全19件 (19件中 1-19件目)
1

偐山頭火氏からのお誘いで昨日(29日)は自宅から堺まで銀輪散歩して参りました。目指すは「史跡土塔」。堺市土塔町にある我が国で唯一の土で造られた仏塔である。南海高野線「初芝駅」から南西2kmの位置にある。 朝9時近鉄八戸の里駅前待ち合わせ、ということで、余裕を見て8時5分に自宅を出る。8時30分駅前到着。早く着き過ぎたので小坂神社や司馬遼太郎記念館の辺りをぐるりMTB散策して駅前に戻るが、偐山頭火氏の姿は未だ見えない。(小坂神社) 小坂神社は天正20年(1592年)に、この地域を開拓するに当たり18軒の家が水利至便、五穀豊穣を祈願するために、この地に天水分神、国水分神を奉祀したのが起因とのこと。水分(みくまり)とは水を配り与える神、灌漑を司る神であるが、「みくまり」が「みこもり」(身籠)となり、更に「こもり」(籠)と変化して、「小坂こもり宮」となって、安産、子授けの神社として近郷の崇敬を集めたとのこと。明治5年に現在の「小坂神社」に改称された。 9時直前になって偐山頭火氏より携帯に電話あり。彼は夜来の雨が明け方になっても降り続いていたので、中止・順延を小生にメールして、そのつもりでいたようだが、(メールを見ていない)小生が既に駅前に来て居り、好天気になっているとあっては、出掛けざるを得ず、「直ぐ行くので小阪駅に移動してくれ」とのこと。9時20分頃に偐山頭火氏到着。コースは彼に任せて、小生は彼の後を走る。JR大阪東線に沿うように走り、関西本線を越えて平野の町を抜け、高野大橋で大和川を渡って松原市に入る。(瓜破天神社) 神社の説明板によると、「瓜破(うりわり)の歴史を記録した船戸録によると、孝徳天皇の大化年中<645~649年>当地に居住された高僧、船氏道昭が、五月晦日三密の教法観念の折、庵室に光る天神の尊像が現れたので、西瓜を割って霊前に供えた。道昭は朝廷に上申した処、方八丁の宮地を賜り、この霊像を祭祀して当所の氏神として崇め奉り、西の宮又は方八丁の宮と称したのが当社の起源であると記されている。」とのこと。 因みに、この道昭さんは、唐に渡り玄奘に師事して法相教学を学び法相宗を伝えた人物であるが、日本で最初に火葬に付された人物でもある。(高野大橋から望む大和川) 国道309号に出て南へ。松原市から堺市美原区(旧美原町)に入ると大保地区の辺りに日本鋳物師発祥の地の碑がありました。この西側に日置荘(ひきしょう)という地名があるのも偶然ではないのかも。日置(ひおき)は、井奥や伊吹と同様、「火吹き(ひふき)」と通じ、製鉄にかかわる集団に関係する地名であるのだから。(日本御鋳物師発祥地碑) 奥に見えるのは鍋宮大明神の碑。鍋宮大明神は千余年以前この地に居住していた御鋳物師達がその祖神、石凝姥命を主神として祭祀した神社であったが、明治元年廃され、今は南にある広国神社に合祀されている。 広国神社を過ぎた処で右折、西へ。南海高野線初芝駅に向う。 初芝駅前の踏み切りを渡って、西南西に約800m、立派なお社が見えて来る。出雲大社大阪分祠である。ちょっと立ち寄ってみる。(出雲大社大阪分祠。左・偐山頭火、右・偐家持のMTB) 出雲大社にお別れして南西に1km余行くと、目的地「土塔」である。この付近一帯の地名にもなっていて、土塔町という。 最近、復元整備されたとかで、土塔町公園の一角にその端正な姿を誇っている。まあ、余り目にしない構造物であるから一見の価値はあるだろう。(史跡土塔・南西面)(西面)(北面)(土塔模型)(案内板) 土塔は、一辺が約53.1m、高さ約8.6mの我が国唯一の土造のピラミッド状の仏塔で、行基さんが造ったと伝えられている。 (参考) 土塔の文字瓦 さて、時計を見ると12時10分前。空腹を覚えたので、土塔はこれまでと、食事の出来る店を探しに・・。本日はここまで。昼食後の帰路は明日ということで。本日もお付き合い戴き有難うございました(笑)。
2010.04.30
コメント(8)

本日は所用にて梅田に出る予定でいたが、体調が思わしくなく午前中は自重。外出を中止。しかし、昼食を済ませた頃には体調も回復、好天気にてもあれば、読書でもあるまいと自転車MTBでふらりあてもなく散歩に。 花園中央公園から恩智川沿いに北へ、加納地区の緩衝緑地公園から西に走り、河内街道に入って、これを南へ。近鉄若江岩田駅前の踏み切りを渡って八尾市に入った辺りで左折、東へ。河内街道銀輪散歩と相成りました。(宇波神社) 先ず出くわしたのが宇波神社。河内街道の少し東側にある。神社の前から河内街道と並行して南に参道が延びている。昔ながらの脇道は走っていても心が和む。それは人の歩く道だからでしょうな。いつしか多くの道は車線が引かれるなどして自動車が走るためのものとなり、歩行者や銀輪散歩者は遠慮せざるを得なくなっているのだが、脇道は昔のままの時間が流れる歩く道なのだ。ゆっくり走ることとしよう。 宇波神社の境内の石板に刻まれた神社の由来は次の通り。 宇波神社由来 大阪府史跡名勝天然記念物 六郷村大字加納 延喜式内の神社にして埴安姫命を祀る。 社域 268坪 周囲に土塀を廻らせり。 社殿は南面す 一に天王と称せり。 日本書紀 孝元天皇妃 河内青王繋女 埴安姫命 生武埴安彦を祀る。 従三位と記せり。 大阪府全誌 宇波神社は北方瓦口にあり延喜式内の神社にして埴安姫命 を祀れり。 今は熊野と称す創建の年代は詳ならず。 河内国内神名帳には神位を従三位と記せり、明治5年村社に 列せられる。 境内は238坪を有し本殿の他に拝殿・神饌所を存す。 末社には吉野神社・水分神社を有す。 民地は本地一円にして祭日は10月16日なり。 宇波神社の伝説 宇波神社は明治の初年まで宇婆神社の称号で祭祀されてい ました。宇は宇宙の宇であり空を指しています。空は物理的に も真理学的にもはかり知れない大自然の神秘です。婆は娑婆 の婆であり世の中または社会を指しています。 語では忍土堪忍土忍界と漢訳されたものです。又婆の一字 は般若経ではお釈迦様一代の経84000字の中より撰びださ れたる260余文字の中の一字です。 神前にて唱え奉れば宝の御経、仏前にて唱え奉れば花の御経 なり、と言われ神仏一体のいさせ給う真理の心教であります。 宇波神社は昔から門のある神社でした。門のあるのも仏教的な 影響を受けて祭祀されたと思われますが深い因縁があるのでし ょう。 この神社は我が国固有の産土神で鎮守の神として広い地域で の祖先神です。(古箕輪八幡宮) 宇波神社参道から河内街道に戻り、暫く南に行くと右手(西側)に、小さな祠が見えて来る。古箕輪八幡宮である。 神社の説明板に依ると次の通り。 古箕輪八幡宮 もと箕輪(みのわ)村に含まれる古箕輪(こみのわ)は、新開池(しんかいけ)の南東に位置し、大和川 付け替え以前は池の藻草(もくさ)を刈り、魚を採って生活していた漁村で した。新田開発後は農村となりましたが、南方の村々の悪水で例 年作付けに水難を受けるため、踏車を使って悪水を排水し、また 天水場(てんすいば)であるため日照りの時には干害にみまわれたといわれて います。 氏神である八幡宮は、創建は不明ですが、本殿は 一間(いっけん)社流造柿葺(しゃながれづくりこけらぶき)で江戸時代中期の建築とみられ、また境内 の鳥居に寛保元年(1741)の銘があり、拝殿前の燈篭に明和元 年(1764)の銘があることから、新田が開発された後に、神社が 整備されたことが解ります。拝殿には、幕末から明治初めに奉納 された元寇、神功皇后朝鮮出兵図、江戸時代の風俗図、天皇に 将軍・御三家等が供をした加茂明神参詣図などの明彩な絵馬が 残されています。 また、正面左にある燈篭は、天保二年(1831)銘の「おかげ燈 篭」です。竿に「おかげ」と刻むこの燈篭は、江戸時代に伊勢参 宮が流行し、ほぼ六十年毎に「おかげ参り」と呼ばれる集団参宮 が行われた際に、村人達が神恩を感謝して奉納したものです。 東大阪市内には合計18基の「おかげ燈篭」が知られていますが、 文政十三年/天保二年(1831)のものが十三基で最も多く、こ の頃伊勢参宮が非常に盛んであたっことがわかります。 平成十六年十月 東大阪市 河内街道と暗越え奈良街道が交差する角にあるのが菱屋東八劒神社。この神社の北側を東西に走る奈良街道を東へ行けば枚岡。我が里であるが、今はもう少し南へ走ることに。(菱屋東八劒神社) 八尾市に入って東へ向かい、恩智川に出た処で北に戻り、スタート地点の花園中央公園に戻って来ました。 桜広場の周囲のクヌギの木は美しい青葉を風にそよがせていました。(橡の若葉) 生け垣のカナメモチはもう花を付けているものも。(カナメモチの花) そして、勿論、ハナミズキも公園の そこかしこに咲いていました。(ハナミズキ)
2010.04.28
コメント(10)

