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<承前> 犬上川に掛かる橋の名が面白い。 むちん橋。無賃橋。江戸時代、天保初期に彦根藩が一般からの募金により犬上川のこの地に橋を築造させたとのこと。橋は有料であるのが普通であった当時、一般の募金で造られた通行無料の橋が珍しくあったので「無賃橋」と呼ばれるようになったのでしょうな。 橋のたもとには「むちん地蔵」のお堂もありました。(むちん橋) 無賃なれど、「むちん橋」は渡らず、川沿いに県道197号線を下流へと走る。途中、見事な花を咲かせているサルスベリの木がありました。(サルスベリ)(同上) JRびわこ線を越えて800mほど下流、犬上橋のたもと、宇尾町交差点で右折し北へ。県道208号線である。芹川に出る手前にある長久寺へと向かう。(宇尾町交差点。ここで右へ入る。) しばらく走った処で、小さなお堂のある場所でペットボトルなどに水を汲んでいる人の姿。何だろうと覗いて見ると、十王村の水という石碑が目に入る。湖東三名水の一つ、十王村の水であった。 <参考> 十王村の水(十王村の名水) 何本ものペットボトルを段ボール箱に詰めて持ちこみ、水で満たしては、箱に戻して居られる。上では次の方が大きなポリ容器数個を足元に置いて先客の水汲みが終るのを待って居られる。皆さん、車で水を汲みに来られているのですな。(同上)(同上説明板) 上の説明にもある通り、湖東三名水とは、五個荘清水ヶ鼻の水、醒井の水、十王村の水を言うそうな。 現在のこの辺りの地名は彦根市西今町であるが、昔は十王村と称していたということですな。 「十王村の水」から2km余北へ、橋向町交差点を右に入った処に長久寺がある。この寺を何故訪ねたかと言うと、番町皿屋敷のお菊のお話のモデルとなった事件が彦根藩で実際にあったとのこと(注)で、その「お菊の皿」がこの寺に現存して居り、お菊の墓もこの寺にはある、ということであったからです。これは下記<参考>の「1.長久寺」の記述によって知ったことであります。 <参考>1.長久寺 2.長久寺(彦根市)・Wikipedia(長久寺) 摺針峠には今回行けませんでしたが、中山道の摺針峠への登り口までは行きました。そして、摺針峠という名で小生が思い浮かべるのは「摺針峠の山の宿場で番場というところがござんす。」という番場の忠太郎が母との再会の場面で自分が息子の忠太郎だと名乗る際の出だしの言葉です。この「瞼の母」はドサ芝居では代表的な出し物。「番町皿屋敷」もドサ芝居ではよく取り上げられる。どちらも彦根に所縁の地があるとあっては、訪ねてみたくもなるというもの。 いや、普通はそんな風には考えませんですかね。これは小生の若い頃の或る経験から来る、極めて個人的な特別な「連想」に依るのでありました。その「或る経験」については申し上げる程のことではありませんので、此処では割愛させて戴くこととしましょう(笑)。 お菊の皿はどうせ見られないだろうと思っていましたが、お菊の墓も境内の何処にあるのかよく分りませんでした。寺の裏には墓地がありました。お菊の墓もその中にあるのかも知れませんが、寺の境内にはそれを示すものは何もありません。人影もなく尋ねる人もなし。雨がポツリ、ポツリし出した。時刻も5時を過ぎている。ということで、探すのは諦めて寺を後にした次第。<注>番町皿屋敷に似た話は姫路の播州皿屋敷が有名であるが、類 似の話は、北は岩手県滝沢村、同江刺市、南は鹿児島県南さつ ま市まで全国各地にあるそうなので、彦根のこれもその一つとい うことになる。<参考>皿屋敷・Wikipedia(同上)(同上・閼伽井)(同上・本堂)(同上)(同上)(芹川・芹橋上から) 寺から県道208号線に戻り、北へ。芹橋を渡る。 万灯流しの大きな文字が川に。広島原爆投下の日の8月6日に行われるのですな。調べると、原爆の火が彦根市日夏町の本覚寺に保存されて居り、いつの頃からか、ひこね万灯流しの灯篭の火は、この原爆の火を用いて点火するようになっているらしい。 <参考>原爆の火 ひこね万灯流し 芹川沿いにケヤキ並木の道を走り、池州橋から右に入り、彦根城に向かうというのが本番でのサイクリングコースなのだが、お天気の具合が怪しくなって来たことと途中の寄り道などで時間が予想以上に掛かってしまい時刻が5時を過ぎていたことから、お城に回る下見は取り止めにして駅前に戻ることとしました。 駅前到着午後5時半。これにて第1回目の下見完了です。来月中に再度下見銀輪散歩をすることとします。今度は芹川沿いを走り、彦根城も回って、行程所要時間を測ってみます。それに琵琶湖畔にある万葉歌碑にも寄り道と言うか回り道をしてみたいと思いますので・・(笑)。 中途半端な、下見にもなっていない、下見銀輪散歩の詰まらぬ記事にお付き合い下さり有難うございました。本当の下見は、来月ですので、懲りないお方は、どうぞまたお付き合い下さいませ(笑)。 =完=
2013.07.31
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<承前> 今回の下見の結果、コースを変更して、当日本番は芹川沿いに彦根市街へと走る予定にしましたので、以下は当日は走らないこととなります。しかし、記事は今回の「下見」についての記事なので、当初案の通り更に南下、高宮宿へと向かう記事となります。(唯称寺) 唯称寺という寺の山号は「鳥籠山」となっているので、写真に撮りました。鳥籠山は万葉にも登場するが、それが何処の山であるかは諸説があって定まらない。近江路(おふみぢ)の 鳥籠(とこ)の山なる 不知哉川(いさやがは) 日( け)のこの頃は 恋ひつつもあらむ (万葉集巻4-487)犬上の 鳥籠の山なる 不知哉川 いさとを聞こせ 我が名のらすな (万葉集巻11-2710) 鳥籠の山(床の山)は、芹川に架かる大堀橋の北東側の小山・大堀山(鞍掛山とも言う)がそれだという説や名神高速彦根ICの東側の正法寺の背後の山(宮山、桧峯、金毘羅山など)とする説、小野付近の山とする説、佐和山とする説など色々あって、どれと定まらないのはその名の如く現代の我々を嘲弄しているのでもあるか(笑)。それは「いさや<不知哉>」ですかな。 そして当然のことながら「いさや川」もその名の通り、芹川説、小野川説、犬上川説などあって、どの川とも我々は「いさや<不知哉>」なのである。(近江鉄道踏切) 中山道を横切って近江鉄道が走っている。道路が線路を横切っているのか線路が道路を横切っているのかは、見る人の視点によって異なるのであろうが、鉄道よりも中山道の方がずっと先輩であるから、この場合は鉄道が中山道を横切っているでいいのだろう。 線路を越えた辺りから高宮地区である。高宮宿である。中山道六十九次の中でも本庄宿(現、埼玉県本庄市)に次いで2番目に大きい宿場と言われた高宮宿である。(高宮宿)(同上)(宿駅「座・楽庵」) 高宮神社の鳥居前に宿駅「座・楽庵」おとくら、という趣のある建物がある。旧近江商人「布惣」跡である。高宮上布の卸問屋の跡である。 高宮上布とは、愛知(えち)、犬上(いぬかみ)、神崎(かんざき)地方など高宮の周辺で産出される麻布のことである。高宮には布座が許されていて、各地から集まる麻布を全国に売っていた。 高宮の布は繊細で美しく、献上品としても使用され、高宮嶋とも呼ばれたという。最近、この高宮上布を復活させようとの地元の活動によって、それが復活しつつあるとのこと。(布惣跡)(同上) 高宮神社に立ち寄る。鳥居脇の表示板によると祭神はニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの二神とのこと。ご夫婦ですな。(高宮神社)(同上) 中門脇の庭の中に芭蕉の句碑がある。 をりをりに伊吹を見てや冬ごもり (折々にあの伊吹山を見ての冬籠りとは羨しい暮らしぶりだ。) この句は、元禄4年10月中旬、大垣の千川亭に招かれた際の挨拶吟であり、支考編「笈日記撰集」では上の通り「伊吹を見てや」であるが、如行編「後の旅集」では「伊吹を見ては」となっている。 小生の手元にある「芭蕉全句集」には掲載されていないが、高宮の地で詠んだ句に「たのむぞよ寝酒なき夜の古紙子」というのがあるとのこと。芭蕉は当地の小林家に逗留したことがあり、この句はその折の句らしい。小林家には芭蕉が着ていた紙子(当時の雨具)を埋めた紙子塚があるそうだが、これを知ったのは帰宅してからのこと。(芭蕉句碑)(高宮の大鳥居) 高宮神社から少し南に下った処に大鳥居がある。 多賀大社の一の鳥居であり、中山道から此処で道を東にとると多賀大社なのである。と言っても距離はかなりある(3km余)ので、今回は行かず。 奥の細道の旅では芭蕉と曽良は多賀大社に詣でているから、この鳥居を潜って道を東にとったのであろう。 芭蕉は大垣へと向かう前に彦根(平田)に立ち寄り、そのついでに多賀大社に寄り道しているのであるが、このような旅人も多くあったのだろう。高宮は麻布の集散地としてだけでなく、多賀大社の門前町と言うか中継地点としても栄えたのであったろう。(同上説明板)(高宮宿案内板)(多賀大社への道) そして、何故か大きな石のタヌキさんが鳥居の近くに鎮座。福々タヌキとある。(福々タヌキ)(円照寺) 円照寺という同名の寺が奈良市にもあり、その名につられて門前に近寄ってみると、境内には徳川家康が腰掛けたという石があるらしい。家康が腰掛けた石は、それと伝わらぬものも含めれば、無数にあるだろうから、珍しくもない筈であるが、このようにものものしくすると名所旧蹟となるから面白い。偐家持だって今日一日を振り返れば既に何箇所かで石に腰掛けているのだから。 そして犬上川。いさや(不知哉)川がこの川だという説もあるが、真偽の程は、我、「もはら不知哉」であります。(犬上川)(同上) これより川沿いの県道197号線を下流に向かって走りますが、もう字数制限に掛かりそうです。続きは次回とします。(つづく)
2013.07.30
