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本日は智麻呂邸を訪問し、新作の絵5点を撮影して参りましたが、もう1~2点は欲しいので、公開は今しばらくお待ち下さい。そんな訳で、朝夕の銀輪散歩で目に止まった花を脈絡もなく掲載して、「銀輪花散歩」と致します。 (ナガミヒナゲシ) (マツバウンラン) ヒナゲシは別名「虞美人草」。三国志の英雄、項羽と劉邦の最後の戦い、垓下で、項羽は劉邦に包囲され、敗死する。この項羽に虞という愛妃がいた。彼女も項羽に殉じ、自刃して果てる。彼女を葬った墓に翌夏にヒナゲシの赤い花が咲いた。それで人々はこの花を虞美人草と呼んだとか。 尤も、上のヒナゲシはナガミヒナゲシであるから、虞美人擬草と言うべきか。果てぬ恋 花と咲きぬる 虞美人の 思ひの色の 赤くも悲し (偐家持)(つつじ)銀輪の 道に咲きぬる つつじ花 しばし憩へと われに笑むらし (偐家持)(シロツメグサ)夕されば しろつめぐさの 星の降り 妹や待つらむ 三日月立ちぬ (偐家持)(タビラコ<田平子>)たびらこの 花にもがもな 朝なさな 見つつもあらむ 花園の里 (偐家持) 余談ですが、タビラコとは、春の七草の一つ、ホトケノザのことらしいですな。
2009.04.29
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偐万葉・カコちゃん08篇 本日は「偐万葉・カコちゃん08篇」であります。この方は多分、松風さんのブログから小生のブログをご訪問戴いたものと存じますが、横浜在住で、素敵な水彩画を描かれています。小生は、その青の使い方がとりわけ素晴らしいと、「青の詩人」と勝手に命名致して居りますな(笑)。 この方の絵に興を覚えて贈りたる歌の数もそこそことなりましたので、この辺りでまとめて置きます。 偐家持がカコの郎女(かこのいらつめ)に贈りて詠める歌21首天使らの 踊りなるらし 春の花 火の色に咲き 風にぞ光る金色(こんじき)の 色にも染むる 聖堂の 坂に恋ふるや パリの夕風 妹がゆく モンマントルの 坂の道 恋ふればそよと 風も吹くらしさみどりの 春の衣の 少女(をとめ)らし 今は春べと 野にや遊べる朝寒の 雨降り来れば 吾(わ)が母は 如何にやおはす 春の日もがも江の島の 夕べかなしき 金色(こんじき)の 波の寄せ来る 間なくし思(も)へばデルポイの 神の御告げの しあはせの 青き花咲く いや重(し)け吉事(よごと)珈琲の 香り静かに 漂ひて 今日もよき日や 朝の気は澄みくれなゐの 花咲くままに 燃えや尽く 色は変らじ 愛(は)しき笑まひの 若草の 妻にあるらし 釣人に 雨の降り来や 傘さしかけぬ 遠山の 青み明けゆく 小田原の 舟の泊(とまり)の 春にやあらし春日(はるひ)照る もやひの船の たゆたひて いづくやすめる 小田原の海士(あま)誘はれて 行くや大庭の 城址の 桜に笑みつ 立てる妹はも海棠の 花くれなゐに 妹の笑み 負けじ桜も 競ひ咲くなれ加古の風 青き風なり 道ゆけば 花も染むらん さやにぞ吹ける思ほへば かこの風なり 青き風 泣けと吹くらし 恋にはあらね若草の 妻にあるらし パンジーの 花はランプの 火の色に咲く願はくは 万(よろず)言の葉 もみつ日の 秋にぞ死なむ 旅の道の辺ほの甘き 果実(このみ)に風の 撫でゆけば 夏の香ぞ立ち 吾(われ)恋ひぬらし傾きて 駕籠よりこぼる 恋の実の 知らにや空に 恋(鯉)の泳げる (偐定家)吾が恋の 青き花かも あぢさゐの 八重にぞ咲かむ 雨は降るとも(上記の絵はカコちゃん08さんのブログからの転載です。) カコちゃん08さんのブログ入口<カコちゃんのartist気分> 関連記事:和歌にも衣装(2009.2.16.記事)
2009.04.28
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この処天気が悪く、銀輪散歩も近くを走るのみで、何となく家でゴロゴロしていて、よろしくありません。今朝も好い天気と出かけたら、雨が降って来て、早々に帰宅しました。まあ、午後から来客の予定もあったのではあるが・・。 というわけで、本日もさしたるネタもこれなき故、今朝目にした花を2点掲載して置きます。(コデマリ・小手毬)朝風の 道やゆかしき 小手毬の 花の明かりて 真白に咲けば (シラン・紫蘭)我が庭に 紫蘭の花の 咲きぬれば 恋ふとしあらね 風の染むらん
2009.04.28
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偐万葉・若草篇 今日も雨なれば偐万葉にてご容赦を。今回は若草の仲間である友人たちのブログに書き込んだり、本ブログへのコメントに答えて詠んだ歌を集めてみました。 偐家持が小万知に贈りて詠める歌16首我も恋ふ(われもこふ) 藤袴(ふじばかま)なる 娘子(をとめ)かも 風の秋野に 咲く女郎花(をみなへし)吉野山 こずゑの花は 見が欲しも ひとの多きに 見ずや来にける吉野山 シロヤマザクラ 咲きぬれば 道味気(あぢき)なき くろやまのひと桐の花 追羽根にせむ 天少女(あまをとめ) ほつ枝に風と 遊ぶ声ゆく桐の花 つき散らかして 少女(をとめ)らの 追羽根に見し 頑是なき夢青空の 水したたりて ベロニカの 花と咲くらむ 空に昇らやじゃらじゃらと 天より降りし 小判草 摘みて子狐 餅買ひにゆけうつぼ草 うすむらさきの ほほゑみの 風に流れて ゆく星祭デュランタの 花に宿れる 朝露の 命愛(いと)しみ 風にぞ遊ばむそれぞれに 思ひはあるや 桜花 散れるも咲くも 花がまにまに晴れたるも 今は悲しき 秋の空 涙の眼には 眩しかりけり風船の 中は綿菓子 唐綿を 食べ散らかして 風の吹くらし野の草の ちひさく青き 花にもや 春は光りて 我に笑むらしぬるみゆく 水面(みなも)の鏡 春の空 映せる雲の 流れゆく見むながめせし ミモザの花は 摘まずもが 濡れてその身の 