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彦根旅行記も一段落いたしましたので、本日は久し振りに銀輪花逍遥と致します。(ススキ) ススキの穂が秋風に靡いている。こういうのを「穂向きの寄れる片寄り」と言うのであろう。万葉集の女性歌人の中でもひときわ情熱的な但馬皇女さんの歌に次のような歌がある。秋の田の 穂向きのよれる 片寄りに 君によりなな 言痛(こちた)かりとも (但馬皇女 万葉集巻2-114) 銀色に靡くススキの穂を見て、この歌を連想しました。上の歌は稲の穂向きですが、片寄りならススキの方がもっと徹底しているのではないか。銀色の 薄の穂向き 片寄りに われも寄りなな 道にしなくも (偐家持)秋の田の 穂向きのままに 人言の 何ぞ言痛き ともにし刈らば (偐家持) 但馬皇女さんへの返歌を二つばかり考えましたが、彼女が歌を贈った相手は穂積皇子。ここに偐家持が割り込んでは事態が錯綜すると言うか、ドタバタ喜劇の体をなしますれば、これらの歌は没とするのが順当でありますな(笑)。 (コスモス) 今はコスモスが盛り。 大伴家持は撫子の花を恋人や妻になぞらえて、詠いましたが、もし、万葉時代にこの花があったなら、秋にはきっとコスモスの花になぞらえたに違いないと思われます。コスモスの 花にもがもな 朝に日(け)に 手に取り持ちて 恋ひぬ日なけむ (偐家持)(コスモスとケイトウ) コスモスに立ち混じってケイトウも元気に咲いている。恋ふる日の 長くしあれば わが園の 韓藍(からあゐ)の花 色に出でにけり (万葉集 巻10-2278) コスモスは万葉の花ではないが、鶏頭は万葉の花。万葉集には4首詠われている。万葉ではケイトウは韓藍(からあゐ)と言う。最近は秋と言えばコスモス。ケイトウは影が薄い。 まあ、「鶏頭」と「秋桜」ですから、漢字の名からして、もう勝負あったであります。しかし、鶏口となるも牛後となる勿れ、ではありませぬが、いやしくも鶏の頭(と言っても「トサカ」のことでありますが)という訳で、新参者のコスモスなんぞに負けてはいられないと、ケイトウ君、奮闘して居りますな(笑)。コスモスの 中にしあれど 万葉の 花こそわれと 韓藍(からあゐ)の花 (偐家持) 何やらコスモスが藤原氏、ケイトウが大伴家持を始めとする大伴氏。上の写真を見ていると、そんな気がして来ませんか(笑)。コスモスの 楚々たる花に 囲まれて わが鶏頭は 四面楚花なり (偐家持) <注>鶏頭は「系統」も掛けている。 四面楚花は四面楚歌の洒落。(秋海棠)秋海棠西瓜の色に咲きにけり (芭蕉)散りてなほ西瓜の色の秋海棠 (筆蕪蕉)(ゲンノショウコ) ゲンノショウコは「現の証拠」と表記するようだ。これでは和歌にはなりそうもないが、実の弾けた状態がお神輿に似ているところから「みこし草」とも呼ばれるそうな。これならば歌にならぬでもない。 上の写真でも、実が沢山なっている。これが弾けると莢がクルりと反り返りお神輿に見えるのである。秋されば 神まつりせな みこし草 はじけむときの 今かと待ちつ (偐家持) (不明) これは何の木か知らない。実を沢山付けている。真っ赤に色づいている実もありましたが・・。まあ、行きずりの木、名前はまたの折に調べることとして、今日のところは、下の歌のようなことで(笑)。銀輪の 道にしあへる 木にあれば (いさとや言はむ その名は告(の)らじ (偐家持) (本歌) 犬上の 鳥籠(とこ)の山なる 不知哉(いさや)川 いさとを聞こせ 我が名のらすな (万葉集巻11-2710) <注> いさ=「さあ、知らない」という意の感動詞。
2013.09.30
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<承前> 若草読書会彦根旅行記もこれが最終回です。 竹生島神社に向かう。と言っても宝厳寺観音堂と渡り廊下(舟廊下)で繋がっているのでもあればお隣さん。明治の神仏分離で現在は別法人となってはいるが元々は一体のもの。只今は神社のそこかしこが工事中。仮囲いなどの工事用仮設に遮られて本来の姿がよくは見えない。 社伝では、竹生島神社の創建は雄略天皇3年で、浅井姫命を祀る祠が建てられたことに始まるという。 祭神は、市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)、 宇賀福神(うがふくじん)、 浅井比売命(あざいひめのみこと)、 龍神(りゅうじん)(竹生島神社本殿) <参考>都久夫須麻神社・Wikipedia 竹生島神社公式サイト(竜神拝所、かわらけ投げの場所) 土器(かわらけ)をこの鳥居(宮崎鳥居)に向かって投げ、うまく鳥居を潜らせることができたら、願い事が叶うとされている。 先ず、百発百中で鳥居を潜らせることが出来ますようにと願って、土器を投げて潜らせる。上手く潜ったら、後は百発百中だから、どんな願いも全て叶うという理屈になるから、欲張りな人はこの方法が宜しかろう(笑)。(三重塔のある一番高い場所から見た船着場) 滞在70分は、荒っぽくしか見ないヤカモチには少し長過ぎる。宝厳寺と竹生島神社のある一角だけが人の立ち入れるエリアにて、島の他の部分はタブの木などの生い茂る原生林と岩山。散策の道などはなく、人の侵入を拒んでいる。聖なる島なのであろう。 船着場前の土産物屋さんの前で休憩。小万知さん振る舞いのアイスキャンデーを戴きながら出港の時間待ち。 11時20分、出港。(竹生島) いざ、さらば、竹生島。まさきくぞあれ。(同上・右手奥が賤ヶ岳)(伊吹山遠望) 琵琶湖はひたすらに青い。空も青い。伊吹山も青い。(伊吹山)(波のまにまに漂へば)(多景島遠望) <参考>多景島・Wikipedia ひょっこりひょうたん島かと思ったら多景島であった。 竹生島は長浜市に属するがこの多景島は彦根市に属する。(米原市磯地区を望む。) 井伊直政が生前に佐和山城の移築先として考えていたのは、この岬の丘、磯山であったとも言われる。直政は関ヶ原合戦での傷が癒えず亡くなってしまうが、もし彼がもっと長生きしていたら、彦根城ではなく磯山城になっていた可能性もあることとなる。そうすると「ひこにゃん」も「いそにゃん」になっていたかも、ですな。 高市黒人の歌碑がこの岬に建てられていることは8月20日の日記で紹介済みであるが、此処に再掲載して置きましょう。磯の崎 こぎたみ行けば 近江(あふみ)の海(み) 八十(やそ)の湊(みなと)に 鶴(たづ)多(さは)に鳴く (高市黒人 万葉集巻3-273)(かんぽの宿彦根にもご挨拶)(佐和山遠望) 佐和山城は琵琶湖側よりも山の向こう側の鳥居本を城下町とする城であり、中山道と北国街道を睨んでいたのであれば、この景色は「後ろ姿」と言うべきか。ならば、うしろ姿のしぐれてゆくか、でありますな。(彦根港遠望)(彦根城遠望) 湖上から眺める彦根城もなかなかによろしい。琵琶湖周航歌の歌詞の「古城にひとり佇めば・・」の「古城」は彦根城のことでしょうか。 「矢の根も深く埋もれて、夏草しげき堀の跡」というのは壮絶な戦いのあった佐和山城にこそ似合う。彦根城は江戸時代になってからの城で戦闘の経験はないから、「矢の根が埋もれて」は不似合い。一方、佐和山城は山城だから堀(空堀は考えられるが)は不似合い。それに、佐和山城跡からの眺望は木々に遮られて彦根城からのそれほどにはよくはない。まあ、余り深くは考えないことと致しましょう(笑)。安土城など他の城かも知れないのだから。(彦根港) 12時に彦根港に帰着。かんぽの宿に戻り、槇麻呂さんと合流。預けてあった荷物を受け取り、12時21分発のシャトルバスで駅前へ。景郎女さんは所用ありということでそのまま電車に。残った6名は駅前の食堂で昼食。 昼食後、小万知さんと東京組の祥麻呂さん、りち女さんは、土産物を買うと土産物店へ。凡鬼さん、槇麻呂さん、小生の3名は駅に入り、帰途に。 以上で若草読書会彦根旅行記完結です。 若草読書会の皆さまお疲れさまでした。 また、ブログにお付き合い下さった皆さまどうも有難うございました。 <完>
2013.09.29