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九月に若草読書会で彦根へ一泊旅行することとなっている。一日目は希望者によるサイクリングということとなり、小生がそのコース選定と案内役を仰せつかった。 で、取り敢えず考えたのは、彦根駅前発12時半頃~龍潭寺~鳥居本宿~中山道~高宮宿~犬上川沿い県道197号線~宇尾町交差点右折~橋向交差点右折・長久寺~芹川沿い道(芹橋~池州橋)~夢京橋キャッスルロード~彦根城~彦根駅前16時45分着、というものでありましたが、これを4時間15分で回るのはちょっと無理のようです。 高宮宿、犬上川はカットし、大堀橋から芹川沿いに下り、池州橋からお城に向かうという形にコースを短縮変更することとしました。これでもそうのんびりしていられないかも知れないので、また折を見てこのコースで走ってみることとします(笑)。 ということで、カットすることとなった部分や当日は立ち寄らない予定の場所などを中心に、今回の「下見を兼ねての銀輪散歩」の様子をご紹介申し上げます。(彦根駅前・井伊直政像) これは若草読書会のメンバーでサイクリング参加者に向けての写真であります。当日は駅西口前のこの像の前で小生待っていることとしますので、此処にご集合下さい。(同上・説明板) レンタルサイクルセンター(写真下)は駅前のお城通りを西へ一つ目の信号の角にあります。(駅前・レンタルサイクルセンター) 先ず、お城とは反対方向の佐和山を目指す。 ちょっと分かり難いのですが、地下道を潜ってJR線の東側に出る。佐和山はもう目の前。(佐和山) 佐和山城は石田三成の城。佐和山の南西麓に石田三成屋敷跡という石碑がある。今は竹林があるばかり。(石田三成屋敷跡)(佐和山山麓の高み、石田三成屋敷跡付近から彦根城を望む。) 佐和山への登り口は井伊家菩提寺の龍潭寺の脇にある。 当日は登らないが今回の下見では登って参りました。頂上までは下から約1km。頂上の本丸跡には佐和山城跡の碑が立っているだけ。 (佐和山登山道)(塩硝櫓入口)(西の丸跡)(同上説明板)(佐和山頂上・本丸跡)(同上説明板) 夏草やつはものどもが夢の跡、ではないが、南西側彦根城などが見える方向に眺望が開け、「武士の夢」と記された木標が立っていた。(山頂からの眺め)(同上) 山頂からは中山道の宿場・鳥居本へと下る道もあるのだが、龍潭寺前の駐車場に自転車を停めているので、来た道を引き返す。 国道8号線に出て、佐和山トンネルを潜って鳥居本宿へと向かう。(佐和山トンネル)(同上)(近江鉄道・鳥居本駅) 国道8号線沿いにある近江鉄道の鳥居本駅。 可愛らしい駅舎である。 自転車で走る予定の中山道は国道8号線の東側を通っている。 中山道に入り、先ず北へ走る。 摺針峠の登り口まで行って引き返すことに。再度鳥居本宿を通り、その南にある高宮宿へと向かう。(中山道矢倉付近)(摺針峠への登り口) 奥の細道の旅で敦賀から彦根へとやって来た芭蕉は多賀大社に詣でた後、摺針峠を越えて大垣へと向かったのであるが、この地は中山道と北国街道の合流点でもある。 鳥居本宿を出て南下。芹川に架かる大堀橋を渡った処にある石清水神社で小休止。鳥居本宿~芹川間については読書会サイクリングの本番で走ることになっているから、後日ご紹介ということで、今回は省略です。(大堀地区・石清水神社)(扇塚)(同上)(かどや跡地)(同上) この後、高宮宿へと中山道を南下しますが、もう字数制限のよう。続きはページを改めます。(つづく)
2013.07.29
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第123回智麻呂絵画展 本日は久々の智麻呂絵画展と致します。 どうぞご来場、ごゆるりと智麻呂絵画と遊んで行かれませ。 <参考>他の智麻呂絵画展は下記から。 第1回展~第100回展 第101回展~第200回展 第201回展~ 今回は少し趣向を変えまして、作品のご紹介に先立ち、智麻呂氏のアトリエをご紹介申し上げます。(智麻呂画伯のアトリエ) 智麻呂邸をお訪ねしたこの日のアトリエには、描きかけの朝顔の絵がありました。傍らの朝顔の鉢植えを眺めながら、直前まで絵を描いて居られたようであります。 傍らの朝顔の鉢植えは東京の祥麻呂氏から毎年この時期に贈られて来るもの。そして、毎回、このようにして絵にされるのでありますな。 しかし、色鉛筆の数が半端ではない。この鉛筆を削るのは奥様の恒郎女様のお仕事。智麻呂画伯がご機嫌うるわしく絵を画くことが出来るのは、「骨身を削る」・・いや、この場合は「鉛筆の芯を削る」奥方様の献身ありてこそなのであります(笑)。 そして、朝顔の絵は下のように完成したのでありました。(朝顔) 若草読書会メンバーの東京在住組の今一人の方、リチ女さん。彼女は朝顔ではなく、毎年酸漿の鉢植えを届けて下さっている。これも毎年絵になる。今年のそれは下のような絵(酸漿1)になりました。(酸漿1) 智麻呂さんが酸漿が特にお好きであるのかどうかは存じませんが、リチ女さんへのお礼もあって毎回その絵を描かれる。その他でも見掛けた酸漿を描かれることがあるので、その点数は結構な数になっている。今回の分を別にしても、これまでに当絵画展に出展された酸漿の絵は15点もある。 そういうこともあってか、智麻呂さんが通って居られるデイサービスの施設の方達は、智麻呂さんは酸漿が大好きなのだと思って居られる。ということで、施設で酸漿が手に入ると1本とか2本とかを画材にと土産に下さるらしい。それが下の酸漿2と3である。 (酸漿2) (酸漿3) また、その施設では通って来て居られる方々のお誕生月に合せてお誕生日会が開かれる。そして、「お誕生日おめでとう」他のメッセージカードを添えてお花が贈られる。7月は智麻呂氏の誕生月。下の「トルコキキョウ」と「バラとラン」は、その施設でのお誕生日会で智麻呂さんが戴いて帰って来られた花である。 その施設の名称が「アンデスのトマト」という面白いものであるのだが、ヤカモチ館長は、「アンデスのトマトのトルコキキョウがニホンではなくイッポンであるか」なんぞと、ひとり面白がっているのである。(トルコキキョウ)(バラとラン) 智麻呂氏は週2回デイサービスに行かれます。一つは上の「アンデスのトマト」で、もう一つが以前その建物の写真をこのブログでもご紹介したことがある(2013年3月30日の記事)「福寿苑」である。 その福寿苑でのお誕生日会で戴いたのが下のルドベキアの花である。(ルドベキア) 次は、お誕生日会ではなく、ご近所の可愛い姉妹、智麻呂さんの最も若いお友達である、みずきちゃん・さきちゃん姉妹のお姉ちゃんのみずきちゃんがくれた小さな小さな紅色の貝殻の絵です。 この可愛い貝(殻長1cm余)は、みずきちゃんにとっては大事な宝物。仲の良い智麻呂さんにあげたい、あげたいけれど大切なお気に入りの宝物、その葛藤の中、逡巡しつつも、「あげたい」という智麻呂さんへの気持ちが勝ったようで、智麻呂さんの手元に・・。(イタヤガイ科アズマニシキ) この貝は、図鑑で調べるとイタヤガイ科のアズマニシキという貝のようですが、同じイタヤガイ科のヒオウギガイというのにも似ています。両者の区別・異同などは存じ上げませんので、一応アズマニシキということにして置きます。智麻呂氏もアズマニシキと絵に書き添えて居られますが、これはヤカモチ館長がそう申し上げたからにて、もし間違っていたら、その責任はヤカモチ館長にあることとなります(笑)。 (実物写真) 余りにも小さな貝なので、その実物を見て写生するのは困難。そこで館長がデジカメで撮影し大きく印刷して、智麻呂さんが貝の姿を肉眼でもた易く見て取ることができるようにして差し上げました(笑)。 みずきちゃんの気持ちをよく理解していた恒郎女さんは、「写真に撮って貰ったから」と貝殻をみずきちゃんに返して上げました。みずきちゃんはとても喜んだそうです。 可愛い、そしていい話ですね(笑)。(メロン) ご近所と言えば、こちらのメロンもご近所の東◎さんからの戴き物であります。スパッと切った切り口も瑞々しく、メロンの甘い香りが漂って来そうな絵です。 尤も、当ブログにも度々コメントを頂戴している、新潟のふぁみり~キャンパーさんはメロンが苦手のようですから、彼以外のご来場者の皆さま用のデザートであります。(栗ぜんざいとゼリー) これは小万知さんのお土産とか。今年は「夫婦善哉」の織田作之助の生誕100年の年らしいですが、若草小万知は「栗ぜんざい」でありました。(茗荷) これは、偐山頭火さんの茗荷。彼の庭で採れた茗荷です。 実物は?とお聞きすると、これは写真から絵にされたとのこと。偐山頭火氏が摘んだ茗荷を皿に盛り、写真に撮って「画材」にと持って来られたのでありました。智麻呂さんは「画材」でありますから「写真」でも十分なのでありますが、恒郎女さんとしては、「食材」の茗荷の方が有難いのでありますな。そこの処、偐山頭火殿、よろしく(笑)。(合歓) これは、暗峠の先の奈良県側に咲いていた合歓の花の写真(当ブログ掲載のもの)を絵にされたもの。 合歓の花は、先日のヤカモチ館長の象潟銀輪散歩の記事でもその写真を沢山掲載いたしましたが、智麻呂絵画展にも登場と相成りました。 その象潟銀輪散歩の土産の絵が以下の2点です。うどんといぶりがっこ漬けは「画材の道」よりも「食材の道」の方を選んだようですな(笑)。(ピリ辛きゅうり)(鳥海山のどぶろく) では、にごり酒にごれる飲みて、草枕しばしまどろむ、ということで、これにて今回の絵画展お開きと相成りまする。 どちら様もおやすみなさいませ。zzzzzzzz・・・・。
2013.07.27