偐万葉・松風篇(その9) 偐万葉第58弾は松風篇(その9)であります。 松風さんの素晴らしい絵とそれに誘われての偐家持の歌とが織りなすひとつの景色であります。 (参考) 松風さんのブログ入口 過去の偐万葉・松風篇入口 (1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8) 偐家持が松風朝臣麻呂(まつかぜのあそんまろ)に贈りて詠める歌24首並びに俳句3句むら消えの 丘に日は照り それぞれの 冬を過ぎ来(こ)し 木々の立ちける とどめばや 去りゆく冬の 後影 (筆蕪蕉)冬枯れも 店仕舞なり 背子が春 (鶴見野一茶)大池(おほいけ)の 水はぬるめり かへるでの さ枝(えだ)に芽吹く 日をや待たなむ 残雪の 風は蒼(あを)みて 吹き来(く)らし ほつ枝(え)めぐらし 冬木(ふゆき)の立てり消えのこる 雪し少女(をとめ)は 踏みなづみ 迎へか来(く)らむ 鶴見の春を 春草や 鶴見広野に 少女らの キックベースの 声のするなり来し方や 行く末眺む 場所なるか 風車の丘の 小さきベンチ 椰子の木の 何と見しかも 咲く花を 折り散らかして 行ける人をやそれぞれの 時を生くなり 曙(あけぼの)の 杉にはいまだ 春の来(こ)なくも (注)アケボノスギ=メタセコイア 水底(みなそこ)の 森にもあるや 紫の 鶴見の朝の 今し明け行く蒼き木は いのちためつつ とき待つや はだれのいまだ 野にのこりたる (偐家持) (注)はだれ=まだら雪 春花の 散らまく惜しや 大池の 水面に影を 見まく欲り来ぬ (春愁家持)鶴見野に 駆ける蹄の 音(おと)すなり 春駆けゆける 足の音(と)すなり 冬の午後 丘に薄日の さしも来て 枯れにし木々の やはらみゆけり妹と我 相見し時は 花水木 小道に咲きて ありし日なりき さみどりの ポプラの芽吹き 春なれど いや朝寒に うちや震へる五月雨の 止みて大川 もやひ舟 三つばかりが たゆたひにけり 五月雨や 松麻呂の絵も 水だらけ(筆蕪蕉)ひさかたの 天(あめ)ゆ光の 葉に降りて 鶴見は青き 色に染みゆく (青家持) 牢獄の 格子の破れ 今ぞ行く そこなる風車 この槍受けよ (ラ・マンチャの男)虞美人の 花の裔かも 我さらに 何か嘆かむ 鶴見の雨に (偐虞美人草) 春雨の しくしく降るに 鶴見なる 丘のポピーの いかにかあるらむ (山辺西人)春雨の しくしく降れば 鶴見なる 丘の絵人は やすみてあらむ (池辺雨人)釣棹を 持たず釣りする 釣り人の 釣りにけらしや 淀の松風 (偐太公望) 藤の花 水底(みなそこ)深く 吹く風に 揺れて咲くらむ 薄き紫眺むれば 夢もうつつも 降る雨に 溶け合ふらむか 松風の丘
2010.04.27
コメント(10)

大阪はもう桜の季節も終りを告げようとしていますが、北の国では今が、或いはこれからが、見頃ということでもあるでしょう。 去り行く桜を惜しんで、ブログに掲載し損ねた桜の風景をここにまとめて掲載し、お花見の仕上げと致します。 ついでに、菜の花も(笑)。桜色だけでは単調になるので、菜の花にも共演いただきます。 最後に脇役として「おばあちゃん」にもご登場いただきましょう。(桜-1)(桜-2)(桜-3)(桜-4)(桜-5)(桜-6)(桜-7)(桜-8)(桜-9) さて、お花見、堪能戴きましたでしょうか。網膜が桜色に染まってしまっては、世の中ピンクの靄がかかって見えても不都合でしょうから、菜の花の黄色で中和して下さいませ(笑)。(菜の花-1)(菜の花-2) 菜の花の根がどんなであるかをご存じない方が多いのではないでしょうか?かく言う小生も下のグロテスクなものを目にするまで、菜の花の根のことを考えたことがありませんでした。 それにしても、上部構造の可憐な美しさに比して、その下部構造の何と兇々しいことか。菜の花の生命力の強さはこの根のまがまがしい力強さに在ったのですな(笑)。久しぶりに或る種の感動を覚えました。(菜の花の正体) (追記) 上の蕪のお化け、よく見ると菜の花とどうも葉の形状が異なるように思われます。それに小生の記憶ではやはり菜の花の根は「ヒゲ根」のような気がします。菜の花畑の近くに打ち捨てられていたことと花がよく似ていたことから、てっきり菜の花と思い込みましたが、今、思うにこれは菜の花ではないのかも知れません。正体不明として置きます。(2010年4月25日) おまけに、もう一枚。 土手でよもぎを摘んでおられるおばあちゃんです。(よもぎ摘み) こもよ みこもち ふくしもよ みぶくしもち この土手に よもぎ摘む 大刀自 家きかな 名のらさね・・・ですな(笑)。
2010.04.24
コメント(8)