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<承前> 若草読書会彦根旅行、一夜明けて25日。本日は25日の日記になります。智麻呂ご夫妻は偐山頭火さんの車で佐川美術館へ。サイクリング組6名は竹生島へ。所用がある謙麻呂さんは朝のうちに帰途へ。何やらレポートを纏めなくてはならないという槇麻呂さんはホテルに残り、サイクリング組がホテルに帰って来る正午過ぎまでの間にそれを仕上げるという。 ホテル(かんぽの宿彦根)に荷物を預け、8時半出発。と言ってもサイクリングではない。観光船で竹生島に渡るのである。(ホテル玄関脇のコブシの木) ホテル玄関脇のコブシに見送られて彦根港へ。 彦根港はホテルの隣。徒歩2分位の距離。9時出港という小生の勘違いで、皆を随分早く港へ連れて来てしまったが、正しい出港時刻は9時半。港の「琵琶湖周航歌の碑」を撮影したり、ブラックバスを釣っている若者に声を掛けたり、周辺をウロウロしながら待つ。(琵琶湖周航歌碑)(同上) 琵琶湖周航歌5番歌詞の「古城にひとり佇めば」の古城は彦根城であるということで、此処彦根にこの歌碑があるのですな。(同上・副碑)(同上・説明副碑)(竹生島観光船・わかあゆ) さあ、出港。 湖上からの風景は帰りにご紹介することとして、はい、竹生島に到着です。彦根港からは40分です。10時10分上陸。70分の滞在時間で、復路の船は11時20分出港、彦根着が12時となっている。(竹生島船着場)(竹生島にも琵琶湖周航歌碑があった。これは4番の歌詞。) 琵琶湖周航歌の歌詞から、大津から出発、琵琶湖西岸に沿って北上、近江舞子の雄松崎、今津を経て長浜へ。竹生島を望みつつ彦根、近江八幡長命寺と東岸に沿って南下、というコースであったことが覗えます。 一昨年に京都から小関越えで滋賀に銀輪散歩した折に作った小生の替え歌を掲載して置きます。 「銀輪小関越の歌」 (「琵琶湖周航の歌」の替え歌) 1.我は銀輪(ぎんりん) さすらひの 旅は蹴上(けあげ)ゆ 日の岡を 行けばみささぎ 木隠(こがく)れの 疏水(そすい)の道や 小関(こせき)越え 2.長等(ながら)の森や 三井の寺 淡海(あふみ)の風に 恋ひ行けば 白木綿花(しらゆふはな)に 寄す波の 志賀の唐崎 さきくあれ 3.志賀(しが)の大わだ さざなみの 道ゆく妹の 影恋はば 風もやさしみ コスモスの 花も咲くらむ 真野(まの)堅田(かたた(琵琶湖八景深緑竹生島沈影碑)<参考>琵琶湖八景・Wikipedia 近江八景・Wikipedia(参道) この寺も行基の開創だと伝えられているが、詳しいことは下記参考をご参照下さい。 <参照>宝厳寺・Wikipedia (宝厳寺)(宝厳寺・弁財天堂)(不動明王像) (竹生島流棒術発祥之地碑)<参考>竹生島流・Wikipedia(片桐且元手植えのモチの木) 竹生島の伽藍は何度か火災で焼失しているが、永禄元年(1558年)の大火で焼失した伽藍は、慶長7年(1602年)から8年にかけて、豊臣秀頼が片桐且元に命じてこれを復興させている(唐門、観音堂、神社本殿など)。(三重塔)(唐門・背後の建物が観音堂)(同上説明板) この後、竹生島神社(都久夫須麻神社)に回りますが、今日はここまで。次回でどうやら最終回となりそうです。(つづく)
2013.09.28
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<承前> 湖岸の銀輪散歩を切り上げ、JR彦根駅前に向かう。東口に回って、佐和山トンネルの前後で、予定ルートでは危険な箇所があるので、それを回避するルートを見付けるための行動である。 駅の跨線橋通路を自転車を担いで西口から東口へと行く。普通の自転車ではこうも行かないが、軽量折りたたみ自転車トレンクルはこういう場合にそのメリットを発揮する。 通路には、国宝「彦根屏風」のほぼ実寸大の複製が展示されていました。(国宝「彦根屏風」<複製>)<参考>国宝・彦根屏風の魅力(近江歴史回廊倶楽部) さて、問題点というのは、次の2点。 第1の点は、佐和山歩行者用トンネルに入るために一般道から国道8号線の歩道に自転車で安全に入れるルートがあるか、というもの。 これまでの下見では、国道8号線の下を潜って、佐和山美術館の方に回り込み、反対側車線側にある歩道へ、信号のない処で、自動車の切れ目を見計らって、タイミングよく渡る、というもの。 これは、国道8号線を潜る手前にある東屋のある小緑地にスロープがあって、それをうねうねと上れば、歩道に出られることが分かり、解決。 下見の際は、歩行者用の階段しか目に入らず、スロープは東屋へ行くためのものと見えていたのが、行ってみると東屋の裏から更に上へとスロープが続いていたのでありました。 第2点は、佐和山トンネルを鳥居本側へ抜けて直ぐに、反対側車線側に旧道の彦根道(別称「朝鮮人街道」)が分岐しているのだが、これに入るにはまたしても信号もない地点で国道を横断しなくてはならないというもの。それを回避して直進すると、やがて歩道が無くなり、かなりの距離、車道を走らなくてはならなくなる。小生は車道を走ることには慣れているが、隊列を組んでの走行はやはり危険が伴う。 これも、トンネルを出て長い坂道を下りながら、それらしき道はないかと探せば、ありました。いままでは道路脇の民家への進入路と思っていたそれが、実はその家の前を過ぎて更に奥へと道は延びていて、国道の下を潜って反対側に出られる通路となっているのでした。これを行くと彦根道に出た。 これで、めでたくも、気がかりだった問題が全て解決。彦根駅へと引き返す。駅西口に戻ると10時55分。りち女さんが11時28分頃の着だとメールで知らせて下さっていたので、他の方もそれ位だろうと、それまで、駅前の喫茶店で待つこととする。「さざなみ」という喫茶店があったので入る。 ところが煙草が1本しか残っていない。予備の煙草はかんぽの宿に預けたザックの中。ということで、11時を少し回った位で喫茶店を出て、駅構内の売店へ煙草を買いに。若草読書会で喫煙者は小生のみ。井伊直政公の像の前に喫煙場所があるので、其処で待つことに。 やがて、凡鬼・景郎女ご夫妻、小万知さん、祥麻呂さんが到着。暫くしてりち女さんが到着。これで、サイクリングメンバーは勢揃い。レンタルサイクルセンターへ自転車を借りに行って戴く。サイクリングはパスして竹生島へ行くという謙麻呂さんが11時48分に駅に着くというので、小生だけその場でそのまま待つことに。そして、謙麻呂さんが到着。全員揃ったので、駅前で先ず腹ごしらえ。12時18分、謙麻呂さんだけ残し、6名は、サイクリングへ出発と相成りました。 コースは次の通り。 彦根駅西口→JR線東側への地下道→佐和山公園→佐和山会館→ 清涼寺→龍潭寺→井伊神社→佐和山トンネル→彦根道→中山道→ 北へ・鳥居本宿脇本陣・本陣跡→赤玉神教丸本舗→摺針峠入口→南 へ引き返す・彦根道分岐→更に南へ・小野町→小町塚→原八幡神社・ 昼寝塚・白髪塚→大堀山・大堀橋→芹川左岸・下流へ→けやきの道 →池州橋→夢京橋キャッスルロード→彦根城京橋口→花の生涯記念 碑・井伊大老像→楽々園前・井伊直弼生誕地碑→いろは松通り→井 伊直弼歌碑→長純寺・森川許六墓所碑→彦根駅西口 サイクリングコースのそれぞれは、これまでの記事と下見の記事で紹介済みなので、写真や説明は割愛します。 中山道銀輪膝栗毛なんぞという大層なタイトルを付けているのに、これでは詐欺ではないか、というお叱りの声も聞こえて来そうですが、芹川の鷺に免じてお赦し下さりませ。<参考>彦根小旅行銀輪散歩下見(その1) 2013.7.29. 彦根小旅行銀輪散歩下見(その2) 2013.7.30. 彦根小旅行銀輪散歩下見(その3) 2013.7.31. 彦根銀輪散歩(その1) 2013.8.15. 彦根銀輪散歩(その2) 2013.8.16. 彦根銀輪散歩(その3) 2013.8.17. 彦根銀輪散歩(その4) 2013.8.18. 彦根銀輪散歩(その5) 2013.8.19. 彦根銀輪散歩(その6) 2013.8.20.(ヤブミョウガと彼岸花) 気付いてみれば、読書会の皆さんとのサイクリング中は殆ど写真を撮ってはいませんでした。何と、井伊神社で撮ったこの3枚だけでありました。 8月15日の下見のときには真っ白に群れ咲いていたヤブミョウガの花も殆ど散ってしまって、紫色の小さな実が鈴生りになっていました。 参考までに先月の花盛りの写真も掲載して置きます。(ヤブミョウガの花 先月15日の下見の折、井伊神社で撮影)(同上) (ヤブミョウガの実)(シダ 井伊神社境内にて) 原八幡神社で芭蕉句碑の昼寝塚を見ていた時に、祥麻呂さんが境内を通り抜けるタヌキを発見という珍事もありました。タヌキは一般には夜行性ですが、以前、小生も森の中の道でタヌキを目にしたことがありましたから、昼間にも出歩く不良狸が居てもおかしくはないです。 サイクリングはとてもスムーズに運び、彦根駅前に帰って来たのは、乗る予定にしていた無料シャトルバスの発車時刻16時45分の1時間以上も前の15時20分頃。 バス待ちの間、小生が朝に入った喫茶店「さざなみ」にて珈琲ブレイク。 シャトルバスにて17時かんぽの宿彦根に到着。 偐山頭火さんの車で先に宿に到着の偐山頭火さんと智麻呂・恒郎女ご夫妻と合流。竹生島に渡って居られた謙麻呂さんも来られ、毎度ながら、仕事で遅くなる槇麻呂さんを除いて全員集合。 小生は、半パンに穿き替えて貸し切り家族風呂で智麻呂さんの入浴のお世話をされる恒郎女さんの助太刀。ついでに露天風呂で汗を流し、宴会へ。 遅れていた槇麻呂さんも宴会には間に合いました。 宴会後は、智麻呂ご夫妻の部屋に集合。小生の用意したレジメで、彦根の万葉歌と彦根関連の芭蕉の句などをお勉強。その後は皆が用意した短歌や俳句・川柳などを披露し合って、談笑。10時半を少し過ぎるまで、ワイワイガヤガヤでありました。<つづく>