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<承前> 観音潟・勢至公園を後にし、旧道を北へ。エホバの証人の昔「をとめ」達から教えて戴いた通り、最初の辻を右に行く。国道7号線の下を潜ると大きな池。竹嶋潟である。(竹嶋潟) 竹嶋潟に沿って左に行くと白瀬南極探検隊記念館である。(白瀬南極探検隊記念館) 白瀬南極探検隊記念館や探検隊のこと、隊長の白瀬矗のことは、上の写真のキャプションをクリックして戴くと記念館の公式ホームページに繋がり、そこに詳しく紹介されていますので、此処では説明を省略します。 子供の頃、白瀬探検隊のことを書いた児童向けの本をワクワクしながら読んだ記憶がありますが、白瀬は此処、金浦の出身であったのですな。 彼の辞世の歌だけ記して置きます。我れ無くも 必らず捜せ 南極の 地中の宝 世にいだすまで(記念館前の公園 帆船は白瀬探検隊の開南丸でしょう。) 記念館の向かいは公園になっていて、鯨も泳いでいる(笑)。(同上、樺太犬もいました。) 時間もそこそこになったので、昼食にと道の駅に引き返す。 道の駅の建物はこんな建物です。最上階の6階、看板の下の塔屋部分が展望室です。 <参考> 道の駅象潟「ねむの丘」 道の駅象潟・Wikipedia(道の駅象潟・ねむの丘) 1階の物産コーナーで土産物などを物色したる後、2階のレストランで昼食とする。ホテルでたっぷりの朝食をとった所為か暑さゆゑにお茶など冷たい飲料を飲み過ぎた所為か余り食欲もわかなかったので、稲庭うどんを注文。 メニューには岩牡蠣などもありましたが、小生は牡蠣は駄目ですから検討外でありました。吹浦から象潟へとやって来た正岡子規は途中の大須郷の宿に宿泊し、そこで食べた岩牡蠣が余程に美味しかったのか、随筆集「仰臥漫録」に「ウマイ、ウマイ、非常にウマイ」と書いているそうな。 残念ながら三崎公園への銀輪散歩では大須郷の辺りは国道7号線を走っていて、旧道ではなかったので、正岡子規が宿泊した宿跡というのは見落としになってしまいました。「ザンネン、ザンネン、非常にザンネン」であります(笑)。子規は奈良ではカキ(柿)を喰い、秋田ではカキ(牡蠣)を喰った。牡蠣喰へば 波の音すなり 大須郷 (まさか子規) まさかの子規ではなく、本当の子規がこの地で詠んだ句は、 夕陽( せきやう)に馬洗ひけり秋の海 でありました。(象潟古図) 上は道の駅のエレベーター前に架かっていた昔の象潟の写生図。下は同じくホール吹き抜けに架かっていた芭蕉の句の扁額。(道の駅の扁額) 昼食後、九十九島を再度廻ってみました。今回はザックは忘れませんでした。しかし、象潟駅で電車の時間待ちで駅前の喫茶店に入って気が付いたのですが、タオルがなくなっていました。多分、道の駅に置き忘れたか、九十九島のガタガタ道に気を取られて首に掛けていたタオルが風で飛んで行ったのに気付かなかったかのどちらかでしょう。 このタオルは友人の偐山頭火さんから頂戴した、河内温泉大学の銘の入ったタオルで愛用していたのですが、山頭火だけに象潟にとどまりたいと我がもとを離れて行ったのかも。 山頭火が象潟にやって来たか否かは調べていないので分かりません。新潟の村上市には山頭火の句碑がありましたから、村上までは来ているようですが・・。(九十九島再訪)(同上)(同上)(同上) 象潟駅から特急いなほで新潟まで行き、そこから大阪へは飛行機です。新幹線で秋田や山形を回るより、はるかに近い。先々月の5月に山形県・鶴岡を銀輪散歩した際に利用したコースにて、もう勝手知ったる・・という感じであります(笑)。酒田・最上川もこのコースで来ればいいので、そのうちに折を見て・・と思っています。(象潟駅・きらきらうえつ) 象潟駅ホームに入ると賑やかな彩りの電車。回送車両のようだが、快速「きらきらうえつ」という電車である。象潟や きらきらうえつも ねむりをり (偐眠眠)まつほどに うつらうつらの 夏の駅 (偐眠眠)欠伸ひとつ 象潟駅に いなほ来る (偐眠眠) 特急いなほがやって来ました。(象潟駅・特急いなほ) 以下の写真(烏賊の写真ではありませぬ)は、車窓からのもの。撮影は往路のものでありますから時刻が合いませんが、それで代用。偐家持は先程から偐眠眠になっていますので。(酒田駅 ここは次の機会に訪ねましょう。)(最上川) 最上川は水量たっぷり。中洲が水に浸かってしまっていますから通常よりも増水しているのでしょう。それに水が随分と濁っていますから、上流で大雨が降ったのでしょう。奥(億)の雨 集めて濁る 最上川 (偐眠眠「億の細道」)(粟島遠望) 新潟県村上市の沖合の粟島が見える。 ここは銀輪散歩で村上にやって来た時に成り行きで岩船港から船で渡ってしまった島で、懐かしい。 <参考> 粟島 2009.6.19. というようなことで象潟銀輪散歩これにて終了です。長らくのお付き合い有難うございました。どちら様もお身体ご自愛専一、お元気にお過ごし下さいませ。 =完=
2013.07.25
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<承前> 道の駅象潟・ねむの丘は蚶満寺の西北の海辺、国道7号線沿いにある。此処の展望室から見る九十九島の眺めも素晴らしいとのことなので行ってみることにする。(道の駅象潟・ねむの丘の展望室から九十九島を見る。)(道の駅の広場の西施像) 道の駅の海側の芝生広場にも西施像がありました。 落陽や ひとり西施が ねむの丘 (筆蕪蕉) 振り返ると鳥海山の雲が切れ始めて、稜線が少し見え出していましたが、待っている訳にも行かぬとて、ホテルに向かう。(道の駅象潟から鳥海山を望む。) ホテルに戻り、汗を流して海側のルーフテラスに出ると、海は既に暗く、雲ははつかに朱に染みつ・・でありました。 21日(日)には、この地でトライアスロン大会があるらしく、小生の隣室の男性はこれに出場するために東京からやって来たようで、廊下には自転車が置いてあり、ルーフテラスには水泳用のウエットスーツが干してありました。早めにやって来てコースの下見を兼ねてひと泳ぎして来たのかも知れません。声は耳にしましたが、彼とは顔を合せる機会はありませんでした。 夕食の折にロビーでパソコンを操作している青年が居たので、トライアスロンに参加するのかと聞いたら、彼は仕事で出張して来たのだという。隣室の男性ではなかったようです(笑)。(ホテルからの夕景) そして夜が明けました。前日は雲に隠れて姿を見せなかった鳥海山が見えていました。(鳥海山)(同上) しかし、朝食を済ませてホテルをチェックアウト、自転車で走り出した8時過ぎには、もう雲が湧き立って山を隠し始めているのでありました。 国道7号線に出て、今日は昨日とは反対の北へ走ることに。昨日立ち寄った道の駅の前を通り、北へ。昼食は此処ですることとし、12時までに道の駅まで帰って来ることにしようなどと考えながら、金浦漁港を目指す。 国道7号線が高架になって右にカーブしている下を潜って旧道を行くと三叉路。ここで左に道を取る。この道を行けば金浦港と道路標識が教えてくれている。(金浦漁港への道) 途中で中学生か高校生か、野球のユニホーム姿の一団が自転車でやって来るのとすれ違う。「お早うございます。」と向こうから挨拶してくれる。爽やかな少年達である。早朝練習の帰りなのかこれから練習に行くのか、その辺は分からない。 ネットが張られたグラウンドに道を挟んで向き合うように、大きな石仏がありました。その脇に丘の頂上まで続いているのであろう真新しい階段の道が設けられていて、避難場所の表示がしてある。東日本大震災の津波を教訓に設置されたもののよう。(石仏) 石仏の丘を過ぎると程なく船留まりに到着。金浦漁港である。(金浦漁港)(同上)(同上)(同上) 漁港をひと廻りして、東方向に坂道を上る。旧街道に出た処に大きな池がある。観音潟である。観音潟周辺は勢至公園という公園になっている。池を廻るようにして桜の巨木が植わっているので、春花の季節はさぞやと思われました。(観音潟 手前は弘法大師の碑、正面奥が勢至山)(同上) 池の周囲を、石仏が多いなぁ、と思いながら一周して来て目に入った案内表示板で知りましたが、この池の北側の東西両サイドにある勢至山と木の浦山に西国観音霊場三十三所が設けられているからなのでありました。(勢至公園・金浦西国三十三所巡拝案内図)(石造観音菩薩像)(金浦山神社 原因不明だがこれだけモノクロに写っていました。) 木の浦山の東斜面にあるのが金浦山神社。金浦は「木の浦」が元の名前であるのですな。「かねうら」と訓むのか「かなうら」と訓むのか、まさか「きんぽ」ではあるまい、などと思っていましたが、「このうら」と訓むのでありました。 神社の前で出会った二人連れのご婦人から声を掛けられました。「エホバの証人」の伝道活動をされている方達でありました。池を一周したことで、瞬間的に方向感覚が混乱したようで、南北の感覚が逆になってしまっていたのでしょう。白瀬南極探検隊記念館への道順を示す矢印の表示が反対方向を指しているように思えて、その表示の前で小生はキョロキョロしていたようです。 彼女達は小生が道に迷っていると感じたので、声を掛けて下さったよう。彼女達に道を尋ねる際に何故か小生は金浦港を「きんぽこう」と言ってしまい、「金浦空港は有名ですが、ここはコノウラと云うのですよ。」と笑われてしまいました。(同上・拝殿)(金浦三十三観音巡拝入口) 彼女達が教えてくれた通りに、白瀬南極探検隊記念館へと向かうこととしますが、今回はここまで。続きは次回とします。(つづく)
2013.07.24