色は映ゆとも鳥落とす 花も插頭(かざし)に 酒汲みて どちとしあるに 何や益(ま)される 偐家持が偐山頭火に贈りて詠める歌4首茗荷摘む 背子の背中に 木漏れ日の 影たゆたひて 蝉鳴きにけりしずやしず しずのおだまき くりかへし またもゆかめや やまとたかだへ梅の香も 湯の香も今は 霞立つ 鴫野の雨の 春の夕暮牟婁の湯は 室(むろ)で済まそや くろしほの みち来る時ぞ いざ帰りなむ 偐家持が凡鬼に贈りて詠める歌2首みささぎの 道に壱師(いちし)の 花赤く 風に恋ふらし 夕影の空いにしへの ひとやいづくに 青雲(あをぐも)の たなびく秋の 空ぞ悲しき 偐家持が和麻呂に贈りて詠める歌5首心和ぐ 琴の調べや 春の風 鳥鳴き花の 咲くや夕月桜花 散りゆくきはみ 月さやに 照りて流るる 君が琴の音春べゆく 琴のしらべに 桜花 今か咲くらむ 大嶽の苑青柳の 糸染め吹くや 琴の風 和して我が背子 久にもあらめ若草の 里のあを桐 うるはしき 君が手慣れの 琴にしあらむ 上記の各氏の内ブログを開設されているのは下記の2氏であります。 偐山頭火氏のブログ入口<河内温泉大学キャンパス> 和麻呂氏のブログ入口<音楽の輪・話・和>
2009.04.26
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偐万葉・るるら篇 本日は「偐万葉・るるら篇」であります。るるらさんは福岡在住の方で、本ブログの読者にして、智麻呂ファンのお一人でもいらっしゃいます。小生のことを「師匠」なんぞと呼ばれる面白き方でありますが、福岡の色んな処を美しき写真でご紹介されたり、草花を「るるら風」切り口で紹介されています。偐万葉歌壇にもいち早くご参加いただきましたが、歌壇の方は偐家持もこの頃はご無沙汰していて、開店休業状態ですな。 <参考>るるらさんのブログ入口<るるら.の日記> 偐家持がるるらの郎女に贈りて詠める歌21首並びに長歌1首及び反歌1首月冴えて 雪よそひたる 山茶花の ほの明かりつつ さ夜更けゆきぬ 葉ぼたんの 露にも海は あるならむ あくがれ出づる 魂となりせば葉ぼたんに 置ける白露 消(け)ぬるとも 映せる空の 色はのこれり玄界の 風にも梅の 香のありて 筑紫の里に 春立つらむか るるららと 春日(はるひ)の道の 乙女らし 影にぞ見ゆる 直(ただ)には逢はね我が苑に 咲ける雛菊 とりどりの 色にぞ春は 笑みてやあらし桃の花 うすくれなゐに 露や置く 春の芽吹きの 雨の名残れるたふれ木を 継ぎてひこ生え 桃の花 今し咲くらむ いのちの愛(を)しき 筑紫野の 乙女心は 春霞 うらら朝の日 花陰のもと春草に 花散り敷けば たたら潟 踏みや惑ひつ 妹ゆくらむかはららかに 散るや桜の 花越しに 三日月照りて さ夜更けぬらし夜桜の 咲くも散れるも 月の下 背子にし依れば 花明かり道夜半の月 照れる桜の 下道は 花も標(しるべ)と 妹がり行かむ夜桜の はららに散るや 筑紫風 いたくな吹きそ 吾が恋益さる八千種(やちぐさ)の 花移ろふと いふなれど 春花愛(め)でむ 偐(にせ)なる我は花散らし 降れる小雨の 吾が玉を 貫きとめむ 蜘蛛の糸もが我妹子は 雨もるるらら 笠さして 行けば白玉 弾けて光り さ丹塗りの 稲荷道なり 鳥居道 桜道なり 願掛けの道つつじ花 桜かざしに 笑みてしは 吾が花妻の 待ちや恋ふらむさみどりの いとけなき手を さしのべて いのちけなげに 若葉の季節つつじ花 咲きぬる苑に 立つ妹の 髪に流るる 風のさやけし 名島之賦(一部改訂)朝(あした)には 潮干(しほひ)の跡に 夕べには 満ち来る潮に 足らし姫 船出せすとふ 清き浜 もとほりゆけば 春花は 咲きも匂へり 秋の葉は もみつ色かも 海原(うなはら)は 真(ま)澄(す)み鏡に 沖つ島 青みて霧(き)れる 吹く風の 音もさやけし 古(いにしへ)に 恋ひて行かめや 名島浜 絶えずもあらめ 継ぎて通はむ 反歌名島浜 吾(あ)が恋ひ来れば 木綿花(ゆふはな)に 咲きてありけり 沖つ白波(注)写真はいずれも、るるらさんのブログからの転載です。
2009.04.24
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第32回智麻呂絵画展 第32回智麻呂絵画展の開催であります。智麻呂ファンの皆さまお待たせいたしました。(ツツジ)山躑躅( やまつつじ) 咲く木の暗(くれ)に ほととぎす 鳴きかゆくらむ 山の辺の道 (偐家持)(ヒナゲシ)朝妻の 小坂に咲ける ヒナゲシの 花の妹かも 日(ひ)に日(け)に愛(は)しき (偐家持)(ヒナゲシ2)(ヒメフヨウ) 上の姫芙蓉は、偐山頭火さんが自邸の庭に咲いていたのを手折って、智麻呂宅にお持ち下さったもの。その翌日に訪ねた偐家持は出来たばかりの絵に対面することになった次第。姫芙蓉 ちひさき花の 一枝(ひとよ)にも 背子が思ひの こもりて温(ぬく)し (偐家持) 此の花は智麻呂氏が週2回通っていらっしゃるデイサービスセンターに咲いていたものらしく、その日は智麻呂氏はこの絵を持って帰宅された とのことです。 紫の 花ははしきか わが行ける デイサービスの 庭にぞ咲きし (偐家持)(スーちゃん) 智麻呂氏のお嬢様が飼って居られたスーとチッチは以前にこの絵画展に登場していますが、母親の方のスーは看病空しく亡くなりました。天寿を全うしたと言うべきなのでしょう。お孫さんから届いたハガキに掲載のスーの写真を見て描かれたのが上の絵であります。スーへの鎮魂ででもあるか。ともに来(こ)し 日々のなぐさの 思ほえば 年は経(へ)ぬとも 我忘れめや (偐家持)(蒟蒻ゆべし)やあやあと 君磊落(らいらく)の すがしきを 思(しの)ひつ喰(く)ひし 群馬のゆべし (偐家持) 上記の歌の「君」は智麻呂氏の親友で、この2月にお亡くなりになったK牧師のことであります。歌はすべて智麻呂氏の立場で、勝手に偐家持が代詠して居りますので、いささかのズレはご容赦願います。<番外篇> 当ブログには掲載したが絵画展には入っていない絵がありますので、読者の一覧の便宜のため、以下に再掲載して置きます。(タイワンレンギョウ)(ハリセンボン)(桃)
