが、それも、位ゆえに崇め立てられていたのであって、我々に、特に精神的道標と成る様な、道徳的遺産を残してくれた天皇などはいなかったと思う。そしてまた天皇も、敗戦と共に、我々の社会の中から、精神的支柱としての、存在を失って行ってしまう。敗戦によって、神や仏に対しての信仰と、天皇に対する精神的拠り所を失った日本人は、その代わりに近代科学技術文明と、金髪碧眼と言う、この社会の人間離れをした容姿を持ったアメリカ人や、欧米人に、精神的支柱と、信仰心を見出してしまったのである。その結果、日本文化は否定され、壊滅状態に追い込まれた。我々は衣食住から、政治、余暇の過ごし方に至るまで、殆ど全て、欧米文化を継承してしまっている。ペット文化も、その中の大きな流れの一つである。崇拝する欧米人が、「ペット」を溺愛する以上、その誠実な信者としては、その風習を受け入れる事に全力を注ぐ義務があった。
2008.03.27
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。・今後の施設展開計画私の所では、現在3つの柵に、凡そ100人強の犬が暮らしています。柵はそれぞれ独立していて、雄雌ではなく、喧嘩が起こらない様に、性格によって分けて住ませています。以前住んでいた所に、未撤去の柵が、約150枚あります。柵の大きさは、高さ2メートル、幅1メートルです。これを、それぞれの柵に振り分けて、一層広く、快適な環境にしたいと思っています。また、私の小屋さえ未完成な状況ですので、犬達は、それぞれテントで凌いでもらっていましたが、今年は、廃車を集めて、それを犬達の小屋に作り直します。木材や、草わらで作るのが、周囲の自然にも馴染みますし、一番望ましいのですが、いかんせん、費用や制作の時間がかかります。私と友人では、次の冬までに、とてもそんな時間は取れない為に、椅子を取るだけで済む、車の小屋を選択するしかありません。すでに、マイクロバスは、一台確保しています。今年の目標は、冬までに、柵の増設と、小屋を完全に整備する事。そして、繁殖を抑えさせてもらう為の、手術を終らせる事です。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。・エッセイー日本の新生ペット文化について35年間、日本で暮らして来た。生まれつき生き者好きだった私は、少なくてもそうではない人よりは、ずっとこの国や国民が、彼らをどう扱うかを注視して来た。東京を離れ、北海道まで来て10年近くも経ってしまうと、最近の「ペット事情」には大分疎くなって来ている事が否めない。かつてはそうした流行の最先端の地域で暮らしていたし、自分自身が犬界と言う、繁殖、ショー業界の一員だった為、「ペット事情」に関する情報には、非常に精通していたのだが。この、北海道の過疎地に来ると、都会では一般的な、愛玩犬の犬種名さえ、知らない人が殆どだ。町にペットショップもない為、様々な犬種を目にする機会がないのだ。こうした地域で暮らしていると、誰でもそういう世界の話には疎くなって行ってしまう。愛犬雑誌でも、何冊か毎月購入していれば別なのだろうが、私は生憎、そうした雑誌に興味がない。ただ、こうやってネットを接続していると、当然最近の「ペット事情」を目にする機会があるし、自分が保護活動をやっていると言う事情から、ボランティアに関する情報には、結構触れる事も出来る。私の生き者好きは、世間の人々とは、弱冠感性に於いて、相違があるので、こうした情報を、客観性を持って眺める事が出来る。しかし、そうやって見ると、今の日本人のアニマに対する文化や姿勢に、大きな疑問が湧いてくる。これは特筆するべきだと思っている。と、言うのも、私は子供の時分、日本の犬の飼い方が嫌いで仕方がなかった。「犬は外で飼うもの」と言う意識が徹底していて、欧米の様に、犬は大小問わず、人家で共に寝起きをする、と言う生活スタイルとは対極にあった。私は昔から、無類の生き者好きで、特にイヌ科の種族に対して、強い一体感を覚えていた。その為、生活の全てを、彼らと共有する事は、私にとって、なくてはならない事だったのだ。子供の頃の私はまず、犬と一緒に布団で眠る事が切望だった。私に取っては、家の畳や、糞尿や抜け毛の問題よりも、犬自身の方が大切だった。いつ如何なる時でも、私は犬に、自分と対等の権利を与えたかった。そうする事によって、初めて相手を大切にし、尚且つ相手の恩義に報いていると言う、(恩義とは、相手の存在に対する感謝である)安心感が持てたのである。しかし、当時の日本は、凡そ犬猫好きとは思えない国だった。犬は大抵、外の汚い小屋で、鎖に繋がれて、使い古した小鍋に、人間の残飯を入れてもらって食べていた。ドッグフードの種類も、今とは比べ物にならない位、少なかった。正直に言って、フードと言えば、「ビタワン」位しか、記憶にない。室内犬も飼われ出してはいたが、まだまだ圧倒的に、柴犬を筆頭に、日本犬か、日本犬の血が入った雑種が多く、室内犬を飼っている人達は、それだけで多少奇異な視線を向けられる事が多かった。犬と、ぬいぐるみの区別が付いていない、偏った愛犬家、そういう評価だった。当時は、いかつい雑種犬が一般的だったから、小型室内犬などは、返って犬に非ずと、見下される方が多かった。それを猫可愛がりする人間は、みっともない、とか、恥ずかしいとの評価を受けていた。ましてや、私の様に、屋外で飼うべき柴犬や、雑種犬を、室内飼いしたがる人間となると、これは完全に「犬キチガイ」の項に分類された。家族からは罵られ、学校へ行けば、男子生徒にひやかされる。中学3年の時には、家の柴犬が事故にあって、下半身不随になった為、学校を一ヶ月位休んで看病してた。その甲斐あって、奇跡的に完全に回復したのだが、勿論職員室に呼び出された。「たかが犬の為に、学校を休んで世話をするなんて、普通じゃない」と言われた。普通の人間は、自分の家族が事故にあって、下半身不随になって、誰も面倒を見てくれる人がいなかったら、学校を休んでも、自分で世話をするものではないのですか?と、教師に抗弁して、職員室を後にしたが、犬を「畜生」と捉えていた、この時代では、私は差別も偏見も、免れる事は出来なかった。だから、今の日本は、本当ならば、幼い頃の私が、夢見たままの世界であるのだ。今や犬は、雑種でも、室内飼いが普通になっていて、犬の権利や法律が叫ばれ、ドッグラン、等と言う、犬の為の運動場まで現れた。犬や猫を飼えるマンションも飛躍的に増えて来た。全国には、犬と泊まれるホテルやペンション、犬と入れる喫茶店もある。それなのに、私は今、世間の飼い主達を見て、好感も持てないし、彼らに混じって、見違える程に充実された、「ペットライフ」を謳歌しようとは思えない。別に、最近の愛犬家に対して、ひがみがある訳ではないと思っている。いいね~、あんたらは。私が子供の時なんか、犬を家に上げたかったら、家族がみんな、旅行に行ってくれるのを待つしかなかったんだよ。私は、伊豆や奈良や京都に行くのを断念して、(旅行好きの私がね!?)犬と布団で寝たい為だけに、一人で勉強の為、留守番してますと、嘘をつくしかなかったんだわ。今の皆さんがやってる事を、当時やってた私は犬気違いって、偏見の目で見られてたんだわ。恵まれてていいね~。最初っから、苦労しらずだね、あんた達は。などと言う根性が働いている訳ではない。それは、私だって人間だから、ドッグランなどと言うものを、当たり前の様に社会から与えられている最近の飼い主を見ると、私の子供の頃はね・・などと、頼まれてもいない、苦労話を語りたくなってしまう事はある。何しろ昔は、犬の運動場なんてなかった。しかし、そんな時代でも、犬を放して、自由に走りまわせてあげたい飼い主は大勢いて、私たちは、近所の公園や、街の少年球場などに夜遅くにこっそり集まって、それを叶えたものだった。(こうやって書いていると、自分が何だか60代になった様な錯覚が生じて来る)夜の九時を回ると、どこからともなく、犬を連れた人達が集まって来る。そこで、挨拶を交わしながら、犬をそれぞれ放すのだ。飼い主達は、ベンチなどに座り、犬達の糞や、喧嘩などに目を配りながら、世間話をみんなでしている。犬達は、暫く全速力で走り回ったかと思うと、今度は気の合う者同士でじゃれあったり、たまに順位争いで、喧嘩をしている。来ている犬は、8割くらいが雑種だった。そこに、たまたま通りかかった散歩中の飼い主が、その光景を見て、家の子も、一緒に遊ばせていいでしょうかと、訊ねに来る。どうぞどうぞと、みんなで歓迎して、新しいメンバーが加わるのだ。細かい決まりごとは別になかった。あるのは、ここに来る時間で、一番早くても、九時前には来ない様にと言う勧め。早い時間だと、子供や誰かがいたりするし、犬を怖がる人もいるから、なるべく公園や球場が、完全に無人になってから。うんちはきちんと持ち帰り。スライディングタックルを、一塁に向けてした子供の顔に、可愛いうちの子のうんちがつくのは悲劇だから。砂場で幼児が、かりんとうと勘違いして、糖分を補給しようと口に入れてしまうのも困る。自分達で、互いに常識を確認し合って、緩い暗黙のルールを決めていた。散歩時間は九時からで、一番長く遊ばせる人で、十一時までいる。我が家は二時間、フルタイム運動組だった。他は一切規制なし。雑種だろうが純血だろうが、関係なかった。勿論、お金なんか一円だってかからなかった。まだまだ、犬を飼う事について、理解が得られず肩身が狭かった時代、私達は、周囲に気を配って、時に「ここで放してはだめだ」と言う、身勝手な近隣住民の差別にも耐えながら、犬の遊び場を死守していたのだ。本音を言えば、真昼間に思い切り、太陽の下で走らせてあげたかった。しかし、それは不可能だった。輝く昼の時間は、当時人間の独占物だった。戦時中、犬の供出命令が下った時に、犬を愛する人間の中で、どうしてもそれに従えなかった人間が、周囲から隠して飼い続け、誰も通りを歩かない、真夜中にこっそり犬を散歩させる様に、私達にもまた、人が、「こんな時間は使えないからお前の可愛い子供にでも、くれてやったらどうだ。」と、放って寄越す、暗闇に飲み込まれた時間しか、彼らを放してはあげられなかった。勿論これは、都会に限った事情だったのかも知れないが。しかし、そんな苦労話を偉そうにしてやりたいとは思ってみても、現状を拒否する理由などないではないか。しかし、現状はそんなに理想的なものでもなかった。ほんの少し耳に挟んだだけでも、実際は、昔と日本は変わりなく、犬や猫や私に取って、居心地の悪い国だと言う事が、垣間見えているのだ。
2008.03.27
汎神論 メールマガジン 第00号 試作版O目次・メールマガジン発行について・殺処分撤廃の為の活動計画・今年の施設展開計画・エッセイー日本の新生文化ー「ペット文化」。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。・メールマガジン発行についてメールマガジンについては、私の活動に応援を寄せて下さっている、ある方から提案を頂きました。「倫理の進化」で書かれる様な様々な事を、メルマガの形で配信して欲しいと。そして、収益を、犬達の為に使ってはどうかと言うご意見でした。丁度、殺処分に関する意識調査のブログを、最近作ろうと私は考えていました。しかし、これまでの自分のブログに対する反応から、立ち上げる姉妹ブログに、私自身のブログが障りにならないかと言う事を、危惧しました。ご存知の通り、私の意見や思想は、現代人のそれとかけ離れていると言う理由があって、正しく賛否両論が沸き起こります。と、言うより、私が一度思想的なコメントを書くと、必ずそこで、論争が発生すると言う結果が生じます。折角作ったブログが、私への誹謗や中傷や、それに反論くださる方達の、論争で、埋め尽される様な事になっては、何の意味もないのです(私も参戦しかねないし))。メールマガジンと言う形の配信なら、批判目的の読者の目にも触れませんし、もう一つのブログへの、影響も減じる事が出来ると、最終的に自分の中で、葛藤の解決を見る事が出来ました。これまで、楽天ブログの「倫理の進化」の中で、綴ってきた、思想や、日常、散文。今後は、メールマガジンとして、それを続けて行きたいと思っています。ブログは、便利なものではありますが、逆に、個人が特定されている人間には、非常に危険な要素も孕んで来ます。昨年の、支援代表の方が発端となった事件では、私への嫌がらせに、犬達の事も省みず、行政をけしかけたりされました。役場で働いていた友人も、そうした嫌がらせの電話などを、職場に寄せられて、結局退職勧告を受けて、辞職する事になりました。そうした嫌がらせに、断じて負けたくない意地と、共生の精神を、どうしてもネットに流して行きたかったから、リスクを承知でここまで続けて来ました。今回、ある方からメルマガと言う提案を受け、これまでよりもいい形で、訴える事を続けて行けると、気が付き、大変感謝しています。私としては、最低限の、基本的な事は、あらかた書けたと言う思いがあります。ネット上で頑張るのは、ここまでで、一区切りを付けたいと思っています。最後に掲載する、「倫理の進化終章第二部」で、このブログは、役目を終えます。今後は、何か催しなどを行う際、日時などを報告するのに使うつもりはありますが、思想や、日記は、ここでは今後は掲載して行きません。今後は、「汎神論通信」と言うメールマガジンの中で、これまでよりも、多岐に渡った思想やエッセイを、提供して行きたいと思っております。勿論、読者数が増えて頂ければ、犬達の生活も安定します。私自身、午前中は子供の世話で、午後から夜中まで毎日働いています。幾ら生活苦とは言え、これ以上のアルバイトは不可能である為、少しでも収入になれば幸いです。勿論、最初は購読者数も限られていると思います。倫理の進化の様な、共生型の世界観に、関心を持たれる方などに、勧めて頂ければ大変有り難く存じます。メールマガジンは、4月初旬から配信を開始致します。原則として、回数は月に複数回以上。購読のお申し込みは、一年間ごとの振込みで、金額は5000円とさせて頂きます。振込みが確認されてから、連絡頂いたアドレスの方に、配信を開始致します。お申し込みの際は、お名前、メールアドレス、ご年齢、居住都道府県のみ、ご明記下さる様、お願い申し上げます。中途解約は可能ですが、原則として、未読分の購読料の返金は出来ませんので、予めご了承下さい。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。・殺処分撤廃の為の活動計画北原としては、今年の5月か6月頃に、まず釧路にて、殺処分問題を取り上げる為の催しを、行いたいと考えています。人と他の生命との、共生を謳い、生命の多様性を理解しようとする視点で撮られた映画、「地球交曲」の、第一番を、自主上映する計画を温めています。この映画は、環境や他の種族と、共存をしている人間達を、龍村仁と言う監督が、オムニバスの形で撮った映画で、出演者は、有名無名、様々です。映画の性格上、一般の映画館による上映が、中々進まず、一年も、映画は日の目を見ませんでした。そしてようやく、上映してくれる所が見つかったのですが、映画館側からは、まず、自分達で最低限度の、チケットを先に販売しておく事を、条件に出されました。観客が、全く見込めないと思ったのでしょう。そこで監督やスタッフ達は、自力で何百枚ものチケットを捌きます。そして、いよいよ上映になりました。映画は、宣伝費も広告費も、一切予算がなかった為に、チケットを買ってくれた人以外の、観客は、余り期待出来ないものでした。所が上映3日目辺りから、前売りチケットではない、当日券で映画に来る人の数が増え始め、それは日を追って増して行き、遂には当日券と、前売り券の観客数が、完全に逆転してしまうのです。上映最終日には、前売りチケットを買っていた人が、多く足を運んだにも関わらず、会場は満員で、前売り券の観客が、上映を観れないと言う予想を超える状態になってしまい、映画館側は、系列の別の劇場で、公開延長を決定しました。この映画を観た人々が、他の人々に感動を伝え、そしてそれを聞いた人々が駆けつけて来たのです。驚きは、まだまだ終りません。この映画を観た人達が、自分の町でも、上映をして欲しいと、強く切望し、監督に相談しました。ごく普通の、主婦の方達でした。しかし、その町で、上映をしてくれる映画館が見つからなかった為、女性は何と、自主上映に踏み切ったのです。何の専門知識も持たない、一女性。ただ、自分の家族や、友人や、地域の人々に観て欲しい、その一念で、行動を開始します。すると、彼女の傍には、自然に映画の上映知識や、経験のある人が、次々と現れて来るのです。その人達に、協力を頂いて、本当に自主上映は、実現してしまったのです。1992年の初めての公開以来、この映画は、現在まで第6番まで製作、公開されていて、今尚映画は、第1番から6番まで、常に全国津々浦々で、公開され続けています。「映画界の奇跡」と言われている作品です。私はこの第一番を、催しで上映したいと思っています。第1番の出演者は、ラインホルト・メスナー(アルピニスト。世界でただ一人、8000メートル級の山々の、単独登頂をやり遂げた人物)ダフニー・シェルドリック(アニマ保護活動家。アフリカのケニアで、密猟者に殺された象の、孤児となった子供を、育てて野性に返す活動をしている。最初に野生に帰った象のエレナは、同じ境遇の小象を見つけると、ダフニーの所に連れ帰り、彼女と共に、野生で生きれる様に成長する、手伝いをしている)野澤重雄(植物学者。バイオ技術も特別な肥料も使わず、一つのトマトの種から、一万三千個の実を付けさせた。トマトとの対話を、証明した学者)エンヤ(歌手)鶴岡真弓(ケルト美術研究者)(エンヤのルーツである、ケルト民族の世界観、自然観に迫っていく)ラッセル・シュワイカート(元宇宙飛行士。宇宙から地球を見た時、あらゆるものとの一体感を経験すると言う、神秘体験を得た)以上が第一番の、出演者です。特に、象のエレナと、母代わりのダフニーの姿、自分の意思を示した、トマトの樹、シュワイカートが宇宙で感じた、「一つの地球」。これらの事が、犬猫の命と、現状を見直す上で、多くの力を与えてくれると期待しています。会場では、同時に収容所で殺される犬達の、写真を撮ったカメラマンの、写真展も開催します。そして、モニターを持ち込んで、殺処分をされている犬の苦しみを、ガス室の外側から撮った、「残された命」と言う、アライブと言う団体が作成した、ビデオの上映も致したいと計画しています。そして、龍村監督に、共生についての講演をお願いして、北原自身も、演壇に立ち、汎神論の理念と、共生の重要さと、殺処分の撤廃を、訴えて行きたいと思っています。会場では、殺処分に対する、意識調査アンケートと、撤廃を望む、署名活動も致します。この催しの狙いは、人間として、両極端の、自然や生命に対する姿勢を、鮮明に打ち出して、我々の光と闇を、明確にする事です。その上で、人間はこれからこの世界に於いて、どう生きて行くか、どう他の種族と共存して行くかを、問い掛けます。共存でしょうか、それとも、従来通りの支配でしょうか。だとしたら、ガスで殺される犬達の悲鳴に、あなたは無視を決め込むのですか、と。この催しの実現に関しては、映画のフィルムの借用費が凡そ10万円。監督の公演費が5万円。往復の航空費を、5万円くらいで、見積もります。ポスター、チラシ、チケットが、合計2万ほど。会場費が、2万5千円くらい。後は、監督の宿泊費、お食事代など、諸経費です。写真展の写真は、一日千円で、貸し出して下さっています。簡単な試算で、30万円ほどを、見積もっています。この経費に関しては、私も知人達から、募金を募ってみますし、また、ご理解頂ける皆さんに、僅かずつでもご寄付を募りたいと思っています。資金の調達が、具体化して来たら、スケジュールの調整に入ります。映画のチケットは千円ほどで、販売されます。売り上げがあった場合には、次の催しに資金を回します。今回の催しが成功したら、全国で、同じものを開催して行きたいと思っています。それには、それぞれの地方に住まれる皆さんのお力が不可欠ですので、催しの報告をご覧になって、ご自分の地元でも、是非、やってみたいと思われる方は、連絡下さい。全国で、殺処分を改めて考え直し、他の種族を尊重し、共生をもう一度、始めて行ける様に頑張りましょう。行動しましょう、皆さん。座って、祈っていても、殺処分は終りません。本当の祈りは、行動と共にあるのです。収容所で、或いは街角で、或いは、明日にでも収容所へやってしまおうと相談している飼い主の元で、助けを待つ彼らの所へ、行進して行きましょう。解放の報告を届ける為に。催しにかかる、細かい費用の計算は、第一号の、メルマガで掲載致します。ー続くー
2008.03.27
皆さん、今晩は。北海道も、とても暖かくなりました。今日、福寿草が可憐な花を、咲かせているのを見ました。こちらは今、最後の試練の季節でして、毎日空洞だらけの地面と格闘しています。バンパーも、左側の一部が、こうした格闘の中で、もぎ取られてしまいました。それでも、春はもう届いています。悲しいかな、温暖化のお陰で、いつもよりは、一ヶ月も早く、雪解けの季節を迎えています。試される大地の連載も、そろそろ終わりになって来ました。踏んじゃだめー・・。今日は、皆さんに、ご報告したい事があります。こちらのブログを、実質的に、停止させて頂こうと思っているのです。時期は、4月の初旬までを目処に。停止に合わせて、FC2ブログの方で、殺処分に対する、意識調査のブログを開始させます。こちらでは、ただ単に、「殺処分が、社会に取って、必要と思いますか?不要と思いますか?」と、言うような質問のみを呈示させて頂いて、これまで「倫理の進化」で綴って来た様な、思想や日記は、一切掲載しません。新しく作るブログは(正確には、もう作ってあるのですが)、これまでの様に、私の意見を述べるブログではなくて、皆さんの意見を語っていただく為の、ブログです。殺処分撤廃の為に、より具体的に、障害になっている事を、浮き彫りにして行きたいと、考えています。毎回、こちらで、答えて頂きたいテーマを書きますので、それに対する意見を、コメントして下さったら、幸いです。全ての質問は、随時コメントを募集して行きますので、古い質問にも、遠慮なく意見を下さい。また、以前このブログで書いた様に、原則として、コメント欄での、反対意見の応酬は、禁じさせて頂きます。http://plaza.rakuten.co.jp/yaieyukar/diary/200709120000/ネットで、自分の意見を述べ、それについて、訪問者達で議論をなさるのも、ネット文化の中に於いて、既に確立されているのは承知していますが、やはり、不毛な努力の継続にしかならないと、思っています。実際の会議の場では、一同顔を揃えて、最後まで論じ合いますから、それなりの成果が期待出来ると思うのですが、ネットですと、時間を決めて、参加している訳ではないので、全く議論が進まなかったり、かと思えば、一日中応酬が続く事もあります。仕事のある方や、子育てに忙しい方は、時間が空いた時しか、コメント出来ませんから、反論を呈示されてても、すぐには答えれない事情があります。反対に、お仕事をされていない方とか、時間がある方は、パソコンの前にずっといられる訳で、どうしても、議論を行う時間が、平等に取れないのも、ネットの議論を推奨出来ない理由の一つです。議論をしている方が、一方の方が、返事をして来ないから、「逃げた」とか「答えれない」等と、責めたり、勝ち誇ったりされているのを、よく見受けます。実際は、単に体調を壊して、寝ていただけ、とか、身内の集まりがあったから、その時間が取れなかったとか、色々理由がある事でしょう。ですから、そうした争いを起こさせない為にも、コメント欄で、反対意見の応酬は、ご遠慮して頂たいと思っています。一つの意見、疑問に対して、それぞれが思っている事を、述べる事は有益ですが、等しく時間の取れない相手と、ぶつかり合うのは不毛ですので、それならいっそ、捨てアドレスなど教えあって、第三者を巻き込まず、当人同士でお話をされるのが、一番解決の為には、建設的だと思っています。それが出来ないのなら、せめて喧嘩は控えるべきでしょう。ある方が出されたコメントに対して、真摯に一般の意見を募った方がいい、と判断した時は、コメント主に、許可を得て、議題にさせて頂く事も、検討しています。また、読者の方から、「こういう事について、一般の方がどう考えておられるか、意見を是非とも募って欲しい」と、言う様な要望があった場合は、前向きに検討して行きます。ブログタイトルは、「殺処分問題会議」にしてありますが、一般の環境ではない、ネット上の会議だと言う事を意識して、一般の会議よりも、無責任な発言が多い事をまた考慮して、コメント欄での反対論の、応酬の禁止、と言う、特殊なルールを、設けて行きたいと思っています。知り合いの方のブログで、「一座建立」と言う言葉を、勉強させて頂きました。元は世阿弥の言葉だったそうなのですが、茶道の世界でも使われていて(私の祖母は、茶道の先生でしたが、知りませんでした)、亭主はお客にそそうをさせずお客は亭主にそそうをさせずと、言う概念だそうです。年末に関わったある方のブログで、余りに掲示板が荒れたのに、管理者が放置されていたので、まるで場末の飲み屋だ、と私は酷評をした事があります。店の風紀を守るのは、店主の仕事です。そして、店の品位を高めて下さるのが、お客さま達の器量です。これは、長年ホステスをしていた私の、信条でもあります。FC2ブログは、意見を乞う為のブログですから、ブログを荒れさせない為にも、この姿勢を、徹底的に貫いて行きます。「倫理の進化」は、今後はメールマガジンと言う形で、希望される方のみに対して、個別に配信、と言う形で継続して行きます。お試し版の、メールマガジンが出来ましたので、内容の吟味の為に、これに続けて掲載致します。ブログから移行する詳しい理由は、そちらにも書いてあるのですが、*個人が特定されていて、以前、犬や友人に対して、圧力を加えられ、大変な迷惑を被った為、ネットでこちらの情報を呈示して行く事に対して、子供達を危険に晒すのではないかと、ずっと潜在的にあった危惧。*新しいブログの、妨げにならない為の措置。*ブログで呈示したかった、最も最低限の事は、書ききったと言う思い。実際は、とにかく書きたい事、伝えたい事が山の様にあって、それでブログを続けて来ましたが、今回ある方から、メールマガジンにしてはどうかと、意見を頂いて、これまでよりも、精神的な負担が少ない手段で、ブログが続けられると思いました。提案して下さった方は、うちの経済安定の為に考えて下さって、メールマガジンは、有料にして、年間購読料、5千円でやってみたらどうかと言うご意見でした。今まで無料のブログを、有料にするのに躊躇があって、一番古い頃からの、リンク頂いている方に、相談してみました所、値段は手ごろだし、本当に読みたい人に、読者が限られて来るので、賛成です、と言う返事を頂きました。ですので、頂いた意見通りに、メールマガジンは、有料制にさせて頂きます。内容は、これまでのブログと少し異なり、思想を中心にして、四季の報告や、時事問題など、多岐に渡らせます。元々、特に時事などは、とても扱いたかったのですが、ブログがまず、犬猫の殺処分問題に的を絞っているので、敢えて掲載を止めていました。今後は、「マガジン」ですから、内容は豊富な方がいいですし、やっと、書きたいものが素直に書けるのだと、喜んでいます。お試し版をご覧になって、購読のご検討をして頂きたいと思います。今後は購読お申し込みの、バナーなどを、掲載出来ると思いますが、日数がかかるかも知れませんので、それまでは、お申し込みの方は、ブログ左側、下方にある、「メッセージを送る」から、若樹の私書箱の方に、お申し込み下さい。直接、アドレスをご存知の方は、そちらにご連絡お願い致します。これまで、リンクを頂いていた皆様、そして、いつも読みに来て下さった皆様。本当に有り難うございました。リンク頂いた方達には、今日、明日中に、個別にお礼を申し上げに参ります。お試し版の、作成に追われ、メールの返信を待って頂いている方もいらして、本当に申し訳なく思っていました。倫理の進化は、今月末から、4月初めに「倫理の進化終章第二部」を掲載して、実質的な停止とさせて頂きます。文章は既に出来ているのですが、お試し版が、中々の長文ですので、お読み頂く方の苦労を大きくさせてしまわぬ様に、そちらを咀嚼して頂いた頃に、掲載したいと考えています。その時に、FC2ブログを開始させますので、アドレスを掲載しますから、どうぞご訪問下さい。それでは、最後のお礼は、その時にまた、改めまして。補足:この文章は、昨日仕上げておいて、今日細かい手直しをしました。 そこで、試される大地の終了をほのめかしてしますが、本日夕刻、雪は降るわ、 友達は埋まってるわ、JAFはまた、諦めて降参するわ、助けに行った私も埋まる わ、予約の時間に帰れなかったわ、明日、友人の車の救出に、中標津から友軍機( タイヤショベル)が向かって来るわ、まだまだ終りそうもありません、くそう!!! 殺処分廃止の為の新しい行動になるブログを、一日も早く開始したいので、予定は 変えません。 試される・ガッデム・大地は、メルマガで続けます。 このブログは、もう一つのブログの為に、一切私の思想や日常は、掲載しませんが、 (FC2に、こっちの批判を書かれると収拾がつかないので)春から計画している、 活動を行う際についての、予定や日時、結果報告などは、その時々に応じて、掲載 して行きたいとは考えています。
2008.03.26