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<承前> 三崎公園入口に到着した処で、前回の記事が終りましたので、そこから始めます。 公園入口から少し入ると曽良旅日記の碑がある。奥の細道の旅に随行した河合曽良は克明に旅の行程や天候などを記していて、芭蕉の辿った道筋、旅の様子を知る上で大いに参考になる。(河合曽良旅日記の碑) この場所が芭蕉が通った旧街道が通っている地点である。公園へのアプローチ道路が奥の細道を横断している形になっている。少しばかり旧道に踏み入ってみるが「岩根踏む道」にて、悪路。象潟への最大の難所と言われたのも理解できるゴロ石だらけの「細道」である。激しい雨となれば、行くを諦めて手前の遊佐(吹浦)で一泊、天候の回復を待ったのももっともなことと理解できる。(同上) 上の写真の碑文は木の葉の影で読み辛くなっているので、手元の岩波文庫の「曽良旅日記」から転載して置きます。「十六日 吹浦ヲ立。番所ヲ過ルト雨降出ル。一リ、女鹿。是ヨリ難所。馬足不通。番所手形納。大師崎共、三崎共云。一リ半有。小砂川、御領也。庄内預リ番所也。入ニハ不入手形。塩越迄三リ。半途ニ関ト云村有(是ヨリ六郷庄之助殿領)。ウヤムヤノ関成ト云。此間、雨強ク甚濡。船小ヤ入テ休。」(奥の細道)(三崎公園)(三崎公園見取図)(三崎公園の海)(同上) 公園は海岸の段丘、三崎山の斜面にあるのでアップダウンの階段が至る処に。途中に自転車を置いて、徒歩で行くこととする。上の写真で言うと右手からやって来て手前の階段を上って行くということになる。(同上) 階段の坂は結構長い。ほぼ上り切った処で振り返ると、やって来た岬や途中で見掛けた風車などが遠く一望されるのでありました。(同上) 上り切ると旧街道に出る。芭蕉と曽良が歩いた「奥の細道」。 岬道 芭蕉も曽良も 雨の中 (筆蕪蕉) 「奥の細道」にある曽良の句も紹介して置きますか。 象潟や料理何くふ神祭 (曽良) (注)芭蕉が象潟にやって来た日は象潟の熊野神社の祭礼の日 であった。 波こえぬ契ありてやみさごの巣 (曽良)(旧街道) 上の写真は遊佐・酒田方向で、暗い木の下隠れの細道はこの先で下り坂となっている。下の写真は象潟方向で、先程公園入口近くで見た「奥の細道」へと下って行く。(同上 右の黒く見えている処が旧街道、左の舗装道は公園への道) このページ冒頭の曽良旅日記にも出ているウヤムヤの関(有耶無耶の関)であるが、この三崎山にあったという説もあるとのこと。もっとも、菅江真澄は10kmほど北の関村にあったとして居り、奈曽川の直ぐ南側に今も有耶無耶ノ関という地名が残っているから、曽良旅日記のウヤムヤの関はそちらの方なんだろうが、ウヤムヤの関については、三崎山説、関村説の他に、宮城県川崎町と山形市との境にある笹谷峠説などもあり、その名の通りウヤムヤにして置きましょう(笑)。 有耶無耶については、昔この三崎山に手長足長という鬼がいて、旅人を捕まえて食べていたが、三本足の烏が鬼が居る時は「ウヤ」と鳴き、居ない時は「ムヤ」と鳴いて、旅人に危険を知らせたので、此処を有耶無耶の関と呼んだ、というのが語源だと云われている。 この烏が、Jリーグ、日本サッカー協会のヤタガラスのご親戚筋の烏であるのかどうかは、勿論ウヤムヤになって居ります(笑)。 (旧街道・奥の細道と灯台への道の分岐) 暗い旧街道のごろた石の坂を下って行くと灯台への分岐道がある。上の写真の「奥の細道」の奥が三崎公園です。(三崎灯台) 自転車をとめて置いた場所に戻る。その下の斜面には百合の花が群生していました。(山百合) 自由律俳句の河東碧梧桐も此の地で句を詠んでいます。 百合の山路 越え来て合歓の 花の里 (河東碧梧桐) 辺りは百合の花の香に満ちている。強すぎるこの花の香は小生は苦手である。 百合の香に 西施が花の 合歓を恋ひ (筆蕪蕉)(同上) 上の百合のアップ写真は携帯電話によるもの。デジカメの電池残量が少なくなり、時間を開けて騙しだましの撮影。間に合わぬ時は携帯電話で撮影する他ない。そろそろホテルに帰ることとしようか。 国道に戻り、来た道を象潟へと引き返す。鳥海山は相変わらず雲の中である。(雲の中の鳥海山・上ノ山地区付近)(マンホール)(国道7号線)(羽越線西中野沢踏切付近)(同上) 帰途はずっと国道を走ったので随分と早くに象潟まで帰り着く。 未だ明るいので、ホテルより先の「道の駅象潟・ねむの丘」に向かうこととする。 そこの展望室から象潟九十九島を眺めてみようという訳でありますが、またしても字数制限に引っ掛かってしまいました。以下は次回とします。(つづく)
2013.07.23
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<承前> 国道7号線に出て南へと走る。途中から海寄りの脇道に入るが、奈曽川に架かる橋が工事中で国道の方へ迂回させられたり、脇道の出口が結局は国道であったりと、国道を出たり入ったりしながらの南下でありました。(国道7号線・羽州浜街道と鳥海山への道との分岐) この辺りは国道7号線と羽州浜街道とが重なっている部分。上の写真は来た方角を振り返って撮影したものですから、目指す三崎公園は写真の背後です。最初の写真から反対向きでスミマセン。 進行方向に向かって左に、上の写真では右に、つまりは東へと県道58号線を行くと鳥海山スカイラインへと続いているのであるが、今回は山登りはなしであります。(奈曽川) 奈曽川は鳥海山に発する川。上流に奈曽の白滝なる名瀑があるそうな。上の写真の下流に見える橋が工事中で通行止め。右からやって来たのですが、奈曽川沿いに国道へ迂回。そこに架かる白糸橋の上から写真を撮りました。奈曽川沿いにも合歓が咲いていました。 古文の授業では「な~そ」とは「~するな」という禁止の意味だと習いますが、この川はその名が付いているのが面白い。奈曽川の 橋ぞこの橋 な渡りそ 急がば回れ 白糸の橋 (工事中家持) まあ、「う回路→」なんぞという野暮な表示ではなく、上のような歌でも掲示して置いて下されば、「かしこまって候」となるのだが(笑)。(白糸橋)(奈曽川・上流方向) 奈曽川上流方向に見える筈の鳥海山はやはり雲の中。で、戯れ歌などを1首。鳥海の 山な隠しそ 雲だにも 心しあらば 隠さふべしや (奈曽田王) (本歌) 三輪山を しかも隠すか 雲だにも 心あらなむ 隠さふべしや (額田王 万葉集巻1-18) この後暫くは国道7号線を南下。(その1)で掲載した浜田バス停前の合歓の花の写真などを撮りつつ、先へと進む。 上浜駅付近を過ぎた辺りから国道は上り坂となる。自転車を押して上っている男性を追い抜いて、JR線を跨ぐ跨線橋の手前で道路を横断して脇道へ入ろうと信号待ちしていると、先程の自転車の男性が追い付いて来て、「何処から来たか?何処へ行くのか?」と云う。「大阪から来た。三崎公園まで行く。」と小生。驚いて居られたが、どうやら大阪からずっと自転車でやって来たと誤解されているよう。「わしも昔千葉の船橋まで自転車で行ったことがある。気を付けて行け。」と仰る。誤解を解く説明も面倒なので「有難うございます。」とのみ告げて、道路を渡り、上浜小学校の脇の道に入る。海岸に向かっての下り坂である。ゆっくり左にカーブ。小学校の下付近で海岸へと下りる細道があったので、行ってみる。 砂浜になっていて、ハマゴウが群生している。青い花を咲かせているのもある。暫し、お茶休憩も兼ねてハマゴウと遊んでみました(笑)。(上浜小学校西側の浜辺)(ハマゴウの花咲き群れて)浜栲の 花咲き群れて 象潟の 海は青なり 空も青なり (偐家持) ハマゴウの「ゴウ」は「栲」と書く。コウゾのことかと思ったが、コウゾは「楮」と書き、似ているが違う。「栲」は「白栲、荒栲」の「たへ」。梶の木などの繊維で織った布が「栲」である。「白妙の」などと枕詞でお馴染のもの。コウゾと同じくカジノキも和紙の原料となるから字が似ているのも当然か(笑)。(ハマゴウ)はまたへの 花とし呼ばむ 象潟の 海の色にし 咲けるその花 (偐家持) (同上) 道に戻る。川を渡った辺りから道は急な上り坂となる。上り切って左にカーブする辺りで左手(東方向)を見やると風力発電の巨大な風車がゆったりと海からの風を受けて回っている。右手前方(南西方向)を見やるとノラニンジンだろうか白い花の群生する先に岬と海。(発電の風車・深田地区付近)(白い花咲く三崎への道・釜ノ上地区) 坂を上り切ると国道7号線。暫く国道を行く。程なく道は国道7号線小砂川バイパスと羽州浜街道(旧道)に分岐する。(羽州浜街道) 旧道に入ると車の影も途絶え、快適な走行となる。 道の辺に「菅江真澄が宿泊した磯家跡」という表示が目に入り、立ち寄る。菅江真澄は名前は記憶にあるが詳しいことは知らない。 <参考> 菅江真澄・Wikipedia(磯家跡) 菅江真澄が象潟で詠んだ歌は次の歌。なみ遠く うかれてこゝに きさかたや かつ袖ぬるゝ 夕ぐれの空(説明書き) 路線バスを抜いたり、抜かれたりしながら走る。が、やがて上り坂で抜かれて、結局は置いてけぼり(笑)。 再び国道7号線に合流すると、眺望が開けて、三崎公園のある岬が見えて来た。少し西に傾いた太陽が海をキラキラと輝かせている。磯に寄せる波が砕けて白くなる。万葉人なら「白木綿花(しらゆふはな)に咲ける波かも」とでも言うのであろう。(光る海と岬) 最後の坂を上り切ると三崎公園の入口である。(三崎公園入口) 入口から少し入ると曽良旅日記の碑があるのですが、ここでひとまず区切りとします。続きはまた明日に。(つづく)
2013.07.22