2009.04.21
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我が大学の法学部同窓会の活動の一つに「Sーー塾」「というのがある。同窓生やその友人・知己が講師となり、好きなテーマで講義し、その後、歓談するというものである。小生も何回か受講させて戴いたが、この4月から、本塾の運営担当となったM氏の依頼で、次回5月10日は小生が講師を引き受けることとなった。 いつもは梅田近くにある、同窓会の「交流センター」の部屋で夕刻に行っているのであるが、今回は初の試みとして、日曜日に万葉の故地を歩いてみようということになり、その案内役兼講師として偐家持に名指しがあったという訳。「家持」を騙っている手前、断る訳にも参らず、引き受ける羽目に。 歩くコースもお前が選定しろとのことで、取り敢えず近鉄西大寺駅ー平城京址ー平城天皇陵ー磐之媛陵ー法華寺ー聖武天皇・光明皇后陵ー佐保川ー東大寺ー近鉄奈良駅というコースを設定したのであるが、どの道を歩き、何処で休憩・昼食を取るのか、など気になることもあったので、本日その下見を兼ねて自転車持参で一回りして来た次第。 午前11時05分西大寺駅前出発。近鉄京都線の下を潜って秋篠川自転車道に入る。(秋篠川畔の道)(平城京址公園) 川畔の道を少し行って、左に入ると平城京址公園の入口である。若葉が美しい。朱雀門・大極殿址のコースで公園を南から北に縦断することに決める。(朱雀門)(大極殿址)いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな (伊勢大輔) 万葉集の歌ではないぞ。分かって居ります。偐万葉集ですから、何でもありなのです。5月10日の話も偐家持流のいい加減な話になるでしょうから、聞かされる人はお気の毒ですな(笑)。 来年は平城京建都1300年ということで、大極殿(第一次)の復元工事が行われている他、それに向けてのイベントの準備のための工事でもあるか、何やら、あちらこちらに工事用車両の影が見える。だが、大極殿址に立つと、心は天平の「いにしへ」へと容易にタイムスリップである。(大極殿址) 今、復元工事がなされているのは第一次大極殿の方であり、第二次大極殿は基壇と礎石のみが、その直ぐ東側にある。そして、更にその東側には、復元された宮内省建物が建っている。(宮内省建物<復元>) 第二次大極殿の真北に平城天皇陵がある。平城天皇は桓武天皇の長子(安殿親王)にて桓武天皇崩御後帝位につくが、病弱で3年1カ月で弟の神野親王(嵯峨天皇)に譲位し、上皇となる。 平城上皇は、旧都、平城京に移るが、やがて両者は対立するようになり、上皇の平城遷都の詔勅とこれを拒否する天皇との間で対立は決定的となり、嵯峨天皇は、上皇の愛妾でもあった尚侍藤原薬子の兄藤原仲成らを捕える。 これに激怒した平城上皇は東国へ赴き兵を起こそうとするが、阻止され帰京し、剃髪し出家する。愛妾の薬子は服毒自殺する。 兄、仲成は射殺される。平安時代には死刑はなかったとされるが、これは律令による数少ない死刑であったという。 以上が、「薬子の変」と呼ばれる事件のあらましであるが、その人物の眠るのが、この平城天皇陵である。(平城天皇陵) 平城天皇陵から少し北東に行くと奈良自転車道に出る。それを辿ると磐之媛陵である。磐之媛は葛城襲津彦の娘で仁徳天皇の皇后である。皇族でなくて皇后になった最初の女性としても注目されるが、仁徳天皇とのやりとりに於いても、強烈に自分を主張したということなどもあって古代に於ける代表的な女性となり得たのであろう。万葉集第一巻冒頭の歌が、雄略天皇の歌であり、第二巻の出だしの歌が磐之媛のそれであるのも、故なしとしないと言うべきであろう。(磐之媛陵への道)(磐之媛陵))磐姫皇后(いはのひめのおほきさき)、天皇(すめらみこと)を思(しの)ひて作りませるみ歌四首君が行き 日(け)長くなりぬ 山尋ね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ右の一首の歌は、山上憶良臣の類聚歌林に載す。かくばかり 恋ひつつあらずは 高山の 磐根しまきて 死なましものをありつつも 君をば待たむ うち靡く わが黒髪に 霜の置くまでに秋の田の 穂の上(へ)に霧(き)らふ 朝霞 いつへの方に 我が恋やまむ或る本の歌に曰く居明かして 君をば待たむ ぬばたまの わが黒髪に 霜は降るとも右の一首は、古歌集の中に出づ。 (巻2-85~89) 磐之媛が熊野の御綱柏(みつながしは)の葉を取りに紀伊路に出かけて留守の間に、夫の仁徳天皇は、八田皇女を妃として宮中に入れてしまう。これを知った彼女は、取って来た御綱柏を海に投げ捨て、難波の高津宮には帰らず、淀川を遡って、山城国の筒城岡に宮を作りそこに入ってしまう。仁徳天皇の詫びも迎えも拒み、そこに住み続けたまま死んでしまう。と、まあ、とにかく存在感のある女性である。その御陵の近くに、こんな万葉歌碑があるのも面白い。女郎花 佐紀沢に生ふる 花かつみ かつても知らぬ 恋もするかも (中臣女郎 巻4-675)<ヲミナエシの咲き、佐紀の沢に生える花かつみ、かつて全く経験しなかった恋をすることだ。> この歌は中臣女郎が大伴家持に贈った歌である。家持は歌を返したのかどうだか、返歌はのこっていない。まあ、男の立場としては、返歌のしにくい歌でもありますな(笑)。(法華寺) 法華寺は藤原不比等の邸宅のあった場所であり、その娘の光明皇后がここに施薬院を開いたという寺でもある。国分寺の本山が東大寺であるように、国分尼寺の本山がこの寺である。今は、ひっそりとした小さな寺である。(光明皇后陵) 法華寺の前の道、一条通りを真っ直ぐに東へ向かい、佐保川と交差する地点に、聖武天皇・光明皇后陵がある。光明皇后陵は聖武天皇陵の脇にひっそりとある。(聖武天皇陵)(坂上郎女歌碑) 一条通りを聖武天皇陵に向かって歩いてゆくと途中に上の歌碑があった。吾背子が 見らむ佐保道の 青柳を 手折りてだにも 見むよしもがも (坂上郎女 万葉集巻8-1432) 佐保川の北側に大伴旅人の邸宅があったらしいから、この辺りがその場所でもあるか。家持が幼年期を過ごした場所でもある。<追記:2021.11.28.>坂上郎女の歌にタイプミスがありましたので、訂正しました。