うんざりする程時間を掛けて、土曜日が過ぎて行く。まるで朝方見た悪夢の様に、まとわりついてあざ笑っているかの様に。悪夢の一日の、忌まわしい残り香を、苛立ちながら、この手で必死に振り払う。翌日曜日。空は晴れ渡り、世界は光に満ちている。昨日がこうであったら良かったのに。車はまた、林道を抜けてそろそろと進んで行く。道はどこも水溜りだらけ。牧草地を抜け、川が左に現れる。身を乗り出して流れを確認しようとしたら、車が孤を描いて左に寄った。珍しく、友人と息が合ったらしい。そこにあるのは静かな清流だった。たおやかに、小さな小波を立てて川が流れる。繊細な心の営みの様に。その姿から、昨日の轟音を立てて流れる、荒ぶる姿は想像もつかない。ただ、ざっくりと下段を切り取られ、薄い刃先の様に流れに研磨された、川岸に残る氷の層が、昨日の荒ぶる川の記憶を、無言で証明しているだけだ。ほっとして、深く溜め息をつく。問題ない。川は渡れる。昨日埋まった所は、空に輝く太陽が、地面に陰影をはっきりと与えてくれているお陰で、昨日よりも、残酷に見える。その姿が、浮き彫りになってしまうから。何とか危ない所を避けて、地面がしっかりしている所まで行こうと言ったが、やはり今日も車は落ちた。また、新しい穴を作ったね。ツルハシで、地面を掘り返す。カラスが空を旋回し、大きな声で、仲間と私の子供達に、私たちが、ここにいると知らせている。家の山の方から、別のカラスの答える声が僅かに聞こえる。カラスだって、家の子のご飯を狙っている。私がいなければ、自分達も、おこぼれに預かれないのだから。私を待つ気持ちは、子供達とそう遠い心情でもないのだろう。車はまた、良家のご子息よろしく、恭しく運転手から世話を受けて、穴ぼこから救い出され、何不自由ない走行を取り戻した。そして車はもう、二度とは埋まらず(その日は)、私達は川の前まで辿り着いた。子供達の歓声が聞こえる。それに混じってカラス達の歓声も。川はここでも、昨日の事など私の見た幻だったと言うかの様に、穏やかな、いつもの顔を見せている。私の長靴は、大きな亀裂が入っていた。承知で、川にバシャバシャ入って行く。ここを渡れる喜びで、水が入る事など厭うはずもない。足を入れて二歩目で、長靴を履いている意味などなくなった。長靴が、川の中で水の抵抗の中を、水中遊泳するかの様に歩くが如く、私の足もまた、長靴の中で、同じ水中遊泳を繰り返している。ようやく対岸に辿り着いた。長靴を脱いで、逆さにして水をこぼす。それから靴下を脱いで、手で何回か絞る。素足を長靴に再び戻し、家に向かって駆け出した。子供達が、ジャンプしながら迎えてくれる。慌ただしく、目をあちらこちらに動かしてみる。具合の悪そうな子はいないか?全員元気だろうか?柵に次々飛び込んで、喜ぶ子供を制して、先に全員の顔色を確認する。どの子も大丈夫。お腹はぺこぺこだろうが、元気一杯だ。大体、言いたくないけど家の連中、半数以上は肉の付き過ぎなんだから。太らないのは、遺伝上、ドーベルマンみたいな、細身の体質を受け継いでいる子達くらいなのだ。ヨーデル&柚子アダム&ロゼルけんた(私がつけた名前じゃない)秋くんパム&紬アダム、紬、ラッセル、雫、モリー、葉月ほたる逆光で失礼。お名前は?「以前このブログで、一世を風靡した、世界一可愛いゆっちゅでち。」うんうん。ママにだけは、今もそうだよ。子供達は、お腹一杯になって、日光を浴びて、日向でまどろむ。ようやくみんな落ち着いた。この日、日曜日。私は以前から、未整備の道を、車が通れるか、どこにつながって行くのか、歩いてみるつもりでいた。上の道は、後1ヶ月半は、最低でも車は通れない。下の道は、約30メートル位に渡って、地面の下が空洞になっている。いずれ全て、車が埋まる事によって陥没するが、その前に車が壊れてしまう。別の道を、是が非でも確保したかった。そこで、ずぶ濡れの足のまま、その未整備の道を、探検してみる事にした。再び川を渡って、向こう岸に戻る。車に乗り込み、1キロくらい進んで行くと、左手に、山へ登って行く、熊笹で覆われた旧道がある。道の入り口には、倒木があって、車の進入を防いでいる。その少し先には、道の中央を微妙に外して、樹が育っている。樹齢は凡そ30年位。つまりこの道は、それぐらい誰も使っていなかったのだ。歩きで熊笹を踏み分けながら、道を登って辿って行く。野美やちったんは、初めての道を行くから、嬉しくておおはしゃぎをしている。道なき道になった熊笹道路は、歩くのが困難。山を暫く登って、今度は下の道と平行に走っている。木立と熊笹で、実際には、下の道は見えないけれど。これは、谷地を避ける為に作ったんだろうか?どこまで続いているんだろう。ちゃんとした道路に出られるのか?それとも、どこかで林道にぶつかるんだろうか。道にはまだ、至る所に残雪が残っている。通るものとていない道は、雪解けも思うようには進まない。そう考えながら、苦労して雪を漕いで歩く。足が感覚がなくなって来た。行けども行けども、出口は見えない。今日は長靴もびしょ濡れだし、そう無理も出来ない。もう少し行って、林道も出口も見えなかったら、引き返そう。そう思って、足元の雪を見ながら歩いていた時、とんでもないものを見つけた。雪の上に残っていたのは、まだ新しい熊の足跡!!昨日の雨に、破壊されていない足跡は、ここ一日以内についたものだ。ほんの一時間前だって事もあり得る。まだ3月中旬だが、そう言えば、熊撃ちが言うには、早い熊で、今頃から巣穴から出て来ると言っていた。その上今年は雪が少なくて、2月から急に暖冬になって行ったのだから、例年よりも、巣穴から出て来る時期は早いはずだ。もう、かなりの熊が、冬眠から起きていると、思った方がいい。この林道、もっと奥まで歩くなら、それなりの準備はしないといけない。せめて、熊避けの鈴くらいはぶら下げておかないと。今日はここまでにしようと決めた。さっきよりも注意して、元来た道を歩いて行く。犬は鼻がいいから、この子達が吠えないならば、この付近には、恐らく熊はいないだろう。或いはじっと、どこかの熊笹に隠れて、風下からこちらを見ているのかも知れない。そうであるなら安全だ。後は音に気をつければいい。バーン、バーンと、羆が地面を叩く音。こっちへ来るなと言う警告音。道を見下ろす、山の稜線を見回してみる。まるで神社に来ている様だ。人が手を入れていない自然の中は、何故こうまで神秘的な空間になれるのだろう。私たちの家を作った所に、初めて来た時の事を思い出す。一昨年の6月の末。あそこは草の一束でさえ、刈り取られてはいなくて、大地は一面下草の緑。黒い地面は全く見えていなかった。そして頭上は、若葉に埋め尽くされていた。まるで緑の宝石だった。今のあの土地の、何と味気ない事だろう。私達がつけた道で、大地が顔を剥き出しにしている。本来なら、下草が大事に覆っていた、大地が。タイヤショベルと、ユンボでつけた、大地の傷跡。人間は、どうしてこうも、自然への振る舞いが不器用なのか。この手は、繊細さに欠ける。この体は、本質的に、重機と何ら変わりはないのだ。歩きながら、この道を、そっとしておきたいと、思う気持ちが募って来る。そしてまた、事情故に、それを退けようとする気持ちが錯綜する。熊と一緒に歩きたい。それが、人の道でもある。私達の道は、生命の道であって、車の為の道じゃない。重機の為の道じゃない。それは、自然を破壊する道だから。私は事情に負けるかも知れない。下の道も、上の道も、問題だらけ。整備するにはお金がかかる。みんなで生き抜いて行く為に、この道に自分の車を通すかも知れない。そうしたら、熊はまた、もっと山の奥へ行かざるを得ないんだろうか。私がどかせてしまうんだろうか。彼らの道を奪うんだろうか。一緒に、歩かせてはくれないだろうか。私の車には、毛者の匂いが染み付いているから。私はとても静かに道を走る。他の人間には、この道を教えたりしないから。いつか、私が車を、必要としなくなる日まで。共に歩いてくれないだろうか。俗世間での仕事を終えて、完全に山へ帰れるその日まで。あなた達が、去ってしまうのを見たくない。少しでも、近くで暮らして欲しいから。息を潜めて、道を通る。それがあなた方を失いたくないからだと言う事を、このキムンカムイ達なら、きっと察してくれると信じて。知床にてキムンカムイ。どうか、どこへも行かないで。私達と、ここにいて。____________________________補足翌朝胴長を買いました。ワーイ♪
2008.03.19
車は林道を離れ、再びアスファルトが引かれている道から、もう一つの林道を目指した。この道は、1月の下旬以降通っていない。あの、JAFのジープまで、落ちてしまった時を最後に。下の道と一変して、こちらはまだ、想像以上に雪が深かった。林道の入り口の、上り坂さえ最後まで登れない。車を降りて、ここから橇を引いて行こうと言う話になる。男友達がいるから、橇は交互に引けば済むが、自分がいつも使う、ストックとかんじきを、忘れて来てしまったのが、悔やまれた。雪はまだ、浅い所で膝上まである。吹き溜まりは、実に腰が埋まる高さから、自分の頭を越える程まで。去年は、最初の方だけは何とか除雪して、後はひたすら、橇を引いて道をつけて行った。何もしていない今年の冬、ここは全く通れたものではなかった。多少は進んでみたものの、二人で埋まって、全く前に進めなかった。遭難するぞ、と友人が言った。確かにそうだろう。去年はしっかり対策を立てていた。こうやって、道を埋め尽くす程の雪があった時は、近くのとほ宿から(男女別相部屋制度の、旅人宿)、一番大きい、埋まりにくいスノーシューを借りて、まず友人に行進してもらい、踏み固めながら、橇を進ませて行ったのだ。今回は、急な状況で回って来てしまったから、何の準備も出来ていない。これも明らかに自殺行為だ。もう一回、下の道へ行こうと、私が言った。何とかして、川を渡ろう。川の近くに倒木がある。それをずらして行って、掴まる手すりに出来るかも知れない。車はまた、元来た林道を戻って行く。隣で友達が私を怒る。本当なら、とっくに今日は諦めなきゃいけない所なんだぞと。そもそも、常識で出来る範囲を超えているんだから。仕事を休もうかな。車を持って来て、私もご飯を食べないで、ずっと川の反対で一緒に我慢しようかな。友達の意見を聞き流しながら、ぼーっと一人、仕事を休んで子供の近くにいようかと考えてた。車はまた、埋まりやすい道を慎重に進んで行く。するといきなり、ガクンと落ちた。車が斜めになって止まる。二人で顔を見合わせた。落ちた?みたいだね。穴あったの?あったんじゃない?気付かなかった。バッカ、と、車を降りて、その状況に息を飲んだ。落ちてるとか、可愛いものじゃなかった。道そのものが、陥没してしまっているのだ。車は片側、前輪も後輪も、陥没した道に落ちて嵌ってしまっていた。雪が少ない分だけ、凍れが酷かった今年の冬。霜柱は、高い所で私の膝ほどまで地中の水分を凍らせて、地面の表面を押し上げていた。その、霜柱が融け始めて、押し上げられた地面の下が、空洞になって、数十メートルも続く落とし穴になっていた。これじゃ、車が通れない。兎に角何とかしなければと、車の前後を、剣先スコップで掘って行く。でも、凍ってる所もまだまだあって、簡単には掘り進めない。ようやく、タイヤ一つ分だけ掘り終えると、掘り返した土を均して、車を揺さぶって溝から出した。どこまで融けているのだろうと、私の身長より高い丸太を、地中に開いた横穴の中に差し入れてみたら、すっぽり入って、しかも全く行き当たらない。ここで、とうとう今日は諦める事に、同意せざるを得なくなった。剣先スコップでは、凍った土を簡単には掘り返せない。店にある、ツルハシがなければ進めない。友人も、夕方から仕事がある。店に取りに行って、また戻り、埋まって掘ってを繰り返しながら、時間までに川を渡る手はずはつけられない。家へ帰れなかったのは、今年の冬、初めての事だった。まだまだ、新しい土地に慣れていない。ここで起きる、色んな事態の予測が追い付いて行かない。経験不足なんだ。明日には、川の水も引くし、ツルハシがあれば、埋まってもどうにか行ける。明日出直すぞと、言われて、仕方なくここで引き下がった。目の前に広がる、通れない道を虚しく見詰めた。帰り道、道路脇の山々を見ながら、車に積んである、ご飯を持って帰らなければならない悔しさに押し潰されていた。憮然として、薄く霧がかかった世界を見詰める。時間は、もう午後三時頃。仕事も大遅刻。でも、私はせめて、子供の為に、食費を稼いでおくしかない。朝が来るまでは、他に出来る事なんてないんだからと。
2008.03.19
毎年、3月の下旬に最後の猛吹雪がやって来る。「彼岸荒れ」と、ここの人達は呼んでいる。今年は、どうやらそれが来る気配がない。代わりに、何と雨がやって来た。寒い北海道の冬、春が来るまで空から贈られてくるものは、美しい六花の結晶だけ。雨粒は、春の到来を告げている。それが、事に最近の温暖化で変わって来ている。去年も、2月に雨が降って、道路は惨劇。スケートリンクの上に水が溜まり、そして流れる。車はあちこちで道路から落ちていた。金曜日の夕方から、土曜日にかけて雨が降ると言う予報だった。例年なら早すぎる。雨なんて、4月くらいから降り出すのが通常なのに。もっとも、今年は特に春が早いから、それも致し方ないのかも知れない。予報では、ずっと弱い雨が続くと言う。川の事を考えたが、弱い雨なら、水かさもさして増えるまい。所が金曜日の夜から、雨は本降りになって来た。築50年は経っているだろうと言う、古いこの店の中で、外から聞こえる雨音が、会話の声を時に掻き消す程に、響き渡って来た。まるで、ドラムのスティックで、建物中を叩かれているみたいだ。一晩中、雨音は、打楽器の様に軽快なリズムを刻みながら、耳の奥まで鳴り響いていた。朝、雨はまだ本降りのまま。道はどうなっているだろう、橋は?不安を抱えて、友達のRVRに乗り込んだ。予報では、雨は午後までらしいと言う。確かに、車が走っている内に、だんだん小降りになって来た。少しだが、肩の荷が降りて、体から緊張がほぐれる。店から凡そ15キロ程走って、林道へ入って行く。車のシートベルトを外し、体を自由にしてから、悪路の衝撃に耐えやすい様に、態勢を整える。まずは下り坂。残雪の上を、水が細い川となって流れている。牧草地を抜け、いよいよ自分達で一昨年整備した、30年近く、釣り人以外は通る人もいなかった林道へ。木立の中に入って行く時、左手に川の流れが現れる。家の前を通っている川だ。水は大地が溶け込んだ茶色。川面は波立ち、普段の数倍も増水している。これは渡れないんじゃないか、と友達が言う。また、体に緊張が帰って来る。行ってみよう。短く答えて、残雪と流水と、ぬかるんで埋まり易い、危険だらけの林道を睨んだ。車は綱渡りの様に、間一髪を繰り返しながら進んで行く。途中に難所が幾つかある。解け始めている谷地や、谷地から既に流れ出している、小川が寸断している段差。その小川の一つが、何と氾濫してしまっていた。段差を越える為、そこには何本かの丸太を置いている。水はいつもはちょろちょろと、申し訳程度にその丸太の下を流れているだけ。それが今日は、丸太は完全に水没していた。小川は昨日までの、静かな姿と全く異なって、まるで見知らぬ他人の様な表情を見せている。昨日まで、どんな時でも自然は優しいと、勝手に信じていたのに、ふと裏切られる瞬間。自然には、私の心を越える心が備わっているのだ。たまらず車を止めて、友達が水位を測りに行く。長靴を、川に差し入れてみれいる。水没しない。大丈夫だ、まだ渡れるだろう。川の両側の土を蹴って、車の重さに耐えられるか、硬度を今度は調べている。土は全く落ちて来ない。土の中は、まだ凍ったままなんだ。友達が車に乗り込んで来る。行けるわ、と言いながら。体を支えておけよ、と言われて、左手で助手席の窓の上の取っ手を掴み、右手でダッシュボードを抑え、体を固定する。ウォーターコースターです。アスレチックワールドへようこそ。私が軽口を叩く。こんな時は、ユーモアが不可欠だ。緊張を緩和させ、精神を安定させ、仕事に集中出来、なおかつ失敗しても、責められずにフォローされると言う、安心感が生まれる。イヌイットの様に、厳しい環境に暮らす民族ほど、ユーモアを兼ね備えている、と言う人類学者の指摘を思い出す。そう、過酷極まりない世界で生きて行く為には、逆境を皮肉る、柳の様に、柔軟な精神が不可欠なのだ。でなければ、嵐がやって来たが最後、ぼっきりと折れて倒れるだけ。RVRが前進を始めた。体に力が思い切り入る。川の下は、全く今は見えないが、Vの字の段差がある。ガン!!大きな衝撃を受けて、頭を天井に打ち付けた。一瞬、フロントガラスが、跳ね上がった水しぶきで、何も見えなくなった。次の瞬間、RVRが段差を乗り越えた。成功!わっと歓声を上げながら、興奮と安堵が全身に漂う。取り敢えず、川までの難所は全て越えた。第一関門は突破出来た。谷地も抜け、山を少し登って、下り坂になる。するとその下り坂は、融けた雪が凍って、道の半分ほど残っていて、その上を、水が小さな滝の様に流れ落ちている。二人で思わず息を飲む。・・・これ、下りたら登れるのか?友達が尋ねる。大丈夫だよ・・・。私が答える。鯉の滝登りってあるじゃない。登れるさ。水しぶきを上げながら、RVRが駆け下りる。さあ、もう家は目の前にある。川の間近で車を止めた。子供達が、大急ぎで呼びかけて来る。車から降りて、川を確認に行った。多少の増水は予想していたが、それをまだ上回っていた。去年の雪解けの濁流ほどじゃない・・・。私達で架けた、「御成り橋」(私の生まれ育った家の、すぐ上に架かっていた、一番思い出深い橋の名前。多摩川の支流に架かっていた)を押し流してしまった、あの流れに比べれば、まだそこまでは。行こうよ。私が促す。どうやって?歩きで川を渡って、向こうから、ロープかワイヤーを持って来て、そことそこの樹に縛らせてもらおう。歩き?無理だろ。車で渡ろう。その方が安全だよ。私と違って友人は、車に相当無茶をさせる。私なら、以前乗っていたジムニーにだって、こんな流れは渡らせない。しかし、今は友人の車は、本人がいいのなら、私はどうなっても構わない。大切なのは、子供だけ。何としても、この川を渡る。友人と、再び車に乗り込む。車は道を走るもの。川を泳ぐ様な能力はない。こんな人の手の届かない様な所にずっと暮らして、車をアスファルトではなく、主に悪路を走らせていると、車の限界ばかりが見えて来る。タイヤが一本でも穴に落ちたら、車は自分で脱出出来ない。ジャッキアップして、穴に丸太や石を詰めて、まるで赤ちゃんの世話をする様に、面倒を見てやらなくては、動く事もままならない。車は便利な乗り物ではあるが、自分の面倒が、全く見られないのが欠点。なまじ図体がデカイだけに、一度動けなくなるや、こんなにとんでもない障害になるのも、そうはない。車を見ていると、人体とは、何て見事に作られているのだろうと感心してしまう。歩く事も、走る事も出来るし、雪や泥に埋まったら、自分で引き抜く事も出来る。走りや、運搬の能力の差は歴然であったにしても、人間の力は、弱いものだが、桁違いに優れている。車がゆっくりと川を目指す。あの静かな川が、また牙を剥いて、あらゆるものを水の腕の中に、掴んで流れに道連れにしようとしている。上流に目を向ける。大きい流木が流れて来たりはしないかー。水が怒鳴っている。自分の中に、入って来るなと命令している。この轟音は、彼らの警告なのだ。近寄るな、止まれと。こんなに怖いのは初めてだ、と、私が告白する。怖い。入りたくない。まだ、歩いて行った方がいい。泳げる分だけ、車などより、流されても、自分の方が信用出来る。やっぱり、車は止めるかと、友達が同意する。歩いて渡ってみるか。車を降りて、私は杖になる様な、長い枝をすぐに捜した。少しでも、バランスを取れるものがあれば違うはず。川幅は、凡そ4メートル。深さは?一番浅い所で、膝を完全に越えるくらいだろうか?取り敢えず、オレが先に行くよ、と、第一陣が出発する。足を川に入れた瞬間、水流の速さに、いきなり足を取られて、バランスを崩した。深い!多分、私の想像以上だ。友達に、さっき渡した、杖を川の中に差し入れて、深さを測ってくれ、と叫ぶ。濁流の轟音で、叫ばないと、すぐ近くにいても、相手に声が届かない。友達が、少し戻って、杖を川に差し入れる。しかし、流れが強すぎて、杖が全く垂直にならない。それでも、瞬間的に、数回だったが杖は川に対して垂直に立って、丁度、目印になる、木の皮がはがれている部分があった為、かろうじて判別する事が出来た。水位は、そこのすぐ真下を横切っていた。友人から、杖を受け取り、自分の足に合わせる。何と水位は、私の太ももの丁度中央まであった。それを、RVRのタイヤに合わせてみた。水位は、タイヤの上まであった。これじゃ渡る所か、最悪下流に流される。この車、あちこちぶつけていて、隙間もかなり出来ている。水の勢いに負けて、立ち往生して、中に水が入って来たら終わりだ。RVRの屋根によじ登って、バーに掴まって、車がどこかに引っ掛かるまでは、リトル・コロラドラフティングだと、ユーモアを頼りに乗り切るしかない。この川が、もっと下流で、車が沈む程に深くなったら、助かる見通しは薄れて来る。特に、カナヅチで、水を思い切り怖がる友人は。最も濁流に飲まれては、泳ぎが出来るかどうかなんて、問題じゃないのだと思うけれど。上の道を行こう、と、友人が言い出した。渡れないよ。上を行ってみよう。それしかなかった。再び川を見る。渡れて、半分までだ。そこで限界が来て、動けなくなって立ち往生する。上流から押し寄せる流れに、何分も足は持ち応えられないだろう。膝が崩れたら万事休す。息がある内に、手が川岸から伸びる、倒木を掴んでくれる事を祈るだけ。だめだ。幾ら何でも、今ここを渡ろうとするのは間違ってる。余りにも分別に欠ける。そう、自分に言い聞かせた。上の道を行こう。子供達に、上から回って、そっちへ行くからと、声を掛ける。でも、よく分かってないよね。吠え声が、何で行ってしまうの、って言ってるよ。
2008.03.16
今週の、月曜日の夜中から、件の病気のダメ押しがやって来た。それはもう、筆舌に尽くし難い痛みだった。それが何なのか、私にも人権があるから、全てを公表する事は出来ない(断じて出来ない)。ネットでお付き合いのある人で、この全貌を知っているのは、たったお一人しかいない。兎に角、地獄の痛みがあった。それがようやく終ったのは、水曜日の、午後二時頃。流石に疲れ切って倒れた。今回、骨身に染みた事は、「どんなに苦しくても、薬は程々に」と言う事だった。つまり、とんでもない副作用に捕まったのだ。その日、予約が3時半から入っていたから、店は閉めたまま、出張に伺った。途中、何回か貧血で朦朧とした。これが終ったら休むんだ、そう自分を励ましていたら、携帯に予約の電話が来てしまった。私が病気で倒れていた時、二回もお断りさせて頂いてしまった方だ。恥ずかしくて、もう、断れない。祈るような気持ちで、二件の予約をそちらからお受けした。店に戻ってから、小鍋に少量のお米を入れて、お粥を作り始めた。実は、今に至るまで、ずっとお粥しか食べていない。野菜や、お肉を最後に入れる。量にしてみたら、ご飯一膳か、一膳半くらいのものだろう。それを三回に分けて食べる。疲れ切っていた私は、時間まで、ほんの少しだったが、横になっていた。そして時間が来たから、重い体を引き起こして、仕事に向かった。鍋を火にかけたまま。それを思い出したのは、火にかけて、3時間近く経ってからだ。いきなり記憶が炸裂して、台所の鍋を思い出した。パニックになる。ボヤくらいは仕方ない。借家を燃して、借金が出来てもそれはいい。でも、二階には、猫と犬が暮らしているのだ。煙で死んでしまったら・・・。友達に、すぐに行ってもらおうと、考えた。仕事先よりも、少し近いから、それに私は今、手が震えて、運転が恐ろしい。友達に電話をかけるも、手は震え、何度も間違い電話をしてしまう。消防車のサイレンは聞こえていない。大丈夫だ。まだ、すぐ向かいのパチンコ屋さんもにぎやかな時間だし、並びの喫茶店も開いている。何かあったら、すぐに通報されているはずだから。ようやく、友人の所に電話が繋がって、火を点けっ放しにしている、すぐに消しに行ってと叫んだ。火は消えてても、ガスが出てたら?二階に充満してたら?後で電話して、と、言ってる内に、友人が電話を切ってしまって、私は生きた心地がしなかった。こんな体調で、働くからいけなかったんだ。火をかけ忘れるなんて、生まれて初めてだ。動悸に耐えながら、仕事を続けた。携帯を凝視しながら。5分経った。もうついてるはずだ。電話は?まさか、火を消してて、その余裕がないんだろうか?それとも今頃、二階の子達を、車に急いで避難させているんだろうか?8分。まだ連絡はない。15分が過ぎて、何事もなかったら、大丈夫だったと思っていいだろう。火事になってたら、もうそろそろ、消防に連絡が行って、サイレンが町の中にこだまするはずだから。時計のデジタル表示を、書き足したいほどじれながら、15分が経過するのを待つ。とうとう15分が過ぎた。やっと人心地をつける。20分が過ぎた。もう大丈夫だ、みんな無事なのだ。心から安堵した。誰にともなく、心の中で、有り難う、と繰り返す。暫くしてから、別の友人から電話が来た。私を病院へ連れて行ってくれた人。コンビにの店長で、前日も、体調を直すお茶や、豚汁や、煮豆などを、差し入れてもらった。お礼がてら、仕事が終わって、友達に電話して、家の事を聞いてから、店に行ってみようと考える。どうせ、お粥はなくなってしまったから、レトルトのものでも買わないと。今から作る気力はないから。ようやく仕事が終わり、まず、友人に電話して、家の様子を聞いてみた。自分が行った時には、もう火は消えていたよ、と。で、ガスが出なくなってた。焦げ臭いから、換気扇は回しておいた。良かった、ガスが止まっていたなら、子供達も、何も心配ない訳だ。お礼を言って、電話を切った。安心して、車に乗って、コンビニに行こうとした。所が、私は迷子になってしまった。まだ、頭が朦朧としていたのだろう。よく知りきった場所で、全く知らない道に、どんどん入ってしまっていた。行き止まりになって、初めて迷った事に気が付いた。コンビニで、店長の優しい顔を見るや、泣きたくなった。帰る時、時間切れのお弁当を持って行きなさい、と言ってもらったが、まだ、普通のご飯を見ても、食欲が湧かない。自然に食べたくなるまで、お粥を続けよう。昨日から、疲れのせいか、今度は熱が上がって更に体調を崩してしまった。一人だけ、仕事を受けて、早々に体を休めた。まだまだ、回復には時間が必要らしい。ようやく今日、体を引き起こして、山へ帰った。暖冬で、雪が異常に少ない今年。友人のRVRは、何と川の手前まで(つまり家の土地の向かいまで)、車で行ける様になっていた。私のトムトムだったらとても無理だろうけど。どちらにしても、谷地があるから、雪解けになったら通れない。地面がまだ、凍っているから何とか行ける。ただ、今夜から明日にかけて、雨が降ると言う。それによっては、ぬかるんで、また通行不可になってしまうかも知れない。それにしても、こんなに雪の少ない年は初めてだ。日曜日には、まだ、未使用の古い林道を確認に行ってみる事にしている。途中に倒木もあって、整備が必要だが、もし、そこが道路に通じていれば、谷地を通らなくて済む。そうすれば、上の道が開通するまで(こっちは下の道の、3倍は雪が積もる)、車で通れるかも知れない。川は歩かなくてはならないが。少しずつ、慣れて、土地に精通して、生きる知恵が身について来る。柵の中の雪も融け始めて、子供達は、一番嫌いな時期がやって来た。ここの方がいいの。(紬ちゃん談)今年は寒かったのか、暖かかったのか。1月、連日20度越えを続けていた。毎冬、毎日気温表をつけている知人がいると言う、ウチのお客様が、その方から聞いた話では、今年はいつもの年よりも、20度越えが、多かったと言う。つまり、晴天続きで、雪が降らなかったのだ。晴れた夜は、どこまでも気温が下がる。放射冷却と言って、空に雲の蓋がないと、地表の熱は、空高く吸い上げられて、地上は凍り付いてしまう。雪雲が蓋をしてくれれば、地熱も維持され、温かい。だから、雪の少ない年は、寒いのだ。但し、今年は、ダイヤモンドダストや樹氷を、殆ど見なかった。毎年うんざりする程見るのに、今年は朝の7時でも、外にいても、大気は光輝かない。20度は連日越えたけど、30度近くまでは、殆ど行かなかった。普段の年なら、28~9度くらいは、何度かあると言うのに。そして、酷く乾燥していた。雪不足のせいだろう。去年の夏から、明らかに旱魃の傾向になっている。2月、気温はかなり上がり始めた。平年よりも、明らかに暖かい。心配される吹雪も、一度来ただけ。そう、私が胆嚢に穴を開けた頃だ。そして今月から、気温は更に上がって行って、周囲はまるで、4月の中旬並の景色。山も殆ど雪が融けている。もしかしたら、このまま終るのかな、と、最近みんなが口にし始めた。毎年、彼岸荒れと言って、お彼岸の頃に大きな吹雪が一回来る。それが来て、いよいよ本格的な雪解けがやって来る。今年はどうなるんだろう?余りにも、短く終ろうとしている、今年の冬。地球の為には、個人としては辛くても、本来の厳しい冬を求める。ホッキョクグマが、氷の大陸を探して泳ぐ姿を見る訳にはいかないから。人間が、生き方を変える事によって、温暖化の現状を、止める事が出来ます様に。ウチの目の前の川には、まだ、雪と氷で架けられた橋が残っている。後何日、この自然が与えてくれた橋は持つのだろうか。ママがいなくて、寂しいパムちゃん。切ないダス・・・。
2008.03.14