今日は終日雨。時に激しく強く降り、気温も低い。北の方では雪が降り、冬に逆戻りしたとか。皆さま体調管理には十分お気をお付け下さいませ。 ヤカモチも本日は家でおとなしくお留守番をして居りまする。 という訳で、本日は昨日の銀輪散歩で見つけた花を掲載して置きます。 この花は何と言うのでしょうか。房状の花。木の葉は梅の葉のようでもありますが、初めて目にしました。 ウメモドキという木がありますが、房状の花は藤のそれに似ていなくもないので、フジモドキという名に一応して置きます(笑)。正しい花の名前ご存じのお方、ご教示下さい。 nanasuguさんから「リラ(ライラック)」だとお教え戴きました。 リラの名は知っていたのに、それがどんな花なのか分かっていなかったようです。そう言えばリラの花、こんなに間近に見たのは初めてでありました。(ライラック<リラ>の花) こちらはドウダンツツジ。秋には美しく紅葉するが、漢字表記はこの春の花の時期に着目してのものでありますな。即ち、満天星と表記します。(満天星)さみどりの 空に満ちたる 星の花 さ夜や待ちかね 今しも咲きぬ (偐家持)吾が恋は 満天星(どうだんつつじ) 夜をこめて 降りしや星の 散らず咲きぬる (偐家持)(追記) 偐山頭火氏から、先般の若草読書会のお花見の際の歌集が河内温泉大学図書館に収納された旨のメール通知が先日届いて居りました。興味のある方は同図書館にアクセスしてご覧下さい。 河内温泉大学図書館 入口 若草歌壇-2010年花園春
2010.04.22
コメント(12)

偐万葉・木の花桜篇(その5) 本日は偐万葉シリーズ第57弾、木の花桜篇(その5)であります。木の花桜さんのブログに書き込んだ偐家持の歌と木の花桜さんの返歌と同ブログの写真とが織りなす景色をお楽しみ下さいませ。 (参考)木の花桜さんのブログ 入口 偐(にせ)家持(やかもち)が木花桜姫(このはなさくらひめ)に贈りて詠める歌23首 並びに木花桜姫の返しける歌6首ヒヤシンス 咲きぬる朝の 気は澄みて 桜の旅の 道晴れ渡れ よき春を 心おきなく 楽しめと 道もなびくや 桜の旅は思ふこと ばかりなりける ヤカモチの 弥山(みせん)は遠き 安芸道(あきぢ)の彼方 (只坐(たざ)家持)清盛の 祭の人や 寄す波の 安芸の宮島 春日(はるひ)は照れり (平家持) 木花桜姫の返しける歌2首 消えやらぬ 炎もとめて 春霞 共に参らむ 神々の峯 姫神の 鎮まり給ふ 宮島の 岸に波よす 春のあけぼの花たちも それぞれに咲く それぞれの 春にしあれば 人もそれぞれ花散らで 月も曇らぬ 世にありて ものは思(も)はねど わが身にあらず (あの世の西行) 木花桜姫の返しける歌 花は咲き 散りゆくさきの かの君に またの逢瀬を 契りてやまむ (押しかけファン)チューリップの 花ほどなくも 水仙翁(すいせんのう) 負けず咲かむと いづちや来たる 名こそまだ 新大阪と いふなれど あたらしからず 古くもなけど (中古大阪)浪速にも 咲くやこの花 春盛り 吉備の桜も 来たりて咲くや花遍路 桜桜の 西行の 咎にやあらむ 踏みぞ迷へり桜姫の 庭に桜の なくあれば 親指姫の 花咲きにけり (小指爺)何思(も)ひて 黒く咲けるや パンジーの 花の心は ひとの知らなく (黒家持) すみれにも やさしき春の 風ならめ よしと咲くらむ 吉備の野辺はも (偐赤人)桜花 散りての後も 楽しまむ 園の水面(みなも)に 浮かむ花筏 (先憂家持) 芽吹きたる 青葉に問へば 吾亦紅(われもこう) 花咲く時を 待てといふらし (我も恋ふ家持)行く春を 惜しめと云ふや はららかに はららかに散る 桜花はも 散りてなほ 地面(ちのも)水面(みなも)に 薄紅(うすべに)の 色楽しまむ 桜花はも葉桜の さやげる風に 百鳥も 来鳴きて憩へ さみどりの陰 (青葉家持)秋山の 我が恋ふらくは 桜木の もみぢなりけり 色こそ益され (黄葉家持)アメリカの 山の法師に な負けそ 大和をのこよ 汝(なれ)ヤマボウシ (応援団長家持) 山の神 荒ぶる時は かしこみて 拝むほかなき をのこの道は (恐妻連盟)ひこばえの 木の芽育ちて 花水木 我家(わぎへ)の春に 蝶とや咲きぬ (根性有木) 木の花桜姫の返しける歌2首 ひこばえの 意味を調べる 大辞林 重きをおけば 雨上りをり ひこばえに 比古婆衣もあり 大辞林 大和ことばの おもしろきかな吉備姫の 庭に黍(きび)なく 茶畑の あるとは知らじ 宇治のいらつこ (茶椀家持) 木花桜姫の返しける歌 白き花 咲くは茶の木と 知りぬれど 茶葉一つだに なきぞ悲しき (太田の老女) (過去の「偐万葉・木の花桜篇」の入口) (その1) (その2) (その3) (その4)
2010.04.21
コメント(8)

この処よく雨が降る。まあ、お陰で読書が少し進みます。今日も朝の内は雨でした。夕暮れ近くに少し銀輪散歩して来ましたが、風が強く、灰色の空高くを巨大な獣が咆哮を上げつつ駆け抜けてゆくかのようでもありました。横から煽られると時にバランスを崩すのではないかと思われる位の強い風である。 15日にご紹介した花園公園のサトザクラは、この強風にも負けず花をしっかり咲かせていました。むしろ花の数は更にも増えたようでボリュームアップしている。(サトザクラ 1)(サトザクラ 2)(サトザクラ 3)(サトザクラ 4) わが庭のツツジも咲き出しましたが、この処、元気なのは苔である。近寄ってよく見ると、苔の青々とした美しさはなかなかなものである。 小さな虫になって、苔の森の奥深くに遊んでみましょうか。(苔の森)果てもなき 緑なす森 いにしへの 人も未だゐぬ 頃の夢なり (偐家持)(これは何という名の苔であるのか。)(こちらはスギゴケですな。)(視線を低くして横から眺めると、原始の森林のよう。)(さて、苔の森の奥深くに入ってみましょう。) 庭の片隅にも小さな宇宙がありました。苔の森の いづち眠るや 奥深く ギリアーク人の 夢の醒めなく (偐家持)
2010.04.20
コメント(10)