2009.04.20
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本日は午後から智麻呂邸を訪問し、故K牧師の思い出話や偐家持の上野国銀輪万葉旅行の話などをして来た。勿論、次回の智麻呂展の絵も写真に収めて来ました。追ってブログにアップ致しますので、楽しみにお待ち下さい。 さて、それはさて置き、本日は「偐万葉・nanasugu篇」であります。nanasuguさんは、現在はシンガポールに在住されていますが、早い時期から「偐万葉田舎家持歌集」の読者になって戴き、特に「智麻呂絵画展」には温かいご声援を送って下さっている方です。この方にお贈りした歌もかなりの数になりましたので、本日これを掲載することといたします。 偐家持がnanasuguの郎女に贈りて詠める歌17首つき草の 消(け)ぬべき恋も 浜木綿(はまゆふ)の 花と咲きつつ 恋渡らなむ涼やかな 心ふたつと ほほづきを 戴き巣鴨の 我や夏ゆく犬猫の たのしき草か わんにゃんの 待ちてしあれば 家づとにせむ百日紅(さるすべり) 咲きぬる道に 見上ぐれば 祖父の面影 雲にぞ立ちぬ春日野の もみぢの下に 寝(ぬ)る鹿の 群れ見るときは 昼もねむたきさいはひの 白きそうびの 花束の 咲くらむ夢と 妹たたすらし押し照るや 浪速の夜の きらめきは 流れ落ちたる 星や散りけむ銀輪も 和歌もなければ 看板は 偽装表示か 銀輪万葉万葉の やまと心は はるけくも 蒼波(さうは)越えてぞ 妹にし届けむ春節の 新嘉坡(しんがぽーる)は 獅子舞へば 龍ものたうち 道ふさぐらし 坊主らの 托鉢なるか 龍の舞 獅子も出で来て お辞儀するらし残照の ゆく道の辺に 咲く梅の 花にもがもな 思ひな散りそありがたう 思ひ言の葉 忘れめや いかにしあれど 生かさるる身の九条葱 下仁田千住 赤曲がり 越津のやぐら 坊主しらずも対岸の カジノ睨みつ マーライオン 一点張りや 獅子は十六山川を 海を隔(へな)りて あるとても ブログの風は 空渡るらし犬までも 紳士淑女に あるなるか 人恥づかしき ことのなけれと<nanasuguさんのブログ入口> (写真はnanasuguさんのブログからの転載です。)
2009.04.19
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今日は、小生が元勤務していた会社で支店長をしていて、今は独立して会社経営をしているK氏が相談したいことがあると言うので、その相談に乗るべく、これまた自転車で、銀輪散歩を兼ねて、待ち合わせ場所の上本町のシェラトン都ホテルまで行って来た。 出がけに、大学の先輩のM氏から電話があり、友人のT氏からは、久しぶりに一緒に飯でも食わないかとの誘いのメール。3人も懐かしい人とのコンタクトが重なるというのも面白いことである。 自宅から上本町までは1時間弱、丁度よい運動である。帰途にいつもの通り、花園中央公園に立ち寄ると、ハナミズキが白い花を咲かせていた。この花が咲くともう初夏という気分になるのであるが、今年はやはりどの花も例年より開花が早いように思われますな。ハナミズキの上の写真が今ひとつなので、本日(18日)朝、もう一度写真を撮って来ました。追補して置きます。(4月19日追加)
2009.04.17
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昨日15日はNHKの近くに所用があって、午後から銀輪散歩がてら自宅を自転車で出発。3時半にはフリーとなったので、大阪城公園を通り抜け、鶴見緑地に向かうことにした。約30分で到着。 松風さんの絵でお馴染の大池を見てみることに。傾きかけた柔らかい春の日差しの中に、散策する人、ベンチに語らう人、ボール投げに興ずる子供、水面をすべるように進む鴨、何やら既に見た風景を録画で見ているみたいな気もしつつ、ゆっくりと池の畔を自転車で周遊。木々は美しい芽吹きの時、明るい緑が瑞々しく、爽やかである。(大阪城公園のさみどり)(鶴見緑地国際庭園の外周道路)(大池、上の写真の自転車は我が愛車のMTB)(散歩の二人を撮ろうとモタモタしているうちに遠くへ行ってしまいました。)(メタセコイア並木) しばし、遊んだ後、鶴見緑地を後にし、我がホームグラウンドの花園中央公園へ。花園公園に、今を盛りと咲いている花など、見かけた花を紹介して置きます。最後のハナニラは9日の写真です。(アイリス)(サツキ)(満天星・ドウダンツツジ)(芝桜) (クヌギ)(シャガ)(カラスノエンドウ)(チューリップ)(ハナニラ)
2009.04.16