2013.09.27
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<承前> 未だ若草読書会彦根旅行の本番前の23日ヤカモチ一人旅の処をウロチョロしています。ブログアップはこれだから大変(笑)。 迂闊に読む人は一泊二日や二泊三日の小旅行を7~8日間の大旅行と誤解してしまうのですな。この記事も前半は初日の23日の事を書いた日記でありますので、誤解されませぬよう(笑)。 さて、いよいよ、彦根城天守閣です。玄宮園や天守閣は本番のサイクリングでは時間の都合上、カットして居ります。その意味では小生が代表してこれに入場、ブログでご報告することで、カット部分を補うという意味もありますれば、それなりにしっかりと見て、的確に撮影しなければならないということにもなるのですが・・。 彦根城の内堀を渡って城内に入るには、東側の表門橋、南側の大手門橋、北側の黒門橋の何れかを渡ることになる。玄宮園からだと北側の黒門橋が近いので、此処から入城することに。 大阪城は天守閣への入場のみが有料に過ぎないので、天守閣の前まで自由に行けるが、彦根城は内堀に架かる橋を渡った先からが有料となるので、そう気軽には天守に近付けない。 彦根城は、関ヶ原合戦後に佐和山城を与えられて初代彦根藩主となった井伊直政が佐和山入城(慶長6年・1601年正月)の翌年に病死、後事を託された家老の木俣守勝が徳川家康と相談して彦根山への移築を決定、2代藩主直孝の下で20年の歳月をかけて元和8年(1622年)に完成している。 姫路城、松本城、犬山城と並ぶ国宝4城の一つである。(注)井伊家は遠江国井伊谷(現在の浜松市北区引左町井伊谷)の国人領主。 今川氏の家臣であったが、直政(井伊家24代当主)の時に家康の小姓を 経て、その家臣となり、家康の江戸入府の折(天正18年・1590年)には、 上野国箕輪城を与えられ(慶長3年・1598年箕輪城廃城、高崎城に移封) 高崎藩初代藩主となった。(黒門山道から本丸北面石垣を見る。) 城は建物よりも石垣の景観に心惹かれるものがあるヤカモチであります。 この石垣は「牛蒡積み」と呼ばれる積み方で築城当時のもの。城内の石垣には「落とし積み」と呼ばれる積み方のものもあるが、これは江戸後期の改修によるものとのこと。 (同上) (彦根城の石垣と彼岸花) 城の建物には桜が似合うが、石垣には彼岸花が似合う。(本丸西面) はい、やっと天守閣です。三層建物なので移風堂々という感じではないが破風の組み合わせが美しい。京極高次が築いた大津城から移築されたと言われ、慶長12年(1607年)頃に完成したとのこと。(本丸東面) 東・西面の写真を並べてもデザインが同じになるから意味がない。南・北面の写真がないではないか、とのクレームが付きそうですが、そういうお方はご面倒ですが前頁の玄宮園から見る天守閣の写真をご参照下さい。北面の姿が写って居ります。クリックして拡大写真でご覧戴ければ幸いに存じます。 23日は祝日とあって、観光客が一杯。天守閣に上るのも長い列となり、待つこと15分。狭い処で暑い中15分並んで待つ・・これはかなりの苦行。(本丸から南方向、芹川を望む。後方の山は荒神山) 天守閣最上層からの眺めは以下の通りです。(天守閣から南西方向、琵琶湖を望む。湖上左奥の小島は多景島) ちょっと見づらいですが琵琶湖の沖にある無人島の多景島も写っています。(同、西方向を見る。右手の建物は24日の宿、「かんぽの宿彦根」) かんぽの宿の建物の左側の木々のある処が彦根港です。竹生島と多景島への定期観光船乗り場があります。(同、東方向、佐和山を望む。) 天守閣を出て、来る途中でやり過ごした西の丸三重櫓に立ち寄ってみる。こちらは入場する人もまばら。(彦根城西の丸三重櫓)(同上・最上階内部)(同上・最上階から東方向、佐和山を望む。)(西の丸から山崎山道を見る。)(彦根城東面・佐和口側。彦根キャッスルホテルから見る眺め。) 上の写真は前泊の彦根キャッスルホテルから24日朝に撮影したもの。漸く24日の記事となります。若草読書会のサイクリング参加者の集合時間は12時駅前であるから11時半前後に駅前に行けばよい。ホテルでの朝食を済ませて、8時20分にチェックアウト。先ず、かんぽの宿に向かう。勿論自転車トレンクルに乗って。かんぽの宿で背中の大きいザックを預け、タオルや地図やら必要なものだけを取り出して小型の簡易ザックに詰め直して朝の銀輪散歩の出発。 湖岸を芹川に向かって走る。 天気も上々。琵琶湖はひたすらに青く、花たちも朝日に輝いている。風がそより吹くとさりげなく揺れ、われにし笑みぬ、である(笑)。(ミゾソバ)(コスモス)(センニンソウ。ツルボタンかも。)(ツマグロヒョウモン)(芹川河口・下芹橋)(同上)(琵琶湖・芹川河口左岸) 上の場所で休憩しながら琵琶湖の景色を楽しんでいると、携帯に着信。大学同期の友人、横浜の楽老氏からであった。大津に来る用事が出来たので、10月4日に道◎君と小生の3人で京都で昼食を一緒しないかというお誘い。 即OKの返事。「有朋自遠方來。不亦楽乎。」である。 この後、芹川べりを走り、佐和山トンネル前後の道の難点解消の探索に向かいますが、今日はここまで。<つづく>
2013.09.26
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<承前> 前頁からのつづきです。彦根城内に入り、玄宮園・楽々園と彦根城天守閣を廻ることにする。奥の楽々園の方の入口から入ることに。西口券売所で入場券を購入。券売所の前にトレンクルを駐輪。この先はしばし徒歩で廻ることと相成りますれば、以後は銀輪散歩番外編となりまするかな。 楽々園というのは建物部分の名称で庭園部分を玄宮園と呼ぶ。これは現在の名称区分で、これらは彦根藩4代井伊直興(なおおき)により建立された彦根藩下屋敷で、内堀内にある表御殿(現、彦根城博物館)に対して槻(けやき)御殿と呼ばれていたもの。11代井伊直中(なおなか)の隠居に伴って建物は最大規模になったとのことであるが、現存する建物は床面積にしてその10分の1程度のごく一部に過ぎないというから往時のそれはまことに広大なものであったのですな。 (楽々園・御書院の玄関) 建物内は公開されて居らず、外から垣間見るだけ。この御書院も直中の隠居に伴う増改築で建てられたもので、当時は御新建(おんしんだち)、御新館(おんしんかん)と呼ばれていた。(槻御殿説明板)(井伊直弼生誕地碑) 13代井伊直弼も槻御殿で生まれ、此処で幼少時を過ごした。彼が幼少期を過ごした建物は現存しないが、御書院の西20m位の位置にあった建物と見られている。 では、楽々園、玄宮園の写真散歩を暫しお楽しみ下さいませ。(楽々園・御書院)(楽々園・茶座敷<地震の間>)(同上説明板)(楽々園から見る玄宮園)(玄宮園から見る御書院と地震の間)(玄宮園・七間橋)(同上・七間橋から南東方向の眺め)(同上・池<魚躍沼>の北岸、武蔵野より南方向の眺め)(玄宮園から天守閣を望む。)(玄宮園・池の東岸より西方向の眺め)(同上・臨池閣)(同上・龍臥橋) この龍臥橋を渡って左に行くと高橋という小さな橋があって、それを渡ると鳳翔台(茶席)という建物があり、パンフレットでは第一のみどころに挙げているが、その写真がない。まあ、この辺がヤカモチのヤカモチたる由縁なのでありますな。龍臥橋を渡って高橋の前で左折、琴橋を渡って、東券売所から退場してしまいました。 龍臥橋を渡って鳳翔台に立ち寄らぬこと、これを「画龍点晴を欠く」に因んで「我流天性の迂闊」と言いますな。 オチがついた処で本日はここまで、この後天守閣に向かいますが、これは明日(26日)の日記とします。<つづく>