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<承前> 蚶満寺の正式名称は皇宮山蚶満珠禅寺。仁寿3年(853年)慈覚大師の開創と伝えられる歴史のある寺。裏庭に回ってみる。ここにも芭蕉の句碑があり、北条時頼のつつじ、親鸞聖人が腰掛けた石、西行が詠んだ桜、猿丸大夫が姿を映し見た井戸だの、何やらテーマパーク風の庭である(笑)。 古来からの景勝地・歌枕である象潟。色んな人が訪ね来ているのであるから、真偽入り混じって色々な伝承が残されているということでもあるか。(タブの木) タブの巨木。大伴家持がこの木を見たなら「象潟の寺のつままは根を延へて年深からし神さびにけり」と詠ったことでしょうな。 そのタブの木(古名:つまま・都麻麻)の傍らに芭蕉の古い句碑があった。宝暦13年(1763年)建立とある。(芭蕉句碑) この句碑も「雨に西施が・・」であるが、蚶満寺には次の芭蕉他の自筆句がのこされているとのことである。ゆふ晴や桜に涼む波の華 (芭蕉・象潟自詠懐紙)象潟や嶋がくれ行刈穂船 (小林一茶・蚶満寺「旅客集」)象潟や雨ニふられてねぶり宿 (平賀源内・蚶満寺「旅客集」)(北条時頼のつつじ) 北条時頼が正嘉元年(1257年)に寺領を寄進している。これに関連するつつじだろうか。鎌倉幕府第5代執権北条時頼は1256年に病に倒れ、執権職を義兄の北条長時に譲って出家、最明寺入道と号しているが、その関連で、蚶満寺に寺領を寄進したのでもあろうか。パンフレットなどには「時頼手植えのつつじ」とされ、「命あらばまたも来て見ん象潟の 心とどめし松のみどりに」という時頼の作と伝えられる歌も記載されているから、時頼もこの地を訪れているということになるが・・。(親鸞聖人御腰石) 蚶満寺の「拝観のしおり」に依ると、この石は「江戸時代に九州・島原の西方寺からこの地に移されたものとのことだが、何故そのようなことをしたのかが、よく分りません。(同上)(西行歌桜) 西行もこの地に歌を遺したのかどうかは存じ上げませんが、パンフレットには伝・西行歌として次の歌が記載されている。合歓が芭蕉なら、西行は桜ですな。きさかたの 桜は浪に うづもれて 花の上こぐ あまのつり舟(猿丸大夫姿見の井戸)(舟つなぎの石) 蚶満寺のある場所も象潟に浮かぶ九十九島の一つで八ツ島という島であったよう。舟つなぎ石はその名残りですね。(蚶満寺庭から見る九十九島) 芭蕉がこの地を訪ねたのが元禄2年(1689年)ですから、その115年後の文化元年(1804年)の大地震で海底が隆起し、湾は陸地となってしまったので、我々は水田を海に見立てて、往時の姿を偲ぶしかありませぬが、そういう珍しい現象があって、天然記念物となっているのであれば、それもまたよしでありますかな。(天然記念物象潟説明板)(惣助翁彰徳碑)(同上説明板)(蚶満寺の旧参道から見る九十九島)(九十九島・駒留島) 蚶満寺の拝観受付の小母さんが絶景ポイントだと教えて下さったので、駒留島に立ち寄ってみる。(駒留島の松の巨木)(同上)(駒留島から見る九十九島) 確かにいい眺めである。鳥海山が見えていればもっと素晴らしい景色となるのだろうが、ご覧の如く鳥海山は雲の中でありました。(名勝史蹟天然記念物象潟の碑)(九十九島めぐりの道) 「島めぐり」の道は部分的に上の写真のように舗装された道で自転車でも快適に行けるが、多くは草の生えたオフロードにて走り難い道。歩く道のようです。(九十九島・弁天島)(紫陽花も咲いていました。) 島めぐりの道は殆どが上の写真のような道。車の轍の跡を走ることとなるので、とても走り難いのです。まあ、ゆっくり紫陽花も見て行けということですかな(笑)。あぢさゐの 花も見て行け 九十九島(つくもしま) (筆蕪蕉)(九十九島) 走っているうちに方向などが混乱して来る。島の区別がつかないので何やら迷路を走っているような気になる。(同上)(同上) 上の写真を撮っていて、肩に担いでいたザックが無いことに気が付く。駒留島の頂上で九十九島を眺めつつ、ザックを地面に下ろしてペットボトルのお茶を飲んだり、景色を写真に撮ったりしているうちに、ザックを下ろしたことを忘れ、そのまま自転車に乗って来てしまったよう。駒留島の頂上まで引き返すと、果たして其処にありました(笑)。象潟や ザック忘れて 来たかたへ (筆蕪蕉)ということで、九十九島巡りは切り上げて、南へ、山形県境の手前の三崎公園を目指して出発することとしました。が、字数制限一杯、本日はここまでとします。(つづく)
2013.07.21
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(承前) 象潟銀輪散歩です。5月の山形県・鶴岡銀輪散歩に続いて秋田県・象潟銀輪散歩。象潟駅到着午前11時11分。駅前で自転車を組み立てて、出発。(象潟駅) 「きさかた」は元々はこの地を「蚶方」と呼んだことに由来するらしい。「蚶」というのは「きさ貝」のことで、この貝が獲れる地という意味。この地にあった入江を「蚶潟」と呼んだという。やがて「象潟」という字を当てるようになったとのこと。駅の待合室に掲示されていた「駅名の由来」(下掲)で、これを初めて知りました。 これから行こうとしている蚶満寺の「蚶(かん)」とはどういう意味だろうと思っていたのですが、その疑問も解消です。 と言っても、きさ貝という貝はどんな貝?ネットで調べると殻長2cm位の黄白色の二枚貝で、貝殻が前後によく膨らみ、横から見るとハート型に見えるという解説はあるものの写真はない。一方、古事記の大国主伝説の処で登場する女神、キサガイヒメ・ウムギヒメはそれぞれ赤貝・蛤の神格化であると解説されているから、ここでは「蚶貝」は「赤貝」のことと考えて置けばいいのかと。(象潟駅の駅名の由来) 先ず、宿泊するホテルに立ち寄って、荷物を預けることとする。ホテルは海辺にあるので、海岸に出て海沿いに走る。(象潟の海) 芭蕉の頃は象潟は深く入り込んだ遠浅の湾になっていて、多くの小島が浮かび、松島と並び称される景勝地であった。そのような遠浅の地形から「汐越」とか「越長」などの地名があったよう。 芭蕉は、この地で先述の「ねぶの花」の句の他にもう1句詠んでいる。 汐越( しほこし)や鶴はぎぬれて海涼し (芭蕉 奥の細道) この句は、当初は「腰長(こしたけ)や鶴脛(つるはぎ)ぬれて海涼し」であったが、「奥の細道」では「汐越」に変更されている。 蓑笠庵梨一の「奥細道菅菰抄」によれば、「しほこし川のうちに、腰だけと云浅瀬あり。そこに鶴の下り居たるを見申されての即興也と云伝ふ。」とある。 ホテルに荷物を預けて蚶満寺へ。国道7号線、羽越線を横断すると蚶満寺参道である。(羽越線)(蚶満寺参道) こちらは新参道。左側に旧参道がある。新旧参道の間にある池を廻るようにして芭蕉句碑や芭蕉像、西施像、九十九島の碑などがある。(芭蕉像)(芭蕉句碑) 上の句碑では「象潟の雨や西施がねぶの花」となっているのは単なる間違いなのか異伝句でこのようなのもあるのか。 (注)調べてみると曽良俳諧書留には上のようになっているので、この 句碑は当初案に依っているのであり、間違いではないのでした。 但し、岩波文庫版では初案は「ねぶの花」ではなく「ねむの花」。(西施像) はい、これが古代中国四大美人の一人、西施さんの像です。美女は横から眺むべし、で横顔も一枚。越王勾践が呉国を籠絡するために呉王夫差に献上した美女達の中の一人が西施。夫差は西施らに溺れ国が弱体化、呉は越に滅ぼされることとなる。「呉越同舟」とか「臥薪嘗胆」とか「天勾践空しゅうする勿れ、時に范蠡なきにしも非ず」とか呉越絡みの言葉が浮かぶが、その呉越が対峙していた頃の女性でありますな。 <参考> 西施・Wikipedia(同上)(西施の碑) 蚶満寺の合歓の花は前頁に掲載済みであるが、西施像を掲載したら、合歓の花も、ということで、別角度の写真を掲載して置きます。(蚶満寺の合歓)(九十九島の碑)(蚶満寺と九十九島)(蚶満寺旧参道と仁王門)(半夏生、別名:烏柄杓・カタシログサ) 旧参道脇には半夏生の花がひっそりと。半夏生は七十二候の一つ。二十四節気の夏至を初候・次候・末候の三つに分割した末候を半夏生と言い、これに当る暦日は毎年7月2日頃とのこと。この頃に半夏(烏柄杓)という草が生えるから、或いはこの草の葉がこの頃に半分化粧したように白くなるから、半夏生と名付けられたとか。象潟や時に西施も半夏生 (筆蕪蕉)象潟や後れて咲きぬ半夏生 (筆蕪蕉)(蚶満寺の猫) この猫は蚶満寺のご住職の奥様が可愛がって居られた猫とか。拝観受付所を昼寝の場所と決めているらしい。象潟や寺には猫がねぶの花 (筆蕪蕉)(蚶満寺)(同上・本堂)(同上・芭蕉)(同上・鐘楼) 合歓、半夏生と来ましたが、鐘楼の前には立派な芭蕉がありました。蕉風の 鐘の音聞かむ 蚶満寺 (筆蕪蕉)(芭蕉の花) 本日はここまで。続きは次回です。(つづく)
2013.07.20
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本日は象潟銀輪散歩です。 象潟や雨に西施がねぶの花 (芭蕉) 奥の細道の旅で芭蕉が立ち寄った日本海側最北端の地。それが象潟。元禄2年(1689年)6月15日、酒田を発って象潟へと向かう芭蕉。折しも雨。昼過ぎに遊佐(吹浦)に着くが、雨が激しくなったので、ここで一泊し、翌16日に雨の中を象潟へとやって来たのでありました。 芭蕉さんに倣うなら、雨に濡れる合歓をこそ見るべきなんでしょうが、銀輪散歩とあってはやはり晴れている方がいい。まあ、雨が降れば降ったで、それも象潟らしくてよいかと、やって参りましたが、好い天気。 芭蕉が眺めた合歓の花は憂いに沈んだ西施の眼差しかとも見ゆる風情のものであったのでしょうが、銀輪ヤカモチが眺めた合歓は青空を背に屈託もなく咲いているのでありました。 先ずは、その合歓の花からこの銀輪旅のブログ記事を始めることと致しましょう。 <参考>ネムノキ・Wikipedia(合歓)(同上) 青空の下の合歓の花は、芭蕉の句よりも大伴家持の戯れ歌の方が似合いだろう。当ブログが「偐万葉田舎家持歌集」と名乗る以上、芭蕉の句を取り上げて、家持のそれを無視する訳には行かない。吾妹子が 形見の合歓木は 花のみに 咲きてけだしく 実にならじかも (大伴家持 万葉集巻8-1463) 冒頭の芭蕉の句も、上の家持の歌も、先月の「くらがり峠」越え銀輪散歩で見掛けた合歓の花の紹介記事(6月30日の記事)で既に取り上げているので、またか、と思われた方も居られるかと存じますが、そもそも、この象潟銀輪散歩は、その折の記事で芭蕉の「象潟や・・」の句を取り上げたことがキッカケでありますれば、「またか」も致し方なきこと、お赦しの程願い上げまする。 <参考>6月30日の記事(蚶満寺の合歓)(同上)(浜田バス停の合歓)(同上)(同上)(同上)(同上)(浜田バス停と合歓の木) 芭蕉の句の所為でか、合歓と言えば象潟、象潟と言えば合歓。それでか象潟は合歓の木が多い。まあ、合歓の木は大阪でも公園や街路や山野、川原などでよく目にするのではあるが、この地程には多くない。まあ、芭蕉の句に誘われて合歓を見にやって来る観光客のために、地元の方は合歓を植える、そういうことで合歓の木が増えるということであるのは容易に推察できることであるが、そういうものであっても、やはりここで合歓を目にするのは嬉しいものである(笑)。 取り敢えず、本日はここまで。象潟駅を出発、蚶満寺~九十九島巡り~南は三崎公園まで、北は金浦、観音潟・竹嶋潟までの銀輪散歩のご紹介は次回以降とさせて戴きます。(つづく)