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(しつっこく、続きです。ただし、今回で完結です。) 「群馬の森」の手前で井野川にお別れし、上佐野・下佐野地区を目指す。万葉集巻14-3420の歌に出て来る「佐野の舟橋」がこの辺りで烏川に架けられていたのだろう、と言われているからだ。地図で調べると「佐野橋」というのが烏川に架かっている。ともかくもそこに行ってみようという次第。 そして、発見。佐野橋の少し南に「定家神社」というのがあるではないか。藤原定家の「駒とめて袖うち払ふかげもなし佐野の渡りの雪の夕暮」の歌に因んで、定家を祀っている神社であるのだろうか。これは行ってみなくてはなるまい。偐家持は時に「偐定家」と名乗ることもあるのだから、ご挨拶して行かねばなるまいという訳である。 それにしても上毛の国という処は面白い。懐かしい名に次々と出くわすのだから。 旧中山道を走り、途中で脇道に入ると左手に古墳が見えた。形のいい円墳である。何か心惹かれるものを感じて、今回の旅とは無関係ながら、立ち寄ることにする。(大鶴巻古墳) 墳丘に登ろうと、畦道に入って行くと、畑一面に土筆がビッシリ。「土筆づくし」もここまで過ぎると、何か気味悪い感じさえして、可愛らしさが少しも感じられない。これは「土筆の兵馬俑だな。されば、この古墳の被葬者は上毛の始皇帝とでもして置くか。」そんなことを思いながら、墳丘を登る。(つくしの群生)土筆らも 醜(しこ)の御楯と 群れ立つか 原埋め尽くし 古墳(はか)をや護る (偐家持) 古墳から、方向感覚だけを便りに行くと定家神社に行き着く。小さな神社であるが、桜の巨木があり、花が散りしきっている。日の光がそれを照らし、キラキラと光る風でもある。今まで見たどの花吹雪よりも幻想的である。西行さんが死にたいと思った桜の木の下というのは、このような木でもあるか。(定家神社)定家どの 宇都宮には あらざるを など高崎に おはしましける (偐家持)(注)上の歌は解説が要りますな。定家の息子、為家の妻の父親が鎌倉武士の宇都宮頼綱(蓮生)であり、定家はこの蓮生の依頼により和歌百首を撰書したのである。蓮生は嵯峨野の自分の山荘の障子に貼り付けて楽しんだのだが、これが百人一首のもとになったとか、それとは別に百人一首は成ったのだとか、色々説はあるようだが、それはここではどうでもよろしい。宇都宮が何であるかを理解して戴ければいいのであるから。 定家の上記の歌「駒とめて袖うち払ふ・・」の「佐野の渡り」が何処であるかは諸説あるようだ。大和国説、越前国説、上野国説、紀伊国説など色々。 万葉の「佐野の舟橋」は上野国であるのだが、もうひとつ万葉には「佐野の渡り」というのが出て来る(巻3-265)。これは和歌山県新宮市の「佐野」のこと。「佐野の舟橋」と「佐野の渡り」がいつしか混同されて、定家の「佐野の渡り」が、ここ群馬県高崎市の佐野のことだという、上野国説が生じたのだ。定家神社がここに在る理由はそんな処だろう。 (参考)苦しくも ふりくる雨か 神(みは)が崎 狭野(さの)のわたりに 家もあらなくに (巻3-265) では、ここは偐定家も上野国説に立って、1首追和しましょう。輪をとめて 袖うち払ふ 影のあり 佐野のわたりの 花の夕暮れ (偐定家)佐野に吹く 風は見えざる 川なりて 花ゆるやかに 空にぞ流す (偐家持)(定家神社由来) 境内の片隅に万葉歌碑があった。定家さんなら新古今か百人一首だろうに、万葉歌とは申し訳ないことである。しかし、偐家持と偐定家を共に名乗る「けん家持」にはピッタリの取り合わせで、出来過ぎ、と一人ほくそ笑む。(万葉歌碑)佐野山に 打つや斧音(をのと)の 遠かども 寝もとか子ろが おゆに見えつる (巻14-3473)佐野山に 打つやコゲラの 音のして 桜の妹の つきて来る見ゆ (偐家持) 定家神社から佐野橋は直ぐである。行ってみると、意外にも、それは木の橋であった。いかにもこの地に相応しい風情のある橋と言うべきか。まあ、船を連ねて繋いだ「舟橋」まではゆきませぬが・・。(佐野橋)(佐野橋上から烏川を望む。)上毛野(かみつけの) 佐野の舟橋 取り放(はな)し 親は放(さ)くれど 吾(わ)は放(さか)るがへ (巻14-3420)上毛野 佐野の莖(くく)立(たち) 折りはやし 吾(あれ)は待たむゑ 今年来ずとも (巻14-3406)上毛野 佐野田の苗の むらなへに 事は定めつ 今はいかにせも (巻14-3418)
2009.04.15
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(またまた<笑>続きです。) 今回の旅のもう一つの目的は井野川自転車道のサイクリングである。井野川も烏川や鏑川と同じく利根川の支流(井野川は、烏川と鏑川が合流する地点の少し下流で、烏川に注いでいる。)であるが、両川に比べると小さな川である。ネットで調べていて、ちょっと走ってみようと思った次第。高崎駅から、北東に行くとその起点(終点?)がある。駅から北へと走っていると、高崎伊勢崎自転車道と表示された道があったので、そこを右折、東へと走る。これだと、起点よりも少し手前で井野川に入ることになると思われたが、まあ、それもよしと進む。途中で見事な桜が目に入り、写真に。(神社の名は忘れてしまったが、境内に桜の大木。)(井野川) いよいよ井野川に入る。 川面は光り、何という花だろう、薄紫の花が一面に岸辺を彩っている。ようこそ、と偐家持を歓迎してくれているようでもある。井野川は うすむらさきに 花笑みて 吾(われ)を迎へり たぐひぞゆかめ (偐家持) 花と朝日と春風の道。川音も軽やかにて、空にはかまびすしいまでの雲雀の声である。菜の花がさりげなく咲き、足元のそこかしこにタンポポの花。麦畑さみどりに風にさやぎ、何か懐かしい道。初めて走る道なのにそんな気分になって、もう身も心も上毛野の道に馴染んでいるのでもある。この道は いつ来しとてか 懐かしみ 花も吾(わ)のあと つきても来らし (偐家持)たんぽぽも 見やれば何や 語るらし 井野の川音(かはと)の 軽(かろ)きを聞けば (偐家持) この一角は桜が見事である。一本一本が夫々に貫禄のある大木であるが、それが何本も連なり、今を盛りと咲き乱れ、風吹き渡るごとにキラキラと日に輝きながら、無心に舞い散る。自転車を停めて、しばしこれに見惚れて上げるのでなければ、失礼である。と言うよりも「をそのみやびを」と言うものである。はららかに 散るや朝日の 井野川の 古き桜に 道をし聞かな (偐家持) (万葉歌碑)上毛野(かみつけの) まぐはしまどに 朝日さし まきらはしもな ありつつ見れば (巻14-3407)(井野川)(この、大根の花にも似た紫の花はなんという花なるか?)吾妹子の 影と見ゆらし 井野川の 桜の道の まぎらはしかも (偐家持) なお、この旅日記は、あと1回ありますので、どうぞご辛抱(お覚悟?)下さい。 それから、お知らせですが、4月5日の若草読書会の歌会の歌集が偐山頭火さんのご尽力により、河内温泉大学図書館に収蔵されたとのことです。興味ある方は、本ブログの「ホーム」の右欄の「ブックマーク」に入口がありますので、そこをクリックして、該当部分をダウンロードしてお読み下さい。勿論、無料です(笑)。