2013.09.25
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<承前> まだ、23日の日記です。 明照寺を後にして、県道208号線に出て北へ向かう。千鳥ヶ丘公園で暫し休憩。京都駅で買って来た近江牛弁当で昼食タイム。 千鳥ヶ丘公園のあるこの丘は雨壺山とも平田山とも呼ばれるようだ。戦国時代には平田氏の居城があったとのこと。関ヶ原合戦直後の佐和山城攻めでは、井伊直政がこの山に陣を置いた。佐和山は北方向3km程の位置にある。(雨壺山) 雨壺山の南西麓に小さな神社があったので立ち寄る。 菅原道真を祭神とする鳴宮神社(鳴宮天満宮)である。(鳴宮神社)(同上・本殿)(同上・神社由緒) 本殿前に御籤箱が置いてある。箱をガラガラ揺すって出て来た、籤棒に記載された番号を本殿側壁に掲示の御籤板で照合するというもの。 試しに小生もやってみると、九と刻まれた棒が出て来た。御籤板で九番の処を見ると「吉」とありました。(みくじ板)鳴神(なるかみ)も 吉と告(の)らせり この旅の 秋の彦根道(ひこねぢ) まさきくあらむ (偐家持) (平田町の歴史) 芹橋前で芹川入り、左岸の「けやきの道」を下流へと走る。(芹川) 彦根城築城の際に芹川の土手に植えられた欅(槻)などの大木が今も残り、見事な並木道の景観を醸している。ケヤキの他に桜、アキニレ、エノキなどの巨木も立ち混じり、芹川の清き流れと木陰が織りなす涼やかな道である。(赤鬼の樹) 欅の巨木のいくつかには名前が付されている。上は「赤鬼の樹」。井伊直政の樹ですな。下は「大老の樹」、井伊直弼の樹である。他に「開国の樹」というのもありました。(大老の樹) 川辺には彼岸花が咲き群れ、川面には白鷺や鵜が群れている。(白鷺もい群れてあれば) 白鷺はこのように群れるが青鷺は単独でいるのが普通。人にも白鷺型と青鷺型があるようだが、小生ヤカモチはどちらの型であるのだろう。どちらかと言えば青鷺型に近いのかも(鴨)。 黒馬を「青毛」と呼ぶように、黒っぽい鷺を「青鷺」と呼んだのだとすれば、みてくれから言ってもヤカモチは黒鷺、即ち青鷺型ということになる。しかし、「青馬」というと「白馬」のこととなるから話はややこしい。こちらの流儀で言えば、「白鷺」も「青鷺」も白い鷺ということになるから、ヤカモチはどちらでもなく、黒鷺と言うほかないこととなります。サギの話だけに何とも紛らわしく誤解され易い内容となって居ります(笑)。うま(馬)い話には乗るなということであります。(芹川畔の彼岸花)(芹川・池州橋から上流方向)(同上・池島橋から下流方向) 芹川に架かる橋は河口から下芹橋、中薮橋、池州橋、後三条橋、芹橋、恵比寿橋、中芹橋、西沼波橋、旭橋、大堀橋・・である。 河口から三番目の橋である池州橋からはもう琵琶湖が見えている。サイクリングとしては琵琶湖まで出て湖岸を走りたい処であるが、今回の読書会メンバーとのそれは時間の関係もあって湖岸コースは省略している。宿が湖畔にあるので、という次第。 ということで、城に向かう。(彦根市のマンホール) これは何の関係もありませぬが、彦根市のマンホールの蓋。 彦根城佐和口、いろは松の通りに面して、護国神社の裏手にある井伊直弼歌碑を見て行くこととする。先般の8月15日の下見では、この歌碑が護国神社の中にあるものと思い込んでいてパスしたのであるが、神社に入らなくても佐和口の通りから見ることが出来るのでありました。(井伊直弼歌碑)あふみの海(み) 磯うつ浪の いく度(たび)か 御世(みよ)にこころを くだきぬるかな (井伊直弼) この歌は安政7年(1860年)正月の詠。 直弼は、御用絵師の狩野永岳(えいがく)に描かせた自身の肖像画に、この歌を書き添えて、井伊家菩提寺の清涼寺にこれを奉納したと伝えられる。 同年3月3日桜田門外で暗殺される2ヶ月前のことである。 24日のサイクリングで此処を訪れた時、これを見た読書会のメンバーの誰かが、直弼の周辺の人物が代作して詠んだような歌だ、と評していたが、確かに言われてみると、直弼自身の作歌とするよりも、その死を傷んで他の人間が詠んだ歌とする方がしっくり来る。 言い伝え通りに直弼自身の作ならば、まさに「自画自賛」の歌であるということになるが、彦根にありては、井伊大老ありてこそ開国はなりぬ、でありますから、困難な激動の時代を切り盛りして行かねばならない政治家としての彼にてあれば、このような自詠も亦ありでありますかな。(同上) <つづく>
2013.09.24
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24~25日の一泊二日の若草読書会の彦根小旅行に先立って、小生のみ前日に彦根入りということで、本日(23日)、彦根へ行って参りました。 読書会の宿などの手配は偐山頭火氏がして下さり、宿泊は琵琶湖畔の「かんぽの宿」。小生の本日の宿は彦根城佐和口前の彦根キャッスルホテル。勿論、前日に出掛ける必要はないのであるが、銀輪家持にてあれば、自転車を持ち込み銀輪散歩を余分に楽しもうという魂胆なのである。それと、明日24日のサイクリングの予定コースには、佐和山トンネルの手前で国道を信号のない処で横断するという場所があること、同トンネルを出て暫くすると国道の歩道が無くなり、かなりの距離、車道を走らなくてはならないこと、この2つが気にかかり、これを回避する道を探すという目的もありました。 彦根駅前到着が10時半頃。駅前で自転車を組み立て出発。先ずキャッスルホテルまで行きフロントに荷物を預けてから、銀輪散歩開始ということに。(森川許六屋敷跡・現NTT彦根営業所) 先ず訪ねたのは蕉門十哲の一人とされる、森川許六の屋敷跡。偲ぶよすがとしては、道路脇に建てられている「屋敷跡碑」だけ。現在は、NTTの事業所敷地となっている。(森川許六屋敷跡の碑) 許六は彦根藩士。江戸屋敷詰めで江戸に居た折、元禄5年(1692年)8月に天野桃隣(とうりん)の紹介により芭蕉の門人となっている。絵が得意で芭蕉に句を習うとともに、自らは芭蕉に絵の手ほどきをしたらしい。詳しいことは下記<参考>をご参照下さい。 元禄6年5月郷里の彦根に帰ることとなった許六に芭蕉が贈った句がある。旅人のこゝろにも似よ椎の花 (A)(旅人の風雅な心にふさわしく隠逸然とした椎の花がこの者を迎えてくれるように。)椎の花の心にも似よ木曽の旅 (B)(公務の旅ではあるけれど、椎の花のように風雅の心は忘れないように。) Bの句はAの句の初案であり、Bの句が最終的にはAの句に修正されている。これらの句は下のCの句と関係し、隠者の心に倣って木曽路の旅をするように、という許六への芭蕉からのメッセージである。うき人の旅にも習へ木曽の蝿 (C)(蝿の多い木曽路の旅の宿であるが、それを厭うのではなく、世を憂きものとして生きる出家・隠者の旅を見習って行きなさい。)<参考>森川許六・Wikipedia(森川許六之墓所碑) 屋敷跡から北へ300mの距離に長純寺という寺がある。その寺の墓地に許六の墓があるというので行ってみた。ご覧のように入口にはその旨の碑がある。(長純寺)(同墓地) この墓地の中をぐるりと一回りしてみたが、それらしい墓が見つからない。たまたま、お墓参りに来られたご婦人がいらしたので尋ねてみたが、彼女も何処にあるのかご存じではなかった。(同上) 諦めて退出。まあ、この中の何処かにある、ということで満足しようと思い定めた次第。先づ頼む 椎の木もなき 寺の墓地 いづく五老井 眠りてあらむ (森川許絶) (注)五老井=許六のこと。許六は五老井とも号した。 許六さんの墓は見つからなかったが、井伊直政公の姉上に当る高瀬姫の五輪塔なるものがありました。(高瀬姫五輪塔)(同上説明板) 長純寺から3km余南に下った平田町に明照寺という寺がある。芭蕉門下の俳人、河野李由という人が住職をしていたという寺である。ということで、次は明照寺に向かう。芹川に架かる後三条橋を渡って、ひたすら南下すると左手に明照寺が見えて来る。 芭蕉も奥の細道の旅では、長浜から船で彦根に着き、彦根城下を通り、平田へと向かうが、この道を行ったのであろうか。