モニターには、私の胃が移っていた。 ピンクの肉壁。 そこに何故か、とても不思議なものが沢山映っている。 先生が、首を傾げてモニターを見ながら訊ねる。 「ゴマ・・・・沢山食べた?」 「いえ(あっ、そう来ます?私はですね、「砂場に行って、大きいカレースプーンで、二、 三杯、砂をすくって食べたかな」、とボケようかと思ってましたよ)。」←まだ殆ど喋れない。 ははあ・・分ったよ。 と、先生が腑に落ちた顔でモニターを見詰めた。 これ、砂だよね? みたいです・・・(と、言うか、それ以外の何とも・・)。 胃の中は、正しく砂まみれだった。 砂、砂、砂。 それから先生は、腸の映像を見せながら説明する。 腸と言われた部分は、素人でも分るほどに、真っ白で病んでいる。 胆嚢に、砂が溜まっていたんだね。 それが、穴が開いて、腸に流れ出した。 で、沢山吐いたから、それが胃に逆流して、胃の中が砂だらけになったの。 ・・・・はー・・・。 十二指腸も、ただれてる。 胃は大丈夫、潰瘍も、ガンもないよ。 腸から来てるね。 穴が開いたからね~、痛かったね。 先生、原因は何ですか? やっと声を出して、イエス・ノー以外の言葉が言えた。 うーん、あのね、普通は太ってる人がなるの。 あなたみたいな人が、罹る病気じゃないんだよね。 だから原因は恐らく・・・。 ストレスや過労ですか? 私が後を受けて先に応じた。 うん。そうでしょう。 これはつい最近どうの、じゃないよ、随分前から、徐々に溜まって来てたんだよ。 あんまり、無理しない事だね。 胆嚢に砂。 それが、穴が開いて、腸に流れ込んだ。あのストレスや、過労が、まさかこんな所で体に溜まって来ていたとは。ある意味で、人体の不思議だ。普通は、胃や、皮膚や、呼吸系統に、現れやすいものだと考えていた。実際、私は子供の頃から、そうした精神的ストレス性の、悪性喘息を患っていた。あれが治って来たのは、北海道に越して来てからだ。子供達の為に決断した移住が、図らずも、私を喘息から救う結果を齎した。それ以外は、熱が出やすいくらいで(これは最近、ビタミン剤を飲む事で克服してる)、むしろ驚いていた。しかし、現実は、体に少しずつ、毒になって溜まっていたとは。 まあ、前向きに解釈しておこう。 体内に溜まっていた砂が、これで排出されたのだ。 落ち着けば、前より理論上、(あるいは細かい非検査上は)健康になった事になる。 かなり乱暴な肯定ではあるけれど。 一番辛い時は、もう乗り越えてるから、大丈夫。 昨日の薬は効かなかったよね。 今日、ちゃんと効く、別の薬を出すからね。 貧血が酷いから、今日からでも、少しずつ食べる練習をして行きなさい。 初めは、ポカリみたいなものからでいいからね。 と言う事で、急性胃腸炎だと盲信していたお陰で、入院は免れた、今回の病気。 しかし、流石にダメージは大きく、まず、10日を寝込み続けた。 これにはある三人の方が、事情を知って、フードやお金を支援して下さった人達がいて、お陰で子供の食費を余り心配する事無く、10日も休業する事が出来たのだ。 そうじゃなければ、倒れて運ばれるまで、仕事を受けていただろう。 この人達のお陰で、初めて養生が可能になった。 その間、子供は全て、友人に世話をしてもらった。 こちらも本当に感謝をしている。 私自身は、3月3日の月曜日から、山へゆっくりと帰り、仕事も、一件、二件と、 数を制限しながらこなしてみた。 すると、どうやらまだ回復には早すぎたらしく、続く水曜日と木曜日、再び 胃腸の痛みにのたうち回り、寝込んでしまった。 金曜日、懲りずに仕事を再開する。 山へ行くのは、貧血が酷くなるから少し我慢で、土曜日と二日間、仕事だけをやってみた。 土曜は、結構忙しくて、日曜の朝は暫く、疲れで動けなかった。 しかし、折角の日曜日、午後から仕事はないのだから、山へ頑張って帰宅した。 これまで集めておいた、トンコツや、犬好きの人から頂いた、チーズにささみジャーキー を、お土産に帰った。その夜は、疲れで電気をつけたまま寝入ってしまった。月曜日、何とか山と店と、両方をこなした。今日は、朝は疲労で動けず、友人に任せて、休む事にした。仕事を少し、こなしてみる。 以下は、私の養生中に、子供達を心配していた私に、山でのみんなを、友人が撮って くれた写真と、日曜日、私が撮った写真である。 体が全開するのが、いつになるか、正確には分らない。 開いた穴は、自然に塞がるが、こうして無理をするのが、それを遅らせてしまっているから。 しかし、のんびり回復を待てる身分ではないので、見切り発車で働いている。 普通の倍の時間を掛けて、治しながら、生活して行こうと考えている。仲良くしてたのね~。うし、うし。チーズにトンコツ、ジャーキーまで食べたの。ちったん、ママ後ろのミモザちゃん、撮ろうとしたのよ、もういいや、限界来たんで撮影止め~。
2008.03.11
せっかちな友人は、JAFのヘッドライトが見えるや否や、車から飛び出して誘導しに行った。もう、動く気もない私は、じっとその光を凝視していた。5分。10分。遅い。何をしているんだろう?状況が掴めず、じれて来た時、友人が車に戻って来た。「降りて!」「何?」「JAF入って来れないって。送ってくれるって。オレは残って、もう暫く頑張ってみるから。」時間は九時過ぎ、友人も朝以降は何も食べていない。大事なスコップも途中に置いてきてしまって、申し訳程度の剣先スコップしかない。ついでに車はガス欠寸前。気温は氷点下13度。まだまだ下がる。あんたここで自殺する気かと、呆れ返ってそれを制した。「やりたい」のと「やれる」のは、ここでは特に、訳が違うんだ。思いもしない、JAFのスピード却下に、ショックで強迫観念からか、アドレナリン全開になっていた、友人の目から、少しずつ錯乱の炎が消える。明日、私の車で来ればいい。スコップも積んであるし、吹き溜まりを掘れば、車は出せる。牽引ロープだって積んでいる。腐っても四駆なんだから。私の説明を聞きながら、ようやく落ち着いて、引き上げる事に、友人も同意した。確かに、自殺行為だわな、と、繰り返して。ヒーターの効いたJAFのジープに乗り込む。この車で入って来れないとも思えない。まあ、真っ暗闇の中で、坂道をバックで入って、道から落ちる事を避けたいのだろう。恐らく正しい判断だ。「リスクは最小限に」私と同じ、慎重派なんだろう(一方で、必要な場合は、どろ船でも躊躇しないで飛び乗る大胆な部分もあるが)。帰り道、風は止む事無く吹き荒れて、真っ暗な世界に白い斑点模様を重ねている。時折細かい雪が、天の川の様に、眼前に流れる。道路では、地吹雪になって運ばれる雪が、風に抱かれて、海蛇の様な、華麗な動きを見せている。これが、あの美しい砂漠の風紋を作るのだ。丁度道路の除雪が入ったらしく、道は綺麗に開いていた。ふと、行きにはこの道が、通行止めになっていた事を思い出した。JAFの人に声を掛ける。解除されたんだね。うん、開いてるよ。何時に開通したのかは、聞かなかった。それ以上、声を出すのが億劫になっていた。寮に戻ると、間もなく弟子屈小学校の鐘が、午後10時を通告して来た。疲れ切っていて、何か少しでも食べなきゃいけない、そう考えながら、崩れ落ちた。翌朝、体は危機感を覚える程に、衰弱していた。依然食欲は全く出ない。貧血で目眩がする。車を友人に預け、私は別の親しい人に連絡を取った。すぐに、病院へ連れて行って欲しいと頼んだ。かかりつけの個人病院。入院施設はないが、先生が好感を持てる。いよいよ入院が必要になったら、絶対釧路の病院にさせてもらおう。この町にある、唯一入院出来る病院は、友人のお母さんの、鼻血も止めれず、釧路に回した所だから(学校の保健室以下・・・?)。待合室に連れて行ってもらって、そのまま椅子の上で体がズルズルと崩れて行く。何でもいいから、待つなら一時間でも待つから、兎に角寝かせて、そう祈っていた。先生がやって来て、どうした、どうした、と声を掛ける。診察室へすぐに入れてくれて、やっと診察が始まった。倒れて四日目、もっと早くに来るべきだったのだろう。嘔吐と下痢が木曜日の夜中から始まった事、以来何も食べれない事、胃腸の痛みを説明した。血圧を測ってみると、上が80の下が60。そりゃ、体がだるい筈だと、納得行った。血液検査と、尿検査をやろう。点滴を受けて、明日全く変わっていなかったら入院ね。先生、釧路に紹介状を書いてねと、心で思って、はい、と答えた。点滴を受けて、迎えに来て貰って、処方された薬を飲んでも、胃腸の痛みは引かなかった。友人が山から戻って来て、アクエリアスやゼリーを差し入れてくれた。子供達はどうだった?あ?あいつらは別に平気だよ。車は出せたの?ああ、結構簡単に出た。JAFの車な・・・やっぱり、入って来れたよ、暗くて分らなかったけど、そんなに酷くなかったんだ。そうか、良かったね・・・・。また、眠りに落ちた。翌日、再び病院へ。点滴のお陰で、血圧は上がって来ていた。でも、検査で原因が判らないと先生が言う。貧血は凄いんだけどね、食べてもいない訳だから・・・。薬は効いた?あんまり・・・痛いな、やっぱり。よし、じゃあ胃カメラをやろう。やった事ある?ううん、ない。胃カメラ。経験者の話を聞いて、死ぬまでやりたくないと思っていた検査の一つ。中でも「バリウム」なる飲み者の恐ろしさが意識に根付いている。どろっとして、思わず吐きそうになると言う。先生には告白済みだが、私は粉薬もニガテで飲めない。オブラートなしにはすんなり入って行かず、戻しそうになる。子供の頃は、薬全般が一切だめだった。喘息の持病があったから、錠剤程度は克服出来たが、今でもニガテな薬を持たされると、子供の様に、薬を持ったまま、凝固する。まだ飲んでないの?さっさと飲みなさい!!無理難題を、押し付ける恨めしい母の姿が脳裏に甦る。コーヒーも好きになったし、ピーマンもにんじんも好きになった。寿司に入る、ワサビも今では大歓迎。自分の子供の頃から、未だに変われていないダメ部分を、上げれる下手したら唯一のものが、錠剤や、カプセル錠以外の薬嫌い。しかし今回は、病気の辛さが何にも勝った。噂に聞くバリウムは、想像してた程どろっとしていなかったし、量も少なかった。水分が足りてない私としては、もう少し飲ませて欲しいくらいだった。検査室へ入り、始めて胃カメラと言うものを目にして、その長さに驚いても(これは身長測定器並の長さだな、と)辛さが勝って、どうでもいとさえ感じていた。喉にカメラを通すから、痛くないように、喉に麻酔をするからと、仰向けにされて、粘液状の薬を口の中に流し込まれた。結局、これが一番辛かった。飲まないで、しばらく溜めてね、と看護婦さんに言われて、極限まで耐えはしたが、とうとう体が限界が来て、一気に床に吐き戻した。先生は暫く考えて、私の体も検査所か衰弱してるが、原因が分らないとどうにもならないと、結論に至って、強気で続行に踏み切った。まず、点滴を受けて、体を休ませて、それから検査再開と、話が勝手にまとまっていた。一時処置室で、ベッドに寝かされ、点滴を受けて、やっと体が少し落ち着いた。周囲を見回すと、壁に何枚かの版画が飾ってある。芸術好きには有り難い目の保養。近視だから、詳細まで見えないが、あれは聖フランチェスコだろうか、等と、描かれている人物達に、思いを馳せながら、暫く浅い睡眠に漂っていた。窓から差し込む日差しが、大分西に傾いて来た頃、先生が検査再開を指示した。元々嘔吐の症状があった私に合わせて、今度は粘液状じゃない、スプレー式の麻酔が喉の奥に噴霧された。私の頭上のモニターには、ローマ字で私の名前が映し出されていた。さあさあやるよ、と、先生が、手をもみ合わせながら、テンションを上げて登場する。そう言えば、この先生は、胃カメラ上手だって地元の人の話だったと、思い出した。得意な事を、やるのは楽しい。趣味でも仕事でも、同様な事だろう。これはニシキヘビの一種ですか、と訊ねてみたくなる姿形をしている「カメラ」そう言えば、凄い細いカメラが開発されて、もう使われてるって、いつかニュースで報道していた。あれがこの田舎町にも、届くまで検査の機会は預けておきたかったと、考えている内に、ニシキヘビが口の中から喉の奥に入ろうとしてやって来る。たまらず吐きそうになって咳をする。大丈夫だ、飲むんだよ、飲み込めば楽になるからね、と先生が声を掛ける。所が飲み込んで終るものじゃない。ニシキヘビは、先生の手元向こうにその、長い体を待機させているし、奴の頭から首辺りは、すでに私の喉から胃を目指している。余程途中で検査を止めてもらおうかと考えた。しかし、そういう意思を伝える術はない。意思の疎通には、通常言葉が必要だし、その言葉は、ニシキヘビの、立派な体が押し潰してしまっている。胃の中が、モニターに映り出したらしい、先生が、見てごらんと声を掛ける。生憎と今、ニシキヘビを体に突っ込まれるので手一杯なもので、そのお仕事には手が回りません。まだ、多少のユーモアが、頭の中で頑張っていた。さー、腸の中にも行ってみようねと、先生が幼稚園の園長さんの様な、優しい声で話してくれる。私は初めてだから、上手い下手は分らないけど、この先生、胃カメラが上手いと言われる理由の一つは、この、園長先生みたいな優しい物言いで、患者を安心させれる為じゃないのかなと、ふと考えた。最も私も、子供の頃、地元でよく通った、優しい小児科医の町医者だった、思い出の先生を彷彿とさせる、この先生が好きで来たんだけれど。ニシキヘビが、腸を映す為に、お腹の中で暗闇で迷った人間みたいな動きをしている。痛くて痛くて、耐えるのが精一杯だった。ようやく検査が終わり、先生が可愛いペットを、私の体から引き出してくれた。出来たら二度と、このペットには再会したくない。さて、モニターを見てね、と先生が言う。OK,今なら見えます。但し、体までは動かせませんが。
2008.03.09
病気と言うものは、怪我と違って、知らずに体内で進行している。溜めておいた、毒を出して、自然に治癒を図ってくれるものもある。今回私は幸いだった。そうした種類の病気だったのだから。2月21日の夜10時過ぎ。その日最後の仕事の最中だった。出張中で、お客さんの自宅で仕事をしながら、いきなり強い吐き気と、下痢の気配に襲われた。トイレをお借りして、上から下から全て吐き出したかったが、仮にも人様の健康に、僅かながらも奉仕する仕事。決して不調は表に出したくなかった。間違いなく急性胃腸炎だろう、そう思った。ここの所、ストレスが続いていた。丁度前日と、その日にストレスのピークがやって来たのだ。貧血が起こり、それを我慢して耐えていると、今度は脂汗が額ににじんで来る。何度も何度もトイレを借りる事を考える。でも、今借りたら両方出る。とても、ちょっと生理的現象で、と、笑顔で騙しは利かせられない。仕事が終わるまで、後一時間。何とか持ち応えてくれと、我が体に祈った。仕事が終わって、よろめきながら、車に乗り込み、蛇行しながら店へと帰った。丁度その日、そのお宅のすぐ近くのラーメン屋さんから、いつも犬にくれるトンコツが出たから、終ったら取りにおいで、と言われていた。子供達の、一番の楽しみ。私もそれを受け取りに行くのが、とても幸せな時間だった。しかしその時、足は迷わず店を目指した。店に着くと、安心したのか吐き気がやや引いて来た。このまま頑張って、吐かずに済ませたいと考えた。これ以上、貴重な体力を失う事は避けたい。そう考えてる間に、猛烈な吐き気と腹痛に襲われ、たまらずビニール袋を掴んでトイレに駆け込む。上から下から食べた者が飛び出して行く。何度か吐いて、少し落ち着き、取り敢えずこれで、明日の朝には回復して来るだろうと思った。二階にふらふら上がって、コタツに入るや、そのまま力尽きて眠りに落ちた。翌朝になると、体調は更に酷くなっていた。耐え難い胃痛と、腸の痛みが襲って来る。これは間違いなく、急性胃腸炎だろうと考えた。流石に動けない。予約をキャンセルして、今日は休む他はない。ちび達の世話を、友人に頼んで、薬を飲んで、倒れこんだ。その日から丸二日間、胃と腸の痛みで七転八倒した。余りの痛みに眠る事も出来ず、胃痛などの薬も全く効かない為、睡眠薬を飲んで眠るしかなかった。それでも土曜日、どうしても断れない仕事が二件出来て、前日から何も食べてない体で、吐き気と痛みを堪えながら仕事をした。子供の食費の為にも、自分の薬代の為にも、少しでも働きたかったし、その時はまだ、自分の体が本当にどういう状態かは知らなかった。二件終えるや、店を閉めて、また七転八倒を繰り返す。私の体調不良を察したお客さんが、スープを幾つも買い込んで来てくれて、何とか一缶口にした。翌日曜日、久しぶりの吹雪だった。異常気象と言い合うくらい、雪が少ない今年の冬。久々に、家への道が、吹雪の為に、途中で通行止めとなった。こうなってしまうと、友人の腰が途端に重くなる。一日くらい、食べなくても何ともないよ、あいつらは、と、言い出す。私はイヤだ。何が何でも毎日しっかり食べさせたい。暴風雪が来ようが、何が来ようとも。面倒だが、ずっと遠回りをすると、開いている道路がある。100パーセントと言う訳でもないが、標茶は弟子屈よりも荒れは少ない。恐らく通行止めになっていない道がある。吹雪の日に、車で外出したがる弟子屈人はいないだろう。ここは道東でも指折りの吹雪の町。風が荒れ狂い、1メートル先さえ見えなくなる。事故を覚悟しないと、外へ出る勇気は出ない。行きたがらない、友人の気持ちはよく分る。だからそれを動かすには、私が助手席に乗り込むしかないと考えて、もう三日、何も食べていない体を、防寒着で包んだ。降参した友人が車を出す。今年久々に見た、本格的な冬の嵐。こうでなくちゃね、と、私が言う。こいつが二、三回来ないと、春だって来ないってもんだよと。瞬間、全てが吹雪の中に包まれた。前を走る車も見失った。白い闇。もしかしたらこれは、黒の闇よりも恐ろしいのでは、と、いつも恐怖に駆られて考える。そう、白い闇の方が、黒い闇よりも息が詰まる。どこにも安心感が存在しない。悲鳴を上げて、払えるものなら追い払いたい。危うく前の車にぶつかりそうになる。何と前の車、全く視界が無くなった時に、車を止めてしまったのだ。こっちでは、逆にそれは、危険な行為と認識されている。後ろの車に追突されるからだ。だから、どんなゆっくりでもいいから、兎に角止まるな、何とか走れー。みんな、そう互いに忠告をし合う。ようやく暴風雪を抜けると、空には薄日が差して来ていた。案の定、こちらは通行止めもなく、山の入り口へと、無事に辿り着いた。これからが問題。吹き溜まった雪を、スコップで掘ったり、車で体当たりで破りながら、少しでも前へ行こうとする。もう危険だから、ここから歩きにしよう。そう言う私の忠告を全く無視して、友人が車を無理やり前へ進め、何度も埋まる。そのせいで、ガソリンが一気に少なくなった。これでは、帰りに持つかどうか、ギリギリとなって来る。三回目埋まった時には、もう車は自力で脱出する事は不可能になり、流石に学習能力を欠くに欠き過ぎる友人を、私が叱責した。少しでも前へ行ければ楽になる、必死で説明する友人に、ここは端からリスクがある。冒険をすれば、大きいリスクがこうして生じるだけなんだから、賢く最初から、小さいリスクを負って行くのが正しいのだと説き伏せる。何せここは、携帯の電波さえ届かない。JAFを呼ぶのだって、片道4キロ歩かなくては、公衆電話がないのだから、「埋まってはいけない」これが基本原則なんだと。私は吐き気は収まっていたものの、下痢は全く止まらず、水を飲んでもトイレに駆け込む。その日でもう三日間、殆ど何も食べていなかった。最初の予定では、兎に角山まで友人を連れ出して、後は車で休んでいようと思ったが、やはりここまで来ると、子供が恋しい。ストックを握って、ふらふらしながら、家を目指した。友人が、新雪に埋まる橇と格闘している。本来なら今日、私があの仕事をするはずなのに。歩くのが精一杯なのが、とても悔しい。川は大分氷が融けていた。来月、いつまで歩いて渡れるかな、と友人が独り言を言う。去年の雪解けを思い出していた。手作りの橋を、押し流した春の濁流。この静かな流れが、牙を剥いた様にその表情を一変させた。家にまで辿り着き、何とか全員の無事を確認する。それが限界だった。山小屋で横になろうと考えたが、恐らくそのまま立ち上がれなくなる。食事も取れない、薬もなく、薪を焚き続ける力もない。前に住んでたバスと違う。あそこは少なくとも、気密性はあったし、風は完全に防げた。大急ぎで作ったこの小屋は、あちらこちらから雪が吹き込んで来る。まだ修繕が必要なのだ。何とか自力で車に戻らなくては。子供達に、一緒に頑張ろうね、すぐに元気になるからと言い聞かせて、後ろ髪を引かれながら、車に行く。倒れこんだ。ガソリンが少ないので、エンジンがかけられない。三日も食べてない上に、吹雪に巻かれて凍った体に、有り難い環境だと皮肉って耐える。胃と腸の痛みがぶり返し、それ以上に氷点下10度の寒さに耐え兼ねていた頃、ようやく友人が、車を出す為の、足場用に橇に積んだ薪を持って現れた。そこで悪夢の告白。私がいないと、しきりに悪さをしたり、脱走を試みる悪童数人を、山を降りる時は、外へ繋いでおくのだが(許して坊たち。春になったら、お前達用に、頑丈な柵を作るからね)、その子達が、友人の言う事を聞かず、外に出せなかったと言う。しゃあねえべや。友人の口癖。しゃあないで済めば、母は苦労はしないんだわ、と、再びストックを持って、家へ向かう事にする。おい、死ぬかも知れないぞ!と、後ろから掛ける友人の言葉は、全く冗談の匂いがない。それでも有り難い事に、歩き出すや、急に吹雪が鎮まった。空を覆う雲が晴れて来て、夕焼けが山の上に広がり始めた。風が止んで、体感温度も急激に変わる。これなら行って来れる。雲の上を歩いている様な、半ば意識が薄らぐ世界。行き先は、体が覚えている。きっと半分意識がなくても、足は必ず子ども達の所に私を運んでいるだろう。再び子供達の声に山が包まれる。私の言う事しか聞かない頑固者ちゃん達。全く、ママには素直でいい子なんだけどね、と額を寄せて、溜め息をつく。精一杯、可愛い顔をして見せる我が子。ふらつく私に、今日は子供は遠慮がち。飛びつきたくて、うろうろしながら、私の顔を舐めに来てくれる。柵の中で、二、三度足がもつれて倒れこんだ。ようやく外に出す子を出して、細かい日本語が通じるのを、期待などせず勝手に状況を説明する。これこれこういう訳だから、みんな少し、辛抱してね、と。最後の力を振り絞り、もう一度車を目指す。太陽はもう、山の向こうに沈んでいて、周囲を照らすのは、この日最後の残照だけ。午前10時には寮を出たのに、随分時間がかかったものだと、溜め息をつく。友人は、薪を使って車を無事に出していた。やっとエンジンのかかった車で、体を温められる。車はゆっくりと、また雪を掻き分けながら、もと来た轍を辿って行く。しかし、帰りは行きよりも大変だった。吹雪は収まったものの、風はまたしても強く吹き荒れ、地吹雪になって雪を運んでいる。所々で、轍はすっかり雪に覆われ、車はまたしても、何度も埋まる羽目になった。日も完全に落ち、夜の8時を時計が回ったと言ってみても、私たちは以前山で格闘を続けていた。友人は雪と。私は胃腸の痛みと、寒さと。そして、とうとう友人が白旗を揚げた。もう、車は出せない。JAFのジープがいる。かと言って、この寒さで、公衆電話も目指せない。なるべく近くにある、農家に電話を借りて来よう。救急車を呼んででも、一分でも早く床につきたい私はようやく安堵した。体力所か、気力も限界。車のエンジンをかけて、ヒーターをつけておく事にした。この日あちこちで車は埋まり、JAFはどうやら大忙しだった様で、頼んでもすぐには来れなかった。真っ暗な林の向こうに、こちらに呼びかける様なジープのヘッドライトが点ったのは、時計がもう、九時は過ぎたと、大して興味もなさそうに、私たちに告げてからだった。
2008.03.08
まず、motokoさん、お元気ですか?この前は有り難うございました。今日、やっとお手紙出しました。昨日、一つ、大きな挑戦をやりました。それを報告したくて、今日まで返信を置いてたんです。詳しくは、手紙に書いてあるので見て下さいね。体は大丈夫ですか?ファイト!ね(^^)それから、ついこの前、一ヶ月ぶり位に銀行へ行ったら、存じ上げていない方々から、支援金が届いていたので驚きました。誰からも、口座を教えたとか、伺っていなかったから。皆さん連絡先も分かりませんし、御礼を伝えられないから、せめてここでお礼を言わせて下さい。承諾を得ていませんから、お名前と金額は伏せますね。もし、ブログを見て下さってたら、連絡下さい。 K・E様 1月11日 M・A様 1月23日 M・T様 1月28日 T・H様 1月31日フードの原料高騰で、大変だったので、本当に助かりました。(アフリカでは、小麦の高騰の為、いずれ虐殺が始まるとさえ言われています。 大変なのは、どこも同じでしょうね。バイオ燃料も、食糧から生産するのは間違いです)本当に有り難うございました。ここ最近になって、やっとカラスの被害が減って、ご飯が残るくらいになって来ました。私はずっと、前日のご飯が、少し残る量を目安にして、昔からフードを与えて来たので、ようやく元に戻って来たようです。フードを買う量も、少しですが、減らせました。まだ、それでもカラスが結構いますから、頑張ってテグスを張り直しています。
2008.02.15
昨日、とある友人からメールが来てまして、開けてみたら、1月12日に書いた、件のブログで、Aさんが、私の事で、掲示板で戦っている、と言うものでした。そこでちょっと掲示板を見てみた。するとそこのブログ、私やAさん達の書き込みがなくなってから、閑古鳥の状態になっていて、とても寂しいのか、ある方が、必死に私を槍玉に挙げて、掲示板を活気付けようと努力をしていたみたいです。それに他の方が反論して、若樹叩きが始まった所、我慢し切れなくて、Aさんが参戦・・で、管理人さんも、若樹ネタなら自分の掲示板が盛り上がると言う発想で(恐らく)で、私の事を、ブログで書いて下さってるらしいのです(見ないですけどね、自作自演ブログ、残念ですけど私は。見ないと決めたら、絶対見ない性格だから。未だに2ちゃんも、見ないですし)。ざざっと見て、すぐにAさんに対して、相手をする必要はありませんよと、申し上げたのですが、いきなり活気付いた掲示板で、次々書き込まれる内容に、どうにも我慢がならないようで、残念ながら、私が抑止力を発揮出来ません。しかし、私は件のブログは、本当に見切りを付けさせて頂いていて、コメントする気もなければ、ブログ自体の記事も、掲示板の内容も、確認する気も全くないのです。今日も行ってないですし、まだ荒れていると、連絡を受けただけです。ですので、あちらにコメントする意思はありません。でも、Aさんを何とか止めたいと考えていますので、ご本人に、直接メールしても効果を及ぼせなかった為、ブログで書きます。Aさん、もう止めましょう。私を槍玉に挙げて、Aさんが出てきてくれなかったら、閑古鳥のブログなんて(失礼)、相手にする必要ないではありませんか。Tさんご自身の日記で、議論が出来ないブログだと言う事ですから。それで、Aさんの溜飲が少しでも下がる様に、昨日ほんの少し見た、コメントに対する感想を書いておきます。私が避妊・去勢をしていないと書いていた人がいましたが、私は自分のブログで、不妊手術をしている旨を、書いていますから、あれは根も葉もない中傷です。私は避妊・去勢反対派ですが、家の様に、保護場所になって、多頭飼育する様な所は例外だと。私の意見ははあくまで、手術をするなら、卵管を縛ったり、パイプカットをしたり、或いは女の子の陰部をカバーで覆うなどして、妊娠を避ける努力の方が、人道的と書いているのです。避妊・去勢を声高に叫ぶ人に対して、私はこう言います。自分の体にしてから言いなさい、と。自分がされてイヤな事は、他人にしてはいけません。それをするなら、余程の覚悟が必要ですし、努々罪悪感を、忘れるべきではありません。だから、アメリカ人がやっている、「5ドル貰って、犬猫を避妊しよう!(州によっては、自分の犬や猫を手術に連れて行くと、5ドル辺り、ご褒美に貰える所があるのです)」の政策は、つくづく人間として、見習いたくない意識だな、と、私は思います。アホしか育ちません。それから、私を直接ご存知なくて、ブログも満足に読んでいないで批判される方々は、皆一様に、うろ覚えのマスコミの報道を元にしているみたいです。幾つかそういう書き込みも見られましたから。でも、その拠り所の報道って、実はかなり、胡乱なものです。一昨年のTBSのイブニング5の取材でね、取材班が、私に手術はしているのか、全く質問しなかったと言うのに、放送では、うちは避妊・去勢をしていない、とはっきり言い切っていて、抗議の電話をしました。手術をした、病院教えますから、確認して、訂正して下さい、って言いました。そうしたら、そんな必要はありませんと。公共の放送で、デタラメを流して、迷惑掛けて、訂正の必要ありません、です。いつぞやの北海道新聞を思い出しますが、本当にあの時はハラワタが煮えくり返りました。さすがに去年の夏の取材殺到の中で、イブニング5は直接来れませんでしたね。仕方ない事です。それからマスコミが以前、140頭の犬、って書きましたが、そんなにいません。あれは全て、家に取材に来る前に、適当に数をでっち上げて報道したんです。私のプロフィールを見て下さいね。どこに140って書いてありますか?その頃の報道、「140頭の犬放し飼い」です。だーれーが、140頭を、放し飼いにしてますか、ちょっと。で、皆さん、私の土地で、許可を出して撮影されてから、「140頭放し飼い」の文字はぴたりとなくなって、「狂犬病予防法に反対する女性・・」になった訳です。みんな柵の中で、ラブたちは、当時柵がなかった為、繋留飼いしてたから、私がいる時に、自分の土地の中で、遊ばせていましたけどね。そんな大規模の放し飼いは、全くでっち上げだった訳だから。他にも、私が捨て犬を集めているとか報道されてました。集めてませんよ~。私は捨て犬、捨て猫コレクターじゃありませんよ~。ただの一度だって、「お飼いになっている犬と猫で、いらない子がおりましたら、当方まで、ご連絡下さーい。」と、拡声器持って、車を流した事はありませんよ~。本気で勘弁して下さいよ~。何かをまさかりで、叩いてやりたくなりますからね。スイカによく似て、叩くと真っ赤な汁が飛び散る何かとか(いえ、冗談ですけど~笑)。まあ、こんな調子なので、余り報道を、信用するべきではありません。程ほどに聞いておくのが一番だと思います。最も私は、いつかマスコミの報道が、きちんと信頼出来るものに、なって欲しいと期待してはおりますが。それと、狂犬病予防法についてですが、私これも、取材に応じる時に、ブログではっきり、反対する理由と、それによって行う法律違反の刑罰を、進んで引き受ける旨を、書いていますよね。ブログと言うのは、本を買われる方と違って、文章を読むのが得意な人ばかりが見る訳ではない。だから、本当に苦労して、行間を空けたり、詳しく様々な説明を加えたりと、そういう人にも理解し易い様に、自分の決意を書いたのです。でも、書き込まれる反対意見を読んで感じた事は、「これでも分かってなーい!!」と、言う事でした。狂犬病予防法が、納得行かなくても、それを無視するのはいけない、と言う様な。いえ、だからですね、法がどうあれ、無視するのが犯罪行為に当たるのを承知していますから、敢えて無視する代償として、自分の顔と、名前を全国に明かした訳なんですよ。そして、告発を求めた訳です。つまりね、「言われるまでもない」んですわ。指摘されている事を、先回りして全てやっているのです。警察にも、自分から逮捕を願い出ていましたしね。何で分からないのでしょうか??でも、事件性がないと言う事で、結局逮捕がなくなっている模様です。ですので今、弁護士の方の力を借りて、次の行動を計画してます。何としても、動愛法を、法廷に私は持って行きたいのです。法廷は、犯罪を裁く所です。例え私が敗訴しようが、この法律が、法廷に持ち込まれる事に、大きな意義があるんです。司法と政府と市民に対し、これ以下には、一歩も引かない事を表明するのです。無理を通せば、道理が引っ込む。ずっとそうして、命を尊ぶと言う道理を、押しやって来たのでしょう。でも、ここは断じて譲りません。断じて無理に、道を譲ったりは致しません。私は戦います。憲法では、全ての人間は、己の良心を守る権利が保証されています。悪法を元に、命が簡単に殺される国に於いては、己の良心を守る為に、その法律に反対する権利が、つまり保証されているのです。私が、一切暴力的な方法に拠らず、その責任として、法的処罰を引き受けるなら、です。勿論私が勝訴すれば、法的処罰を受けるのは、尊い命を何千万も殺し続けた、国だと言う事になるのです。素晴らしいでしょう?命を無下に奪えば、罪は必ず裁かれるのです。それがこの国の掟ではないのですか?それとも、犬猫相手なら裁かれませんか。では何故、動愛法に、彼らを殺した場合の刑罰が記されているのでしょうか?私は、人に人を裁く権利があるとは思いません。その人間が善か悪か、他人が全てを知り得る事は出来ません。でも、行為が正しかったか間違っていたかー、少なくとも、それを裁く事は出来ます。にも関わらず、それを集団で圧力を掛けて、妨害しようと言うのは、人権侵害なのですよ。狂犬病予防法違反よりも、重い罪です。Aさん、もうこの辺で、お相手するのは止めましょう。新聞製作の準備をしましょうよ。昨日、デジカメ借りて来ました。印刷もね、綺麗に出ない訳が、お客様のお陰で分かりました。何とかなりそうですよ。議論よりも、行動しましょう。ネットで議論は身を結びません。このストレス社会。匿名で、言いたい放題出来る道具を与えたら、何が起きるか理の当然でしょう。まともな議論など不可能ですよ。ここ二年ほど、ネットに関わって、よく分かりました。ストレス社会に、匿名発言権は、最悪の組み合わせなのです。あなたが提案してくれた新聞を充実させ、私は少しずつ、ブログは停止して行きます。ネットではなく、現実の世界で、どんどん動いて行きたいから。例の掲示板で、誰にも返答もされず、必死に私を叩いていた人を、あなたは批判してくれていましたが、でも、相手にする程の人ではないでしょう。そうやって批判する人で、私に直接、自分のメルアド付きで、私書箱に意見を下さった人はいません。直接意見するのは怖いんですね。ですから、反若樹のブログで攻撃すれば、周りの援軍が期待出来ると思って必死に口撃を加えて来る。誰からも相手にされないから、必死になって、より過激に私を批判するのです。それで、共に私を糾弾する仲間を作って、誰かと繋がっていたいのでしょうね。それも、ストレスと、繋がりを失った社会が生んだ切望なのかも知れません。でも、私は一対一で物を言えない、公開掲示板で、味方を頼める所でなければ意見出来ない人は、相手にしません。それから最後に、あそこの掲示板で書いてる誰かが、直接北海道へ、確かめに行っては?って書いてたけど、私有地不法侵入で、写真などが、ネットに流れたらですね、当然ですけど、プライバシー侵害も加わって、刑事事件になりますよ。家は、外から伝染病を持ち込まれるのを防ぐ為、私の許可と、消毒のない立ち入りは、一切禁じていますから。人に行ってみたらと言う位なら、逮捕されて、顔と名前を日本中に晒す覚悟で、自分が来る方が、よっぽど見所ありますけどね(ほら、ネットの掲示板発の事件って、とても注目度が高いし)。私はね、嘘の「レスキュー」を書く方のブログを、見ている必要はないと思うんですよ。時間が勿体ないから。Aさん、あなたが私の為に頑張ってくれてたら、私も無視なんか出来ません。でも、あそこのブログに、こうして時間を使いたくはないのです。書かなきゃならない手紙、ブログ、溜まっています。時間がとても足りないのです。お願い、今度こそあそこはもう、無視して下さいね?このブログで、あなたの溜飲が下がってくれる事を祈っています。