偐万葉・るるら篇(その4) 本日は、偐万葉シリーズ第56弾、るるら篇の(その4)であります。 (参考) るるらさんのブログ 入口 偐家持がるるらの郎女に贈りて詠める歌19首 並びにるるらの郎女が返して詠める歌9首明言(あさごと)の 聞くことなけれ しののめの 雲に影立ち 思ひぞ益さる胡蝶蘭 常世の川を 行く時は 守り導け 蝶としなりて 上2首は、るるらの郎女の下記歌2首に返して詠めり。 東雲の 明ける雲間に 道ひらく 清き心を はこび行く船 地に帰る 雨の雫の ひとつぶに 想い染みゆく 涙にも似て思ほえば 満ち欠け常ぞ 月讀(つくよみ)の さやけき見つつ この道行かめ くちづけの あとやほのかに 頬染むる 真白き花の 妹の愛(かな)しけいにしへの 清(きよ)けき魂(たま)の 守人(もりびと)と なりてさやけき 森ゆくるるら (裏山のトトロ) るるらの郎女の返しける歌 寛大に 清けき魂の 守人を 見守る人の 心やさしくトランクの 無き鍵に泣く 年の暮 ばしょは取らぬと もとにもどしつ (松尾場所迂) (注) ふるさとや 臍の緒に泣く 年の暮 (芭蕉) 足柄(あしがり)の み坂越ゆらむ その日には 袖や振れかし 吾(あ)をし思はば (偐るるら)筑紫なる み苑の夜の 火明(ほあ)かりを 吾(あ)は忘れめや 吾妻に行くも (吾妻郎女)ゆりかもめ ゐ群れ描ける 花の絵は るるらに贈る 姫小百合花 (カモメのジョナサン)言の葉も ただため息と なりぬらむ 木々とふ木々の 白雪の花ウェルかめや るるらのカメラ ふたつあり それぞれ紡ぐ メルヘンの糸 (亀麻呂) るるらの郎女の返しける歌2首 スキップで 裏山巡る めちゃ楽し 寒さも飛んで 気持ちも飛んで 一眼( いちがん)で 撮ったら世界が 広がるな 広がりました ピン呆けの数 (篠山苦心) 筑紫なる 妹のいかにや 花便り 絶えて久しく なりにけるかも春日(はるひ)照る 筑紫の桜 我妹子は 花の風にぞ 乗りや来たらむ見も果てぬ 夢にはあれど としごとに 花や咲くらむ 散らまく惜しも るるらの郎女の返しける歌 露玉の ごとく儚き 幻の 泊まり宿なり 桃桜花 (ねぼけ御前) 河内では 深紅に咲きて 花椿 筑紫をとめは 桃色の花 (椿家持)筑紫風 いたくな吹きそ 我妹子の 植えし薔薇(さうび)の 花の咲く日は玄海を 吹き来るときは 心せよ 風よしまらく 薔薇見ても行け るるらの郎女の返しける歌2首 すくすくと さうび育ちて 花咲かば 風神様も 我が庭愛(め)でな (嘆願るるら) 天つ神 河内の兄の 歌聞かば 風神太鼓 静めらるかも (小澤精一杯) 花衣 心にまとふ ものなれば 裁(た)ち縫(ぬ)はず着よ 筑紫女(つくしめ)の春 るるらの郎女の返しける歌 花衣 憧れまとふ 時は過ぎ 脱ぎて晴れるや 心の宵ははなみづき 咲きてもあれば はなみずに 行くことかたし るるらなりけり るるらの郎女の返しける歌 時空超え 照らせる景色 浮かび来る 眼鏡お持ちか 河内の兄は (参考)偐万葉・るるら篇 (その1) (その2) (その3)(注)掲載の写真は全てるるらさんのブログからの転載であります。
2010.04.18
コメント(10)

昨日の雨も上がり好い天気となったので、午後から銀輪散歩に。 コースは南に。いつもの通り、恩智川沿いを東大阪市、八尾市、柏原市と走り、大和川へ。国豊橋で大和川を渡り、国分神社まで。 (参考)国分神社(国分神社<但し本写真は昨年撮影のものです。>) 帰途、喫茶nanaでコーヒー休憩(タバコ休憩かな?)。 (参考)喫茶nana このコースは幾度となく銀輪散歩している。道すがらの大抵のものが既にブログで紹介済みなので、これと言って取り上げるものもなくあれば、道すがらの花などでも。と言っても今回は菜の花位しか撮って居りませんですなあ。(菜の花と生駒山系の山並) 恩智川沿いの池島遊水池公園の菜の花越しに見る生駒山系の山容は、やはらかで優しい。 大和川の河川敷にも菜の花が今を盛りと咲いていました。 そして新緑が美しい。(大和川)(大和川の菜の花)(河川敷は菜の花の黄色、黄色の春の風です。)(新緑も日に映えて) 上の写真は国豊橋の上から、下流を眺めたもの。後方は近鉄大阪線の鉄橋です。橋を渡った左側に国分駅がある。 国豊橋を渡って左折し、坂道をうねうね登って行くと国分神社である。途中で、若草読書会のメンバーでもあった、今は亡き寿郎女さんの住んでいらしたマンションの前を通りました。(クヌギの新緑) 帰途は、いつものことだが、喫茶nanaで一休み後、自宅まで一気に走る。途中でロードバイクの男性を追い抜いたら、しばらくして追い抜き返された(笑)。まあ、レースなどする気はさらにもないので、彼の後にピッタリ、つかず離れずにて、走ることに。東大阪市に入った処で彼は右折し、ワレは直進、お別れいたしました。 帰宅して、パソコンを開き、直近に本ブログを「お気に入り」にご登録下さった栃木県ご在住の「くまんパパさん」(そのブログの副題が「坂本野原の日記」とあるので、小生は坂本原麻呂<さかもとのはらまろ>さんとお呼びしようかと思ったりしていますが・・)のブログを開くと、何と、高橋虫麻呂の長歌「島山を い行き廻れる・・」が掲載されていました。 この「島山」というのは、水面を隔てて対岸に見る小山などを意味する普通名詞と考えられているが、固有名詞とし、大和川が龍田越え付近で蛇行する辺りの左岸にある、現在の芝山であるとも言われている。 今日行った国分神社の裏が、その芝山なのである。「くまんパパ氏」こと坂本原麻呂殿は、まるで、小生の銀輪コースをご覧になっていたかのように、虫麻呂のこの歌を掲載して居られた訳で、その偶然にいささか驚いたのであります(笑)。 (参考)「島山をい行きめぐれる・・」の高橋虫麻呂万葉歌碑 くまんパパ氏のブログ 入口
2010.04.17
コメント(6)

今日は時に小雨がパラつくなど肌寒い日になりました。遠出は止めて、近くを軽く銀輪散歩をしただけ。 途中で智麻呂邸をご訪問したら新作が早くも4点完成していました。理学療法士のT君(なかなかの好青年です。)がやって来たのと入れ替わりに智麻呂邸をお暇いたしましたが、彼は智麻呂氏のリハビリを定期的に介助・指導下さっている。 3月28日の第55回絵画展で「ケアマネのTさん」としてご紹介した筍にまつわるエピソードは、このT君とのことであったようです、ケアマネさんとご紹介したのは、小生の早トチリか聞き違えでありました。ここに訂正して置きます。 さて、そんな訳で、銀輪散歩の方は、これと言って記載すべきことも特にないのでありますが、花の写真など撮りましたので、銀輪花遍路(その3)といたします。 ソメイヨシノはあらかた散ってしまいましたが、先般お花見をした花園中央公園の桜広場に立ち寄ると、ひと際濃いピンクの八重桜が今を盛りと咲き誇っていました。同じ桜なのに遅咲きのせいで、花見する人影もなく、ちょっと気の毒であります。ということで、偐家持が皆さまにお花見しても戴こうと写真をアップする次第。(サトザクラ)(サトザクラはオオシマザクラを母種とする園芸品種とのこと。)(接近してみると、確かに八重桜です。)(オオシマザクラが母種というのは、この標識の受け売りでした。) 地面は散ったソメイヨシノなどの桜の花ビラで桜色に。水面に落ちて、か寄りかく寄り流れると花筏と名付けられるが、地面に落ちたそれは何と呼ぶのでしょうか。花莚(はなむしろ)とでもして置きますか?(花莚) 米国ワシントンDCのポトマック川畔の桜は1912年(大正元年)に、当時の東京市長であった尾崎行雄がワシントン市に贈ったものという話は有名であるが、その返礼として1915年(大正4年)米国から贈られて来たのがハナミズキである。アメリカヤマボウシという名もある。 最近は街路樹や庭木としてよく目にするが、花園公園のハナミズキも花を咲かせ始めている。(ハナミズキ・白)(小生はどちらかと言えば白が好きだが、紅のハナミズキも なかなか可愛い。) 乙女椿の大輪の花は相変わらず次々と花を付け、未だ健在である。こういう花を見ると、やはり桜の花は短命で儚く散ると言うほかない。 サツキも咲き始めた。あと2週間もすればもう5月。時の移ろいのなんと早いことよ。(オトメツバキ)(サツキツツジ) 間もなくツツジが咲き匂う季節ですな。万葉集の歌でも美しい女性を形容するのに、桜と並んでツツジが用いられていますから、桜で始めたこのページをツツジで閉めるのは、理に叶っているのであります。まあ、いずれにせよ花遍路は、かくて尽きることなく続くのであります。 ・・・青山を ふりさけ見れば つつじ花 香(にほえ)をとめ 桜花 盛(さかえ)をとめ・・・ (巻13-3305) それはそれとして、余り外の花ばかりを愛でていると我が家の花たちがヤカモチ、いやヤキモチを焼きますかな(笑)? 我が庭のツツジも蕾を付けて間もなく咲きそうです。(我が庭のツツジ)水伝(みなづた)ふ 磯の浦廻(うらみ)の 石上(いそ)つつじ 茂(も)く開(さ)く道を また見なむかも (巻2-185 舎人)(水際の磯のめぐりの磯つつじが繁り咲く道をまた見ることがあるのだろ うか。) (注)この歌は草壁皇子<天武天皇と持統天皇の子>が亡くなった時 に舎人達がその死を傷んで詠んだ歌23首のうちの1首である。風早(かざはや)の 美保の浦廻の 白(しら)つつじ 見れどもさぶし 亡き人思へば (巻3-434 河辺宮人(かはべのみやひと))(風早の美保の浦の白つつじよ。見ても心が楽しまない。亡くなった人の ことを思うと。)
2010.04.15
コメント(12)