(明照寺)(同上・山門) 明照寺山門前に芭蕉句碑がある。百年(ももとせ)の気色(けしき)を庭の落葉哉(百年の歳月を重ねた様子を見せて境内には落ち葉が散り敷いている。) 芭蕉は元禄4年大津から江戸に向かう途中、明照寺に立ち寄っている。上の句は、その折に芭蕉が庭園を鑑賞しながら詠んだもの。 この時の句がもう1句ある。たふとがる涙やそめてちる紅葉(寺と仏とを尊がって流す涙が染めたものでもあるか、赤く色づいた紅葉が散っている。) この句には「一夜静(しずま)るはり笠の霜」という李由作の脇句が付されている。芭蕉と李由は夜の更けるまで語らっていたのでもあろう。 (芭蕉句碑) (裏面) この折の芭蕉の句では次のようなのもある。稲こきの姥(うば)もめでたし菊の花(庭には長寿の花の菊が咲き、そこで稲こきに励む婆さんも達者で長生き、めでたいことだ。)(同上・本堂)(同上・庭園) 芭蕉が褒めた庭がこれ。李由手植えの梅の木があったらしいが、それが今もあるのかどうかは、見た限りでは分からなかった。 庭の奥に、笠塚と李由の句碑が並んで建っている。 笠塚は、芭蕉没後に李由が芭蕉の笠を貰い受けて庭に埋め、そのしるしとして建てた塚だそうな。 句碑の句は「乞食の事云ふて寝る夜の雪(李由)」というもの。(同上・笠塚<左>と李由句碑<右>)(同上・庭園の彼岸花) 庭園の一角では、彼岸花が咲き、ツユクサが点々と青い花を付けていたが、芭蕉所縁の庭ということでもあれば、彼岸花も露草も何やら奥床しげに見えるのでありました(笑)。蕉翁の めでにし庭に ありぬれば ゆかし気色ぞ 壱師つき草 (偐家持)(同上・庭園のツユクサ) <つづく>
2013.09.23
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第127回智麻呂絵画展 本日は智麻呂絵画展であります。 どうぞごゆるりとご覧下さいませ。 <参考>他の智麻呂絵画展は下記から。 第1回展~第100回展 第101回展~第200回展 第201回展~ 今回の絵画展作品は当ブログ掲載のヤカモチ撮影の写真を絵にされたものが多くなっていますので、該当する写真が掲載されている当ブログの記事ページもリンクして置きました。併せご覧下さいませ。(向日葵A)<参考:銀輪花逍遥・睡蓮、向日葵、キツネノカミソリなど 2013.8.27.>(向日葵B)<参考:ヒマワリ(フォト蔵)> この向日葵Bはブログには掲載して居りませんが、向日葵Aと同時に撮影したものです。フォト蔵に収録していますが、本日公開ページに移しましたので、上記参考から元の写真をご覧戴けます。まあ、わざわざ見るほどのものではありませぬが(笑)。(向日葵C)<参考:墓参・向日葵 2013.9.1.> 次は睡蓮の花。睡蓮にも色々と種類があるようですが、白い花のこれはひつじ草(未草)と呼ばれる。(ひつじ草)<参考:銀輪花逍遥・睡蓮、向日葵、キツネノカミソリなど 2013.8.27.> ひつじ草の傍にはガマが生えていてユラリ風に揺れている。 先日、小万知さんが、呑気そうなガマの穂に愚痴のあれこれを聞かせたら穂が伸びるだろうか、伸びたら面白い、という短歌を作って居られましたが、小野小町がガマの穂に愚痴を言っていたら、それこそ面白いと、ヤカモチも1首。あれやこれ 小町が愚痴に やれやれと ガマの穂ややも 伸びてやあらむ (小野胡麻知) この歌は、「こまち」「ぐち」という音の取り合わせと「や」が重なるリズムを心地良いものと感じて戴ければよしの戯れ歌にてもあれば、内容はさて置くべきものにて候(笑)。(ガマの穂)<参考:銀輪花逍遥・睡蓮、向日葵、キツネノカミソリなど 2013.8.27.> 以上5点が当ブログ掲載写真またはその関連写真からの絵でありました。ヒマワリや睡蓮などの写真をA4版の大きさに印刷して智麻呂邸にお持ちした時は、丁度、智麻呂氏がヒマワリの花を描きたいと小さなブログ写真からそのスケッチを始めかけて居られた処でありましたので、タイムリーな拡大写真の持参と大層喜んで戴きました(笑)。(ソファー) ヤカモチのブログ写真を絵に・・というのは、この時期、智麻呂氏は絵の題材不足で相当に困って居られたということを示していますな。それかあらぬか、若草ホールの一角に鎮座ましますソファーまでが絵のモデルに引っ張り出されてしまったようで、「何を描くことやら」と奥様の恒郎女様も苦笑されていました。 しかし、レザー張りのソファーの光沢と質感が見事に表現された、いい絵になりました。時には智麻呂氏に絵の題材に苦労して戴くことも、このような思わぬ物が絵となるとあっては、悪いことではないのかも知れないと思った次第。(葡萄) この葡萄は岡山産ピオーネ。感じがよく出ていて、その瑞々しさが伝わって来ます。まあ、絵が完成するまでは食べるのはお預けですから、痛し痒しではありますが・・。 さて、ご覧のように絵も完成いたしました。本日ご来場の皆さまへの智麻呂画伯からの心ばかりの「デザート」のプレゼントでもありますれば、どうぞご遠慮なくお召し上がり下さいませ。(鬼灯) これは、りち女さんのホオズキでしょうかね。 ホオズキは、漢字では「酸漿」とも「鬼灯」とも書きますが、今日の絵の場合は「鬼灯」と書くのが似合っているような気がします。 ではこれにて第127回展お開きと致します。本日もご覧下さいまして有難うございました。
2013.09.21
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今日から彼岸の入り。 彼岸とは、秋(春)分とその前後3日、合計7日間のことを言う。ということで今日から彼岸に入ったということになる。 わが家から南東の方向1.5kmの処に往生院という寺がある。古来、そこから眺めると彼岸の日には四天王寺の五重塔の上に日が沈む、と言われて来た。それで、銀輪散歩のついでに往生院まで行って、日没の位置を見届けて来ようということに致しました。 四天王寺の五重塔が何処にあるのかは往生院からはよくは分からないのであるが、日本一高いという阿倍野ハルカスが出現したお陰で方向は見定め易くなりました。阿倍野ハルカスと通天閣は見える。その少し右位が四天王寺だと思われるので、古来からの言い伝えはほぼ事実と言ってよさそうですな。(阿倍野ハルカス夕照)(同上2) 正確に五重塔の上であるのかどうかは分からないが、通天閣の少し右側に日は沈もうとしているから、四天王寺の辺りに沈むのは間違いなさそう。コンパクトカメラでは四天王寺らしきものが写らないので、「多分」と言うほかありませぬが・・。(同上3)(同上4)(同上5)(同上6)(同上7)(同上8)(同上9)(同上10) はい、日没です。午後5時位に往生院に着きましたので、日没まで付近をウロウロ。お陰で蚊にかなり喰われました。 <参考>往生院は当ブログでは次の記事に登場しています。 1.墓参・往生院など廻りつつ 2012.12.29. 2.銀輪散歩・往生院から玉祖神社へ 2010.11.27. 夕照・銀輪散歩 2008.12.15. 3.岩滝山往生院六萬寺のホームページ 今日から、お彼岸ということで、彼岸花も外せないですな。本日見掛けた彼岸花をアップして置きます。 (彼岸花)路のべの いちしの花の いちしろく 人皆知りぬ わが恋妻は (万葉集巻11-2480)(注)いちし=壱師。彼岸花のこと。ギシギシ、ダイオウ、イタドリ、クサイ チゴ、エゴノキなどの異説もある。(同上)(同上)(同上) 次はお彼岸と関係ありませんがニラの花です。 「赤い花」の彼岸花を掲載したので、「白い花」もバランス上、掲載すべきかと、偶々見掛けたニラの花を撮りました。(ニラ)伎波都久(きはつく)の 岡の茎韮(くくみら) 我摘めど 籠(こ)にも満たなふ 夫(せな)と摘まさね (万葉集巻14-3444)(注)伎波都久=地名。常陸国真壁郡という説もあるが所在不明。 茎韮=くくみら。茎の韮のこと。 満たなふ=いっぱいにならない。(同上)
2013.09.20