2008.02.12
もう、ずっと前から、一週間のうちで、日曜日が一番辛い一日になった。働き過ぎ。その疲れが、日曜日に押し寄せる。平日は、午後から夜中まで仕事ー店は23時までだから。その緊張感が、疲労を大分遠ざけてくれる。仕事中、疲労感がない訳ではないが、元々好きな仕事の為、集中力が出て、そんなに体の疲れに、負けたりはしないのだ。それが、日曜日になると、全く体が動かない。仕事は休みと言う安心感が、今日も23時(場合によっては25時まで)まで働き切るぞと言う、緊張感が齎す気力の力を、損なわせてしまうのだ。体力は、数年前に尽きたまま。毎日が、ただ、気力と根性の勝負になっている。特にこんな、橇引きが不可欠な毎日では。日曜日は、何もかもが辛い。橇の重さも、普段の倍ほどにも感じる。足元もふらつき、中々前には進めない。4日の日曜日は、晴れのち、曇りのち、最後に雪模様。休日は、家でやりたい事が山ほどある。でも、休日こそが、最も体が過酷さに、悲鳴を上げる日でもある。いっそ、休日も仕事を夕方からでも請けようかと何度も思案する。そうすれば、緊張感が助けてくれる。気力が疲労に打ち勝ってくれる。それでも、唯一十分な睡眠を取れるのも、ただ日曜日だけなのだ。この休みを潰して、自分が春まで橇を引く体力を、維持出来るか心もとない。決心がつかないままに、もと来た道を、戻って行く。灯油が、1リットル100円にもなった今年。ガソリンも150円平均で売られる様になってしまった。バイオ燃料の供給の為に、原料のとうもろこしと、小麦粉が高騰して、子ども達のフード代が、信じられないくらいに跳ね上がった。同じく原料高騰によって、牧畜農家も、牛のご飯代の急騰に、悲鳴を上げて、JAに抗議。乳化の値上げを、僅かだか勝ち取った。家には、そんな保護措置は存在しない。子供のご飯は、一切減らしたくないから、畢竟灯油代を、限界まで削っている。山暮らし、この厳寒の時期は、薪ストーブともう一つ、小さな灯油ストーブが不可欠になる。薪は、足さなければすぐに消えてしまうのだ。寝入ってしまえば、たちまち屋内も、氷点下2桁の世界になる。その寒さの中で耐えるには、多くのエネルギーを体は必要とし、限界まで働いている、私には、その体力を供給する力がない。友人が年末に仕上げてくれた山小屋は、まだまだ隙間だらけ。雪があちこちから吹き込んで来る。この未曾有の原油と原料高の時代では、山小屋まで、灯油を買う余裕がない。命を繋いで行く為に、コタツで眠れる、寮に夕方帰って行く。早く、春が訪れるといい。人工的な世界から隔絶された、山の中で過ごす夜の一時は、至福の時間なのだから。夏の夜には、すぐ後ろの川のほとりで、ふくろうが静かに歌っていた。銀の滴降る降る周りに金の滴降る降る周りに昼間では、さほど感じられない、川を流れ去る水達の足音。海で暖められた、水蒸気達が、生涯の中の一瞬、私の目の前の川を過ぎ去る。まるで世界が雨に包まれた様に、水音が暗闇の森の中で、響き渡る。子供達は、満腹を抱えて、安らかな眠りに落ちている。私はガンディー・ジーや、キング牧師や、ショル兄妹、イスラエル兵役拒否者達の書物に溺れる。ランタンの、小さな炎を明かりにしながら。あらゆる苦労から、私を救う、最も満ち足りて、平和な時間。電気を点けて、本を読む生活は空虚なものだ。小屋で横になって、頭上に置かれた窓から、数多の星々を見ながら眠る、解放された一時。街灯の届かない、森の奥深く。車で戻る途中、耐え難い睡魔に襲われて、仮眠を取る事にした。凡そ一時間経って、目が覚めた。まだ、とても運転出来る状態じゃない。再びシートに倒れ込む。もう一時間。目覚めた時、辺りはもう薄暗く、粉雪が風に流されていた。ただ、この毎日は、過酷であるが故に、自然の最も美しい姿を、見る事が出来る毎日でもある。それが、常に私を救う。日々、苦しみを負って、日々、忍耐が打ち勝ち、日々、新たな世界を発見する。月曜日、体は前日よりも、動きが軽い。とは言え、80キロの橇引きは楽なものじゃない。橇を引きずる労苦に耐え兼ねて、歩みを止めて、空を見上げた。いつもこう。苦しくなると、自然に顔は、大空に向けられる。その目は、暫く体の苦しみに耐えかねて、硬く閉じられ、体内の虚空を彷徨っているのに。そして吸っては吐き出される、寄せては返す波の様な、正しい呼吸のリズムが取り戻されて来ると、ようやく目は、再び周囲の光を捉え始める。今日は晴天。光り輝く青空が、私の頭上に広がっている。私のすぐ横で、大きな白樺の樹が、青空を貫く様に、大地から、天に向かって立っている。幾本にも分かれた白樺の枝が、青い空に、さながら白い閃光の様に映えている。それはさながら、大地から天に向かって放たれた、雷の光。瞬間の瞬きである、美しい、剣の様な雷の光が、消える事無く青空で輝き続けている。かつてない感覚が、一度は現実に、経験してみたかった感覚が、今この身に訪れる。 時が止まった世界を見る事。時を司る神よ。私は今、過ぎ去らない時間の中で、雷光とたった二人、世界から隔絶された時間を共有している。世界は時を止めている。私達だけが、今、生きている。
2008.02.06
2月1日来年の私へ体力は確実に低下しています。今日、ようやく、橇引き快調に行きました。土曜日から始めて、今日。今は何とか、道路から2キロは車で強行して、残り2キロを歩いています。今日、やっと1時間を切りました。何と45分・・・。そう、でも覚えていますね?2007年は、橇を引いて3日で、随分ペースが上がったのでした。今年はその倍です。去年から、腰は大分曲がってしまいましたし。来年は、更に数日、体が慣れるまで掛かる事でしょう。来年のあなたが、今から365日ほど経過しただけの、私であるって事は、恐らく何かの間違いですから、体に気をつけて、頑張って下さい。心からご同情申し上げます。久しぶりに、雲一つない晴天。頭上で空が、葉を落とした冬の木立に臨まれながら、青く光り輝いていた。冬の青は、絵の具でも表せない美しさ。何としても、この腕を、その空の中に差し入れたくなる。きっと私のこの腕も、青く透き通って行くのだろう。群青色の、海とは違う。どこまでも、澄んで輝いている。呼びかけている様な、触れられる事を拒んでいるかの様な、計り知れない青の心の中。そこで偶然、空を見上げられた者だけが、得られる恍惚の時間。雲一つない夜、空を横切る天の川に、魂を奪われる瞬間の様に。ああ、ヒマラヤの、もっと深い、青い空を思い出す。空に近づけば近づく程、青は一層深みを増す。まるでそれは、あたかも天の、深遠に踏み込んで行くかの様に。川の氷の融解は、ますます進んでいた。野美ちゃんとちったんは、デビーに安全な迂回を教わって、自分で川の上を渡ってくれた。私は、川を渡ってフードを降ろした。いつも、水を汲む場所は凍っているけれど、あそこは深い。間違っても落ちたくない。カラスは更に減っていた。子供達にご飯を与え、柵の中の川が、完全に凍ってしまった「良い子達コーナー」(家には他に、問題児コーナーと、野犬コーナーの、計3つの柵がある)の子達に、水を上げる為に、ポリタンクを橇に載せて、川へ行く。ここには、人口的な穴が、川の氷の上に空いている。まさかりで、毎日穴を、氷で塞がれない様に維持している。ここから、水をタンクに汲み上げる。冷たい水に、手を入れながら、タンクを川の中へ押し込んで行く。二度、三度水中でタンクをひねらかせて、タンクを有機水で、満タンにする。それを渾身の力で引き上げる。約、20リットル入るタンクを二つ。引き上げてから、橇に載せて運ぶ。これを二回。タンクはずぶ濡れだし、川の斜面を引き上げれば、水はタンクの口からこぼれて、毎回防寒具のズボンはびっしょりになる。橇に載せて、柵の前まで来てから、タンクを下ろす時に、自分のズボンを見たら、濡れてる部分が見る間に白く変わって行く。殆ど瞬間冷凍されてる訳だ。被った水は全て、ズボンの表面で、氷になった。指で触れるとパラパラ落ちて行く。そう言えば、昨日見た天気予報で、この地域は、朝9時頃で、零下15度くらいの予想だった。20度以下なら、大して寒いとも感じなくなって来た、9年目の北海道。風の凪いだ晴天の日なら、むしろ暖かくさえ感じられる。そうか、こんなに気温は低かったのだな、と、独り言を呟いていた。水上げが終って、時間を見ると、まだ20分ほど余裕がある。うんこ掃除をするには時間が足りないし、遊んじゃおうか、と子供の柵に入る人身御供。途端に集団暴徒に襲われる。中でも強い子が、大地に引き倒されて、五体投地でうつ伏せる私に跨って、前足で私の体を抑え、他の子等を、寄せ付けない様に凛々しく威嚇する。大好きな(そうであると信じたい)ママを、独り占めする為の、可愛い仕草なのだが、その様はどうみても、さながらインパラを引き倒したライオンの姿。どうにかその子の腹の下から抜け出して、新鮮な空気を吸おうと前を見た瞬間、正面に並んでいた、ティアラかニアか若菜(多分ティ)の繰り出した、ショートパンチをまともに食らって、プライドで、負けた曙宜しく雪原にダウンした。殴られた口元が、妙に温かく、しょっぱい味がする。口元を、手で拭ってみたら、流血してた。そのまま、口の中に血を垂れ流しにしながら、零下15度の世界で子供と遊んだ。時間になって、仕事に行く時、容器に入れた水を見たら、既に氷が張っていた。柵の中の高い樹に、5~6羽のカラスがいて、空腹を抱えて、子供のフードを眺めていた。*追記・今日も残業、午前12時40分まで・・・。ふひ。
2008.02.01
1月31日川の氷は一層融けていた。真っ白に生まれ変わった川の真ん中ほどに、暗い水底を湛えた楕円形の、氷の割れ目がある。インドのゴームクを、ふと思い出した。ヒマラヤ山脈の中、ガンゴートリーの遥か上。ガンジス川の源流、大氷河・・・。氷河に開いた口。その中から、水が濁流となってほとぼしる。インドの人々は、それをゴームクー牛の口ーと呼んだ。丁度、そんな感じだった。今日は、避けては通れない。凍って、雪がしっかり積もっている所は、水底も深い。氷は全体的に薄くなっているはずだし、危険は冒したくない。フードを一つ一つ、肩に担いで、慎重に川の中に入って行く。まだ、水は増水していない。かんじきが、川底の石に滑らされる。ストックを持って、足場を定める。まだ割れていない、氷の上に、フードをよいしょと放り上げる。野美や、ちったんも、もう簡単には渡れない。犬の体重だから、遠回りしてくれれば、難なく歩いて渡れるが、子供達は、私が通った所しか、見ようとしない。片手で一人ずつ抱きかかえて、対岸へ降ろす。真冬の様な、春の到来の様な、氷を融かして現れた、暗い水底、流れる清流。カラスは未だ、諦めない。
2008.01.31
去年の分も、完成していないけれど、それはさておき今年は、記録風に、少しずつ橇引きの様子を、綴って行こうと考えています。来年も、多分引くだろうし、色々自分で、来年の参考に出来る様に・・・。1月30日朝はうっすらと雪が舞っていた。今朝は、とても暖かい。雪が降るといつも、寒さがとても和らいでくれる。まるで、繊細な雪の結晶に、大事に守られているかの様に。壊れない。柔らかい、しんとした寒さ。いつもの様に、橇に10体の、8キロ入りフードを詰めて、一人で引っ張る。この仕事、なるべく自分でやり遂げたい。男友達に手伝ってもらえば、楽は楽だが、体がそれに慣れてしまうと、いざ、一人で引かなきゃならない時に、全く無力になってしまう。いつでも、最悪の場合に備えて、自分で出来る様に、体を慣らせて鍛えておきたい。だから極力、友人を頼まないで、一人で頑張る。橇の重みにも、大分耐えられる様になって来た。とは言うものの、やはり80キロは過酷だ・・。緩い上り坂が、全く体を休ませてくれない。マイペースで前を歩く、野美とは別に、ちったんが、先に走って視界から消えたと思うと、弾丸の様に、私の元に飛んで戻って来て、一緒にまた歩く。熊が出る季節になったらどうしよう。この子達は、寮に置いて来ようか。熊は、犬を嫌うし、犬は人間より早く熊を見つける。でも、この子達が危ない目に合うより、自分一人で対処した方が賢明だろう。熊とは今まで何回も遭遇してる。私一人でも、何とかやり過ごせるだろう。でも、毎日山へ行けないと、悲しむだろうな。そんな事を、子供達の背中を見ながら、悩みながら、ゆっくりと橇を引く。それから今度は、次の吹雪の後の事を考えた。次はどれくらい積もるだろう?どっちにしても、新雪の橇引きは、半端なものじゃない。1メートルでも積もられたら、命に関わって来る。体力が尽きたら、前進も後退も叶わず、凍死するしかない。せめて、橇だけでも、楽に引く事が出来たら。ふと、閃いた。橇の下に、スキーを取り付けるのは?長いスキーなら、恐らく、決して新雪にもそうは埋まらないだろう。これは、やってみる価値がある。私が埋まるのは仕方ないが・・・。橇を、スキーを履いては引けない。今のかんじきでは、新雪なんか、空気を踏む様に埋まってしまう。スノーシュー。あれを買うか、借りるかしないと。あれなら接地面が大きく、スキーほどでなくとも、埋まりにくいはず。後から後から、悩みの種が、頭に沸き起こって来る。心が重くなると、まるで余計に、橇の重さが増した様に感じる。そうこう悩んで歩いている内に、橇引きも、終点間近。家の土地の前にある、川へと着いた。ここで、フードを、用心の為に半分に減らす。万一氷が割れたら、橇ごと流されて行く。女の力で、水の勢いに抗えるとは思えない。40キロ程度なら、耐えて引き上げる事は出来るだろうと思う。所が、とんでもない光景を目にした。何と、川の真ん中の、氷が融けてなくなっている。昨日、今日の暖気が、こんなに氷を融かしたのだ。まだ一月下旬。オホーツクでは、流氷が接岸を始めている。一番寒い時期だと思って、油断していた。長靴は、丈の高いのを履いている。この静かな流れなら、転ばない限りは、ギリギリ水の浸入は防げるはずだ。でも、出来れば渡りたくない橋。水が入ったら万事休す、下手したら足の指を、凍傷で切断されてしまう。胴長。まだまだ、買う余裕はない。何とか凌がないと。フードを一つずつ、肩に背負って川を渡る事にした。片手に、スキーのストック。万一足元の氷も割れたら、絶対に走ってはだめだ。まず、ストックで、体を支えて、体勢を維持する。それから、慎重に、川の中を歩く。川の上に踏み出して、ゆっくりと足を運んで行った。川の真ん中で、氷がミシミシと、音を立てる。慎重にー、この音なら、多分大丈夫。持ち応えるだろう。氷は、フードを背負った私の重みに耐えて、割れて水の中に落とす事もなく、私を対岸に渡してくれた。八回、慎重にそれを繰り返した。ママの帰宅を知った子供達が、大騒ぎで急き立てる。いつもは、すぐに姿が見えるのに、今日は何でこんなに時間がかかってるの?大声で訊ねて来る。色んな状況があるんだよ。簡単には家に帰れない。ママの事を、信じて待っていなさい。カラスが、いつもよりも、静かだ。ようやく全てのフードを運び、再び橇に載せて、子供達の前に着いた。休む間もなく、繋いでいる、問題児達を、次々放して、柵の中で遊ばせる。飛び跳ねて、満面の笑顔で私を見やる。何て可愛い子達だろう。ご飯をあげる前に、全員の顔を見て、調子を崩しているのがいないか、確認する。これで、やっと大きく安堵する。今日も、一日みんな、健康で平和で暮らしてくれて、有り難う。親孝行ちゃん。元気で、いい子で(柵とか破壊しないで)いてくれた日は、毎日全員、この渾名で呼んで挙げる。「親孝行ちゃん。」子供は可愛い。あの子達に関する事は、何でも「ちゃん」付けで呼んでしまう。ご飯でさえ、子供が食べるものだもの。家ではみんなに、「ご飯ちゃんは食べた?」って質問して回る。友人達に言わせると、私は親ばかではなくて、ばか親なんだそうだ。まあ、好きに笑ってくれ。愛し愛され、幸せな家族の勝ちだよ。ねえ、ママの「可愛いちゃん」達。ご飯を上げて、すぐに気がついた、カラスがいない!いや、正確にはいるのだが、近くに寄って来ないのだ。空を埋め尽くす程のカラス達。子供のご飯の、3割は最低奪われている筈だ。追い払っても、追い払ってもやって来る。いつも願う、頼む鹿撃ち。鹿を仕留めたら、残滓を少し、彼らに置いておいてやってくれ。それが許されなくなってから、大挙して、カラスが家に来る様になった。カラス対策には、頭を痛めた。一番効くのは、テグスを張るか、カラスの死体をぶら下げる事。テグスを張ると言っても、家の柵は余りに広いし、カラスを殺す事も、ちょっと出来かねる。正直、殺してやりたいくらいの横暴振りではある。殺すのは簡単な方法で済む。高い所に、農薬を混ぜたフードを置けばいい。食べたら、一羽は必ず死ぬ。それを下げておけばいい。そう、でも、出来るかそんな事が。幾ら腹が立ったって。テグスを張るにも、時間がなかった。仕方がなく、ロケット花火で応戦してた。これは無意味だ。カラスはすぐに戻って来る。子供達の方が、返ってパニックになって、柵を壊して逃げようとする。それでも、ちょっと離れただけで、カラスの大群が、フードのある地面に居並ぶ光景を見ると、思わず花火を探してしまう。少し前から、少しずつテグスを張り出した。厳寒のこの時期。灯油代だけでも捻出するのがやっとなのに、そうそう大量のテグスも買えない。少しずつ、乏しい所持金から、テグスを何とか買い溜めた。そうして、先週から、時間を見て、友人に手伝ってもらいながら、張り始めたテグスが、功を奏したらしい。カラスは、警戒して地面に降りれない。殆どのカラスは、すぐ近くで鳴いているものの、姿さえ見せなかった。注意して、張ったテグスを見ると、所々、切れて風に吹かれている。カラスがかかって、暴れたのだろう。その仲間を見て、他のカラスが警戒をした。良かった。これは本当に大きな問題だったから。これからも、極力テグスを維持しなければ。カラス達、私は、お前達も、養う余裕はないんだよ。ここには見切りをつけて、他の食べ者を探して、生き延びて行ってくれないか。新たに今日も、テグスを300メートルほど、追加して張り巡らせて、仕事に行く為、家を後にする。真っ白な雪の上に、無数のカラスが踊る光景は見られなかった。こんな毎日が続きます様に。
2008.01.30
下記訂正します。熊さん、2月は出て来ません。早いお方で、3月から出てらっしゃいます。書くつもりが忘れてました。本日クタクタで、仕事をサボりたくて、仕方のない若ちんでした。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・先週の、木曜日と金曜日に暴風雪が到来。吹雪は、弟子屈の冬の風物詩です。これがなければ冬は始まらないし、春だって陰も形も見えては来ない。私にしてみれば、橇引き開始の合図の笛の音になる訳ですが、嫌がったって、吹雪は来る。ならば、とっとと迎え撃とう。木曜日、これがこの冬、自分の家まで車で帰れた、最後の日になりました。フードは、金曜日の分まで、運び込んでおいたのです。金曜日、友人の車、RVRなら、雪道を突破出来るかも、と、一緒に山へ向かってみましたが、全く無理でした。家の家へ帰る道は二つ。普段使っているのは、山を登って行く林道。夏はいいのですが、冬は途中、吹き溜まりが、天空高く、聳えて通行一切不可。去年は、歩きでこの道を行きました。もう一本の道は、山の下を、川沿いに登って行く道。この道は、とても緩やかな上り坂が続く道です。途中に谷地が幾つもあって、泥が道を埋め尽くしてしまう為、夏場は全く車は不可。上の道と違って、アップダウンが少ないから、歩きやすいのは利点ですが、問題が二つ。1・私の土地の目の前にある、川を渡らなければならないが、橋がない(以前作ったが、去年の5月3日に流された)。2・熊さんが出る。1・2共に、いずれ劣らぬ難題です。川は、丁度浅瀬があるから、そこを歩けばいいのだけれど、幾ら浅いとは言え、この季節、氷を割って、落ちたら凍傷は100パーセント。とってもイヤ。2・熊さん。何でイヤかは説明省く。上記の理由で、金曜日、手ぶらで上の道を行きました。RVRは、林道の上り坂の上、吹き溜まりで、雪山に、家へ帰れと言われてしまった。風邪気味の友人と、犬の野美ちゃん、ちったん(ちとせ)に、吹雪で辛いから、ついて来ないで待ってなさい、と、置いて行く事にした。中々立派な吹雪だったから、念のため、4時間待って、戻らなかったらレスキュー宜しくと、言い残すのを忘れなかった。雪自体は、そんなに降らなかったけど、吹き溜まりは、60センチは軽くあって、そういう所では、太ももまで、雪に埋もりながら、前に進んだ。時々風が強まって、雪の結晶が、無数の刃物になって、顔に突き刺さる。足を止めて、ひたすら、風が弱まるのを待って前進する。氷点下7度。強風が吹き荒れて、体感温度はその倍。氷の風の中で、歩いてかいた汗が、たちまち冷え切り体温を奪う。一時間10分をかけて、戻った家では、子供達が大はしゃぎで出迎えてくれた。しばらく雪が降らなかったから、余計にはしゃいでいるみたい。ついつい母親も童心に帰ってしまう。三つの柵の子達に、ご飯を全部食べさせた後、凍った川の上で、子供と一緒に追っかけっこ。長靴スケート!!と、川を滑る私を、きゃあきゃあ言いながら、子供達が追いかける。この時点で、お店遅刻は必死だったので、残念だが、遊びは一旦切り上げて、(まだ、遊び足りないと言う柚子から、飛び蹴りを食らって吹っ飛んだ)もう一度、雪の中を歩いて帰る。さて、ようやく道路に出る坂道。みんな、退屈してだろうな・・・と、思って眺めてみたら、RVRが落っこちてました。山に登る道は、両側が斜面です。その、片側に車体が斜めに落ちてて、(崖下まで落ちた訳ではなく、斜面にずり落ちていたのです)雪に埋まってる。タイヤの跡を見ても、全然雪に振り回された形跡がない。どう見ても、自分から喜んで落ちている。野郎、必殺「後ろを見ないで雪道バック」をやりやがったな。もー、本当に、我が友の、安全確認のずさんさは、恐ろしい程なのです。運転中も、普通に助手席や、後部座席の人間の、顔を見て、話しながら運転しくさる。実はこの日の朝も、軽く埋まった時、後ろを見ないでバックしたから、叫んだばかり。で、運転手は留守で(電波が繋がらないから、公衆電話まで行っていた)、野美ちゃんとちったんは、助手席で重なって寝てました。車に何とか乗り込んで、少し待つと、友人が、JAFのジープと戻って来ました。そこで、何とか引き上げようとしたのだが、JAF、更に下に車を落とした・・・。大体ねえ、斜めに落ちてる車、坂の下から後方に引っ張って、道に引き戻せる理屈があるかい。軽だって、そのやり方で引っ張られたら、上がったって壊れるわ。牽引ロープも、掛け具が壊れ、それでも今度は前から(今さら)引っ張ってみようと、JAFが試みて、中々上がらず、夢中になって引く内に、ジープ、足場の確認を大忘れしまして、これ以上下がるなと言う、私の悲鳴も届かず下がり、埋まってしまった。・・・・・結局、JAFのお知り合いの、近所の方に、トラクターで来て頂いて、JAF共々、救出されました。車は一応無事だったと思いきや、今日になって、激しい故障が発覚しました。トラクター、かなり力任せのサルベージを敢行なさいましたし。可哀想なのは、自業自得とは言え、トラクターの稼動手当てに、車の修理費まで被った友人。これに懲りて、無謀運転の癖が、改められればいいのだけど。さて、私は土曜日から橇引き開始しました。前人未到の80キロ、雪山橇引き犬の世話。橇、動きませんでした。上の道の、最初の坂、橇がまるで、氷で固められた様に、どんなに踏ん張っても、びくともしない。諦めて、傾斜の緩い、川&熊さんが迎え撃つ、下の道を選択しました。流石にこちらなら、歯を食いしばって行けば、何とか橇も引けました。まだ、新雪なので、橇が埋まって、相当な体力を消耗します。連載途中だった「試される大地」現在進行形に、戻りました。この土地を紹介してくれたお爺さんを、昨日、お爺さんの、飲み仲間を連れて訪ねました。めぐみちゃん、まだあそこで頑張ってるのか。勿論だよ。あそこはなあ、女一人じゃ生きて行けないぞ。たかちゃん(友人)だって、いつまで手伝えるか分からんだろう。あそこで生きて行くなら、旦那さん貰うか、馬を飼え。馬飼います(即答)。結局、この先体力の衰退を考えると、馬に橇を引いて貰うのが、一番確実だそうです。スノーモービルより何より、馬が一番頼りになる。今よりもっと厳しい、開拓の北海道を生き抜いて来た人達の、教訓でした。馬は、一度歩いた道は、絶対間違えない。どんなに雪が積もって、道が分からなくなっても、馬に任せれば、必ず帰れる。犬ぞりは、訓練しなかったら、無理だけど、馬なら、手綱を引けば、一度で覚える。大自然の中で生きるには、それに対応して生きて行ける、馬の力が不可欠だそうです。もう一人のお爺さんが、めぐみちゃん、馬飼うなら、昔馬追いしてた時に使った、セズナにわらび型(??)、一式揃ってるから、全部やるよ。と。馬に、橇を引いて頂くのに、用いる道具の数々なのだそう。実は馬大好きで、千葉にいた時、厩務員の、アルバイトをした事がありました。世話なら何とかなるでしょう。今年は無理でも、来年には、馬さんをお二人、当「シリエトク(地の果て)農場」に、お迎え致したく存じます。そんな訳で、2008年冬橇毎日、スタートを切りました。
2008.01.28
PINKHEAT様、コメント欄を閉鎖するのに、タッチの差で間に合って、コメント頂きました!明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願い致します。そして、コメントを有り難うございます。実はまた、非常識なコメントが続くと思われますので、暫くコメント欄を閉鎖します。詳しい事情は、後ほど書きますね。私は、断じてコメント欄は、二度と荒らさせない方針ですので、皆様宜しくお願いします。やっと、正月明けの忙しさが終ったので、今夜中に(遅くても明日には)ブログが更新出来ると思ってます。さー、自由だ!好きな事書くぞおおお!!(^0^)/(おっと、常識の範囲でですよ♪)
2008.01.09
書きたい事が山とある。でも、眠いのです。疲れてる。今日はまだ、昼食も食べていないし。取り敢えず、まずこれだけは書かねば。週間女性自身、明日発売の号に載るはずです。取材は15日で、最初は年明けの号、って伺ってましたが、早まったみたいです。前回、今回は、取材側の目線が主役の記事です。2月の取材は、私の訴えたい事が中心になります。本当は、橇を引く間ももどかしく、今すぐ行動に移したい計画が山とある。でも、どうしてもまずは最低ラインでも生活しなきゃ。そんな訳で、山小屋の薪の準備にも追われています。子ども達の家も、もう少し何とかしたいし。時間も、何もかもが足りない。こうしてる間にも、毎日殺される子達がいます。クリスマスは平日だったから、ケーキの代わりにガスを吸わされ、処刑された子もいたでしょう。或いは薬殺で。やっと引越しもほぼ終ったし、私の山小屋も友達が、明日で完成させてくれる。まだまだやらなきゃならない事は、山積みだけど、それでもようやく整い出したこの時期に、丁度冬を迎えるのが悔しいです。これからは、橇引きにかかるから、殺処分撤廃活動の開始を、春まで待たなきゃだめか。やりながら、計画を実行に移せるか。体が持つか。明日殺される子達がいます。こんなに頑張っても救ってあげれない命。死んだら、二度と取り戻せない。その目に、二度と光は戻らない。その子達に対する思いが、私を急かさせ、急かさせて、時間が足りないのを、無力感で取り巻かれる辛さ。人生で、暇を感じた事がない。退屈を感じた事もない。時間が余ってる人達のそれを、私に分けてもらえたら。
2007.12.26