2009.04.14
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(またも、続きです。) 昨日は、山ノ上碑まで行ったところで終りましたので、これから金井沢碑に向かいましょう。金井沢碑は山ノ上碑の北西2km位の位置にあるが、ひとまず県道に出てから丘陵を回り込むように走るので、実距離は倍近くはある。(金井沢碑) 金井沢碑は、上野国群馬郡下賛(現、高崎市下佐野)郷の屯倉の子孫が先祖の菩提と父母の安穏を仏に祈願するために造ったものとのこと。(金井沢碑の覆屋)(金井沢碑への入口から振り返ると桜が美しく・・)いづくにか 我は宿らむ 風の旅 多胡の入野に この日暮れなば (偐家持) いつしか日は傾き、多胡の入野の夕暮れである。烏川に架かる和田橋を渡る頃はもう山の端に日が沈もうとしていました。日が沈んで暗くなってしまうと、勝手の分からぬ土地では、方向違いに行ってしまいかねないので、明るいうちに市街地に帰って来るというのも心掛けの一つではある。(和田橋夕照)(烏川・和田橋上から) 和田橋の畔に桜の咲き誇っている一角があったので立ち寄ってみると、頼政神社とあった。果してあの源三位頼政を祀る神社であった。宇治平等院の一角に彼の墓があったが、かかる所で彼を祀る神社に出会うとは、やっぱり「世間は狭い」(笑)。もう暮れかかっていたので、写真は暗くなってしまっていますが・・。神社の由来は面倒なので、これも写真でご確認を。(頼政神社)
2009.04.14
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(続きです。) 鏑川とお別れして後は、上信電鉄の線路を方向を定める目印として北東方向にひたすら自転車を走らせる。田中の一本道は行き交う人も車もなく爽快。やがて「山ノ上碑」の標識。左へ方向を転じると、山名八幡神社に出くわした。 余談であるが、上信電鉄は高崎から下仁田へと走っている。下仁田と言えば「下仁田葱」である。下仁田葱と言えば、智麻呂氏の無二の親友、K牧師である。先ごろお亡くなりになられたが、智麻呂氏ご夫妻から色々とお話をお聞きしているので、その近くにこうして来ているのかと思うと、何か懐かしいような、悲しいような妙な感慨が胸の内に生まれるのであった。(山名八幡神社参道) 神社の参道を上信電鉄の線路が横切り、奇妙な光景である。線路の下を潜って山門へ。この神社、応仁の乱で西軍の指揮を執った山名宗全の祖先である、山名義範が造営したものとか。義範は新田義重(新田氏の祖)の子で、この地、山名郷に入って、山名氏の祖となった人物である。昨年2回も訪れた兵庫県の竹田城も山名宗全が築城したものであるから、今回はその故郷というか、父祖の地に来たことになる。こういうのも「世間は狭い」と言うのであるか。(山名八幡) 山名八幡の前から県道30号線を北西に少し行った処を左に入って坂道を登って行くと「山ノ上碑」である。山上古墳があり、その埋葬者のことを刻んでいるのが「山ノ上碑」である。この碑も覆堂に収納されていて、見学者はガラス窓から覗き見るしかないのは、多胡碑と同じである。(山ノ上碑)(山上古墳)(碑の入口近くにある万葉歌碑)日の暮に 碓氷(うすひ)の山を 越ゆる日は 夫(せな)のが袖も さやに振らしつ (巻14-3402) 山ノ上碑の高みに立って見渡すと桜の花のそこかしこに咲いて、鶯が間なくし鳴いて、上野国の山野は春盛りなり、である。 やっと、山ノ上碑まで来たが、本日はここまで。実際に自転車で走っているよりも、ブログにアップする方が時間がかかる気もするのは、如何なる訳か?(笑) 続きはまた明日です。オヤスミナサイ。下仁田は いづくならむや 日の暮に 君し思へば ひたぶる悲し (偐家持)上野(こうづけ)の 国はいづくも 春ならめ 山川清み 風さやに吹く (偐家持)鏑川 瀬音さやけし 岸の辺に 風と遊ばむ 菜の花にもが (偐家持)
2009.04.13
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我が恋は まさかもかなし 草枕 多胡の入野の 奥もかなしも (巻14-3403) 11、12日と群馬県高崎市への銀輪万葉に出掛けて来ました。 上越新幹線高崎駅の南西方向、鏑川沿いの丘の上に、「上野三碑」と称される「多胡碑」、「山ノ上碑」、「金井沢碑」がある。これを自転車で巡ってみようという旅である。ついでに、井野川自転車道(高崎伊勢崎自転車道)も走ってみようという旅でもある。 三碑はいずれも7世紀末から8世紀初めのものとされるから、まさに万葉時代のものという訳である。それに多胡碑に刻まれている人名の中に「左中辧正五位下多治真人」とあるのだが、これは「多治比真人(丹比真人)」のこと。この丹比真人は、丹比嶋の四男、丹比県守だろう。碑には和銅4年3月9日という年月日が刻されているが、この時に正五位下であったのは県守である。であるなら、家持とも関係があるということになる。 丹比嶋の息子に池守(長男)、水守(二男)、県守(四男)がいて、このいずれかの娘(丹比郎女)のもとに大伴旅人が通っていて、この女性と旅人との間に生まれたのが、大伴家持だとする説がある。 この説に従えば、多胡碑には大伴家持の祖父(母方)またはその兄弟の名が刻まれていることになる。まあ、偐家持とも全く無関係ではないという訳になる。そんなこじつけの旅という次第。 多胡碑は鞘堂の中に在る。写真右の碑は江戸時代のもので、多胡碑を詠んだ歌が刻まれている。