2013.07.19
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庭の片隅にある芙蓉が咲いた。大きな丸い花。 葉が丸い形だからアメリカフヨウでしょう。 アメリカフヨウは草本性で「草芙蓉」とも呼ばれるそうな。この関係で芙蓉は「木芙蓉」とも呼ばれる。 芙蓉の帳・・と来れば長恨歌であるが、芙蓉は美女の形容としても使われる。しかし、米国アラバマ州原産と言われる草芙蓉のアメリカフヨウはどうなんでしょうね(笑)。(アメリカフヨウ)(同上)(同上) ところで、富士山のことを「芙蓉峰」とか、単に「芙蓉」とも称するよう。みずほ銀行の前身の富士銀行の企業グループを「芙蓉グループ」と呼んでいましたが、これは富士山を「芙蓉」と雅称することに由来する命名である。 古くは蓮のことも「芙蓉」と言ったようで、芙蓉と区別するために「水芙蓉」とも呼んだとか。 「芙蓉樹」はネムノキのことで、「芙蓉鳥」はカナリアのこと。「不用品」は大型ゴミに時々貼り付けてあるのを目にするが、これは芙蓉とは無関係(笑)。 芭蕉には芙蓉を詠んだ句が2句ある。 枝ぶりの日ごとにかはる芙蓉かな (日ごと別の枝に花を咲かせて、芙蓉は枝の姿が次々に変ることだ。) (注)「枝ぶりの日に日に変る芙蓉かな」という中七の異なる句 もある。 霧雨の空を芙蓉の天気哉 (霧雨が降る空を自分にとっては良い天気と思ってか、芙蓉の花が 一段と美しさを増したことだ。)思はぬに 庭にし立てば われ此処に ありと咲きたる アメリカ芙蓉 (偐家持)
2013.07.16
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本日は大阪大学法学部同窓会・青雲会の総会。 今年は、一昨年に続いて石橋の大学構内での開催となった。 梅田なら自転車も選択肢としてあり得るが阪急石橋となると、やはり電車で行くしかない(笑)。8時31分発の電車で近鉄枚岡駅を出発。鶴橋で環状線に乗り換え、大阪駅下車、梅田から阪急宝塚線で石橋下車。学生時代と同じコースで大学へ。石橋駅到着は10時過ぎ。(近鉄枚岡駅)(近鉄枚岡駅ホームから南東側の眺め) 枚岡駅東側にあった元旅館建物が取り壊され、駅ホームからのその方向の眺めが変って新鮮な感じがしたので、記事とは無関係ですが1枚撮りました(笑)。枚岡駅前は店も何もない駅である。枚岡神社があるだけ。 石橋駅から阪大までは徒歩10分余。通称「阪大坂」というだらだら坂を登った丘(待兼山丘陵)にある。 その阪大坂に差し掛かった辺りで先輩の田◎氏、宮◎氏と一緒になったので両先輩と語らいながら会場へと向かう。(大阪大学会館・旧イ号館) 会場は、一昨年と同様、我々が通学していた頃はイ号館と呼んでいた建物、現在は改修されて大阪大学会館となっている建物である。 <参考>同窓会総会 2011.7.10. 同窓会総会 2012.7.14.(同上・入口)(同上・1階玄関) 総会の開会は10時半。同窓会会長の開会の挨拶で始まり、決算の承認などの議事を終了した後、第二部の講演会。今年の講師は大阪大学総長の平野先生。総長にご講演戴くのは小生がまだ同窓会の会長をしていた時の2008年の総会で前総長の鷲田先生にご講演戴いて以来である。 <参考>待つということの意味-同窓会総会- 2008.7.5. 平野総長は免疫学の権威。「いのちと医学」というタイトルの講演の予定であったが、急遽演題を変更されたようで、実際のタイトルは「大阪大学と共に47年:1966~2013」というもので、ご自身の免疫学研究の取り組みや人類の感染症との闘いの歴史などもご紹介されながら、総長として大阪大学を更にレベルの高い大学とするために、取り組んでいること、取り組もうとしていることなどを力強く話されました。 (平野総長の講演)(同上) 第三部は懇親会。今年の出席者は招待者を含め総勢80名足らずで、例年より少なめでありました。小生の同期は黒◎、佐◎、蝶◎、出◎、広◎君と小生の6名であるから、これでも、まあ、出席率は他の期に比べて良い方である。 一昨年(前々回)のそれが好評であったこともあって、今回も応援団の現役学生諸君がアトラクションの演舞を披露してくれました。(懇親会風景)牽牛や 七夕(たなばた)つ女(め)に あらざれど 今日待兼山の 青雲のどち (偐家持) (注)待兼山=古来からの歌枕。豊中市の待兼丘陵。 阪大石橋キャンパスはこの地にある。 どち=友達、仲間。(同上)(応援団による演舞)(同上) 懇親会終了後、5階の貴賓室を見学。先月であったか、先般に天皇・皇后両陛下が阪大にお立ち寄りされた際には、この貴賓室で両陛下にご休憩戴いたとのこと。 阪大の前身は緒方洪庵の適塾に始まるとされているが、両陛下は適塾にかなりご関心をお持ちであるようで、皇太子時代にもご夫妻で阪大にお立ち寄り戴いたことがあるらしい。 貴賓室の窓からの眺めもなかなかに素晴らしい。(貴賓室)(同上)(貴賓室からの眺め)(同上) 帰途は、同期の佐◎君、蝶◎君と連れだって石橋駅まで。まだ時間も早いので、駅前の喫茶店に入って、1時間近く歓談。冷房で汗も引いたので、喫茶店を出て阪急電車に。阪急京都線で京都まで帰る佐◎君、同神戸線で西宮市に帰る蝶◎君は十三駅で乗り換え。またの再会を約して両君と別れて小生は梅田へ。梅田に着いたのは4時過ぎ。まだ暑い中を家路に。 <参考>同窓会総会 2010.7.10. 同窓会総会 2009.7.11.
2013.07.13
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本日は囲碁例会の日。懲りもせず猛暑の中、生駒山麓の自宅から梅田まで銀輪散歩を兼ねてMTB(マウンテンバイク)で出掛けることと致しました。 いつもは中央大通りを走るのであるが、今日は途中から北に入り、ジグザグに適当に走っているうちに第二寝屋川にぶつかる。川沿いの道を西へ。 上城見橋の畔に円筒形の目立つ建物。近寄ってみると中浜下水道処理場でありました。 (中浜下水道処理場)(同上。城見橋上から。前方の橋が上城見橋) 川沿いの道は下城見橋の手前で右にカーブ。一昨日、赤川鉄橋への銀輪散歩で走った上新庄生野線を横断し、環状線下を潜ってOBP(大阪ビジネスパーク)に入る。(鴫野西地区から環状線下を潜ってOBPへの抜け道。OBP側から) ホテルニューオオタニの先で右折し北へ。OBPを走り抜け寝屋川を渡る。 大阪城公園とOBPの間を流れているのが第二寝屋川。OBPと環状線京橋駅との間を流れているのが寝屋川。大阪城の北側で合流し、日本経済新聞社の先で大川に流れ込んでいる。(火除け地蔵。背後の川は寝屋川。奥のビルはクリスタルタワー。) OBPを南から北へ走り抜け、寝屋川を渡り、少し西に下った処に小さなお堂があった。火除け地蔵と書いてある。OBPは元は砲兵工廠のあった地域。先の大戦では激しい爆撃を受け壊滅するが、対岸のこの地域は火災を免れたらしい。それはこの地蔵さんのご加護だと地元の人達は考えたよう。そんなことが説明板に書かれている。(同上)(同上説明板) 地蔵堂から更に下流(西)へと行くと片町橋である。(寝屋川。右側がOBP。片町橋上から振り返る。)(片町橋からクリスタルタワーと大阪城天守閣を望む。) 片町橋から更に西進。寝屋川が大川に合流する手前で、京阪電車の下を潜り、川崎橋で大川を渡る。川崎橋は歩行者・自転車専用の小さな吊り橋である。(川崎橋・歩道橋) 川崎橋で大川の右岸に渡り、天満橋の下を潜った先に、見付けたのは、こんな碑でした。何度となくこの辺りは自転車で走っているのに今まで気が付かなかったようです。土木技術史に興味もなければ見落としも止む無しですかな。(将棊島粗朶水制跡碑)(同上説明板) 説明板を読んでいたら前を小船が下って行きました。船は小さくても結構波が立つものでありますな。(大川を下るボート) 順番が前後しましたが、下の写真は天満橋の上流側でのもの。対岸を京阪電車が走って行きます。(対岸を走る京阪電車)(同上。京阪電車の鉄橋下から流れ込んでいるのが寝屋川。中央奥の建物が日本経済新聞社の社屋。) 天満橋の下流は天神橋、難波橋と続く。中之島はこの天神橋の辺りから始まる。つまり、大川はここで堂島川(北側)と土佐堀川(南側)とに分れるのである。(堂島川・東方向。見えている橋は天神橋) 天神橋と難波橋の間では夜間照明ライトの取り付け作業が進められていました。何があるのだろう、と思いましたが、考えてみれば今月24日は天神祭でした。そのための準備なのでしょう。(同上・西方向。見えている橋は難波橋と阪神高速環状線道路)(難波橋) ライオンが橋の両サイド4箇所に鎮座する橋、難波橋である。自転車・歩行者にとっての、この橋の難点は西側歩道を行くと対岸へは行けず、橋の中央で直角に西に曲がり中之島公会堂に行ってしまう。つまり、随分遠回りになってしまうのである。北浜へ歩いて行く人は東側歩道を渡りましょう。 難波橋から道を斜めに取り、国道1号線に出て、浄正橋交差点を右折、JR大阪環状線福島駅前を通り、シンフォニーホールの前庭の森で小休止。梅田スカイビル到着。 これが本日の銀輪散歩コース往路でありました。(ザ・シンフォニーホール) 梅田スカイビルの駐輪場にMTBを停め、自転車止め金具と車輪とをチェーンでロックしたところで、キーが行方不明であることに気付く。どうやら、途中何処かで落としたよう。ロックしてしまったから、キーがなくては自転車を動かせない。 ということで、自宅まで予備のキーを取りに帰る。勿論、電車で。最悪ですな。そんな訳で碁は青◎氏と1局打っただけ。そしてまたも負け。それも大敗・完敗であります。これで8連敗です。(大阪城) 帰途は大阪城公園を走り抜けて、後は中央大通りを走り、花園中央公園で小休止後自宅へといういつものパターンでありました。 自転車と電車で自宅・梅田間を2往復するという、まことに最低・最悪の一日でありました(苦笑)。(大阪城公園)