最近、犬や猫や、コンパニオン・アニマルの葬儀社で、詐欺的行為が横行しているそうです。ご遺体を受け取った後で、最初の取り決めの金額では火葬に不足だから、更に数十万を、支払うように強要されるとか・・。家人は、泣く泣く大金を、詐欺と分かって支払うそうです。心ある方でしたら、何としても、最後はお供養してあげたいですものね。その心理につけ込んだ、問題業者の被害が、加速度的に増えているそうです。業者は、ネットで依頼者を募集しているそうです。詳しくは、私は知らないのですが、きちんと企業として、運営している様子ではないのかも知れません。某マスコミでは、この問題にとても危惧を感じていて、被害者の声を集めて、問題の業者の実態に、肉迫して、不正を暴きたいと頑張っています。その、情報集めの為に、私にも今日、連絡を頂きました。私は、自分のブログ以外、情報をお願いする術がありませんので、この場を頼って、訪問者の皆様に、こうした被害に合われた方や、被害者のお知り合いの方に、もし、訴えたい事がある方がいらっしゃったら、情報提供をお願いしたいと思います。私書箱に連絡下さいましたら、情報を探しておられる、マスコミの方に仲介申し上げます。彼らは、業者を暴くために、多くの情報の、助けを借りたいと思っておられます。失われた命の、亡骸までが、人間の金欲に辱められるのは、同じ人間として、非常に耐え難い事です。どうぞ、この世に現れた命には、最後まで一歩引いて、傲慢になることをなく、尊重の精神を忘れません様に、ご遺体を辱める、業者の方の良心が、覚まされる事を信じて止みません。その為にも、彼らがその行いを、一日でも長く、社会にて放置される事がありません様に。彼らに、やってはならない事を、社会が教えて、それを止める事が出来ます様に。報復ではなく、制止の力となる為に、告発のご協力をお願い申し上げます。*この日記は、転載して下さって構いませんし、もし、大まかな内容だけでも、ブログをお持ちの方は、ご自分のブログで紹介して下さったら、幸いです。
2007.11.19
まだフジテレビの取材の報告さえ出来ていませんが・・・女性自身の記事、好評でしたようで、また更に二回、12月、2月と、取材が決定しました。12月の取材は、我々の越冬準備が中心になりますが、2月の取材は、私の訴えたい事を、中心にして下さるそうで、やりました。雪山で、橇引きながら、殺処分撤廃、命は金よりも尊いと、命の限りに訴えます。(実際、本当に八甲田山だから。)ちょっと心配なのは、ライターさん、余りの限界体験に、私の主張を忘れて、雪山橇引き体験談に転ばないかなと・・・こんな体験させちゃう訳だし。今年は全員集合だから、もっと重いなあ。去年は60キロで楽だったな(これからと比較すると)。箱根五区とかは、別にして・・・(異名を持つ坂)。今、午前中全力でやってる事、もうじき終ったら、子供達に、大祝賀パーティーを企画。この日の為に、9月、熱を押して毎日曜日、オホーツクまで行って、釣り人が捨てた、鮭を橇に入れて拾って回った。何せね、みんなイクラだけ欲しいものだから、酷いんだ、雄は全部釣って捨てるの。雌も、お腹を裂いて、捨てて行く。有名なんだ、釣りする人のマナーの悪さ。だもんで、その、捨てられる魚を拾いに行きました。重かったな。お姉ちゃん、よくそんなに乗せて引っ張れるな、と感心されたけど、冬に取った杵柄さ。帰ってから、捌くのほんとーに、大変でした。一日15人も鮭さん捌かせて頂くと、流石に血と内臓の匂いに・・・・。こうやって調理。箸でかき回す、とかのレベルじゃないの。剣先スコップ使うの。頭も大好き。栄養あるんだよねえ。有り難いなあ。アイヌの人は、「カムイ・チェップ(神の魚)」と、呼ばれたんだよねえ。こうやって開いて。内臓も全部捨てないの。骨も煮て、柔らかくして食べさせる。待ってなね~。また頼むぞ、標茶薪ストーブ1号。「合点承知!!」しかし、でけえ柵だな・・・二つ繋げたからなあ。「いや、ほんの金魚鉢だよ。(通りすがりの一息子:画面手前、尻尾のみ写り込み)」はい・・・・。
2007.11.15
お店を頂いて、独立させてもらった・・(うそ・・・)。まだ事情が飲み込めない。ケイエイシャって、何ですか、せんせい。何をしたらいいんですか。ほんとーーーに、私に店をくれてしまって、後悔しませんか。で、今日からケイエイシャになった私は、何をどうすんだろうか。(帳簿をつける?)取り敢えず、相変わらず、悪運と強運の持ち主だと、改めて痛感する。普通、何の自己資金もなく、店を誰が出せるだろう。しかも、お前が一年以上もやって来て、常連さんもついてるだろ、の、先生のお言葉通り、すでに常連さんがいる店。北原35歳、どう考えても、今まで人様から頂いたものの中で、一番高価なものを頂戴しました。クリスマスも、エイプリル・フールもまだ早いし、誕生日には遅すぎる・・。実感湧くまで、あと、二ヶ月は必要そう・・・。これまた先生談:いいか、自分の店になったらな、俺に気を使わず、体調悪い時は休んでいいんだよ。二ヶ月も熱を放っておく奴があるか。なるほど・・・・。ケイエイシャとは、そういうものなの。
2007.11.03
コメント欄、まだ一度も削除をかけていません。皆さん、私の訴えを、とてもご理解下さったみたいで、心から感謝しております。とりあえず、当分はコメント欄を、開放したまま、ブログを継続出来そうです。本当に有り難うございます。それと、週間「女性自身」に、私の取材が掲載されています。(今週号ですね)先月取材をお受け致しました。北海道は、明日発売ですが、首都圏では、もう発売されているんですね。掲載して下さった写真は、文句なしに家の、一番カワイイ連中。柚子のような、凶悪な娘達に、虐げられている私の写真も、撮って頂いていたのですが、やっぱりヤクザみたいな連中は載りません。ある意味、ああいう連中こそ、我が家の子ども達の、真骨頂なんですが、やっぱり、常識的に考えて、「犬」のカテゴリーに、納めにくい連中ですから・・。まずいですよね、週刊誌で、飼い主が犬達に、「集団暴行を受けている一般市民」のごとき、暴行を加えられている写真は・・。普段の子供達との触れ合いは、安全ヘルメットが必要です。弱冠、大自然の中で、天真爛漫にさせ過ぎている気がします。何で親の髪の毛に食いついて、グバグバ引っ張ってくれるのか、合点が行きません。遊ぶときは、周囲を子どもに囲まれますから、私の後ろに回った子は面白くない。だから、こっちを向いてと、後頭部をはたかれます。それでも首を回せないでいると、悔し紛れに全力で背中をほじくって私を苛めます。(のわわわわ!!とか、叫びます)首にまで食いついて来るやつがいます。誰であろう柚子です。私の頭をべちべち叩きながら、頭から首まで食いつきます。相手の気持ちがよくわかりません。記者さん達は、寒い雨の中、取材を本当にお疲れ様でした。家の悪童共所か、止めにご近所の、土佐犬の相手まで巻き込んでしまいました。限られた文字数の中で、私の伝えたい事も、組み入れて構成して下さって、本当に感謝しています。また、家の子ども達の、素顔以上に、可愛い写真を、本当に有り難うございます(嬉泣)。
2007.10.03
以前の日記に出てくる、「きよめだか」さん、改め麦菜さんの事でですが、ここ暫く、彼女の問題に終止符を打ちたくて、努力に説得を重ねて来ました。それこそ徹夜になった日もあります。麦菜さん問題は、私の以前の日記で、解決はしておらず、新たなブログで、またしても問題が近頃再燃し、当時の当事者であった友人達が、更なる脅迫被害などにあっていました。何とか私が仲裁に入る事になり、麦菜さんは全面的に謝罪し、それと、彼女の「ある行為」は、然るべき所が正す事になって、ようやく事は収束に向かって行ったのですが・・。残念な事に、一気に風向きが元の方へ向いてしまいました。またしても、HN入り乱れての、誹謗中傷が起こり始めています。私はもう、本当にうんざりしました。後、1、2回報告して、それで周囲の熱が冷えるのを、待てばいいだけだったのに。どうして彼女の、怪物並の幼児性を理解しながら、大人の対応を迫るのか。何の為に、私は彼女からの電話を、ジンマシンを出してまで、受けて反省を促したのか。何もしていない人間達が、「それじゃ納得いかない」の、一点張り・・。もう、匿名の書き込みを相手にするのもくたびれました。ネットにも、失望しました。色んな事に、失望しました。私のブログとは、既に関係のないことです・・・。でも、もう、あの、無意味なやり取りを、友人のブログで、さっき一瞬でも繰り返した時、最後の気力が萎えました。もう、閉鎖する訳ですから、コメント欄も解放します。コメントをご覧になったら、私が疲れた理由も、分かって頂けるかも知れません。返信は、しない方針ですから、どうぞご了承下さい。後、数回、約束してた、自分のブログを載せます。麦菜さんの報告もして、それで終わりにします。一年以上、有り難うございました。若樹
2007.09.08
必死の努力も水の泡。後、幾つか更新をしたら、ブログを閉鎖したいと思います。疲れました。
2007.09.08
疲れた。
2007.09.08
テレビ、新聞等で、私が騒がれ出してから、私に対して、様々な方から、ほぼ同様の質問を頂いています。楽天の私書箱や、ヤフーのゲストブック、それから友人のコメント欄まで。そうした事に、出来るだけ丁寧に、詳細に説明しようと、18日の日記でお約束して以来、根詰めて、数回に分けないと、掲載出来ない量の説明を書き溜めているのですが、ちょっと無理し過ぎて、昨日から心臓に問題が起きています。一日も早く、と気負ってる結果でもありますので、まず、皆さんに、お待たせしている事について、お詫びして、少し精神的に、ゆとりを頂こうと思いました。「倫理の進化」の、社会問題関係の日記は、実は書く事自体が、自分にとって、壮絶なストレスと、プレッシャーとの闘いでした。去年、これを始めてから直に、こうした問題を、社会に提起する為に問い詰めて、書く、と言う行為は、自分の命を削る事だと理解しました。重いテーマを、とことんまで突き詰めて、書く為、文章を作っている間は、凄まじい緊張状態になって、全身の筋肉が強張り続け、結果心臓にいつも、大きな負担を与えてしまうのです。自分の感性で、自然に理解している事を、正反対の社会観を持つ人々に、どう説明し、どう表現するか、どこから、問題の核に筋を誘導して行ったらいいか、喩えはどれを、今回の中心を、犬猫にするか、自然観にするか、宗教と人類史から行こうか。この時点で、心臓が緊張にガチガチになっています。触れるテーマが、余りに重いからです。「生命礼賛」の日記みたいに、自分の神経を無限に解放して、感性のままに綴るなら、心身共に、最もいい状態になれるのですが・・。重いテーマは、どうしても、書き手にとって、(読み手も無論でしょうが)壮絶なストレスになります。今回作ってる、次の日記は、これまでで最大のストレスが生じています。今日、手直しに耐えれれば更新出来ますが、過去10年の、心臓の苦しさで、最も自分で危険を感じる状態ですので、落ち着くまで、数日完全に、作成中の文を放置したいと思います。お約束している方たちに、毎日申し訳なく思っていたので、そのお詫びを先にして、心の荷物を減らしてから、養生に入りたいと思いました。お待たせしていて、申し訳ありません。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・イラン・レズビアンに送還・処刑の危機 Locus が共同代表をしてます団体 「アクエリアス」のほうからの連絡です。 3分あれば出来るアクションです。 レズビアンがイランへ強制送還=鞭打ちや石打ちで死刑、という 事態をとめるためのネット署名(英語)はこちらから。 1分あればすぐ出来ます。 是非とも皆さんの協力をお願いします。 http://www.petitiononline.com/pegah/petition-sign.html 転載歓迎なので、もしよかったら知り合いの方々へ 転送してくださると助かります。下の告知もコピペOKです。 *************************************************** 【緊急コクチ】 たくさんの方々にひろめてください。 28日火曜日まで目が離せません。 ーー以下記事要約/転送歓迎ーー ペガー・エマンバシュクさん、イラン人女性、40歳。 2005年にイランを脱出し、イギリスで難民申請をしたが、 それが認められずにあと数日で故郷のイランに 強制送還されようとしている。 彼女は、レズビアン。レズビアンであるということは、 イスラム法の下、イランでは死を意味する。 石打ちの刑に処されることもある。 殺される確率が高いとわかっていて、 彼女をこのまま強制送還させていいのか。 国際難民法の述べる難民の定義を引用するが、 「…人種、宗教、国籍もしくは特定の社会的集団の 構成員であるということ又は政治的意見を理由に 迫害をうけるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を 有するために国籍国の外にいる者」(難民条約第1条)とは、 彼女のことではないのか。 彼女の強制送還は、国による殺人である。 これは許しがたい犯罪であり、人命の冒涜だ。 国際社会は黙って見すごしていけない。 ペガーさんのために一人一人のアクションを求めたい。 【英語サイト】 インディーメディア: http://www.indymedia.org.uk/en/2007/08/379580.html シェフィールドのメディア: http://www.indymedia.org.uk/en/regions/sheffield/2007/08/378415.html ネット署名(英語): http://www.petitiononline.com/pegah/petition-sign.html 【日本語訳ブログ】: http://pega-must-stay.cocolog-nifty.com/blog/ ※記事は刻一刻と更新されて、新しい記事が出ていますので、 トップから別の記事も見られます。 *************************************************** フォーラムアクエリアス 宮原純平 公式サイト(国会議員アンケート公開中) http://members.aol.com/rainbowfrontier/
2007.08.28
楽天で、生まれて初めてブログと言うものを始めて、今日で丁度一年が過ぎました。ここまで続けられたのは、一重に皆様のお陰・・と言ったら、どうだろう、と自分でも思います。以前ここに来られる、多くの方のお陰で、友人達から、散々、ブログを閉めてと言われ続けていました。でも、あの件に関して、私は一切嘘もついておらず、幾らでも証明出来た事だったので、こんな事で、潰れてたまるかと、必死で続けて来ました。「倫理の進化」は、最初の頃説明したように、自分の子供達の生活記録や、支援金募集のブログではなく、尊い命達の為の、社会活動の一つとして始めたものだから、これを妨害にあった位で、簡単に止めたりする事は、その命達に対する、裏切り行為になる様な思いを感じてました。私の場合、一度決意して始めた事は、どんな妨害に合っても、初志貫徹。妨害や予期せぬ事態では、決して揺らがさせないし、諦めない。逆に初志を貫く為、あらゆる不足の事態に対処し、或いはひたすらに耐え、目的を達成させる事。それが、何かを決断して、行動した時の自分の信条です。今回も、狂犬病予防法に関して、殺処分を止める為、自分なりに考えて、決意し、あらゆる批判や社会的制裁を覚悟し、始めた行動。家の子達が行政に捕まった途端、友人達からも、前回の時の様に、それを止め、違う方法で対処しようと、沢山意見を頂きました。それでも、私は根本的に決めた事は、絶対翻さないと断言しました。そんな頑なな私に呆れ果て、縁を切ってしまった友人もいれば、頑固な人間だと、諦めて友達のままいてくれる人達もいます。しかし、何か行動を始めれば、障害にぶつかるのは当たり前の事。その度に、障害を避けて通っていたら、どんどん目的からは遠のいて行き、結局何も成し遂げられないと思います。子供の頃から、一途に続けてきた保護活動。今、やっと世間に向けて、「こんな悪法は、私は市民として従えない。」と、宣言出来る時を迎え、「一念岩をも通す」の言葉を、心から噛み締めています。私のごとき、ごく普通の、一介の凡人が、一つの事を、どんな苦労や障害があっても、諦めず続けて来た結果、まだ、事情聴取も受けていない内から、驚く程の報道陣がいらして、私と言う人間がいる事を、その一部でも、日本中に伝えてくれました。正しくない報道もありますが、それも負わねばならない、リスクの内です。中卒の、何の社会的地位もない、ただの一介の凡人です。信念を持ち、自分の人生をそれに賭け。初志貫徹したまま、捕まった子供も、全員無事に取り戻す事、(有は恐らく近くまで来ていて、ただこの近辺に近づく事を警戒してるのでは、と、友人と話していますが)今は、それに全力を尽くしています。標茶町には、昨日までに、先に捕まって、野犬として里親募集にかけられた、二人の子に対して、本物の飼い主として、再度引き取る為、里親応募と、町長に対する、凄まじく長い、抗議と、提案と、返還がなされなかった時の、私の覚悟を文書にして提出し、家の敷地に無断で入った子に関しては、標茶町も譲歩の姿勢と見なせるものは打ち出し、返還に関して、双方が納得の行く契約での上で、と言う事で、役場で草稿を作成中です。弟子屈役場とは、あちらのご都合もあって、火曜日に、返還に向けての話し合いを持ちます。もう、前の土地から、13人の子供は移動させました。毎日、午前中に少しずつ。新しい土地で、まだまだ神経質になっていますが、森の木陰と、小川は、とても気に入ってくれたみたいです。標茶町長への、長文文書を、毎日仕事が終わってから、午前2時頃まで綴って、それから山へ帰宅。川音を聞きながら、天井の覆いを取って、星空を眺めて眠りにつくのは素晴らしいですが、3時半に寝たと言うのに、毎日7時半に起こされて、さすがに昨日は帰れなかった・・。仕事が終わってから、小上がりでふらふら倒れ、目を覚ましたら、朝の4時・・。電気を消して、そのまま小上がりで寝続けました。今夜はちゃんと帰れそうです。私の事情聴取は、もう少し先になりそうなので、この間に、全員の引越しと、残った柵の移動を済まそうと、仲間と頑張っています。このブログが、社会にとって必要なのか、尊い命の役に、ほんの僅かでも役立っているのか、最近は、疑問に感じる事の方が、正直多いです。しかし今はまだ、受け入れられなくても、書くべき事があるんです。少なくとも、私には・・。毎日、仕事の合間に次の更新記事を、少しずつ書いています。なるべく早く、次の更新をしたいと頑張っています。でも、ブログを始めて、応援くださる方たちにも、沢山知り合う事が出来ました。それは本当に想像以上の喜びで、まだ、続けて行く事、無駄ではない、と思っています。そんな訳で、まだ暫く、宜しくお願い致します。野犬掃討期間も、今回はようやく今日で終わり。ちょっと精神的にも、落ち着きを取れそうです。囚われた子達の返還と、残りの子の引越し、その他、最初の予定通りの悪法反対、そして毎日の子どもの世話と仕事、それからブログ・・。頑張って行きます。
2007.08.24
知る人ぞ知る、今回の報道について書きます。しばらく前から、役場の方から、狂犬病予防注射を、うちがしていない事について、改善勧告がされていました。同時に、全体としては少数ですが、柵に閉じ込められる事に耐えられず、どうしても自由でいたい、数人の犬達の放し飼いについて。こうした問題を基に、私は役場と様々な意見を交し合って来ました。概ね有意義な話し合いだったと自認しています。しかしどこまで行っても、結局はアニマを、この社会の中で、どう位置つけるかを、解決する事が出来なかったのです。私は幾度も、「動物の愛護及び管理に関する法律」並びに、「狂犬病予防法」は、悪法だと訴えました。役場の方にとっても、客観的に見て、この法律に問題がある事は認められても、行政である以上、それを曲げる事は出来ないと。私は、この法律を違法として、告訴したい考えでした。役場の方も、市民の権利として、理解を下さいました。しかし、調べた所、こうした問題で国を訴える事は出来ず、結局私は、自分が告訴されて、法廷に持ち込まれる事を望みました。そうなると、逮捕や拘留も出て参ります。最大で三ヶ月の拘留があると、弁護士先生からご心配を受けました。国に、狂犬病予防法などで、犬や猫を殺すのは間違っている、と言う為です。どんなリスクも引き受けます。その為に、敢えて、注射すれば解決する、予防接種を拒否しました。その先の問題を、司法の場に持ち出す為です。犬達の事はご心配なく。万事手を打ってあります。心配なのは、お店だけ。拘留が長引いた場合、代わりの人が必要です。手伝ってくれる方が、見つかるように祈っています。私のブログですが、以前からご存知の方は、よくご理解されていますが、「荒れました」。で、本当に書きたかった事を、ヤフーに新しいブログを作って、抜粋して掲載を始めています。新しい読者の方には、そちら読んで頂いた方が、私の趣旨がよく、ご理解して頂けると思います。アドレスは、http://blogs.yhoo.co.jp/wakagi1972です。タイトルも、変わらず倫理の進化。よろしくお願いします。楽天ブログもこのまま継続します。今回、新聞やテレビ報道によって、心配下さって、すぐに応援のお電話を下さった、お客様方、並びに、お店に与える影響よりも、マスコミに追い回され、私の神経が壊れる事を案じて、いち早くお電話下さった先生。私事で、ご迷惑を掛けて、本当に申し訳ありませんでした。心の底から、感謝しております。
2007.07.19
そして一人切りの月曜日がやってきた。友人と相談して、引越しが間に合わず、まだ前の所にいる子供達は、友人が世話を、仕事の後に受け持ってくれる事になった。私は、仕事が始まる一時までに、道路から約4キロ入る、山奥で待つ、子供の世話を担当する。夜中まで働いている人間としては、早朝からの肉体労働は、冗談では済まない辛さがある。それでも七時前には起きて、時間をかけて、体を準備させる。何よりもまず、強心剤を飲んで、激務に備える。少しずつ、血行が良くなって来ると、朝食を食べて、防寒着に身を包む。二月の朝、戸外はまだ、零下20度近くある。ダイヤモンドダストが、大気に煌いて、一面を光で飾る。車の施錠を解いて、ドアを開けようとしても、全く開かない。水分が凍って、ドアを固めてしまっている。仕方ないので、何度かドアに、体当たりをして、氷を剥がす。エンジンをかけて、真っ白に凍った車のガラスを見つめる。ヒーターを最強にして、フロントガラスに暖気を当てる。暖風が氷を溶かすのを待っていたら、時間がかかり過ぎるから、プラスティックの氷削りで、全てのガラスの氷を削り取る。やっとの事で、車に乗り込んだ。圧雪アイスバーンとなった道を、そろそろと車を滑らせて行く。4WDの軽ワゴンは、運転手の慎重な運転に、確かな足取りで応えて、山を目指して行く。朝の眩い光に守られながら、野良猫達が、通りに出てきて体を伸ばしている。昨日は零下25度を下回った事だろう。彼らの強さに驚嘆し、畏敬の眼差しで猫達を見つめた。冷たい大気の中、樹々が樹氷で真っ白に変貌している。遠目に見れば、無数の枝が、真っ白な美しい花を咲かせているようだ。この寒さは耐え難いが、幾度見ても、樹氷の美しさは幻想的で、慎ましく、この世に引き止め難い神秘のようだ。その美しさは、ダイヤモンドダストを遥かに凌ぐ。厳寒の朝にしか現れない、氷雪の芸術。これが現実でなく、映像の中でならな、そう弱気が、零下20度の幻想の景色を皮肉る。そして車は、彼が進める限界まで行って、ここから先は、人間の器用に作られた足しか行けないよ。そう言って、私を山の登り口で降ろした。今回は、友人からスキーのストックを貰って来た。吹雪から三日も過ぎれば、新雪は大分凍って固くなっている。多少は踏み固めれもしたし。これならかんじきでも埋まるまい、と、再度長靴の上から、竹に張り巡らされた、蜘蛛の巣のような、かんじきを足に縛り付けた。ドッグフードを60キロ、赤い橇に積み込んで、坂道で落ちないように、ゴムロープで、固定する。橇の紐を腰に回す。それから、不慣れな手付きで、ストックを握った。北国に来て、八年近くなるが、未だにスキーもスケートも出来ない。最もスキーは、環境破壊と言う点で、スキー場に反対している人間だから、今後も滑れる様にはならないだろう。ストックを持った両手に力を込めて、ストックを白い大地に突き刺し、それを軸に、腰に繋げた橇を引こうとする・・・。橇は全く動かなかった。ストックを置いて、両手で引っ張ってみると、橇は静かに滑り出す。足腰の力が足りないのだ。ストックを軸に前に進むには、足腰だけで、橇を引く筋力が必要だ。全くそれがない。溜め息をついて、ストックを車に預けた。子供たちの所まで、後ろ手に、橇を引いて歩くしかない。特別待遇で、寮に来ている子供達が、私が橇を引く横で駆け回る。まだ小さくて、雪に阻まれ、橇に追いつけない子供を、橇に乗せて歩き出した。子供は橇の上で、フードにしがみ付いている。道はしばらく上り坂。たちまち心臓と、足腰が悲鳴を上げ始める。かんじきは、雪の上を歩いたり、踏み抜いて、私の足を落としたりと奮戦している。歩きにくく、足のバランスが悪い為、故障のある、右側のかんじきばかりがほどける。十数歩歩く度に、かんじきの紐を結び直す。上り坂の途中では、立ち止まっても休憩はない。橇が下へ向かって滑り落ちようともがくから。既に激しく息切れする、呼吸を回復させようと努めながら、青い空を見上げた。澄んだ青。でも、私の心は、ネット被害に参らせられていて、その青さを拒絶している。何者も私の心を晴らさない。インドで見た、あのヒマラヤ山脈の頭上にある、陶酔する様な、深い無限の青空だったらどうだろう?私は悩みを忘れるだろうか。かんじきを結び直し、また橇を引いて歩き始める。目は、このきつい上り坂の終点に注がれている。登りきった坂と、青い空が雪の地平線で地上と大空を分ける場所。あそこから先は、平坦な道がしばらく続く。心臓が胸の中で跳ね回る。まるでロデオの暴れ馬の様に。厳寒の冬の朝、汗が体を滴り落ちる。不安に包まれ、その汗から逃げたいと思う。帰り道には、この汗が濡らした下着が、私を凍えさせるだろう。橇を引く肩から、力が序々に抜けて行く。指先でかろうじて橇を引き止める。どこの運動部の強化合宿だろうな。こんな特訓を続けたら、余程筋力がある選手が育つだろうに。もう、坂の上も見れない。体は90度に折れ曲がっている。二つの眼の正面には、白い大地がある。昔、祖母が戦時中、伊豆に疎開した際、慣れない山道を歩くのに、いつも呟いていたと言う、子供の頃によく聞かされた文句が頭に甦る。「もう少し、もう少し、まだまだ、まだまだ・・・。」今や体力は限界を超え、私の顔は、自分の膝にくっつかんばかりだ。体が二つに折れ曲がる。必要以上に力む為か、雪が何度も、足を捉え、私を深く落としてしまう。這うようにして、足を引き抜き、体勢を直す。落ちる度に、かんじきの紐が緩み、私の右足が安定を失う。軍手を何度も外して、再び紐を締め直す。僅かな距離で、もう何回締め直しただろうか。明日には、別の紐を買って、もっと足が固定できる様に、改良しなくてはならない。耳に聞こえるのは、山を吹き抜ける風の音と、激しい自分の呼吸。最後の坂は急過ぎて、立ち止まるのも叶わない。一歩、また一歩、顔を苦悶に歪ませて、歯を食いしばって、坂道を登る。そして不意に、片足が坂の頂上を踏みしめた。目の前に、急に新たな景色が開ける。山の奥へ続く道が見える。肩で危険なほどの呼吸を示しながら、腰と両腕に、ぶら下る様な、60キロのフードの重みを、背中で感じる。歯を食いしばって、最後の傾斜を、橇に越えさせる。橇が坂を越えた瞬間、力尽きて、うつ伏せに倒れ込んだ。雪が火照った顔を急速に冷やす。全身汗でびしょ濡れだ。果たして最後まで持つんだろうか。この後には、夜中まで10時間、自分の仕事が待っていると言うのに。体を横たえて時計を見た。うかうかしていられない。ポケットから、チョコレートの包み紙を取り出して、口の中に放り込んだ。前日、心配しているブログ仲間から、「チョコレートなどの甘味は、忘れず持って行って。」と、メールを貰った。念を押されなかったら、忘れていた事だろう。今や糖分が、最後の体力を左右する訳だ。酒飲みだから、甘いものは不得手なんて、言ってはいられないな、と、戒めた。軍手を外して、真っ白い雪を一掬い手に取った。口の中にそれを押し込む。あっと言う間に、六角の結晶が、口の中で水滴に変わる。軍手を再び嵌めて、気合を込めて立ち上がる。ここから後、3キロ程だろうか?私が休憩している間、子供達が橇の近くで、遊びまわっていた。仰向けになって、体を雪にこすりつけて、声をあげて喜んでいる。そろそろ行くよ。少し顔をほころばせながら、子供達に呼び掛けた。ブログの性格上、哲学や思想に興味ある方々に、ご一読願いたいと、哲学ブログに登録しています。クリック頂けたら幸いです。
2007.06.29