(写真下右はその副碑) (多胡碑) 多胡碑には他に、穂積親王、左大臣石上尊、右大臣藤原尊の名が刻まれている。穂積親王は大伴家持の叔母であり義母でもある坂上郎女の夫でもあった人物であり、但馬皇女との恋でも有名。石上尊は石上麻呂のこと。藤原尊は藤原不比等のことであろう。 (榎) 多胡碑のある小丘は公園になっていて、榎が黄色い花をいっぱいつけていました。傍らでは、欅の大木が空に枝を張っていました。松風氏の絵のことを思い出したりも。(ケヤキ) 傍らを流れる鏑川は茫洋とした春の景色、川畔は桜、桃が今を盛りと咲き匂い、風がしきりに花を散らせている。河原では菜の花が頼りなげに風に揺れている。上毛野(かみつけの) うららの春の 空霧れて ひとり行く児や 花散りしきる (偐家持)(鏑川の道)(鏑川)(鏑川畔の道) 鏑川畔の道も自転車にはなかなか快適である。しかし、本日はここまで、これから、散歩に行って参る。(国道を避けて田中の道を走る。)妹と来し 道はありけり ひとすじに 吾妻春辺を 恋ひつつ行かむ (偐家持)
2009.04.12
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第31回智麻呂絵画展 本日は皆さまお待ち兼ねの智麻呂絵画展と致します。 早や第31回となります。ご愛顧戴いて居ります皆さま方の応援の賜物と、絵師・智麻呂、美術館長・偐家持、相揃いまして、隅から、隅までずずずい~と、心より御礼申し上げまする。(たんぽぽ)たんぽぽは 見る人なけど 道の辺に 己がままにぞ 春をや咲ける (偐家持)(土筆)つくし摘む 子らの帰りし 道の辺に 夕風吹きて 月の照りゆく (偐家持)(松ぼっくり)松の実の ひとつありけり 思ひ出づ 妹とし行きし 昨年(こぞ)の秋かな (偐家持) (桜1)(桜2)(桜3)病みたれど いのちながらへ かの春に 笑みし桜は 今年も咲けり (偐家持)(桜4) (桃―白い桃の花)真白にも 咲ける花あり 桃の花 愛(は)しき吾妹に 一枝(ひとよ)手折らめ (偐家持)(ひなげし)ひなげしの 赤き花持ち 春風と 少女(をとめ)は行くや 吾が恋の日を (偐家持)(わらび)渡る風 瀬音すがしく なりゆけば 萌えや出づらし 早蕨の里 (偐家持)
2009.04.10
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本日は午後から梅田に出て囲碁の会に出席。I氏、F氏、T氏と各一局して三連敗。今日は筋がよく見えていなくて、いずれも流れの悪い碁になりました。その後夕刻には謡曲の稽古に。「松浦佐用姫」を通しでやって、この曲は今日で終了。次回からは「殺生石」です。 さて、それはさて置き、本日のメイン記事は「偐万葉・真澄篇」です。この方のブログとコンタクトを持ったのは最近のことですが、ちょっと面白い絵を描かれます。 先日ご訪問すると、以前に小生がお贈りした和歌をご自分の絵に添えて居られました。そんな訳で、その絵と和歌をここに転載させて戴くことといたしました。併せ、彼女のブログに書き込ませて戴いたその他の歌もご紹介させて戴きます。(乾杯)をとめらの 花にも風にも 舞ふ春の 明日はたのまじ 今日を尽くさめ (偐家持) 偐家持の真澄郎女に贈りて詠めるその他の歌4首夕風の さやにぞ吹き来(く) 春の宵 咲くや少女(をとめ)は 髪上げつらむ 君が船 離(さ)かりてゆくに 呼び返す すべも知らなく 吾(われ)立ち嘆くをとめらの 遠き眼差し 青き空 ゴビの先なる 旅をや夢む桃の子の 今は春べと 踊るらし 花くれなゐの 風吹き来れば(しだれ桜)(八重桜)(注)絵は真澄さんのブログからの転載です。
2009.04.08
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本日は「偐万葉・大和はまほろば篇」です。 大和はまほろば氏は日々の写真と俳句で構成された、素敵なブログを開設されています。この方の俳句や写真に刺戟されて、同氏のブログに書き込んだ「迷惑和歌(笑)」もいつしかかなりの数になっていました。また、見よう見まねにて、俳句もどきも書き込ませて戴きましたが、今回は俳句は省略です。 偐家持の、大和の国まほろばの麻呂に贈りて、詠める歌22首春告げの 花に誘はれ せうびたき 吾家(わぎへ)の園に 鳴きてや来らむ 春立ちて 妹に恋ふらし 佐紀の山 花鶏(あとり)の鳴きて 飛びゆく見れば遠足の 子らに追はれて つぐみらの 口つぐみけり 藪の深かり樹をたたく コゲラの音の 森に立ち 上枝(ほつえ)の風に 春は光れり木のぼりの 与六の凧か 降りるすべ 知らにと泣きて 夕風の吹く明け烏 鳴きゆく空の 声遠み 醒めもやらぬか 春の朝床長話 いつや果つらん 土手の上 春日(はるひ)がもとに 道草の風シロハラの 清き心を 求めてや 山かけゆくは 君にあるらしすいーとぴー がーべら咲きて 春ならむ 奥に霞も 朧にぞ見ゆびんずいは 鳥にしあれば 疾く飛べど 我はごんずい 飛び立ちかねつゴンズイは 魚(いを)にしあれば 海泳ぐ 我はビンズイ 泳ぎかねつも梅の花 咲きか散るらむ 風そより 上枝(ほつえ)にめじろ 鳴き渡りゆく梅招(を)きて 昼餉(ひるげ)楽しき 草の上(へ)や 春日(はるひ)の照れる 背中のふたつしかなるか 然らば然り しかと知る しかじか言へど 鹿にしかめやジョギングの 足音すなり 梅の香の ほのかに揺れて 足音すなり鳥の風 吹きてか来らむ 雁が音(ね)の 空はも遠み 離(さか)りしゆけば麻衣(あさごろも) 生地粗ければ 太々(ふてぶて)し 読みも違(たが)へり 頭の郎子(いらつこ)よき鳥の よしとよき木に よくぞ来て よき鳥来鳴く よき日よき木に春花の 咲ける盛りや 百鳥(ももどり)の 来鳴きて里は 賑ひにけり 大宇陀の 古き山里 恋ひ来れば 春の土の香 菜の花咲けり妹峠 越えゆく春の 道の辺に さながら咲ける 山躑躅花(やまつつじばな)それぞれに 咲きてそれぞれ 美しき かくあれかしや 人の世も亦 (注)写真は「大和はまほろば」氏のブログからの転載です。