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今夜は中秋の名月。 わが家の庭からも美しい月が望めます。 で、偐万葉ブログらしく、万葉集から月を詠んだ歌を15首拾い出してみました。 万葉歌でお月見を楽しんで下さいませ(笑)。月讀(つくよみ)の 光に来ませ あしひきの 山き隔(へな)りて 遠からなくに (湯原王 万葉集巻4-670)月讀(つくよみ)の 光は清く 照らせれど 惑へる情(こころ) 思ひあへなくに (同巻4-671)ぬばたまの その夜の月夜(つくよ) 今日までに 吾は忘れず 間(ま)なくし思(も)へば (河内百枝娘子(かふちのももえをとめ) 同巻4-702)夕やみは 路(みち)たづたづし 月待ちて 行(ゆ)かせ吾背子 その間(ま)にも見む (大宅女(おほやかめ) 同巻4-709)み空行く 月の光に ただ一目 あひ見し人の 夢(いめ)にし見ゆる (安都扉娘子(あとのとびらののをとめ) 同巻4-710)天の海に 雲の波立ち 月の船 星の林に こぎ隠る見ゆ (柿本人麻呂歌集 同巻7-1068)常はかつて 思はぬものを この月の 過ぎかくれまく 惜しき夕(よひ)かも(同巻7-1069)山の末(は)に いさよふ月を 出でむかと 待ちつつをるに 夜ぞくたちける (同巻7-1071)春日山 おして照らせる この月は 妹が庭にも さやけかりけり (同巻7-1074)この月の ここに来(きた)れば 今とかも 妹が出で立ち 待ちつつあらむ (同巻7-1078)ぬばたまの 夜渡る月を おもしろみ わがをる袖に 露ぞ置きにける (同巻7-1081)妹が家の 門田を見むと うち出来(でこ)し 情(こころ)もしるく 照る月夜(つくよ)かも (大伴家持 同巻8-1596)倉橋の 山を高みか 夜隠(よごも)りに 出で来る月の 片待ちがたき (沙弥女王 同巻9-1763)天(あめ)の海に 月の船浮け 桂(かつら)楫(かぢ) かけてこぐ見ゆ 月人壮士(をとこ) (同巻10-2223) 吾背子が 插頭(かざし)の萩に おく露を さやかに見よと 月は照るらし (同巻10-2225)(中秋の名月)<注>中秋=陰暦8月15日のこと。仲秋=陰暦8月のこと。名月=陰暦8月15日の月又は9月13日の月。 8月15日の名月は芋を供えることから芋名月。 9月13日の名月は栗や枝豆を供えることから栗名月又は豆名月。明月=澄み渡った丸い月。望月=満月。陰暦十五夜の月。(十六夜の月)<ブロ友のビッグジョンさんに倣って露出を抑えて撮ってみたら、こんな風に写りました。>
2013.09.19
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偐万葉・若草篇(その11) 本日はシリーズ第182弾、偐万葉・若草篇(その11)であります。 <参考>過去の偐万葉・若草篇はコチラからどうぞ。 偐家持が小万知に贈りて詠める歌11首一重よし 八重もよしとふ 智麻呂の 桜なりけり ともにし咲ける徒然の ひとの言ひける ことやうの 八重もよしなる 智麻呂桜 (注)徒然のひと=徒然草の作者吉田兼好のこと。兼好は徒然草の中 で「花は一重なる、よし。(中略)八重桜は異様(ことやう)のも のなり。」と言っている。若草の 里はうららに はるひ照り 小万知ニゲラも 継ぎて咲くなりあぢさゐの つねにしもがも さくはなの はしきとみつつ けふもすぐさな (ともまろ) (注)つねにしもがも=「つねに」は「常に」と「恒郎女」の「つね」とを掛 けている。「もがも」は願望、「~だったらいいの に」の意。 はしき=「愛(は)しき」、いとおしい、愛らしい、可愛い、の意。 すぐさな=「過ぐさな」で「過ごそう」の意。「~な」は意思を 表す助詞。「~む」の古い形である。 <参考>花の名は いかにととへど むらさきの 小万知も知らぬ コマチモシラズ (注)小万知氏撮影の写真の花を智麻呂氏が写生された絵について、 小万知氏にその名をお尋ねしたところ、彼女もその花の名をご存 じでなかった。それで、偐家持は戯れにその花を「コマチモシラズ」 と名付けた。この経緯を戯れに詠んだのがこの歌である。これは 智麻呂絵画展にて掲載した歌であるが、小万知氏関連なので、 参考までに併記して置く。老松の 細道の奥 蕎麦屋あり 名には翁と あるもをかしき (曽良偐日記) (注)名には翁=大阪市北区老松町にある手打ち蕎麦屋「なにわ翁」を 掛けている。明日あると 思ふ心の あればこそ 今日のひと日も 安けくあらむ (鈍鸞) (本歌)明日ありと 思ふ心の あだ桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは (親鸞)うなそこの 記憶の色に あぢさゐの 風にし咲きて ゆらぎゆらがず今頃は うしろ姿も しぐれているか 象潟の 合歓の小枝の 河内のタオル (誰田山頭火) (注)577577の旋頭歌体の歌三輪山の 絵をや隠すな 見たしとふ 人もありなむ 隠さふべしや (額田駅前王) (注)近鉄奈良線に額田という駅があります。 (本歌)三輪山を しかも隠すか 雲だにも 心あらなも 隠さふべしや (額田王 万葉集巻1-18)わが命 いづくゆ来たり いづち行く 今日は過ぎなむ 明日煩はじ油揚げに あらね梅田の アゲラタム 線香花火の 青きその花 (トンビにアゲラタム) (アザミ) (ノコンギク) (ミズバショウ) (注)掲載の写真は小万知氏撮影によるもの。 偐家持が偐山頭火に贈りて詠める歌5首併せ俳句 並びに偐山頭火が返せる歌1首併せ俳句 偐山頭火氏が贈り来れる句に偐家持が付けたる脇句1句 どれもこれも 天を向いたり ゆがんだり <偐鼻見> 鼻持ちならぬ 奴はさて置くも <偐家持>岩牡蠣も 酒も駄目なる ヤカモチは 合歓の花にし ひとり遊ばな山頭火の タオルにあれば 象潟の 野にこそ置けと 風や言ふらむ (弁解家持) (注)偐万葉掲載に当り「タオルにしあり」を「タオルにあれば」に変更。家島は 沖にしあれば 家に置く 妹を忘れて 酒にな酔(ゑ)ひそ (本歌) 家島は 名にこそありけれ 海原(うなはら)を 我(あ)が恋ひ来つる 妹もあらなくに (万葉集巻15-3718) (万葉の岬)下見とは 名ばかりなる ヤカモチの はびこり繁き 夏の道草湯の花を咲くか見て来よ瀬田の奥 (元句)獺(かはうそ)の祭見て来(こ)よ瀬田のおく (芭蕉)あらためて 出直して来よ 初秋(はつあき)の 今日降る雨の いや重(し)け因幡 (大雨家持) (本歌)あらたしき 年の始の 初春の 今日降る雪の いや重け吉事 (大伴家持 万葉集巻20-4516) 偐山頭火の返せる歌1首道路なる アスファルト道 浮き沈み 今日降る雨は 明日も留まらん (秋雨前線) (三朝温泉木屋旅館・楽泉の湯)(注)掲載の写真は偐山頭火氏のブログからの転載です。 <参考> 偐山頭火氏のブログはコチラからどうぞ。
2013.09.17
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台風一過の今日の銀輪散歩。久々に大和川まで走って来ました。 各地に大雨を降らせた今回の台風18号は各地に浸水その他の被害を生じさせたようですが、被災された皆さまには心よりお見舞い申し上げます。 こちらでも、大和川が一時氾濫危険水位に接近し、小生の携帯にも八尾市からの避難準備情報エリアメールが入るなどがありましたが、その後水位が下がり氾濫の危険はなくなったようで、何ということもなく過ぎました。 もっとも、小生宅は生駒山系の山裾の高い位置にあるので、大和川が氾濫しても浸水することはありえないのではありますが・・。 さて、銀輪散歩。先ず、花園中央公園に立ち寄り、此処を起点に恩智川沿いの道を上流へと走ることに。何度となく走っている、小生にとっては銀輪散歩定番の道であります。(花園中央公園) 花園中央公園は遊水池として設置された公園でもあるので、大雨の後などはこのように、その大半が池となってしまう。 上の写真正面奥を右から左へと公園に接する形で恩智川が流れている。公園側の堤防が山側のそれより低くなっていて、増水してその高さを越えて水が流れるようになると、公園へと水が入ってくるようになっている。左側の建物の下の緑色の水門の開閉によっても、水の調整はできるようになっている。(通常時の公園の状態)(同上) 日頃は市民の散歩姿が見られる遊歩道や芝生の広場も全て水面下になっている。(同上) 恩智川の上流に、もう一つ同じ様な遊水池公園がある。これも大きな池に変貌していました.(写真下)(池島・福万寺の遊水池公園) 弥生橋の東西に広がる遊水池公園。上は西側の公園。手前が恩智川でその向こうが福万寺公園。野球のグラウンドやテニスコートがあったかと思うが、全て水面下になっている。 下は橋の東側の公園で池島公園。これも水没して大きな池となっている。(同上) 花園中央公園から40~50分ばかり走ると大和川に着く。 