本日は囲碁の会の日。天気も好いのでいつもの通り銀輪で出掛けることに。大阪城公園経由梅田スカイビルである。 碁の方は、Ao氏、Ar氏、H氏、T氏、F氏と小生の6名出席。小生はAr氏と2局して1勝1敗。その後、F氏に1勝して、3戦2勝1敗でありました。 大阪城公園は、八重桜など未だ咲き残っている桜もあるが、ソメイヨシノは殆ど散ってしまい、青葉の美しさがむしろ目につくようになっていますな。地面は散った花ビラでピンク色に染まっている。(大阪城公園・森の宮入口)(大阪城公園・老人の森) なんで、「老人の森」という名が付いているのだろう? この森はホームレスの人達のブルーシートが並ぶ一画であり、小生が現役の頃、自転車で通勤する時には、決まって彼らに「おはようございます。」と声を掛けて通ったもので、彼らから「おはよう。」と声を掛けて戴いたりもあったのだけれど、強制退去させられたのか、今は人影もない。勿論、ブルーシートもない。(山吹) 桜のピンクに代ってヤマブキの黄色が美しい。観光バスが停まって団体さんがゾロゾロ。中国人の観光客のようであります。 さて、山吹と言えば、この歌が先ず思い浮かぶ。やまぶきの 立ちよそひたる 山清水 汲みに行くかめど 道の知らなく (巻2-158 高市皇子)(山吹の花が美しく飾っている山の泉に汲みに行って、蘇らせたいと思うけれど、その道を知らない。) この歌は十市皇女(額田王と天武天皇の間の娘で、壬申の乱で死ぬ弘文天皇<大友皇子>の妃)が亡くなった時に、それを悲しんで高市皇子が作った3首の歌の一つである。ヤマブキの黄色と山清水の泉で「黄泉」、よみの国を表現している。 他の2首は下記の通り。)三諸の 神の神杉 夢(いめ)にだに 見むとすれども 寝(い)ねぬ夜ぞ多き (巻2-156)(三輪山の神木の杉、その神聖な杉の木に対するように、かしこみ慎み、せめても夢の中だけでも逢いたいと思うのだけれど、寝られない夜が多いことだ。) (注)「夢にだに身むとすれども」の原文は「已具耳矣自得見監乍共」で、定 訓を見ていない。この訓は、具を目の誤字、矣自を谷の誤字、得を将の 誤字、乍を為の誤字、即ち<已目耳谷将見監為共>と見て、解釈してい る。 (日本古典文学大系)三輪山の 山辺(やまべ)ま麻木綿(そゆふ) 短木綿(みじかゆふ) かくのみ故(から)に 長くと思(おも)ひき (巻2-157)(三輪山の山の辺にまつる、ま麻木綿、その短い木綿のように、皇女の命も短いものでしかなかったのに、私は長くいつまでもあるものと思い込んでいた。) 大阪城公園にお別れして、天満橋にさしかかると多数の人が橋を行き交っている。自転車が通り難い。大阪造幣局の桜並木の通り抜けの見物客の人波だ。大阪天満宮の北側の裏道に入ったら、星合池という小さな池がありました。(星合の池)(星合橋) 上の説明文にあるように、古くからある池のようだ。この池の前の道を西に行くと天満天神繁昌亭の横に出る。
2010.04.14
コメント(4)

第56回智麻呂絵画展 お待ちかね智麻呂絵画展の開催であります。 本日は全国的に雨。晴耕雨画。ごゆるりと智麻呂絵画をお楽しみ下さいませ。 先ずは苺などお召し上がりになりつつ、ごゆるりとお過ごし下さいませ。(苺 1) こんなに美味しそうに描かれると、歌もべったりと甘いものにする必要があるというものですな。苺らの 甘きその香は 春風と 来たるや赤き しあはせの色 (偐家持) 恒郎女様といたしましては、幸せの赤い色もさることながら、味わう幸せの方を、とお思いなのでありますが、智麻呂氏の絵はなかなか仕上がらないのであります。何しろ赤い色がやたら多いですから、赤鉛筆を何度も削らなくてはならないのです。「白い苺はないのかしら?」と思われたかどうかまでは偐家持も存じませぬ(笑)。 下の苺は下書きの苺です。智麻呂氏としては没にするおつもりのようでしたが、偐家持が勝手に公開です。(苺 2)(モクレン)木蓮の 寡黙に咲きて 夕暮れの 春野に遠き 雲ぞ立ちける (偐家持)(桜) 玉子焼きの 上に ひらり 車椅子の 師に はらり 春の お便り (景郎女) 上の歌は先日の若草読書会のお花見で、景郎女さんがお詠みになられた歌でありますが、ちょいと拝借させて戴きました。(エンドウ)豌豆の 豆ころころと 縁側に むきつつ母の 語らく日もが (偐家持)遠き日の 影や立ちぬる 豌豆の 青き香指に 染みてもあれば (偐家持)(カイドウ)復活祭(イースター)の 日にてもあれば したたかに また咲きてあり 海棠の花 (偐西行) 上の歌の真の意味が理解できるのは恒郎女様などごく限られた方だけの筈です。ここで、それを講釈することはさし控えます。読書会のお花見の日は復活祭の日でもありましたので、智麻呂邸の海棠の花も力強く復活して咲いた、というだけにして置きます。 下の蕨と土筆は小万知さんが、錦織公園の春野で摘んでお持ち下さったものです。(わらび) 蕨とくれば、万葉集中の名歌の一つ、これでしょうな。犬養孝先生の最初の講義はこの歌の朗唱から始まりました。石(いは)走(ばし)る 垂水(たるみ)の上の さ蕨(わらび)の 萌(も)え出(い)づる春に なりにけるかも (巻8ー1418 志貴皇子) 土筆の歌は万葉にはありませんな。偐万葉集には土筆も欠かせぬと偐家持皇子の詠みける歌1首若草の 里につくしの 萌え出でて 今は春べと なりにけるかも (偐家持) まあ、やっつけの間に合わせ歌にてもあれば、万葉名歌と比ぶべくもありませぬが、偐万葉なれば、これ位が丁度よきかと(笑)。つくしても つくしても和歌 ぼけた春 (木瓜蕪蕉)(つくし) 下の水仙は凡鬼・景郎女ご夫妻がお持ち下さったものです。(水仙) この水仙、智麻呂氏はとてもお気に召したのか、小生がお訪ねした先日には花瓶の中でドライフラワーのようになっていましたが、そのまま身近くに置いて居られました。恒郎女様が「もう萎れて来たから他の花と差し替えるわね。」と仰ると、「いや、もう少し待て。」とのこと。花はとことん見届けて上げる、それが智麻呂流のようでもあります。<参考>前回(第55回)の智麻呂絵画展は コチラ です。 第54回以前は第55回の末尾に入口を表示しています。
2010.04.12
コメント(14)