2013.07.10
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第122回智麻呂絵画展 本日は第122回智麻呂絵画展開催であります。 毎日、暑い日が続いています。智麻呂絵画などご覧になって、少し涼しい気分になって戴ければ幸いに存じます。今回の絵画展は智麻呂さんとヤカモチ館長からの暑中見舞いでもあります。 ところで、智麻呂絵画をご愛顧・ご支持下さっていたブロ友の「るるら」さん、長らく(1年余)ブログの更新を休止して居られ、如何されたのかと心配致して居りましたが、先月24日に1年1カ月振りの更新があり、その後も更新が続いて居り、お元気なご様子で、何よりでありました。智麻呂ご夫妻もご心配されていましたが、先般のブログでは、ブログ休止中も智麻呂絵画展などは折々にご覧下さっていたようなことを記述下さっていたのは、有難く、嬉しきことでありました(笑)。 また、もうお一人の智麻呂絵画ファンである「木の花桜」さんも昨年の5月上旬の記事を最後にブログの更新が途絶えていて心配なのですが、恙無くお元気でいらっしゃることをお祈り致して居ります。 そんなことを思いつつの智麻呂絵画展の開催であります。 <参考>他の智麻呂絵画展は下記から。 第1回展~第100回展 第101回展~第200回展 第201回展~(紫陽花1) 近畿も昨日8日に梅雨明け宣言。しとしと降る雨という梅雨らしい天気もないままに梅雨が明けてしまいました。 梅雨には紫陽花が似合う。紫陽花の絵は6月27日には小生の手許に写真として既にあったのですが、絵の点数が揃うまで、と思っているうちに梅雨が明けてしまいました。しかし、まだ季節外れという訳ではないでしょうから、紫陽花の絵3点セットから、絵画展を始めることと致します。(紫陽花2) アジサイは日本原産の花。紫陽花という名は唐の詩人、白居易が名付けたもので、おそらく遣唐使の積荷などに付着した種が中国に渡り、中国で自生したのだろう。中国の人は誰もこの花の名を知らない。そこで、白居易が紫陽花と名を付けたという。もっとも、白居易が紫陽花と名付けたのは別の花であったのが間違ってアジサイに流用されたという説もあり、真偽の程は知らない。 万葉集にも2首アジサイの歌がある。橘諸兄の作と大伴家持の作である。この頃のアジサイは今で言うガクアジサイ。山アジサイである。西洋にはシーボルトが持ち帰って広まり、様々な園芸種が誕生し、それが西洋アジサイとして我が国に逆輸入されて来た。ということでは、この花はとても国際的な花であるとも言えます。 そんなこともあってか、アジサイは神戸市の市花にもなっている。(紫陽花3) このような紫陽花であるが、この花が我が国の花という意識を持っている日本人は余り見ない。日本には法律で定めた国花は存在しないが、桜や菊がそれだと思っている人が多いだろう。まあ、菊は皇室の表象であるから、国の花とは言えないのかも知れないが、桜を国の花と考えている人は多いでしょう。しかし、桜はヒマラヤ原産。菊は中国から到来したもの。日本古来の花と言えばこのアジサイなのであるが、人気は今ひとつ。春の桜。秋の菊。これに比べると梅雨時のアジサイ。咲く時期も悪いようで、地味で少し陰気な花である処なども禍しているのでしょうな。(ドクダミ) 先日、ヤカモチ館長の大学の同期会で、参加した面々を「同期の桜」ならぬ「同期の紫陽花」と表現したら、ブロ友のビッグジョンさんが、ご自身の同期の仲良し5人組の集りで、出席者が4人であったこともあって、4弁のこの花になぞらえて、「同期のドクダミ」と言って居られたので笑ってしまいましたが、(臭い仲であるかどうかは存じませんが)この花はその匂いを別にすれば、なかなかに美しい可憐な愛すべき花姿ではあります。 智麻呂さんもこの花の絵をよく描かれるのは、この純白の小さな花に心惹かれるものをお感じになっているのでしょう。(スケトシア) 上のスケトシアもその上のドクダミも下のランタナも当ブログ掲載の写真を絵にされたものであります。下の参考の花名をクリックして戴くと当ブログ掲載の当該花のページが表示されます。 <参考>スケトシア ドクダミ ランタナ(ランタナ) 下のネジバナは智麻呂さんのご友人の寺◎氏が、この花の鉢植えを画材にと下さったものです。モデルの姿がいい所為か、とても素敵な絵になりました(笑)。(ネジバナ)(ボンレスハム) 上は、東京ご在住の五◎さんからのお中元のハムです。小生は何処かで思い違いしていて、五◎さんは鎌倉ご在住と過去にご紹介していたことがありましたが、恒郎女さんから、「鎌倉ではない」とご指摘を受けました。その時にご住所の市の名をお聞きしたかと思うのですが、今は思い出せません。で、東京ご在住として置きます。大阪人から見れば、千葉も埼玉も横浜もみんな「東京」という感覚なのであり、そういう広い、とても「広い」意味での「東京」という意味であります(笑)。 下は、先般の智麻呂邸ご訪問の際にヤカモチが手土産にお持ちした栗饅頭・三笠饅頭・長寿柿のうちの二つを絵にされたものです。三笠饅頭が描かれていないのは、お持ちしたその場でご夫妻とヤカモチとで、お茶受けに食べてしまったからであります。 栗饅頭と長寿柿は皆さまへのおもてなしにと取って置きました。ご遠慮なくどうぞお召し上がり下さいませ。長寿柿は干し柿の中に白餡が入った珍しいお菓子です。(栗饅頭と長寿柿)
2013.07.09
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本日は赤川鉄橋まで銀輪散歩して参りました。 近畿も今日梅雨明け宣言されたようですが、猛暑の中の銀輪散歩となりました。 赤川鉄橋というのは、城東貨物線が淀川を渡る鉄橋ですが、線路と平行して歩行者用道路も併設されている珍しい鉄橋です。 城東貨物線は関西本線から平野駅の東側で北方向に分岐し、八尾市・東大阪市域を北上、放出駅の東側で学研都市線に入り、鴫野駅の先でこれから分れて淀川を渡り、吹田駅の南側で東海道本線に入り吹田駅へと至る、貨物列車専用線のことであるが、この線が旅客線に改良され、おおさか東線として、八尾市の久宝寺駅から学研都市線の放出駅までが現在開業。放出駅から先は工事中で東海道本線の新大阪駅まで延伸し、最終的には梅田貨物ヤード再開発に伴い新設される新梅田駅まで通す計画という。 <参考> 赤川鉄橋(城東貨物線淀川橋梁)・Wikipedia おおさか東線・Wikipedia この工事の関係で、赤川鉄橋の人道部分はこの秋には廃止されることになっている。人道部分に線路を通し複線化するという訳である。 という訳で、渡れるうちに渡って置こうという次第。(鴫野橋の上から・寝屋川と大阪環状線) コースは簡単。囲碁例会の時に走る中央大通りを西へ。JR森ノ宮駅の手前で市道上新庄生野線を北(右)に入る。 上の写真は寝屋川に架かる鴫野橋から環状線の電車を撮ったもの。右手が京橋駅である。(城東貨物線・大阪市都島区高倉町3丁目) 北へ、北へと走ると西寄りにカーブして来る城東貨物線にぶつかる。ぶつかった処で、左折し線路に沿った道を進む。 途中、複線化工事の関係で通行止めになっていて迂回しなければならない箇所もあるが、線路を目安に行けば道を間違うことはない。(赤川鉄橋への道・上り口) これが、鉄橋への上り口です。既に鉄橋が見えている。(赤川鉄橋・淀川南岸から)(同上) 人道部分。左側に線路。 小生と同じような自転車族が先客で居られました。歩いて対岸からやって来る人。自転車に乗って渡って来る人。こちらから対岸へと向かう人。結構賑やかでしたが、暫くすると、人影も絶えました。それが上の写真です。 実は、一人の男性が居られて、この方と鉄橋の上で涼しい川風に吹かれながらお話しつつ、人通りの絶えるのを待っていたのでした。 この男性は、上の写真で言うと、左側の柵の手前から2マス目位の処に居られたのですが、小生がカメラを構えると「邪魔になるやろ」と小生の後ろに移動して下さったのでありました。 この方はこの鉄橋のお近くにお住まいの方のようで、子供の頃からこの辺りは馴れ親しんだ土地で、昔はこんな風であったなど、色々とお話を伺うことが出来ました。昔は、鉄板敷きではなく木製であったとか、D52蒸気機関車が走っていたとか。この鉄橋の南側に昔は待避線があったというようなことも仰っていました。 11時に列車が通過するということを教えて戴いたのでそれを待つことにする。時計を見ると10時51分。あと9分である。話し相手も居る事であれば、退屈はしない(笑)。彼と柵に寄りかかりつつ、列車の通過を待つ。(同上) やって来ました。11時ではなく11時15分でした。 それに、期待した貨物列車ではなく、機関車単独でのお出ましでありました。男性は、遠くからこの機関車の型式を◎◎だと仰っていましたが、その方面の知識が皆無の小生には聞き慣れぬ外国語に等しく、殆ど聞き取れぬのでありました(笑)。それに、型式なんぞは興味もないから、聞き直すこともせず、「へえ、そうですか。」と相槌を打って置く。(同上) このように大接近して来ても型式など勿論分からないのでありました。「随分お詳しいのですね。」と申し上げると「これでも一応マニアなので・・」と彼。 まあ、そうでしょうね。この暑い中、いつ来るとも知れぬ貨物列車の通過を待っているなんて、マニアでないと出来ないことであります(笑)。 機関車が通り過ぎ、そちらを振り向くと、望遠レンズを装着した立派なカメラを持った青年が、この機関車を撮影していたのに気付きました。もう一人鉄道マニアさんが居られました。きっとこの青年は前に立って何やら喋っている「オッサン」二人のことを「邪魔だなあ」と思っていたことでしょうな(笑)。 橋を渡ってみる。結構の距離である。爽快。(同上・淀川北岸から) 南岸は都島区であるが、淀川を渡ると東淀川区である。(同上) 渡り切って、来た方向にカメラを向けて気が付きましたが、この橋は自転車に乗ったままの通行は禁止されているのでした。 しかし、誰も押して渡っている人はいない。知ってか知らずか皆乗ったまま渡っている。まあ、これが大阪ですな(笑)。と言うことで、南岸へと引き返す際も自転車に乗ったまま行くこととしました。「×印には気付かなかったことにして置こう。」です。(鉄橋中央部・北から南方向を望む。)(鉄橋中央部から淀川上流を望む。) 上流側に見えている橋は菅原城北大橋。下流側に見えている橋は阪急千里線の鉄橋ですかな。(同上・淀川下流を望む。) 帰途に貨物線沿いの道で見掛けたバス車両を改造した集会所が、ちょっとユーモラスであったので写真に撮りました。 そして、今里筋に出る手前、関目辺りだったかと思うが、花に覆われた家がありましたので、これも1枚。(バスを改造した集会室) 町内周回バスではありません。町内集会所でありバス。(花に覆われた家) これはグリーン・カーテン?それともピンク・カーテン? ピンクのグリーン・カーテンです。