台風の後とあって、増水、川原が消え、川幅が広くなっている。(大和川自転車道)(大和川の土手に植えられている花) 吾輩は「花」である。名前は未だヤカモチには知られていない。地に這へば鬱陶しい。風に向かへば揺さぶられる。などと言っているかどうかは知らぬが、自転車道に沿って沢山の花を咲かせ、台風の名残の風に吹かれては盛んに花穂を揺らせている。<追記> 調べると、この花の名はツルボ(蔓穂)であることが分かりました。 蔓穂・四季の花300(同上)(大和川と石川の合流点)(通常時の合流点の状態) 高橋虫麻呂の長歌「しなでる 片足羽川(かたしはがは)の さ丹(に)塗りの 大橋の上ゆ 紅(くれなゐ)の・・(略)」(万葉集巻9-1742)に歌われている片足羽川は、この大和川のことであるとも、石川のことであるとも言われているが、その両川がここで合流している。(国豊橋へと向かう自転車道も水没) 上流へと向かうが予想通り自転車道は水没。 写真奥の近鉄大阪線の鉄橋もいつになく低く見える。 引き返して、下流の新大和橋(人道橋)を渡って石川沿いに出る。(石川。奥に二上山が見えている。)(同上) 石川自転車道も水面下。元々、今日は此処を走る心算で来たのではなく、水没してしまっている自転車道を見に来たのでもあれば、「これでいいのだ。」なのであります。(石川自転車道も水の中) 引き返して再び新大和橋を渡って、大和川を少し下流まで行ってみる。新大和橋の下流側にはJR柏原駅(関西本線)と近鉄道明寺駅(近鉄南大阪線)とを結ぶ近鉄道明寺線の鉄橋がある。その鉄橋を北に渡って直ぐの処にあるのが柏原南口駅。この線の周辺は銀輪散歩でよく走るが、この線の電車にはまだ乗ったことがない。(近鉄道明寺線・柏原南口駅)<参考>近鉄道明寺線・Wikipedia 近鉄道明寺線を越えて少し下流へ行った辺りでは川は波立ち、砕け、日頃見慣れている穏やかな大和川とは異なる、荒々しい「たぎち流れる」顔を見せてくれていました。(大和川の濁流。奥に見えている小山は応神天皇陵古墳。)(同上)(同上) たぎち流れる大和川。上流には二上山が見え、その右側には葛城山、金剛山が見えている。 山川も よりて仕ふる 神ながら たぎつ河内に 船出せすかも (柿本人麻呂 万葉集巻1-39) これは、持統天皇の吉野行幸に随行した人麻呂が吉野で詠んだ歌でもあれば、ここで取り上げるのはお門違いというものではあるが、「たぎつ」で思い浮かぶのはこの歌でしょうか。二上の 山は見が欲し 恋ひ来れば 大和川はも たぎちぞ流る (偐家持)(同上)(同上)
2013.09.16
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昨日は偐山頭火さんから、八尾市・柏原市に関連する万葉歌を教えて欲しいとのメールと景郎女さんから或る短歌の文語表現の部分についてのご質問メールがあり、その対応で夜更かしとなりましたが、本日は天気もよし、青雲会囲碁サークルの例会に出掛けることとしました。 メールと言えば、先日或る友人から届いたメールには次のような歌が添えられていました。ぬか漬の 茄子の歯ざはり 今朝をふと つめたくおぼゆ 秋来たるらし (相馬御風) 相馬御風と言えば、2010年11月に直江津~糸魚川間を銀輪散歩した折にその旧宅を訪問しているので、とても懐かしい気がしました。 <参考>糸魚川散策・相馬御風 2010.11.21. 茄子の漬物の冷たさに秋を感じた御風。なかなかいい歌です。まあ、ヤカモチの朝食はトーストですから、こういう歌は作れない(笑)。雲のさま 何とはなけど 手弱女の 吐息に似たる 秋来たるらし (偐家持)(今日の空) 茄子の漬物も空の雲も「秋」を告げてはいるが、自転車(MTB)で走るヤカモチには、未だ夏の暑さ。会場の淀屋橋付近に着く頃には汗びっしょりになっていました。 本日の碁は、大学同期の黒◎君と1局、先輩の新◎氏と2局お手合わせ致しましたが、いづれも勝って3戦全勝。まあ、こういう日もたまにはある。 さて、本日も途中道草の銀輪散歩でありましたので、それをご紹介して置きます。 本日はいつもの中央大通り(国道308号線)ではなく、暗越奈良街道(大阪枚岡奈良線)を西へと走りました。以前、偐山頭火氏との銀輪散歩で偶然に発見した契沖さんの墓のある寺、妙法寺を訪ねるためのコース取りである。 今里大橋を渡った先の大今里交差点で旧奈良街道へと入るが、その入口に古い道標がありました。(道標)(道標の説明碑) 上の道標から200mほど西に入った処の辻を右に入ると熊野神社と妙法寺がある。辻に「契沖史蹟」の表示が出ている。何年か前に偐山頭火氏とは西から奈良街道をやって来て、この表示を見付けて妙法寺に立ち寄ったのでありました。(熊野神社・妙法寺への道) (左:旧奈良街道・東方向、大今里4丁目付近、右:同・西方向)(熊野神社)(同上・拝殿)(同上・本殿)(同上・本殿) 健人会メンバーの只麻呂氏が当ブログについて「神社の由来などを丹念に書いて戴いているが、最近は読むのがしんどい。」と仰っていましたが、小生も書くのが「しんどい」ので、省略です(笑)。 熊野神社の北隣に妙法寺はある。(妙法寺・山門)(同上・本堂) 本堂脇に数基の墓があり、「契沖墓所」と表示されている。 ネットで調べると、或る方の記事では、妙法寺のは供養塔であり、墓は旧圓珠庵(鎌八幡)に在るとされているが、コチラの寺では、此処が墓であるとしているようです。前回は小生の早とちりかと思いましたが、ちゃんと契沖の墓と表示されていたのであれば、早とちりという訳ではなかったのですな。(契沖墓所) 右から、奥にかけて契沖墓、契沖の師墓、契沖の母墓、契沖の兄墓と並んでいる。 (契沖供養塔) (契沖の兄、如水の墓) (契沖の母の墓) (契沖の師、手定和尚の墓) 契沖さんのことは万葉集の注釈書「万葉代匠記」の作者という程度の知識しかなく、その生涯のことなどは存じ上げませんので、下手な説明は止めて置きます。下記をご参照下さい。 寺の境内で出会った男性。本堂裏へと通じる扉の鍵を持って居られて奥の方へと入って行かれたので、寺の関係者の方かと思い、「契沖さんはこの寺のご住職をして居られたのですか?」と質問しましたが、「いえ、違います。墓があるだけです。」との答え。予期せぬ答えであったので、会話は打ち切り。暫くすると、自転車に乗って去って行かれたので檀家の方か何かであったのでしょう。下の<参考>には妙法寺の住持分となったと記載されている。 本堂では現在のご住職が朝のお勤めか何かをして居られましたが、待っている訳にも行かず、疑問残しつつ、立ち去りました。 <参考>契沖・Wikipedia(旧奈良街道の面影を残す民家)(暗越奈良街道の碑と古い道標)(同上)(同上) 奈良街道の起点、高麗橋の写真で締め括りと致します。(高麗橋)(同上・南側から。上は阪神高速環状線)
2013.09.14
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本日は9月2回目の囲碁例会の日。天気もよしでいつもの通りMTB(マウンテンバイク)で梅田へ。 今日は大阪城公園の先、馬場町交差点で右折するといういつものコースを取らず、NHKと大阪府警本部の間を直進。本町橋を渡り、堺筋で右折し、北浜に出て難波橋から中之島に入り、中央公会堂前を通り、御堂筋に出て、梅新交差点を渡り国道2号線に入り直進。浄正橋交差点を右折、環状線福島駅前を過ぎ、シンフォニーホール前の森で暫し休憩の後、梅田スカイビル、というコースでした。(本町橋) 本町橋は東横掘川に架かる橋。天保12年(1841年)に作成された「浪華橋々繁栄見立相撲」という橋の番付表では東の小結にランクされている。 因みに、東大関は天神橋、西大関は難波橋。東関脇は日本橋、西関脇は高麗橋。西小結は長堀橋です。この番付には横綱はなく大関が最高位になっています。 堺筋に出た処で右折、北へ。北浜交差点の一角、大阪証券取引所の西側に「大阪俵物会所跡」という石碑が立っていました。(大阪俵物会所跡) 「俵物」と言うから米、麦などの穀物かと思いきや、フカヒレ、干しナマコ、干しアワビなどのことを「俵物」と言うのですな。明治になるまで、これらの俵物の売買は此処に設けられた会所で、その売買を許された特定の商人の間でのみ独占的に売買されていたのだそうな。 現役の頃は決算発表などで、大阪証券取引所へはよく足を運んだものだが、こういう石碑には目が向かなかったもののようで、今日初めてそれと知りました。