アクセス件数が昨夜、深夜のうちに66666件を超えていたようです。朝、そのことに気付き、確認しましたが、遡れるのは直近50件までで、ゾロ目の66666件目がどなたであるかは、不明です。午前2時過ぎまでに確認して居れば、どなたであるかが分かったのですが・・(笑)。 本日は8日の奈良銀輪逍遥(4月9日の記事)の続編とします。理由は、その時の未掲載写真が少しばかり残っているから(笑)です。 奈良教育大学構内の吉備塚古墳訪問は空振りとなったので、来る途中で見かけた崇道天皇社に立ち寄ることにした。真備と何の関係があるのか?まあ、無関係なのであるが、敢えてこじつければ少しは関係がある。 崇道天皇とは桓武天皇の同母弟の早良(さわら)親王のことである。この兄弟の父親が光仁天皇(白壁王)であるが、聖武の娘・称徳天皇崩御後の天皇擁立に際して、白壁王擁立につき真備は藤原永手らと共に尽力したのであるから、早良親王が後に桓武天皇の皇太子(弟)となったのも、真備らの光仁天皇実現への尽力があった結果であるということになる。まあ、こういうのは法律家が言うところの相当因果関係に当たるというものでないのは勿論のことであるから、その後の早良親王の運命につき、真備は何の責任もないというのは論を俟たない。(崇道天皇社) 早良親王は光仁天皇とその夫人高野新笠(たかののにいがさ)との間の第二皇子である。兄が山部親王(桓武天皇)である。光仁天皇の正夫人、井上皇后とその子、他戸皇太子の廃后・廃太子事件があって、皇太子の地位が山部親王に回って来る。桓武天皇となって弟の早良はその皇太子の地位につく。 平城京を長岡京に移すに当って推進派と反対派との対立が生まれるが、長岡京が完成した直後、新京造営の責任者で桓武の信頼厚かった藤原種継の暗殺事件が起こる(785年9月)。この時逮捕された大伴継人(橘奈良麻呂の乱で捕えられ獄死した大伴古麻呂の子)が「首謀者が家持で、早良皇太子も関与している。」と証言する。家持は事件の発生前の8月に68才で死亡しているが、生前、早良が皇太子となった時に、そのお世話をする春宮大夫になっている。 早良は無実を主張するが容れられず、廃太子、淡路への流罪となる。淡路への途次、早良は病に死す。後日に冤罪と判明するが、その後の都に次々と起こる災危異変は早良親王の祟りだと考えられるようになり、その魂を鎮めるため、崇道天皇という称号を贈り、丁重に祀ることとなる。所謂、御霊信仰である。 この神社もその一つである。この神社は桓武天皇の子の平城天皇の世、大同元年に創建されたとのこと。この神社から南東に行った処にも崇道神社というのがあったかと記憶する。 家持も、死んでいたにも拘わらず、墓を暴かれ、息子の永主共々、隠岐へ流されることとなる。後日に名誉回復となるが、悪霊となって世を騒がせない処が家持の家持たる由縁である。もっとも悪霊となるためには、死ぬ時に恨みを持っていることが必要なので、家持は死んでからの処罰なので、悪霊になり損ねたに過ぎないのであるか(笑)。 まあ、その代り、後世、大伴一族の末裔、伴大納言絵巻で知られる、応天門の変の伴善男が悪霊の仲間入りを果たして居りますな(笑)。いずれにせよ、悪霊歌人は戴けませぬ。家持さんはいい時に死んで下さったと言うべきか。 で、その後も生き続けている偐家持は何?これは人畜無害の人にやさしい亡霊(有機野菜のように)であって、悪霊では勿論ありませぬ。 崇道天皇社から循環道路を渡って「ならまち」に入ると、そこでも御霊神社があった。元興寺塔跡の南隣である。(御霊神社)(井上皇后・他戸皇太子を中央に、早良親王に加えて藤原広嗣も祀られている。やはり、広嗣も悪霊の一員なのだ。)(拝殿の吊り灯籠と枝垂れ桜) なら町から猿沢池に出ると三条大路である。東の突き当りが春日大社の一の鳥居。西に向うとJR奈良駅前を通り、近鉄尼ヶ辻駅に至り、駅西側の垂仁天皇陵の前に出る。この三条大路に面してJR奈良駅の手前500メートル位の処に第9代開化天皇陵がある。欠史8代の内の一人にて実在性については疑問とされているが、垂仁天皇から見れば祖父にあたる人物である。 なお、この三条大路をひたすら西に向うと暗(くらがり)峠へと続く暗越奈良街道・国道308号線となる。一度奈良から自宅までこのルートで走ってみようと思いつつ未だ挑戦していない。(開化天皇陵)(参考)光仁天皇陵(田原東陵) 「奈良銀輪散歩(その2)」 <追記訂正>誤字が一部にあり、これを訂正。(2021.11.29.)
2010.04.11
コメント(6)

本日は銀輪散歩のついでに智麻呂邸を訪問。新作の絵、4点を仕入れて参りましたので、近日中にまた智麻呂絵画展を開催致します。どうぞご期待下さい。 そして、夜はドラマ「大仏開眼・後篇」を楽しみました。 恭仁京への遷都、そして難波への遷都、安積皇子の暗殺、平城への復都、大仏開眼会、聖武崩御、仲麻呂の乱と展開し、大津で仲麻呂が敗死する処まででドラマは終わりました。仲麻呂の傀儡的な天皇であった淳仁天皇(大炊王)は登場しませんでしたが、乱後に、孝謙は淳仁を廃し淡路島に流罪とし、重祚して称徳天皇となります。淳仁は明治になってその名を貰ったものにて、それまでは淡路廃帝と呼ばれていたとのことですな。 2007年11月に淡路島一周銀輪旅をした時に淳仁天皇陵を訪れたが、この時に歌を1首作っていますな(参照 「淡路島一周銀輪の旅2」)。淡路の 八幡の野辺の みささぎは 尾花が風に しぐれてあらし (偐家持) (淳仁天皇陵) 恭仁京は、JR加茂駅から木津川を渡った処にある。昨年10月に恭仁京址を訪ねています。(参照 「加茂から京都まで」)今造る 久邇(くに)の都は 山川の さやけき見れば うべしらすらし (巻6-1037 大伴家持) 恭仁大橋の少し上に木津川に注いでいる和束川という川がある。この和束川沿いに信楽へとつながる道を上ってゆくと茶畑の中にポツンと安積皇子墓がある。藤原氏の血筋でない皇子は反藤原勢力にとっては有望な皇太子候補であったのだろうか。何かの本でどなたかが、大伴家持は万葉集を編纂して、この安積皇子に奉げるつもりでいたのではないか、というよなことを書いて居られたと記憶する。 昔、今は亡き父と二人で徒歩でこの墓を訪ねたことがある。秋口の暑い日のことであったように思う。父がしきりに「未だ着かないのか」と言い、私が「もう直ぐです。」と決まって答える、というやりとりをしながらの道中であったが、父は少しバテ気味であったのでしょうな。この頃は父も未だ元気で、よく二人であちこち出掛けたものであった。 難波の宮跡は大阪城の南側、NHK大阪の目の前にある。(難波宮跡) 難波宮跡の南側には大槻能楽堂がある。来月も能を観に行く予定にしているが、この辺りはけん家持の銀輪近隣散歩の範囲内でもある。 ドラマで仲麻呂は琵琶湖畔で死ぬが、大津プリンスホテルの少し西側に、仲麻呂が琵琶湖を渡って越前へ逃げようとした場所と言われている処がある。仲麻呂が越前へ逃がれようとしたのは、息子が越前国守をしていたから、そこで態勢を立て直そうとしたのだろう。それを見越した真備ら朝廷軍に先回りされ、瀬田唐橋を封鎖されてしまい、船での逃亡も果たせず命を落とすこととなったもの。 もう一人の登場人物、「玄ボウ」さん所縁の寺が、法華寺の隣にあります。海龍王寺という小さな寺がそれ。この寺の初代住持が「玄ボウ」です。(海龍王寺) 以上、大仏開眼後篇にことよせて、在庫の古い写真などをアップしてみました。
2010.04.10
コメント(4)