2013.07.08
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本日は朝のうちに墓参。 墓への坂道を少し上った処の寺の前で、幼馴染のトモちゃんと出会う。彼女もお母様とお墓参りであったようで、その帰りでありました。ムラで小生と同じ学齢の子供は男子が小生を含めて5人、女子も5人いたかと思うが、その内の1人である。小生は「ケンちゃん」と呼ばれていたが、ムラには同学年で1人、一学年上級に1人と3人の「ケンちゃん」が居たので、それぞれ「◎◎のケンちゃん」と上に姓を付けて区別されていた。いくつになっても幼馴染みは◎◎ちゃんである。トモちゃんのお父様と小生の父が同学年で父親同士も同級生であったことなども思い出しました。(睡蓮) お墓への最後の坂道に差し掛かる処に池がある。その池には睡蓮が花を咲かせていました。池はその西側のお家のご所有だと思われるが、このお家の庭先はいつも季節の花が咲いていて、墓参の行き帰りに目を和ませてくれる。そのお家の西側のお庭(つまり池とは反対側の庭)には、信楽焼の狸が東方向(つまり生駒山地の方向)を向いて立っている。まるで、朝日を仰ぎ見ているようでもあったので、1枚その横顔を撮ってみることにしました。われかくて 今日もありなむ な煩ひそ 明日は明日なり 日はまた昇る (狸麻呂) (タヌキ) さて、トモちゃんと出会ったお寺の門前には、いつもの通り「今日の言葉」が掲示されていました。(今日の言葉) 本日の言葉は安田理深氏の言葉。 同氏の名は小生は勿論存じ上げないので、Wikipediaで調べて置きました。下記をご参照下さい。 <参考> 安田理深・Wikipedia 明日のために今日を犠牲にしてはいけない。今日なすべきは今日なすべきであり、今日を精一杯に生きれば自ずから明日はひらける、ということでありましょうか。 「あすのことを思いわずらうな。あすのことはあす自身が思いわずらうであろう。」(マタイによる福音書第6章34節)という聖書の言葉や「昨日またかくてありけり、今日もまたかくてありなむ、この命なにを齷齪明日をのみ思ひ煩ふ」という藤村の詩の一節を連想したりもしましたが、このような言葉は前後の文脈やその言葉の置かれた状況、この言葉を受け止める側の人間の心の在り様などとの関係で「或る意味」を持ったものとなるのであれば、一見逆のことを言っているようにも見える「明日のために今日を耐えよ」という言葉とも左程の違いはないとも言えますかな。 上の狸さんも下の柘榴くんも、そんなことは先刻ご承知にて、今日を今日として生きているのであります。人間だけがあれこれと七面倒臭いことを思い煩い、悩み、物事を分かりにくくしているようでもあります。(ザクロ) この寺の前の空き地には、早くも柘榴が実を付けていました。 草木は、「私」が存在する前にそうであったように、今日の営みを黙々とこなし、「私」が存在しなくなった後も、変ることなくその営みを続けて行くのでありましょう。
2013.07.06
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本日は囲碁例会。天気予報は曇り・雨。出掛ける頃は雨は止んでいましたが、夕刻にはまた雨ということであったので、電車で梅田に向かいました。(大阪駅) 囲碁の会場は梅田スカイビル。大阪駅から徒歩10分程度。(梅田スカイビル) 正確には、梅田スカイビルではなくて、アネックス棟の方。上の写真では手前の低い建物の最上階(5階)にあります。以前は後のスカイビルの21階でしたが、現在はこちらに移転しています。 それは、さて置き、囲碁例会の方。出席者は、青◎、竹◎、福◎、平◎、荒◎各氏と小生の6名。小生は青◎、平◎、竹◎氏と対局し、何れも負け。3戦全敗。これで7連敗。絶不調。これで、今年にはいってからの成績は9勝21敗となっています。今日もそうであったが、どうも、不注意なミスが多い。これでは勝てる訳がありません(笑)。まあ、これも実力の無さと言うべきではありますが。もう少しじっくり打つようにしなくては駄目です。 さて、梅田スカイビルの「里山」(花野)では、アジサイ、クチナシなどが咲いていましたが、今日はランタナに注目することにしました。と言うのも、先月1日の墓参で見掛けた「ランタナみたいダナ」と名付けた花がランタナなのかそうでないのかを見極めるためでありました。 そして分かったことは、墓参の折に見た花はランタナそのものであったということでした。ランタナの花の咲き始めは中央部分が未だ花が開いていないため、こんな風にガクアジサイみたいになるのですな。小生は当初から中央部も周辺部と同様の小花が開いているものだという思い込みがあった(例えば下記末尾の写真のように)のと、個々の小花の形についての正確な認識がなかったことが相俟って、「ランタナみたいダナ」と思ってしまったようです。 知っているように思っている花も、案外にその知識・認識は曖昧な映像でしかないことが多いということを実感した次第。 6月1日の日記の「ランタナみたいダナ」は「ランタナ」に此処で訂正して置きます。まあ、皆さんは既に「あれは、ランタナそのものだよ。」と先刻ご承知のことであったかも知れませんが(笑)。 <参考> 墓参・花散歩など 2013.6.1.(ランタナ)(同上)(同上) ランタナは、外側から咲くミタイダナ(笑)。(同上)
2013.07.03
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本日は、わかくさ竜間リハビリテーション病院まで銀輪散歩して参りました。大阪産業大学の南側の道、古堤街道を山へ向かって東上。阪奈道路を横切り、うねうねと続く坂道を上る。とても一気に上れる道ではなく、休み休みしながら、それでも駄目な処は自転車を押して上る。 この道(下の地図では<701>とある道)は、4月9日の銀輪散歩で上った道であるから、ほぼ3ヶ月ぶりの再訪である。この道は下で阪奈道路(下の地図では<8>とある道)を横断したあと再び上で阪奈道路と合流する。4月の時は上の合流地点で引き返したのであるが、今回は「わかくさ竜間病院」が目的地であるから、更に阪奈道路を上へと走ることになる。 <参考> 銀輪散歩・囲碁例会 2013.4.10.(阪奈道路。) 阪奈道路から病院へのアプローチ道路はとても急坂で、これはもう押して行くしかないのでありました。(生駒カレッジハウスとある辺りから道は上りに入り覚順寺を過ぎる辺りから阪奈道路と交差する辺りまでは急坂となり、阪奈道路を越えて再度合流するまでのクネクネ道はもう息切れの道となります。) さて、何故、銀輪散歩の目的地がリハビリ病院なのか、と不思議に思われたことでしょうが、タイトルで既にお気付きの通り、お見舞いなのでありました。小生が散髪でお世話になっている理髪店のご主人が脳出血で倒れられて、この病院でリハビリをなさっているとのことであったので、お見舞いに参上した次第。 ところが、受付で入院患者名を調べて戴くも該当者は居ないとのこと。◎◎という姓しか存じ上げないので、それを告げるが、◎◎という姓の入院患者さんは奈良市在住の方にて、東大阪市在住の◎◎さんは入院されていない、という。理髪店の店名の一部に姓と思われる「◎◎」が使用されているので、小生はそれを姓だと思って来たのであるが、「◎◎」が姓のそれでないなら、お手上げ、調べようもない。考えてみれば、散髪をして貰う時だけのお付き合いだから、姓名などを確認したこともなかったのであり、ひょっとすると小生の記憶違いかも、と怪しくなって・・調査は打ち切り、お見舞いも諦めることと致しました。仕切り直しです(笑)。 (龍光寺) ということで、手ぶらで帰るのも・・と病院の奥の道を少しばかり探索。狭い石段の道があって、龍光寺とあったので、下に自転車を駐輪して、石段の道を登ってみる。 無人の寺。お堂も簡易な造り。ただ、楓の大木が何本かあって、その青葉が素晴らしく美しい。秋の紅葉もさぞや・・と思われました。わが屋戸に 黄変(もみ)つ鶏冠木(かへるで) 見るごとに 妹を懸けつつ 恋ひぬ日は無し (田村大嬢 万葉集巻8-1623) カエデは元々は蛙手(かへるで)で、葉の形が蛙の手に似ているということでの命名であるが、いつしか「る」が取れて、「かへで」となったのであろう。(同上) カエデの歌は万葉にもう1首ある。青葉のカエデにはこちらの歌の方が似合いかも・・ですかな(笑)。子持山 若かへるでの もみつまで 寝もと吾は思(も)ふ 汝(な)は何(あ)どか思(も)ふ (東歌 万葉集巻14-3494)(同上。カエデの青葉が美しい。) 龍光寺の境内入口にあるお地蔵さん(写真左側)。大東市で一番古いお地蔵さんであるそうな。1490年の建立。 右側の石屋根の中にも石仏が鎮座ましますが、こちらについては何の説明もない、ということは、そう古くはないのか、或いは制作年代不明ということであるのだろう。(お地蔵さん)(同上説明板)
2013.07.02
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