(一ヶ月以上前の日記の続編です。m(__)m)新しい土地を買って、犬たちを引越しさせているのだが、それに伴う最大の問題は、冬場、山奥にある土地までの、林道の確保をどうするか、と言う事だった。道東は、北海道でも、比較的雪が少ない。それでも、多い所では、数メートルは積もる。前の土地は、近所の人に除雪をお願いしていたが、今度はそんな知り合いもいない。しかも、前の借地は、道路から、たった1キロ弱しか山へ入っていなかったが、今度の土地は、約4キロも奥に入る。おいそれと、除雪を頼める距離じゃない。6月、新たな引越し先に、ここを選んでしまった特から、この問題は、ずっと私の悩みの種だった。この場所を紹介してくれたお爺さんは、「タイヤショベルの小さい中古の品を買え」と言う。タイヤなら、多少の雪は踏んで行ける。ここの土地の「開拓」(私は引越しと呼んでいたが)を手伝ってくれた、隣町に住む、私の「神様」と呼ばれる男性は、「ここは谷地が多い、はまったらタイヤなんて抜け出せない。タイヤが落ちたら、誰にも助けられないぞ。」と、反対する。では、スノーモービルか。それも埋まったら、女の力じゃ絶対出せない。じゃあ、業者に頼んで、雪が積もる度に、除雪を依頼するか・・。一体、それぞれ、予算は幾らかかる?私は子供の食費が精一杯で、少しも余裕がない。ローンにしても、払える余裕がなければ組めない。さて、どうするか。この頃は、ネット被害にあっている真っ最中で、私の住んでいる町まで、ネットに書かれて公表されていて、全く精神的な余裕がなかった。結局、最悪の状態が現実になるまで、私の集中力は、この問題に絞る事が出来なかった。そしてとうとうその日が来た。その冬初めての吹雪。道は所々通行止め。開通を待って、我が子の所に駆けつけると、道を無常な白い悪魔が埋め尽くしていて、母と子供を引き裂いていた。最も少ない予算で、問題を解決する為に、私は自分でタイヤショベルをレンタルする事に決めた。そして、最初の雪は、友人達に協力されながら、何とか自力で道を開通した。その次の吹雪は、もっと本格的なものだった。雪の量は、この前のざっと三倍。その時でさえ、除雪に丸二日を要した。今回の雪を除雪しようとしたら、単純計算でも一週間はかかるだろう。最終的には、人力しか手段が無い事も覚悟していた。大きな橇に、60キロのフードを載せて、雪を踏みしめながら子供達の所まで引いて行く。なるべくなら、現実にならないで欲しかった事態だが、こうなっては命懸けで取り組むしかない。まず、ホームセンターに駆け込んで、橇とかんじきを買い求めた。山へ入る、道路の入り口に車を入れて、フードを橇に載せて、長靴の上から慣れない手つきでかんじきを履く。零下15度の風が吹きすさぶ。手は一瞬で感覚をなくし、かんじきの紐を持て余した。息を吹きかけて、手に血行を戻させて、何とか縛る。橇の紐を腰に回して、地吹雪の中を進もうとした。しかし、雪が深くて全くかんじきが役に立たない。かんじきを履いた足が、膝まで一歩一歩埋まってしまう。こんな状態で進んでいたら、力尽きたらそこで動けなくなる。戻る事も、進む事も出来ず、確実に冷凍死体になる。(こんな感じ)かんじきでダメなら、他の手段を探すしかない。以前使った事がある、歩行用の長靴スキー。あれなら絶対に埋まらないだろう。どこか、リサイクルショップに埋もれているかも知れない。私は車に急いで戻り、アドレナリン全開で寮に戻った。子供が心配でたまらなかった。寮に戻るや、タウンページを開いて、近隣のリサイクルショップを片端から電話して回った。でも、どこにもなかった。古き良き昭和の遺産。今では幻のスキーになってしまっていた。しかたなく、クロスカントリースキーを電話で探した。あれなら歩行用のスキーだし、埋まる事もないだろう。それが、リサイクルショップに全くなかった。クロカン用のスキーは、殆ど出ないのだと言う。買うなら新品を買うしかない。でも、その余裕がなかった。雪山の奥に取り残された、自分の子供を思って、心配でヒステリーを起こしそうになっていた。何か方法はないかと、頭が秒速で良案を探し回る。突如閃いた。私がこの町で、引越し先を探す為、長逗留した、あるとほ宿(一人旅が多く利用する、相部屋制の、宿泊所。ユースホステルの様なもの)、あそこに宿泊者の為に、クロカンスキーが置いてあった筈!!すぐにそこのオーナーに電話した。今、誰も使っていないから、貸してあげるよと言われ、地吹雪の中を車で飛んで行った。こちらの状況を説明して、クロカンを借りようとしたら、オーナーが状況を理解して、難色を示した。あのね、クロカンは実は、新雪に弱いんだ。かなり埋まるし、そうなると、この長い板が、互いに先端を踏み合って、全く身動き取れなくなる。かんじきでダメだったら、大き目のスノーシュー(洋風かんじき)を貸してあげるから、それを履いて行ってごらん。貸し出されたスノーシューは、今朝買ったかんじきの四倍はある。履いてみて、新雪を歩いてみたが、確かに埋まらず、これを拝借する事にして、再び山に向かって行った。そして再度、フードを橇に載せ、山への進軍を試みた。しかし、この大きいスノーシューは、新雪には全く埋まらなかったものの、たちまち私の体の過負荷となった。男物の大きなスノーシューは、女の私では、橇を引いて履きこなす体力がないのだ。いわんや利き足に、事故で障害を負ってしまった私では、この重さのスノーシューは、体に鎧をつけて歩く事に等しかった。結局、断念する他なかった。男友達が、仕事を終えるのを待って、助けを求めた。その友人は、多少の苦労はあれど、何とか橇を運び通し、子供の所に行ってくれた。この時は、私が吹雪を警戒して、事前にフードを多めに運んでおいた為、実質友人が運んだフードは30キロだった。これは無理だぞ、と友人が語った。男の力でも、30キロが限界だ。まして女のお前じゃ、絶対無理だ、と。でも、無理とか可能とかの判断なんか無意味だった。山の奥には、私の命よりも大切な子供がいる。何としても、自分でやらなければ。まして、子供達の唯一の親である、私が途中で死なない様に。翌日、現状打破の為、二人で分かれて雪に挑んだ。スノーシューで歩ける友人は、橇でフードを運んで、子供の所へ向かい、私は何と、角スコップで、人力除雪を始めた。以前の土地では、相当自分で除雪して、道を開けたものだった。それこそ一番雪が深かった時は、「立山黒部アルペンルート」と、自ら命名する、雪の壁に挟まれた道を作った。犬が雪で埋まった柵から逃げない様に、柵の周りもずっと自分で掘っていた。やって出来ない事もないだろう。人が一人、橇を引いて歩ける道幅があればいい。子供のご飯あげを友人に任せ、私は一人で道をつけて行った。数百メートル掘った所で、夕方近くなり、友人が戻って来た。無理じゃないか、と言われた。あの、一番酷かった所は、まだ先かい?と聞くと、まあ、もう少しだけど、とても人力じゃ・・・。と、言葉を濁らせる。そろそろ体力も限界だし、今日は一応、これで終ろうという事になった。翌日友人が、この二日で、大分雪を踏み固めたから、取りあえず歩きで行ってみようと、提案した。二人でフードを、30キロずつ手で運んでみる事にした。何故なら新雪で、橇を引いても、埋まってばかりで、返って体力を消耗したからだ。最大の問題は、橇引きに不慣れな事だった。歩こうにも、橇を引いて前に進めない。しかし、担いで運搬と言うこれも、無謀の極致と言った行動で、体力のない私は、結局新雪に埋まりに埋まり、持病の喘息との闘いまで受けて立たねばならない事になった。最も深い所ー、この前の除雪で、一番苦労した所だ。そこは一夜にして別世界になっていた。雪が牧草地を吹き抜けて、一段低い林道を完全に埋め尽くし、その深さは、ゆうに私の身長を超えていた。2メートル?3メートル近いだろうか?ここまで積もる場所だったのか。私はそこを越える時、余りに雪に埋まってしまって、左の親指を凍傷にかけてしまった。何をしても感覚が戻らない。噛んでみても、痛みが分からない。仕方ないか、と諦めた。雪ですでにずぶぬれの軍手をはめ直し、またフードを担いで、雪に苦しめられながら、一歩一歩進んで行った。体力のある友人が先に行って、フードを運び終わり、もたついている、私の分を手伝ってくれた。今日はまだいい。私は思った。今日はまだ、友人が休みだった。明日から、また友人の休みの土曜日までは、一人でやり通さなければならなくなる。出来るだろうか?三日ぶりに子供の顔を見て、安堵が心を隅々まで満たしてくれた。母親を見て、興奮で泣き喚く子供達。渾身の力で私の所に飛び込んで来る。どんなにかこの子達を愛している事か。明日も来るから。どんな事をしても。ブログの性格上、哲学や思想に関心がある方達にも一読頂きたく、哲学ブログに登録しています。クリック頂けたら幸いです。
2007.06.27
五月の下旬から、新しい土地に、自分の仮住まいを建てていて、ようやく昨日完成しました。まず、鉄パイプを組み合わせて、骨組みを作ります。それから、土を均して床作り(ここら辺は、殆ど友人一人でやってた)頑丈なテントを、無理やりかけて、完成です。引っ越したら、時間を見つけて窓を作ります。窓にしたい所を、切り取って、そこにビニールシートを、コーキングで止めるだけ。テントの横には、こんな渓流を見下ろせます。・・・河馬がいますね・・・。今は、若葉が見る間に成長して、毎日見とれる程に、美しい緑が戻って来ました。・・・・・・・・・・・。そうそう、綺麗、綺麗。丘に上がってくんな、河馬・・・・。と言う事で、来週の日曜日に、寮の犬達と共に、山へ帰ります。去年、前の土地を追い出される事になってから、ショックで体を壊し、それからずっと、町に身を置いて、山へ通う生活でした。でも、電気、ガス、水道、パソコン完備の住宅って、ノイローゼになりそうでした。地球にいて、地球ではない、隔離された空間にいる気がするのです。山に戻ると、確かに地球にいると分かって、安堵に包まれます。例え、どんな厳しい世界でも、自分が存在出来る世界です。私は、文明が作った、如何なる物からも生まれていません。私は、機械やコンクリートから生まれていません。テレビやパソコンは、私の兄弟姉妹ではないから。蛍光灯やガステーブルや、エアコンも、私と共に、土に還れる仲間じゃない。この子達は、みんな私と同じ、土と水で出来た命。理屈を超えて、体の細胞が、流れる血液が、同じ生体を求めるのです。命を、分かち合えない機械ではなくて。山には本物の地球がある。昨日、寝袋と、大きなランタンを買いました。ランプの暮らしに、また戻れるのが、言葉にならない程に嬉しい。みなさんも、人工的な、砂上の楼閣みたいな町から出て、地球に生還しませんか?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ちょっとご報告。実は私は、ブログ村のランキングの仕組みを、つい数日前まで知りませんでした。バナーを貼ったのも、哲学に興味ある人が、楽しめればと思ったもので。ところがバナーを貼ってから、何故だかいきなりこのブログが、ランキングに入っています。アクセスのカウント数も、楽天のとは一致しないし、変だなーと、ぽちぽち押して調べてみたら、何の事はない、バナーがクリックされたら、カウントされるんですか。これまで、友人のブログで、バナーを押してとコメントがあって、押しても、彼女の投票枠が出てこないから、困惑して、戻って来てたのですよ。そうゆう事だったんですね!!「・・・・・・・。」どうしました、パムちゃん?「おかーさん、パムは、それは告白せんでいいのではないかと思うのです。」大丈夫です。未だに、ビデオのタイマー録画も出来ないママです。この程度は、不名誉に値しません。「・・・・・・・・・・・・・・。」元々ブログ村の哲学ブログは、楽天に、哲学ジャンルがない為、ペットブログに登録されているので、哲学に興味ある人に、読んで頂きたくて、参加しました。参加してから、10ヶ月近く経って、ようやく読んで頂く方法が分かりました。(パムちゃん、突っ込まない!!)哲学に関心がある方の、読者に増えて頂く為、これからクリックして頂けると、心から有難く思います。
2007.06.11
5月21日の夜、私はワインを一本半空けて、睡眠薬を一箱飲んで、自分の人生に幕を降ろそうとした。ただ、ほんの少し眠ればいい。この程度の薬で死ねるとは、端から思っていなかった。この時期の北海道は、まだまだ春の始まりで、夜は事に冷える。実際、一昨日の20日、ここでは朝方雪が降った。だから、酒を飲んで、薬を効かせ、戸外で深く寝てしまえば、それで全てが終われる訳だ。所が、前回に続き、今回も全く薬が効かない。一体何故!?以前、飲み会で、ビールを数本飲んでた時、偏頭痛が酷くなって来て、うっかり鎮痛剤を飲んでしまった。その後の悲惨な事。異常な酩酊で、目を開けたまま、世界は大き回り、立つ事も出来なくなって、倒れこみ、横になったまま、何度も吐いて、そのまま意識を暫くなくした。たった2錠の鎮痛剤と、数本のビールでそうなった。なのに何で、カッツを一本半空けて、睡眠薬を一箱飲んで、私は国語の授業についていけそうな程、頭がしっかりしているんだ!?嫌な予感が頭にまとわり始めた。死ねないのか?冗談じゃない、私が助かったら、それこそ地獄だ。金も体力も気力もない、この私では、子供はみんな行政に奪われる。子供が殺される事を、生きて経験させられるんだ!!気が狂ってしまう。頼む、死なせてくれ。どうしたらいい?カミソリ、ナイフ。手首を切ろう。刃物は死ぬほど苦手だが、構うものか。でも、うちには刃物はたった一つしかなかった。殆ど切れない果物ナイフ。他には何一つない。仕方ない。家に入って、ナイフを取った。さすがに子供の目の前で、手首は切りたくないから、車に乗り込んだ。ナイフを手首に突きつけて、痛みを想像して、一瞬、逡巡する。暴力家庭で育ったから、殴られたり蹴られたり、頭を叩きつけられたり、根性焼きには慣れているが、切られる痛みは一度しか経験がない。それに何だか、私は生まれつき、刃物で体を切る事に、酷い恐怖を感じていた。過去、一度だけ自傷した事があるが、あれはエミリアを失って、おかしくなっている時だった。でも、やらなければ死ねない。手首に痛い程ナイフを押し付けて、一気に引き下ろした。切れない。滅茶苦茶切れが悪い。歯を食いしばって、何度も同じ場所に、ナイフを置いて、思い切り引き抜く。16回。もう、はっきりと見えている血管は、信じられない弾力で、ナイフの刃先を跳ね返す。度重なる痛みで、叫び出しそうだった。その間に、背後から鮮やかな車のヘッドライトが、文字通り、闇を切り裂いて現れた。最悪だ。くそ。誰が来やがった。私はまた、これまでよりもっと強い力を入れて、ズタズタになっている皮膚の上から、憎たらしい血管を引き裂こうと、ナイフを入れた。それでも血管は跳ね除けるー。おい、どうなってるんだ。薬にしろ、ナイフにしろ、ここまで使えない筈があるか?車のヘッドライトが、山の中腹で止まった。そこはいつも、N君が車を止める場所だった。時間はもう一時過ぎ。何も知らず仕事に行ったI君を、迎えに行って、戻って来たのだろう。星明りの中、男が二人近づいて来た。北原さん、何をしてんだよ!!I君が悲痛な声で叫んだ。ごめんな、あんたはきっとこんな事を、理解出来ないと思ったから、何も言わずに逝きたかったんだ。そう、心の中で謝った。まだ、生きてたね、良かった、ごめん。怒られると思ったけど、最後にIさんにも、会わしてあげたかったから・・。良かった。無理やり止めに来たんじゃないらしい。でも、この子に何て惨い事を・・。I君が泣いている。止めろよ。北原さん何してんだよ。だめだよ、こんな事しちゃ・・・全てが終わってから、会いたかったのに、と悔やみながら、彼に話しかけた。ごめんな。色々あって、もう、限界が来たんだ。黙って逝かせてくれな。仕事、ちゃんとやるんだよ。二人仲良くね。私がいなくなったら、また喧嘩ばっかりするんじゃないよ。私の分まで、先生に恩を返してね。一緒に働いている間、私はたった一つ下の、この同僚の、姉か母親代わりだった。私は厳しい人間だから、散々頭から叱り付けたものだが、幾ら何でも、こんな顔をさせる事になるとは思わなかった。可哀相に。N君に声を掛けた。連れて帰りな。もう来るんじゃないよ。N君が答える。そうだね。Iさん、帰るよ。途端にI君が騒ぎ出す。何で帰るんだ!? このままにして行くのか!?止めろよ、わかんねぇよ!!行け! いいから。早く連れてってやり。私が促した。めぐみちゃん、じゃあな。と言って、N君が混乱するI君を引きずって行く。二人の姿が遠ざかり、車のヘッドライトが、闇の中を移動する。そしてまた、光は山の向こうに去って行った。静けさが戻る。私は疲れ果ててしまった。一体どうして死ねないのか。首吊りだけはだめだ。子供にそんな姿は見せられない。じゃあ、どうしたらいい?車の窓を全開にして、体中を冷たい空気に晒しながら、死ねない恐怖に襲われた。時間はどんどん過ぎて行く。今日失敗したら、友人達の神経が、絶対に持たない事だろう。何としても、今日死にたい。焦り、苦しみ、時間が恐ろしい程の早さで過ぎて行く。またしても、望まぬ朝日が山の向こうに現れ出した時、唐突に閃いた。水のホースを持って来て、エンジンをかけて、車のマフラーに繋ごう。盲点だった。もっと早く気がついていれば・・。ふらふらしながら、車を降りて、ホースを手にして戻って来た。急いでエンジンをかけ、マフラーに繋ぎ、車にあったガムテープで、ホースを固定した。運転席の窓からホースを中に入れ、窓にテープで目張りした。急げ、急げ、みんながやって来てしまう。どんな思いでこの夜を過ごさせた事か。もう一度、同じ思いを味わわせる訳にはいかない。これで終わりにしてやらないと。しかし、一時間、二時間と過ぎても、ガスは思った様に充満しない。一体何だって言うんだろうか。ガスのホースを口元につける。確かにガスは出ている。ジムニーの排気を、中に取り込んではいるのだ。時間がない。私は、もう一本ホースがあった事を思い出した。車のドアを開けて、ホースを取りに急いだ。足がふらつく。体に力が入らない。効いて来てる。もう少しだ。二本目のホースを、マフラーに足して、窓から差し込み、再び車に乗り込んだ。もう一度目張りして、じりじりしながら、車内に排ガスが満ちるのを待つ。今回は大丈夫だった。今までの、二倍所か三倍くらい早さで、急速にガスが充満して来ているのが分かった。それが本当に嬉しかった。これで子供を失って、精神病院の永久住民にならなくて済む。あの子達と、一緒に行ける。帰れるんだ。もう、隔離法や、殺処分もない世界に行ける。近所の嫌がらせに怯えなくてもいい。あの子達を抱えて、毎日の生活の不安からも解放される。ガスがどんどん満ちて来る。もう、柵から逃げたがる、子供達を見て、胸を苦しめる事もない。地平線の彼方まで、あの子達の世界に行けるんだ。日は登り、暑くなった車内の中で、ようやく求めていた死が、形を作り始めて来た。意識が大分遠のいて来てる。夢と現が交互に瞬く。脳が次第に現から離れ出した。少し離れた所に、ある人が立っているのが見え始めた。あれは、私が幼い頃からずっと、会いたかったあの人だろうか?死ねば会える人なんだろうか、それとも、生きていなければ会えない人だったんだろうか。頭から、力が抜けて行く。首が、頭を支える力をなくして行く。やっと・・・。その瞬間、車のドアが開かれた。Tちゃんの、泣き怒りの声が響く。地主さん夫婦の、声も左右から聞こえて来る。生きてるな!?生きてるな!?Tちゃんが叫ぶ。やっぱりだめだ。死ぬなよ!!勝手を言うな。地主さんと、友人に車から引き出されながら、思っていた。辛いのは私。苦しむのも私。誰も私の代わりに、私の苦しみを引き受ける事は出来ないんだ。私の決定を、誰に覆す権利もないんだ。車に戻してくれ。もう少しで体からすり抜ける事が出来た。後、せめて30分の時間をくれ。一時の迷惑で終わるから・・・。でも、私は病院に運ばれた。手当てを受けて、自殺を嗜める医者に、毒づいて噛み付いた。病院は、本州にいる父に電話をして、彼が来る事になった。あの三年の間に、母と弟とは絶縁したから、血の繋がりもない、父とも当然、絶縁に近い状態だった。父は一週間近く北海道に滞在し、お金の援助をするから、子供達を連れて引っ越しなさい、と言って帰った。抜け殻同然の自分に、引越しの仕事に耐えられるか、全く自信がなかったが、こうなった以上、例え意識がなくても、無意識のままでも、前に歩いて行くしかなかった。そして7月から、新しい土地の開拓が始まった。9月から引越しは始まり、これから最後の大詰めになる。19日、あの時助けてくれた友人に、あれから一年が経つんだよ、と言った。二人で感慨深く、あの時の事を、茶化しながら喋った。まだ、助けてくれて、有り難うとは言えないな。そう、友人に言った。いや、これまでも何度も言った。私はまだ、これも宿命だと思って、受け入れているだけだ。いつか、友に、あの時助けてくれて、本当に良かったと、言える日は来るのだろうか。余談だが、自殺は当時の私には、本当に喜ばしい事だったので、つい、自分の葬式の、企画もしたいなんて考えてしまった。ブラック・ユーモアを愛する人間に取って、葬式ほど、チャンスのある催しはない。世間話し風に、N君に面白いアイディアがないか、相談した。相談の結果、火葬にされる時に、ある音楽を流すといいよね、と言う事になった。で、もし私が事故とかで急死したら、あんた絶対、その音楽を、かける役を果たしてよ、と頼んだ。げー、勘弁してよ、葬儀に来た人に、オレが殺される、と言って嫌がる。だめだ、やらなきゃ化けて出る。と言ってやった。火葬する所に、私の棺が入る。「点火します。」とか、多分言う。みんながすすり泣く。そこでN君が、ラジカセのスイッチを入れる。唐突に、郷ひろみが歌い出す。「アチチ!アチ!燃えてるんだろうか~、 オー、アチチ!アチ・・・」自分の葬式の想像をして、大爆笑する人間も、そうはいまい。この爆笑の葬式が不意になってしまったのは、返す返すも残念だった。
2007.05.22
所がどうした訳か、全く薬が効かなかった。私が、あまり丈夫でない体を持って生まれて来て、一つ救いだったのが、非常に薬の効果が出やすい体であった事だった。どんな薬でもすぐに効く。なのにその時だけは、全く薬が効かなかった。いくら市販のものとは言え、睡眠薬を、アルコールで一箱。これが効かないはずがない。体は、ふらふらになった。でも何故か、意識は全く平常なのだ。訳が分からないが、とにかく戸外に行って倒れた。天気は急に悪天候になっていて、風が吹きすさび、雨も落ちて来てる。犬部屋の辺りで、そのまま倒れ、犬達が、私の側で、濡れながら寝ようとするから、可哀想になって、犬部屋に入った。そこでまた倒れる。体が思い。でも全く睡魔は来ない。緊張している訳でもない。とてもくつろいだ心境なのに。何故こんな状態になっているのだろう?結局僅かな睡魔さえも訪れぬまま、夜明けの曙光が私達を照らした。それとともに、友人から、連絡が来た。「朝早くにごめん。何だか胸騒ぎがずっとしてたんだ。最近体の調子悪かったから、また、急に倒れたりしてないかと、心配になって・・・」何て答えたらいいか分らなくて、ちょっと薬を飲みすぎて、でも大丈夫だと答えたら、昨夜からの、胸騒ぎの理由が分ってしまったらしい。飛んで来て、そのまま病院に運ばれた。点滴を受けて、病院を出て、それからもう一人の友人の家に運ばれた。二人とも、泣きそうだ。何にも言わずに死ぬ気だったのか。消え入りそうな声で、友人らが言う。遺書はちゃんと書いておいたんだよ、朦朧とした頭で、それでも笑いながら答えると、二人が口々に私に怒りをぶつけた。それから私は少し眠りに堕ち、友人は、私の変わりに、子供の世話に行ってくれた。目が覚めて、改めて、友人達と向き合った。私の事は諦めてくれ、開口一番、二人の目をまっすぐに見て、断固とした意思でこう言った。途端に二人が泣き始める。何か方法がある筈だ。無駄な抵抗と分かりながら、友人が言う。何もない。万策尽きた。と、私が答えた。私には、この状況を変える為の金もない。近所の人間は、犬がほんの少し自由でいるのも許さない。私達の、生きてる場所を奪って、その後がどうなろうと構いはしない。あそこはもう、住んではいられないんだ。じゃあ、私がまた死に物狂いで金を稼ぐ?立ち退き期限は来月なんだ。それに私は、あんた達も知ってる、この三年で、力尽きた。最悪の状況で、これが起こってしまったー。やっと、最後の力で立ち直った所なんだよ。私に、新たな引越しに耐える体力はない。ここまで私は、あの子達の為に、何度となく引越しをして来た。その過酷さを、この身で味わってる。これまでは、何とかして来た。でも、もう無理だ。生まれて初めて私は、本当に、自分はもう無力だと感じたんだ。友達が、私の告白を聞きながら、頭を左右に振って、否定しながら泣いている。悪い、許してくれ。もう本当に力がないんだ。そう心の中で謝った。オレがもう一度、地主さんに頼んでみる。だから早まるな。Tちゃんが言った。あの子達と、別れて生きる道もあるんだよ?オレは、残酷だから、あの子達を殺せる。オレに頼むつもりはない?N君が言った。あの子達を殺すなら、その時は私も死んでいるよ。そう答えた。分ってる、だからー、最初に追い出される話が出た時、めぐみちゃんなら、こうするかも知れないから、留守の間に、あの子達をどうにかしようと、考えた事があったー。でも、そうしたら、結局君も死ぬだけだと分った。だから諦めたんだ。Tちゃんの方を向いて言った。地主さんの所に行っても無理だよ。もう、十分に庇ってもらってたんだから。それでも、行ってくる。Tちゃんが聞き分けなく言う。他にすがりつけるものがないのだ。二人に向かって、静かに喋った。頼む、死なせてくれ。子供と別れさせないでくれ。私が無力になった以上、あの子達の命も終わる。私をあの子達と一緒に行かせてくれ。年中共に過ごしたあんた達だ。私がどれほどあの子達を愛しているか、分かっていない筈はないだろう。私だけを、生かそうと思うな。私達は、みんなで一つの命なんだ。別れる事はできないんだよ。それに、これは最初から覚悟していた事だった。捨て犬や猫達と、運命を共にした時から、いつか必ず、こんな日が来ると知っていた。それでも見捨てられなかったんだ。私は明日死ぬ。子供の事は、親に遺書を残してある。その為の、お金も用意しておいた。その日までの、子供達の食費も私の口座にある。私は、あんた達にばれたけど、自分の子供の側で死にたい。だから、決して私を止めに来るな。一時の感情に負けて助けた所で、あんた達に、私達は救えないんだ。男だったら耐えろ。絶対に来るな。Tちゃんが言う。それじゃ自殺幇助じゃないか、犯罪なんだぞ。そんな事出来るか!N君が答える。確かに、俺達じゃ君達を助けられないよ。だから・・・。本人が、ここまで考え込んで決めたんなら、どうにもならないのかも知れない。そう言う問題かよ!Tちゃんが切れ出す。また、すぐに生まれ変わって来るからさ。緊張を解こうと、私が口を挟んだ。それまでTちゃん、私の貴重品を預かっておいてよ。絶版の本とか宝物なんだ。ここに置かせて貰ってる、オリバー達だけ、頼んだよ。生まれ変わったら、すぐに迎えに来るからさ。神様を脅迫してでも、今生の記憶はなくさない。三歳児になって、喋れる様になったらすぐ、新しい親に頼んで、ここに連れて来て貰うから。帰って来たら、取り敢えずビールで乾杯しよう。三歳児でビールかよ!Tちゃんが、目頭を押さえながら笑って突っ込む。じゃあ、分かった。さよならは言わないから、必ずここに帰って来いよ。N君がそう答えてくれた。また、生まれ変わってこの続きをするよ。絶対に約束する。オレはお前が来たって、もう、ドアなんて開けてやらないよ。Tちゃんが言う。まだ、諦め切れてない。この友人には、残酷だ。N君の方は、まだ情が薄いから覚悟も出来る。耐えられるだろう。私はこの友達に、どれだけの傷を残すのだろうか。私は幸せなんだよ。背一杯生きて来れた。一つの悔いもない。よく頑張ったと、自分を褒めたい。これだけ満足の出来る人生もないさ。自殺は何も辛い事じゃない。子供達と、この後も、一緒に「生きる」為なんだ。褒めてくれよ。よくやったと思ってるよ。Tちゃんが、そっぽを向きながら言う。逝かせてくれな。笑ってそう頼んだ。翌21日、晴天ー。桜が山や町で命の開花を告げている。素晴らしい天気。空は限りない青。子供達と、大好きだった家にいる。ナンシー・ウッドが綴った、ネイティブアメリカンの一編みの詩、「今日は死ぬのにもってこいの日」は、こんな世界を指すのだろう。最高に幸せで、そう、今日は死ぬのにはもってこいの日だ。どんなにこの子達を愛した事だろう。自分の命も人生も、惜しくない程に、果てしなく。ほんの少し、ママは先に向こうへ行って待ってるから。神様私をもし、憐れんでくれるならどうかー、この子達が、睡眠薬を注射される時だけ、魂となった、私の目をお隠し下さい。今日の夜、もう一度、薬を飲もう。今度はもっと酩酊してから。晴天の空。こんな日は、夜には気温が思い切り下がる。寝てしまえば助からない。星空を見ながら死んで行ける。家にはN君だけついて来た。別れの杯を酌み交わしに。Tちゃんは、怒って来ない。無理ないよ、とN君が言う。そうだね。でも・・。分かって欲しい。私は幸せなんだ。最後の酒は?買い物の時に、N君が聞いた。子供にお金を少しでも多く残したいからね。久保田の萬寿、なんて言わないよ。ビールじゃ酔いが浅いし。レミー・マルタンも、お金が勿体ない。ワインの中で、唯一好きな、ツェラー・シュバルツ・カッツにするか。ドイツワインだね。うん、あれで乾杯しよう。夕日が沈んで、空の色がグラデーションを作りながら移って行く。夜が始まるのだ。二人で、外に座って、グラスにカッツを注いだ。再会を期して、と私が言って、乾杯をした。甘酸っぱい命の水が、喉を流れ落ちて行く。Tちゃんに電話して、最後だ、一緒に飲もうぜ!と声を掛けた。オレは今、地主さんの所に頼みに来てるんだ、ふざけるな!!と、電話の向こうから涙声で怒鳴られた。この人が決めたら、誰にも止められないのにね、Tちゃんだって、分かってるんだよ。N君が静かに言った。泣いているんだろうか。もう、私達の周りには、闇が立ちこめていて、よく見えない。ボトルを二人で開けて、そろそろ別れよう、と声を掛けた。N君が立ち上がる。寒いね、今日は。そう言って白い息を吐いた。ほんと、凍えそうだ。ぶるっと身を震わせながら、私は答えた。目を合わせて、それから手を握り合った。またな。互いにそれだけ言って、硬く握った手を離した。もう何も言わずに、微かに西の空に、残照を残した空を見上げながら、N君が歩いて行く。心の中で謝りながら、その背中を見送った。やがて車が、酔えなかった運転手を乗せて走り出し、デュエットのヘッドライトが、私の視界から消えて行った。さあ、これからが本番だ。体に伸びをさせ、息を大きく吐いて、子供達を見回して、ありがとう、と声を掛けた。まだ開けてないカッツのボトルを取り出し、コルクを抜き出す。今度は自分だけのグラスに注いで、アルコールを体に入れる。少しずつ、カッツに酔わされ出して来た。眼鏡を取って、顔に掛け、地面に仰向けに寝て、星空を眺めた。空を流れる天の川。流れ星が、幾つも幾つも、空から落ちる。顔を上げて、グラスを空ける。少し身を起こして、またグラスにカッツを満たして、薬を一つずつ飲み始めた。私の顔を、子供が舐める。笑ってそれを制しながら、箱に入った、薬を全て飲み尽くした。それから、また仰向けに寝転がり、今度はカッツをボトルのまま口に含んだ。凍るような、寒い日だった。人間も大変ねぇ。
2007.05.21