昨日は奈良を銀輪散歩して来ました。平城京址公園の遷都1300年祭に向けての準備も大詰めを迎えているようです。(東南側から見る大極殿)(北側から見る大極殿) 桜は散り始めているが、まだ十分にお花見を楽しめる。桜の樹の下では、お花見をする人たちが、思い思いの場所に憩っている。(平城京の桜)(桜と大極殿はよくマッチする。)あをによし 寧楽(なら)の京師(みやこ)に 咲く花の にほふがごとく いまさかりなり (巻3-328 小野老)(ムクドリだろうか。大型の黒っぽい二羽の鳥が、桜のほつ枝に止まり、戯れる。すると、はらはらと花びらがひとしきり舞い散る。)鳥だにも 心あらばや な散らしそ かけてひととせ 今し咲く花 (偐家持) 目を東に転ずると、春日の山が一望できる。左から若草山、花山、高円山である。花山の手前には円錐形の御蓋山があるのだが、写真でもよくは分らない。手前の森は東院庭園の隣の神社(宇奈多理坐高御魂神社)の杜である。(右の高円山の山腹には大文字焼きの大の字の跡が見える。 左の若草山の手前には東大寺大仏殿が見える。) 春日なる 三笠の山に 月も出(い)でぬかも 佐紀山(さきやま)に 咲ける桜の 花の見ゆべく (巻10-1887) 短歌は57577であるが、上の歌のように577577の形式のものは旋頭歌と言います。万葉集には、575777という仏足石歌体の歌もあります。長歌は57・57・・・57・7と57を繰り返し最後の57にもう1句7を付けるもの、5・75・75・・・75・77と5のあと75を繰り返し最後の75にもう2句77を付けるものがあります。仏足石歌は、57長歌の一番短いものに、75長歌の77を付けたものと言うべきですかな。(まあ、これは偐家持の勝手な論ですから、話半分でお聞き流し下さい<笑>。) 平城京址公園を出て北に向うと、佐紀の地である。第13代成務天皇陵、第11代垂仁天皇の皇后の日葉酢姫陵と背中合わせに、孝謙(称徳)天皇陵がある。NHKドラマ「大仏開眼」にも登場する阿倍内親王、その人の墓である。<参考>孝謙天皇発願の寺・西大寺と彼女の歌碑は コチラ 参照。(称徳・孝謙天皇陵) 御陵は県道に向き合っている。三条通りの開化天皇陵もそうであるが、遷都祭との絡みか参道入口が整備されて新しくなっている。成務天皇陵の方へ回る小道に木瓜の花が可憐に咲いていました。(木瓜の花)(日葉酢姫陵) 日葉酢姫陵と成務陵の間の道を北に行き、近鉄京都線の踏み切りを渡ると神功皇后陵がある。(神功皇后陵) 東に行くと水上池、磐之媛陵、コナベ・イワナベ古墳などがある。小生の好きなスポットでもあり、つい足が向く。(水上池)後方奥手前の小山は平城天皇陵である。(後方の山は生駒山である。) 佐保川の桜を愛で、高畑の奈良教育大学を目指して自転車を走らせる。同大学の構内には吉備真備の墓と伝えられる吉備塚古墳があるらしいのだが。(佐保橋から見る佐保川の桜。後方は若草山) 奈良教育大学の正門前でガードマンさんに吉備塚のことを尋ねると、発掘調査が済み、今は跡形もない空き地になっているとのこと。予想外のことであったが、折角来たので、跡地だけでも見てみようと構内に入れて戴く。(吉備塚古墳は跡形もなく。)(吉備塚古墳跡から望む高円山)春雨の しくしくふるに 高円の 山の桜は いかにかあるらむ (巻8ー1440 河辺東人)(ご覧の通り何もない空き地です。花見して帰ろ。)(吉備桜?)<注>小生の不勉強にて、どうやらここにての発掘調査の結果、 長大な建物遺構が発見されたらしく、その建物は新薬師寺 金堂であるとのこと。 (参照 新薬師寺金堂発掘調査) 奈良町を自転車散歩して帰ることに。元興寺塔跡の桜も今が盛りでありました。(元興寺塔跡の桜)(奈良町散策の観光客が次々に訪れる。)(奈良の都の八重桜今日九重に・・) 元興寺は明日香の法興寺(現在の飛鳥寺、蘇我馬子建立の我が国初の本格的寺院)が奈良遷都に伴い、718年に移転して来たもの。七堂伽藍を備え北の興福寺に対して南寺と称される大寺であったが、平安時代中期以降衰退し、やがて3寺に分裂する。五重大塔は安政6年(1859年)の火災で焼失。礎石が残るのみである。(奈良町の一角) ドラマ「大仏開眼」を拝見するにつき、吉備真備さんのお墓参りでも、と思って出掛けて来ましたが、墓が逃げた(笑)。チャンチャン。マジの真備でした。
2010.04.09
コメント(14)

本日は囲碁の会で梅田へ。夕刻から会食があるので電車で出掛けました。先般、大学同窓会の囲碁サークルで5戦全敗したことを書きましたが、どうも負け癖がついてしまったようで、H氏と1勝1敗、Ar氏に1敗、Ao氏に2敗で、1勝4敗と不甲斐なき成績でありました。 囲碁のあと、この程、役員に昇進したN氏へのお祝いと、役員を退任され顧問に就任されたI氏、顧問を退任されたY氏へのご慰労とを兼ねて、一席を設けました。気の置けない友人3人との久しぶりの楽しい会食にて愉快なひとときを過ごすことができました。部屋の床の間には、唐の詩人・李白の漢詩の額がかかっていました。いかなる意味かと調べたら下記のようでありました。 両人對酌山花開 両人対酌すれば 山花開く 一盃一盃復一盃 一杯 一杯 復た一杯 我酔欲眠卿且去 我酔いて眠らんと欲す 卿且(しばら)く去れ 明朝有意抱琴来 明朝 意有らば 琴を抱きて来たれ (訳) 二人差し向かいで酒を飲んでいると、丁度、山の花が開いていく。 一杯、まあ一杯、また一杯 私はどうやら酔って眠くなったようだ。君は帰るなと好きにしてくれ。 明日の朝、その気になったら琴を持って来てくれよ。 下戸のけん家持は、アルコールが入ると直ぐに眠くなるので「我酔欲眠」はとてもよく分かります。でも友人の和麻呂氏ではないから琴はたしなまず、「抱琴来」の処はよく分かりませんな。小生なら「抱碁盤来」ですかな。負けても懲りないところがヤカモチ流であります(笑)。
2010.04.07
コメント(12)