2009.04.07
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本日は若草読書会のお花見。心配された前夜の雨も上がり、昼前には青空も見えて暖かい春の日差しが。ブログ読者の皆様が「よきお花見となりますように」とお祈り戴いたお陰であります。感謝申し上げます。 早朝から場所を確保したので、予定の場所にてお花見ができました。10時半開始。「家持の生涯<その2>」の勉強と、昼食を兼ねてのお花見・宴会。楽しい時間を皆と共に過ごせました。 車椅子の智麻呂氏にとっては野外での「お花見読書会」は特に楽しいものであったようにて、殊の他喜んでいただけたのが何よりでありました。(お花見・見上げるとこんな具合でした。)さながらに 咲ける桜の 花に恋ひ 鳴き渡りゆく 百鳥の声 (偐家持)桜花 吾が恋ひ来れば 生駒山 鳴きや交はせる 鶯の声 (偐家持) 桜花の下で食事をしていると、時折、花びらがハラハラと散って来て、優雅な気分に。鶯も間なくし鳴いて、春の気分に更なる興趣を添えてくれるのでもありました。鶯だけでなく、色んな小鳥たちが頭上の桜の木に立ち寄り、鳴いてくれもしました。そして、智麻呂氏の美しい歌声も。 恒例の歌会もあり、作って来た、桜に因む和歌をお披露目。作り忘れて来て、当日その場で即興で作る人もいましたな(笑)。 午後3時頃には、お花見はお開きとなり、全員智麻呂邸に移って、二次会の談笑。午後6時過ぎ解散となりました。
2009.04.05
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この処は何やかやとあって銀輪散歩も遠出はなく、花園中央公園を起点としての恩智川沿いなど近場を走るのみにて、これといってブログに書くほどのことも余りないのですが、写真と和歌でそれなりに記事にしてみむとて・・。(花園中央公園・桜広場のサクラ) 4月3日はサクラの日。と言っても小生が勝手にそう決めているだけである。花園公園も桜が見頃になって、お花見を楽しむ人で賑っている。恩智川沿いの桜はあと2、3日先が見頃だろう。桜花 咲けどいぶせき 心には 咲きて悲しき 花と見ゆらし (偐家持)(恩智川のナノハナ)菜の花も 咲きてありけり 恩智川 桜に咲けと 笑み贈るらし (偐家持) 恩智川の河原に菜の花が、この処咲き出して、黄色い帯になっている。川はお世辞にも綺麗とは言えないが、菜の花がそれをカバーしてくれています。ということで、今日は黄色い春を見てみましょう。(フサアカシア<ミモザ>) ギンヨウアカシア(ミモザ)はもう盛りを過ぎてしまったが、花園中央公園のフサアカシア(ミモザ)の方は、未だ花の盛りにて、樹木全体が黄色く日に輝いています。金色に フサアカシアの 花咲きて 夕日の道は ひとぞ恋しき (偐家持) (サンシュユ) もう一つ黄色い花を咲かせているものにサンシュユがある。春の花に注目した別名が「ハルコガネバナ(春黄金花)」、秋の実に注目した別名が「アキサンゴ(秋珊瑚)」、「ヤマグミ(山茱萸)」である。山茱萸を音読みしたのがサンシュユである。(水仙) 黄色の春の花と言えば、黄色の水仙もある。レンギョウも咲いていましたが、写真には撮らなかったですな。野の花ではタンポポであるが今日は目に止まりませんでした。 春と言えば、梅、桃、桜となんとなくピンクの花のイメージであるが、黄色の花も結構多いですな。よって、今日は敢えて「黄色の春」としてみました。 しかし、最後にピンクも一つ掲載して置きましょう。(海棠)
2009.04.02
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若草読書会が5日(日曜日)にあるが、今回は凡鬼さんのご提案で、桜の花の下でやろうということになり、枚岡公園の桜広場で、ということになった。そこで、今朝その場所を下見して来たが、問題のあることが分かった。 道が舗装されていない砂利道なのはいいとしても、整備が悪く、凸凹が多く、土砂流失防止用の丸太が処々に埋め渡してあって、それらが車椅子での通行には、坂道であることでもあり、難儀であり、苦労するだけでなく、転倒の危険もあると思われた。(桜広場) そこで、車椅子の智麻呂氏がもっと安全にたやすく通行でき、かつ花見も楽しめるいい場所はないかと、探してみたが、なかなか適当な場所はないものである。 管理事務所の近くの桜の木の下にいい場所を見つけたと思ったら、そこから身障者用トイレに移動しようとすると、車進入止めの金属柵がそれを阻止していて、トイレに行けないことに気が付いた。迂回するルートはないかと探したが、いづれも階段になっていて、駄目。だとすれば、ここにも車椅子用の進入設備を設けるべきではないのか(怒)。場合によっては、この柵を一時的に解除して貰おうかとも考えたが、他を探すことに。 すると一箇所見つかりました。そこは例年花見をしている団体さんの多い場所である。この場所に花見をする人が多いのは、こういう理由もあったのだろうかと思った次第。障害者の眼になって、時には色んな場所を見てみることが必要だ。気付かないままに物理的に障害者を締め出している場所というものがまだまだ結構あるようだ。 今の処、天気予報は日曜日は曇・雨ということで、花の下での読書会が実現するかどうか、危ぶまれる状況ではある。今回も、前回に続いての「大伴家持の生涯」をテーマにしての話である。まあ、西行や紀貫之なら桜の花の下も似合うが、家持と桜は必ずしも連想関係にはないようだから、花見が叶わなくても、それはそれで、いいのではあるが・・。 そうこうしているうちに、雨が降り出したので、それに昼飯時、腹もへって来たので、帰途につくこととした。(椋ヶ根橋付近)
2009.04.01
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