一年前の今日、19日に、生まれて初めて、本気で自殺を図った。それまで、どんなに大変でも、そんな真似をした事はなかった。この時期、北海道は、まだ夜には零度近くまで気温が下がる。薬局で、睡眠薬を買って、一箱全部、アルコールで体に入れて、戸外で眠る。朝には眠ったまま、凍死しているだろう。以前にも何度か書いたが、去年の夏から遡る事三年間、私の人生は最も悲惨な状態を経験していた。子供の頃から、虐待家庭で育って、11歳で野良犬吹雪と出会ってから、保健所で殺される運命の犬や猫を、代わりに引き取って生きて来た。犬達の為に、千葉へ越した時は18歳、そこでも捨てられ捨てられ、近所の嫌がらせにあって、お金を貯めて、北海道に、犬達と移住したのが26歳の時。そこも、大家と折りが合わず、二年で追い出され、山中の借地に移り、電気も水道も、ガスもない所で、バスを改造して、犬達と暮らし始めたのが、28歳の時。逆境なんて、「それが人生」と答えたくなる位普通なもの。それでも30歳からの三年間は、これが現実だとは、思えない程酷かった。次々と不幸や事件や困難が押し寄せー何も解決していない内から、次から次へと。とうとう先一昨年の年末、心労で、部屋で倒れこみ、そのまま呼吸が止まってしまった。近くにいた友人がすぐに気がついて、心臓を、内出血する程の力でマッサージし、唐突に私は蘇生した。そのまま病院に運ばれて、しばらく意識が定まらず、後で聞いた話では、病院側は、私は助からないと思い込んで、死んだ場合に原因を調べる為、検死の相談をしていたと言う。それでも私は意識を取り戻して、そこから本当に、逆境で死にかけている自分と戦った。しかし事態は改善しなかった。それから一年、「パーフェクト・ストーム」と呼びたくなるような大嵐は、私の真上に居座り続けた。友人から、「止まない雨はない。」と、言われた。私は答えた、その通り。どんな嵐もいつかは終わる。問題は、その嵐が収まるまで、自分が波にもまれて溺れ死なずに、持ちこたえられるかだろう、と。私はその中で、自分自身を失い、ただひたすらどこかに逃げたい願望と戦い、このままでは壊れると、何もかも捨てて、生まれて初めて、子供達を頼みとして、子供達に引っ張られ、とうとう自分を取り戻した。その時には、子供達の数は相当に増えていて、もう、どうにもならない所まで来ていた。そこでまず、非道だが、パイプカットや、卵管を縛る手術を受けさせねばならないと、お金を作る為に、アルバイトを始めた。町のスナックで、マッサージが休みの水曜日と、土曜日の深夜から朝まで。これで手術代を稼ぎ、子供の出産に歯止めを掛けて、状況を安定させて行こう。この三年の間に、気がつけばとんでもないことになっていたが、ここからまた、しっかりとやり直して行けばいいのだと。ようやく明るさを取り戻して、2,3週間も経った頃、2月の終わり、近所の苦情が急に沸き起こり、私達は、春になったら山を追い出される事を宣言された。切っ掛けは、外に離れたうちの犬が、近所で死産で誕生した子馬の、土に埋められた胎盤を、掘り起こして食べていた事だった。胎盤を食べるなら、子馬だって食らうだろう。そこに越して四年以上、子馬に何かした事はない。でも、やるかも知れない。「やるかも知れない」から、私達を可愛がってくれてた地主さん達に詰め寄って、私達を追い出せと、ある人が言った。あいつらがいなくならないんなら、俺は馬を止める。そこまで言われ、地主さんは折れざるを得なかった。やっと、地獄の三年間から立ち直った所だった。これから滅茶苦茶になった生活を、立て直す所だった。私は、逆境慣れしてるから、こんな時は、ショックを受ける前に、すぐさま対応策を考えるー。今までいつもそうしてきた。ああ、じゃあ出て行くか。今度は知り合いのつてを借りて、帯広や、十勝平野の辺りに移るか。あそこは気候がいいい、人間もこっちより暖かく・・・そこまでぼーっと考えて、もう私には、新たな引越しに、耐えられる体ではない事を、急に悟った。この三年の間に、精神力や気力、体力を使い果たし過ぎた。ここから、かなりの時間をかけ、失った様々な体力の、回復に努めなければならなかったのだ。過去、何度も経験した、犬達との引越し。今の私に、あれをこれからやる体力はない。私には、本当に長期の療養が必要だった。それを耐えて、仕事に行っているのに、この他、後どんな労働に耐えられる?生まれて初めて、自分が老婆のように、無力な存在になっているのを感じた。もう、ここを追い出されて、子供を守る力はないー。やっと、やり直そうとしていた所だったのに・・・。しばらく倒れたまま泣き続け、ふと、もう死を受け入れていいのだと感じた。ここまでは、子供を守って、生きる事ばかりを考えてた。でも、もう十分だ。最後の一滴まで、頑張り通した。みんなで死ぬ事を考えよう。子供達、ごめんね、北海道まで来たら、犬も自由に暮らせると思ってた。でも、日本のどこにもそんなまともな地域はなかったね。ママはずっと、世界そのものを、そんな風に変えて行く事を頑張って生きて来たけどー、ここが限界だった。今はまだ、この世界にお前達と、私の住める場所は無い。一度みんなで、あの世に帰ろう。あそこだけが、今は私達に約束された、たった一つの安住の地。そこで暫くのんびりしておいで。ママはお前達と逝って、神さんにしっかりお世話を言いつけた後、すぐまた生まれ変わって、今度こそ倫理の進化を確立させる。いつかまた、お前達がこの地上に、晴れて生まれて来る事が出来るように。そうして私は、自殺を決意した。去年の二月の終わりだった。決行は、五月の連休が終わってからと決めた。これは、私を使ってくれている、先生の恩義に応える為だった。連休に人手がなかったら、ホテルはどうにもならない。せめてこの時期を過ぎてから、命を絶とうと決意した。自殺は、睡眠薬を、お酒で飲んで、眠ったまま凍死と決めた。子供達に、苦しんでる姿を見せて、怯えさせたくないから。私は、一足先に逝かなきゃいけない。子供達を、獣医が薬殺している所なんて見たら、瞬く間に発狂する。その後は、精神病院で、壁を話し相手に時間を潰しながら、老婆になるまで生きて行く事になってしまう。自殺も出来ない。だから、父に遺書を残す事にした。私が死んだらこの子達を、まず睡眠薬の入ったおやつで軽く眠らせて、寝ているうちに、獣医によって、最後の注射をお願いします、と。今は、犬や猫にとって最悪の時代のままだから、下手に信用のおけない他人に、里親になんか出さず、私の所に寄越して下さい、と。それから、私は友人達を欺く事にした。自殺を決意したなどと、口が裂かれても漏らすまい。彼らを、どうにもならない事で、苦しめたくない。私達の今後を心配する友人達に、何、大丈夫、何とかなるさ。今までだって、そうして生きて来たんだからと、笑って安心させた。気付かせて、邪魔をされる訳にはいかないのだから。最後の日が近づいて来た頃、私はカメラを持って仕事に行き、みんなで写真を撮ろうと持ちかけた。私が死んだら、大好きだったこの職場に、自分の写真を飾って欲しくて。そんな不穏な空気を読まれないように、わざと楽しい写真を撮ってもらった。いつも子供みたいにはしゃいで遊んだ、友人達といた私を。友人達は何も気付かず、いつも通りに私に付き合い、おどけたポーズを取ってくれる。私が死んだら、この明るい写真を飾ってね。見る度、思い出して笑えるように。そして、決行の日、親友の一人にも、家に来て写真を撮ってもらった。もうじきここ引っ越すからさ、記念に撮って、そう頼んだ。友人は、何も気付かず、私の遺影を撮影した。それから最後に、自分で子供と写真を撮った。これが、死を心から受け入れた人間の顔。自殺を決意した時から、私はずっと幸せだった。最後まで、私は自分が信じて登った山を降りなかったから。私は子供達と違って人間だから、一人だけ助かる事も出来た。でも、私は山を降りず、ここで死ぬ事を選んだ。後悔のない人生の、何と素晴らしいものか。私の愛した命達の、何と素晴らしい事か。その為に、殉死出来る事の、何と有難い事か。思えば高い山だった。人間の理想を約束した山は。キング牧師は暗殺される直前に、この山の頂に登った夢を見た。山の頂からは、全ての人種や民族が、愛し合いながら生きる、素晴らしい世界が見渡せたと言う。私は山の中腹にいる。そしてここで、今、その頂を見上げながら、眠りにつく。逃げなかった事の、何と素晴らしい事よ。最後まで、自分の信じたものに、殉じれた事の、何と素晴らしい事よ。生命を愛した事の、何と素晴らしい事よ。生まれてきて良かった。ここまで辿り着けて良かった。よく、ここまでやり通した。何もかもに、悔いはない。自分の力の、最後の一滴まで、私は子供に捧げつくした。かくも多くの人間がいる中で、これほど自分の人生に満足した最後を迎えられる人間が、一体どれほどいるのだろうか。私は、薬を一箱、ウィスキーで流し込んだ。恐怖は何もなかった。子供達に対してさえ、ほんのわずかな後ろめたさもなかった。私にはもう、何の力もなかったから。もし、一緒に死ぬ勇気が持てなかったとしたら、それこそ後ろめたさに耐えかねた事だろう。私は、自分の命をこの子達に捧げる。至福の中で、薬を飲んだ。
2007.05.19
今日、日付は変わってしまったが、17日ー、とうとう山の道が、完全に開通した。初めて今日、車は全ての道程を、難なく走り抜く事が出来た。去年買った土地は、これまでの借地を遥かに越える、山の奥にある。道路から約4キロー、土地へ至るまでの、林道は2本。一つは山の下を通る道。この山は昔金山で、トラックなどの通行に耐えられる様に、下の道には砂利が引いてある。しかし、途中に幾つもの谷地を抱え、泥が溜まり、車の走行は難しい。去年、道を直す作業をしたが、金銭的に負担がかかり過ぎ、春まで中断する事にしていた。この道から行くと、土地の前に一級河川が流れている為、橋が必要となる。ここも知人達の協力で、鉄パイプをユンボのバケットで打ち込み、クランブで繋ぎ、足場板を置いて、簡単な橋を作っておいた。しかし、谷地をどうにも出来なかったので、去年の八月頃からは、通行していなかった。山の上を行く道は、国有林を通る林道で、こちらはむき出しの地面で、砂利など引いていないにしろ、谷地も、川もなく、比較的簡単に自分の土地へ行ける。ここを紹介してくれたおじいさんが、下の道にこだわっていたので、こんなに楽な道があったと知った時は、軽く恨んだものだった。今年の冬は、ここに移って、初めての冬だった。道東は、比較的雪が少ないとは言え、山はもちろん、車は全く入れなくなる。以前の借地は、近所の知り合いの方に除雪をお願いしていたが、ここはそうは行かない。個人に頼むには、距離が長すぎるし、業者に頼んだら、とんでもないお金がかかる。車が通れない、冬期間、どうやって4キロも奥に待つ、ちび達の所に60キロのフードを毎日持って行くか。友人、知人、みんなで知恵を絞りあったが、導き出された結論は、結局お金なしには解決出来ないと言うものだった。方法は二つ。スノーモービルを買うか、雪が積もる度に、業者に頼んで除雪して、道を開けてもらうしかない。しかし、と、モービルに詳しい男性人が、口を揃えて忠告する。モービルの操作は難しい。一度埋まったら、女の力ではまず引き出せない。新雪も弱くて埋まりやすい。これは決して、安全な方法でもないのだと。一月の初め、最初の吹雪が来た。一度で道は不通になった。私は、機械リース社から、タイヤショベルを借りて、仕事を一日休み、自分で除雪してみる事にした。幸い去年の夏に、タイヤショベルの操作は覚えた。除雪は初めての経験だが、習うより慣れろで挑戦してみた。コンマ3のショベルは、普通免許で運転出来る。友人が機械リースの所長をしているから、貸してもらって、除雪に挑んだ。作業の難航した事、今思い出しても具合が悪くなる。風で雪が運ばれて来る、吹き溜まりの最も酷い場所が、道路から入って1・5キロ程の所に、数百メートル続いているが、そこに私の身長ほども溜まった雪を、除雪するのに二日かかった。一日目、百メートル程に、七時間もの時間をかけ、ひたすらタイヤのバケットで、新雪と格闘し、夜の九時位に吐き気を催し、友人と交代した。何とかその日の内に開けたかった。交代した友人が、11時過ぎまで頑張ってくれたが、残り50メートルの、きつい上り坂がどうにもならなかった。もう一日レンタルを続ける事にして、夜中の12時くらいに寮に戻った。朝から丸一日タイヤに乗り続けた為に、体はがくがく震え、まともに歩く事も叶わなかった。翌日、日曜日、援軍が一人来てくれた。彼はあるホテルの幹部で、そこのホテルが経営していた、アウトドア提供店が、経営不振で、閉店する為、そこで見世物的に飼われていた、6人のゴールデン達が保健所行きになりかけた為、知り合いである私に、犬達の助けを求めて来た。彼は、この土地を紹介してくれた、私の長年の飲み友達である、おじいさんの息子さんだったのだ。さて、ゴールデン達を見殺しにする訳にはいかず、オーナーである、ホテル側との話し合いで、犬達の食費と医療費は、今後ずっとオーナーが保証する事を条件に、一月上旬、新しい土地へ引き取る事にしていた。道が開かねば、犬達は引っ越せない。しかしお店の従業員は、すでに撤退して、犬達の世話は、近所の人に頼んでいた。6人の犬の世話は、慣れない人には重労働で、一刻も早く、うちに移さねばならなかった。そんな事情もあり、そのおじいさんの、息子さんが日曜日に駆けつけてくれた。私がふらふらしながらタイヤに乗り込むと、俺がここは開けてやるから、お前俺のデリカで横になって休んでろ。酷い顔色してるじゃないか、そう言われた。そうは言われても、すぐに人に依存する性格ではない為に、しばらく遠慮して頑張ったが、とうとうタイヤから降ろされた。たった50メートルの難所。しかしそこに、更に6時間の格闘が必要だった。午前中から始まって、夕方ようやく雪は取り除かれ、難所は開通した。彼が帰った後、私は一人残り、今度は道の最初から、うちの前まで何往復もして、丁寧に道をつけて行った。全てが終わったのが、夜の九時半。ようやく山を降り、今度はレンタル会社のある、町まで約15キロの距離を、自転車よりも遅い速度しか出ない、小型タイヤで戻って行く。10時近くになって、心配した友人が車で駆けつけ、タイヤの運転を変わって、町まで届けてくれる事になった。交代して、友人から自分の車を受け取り、帰路につくと、まるで空を飛んでいる様に軽やかにトムトムは走った。そこから、約一ヶ月は何とか車は通行出来た。しかし、二月の初め、今度はこの前よりも大きな吹雪がやって来た。そして、そこまでで車の通行は断念した。吹き溜まりの難所は、2メートルはゆうに越す雪が積もり、しかも、暖冬で湿った雪だったから、半端な相手じゃない。ここをまた、タイヤで全部開通させるには、最低でも5日は、仕事を休まないとならない。レンタル料だって、とんでもない金額になる。とうとう、最初から約束されていた難題が現実化した。事態を解決出来るお金がない以上、人力より他に手段はない。山奥には、子供達が待っている。「行けない」など通用しない。私はホームセンターに向かった。そこで大型の、橇とカンジキを買った。友人から、スキーのストックをもらった。60キロのフードを橇に載せ、車が最低来られる地点から、約3・5キロの山坂を、人力で運び通すしかない。私より先に、挑戦してみた男友達が、これは男の力でも、30キロが限界だよ、と言う。女の力で60キロなんて絶対無理だ。ましてや不整脈なんか出るお前なんかじゃ。やるよ。それしか答えなかった。無理だなんて言ってる場合か、うるさいんだよ。そう、一人ごちた。そして死闘のフード運びが始まった。三ヶ月。私は女の身で、山に60キロのフードを運び続けた。足は最初のうち、ただの棒切ればりに動かなくなり、次第に筋肉を養い、この作業をやり通した。気を失う程の疲労が溜まり、夜の九時も過ぎると睡魔は頂点に達し、毎日半分眠りながら仕事を続けた。親指に伝わる圧痛を感じながら、お客様と会話しながら、夢と現を行き来して、時折寝言まで口走った。雪解けの頃、作業は試練の極地を極めた。橇はもう何の役にも立たず、変わって二輪の台車を探して買い求め、雪解けの最悪の状態の道を、最も酷い時で、道路から2往復してフードを運んだ。台車を引いては、如何な根性者でも、一度に30キロが限界だった。一時からの仕事に間に合わせる為に、朝の五時から起きて運ばねばならなかった。仕事が終わるのは、夜の11時。寮にいる犬達の散歩を、朝と晩の二回から、夜一回に減らさせてもらった。子供達の、辛抱の協力が不可欠だった。変わりに寮は、早晩彼らの糞尿を預かる事になって、今度はその掃除に追われた。一日一日、道は地面が締まり始め、車は少しずつ、奥へ、奥へと進んで行った。冬タイヤを履き潰してしまった為、休眠状態になっていたジムニーを、バッテリーチャージして呼び起こし、難所を挟んで、二台の車を使っての運搬になっていた。あの、最も吹き溜まる場所が、最後の最後まで、雪を残し、車の通行を阻んでいた。昨日、地面の様子を見て、ちょっと危険だとは思ったものの、ジムニーで、初挑戦してみる事にした。結果は冷や汗ものだった。まず、坂を下る時点で、タイヤはスリップして横すべりにそこを通過した。それでも、ジムで戻らねば、台車をまた、家から引いて来て、フードを運ばなくてはならない。自分の判断に舌打ちしながら、フードをジムに積み替え、ドロドロの登り坂に挑戦する。車は横滑りになり、坂を登り切れず、何度も最初の地点に戻る。人生の壁を越えようとしているのにも見えるその様は、わが身ながら、応援したくなる様な、憐れで果敢な努力に満ちていた。しかし、ついにジムニーの能力が悪路に打ち勝った。ジムと私はエンジンを叫ばせながら、殆ど気力でそこを登り切った。坂を登り終え、ジムを止めて、大地に降り、両拳を突き上げ、勝利の雄たけびを、山に響かせた。そして今日、まず車を降りて、道の状態を確かめると、昨日の晴天のお陰で、地面はいっそう引き締まっていた。トムトムはそこで止め、ジムニーを坂の上からゆっくりと下ろす。今日は、ジムはしっかりと坂を下りた。そしてフードを積み、再び坂を登る。安定した足取りで、ジムは難なく坂を乗り切った。今日、やっと道が完全に開通した。三ヶ月以上の、死闘の毎日が終わった。人力だけでやり通したのだ。こんなキャッチコピーが、この北海道にはある。ここに来た私に、これほど相応しい言葉はなかった。 「試される大地」
2007.05.17
きよめだかさんと言う人がいて、私は別の友人のブログを介して、その人と知り合った。その人は、作ったばかりの私のブログを褒めてくれた。彼女も、四人の孤児の子猫達を、引き取って育てていて、倫理と言うものを、進化させたいと考えている私に向かって、わたしはあなたの同志だよ、と、言ってくれた。私は、その人が大好きになった。だって、友達は多かったけど、私にはまだ、自分の夢と、同じ夢を追う同志には、出会っていなかったから。彼女は心の病気を抱えていた。私は北海道に住んでいて、彼女は埼玉県の人。遠すぎて、何かしてあげたくても、叶わなかった。だから毎日、彼女が元気になれる様に、朝晩欠かさず、メールを送る事にした。その内、彼女の彼氏からも、メールや電話が来るようになった。彼氏は、こんな事を私に言ってくれた。きよね、あなたからメールが来ると、ご飯を食べる様になったんですよ。今まで、寝てばっかりだったのが、メールが来ると、起きるようになった。って。忘れられないよ。本当に嬉しかった事だから。それからずっと、私達のやり取りは、毎日続いた。彼女が私の支援活動を始めた時、内心本当に困った。でも、彼女が好きだったから、拒絶出来なかった。彼氏にも、申し訳ないけど、きよの好きにやらせて欲しいと、頼まれた。12月の、あの騒動まで、彼女は私にずっと、変わらず接していたから、私は彼女の友情を、疑った事など、本当にカケラもなかった。テレビ報道以後、彼女は苦情処理に追われ、ついに五日の朝、私に支援代表を、降りたいと言って来た。私は、実は嬉しかった。支援が大きくなる事を、いつも警戒していたから。ネットの繋がりは、あんまり評判いいものじゃない。どこで、危険な種類の人間と、リンクしているか、事が起きるまでは分からない。だからこれで、もしかしたら、支援活動そのものを、終わりに出来るかも知れないと。そかから、急にきよめだかさんの、私への態度が豹変し始めた。メールをしても、筋の通らない批判の返事が返って来る。私と彼女の、共通のブログ仲間に、どうも私の返信を、全く変えて伝えているらしく、その人から批判のメールが届き、私は誤解を解こうと、返信したけど、返信は来なくて、代わりに彼女のブログで、私を叩く事が始まった。全部、訳の分からない内容だった。何で、代表を降りていいと言った事が、その反対に書かれているの?ドッグフードの消費量が、半分に減らされて、書きたてられているのは何故?給料伝票を上げるのを忘れてて、支援金をくれた女性に、給料振込みを遅らせたから、ちょっと支援金から、ご飯代を立て替えさせて貰った事で、お給料が入金したら、柵のお金に戻すから、ご飯代として落とさなくていいよ、と言った事が、私が支援金を、不正に処理させようとしたと、きよめだかさんが他の人達に嘘を言った。彼女は陰で、他の人にこう言った。「フードの量を、多く嘘をついたり、収支報告をごまかしたり、そうまでして、お金が 欲しいのかしらね。」と。私はフードの量なんてごまかしてない、それは北海道に来た彼女がよく知っている筈なのに、何でこんな中傷をするのだろうと、私は信じられなかった。きよめだかさんは、疲れているんだと思った。最近の苦情処理で、パンクしてしまったんだろう。だからやらせたくなかったのに。私は誤解して、ブログで書きたてている友人に、電話で話し合わせて欲しいと、きよめだかさんに訴えた。何故ならきよめだかさんは、彼女が事実と違う事を、書き立てている事に対して、「自分の説明が悪かった」と、私に答えて来たから。でも、きよめだかさんに、断られた。こんな事をしている間に、事はどんどん大きくなって行った。支援に関係ある人、ない人、それが入り乱れてブログに加わり、きよめだかさんが、ブログ仲間に伝えた「嘘」を元に、私を徹底的に叩きだした。中傷の内容は、私の寮の事まで及んだ。私は、寮費や、電気、ガス、水道代、みんな会社で払って貰って、至れり尽くせりで、生活している事になっている。毎月、同僚と相談して分けて支払ってる、電気やガスや水道代は、どこに消えているの?その上今度は、ちゃんと登記も済ませている、犬達の為の私の土地が、実は借地だったと書かれていた。もう、頭がおかしくなりそうだった。何でこんなデタラメが、ブログに載せられているの、ときよめだかさんに問い詰めたら、みんな、そのブログ友達が、想像して勝手に書いたんだと答えて来た。私はその時でも、まだきよめだかさんを信じてた。だって私は、彼女が大好きで、ずっと大事な友達として接していたから、まさか確信犯で、私を中傷してると思わなかった。そうしたら、見かねた私のブログ仲間が、私に忠告して来た。若樹さんが、きよめだかさんを、信じていたから言えなかったんだけど、実はあの人、前からあなたの陰口を、私に言っていたんだよ。あなたを叩いている女性から、私にメール来てた。彼女の想像なんかじゃないよ、きよめだかさんが、裏で仕組んでる。きよめだかさんとは、もう付き合わない方がいい。・・・と。私はショックで、パニックになった。彼女を信じたい。私の門出に、花を贈ってくれた。きよめだかさんは、そんな人じゃない筈だ。もしそうなら、きっと病気のせいで・・・。私は彼女を信じてブログを挙げた。病気のせいなんだ。そう信じて。そうしたら、自分の病気の事には触れないで!と、きよめだかさんから、抗議の電話がかかって来た。その時の彼女は、私やみんなが知らなかったきよめだかさんだった。嫌味で、傲慢で、高飛車。私達は、電話越しに喧嘩になった。私は自分のブログで、あなやの本性を暴いてやると言った。すると彼女は、ブログのみんなは、あなたが幾ら本当の事を書こうと、私の話の方を全部信じてるわよ。みんな騙されて、あなたを叩いてるじゃないの。あなたは悪者になっているのよ。 みんな私のお友達で、私を信じてる。私の勝ちなのよ、あなたは負けたのよ、オーホホホホホ!!嘘じゃない。信じられないだろうけど、私は嘘発見器にかけられてもいい。催眠術でも。本当に彼女はこう言って笑った。私は怒りで、気が狂いそうになった。だから後で、ニーチェの言葉を引用したのだ。あの時、自分こそが怪物になりかけてしまったから。その後、きよめだかさんは、謝って来た。私は彼女を見る目は、勿論変わったし、それを伝えた。私の友達たちは、もういい加減、彼女の人格に恐怖を抱いていて、きよめだかさんと付き合うなら、私は若樹さんと、距離を持ちたいと言ってきた。私は、他の友達を守る事にした。きよめだかさんに、許すけれど、私はあなたと、これまでよりは距離を置くよと伝え、彼女は了承した。ブログ上では、それまで私を叩いていた人達の内、まず、二人が冷静になっていた。私と直接連絡をくれ、誤解を解いて、話も聞かないでこんな事して、ごめんね、ごめんねと、何度も謝ってくれた。 しかしまだ、私を誤解しているブログ仲間が、中傷を止めないものだから、私はとうとう警察に相談をした。私と誤解を解いた人達が、間に入って、その人に、私と連絡して、誤解を解いて謝罪しなさい、と勧めた。その人から返って来た答えは、驚く程の内容だった。「若樹さんと、直接連絡する事は、きよめだかさんに止められている。 彼女と話すと、洗脳されると言われてて、絶対に連絡はしてはいけないと。」そうして彼女は、私からの和解の申し込みを、断ってしまった。私はその時に、やっと全てが分かった。何故だか、きよめだかさんは、初めから計画的に、私を潰そうとしてたのだと。自分が、ネットではいい人として、みんなの評価を欲しいから、友達を焚きつけ、私の嘘の悪口を吹き込んだ。その人に、私と話せば、洗脳されると暗示をかけてしまえば、私とは何があっても距離を置くだろうから、どんな嘘をついても、バレる心配がない。そうして、正義感が強く、自分の友達の為なら、例え火の中、水の中、みたいな性格の彼女は、幾らでも自分の為に、若樹さんを叩いてくれる。それが真相だったのだと。私達は、それこそきよめだかさんのマインドコントロールから、その人を救おうとした。でも、彼女が受けた暗示は、「洗脳」と言う恐怖を感じた為に、あまりに強く、誰の言葉にも、耳を貸す事が出来なかった。彼女がついに、きよめだかさんに対して、疑惑を感じ始めたのは、一月、きよめだかさんの自殺未遂を受けて、心配して、埼玉に駆けつけてからだった。ネットと離れた、本当のきよめだかさん、その印象は、ブログで受けるそれと、かなり違っていた。病院での初対面、きよめだかさんは、自分が化粧をしていないで、彼女にすっぴんを見られた事を、嫌がってた。 昨日自殺未遂で運ばれた人が?きよめだかさんは、朝ごはんを平らげて、さばさばした顔で病院を後にした。ブログの印象とは逆に、派手な女性。家でもびしっと化粧する。それでもその人は、きよめだかさんを信じてた。丁度あの頃の私のように。ちらほらと、ブログの中傷メールは、彼女の自作自演かも知れないと、仲間が言い始めた。確かに埼玉で、自分に隠れるように、彼女がパソコンで、夜中何かを打ち込んでいるのを見た。そのタイミングで、彼女に中傷メールが入っていた。確証なんかない。 だから、まだ彼女を信じた。彼女がとうとう事実に気付いたのは、自分自身が、ブログの争いに疲れ、飛び降り自殺を図ろうとした後だ。彼女は、ブログで揉めた相手に、飛び降りる前に別れの日記を書いた。その遺書のお陰で、わずか数分の時間が出来て、近くの警官が間に合った。彼女は、死ねなかった事に苦しみ、そしてその時、初めてきよめだかさんの自殺騒ぎが、自分の様な、本気じゃない、自作自演だった事に気がついた。本気の自殺なら、すっぴんなんか気にしない。ご飯なんか、欲しくもない。彼女は自分の仲間に言った。多分、私達は間違ってた。若樹さんは、何もやましい事をしてなかった。騙されたんだ、と。その仲間も、同じことを感じ始めていた。そこで、この二人は私に電話をくれたんだ。私は自分の無罪を晴らしたくて、警察に相談していたけど、何も進まずお手上げだった。それからまた、新たに一人の人が、きよめだかさんの味方だったけど、私に真実を聞きに電話をくれた。そして、この三人が私と誤解を解き合ってしまった事を受けて、きよめだかさんは、他の人達を味方に強くつける為、傷ついて、裏切られた女性を演じ、私達をなじって、自分が自殺を図ったと、彼氏と二人ででっち上げた。ただ、計画が幼稚過ぎて、芝居をしている内から、みんなに暴かれていたのだけど。これが、一連の真相。支援をしてくれた人達。あなた達の親切の活動は、実はこんな事になっていました。あの時、真実には興味ないと、言ってどちらにも変わらず接したみなさん。私は、それが本当に辛かった。だから、あなた達に新しいアドレスを、きよめだかさん同様に、教えなかったのです。理解してくれたなら、また、元の友達に戻れるかな。あの頃のブログの様に。
2007.04.15