昨日4日は若草読書会のお花見でした。今年は花園中央公園の桜広場で。昨年の枚岡公園に続いて、けん家持は早起きして場所取りに。朝5時に起きて、5時半に公園に到着。ところが、ビニールの紐が張り巡らされて昨夜のうちに多くが場所取りされていて、驚きでした。幸い、小生が予定していた場所には未だ紐で囲い込まれていないスペースがあったので、そこにシートを敷いて、占有の意思表示(公示行為)とする。 隣の男性は、昨夜のうちに紐で場所を囲い込み、午前2時過ぎに再びやって来て、その番をしているという。恐れ入りました。 日の出前とあって結構寒い。温かい飲み物が欲しくなる。持参の登山用コンロでお湯を沸かそうかとも考えたが、面倒なので近くの自販機でホットコーヒーを買って、パンで朝食とする。6時20分頃から生駒山の稜線に太陽の昇る気配。やがて日の出。桜たちが輝きを益し、地面に木々の影を長く描く。 下の写真は日の出の後、太陽に向って花越しに撮影したものです。(花園中央公園桜広場の朝日)(朝日に匂う桜花)(前日3日の花園ラグビー場前の桜) 出席者は智麻呂・恒郎女ご夫妻、凡鬼・景郎女ご夫妻、謙麻呂氏、偐山頭火氏、槇麻呂氏、小万知様、遠路東京からの祥麻呂氏、りち女様、そしてけん家持(偐家持)の11名(香代女様は二部の智麻呂邸での宴から参加)。 午前10時智麻呂邸に集合し、そこから現地にやって来るということで、他のメンバーの到着は10時半頃になるかと思っていたら、9時20分頃に前後して凡鬼氏、偐山頭火氏が電話をくれて、間もなく偐山頭火氏、続いて凡鬼氏が来て下さった。家持一人に番をさせるのは気の毒との嬉しいお心遣いであります。 10時半には智麻呂氏以下6名到着。お花見開始。遅れて2名到着し予定の全員が揃っての楽しいお花見となりました。 智麻呂氏の車椅子を押して公園のお花見散歩をしたり、今回は課題図書も講義もなく、それぞれにお花見を自由に楽しみました。菜の花、タンポポ、海棠、椿、ハナニラ、ユキヤナギ、カラスノエンドウなども花見の対象にするのが智麻呂式であります。枝垂れ桜の枝が枝垂れずに上に伸びている「枝上がり桜(?)」もありました。 残念ながら、お花見が始まってからの写真は、公園の片隅のタンポポの写真1枚(下掲)のみでした。(タンポポ) お花見は午後2時頃に撤収。全員、智麻呂邸に引き上げ、それぞれが用意して来た和歌や俳句を発表して、談笑。香代女さんも到着し、第二部は恒郎女様が下拵えして下さっていた、たこ焼きパーティーに。6時半頃に解散。 次回の読書会は6月20日と決まりました。 当日の和歌・俳句は追って河内温泉大学図書館にて公開の予定です。 恒郎女様の歌(長歌?)にヤカモチが反歌を付けてみました(笑)。 若草の 年に一度の 桜見(はなみ)会 コンビニ弁当 幕の内 家に帰りて 蛸の宴ぞ (恒郎女) 反歌 たこ焼きも 桜海老なる 薄紅の 色に染まりぬ 若草の里 (偐家持)
2010.04.05
コメント(16)

NHKドラマ「大仏開眼」楽しく拝見しました。藤原4兄弟が天然痘で死亡し、橘諸兄が政治の中枢に座る処から、藤原広嗣の乱まで、聖武天皇の東国行脚の手前で終りましたが、一時間半のドラマでは、表面をなぞるだけで、もひとつという感じが拭えませんな。後半に期待しましょう。 それでも、お馴染の人物が登場するので、興味深く、まあ楽しく見ることが出来ました。衣装なども興味深く見させて戴きました。 大伴家持も少しだけ登場しましたですな。しかし、実際の家持はあのように公式の場で藤原氏を批判したとは思えないのですが・・。 家持が最初に登場する場面は東院庭園で和歌を奏上している処でありましたですね。 以前の銀輪散歩で撮影した東院庭園の写真をアップして置きます。(東院庭園) 平城遷都1300年祭のために遣唐使船の復元模型も建造されているが、その工事中の写真です。(遣唐使船) 藤原広嗣の乱は、この男そのものが人の信頼を維持できるような人物ではなかったこともあって、たちまちに鎮圧されてしまうのであるが、都にもそれに呼応する動きがあったことが、聖武天皇の東国遍歴(天武天皇の足跡を辿ったとも言われているが)の原因だという説に依ったドラマの展開になっていたように見えました。 広嗣については、本ブログでも取り上げたことあります。 <参考>2009年5月19日奈良銀輪散歩(その1) 聖武天皇・光明皇后陵や藤原不比等の屋敷跡で後に光明皇后の皇宮職(紫微中台)を置いた場所であった、現・法華寺の写真は次の記事に出ています。 <参考>2009年4月20日磐之媛と光明皇后(朱雀門から大極殿を望む。) 古い写真ですが、藤原仲麻呂が父・武智麻呂の菩提を弔うため創建した、奈良県五条市の栄山寺の八角堂の写真も掲載して置きます。 (栄山寺・八角堂)
2010.04.03
コメント(10)

昨日は終日雨。今日も朝のうちは雨であったが、午後から雨も止んだので、自転車で近隣散歩に。今日も亦、銀輪花遍路(続編)であります。 昨日は、雨に強風ということで、桜の花の如何にやあらむと、心配であったが、サクラさんはまだ頑張って咲いていて、ひと安心といった処でありました。(心合寺山古墳の桜) 後方は生駒山系の山 心合寺山古墳<しおんじやまこふん>は八尾市にある古墳である。 <心合寺山古墳関連記事> 秋の気配(2009.8.22.) 桐の花散りにけるかな(2008.5.11.)(墳丘の上)(墳丘に生える2本の桐の大木) 華やかな桜の傍らにクヌギが花を付けていました。「咲いていた」とは言いにくい形状の花である。(クヌギの花) クヌギ(橡・椚)は、万葉集では「つるばみ」として登場します。紅(くれなゐ)は 移ろふものそ 橡(つるばみ)の 馴れにし衣(きぬ)に なほ及(し)かめやも (巻18-4109 大伴家持) <紅色は華やかだがすぐに色褪せてしまうもの。地味なつるばみ色に染めた衣に及ぶことがあろうか。> この歌は、越中国守であった家持が、妻を国に残して単身赴任で来ていた部下の尾張少昨(をくひ)が遊行婦の左夫流児(さぶるこ)に夢中になっていたのをいさめたものである。ベニバナで染めた衣に対するに本妻をドングリで染めた衣に喩えた家持であるが、世の奥様方はブーイングでしょうな(笑)。男にはよく分る比喩であるが(笑)。(クヌギの花房ーミモザには負けてますか?)橡(つるばみ)の 衣(きぬ)は人みな 事無しと いひし時より 着(き)欲しく思ほゆ (巻7-1311) <つるばみ染めのように目立たない衣が無難だと皆が言ったので、その時から着たいと思うようになったことだ。>橡(つるばみ)の 衣(きぬ)解き洗ひ 真(ま)土山(つちやま) 本(もと)つ人には なほ如(し)かずけり (巻12-3009) <つるばみの衣を解いてまた打つ、真土山ではないが、そんな昔のもとの人が、やはり一番いい。> クヌギにこだわり過ぎました。桃の花に目を転じましょう。 移ろうものにありても、やはり・・(笑)。 可憐に美しく咲いて。(桃) 花遍路なれど、懐かしさを感じさせる町の家並などもご覧戴きましょう。 古びた板壁の路地に迷い込むのもいい。 壁が少し剥がれ落ちているのも風情をかもす眺めである。(寶積寺) (大竹観音堂)
2010.04.02
コメント(10)
全19件 (19件中 1-19件目)
1