長年ボランティアをしている者として、誰かの支援者となる事は、本当に器のいる事だと思っている。支援に見返りは存在しない。社会的名誉もなく、肩書きもない。報酬は与えられず、ただ己の懐から消えるのみ。だからこそ、本気なのかが試される。本当にその相手を救う為なら、自分が犠牲になっても厭わないのか?自ら自分の人生を、他人の為の、黒子としてしまえるのか。昨年10月、私の支援の呼び掛けが始まった時、私は何度も断った。理由はその時、私はなんとか一人でやって行けるから、むしろ当時露見していた、広島ドッグパークなどの、支援してあげて欲しいと、そう周りに勧めた。しかし本当の理由は違った。私は人の支援を受ければ、早晩こういう事態に至ると踏んでいた。人の支援は難しい。その器量のない人間が、恐れ多くもそれに手を出せば、必ず人間が出来ていないが故に、揉め事を起こすものなのだ。偽善が目的で、人を支援する者は、本当はボランティアの中に、相当数いるものだから。彼らにとってボランティアとは、自分が社会的名誉に預かる為の道具でしかない。少し前、私のブログにこんな書き込みがあった。「支援の素人が、手を出して失敗したいいお手本」と、言うような。どうもこの方は、私の元支援代表に向かって言っておられたようだった。他にも、同じく支援には、器量がいると言う内容の書き込みがあった。また、私書箱にも、収支報告について、「支援とは、喜捨なのに、収支報告を求めるのは理解出来ない。」そう書かれたメールを頂いた。こうした人達と、私は全くの同意見だ。だからこそ、支援を行うには、人としての器がいると思っている。昨年の夏、アフガニスタンで医療活動を行っている、日本人医師が、現地の大旱魃を受けて、日本人チームによる、大規模な井戸掘削の活動を行っている様子が、テレビで報道されていた。水不足の為、作物は取れず、栄養や衛生、健康と、アフガニスタン人達は危機的な状況に晒されていた。この状況を救おうと、この医師の呼び掛けによって、アフガニスタン各地で、日本人ボランティアが中心となり、水を求めて井戸掘削が始まったのだ。それに参加した、ボランティアの説明によると、活動は試練を極めていた。最大の問題は、技術や費用よりもむしろ、支援を受ける、アフガニスタン人と、支援活動を行う、日本人ボランティアのとの間にあった、双方の立場による、心の隔たりの方にあった。他人を支援する時、もっとも支援をする者が敬意を持って扱わねばならないのが、支援を受ける相手の人格である。他人の人格を尊重する事は、未熟な人間には難しい。それが自分よりも、しっかりと生きている相手であれ、往々に人は他人への真の敬意を忘れがちになるが、これが相手が、他人の助けが必要な、困窮した社会的弱者であれば、未熟なタイプの人間は、相手を自分と対等な人間だ等とは、全く見なせないものだ。普通の社会人より劣った存在として、その相手を扱おうとする。その者にとって、支援が必要な人間とは、傲慢な親が見る所の「子供」に過ぎない。守られ、養われなければ生きて行けない存在なのだから、人権や、意志等は認められない。 支援を行う者こそ、その対象の人生に於いて、絶対的な権限を持つ権利があるのだ。彼らにとって、社会的弱者とは、生命の形を取った、「物」に等しい。動物愛護団体の活動を見ていると、こうした人間が殆どと言って過言じゃない。彼女らが(愛護団体は圧倒的に女性が多い)その真価を最大限に発揮するのが、野良猫と対した時だ。こうした人々は、「野良猫を救う為」と公言して、罠を仕掛け、捕らえて、相手に断りなく、避妊や去勢の手術を施してしまう。然る後、また元の場所に戻す。理由は、野良猫を増えさせない為だ。生まれた子猫が、不幸な人生を持たぬ様にと。しかし、避妊、去勢を受けた者は、野生の本能を失う。それまでは、自力でねずみを捕らえたり、すずめを捕って狩を行い、生きて来た者が、手術を境にその能力を奪われたまま、また野生に放たれる。食べ物をくれる人間がいなければ、最早生きて行けない体にされてから。元々、人間と距離を置く、警戒心の強い野良猫が、罠に捕まり、手術を受け、ますます人間不信になった後、狩猟の本能さえ奪われて、その後どうやって生きて行けば良いのか。路地裏の隅や、人里離れた林に埋もれた、痩せこけた野良猫の亡骸は、真実誰が作ったものか。野生を好む者の人生から、狩の喜びと、生活の手段を奪ってしまった人間は。彼女達はこれを善行だと考える。そこには猫にー野良猫に、己と対等な存在として、敬意を示す姿勢が欠けている。相手を、猫であるが故に、社会的弱者であるが故に、見下してしまっている自覚が無い。対等の意識の確立なしに、正しい保護や、相手への協力は行い得ないものなのだ。アフガニスタンでも、これと全く同じ問題が生まれた。旱魃で困窮を極めた現地の人を、助ける力がある自分より、「劣った」人間だと無意識に見なしたボランティア達は、彼らの風習、考え方、生き方に敬意を払わず、返って支援される側に、うとまれる存在にしかならなかった。その中で、自分の驕りに気がついた者は、強者、弱者に関係なく、誰もが自分の心を持って、それを他人に奪われたくはないのだと悟った。それが理解出来ない者は、アフガニスタンから帰国した。支援されなければ、生きてさえ行けない癖に、自分の考えや、生き方を変えないとは、アフガニスタン人こそ、傲慢で、愚かな恩知らずだと罵倒して。断食の月、イスラム教徒は、普段以上に宗教的な生活に入る。水さえ事欠く現状であれ、イスラム教徒として、戒律をまず重んじる。それは彼らの美徳である。図らずも、ムハンマドが袂を分けた、兄弟宗教の開祖が修行の折にこう残している。「人間は、パンのみに生きるに非ず。」彼らは、自分の命への執着の為に、自分の信仰を捨ててしまったりはしないのだ。私にとって、「命とは何よりも尊い」と言う信仰が、水や食料より大切な様に、彼らもまた、自分の信仰は、水より必要なもの。その意思を理解しない日本人が、その精神を軽んじる。断食月には、アフガニスタン人は、井戸作りに集中しなくなる。こっちだって、時間の余裕も無いし、予算もある。今は宗教所ではないだろうと・・・。そして現地の人々と、心がどんどんすれ違って行ってしまう。このボランティアの言い分はおかしい。彼らは、そうした精神を持つ民族を、助けに行ったのだ。なのにその精神を尊重しないのなら、誰が彼らに必要とされるのか。人間としての器がないと、支援をすると志願した人間は、必ずこういう、相手の人格を否定する揉め事を起こしてしまうのだ。社会的弱者の目線を持つのは、己に対して、かなりの人道的苦行を課してこなければ培えない。人を助けたら、周囲から社会的名誉をもらえる等と、名誉の見返りを期しての、慈善など、むしろその弱者によって、暴かれ、一蹴される。そして彼らは自らの善意を踏みにじったと言って、相手を非難するのだ。現地に残った日本人ボランティアは、こうした意識の違いを乗り越え、支援される側に人間として、本物の敬意を抱き、結果、アフガニスタン人達の信頼を得た。彼らは、アフガニスタン人達の人生の、舵取りを彼らの手から奪わなかった。あくまでも、彼らの意思を尊重した上で、最大限の助力を尽くした。私は今回の支援活動に、これと全く同じ問題を見ている。残念な事に、「元支援代表」及びある支援者は、支援者としての器を持っていなかった。きよめだかさんが、終わり近く、何度も自分のブログで書いていた。「わたしは彼女の生き方まで、変えさせようとしていた。」と。実際彼女は、その通りにしていた。私が拒否していた支援を、無理に説得したり、断りなく口座まで開いて、始めてしまっていたと言うのにも関わらず、私は人の支援なしには生きていけないのだから、自分やみんなの言う通りにしてと、執拗に迫った。私は仕事を持ち、一応自立している人間だ。自分と子供達の食い扶持も、自分で何とか稼いでいる。なのに何故、支援なしにやって行けないとまで、他人に断定されてしまうのだろうか。余りにしつこく言われ、ノイローゼになりかけて、私は彼女に、私を奴隷にしないでくれと、メールを打った。彼女はそれを、他の人間達に、私にそこまで言わせた説明を省いて転送した。それを読んで、ある人は私が恩知らずだと勘違いして、またある人は、こう言った。きよめだかさんは、ここまで若樹さんに言わせる程、彼女を追い詰めていたのかと。またさらに、ある人はこう言った。私達の支援を、他ならぬ支援代表が、最もあなたの意思を軽視した為に無茶苦茶にしたと。こうした私ときよめだかさんのやり取りは、実は彼女が支援代表を降りたいと言って、騒動になった後で出てきたものだ。私は他の人と同じく、彼女がブログで見せた印象から、彼女は優しい人格者と、信じ込んでしまっていた。彼女の本当の性格に気付くのが遅れ、ブログを用いて私の活動を滅茶苦茶にされた。それだけでは飽き足らず、彼女の味方の力を借りて、私の個人情報を、ネットで垂れ流し、警察の風上にも置けないわが町の警察が、赤の他人にどんどん情報を与え、それをまたコメントとして掲載し、ネットで全国に流してくれた。その上彼女は、私の子供達を、全員行政に奪わせようとしていた。埼玉県春日部市から、数本の電話で、相手から人生の全てを奪い尽くそうとしていた。むしろ役場のある人こそが、あんな連中を相手にする事はない、我々みたく、あんたの苦労や努力を、何一つ知らない連中だと言って、私を励ました。ブログで彼女は、私は頭痛持ちの人間だから、ナロンエースでも送りたいと書いていて、私に送っていたのは、自分の悪事をばらすなと言う、脅迫メールだった。彼女から、支援代表を降りたいと相談を受けていた人は、彼女の意見を聞いて驚いたと言う。こんなにも、見返りを当然のものとする人間だったのかと。私は支援活動を、あの時何度も断った。それは、メールや電話のやり取りさえ無い相手の誰に、支援の器の無い人がいるか分からなかったからだ。なのに、彼女こそが、その最たる人であったとは。彼女の外用の性格を、信じ、称え、私は彼女が大好きだった。自分もあれ位鷹揚に、優しくなれればと思っていた。何故気が付かなかったのか。彼女が昔受けてしまった暴力。自分の親友と彼氏からの、異常な暴力。友人から、そこまで、憎まれ、恨みを買ってしまう性格であった事に。そしてそれに、決して懲りる事のなかった人だと言う事を。私は彼女を憐れに思ってしまう。彼女はブログを閉める直前、私の私書箱にメールを入れた。その内容は、自分の友達に、罪を被せるものだった。言い訳だらけの告白、そして私と、仲直りしたいと書いていた。きっとやり過ぎて孤独になったのだ。そんな事では、自分が傷つけた罪は償えないし、誰からも信頼はされないんだよ、と、私は彼女に言ってあげたかった。他に何が出来るだろう。私は彼女に利用された、女性を大事な友人だと思っている。あなたが彼女に全て告白して、彼女に謝罪をしないうちは、私はあなたの申し出を、決して受ける事は出来ない。ごめんね、きよめだかさん。
2007.04.14
しばらく楽天ユーザー以外書込み禁止にいたします。
2007.04.06
2/1 ¥14,5602/3 ¥12,7682/5 ¥18,7202/7 ¥ 6,2402/10 ¥ 7,3502/11 ¥12,7682/12 ¥12,4802/14 ¥19,1522/18 ¥ 7,9802/21 ¥ 2,0002/22 ¥16,2602/25 ¥ 6,7762月分合計112,1083/1 ¥14,3643/4 ¥ 4,225 ¥ 6,4283/6 ¥ 6,428 ¥ 6,328 ¥14,3643/7 ¥13,3963/9 ¥19,1523/13 ¥18,1103/20 ¥ 6,384109,1792,3月現在合計 \221,287内訳は、ドックフード、キャットフード、猫砂その他でございます。この中に、きよめだかさんから受け取った支援金を全額使わせて頂きました。本当に皆様ありがとうございます。ご心配をおかけして本当に申し訳ございませんでした。こちらに掲載した分に関しましては、領収証が確実に手元にございますので、ご不信があらば、写真で掲載いたします。2,3月分についても、領収証やレシートのもらい忘れがございまして全てを掲載できておりません。ご了承下さいませ。なお、12、1月分に関しましては領収証が現在、まったくそろっていないため掲載を断念いたしました。報告が遅れまして大変申し訳ございません。
2007.03.23
で、親しく分かり合えたことで、彼女が、私を誤解していらした時の書き込みを、削除してほしいと仰ったので、すぐに取り掛かったのですが・・。すみません、眠くて多分、関係ない方の書き込みまで、一つか二つ、削除したように思います。他意はありません、ごめんなさい!!
2007.03.21
この三ヶ月の事を、書こうとすると、何だか壮大で、かつ世俗にまみれた、一大叙事詩を執筆しようとしている様な気がしてくる。さあ、始めないとな。でも、あまりに大きな物語となった、今回の出来事、一体何から書き始めたらいいんだろうか?1989年のある時に、長らくオオカミが絶滅していた、アメリカはモンタナ州で、あるドラマが世界に創造された。それは、オオカミを愛していない人間にとっては、語られる価値の無い物語だった。でも、オオカミを愛する人間達にとっては、それは古い詩人達が礼賛した、神秘と魂が私たちと共にあった、本物の世界の再来の兆しだった。人間の偏見によって憎まれ、絶滅寸前まで追い込まれた、我らが神の物語を、モンタナに住む作家、リック・バスが、記録に残そうと筆を取った。彼は何から語ろうかと考えた。オオカミの生態?歴史?家族愛?人間による拷問?政治の駆け引き?バスは結局、モンタナのオオカミの、運命の結末から話し始めた。「どこからはじめても、最後には全てが一つに結ばれるのだ。」 (帰ってきたオオカミ 晶文社刊)私の話は、そんな尊い素材じゃない。でも少なくとも、何から語ったらいいのか、考えなくてはならない位に、多くの内容を秘めている。だからまず、神罰についてから始めようか。裏切りも収支報告も、結局全ては一つの根に戻されて行くのだから。今は既に閉じられてしまった、三月三日の美月さんの日記に、こんな文章があった。本人の了承を得て、掲載します。「先日も 夢に 一匹の象と天からの声を聞いた・・・。 象は、お釈迦様の使いだとか?!神秘な夢の連続・・・。 いったい、なにを意味しているのか。」その前日、私は山から、子供達のフードを橇に乗せて運び、世話を終えて仕事に行く途中、こんな白昼夢をぼんやり見てた。神社で昔出会った、野良犬吹雪、私にとっては父親代わりの。彼がふっと頭の中に姿を現し、こう言った。「歓喜天が行くから。」歓喜天とは、大聖歓喜天と言って、インドの神様、ガネーシャ神の事である。敬愛するマハトマが、ヒンディー教徒なものだから、多少はこの宗教の勉強は済ませていて、ガネーシャ神についても、少しは知っていた。象の顔を持つ神様だ。私は橇を腰に繋ぎ、かんじきを履いて、3,5キロはある片道を戻りながら、さして感慨もなく、その白昼夢を見ていた。辛い事だらけで疲れ切っていた。青い鳥が、私の肩に止まって囀ってくれた所で、それがどうしたと思った事だろう。仕事前の重労働を終えて、店に入ると、同僚から、私に電話が来ていたと伝えられた。名前を聞いたが、すぐには誰だか分からなかった。二度目の電話で、今度は私が出て、相手が名乗ってくれた時、ようやくその人が誰なのかが分かった。sun-chan-rakutenさんだった。以前に封書を頂いた時、差出人として、書かれた彼の実名だったのだ。あの騒動の最中、私は一度、彼と電話で話す事を試みた。しかしそれは断られ、結局誤解は解けなかった。その相手が、何の前触れもなしに、いきなり私に電話をくれた。「歓喜天が行くから。」その言葉に頭が釘づけになった。彼は、最近になって、きよめだかさんの言動に、不審な点が多く見え始めて、自分のしていた事に、自信がもてなくなったと言った。私に謝罪したい。その上で、別の真実があるなら聞かせて欲しいと。私は、自分の事実を全て述べた。話している内彼は、自分が如何に騙され、無実の人間を叩いたかを悟って苦しんだ。だから、もういいよ、そう私は言った。但し、他の誰にも、二度と同じ苦しみは与えないでくれと。彼は約束し、美月さんも、私に謝罪をしたがっていると教えてくれた。美月さん!彼女にも、何度直接連絡を取ろうと試みた事か。しかし彼女は、私と直接話す事は、きよめだかさんに止められていると言って、全く応じてくれなかった。あの人が!!美月さんと話せたのは、それから二日後だったと思う。四日の夜の事だった。そして三日の日、私は美月さんのブログの中で、彼女の所に、象が現れていたのを知った。その後聞いた所では、彼女が本当に、自分が間違っていると悟ったのは、その象を見てからだと教えてくれた。何だか、言いようの無い不安に襲われた。若樹さんに、連絡を取らなくてはならない、そんな気持ちで一杯になった。丁度同じように、きよめだかさんへの、疑惑が募り過ぎたsun-chanさんが、自分も彼女に連絡して、謝罪をしたいと言い出した。多くの疑惑の証言を持って、この二人は私の無実を確認してくれた。しかし、彼女達と誤解を解いた事を公表するには、大きな問題があった。きよめだかさんの、彼氏である、翔さんが、きよめだかさんの頼みなら、ヤクザの友人を、動かして行く人間だからだ。この二人ー、特に美月さんは、きよめだかさんの、本当の素顔を知り過ぎた。真実を暴露したら、自分がヤクザから、リンチを受けると危惧していた。きよめだかさんは、美月さんに対して、レジスタンスさんも、ヤクザと繋がりが深い人間なのだと吹き込んだ。(これはきよめだかさんの嘘だった。)私と電話で話した時、彼女は何よりも、この二人の影に怯えていた。私は一計を案じた。きよめだかさんから、バサラさんに届いた脅迫メールは、既に釧路警察署に届けていた。今回の一連のブログをコピーして、CDに焼き、美月さん達の証言を付け、ついでに脅迫者達の、住所、氏名、電話番号を記し、それを警察とマスコミに届け、我々の中の誰かが、暴力団から攻撃を受けた場合、すぐさま脅迫者の、捜査が開始されるように、先手を打っておこうと。友人と、その作業に入ろうとした頃、今度は彼女のブログで、美月さんが裏切り者のように叩かれだした。私はさすがに我慢がならなくなった。美月さんを、騙していたのはきよめだかさんだった。友人を裏切って、自分の謀略に利用していたのは彼女の方だ。計画もそっちのけで、私はいきなりブログで参戦してしまった。話は逸れるが、この辺りの単純さが、実は自分の性格の中で、一番気に入っている所だった。バカとは、こうでなくてはならない。するとすぐに、レジスタンスさんからコメントが来た。私書箱の中には、どうやって調べたか、私の何に使ったか忘れた、パスワードが彼から届いていた。(これが分かったのは少し後だけど)バサラくんが、更にコメントを彼に返した。今度はレジスタンスさんから、では、電話で話し合おうと、コメントが送られて来た。美月さんから、彼はヤクザと繋がっていると聞いていた。どんな脅し文句が語られる事か。私は店の電話を指定した。ボイスレコーダー機能がついているからだ。そして約束の時間になり、店の電話は、約束が果たされた事を、私に知らせるべく、ありったけの呼び声で、それを告げた。私は、電話の受話器を取って、録音ボタンを押した。四十代の男性の声が、受話器の向こうから聞こえてくる。彼は私に質問する。本当に一切の中傷に関わっていないか。私は誓った。もし私がやったと言う事実が発見されたら、子供達を行政にでも引き渡す。つまり私は、私の無実に、私の命よりも大切な、世界の全てを賭けてしまった。しかしそこまで、無言電話にしろコメントにしろ、自分の無実を保証出来た。レジスタンスさんは、私の誓言を確信した。私と言えば、彼と電話が始まって、数分後には、電話の録音を切っていた。相手は悪人でもなんでもない。きよめだかさんについていたから、戦う羽目になったが、声にしろ、発言にしろ、人格者の見本。私がされた事はもういい。老練した賢者達は、権謀術数を兼ね備えたもの。今回は、向こうに先手を打たれただけだ。大切な友人を守ろうとして。その為に、私が犠牲になっただけだ。←んー、うん?いーのかな、ここまでバカで・・。電話を切って翌日美月さんに報告した。レジスタンスさんは、ヤクザなんか使わないよ、そんな人間じゃないから、大丈夫。ブログでは、きよめだかさんが、美月さんや、他の人に、裏切られたかのような、日記を更新していた。レジスタンスさんは、本当に、真犯人を、探し始めてくれていた。私は、ヤクザの危険が薄れた事を感じて、二人との和解も発表した。そうして、形勢不利を見て取ったきよめだかさんが、私たちにとっては、お馴染みの手に打って出た。誰かを非難して、それを苦に自分は死ぬと書きたてる手だ。これには、二つの効果がある、一つ、自分への批判をかわせる事。もう一つ、周囲を心配させて、自分を正論で訴えてくる人間達を、叩くように仕向けられる事。自分は一切被害者の振りをしたままで。周囲の取り巻きを利用して、相手を思う存分非難出来る。私たちは、やはりこの手で来たかと思った。自分の悪事がバレそうになれば、また自殺未遂騒動を起こして、私たちを封じる手に出るはずだと。今回は、しかし芝居が大きくなりそうだった。ブログでは、海に飛び込むと書いてある。これが狂言なのは、この三ヶ月、彼女に悩まされた人間は、みんな分かっていたから、それを案じた者はいなかった。美月さんは、少し心配してたけど。私たちは、きよめだかさんと、翔さんの、シナリオがどう作られるか、考えていた、。うまく読みどおりに行くのなら、海に飛び込む訳だから、先手を打って、芝居を暴ける。警察が、きっと有力な情報を出してくれるはずなのだ。私たちが考えていた、この二人のシナリオは、こうだった。まず、きよめだかさんが、行方不明になり、捜索に出た、翔さんが、五浦海岸で、海に投げ込まれた花束を、発見、その後、海に飛び込みはしたものの、助かったと言う、報告を、ブログで、きよめだかさん本人が、翔さんの名前を騙って報告ー。nekoさんの通報は、想定外の証拠を、私たちにもたらす結果となった。彼らの作ったシナリオも、報告者が、親戚を騙った以外は、読み通りの策だった。私は、きよめだかさん、発見の報告の後、茨城県警に確認するつもりだったが、本人失踪が、三日と少々、予想よりも長引いたから、早く狂言の証拠が欲しくて、12日に、春日部警察署に確認の電話をかけた。これでも、一緒にテレビに出た関係だから、さすがの警察も、安否は何とか教えてくれた。翌日、きよめだかさん発見の情報がブログに出るまでに、私の所には、四件の彼女に対する情報が入ってきていた。まず、ある人が、県警から確認した安全の情報。彼女の親戚は、花束など、五浦に行って、発見した事実は無いと言う情報。それからnekoさんの、交番の警官が、彼女をパニックにさせた事実はなかったと、証言してくれた情報に、きよめだかさん失踪中、翔さんが、いつも通り仕事に出ていたのを、本人の証言で、確認した情報。そんな訳で、我々は、彼らがこの狂言を、どう収束させるかを、見守りながら、沈黙していた。気の毒な事だが、最初から全ては見破られていたのだ。ガネーシャ神が、父の言う通りなら、来て下さって、たった十日あまり。三ヶ月に渡った、私の汚名が、たった十日で晴らされて行く。そう、最初はここから書いて行こう。きよめだかさん、翔さん、あなた達には、神罰が下ったみたいだよ、と。
2007.03.18
パソコンを前に、極度の緊張状態に陥っている。この三ヶ月の騒動で、すっかりネット不信になった。今こうして、やっと自分の身の潔白の、説明をようやく周囲が聞いてくれる状態になって、これまでの事を、振り返りながら、書こうとする時、体に逆に震えが起こる。ネットで悪人扱いされ、誹謗中傷の犯人扱いをされていた時は、逆に理性をしっかり保てたと言うのに。ようやく私の潔白が周囲に認められ始め、事実無根の事で、叩かれるのが終わるであろう今、気丈な冷静さの下の、素顔が子供の様に泣きじゃくる。誰が真実の説明を聞きたかろうと、そんな要求に応える事無く、完全にネットから姿を消してしまいたいと思う。私はまだ大人じゃなきゃいけないんだろうか。どんな時でも大人じゃなきゃいけないんだろうか。キーボードの上にある左右の手に、軽い麻痺症状がある。恐怖から来るストレス性の軽い麻痺。本当にもう、あんな思いをしなくていいのか。周り中から、刃を向けられる事はないのか。出来る事なら、最初からずっと私を信じてくれていた、友人の背中の後ろに隠れたい。そして、泣くだけ泣いたら、心から安心して、立ち直れるまで眠りにつきたい。daraちゃん、君はきっと、私より怒って傷ついていた。君は一度も会った事のない私の、人間性を、最後まで信じてくれていた。michelleちゃん、苦しみも悩みも、今は私の方が大変だからと、相談を君は遠慮してた。ごめん、これが片付いたら、必ず力になるからね。バサラくん、ニコママさん、途中で私の話を聞いてくれてありがとう。それからあなた達は、陰になり、日向になり、本当に私を支えてくれた。はなこさん、あの渦中の時に、私を信じて支援を始めてくれた。あの時私書箱の中に、あなたからの手紙が届いてなかったら、私はきっと倒れてた。みきさん、あなたも一度は、何を信じていいか分からなかったのに、結局あなたは私を信じ、本物の友情を結んでくれた。美月さん、sun-chan-rakutenさん、謝罪の電話をありがとう。長い事、私を叩いてしまったから、本当に勇気のいる事だったと思います。レジスタンスさん、電話越しに、私を信じると言ってくれてありがとう。それから、中傷メールの犯人探し。犯人が分かろうと分かるまいと、どんなに嬉しかった事か。nekoさん、色々助けてくれてありがとう。でも、もう二度と、女の涙に騙されるのは勘弁してよ。(笑)大○さん、ちび達の事だけでなく、ネットの事でも心配をかけました。私と同じ様に犬を愛するあなたに、どれだけ勇気をもらった事か。しろちゃんの自由を守ったあなたを思うたび、私も勇気に満ち溢れた。もし私が、第三者の人達に、真実を信用してもらえなかったら、またあなた達を苦しめてしまうのだろう。あなた達の為に、どっちが良いのだろうかと考える。書く事か。消える事か。ネットの怖さを、あなた達も痛感させてしまった訳だから。もう止めたいね。平和に暮らしたいね。ネットの世界にそれがないなら、パソコンの画面は、永遠に黒いままにしておきたいよ。でも。書くか。手の感覚も戻って来た。誰が聞こうが聞くまいが、真実にだけは正直に。もう少し、せめて書き終わるまでだけは、大人のままでいなくてはね。取り合えず来週は、ブログのお陰で出会えた友達が、私の子守をしてくれる。あと一週間は、大人のつもりで頑張るか。読んでくれる人達へー、ごめんなさい。いろんな感情を抑えるのに精一杯で、まともな文章書けないかも。
2007.03.17
きよめだかさんの、失踪事件についてですが、私から証言しておく事があります。まず、12日の夕方に、春日部警察の方から、私は彼女の無事を、既に確認していました。今、もう一度その時話した方と、電話で話しましたが、警察は、いい加減な情報は流さないと、保証して下さいました。警察の名誉の為にお断りしますが、彼女の個人情報を、簡単に教えてくれた訳ではありません。しばらく検討し、二度目の電話で、やっと無事だけ教えて頂けました。また、昨日nekoさんが、ご自分が通報した、彼女の家の近くの交番に、本当に大の男が、裸足の女性を取り逃がしたのか、疑惑に思い、翔さんを介さず、自分で交番に確認してみた所、警官が家を訪れた際に、きよめだかさんが、パニックになり、家から飛び出した事実はない、とお答えを受けたそうです。これは、nekoさんの、了承を得て発表しています。ブログ上で、一大悲劇が演じられていたもので、途中で止めさせてしまうのも失礼かと思いまして、取り合えず終幕まで拝見しておりました。何故、警官が来た時に、パニックになり、裸足で財布持って逃げたとか、警察が、私に彼女の無事を保証してくれた時でも、まだブログでは、行方不明になっている話が続いていたかは、ご当人達に伺って下さい。
2007.03.14
「-しかし、わたしにとっては、真実こそ、ほかの無数の原則をそのなかに含んでいる大原則なのである。この真実は、言葉の使いかたにおける誠実さのみならず、考え方における誠実さでもある。さらにわたしたちの真実に関する相対的な観念であるのみならず、絶対の真実、永遠の原則、すなわち神でもある。 -中略ーわたしがこれまでに書いた事の中で、読者が何か傲慢めいた印象を受けたとすれば、わたしの探求のなかに何か正しくないものがあるのではないか、そしてわたしが見たきらめきも、蜃気楼にすぎないのではないか、と読者は思うに違いない。わたしのごとき凡人は滅びても良い。しかし真実は勝たせなくてはならない。わたし自身のような、あやまち多い人間を判断するに当たって、いささかも真実の基準を引き下げてはならない。」ガンジー自伝 中公文庫 ガンジー三ヶ月に渡り、私はネットの暴力に耐えてきた。友人だと信じていた女性が、実は、親しかった頃から、私を裏切っていた。何故?特に理由はない。彼女は私に限らず、他人一般を信じない。自ら何度も言っている様に。あの時、自分の対面を守る為に、私を失敗の身代わりにする必要があった。そして私が悪党に仕立て上げられた。この間に受けた暴力を、私は一生忘れられない事だろう。人格の否定、人権の否定、・・・。当事者と第三者は、私に対して、疑いを晴らす権利すら認めなかった。冤罪で、死刑台の前に立った人間。その虚しさを、経験した。誰か私の目が見えるだろうか?あなた方が、自分の潔白を証明すると言う、人権すらを、認めなかった人間の。かつて、彼女に、同じ暴力の犠牲とされた人間は、それと同じ暴力を持って、彼女を懲らしめようとした。しかしそれは正されなかった。暴力を持って、暴力を制する事は出来ない。悪を持って、悪を正す事は出来ないのだ。私は真実の力しか用いない。他の力は、暴力であれ、金であれ、権力であれー、私とは、決して相容れないものだから。その人間に、真実があるならば、真実は、決してその者を死なせはしない。真実から逃れようとするならば、その者の故郷は不正の谷だ。真実は凶器ではない。真実は、真実に過ぎない。もしそれに、暴かれて傷つく者がいたとしたら、自ら真実を凶器としたのだ。ずっと昔から、私を支える言葉がある。貧しくひ弱な人間の、体を支える大切な言葉が。社会から、今回の様に否定されながらー、それでも自分の心を信じ、それを育て続けた、私の心を支えた言葉。「-それゆえに、非暴力を真の自由の達成の唯一の手段であると信じている人々に、今日の計り知れない暗闇の真っ只中で、非暴力の灯火をかがやかしくかかげさせよう。少数の人々の真理にこそ価値があるのだ。幾百万という人々の虚偽は一陣の風の前におかれた籾殻のように消え去るだろう。」わたしの非暴力 みすず書房 マハトマ・ガンディー
2007.03.12
皆様今年も宜しくお願い致します。年末年始も休みなく、特に年明けからは、仕事が大変忙しく、ブログはおろか、友人達とさえ、連絡する気力もなかった若樹です。今日は二週間振りの休み。しかも、この季節には信じられない暴風雨の為、引っ越しの作業も出来ず、ここ数か月で、多分初めての、まともな休息を得ています。昨夜から、天気が大荒れすると聞いていて、子供達のご飯を、昨日まとめ買いに行きました。写真が昨日のお買い物。このフードの山の向こうに、まだドッグフードにキャットフード、猫砂の入ったカートがあります。さすが軽のワゴンには積み切れず、載せるだけ載せて、残りはお店で預かってもらいました。初売りの目玉商品で、「愛情物語」と言うフードが、10キロ698円。期間中に買わなきゃ、本来の値段である、998円に戻ってしまうから、車の積載量を超えて買ってしまいました。本当はもっと買いたかったけど、生憎給料日前。これが精一杯でした。今現在、犬達には、一日70キロのフードを食べさせているから、今回は五日分を買いました。猫砂も、私の愛用品である、シリカサンドが特売で大感謝。これだから、毎年年末年始って幸せです。それから、友人の家に以前捨てられた子猫二人、故あって、私の寮で預かれる事になりました。私の部屋を、同僚のゴミや荷物が占拠していた為(引っ越し時から、今までずっとね(-_-#))、私は小さな仮部屋で我慢していたんですが、(グズでだらしないから、何度せっついても片付けない)子猫を引き取る事を期に、広い間取りの、私の本来の部屋に戻る事にして、ガミガミ叱って、部屋を片付けさせました。そこで私も、隣りの部屋から引っ越し。荷物がないから楽だったけど、布団を運ぶのに、体が辛くて泣きそうでした(-.-;)。私の猫で、体調が悪い猫も、友人宅から連れて来て、計三人の猫と、数日前から過ごしています。仮部屋は、病院の隔離部屋みたいな狭い所で、全く寄り付きたくない寝場所でしたが、猫達のお陰で、まともな部屋にようやく落ち着き、春に寮を出て、子供達の暮らす山に移るまで、少し楽しく暮らせそうです。ここの寮に間借りして以来、人間しか同居人がいなかった私は、寂しい事この上なく、猫達の到来で、やっと人心地をつけています。これで犬もいてくれたら、本当に幸せなんだけど。春までは辛抱ですね。では今から、でっかい一仕事に向かいます。また後で、ブログを更新したいと思っています。
2007.01.07
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