(同上説明板)(北浜・大阪証券取引所) この写真は難波橋の上から南方向を見て撮影したもの。会所跡碑は上の写真で言うと、交差点の右側の木々のある処にあります。(何の虫?) シンフォニーホール前の森の中のベンチに腰掛けてペットボトルのお茶を飲んでいると、腕に虫が。この間は蜘蛛であったが、今回はキリギリスの仲間の虫。美しい緑色で、ちょっと見惚れてしまいましたが、名前は不明。 梅田スカイビル到着。体の汗を水で拭き、汗で濡れたTシャツを新しいシャツに着替えて、いざ、会場へ。既に青◎氏が来て居られて、先ずお手合わせ。今日の出席者は他には竹◎氏、福◎氏、荒◎氏、平◎氏で総勢6名。 青◎氏との対局中に携帯電話に着信。友人のオガクニマン氏からであった。何事かと出ると、大した用ではないのだが・・と言うので、対局中であることを告げると「では後ほどに」ということとなった。 まあ、これでリズムが狂った訳ではないだろうが、圧倒的に優勢であったのに右下三々への打ち込みを許さないと殺しに行ったのが間違いで、逆にこちらの石が分断されて半分が頓死する羽目になり逆転負け。 気分転換に外へ出て、最近「花野(里山)」にオープンしたカフェテラスで煙草と珈琲の休憩。オ氏への電話もあったので。(8月から花野にオープンしたカフェテラス) 煙草を吸う客は外のテーブルとなるが、この方が心地良い。目の前の景色は上の写真の通りです。 さて、オ氏に電話を入れると、用件は何のことはない。小生のブログにコメントを入れようとするが、何度しても入らないので、そのことについての質問であった。先月からスパムコメント対策で「画像認証」を設定しているのだが、その認証に失敗するのだと言う。半角数字で入れなければならないので、もし全角で入れているのなら失敗は自業自得。半角で入れても、原因は不明であるが認証の失敗が続くことがある。小生も最高で4回失敗が続き5回目でやっと、というようなことがあった。 まあ、そんな話のやりとりでありました。(青い線香花火のような花)(同上) 花野に咲いていた花を一つだけご紹介して置きます。ひょっとすると以前に小万知さんから名前を教えて戴いた花かも知れないのだが、もの覚えの悪いヤカモチなので忘れてしまったか、名前は分かりません。しかし、綺麗な花です。青い線香花火のような花。 会場に戻ると平◎氏が来て居られて対戦相手なく観戦中。で、お手合わせ戴く。これは快勝。珈琲と煙草と花とで気分転換がはかれた所為だろうか。まあ、少なくともオ氏との電話雑談がよかった、というのではないことだけは確か(笑)。 続く荒◎氏にも中押し勝ち。しかし、調子に乗り過ぎたか、次の福◎氏との対局では、不用意な間違いをして自滅。結局2勝2敗で可も不可もなしでありました。 帰途は真田山公園の前を通り、上町筋から千日前通りに出て、これを東に走るというコースにしました。 真田山公園の少し手前、つまり西側に「鎌八幡」という神社だか寺だか分からぬものがあり(門の表示に真言宗とあるから寺なんだろうが)、門前に「契沖墓」の表示の石碑。契沖と言えば「万葉代匠記」という万葉集の注釈書を著した江戸時代の国学者。 確か以前にも偐山頭火氏と銀輪散歩していた際に契沖の墓のある寺に出くわしたが、此処にも墓があるのか、と立ち寄ってみることに。しかし、墓は裏手にあるようで入れない。張り紙を見ると「1月25日の契沖忌の日だけ墓参を許可し、他の日はお断りしている。」というような内容のことが書いてある。また、境内全域撮影禁止で、撮影した場合は撮影機材・撮影物を全て没収する、と穏やかならざる内容。 こんな処は近付かない方がいい、と早々に退散。門前も撮影不許可なのかどうかは知らぬが、公道から見える景色を撮影するのは問題なかろうと1枚撮って置きました。(鎌八幡) 2008年11月25日の日記に記載している、「見つからなかった契沖の墓」というのは、此処のことであったようだ。<追記> その後の調べで判明したことを追記して置きます。 偐山頭火氏との銀輪散歩で見つけた契沖の墓のある寺というのは、妙法寺という寺。大阪市東成区大今里4丁目にある。 契沖はこの寺の住職であったらしい。母が此処で亡くなり、それを弔った後、寺を弟に譲り、自身は鎌八幡に移り、圓珠庵を結んで、国学の研究に打ち込み、此処で没する。妙法寺の方にあったのは、契沖の母と兄の墓と契沖の供養塔であったようだ。母の墓などに並んであったので契沖の墓と早合点したようだ。妙法寺のことはブログ未掲載のようなので、そのうちに再訪問し、ブログにてご報告申し上げます。
2013.09.11
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偐万葉・雑詠篇(その5) 本日は、シリーズ第181弾、偐万葉・雑詠篇(その5)です。◎テラケン氏 (同氏のブログはコチラから) テラケン氏とは、ひょんなことで昨年5月からブログの交流が始まりました。最近はご無沙汰ですが、伊丹市ご在住なのと作家宮本輝のファンでもいらっしゃることから、偐万葉では、猪名野輝麻呂とお呼びすることとしました。 偐家持が猪名野輝麻呂に贈りて詠める歌6首梅雨の間の 猪名野を来れば 青屋根に 白き蝶飛ぶ 花にしあれり (注)ガウラのうち白い花のものを「白蝶草」と呼ぶ。 青屋根=輝麻呂氏が経営される喫茶店の名が「青い屋根」である。 (本歌)しなが鳥 猪名野を来れば 有馬山 夕霧立ちぬ 宿(やどり)はなくて (万葉集 巻7-1140)あぢさゐの 八重にし咲きて 笑みぬれば いなとは言はじ 猪名の輝麻呂 (猪名野郎女)あぢさゐも 八重にしあれば 今日此処ぞ 八人掛けの 席に咲くらし (猪名野八麻呂) (本歌)あぢさゐの 八重咲くごとく 八つ代にを いませ我が背子 見つつしのはむ (橘諸兄 万葉集巻20-4448) つとめなば 潮干に見えぬ 沖の石も 推して知らるる ものとなるなれ (後白河院狸) (本歌)わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石の 人こそ知らね かわくまもなし (二条院讃岐 千載集759 小倉百人一首92)六甲(むこ)の山に たなびく雲の 色と咲き 妹や待つらむ 擬宝珠(ぎばうし)の花 過ぎぬれば 星に願ひの 短冊も ゴミとはなりぬ 七夕飾◎らふたまん氏 (同氏のブログはコチラから) らふたまん氏とは昨年11月からのブログ交流です。偐万葉では「らふ麻呂」とお呼びします。 偐家持がらふ麻呂に贈りて詠める歌10首鎌倉ゆ 来たりし人の うれしみと もみぢ照るらし 今日の秋山屈辱の 日とやなしたる 沖縄の 心よそにし 祝(いは)はうべしや 虫喰へも 無視ならぬ危機 地に満てと 云ひし神にも 問ひ質(ただ)すべし (へそ曲がり虫)アリクイも 泡喰ふならむ 人どもの よりてたかりて 蟻喰ふならば (蟻原業平)来し人を みな寿(ことほ)がむ 伊勢志摩の われカンパチの 尊(みこと)なりける 虫喰いは 虫が喰ふなり 虫喰ふは アリクイならねば ありがたきかな (偐高橋虫麻呂) 豹柄は なにはをみなの しるしなり などなめくぢの これを真似たる (在来種)豹柄は われが先なり なめくぢを 真似すはなには をみななりけり (外来種)難波女(なにはめ)は 昔豹柄 今よりは 蛞蝓(なめくぢ)柄と 人呼ぶらむか (難波郎女) 野辺山の 駅入場券 われ買はむ 日本一高い 駅入場券◎セメントマン氏 (同氏のブログはコチラから) セメントマン氏とは今年の3月からの交流です。セメ麻呂と呼ばせて頂きます。 偐家持がセメ麻呂に贈りて詠める歌2首我が辞書に ヘディングはなし 噛みつきて ゴールに運ぶを などて叱るや (ドン麻呂) 我が叔父が 見し鞆の浦の むろの木の 変らずあれど 見し人ぞなき (本歌)我妹子が 見し鞆の浦の むろの木は 常世にあれど 見し人ぞなき (大伴旅人 万葉集巻3-446)◎IT-PLUS氏 (同氏のブログはコチラから) IT-PLUS氏も今年3月からの交流。逸麻呂と呼ばせて頂くこととします。 偐家持が逸麻呂に贈りて詠める歌2首三日ほど 考えつめて 分からぬは さはらず放置 するもよかりき (明後日麻呂)わが道は ここにしあれり ひとはひと われはわれにし この道行かむ◎腰痛ギャンブラー氏 (同氏のブログはコチラから) この方は雑詠篇(その3)でご登場いただいているので、今回2度目のご登場となります。 偐家持が腰痛ギャンブラー氏に贈りて詠める歌2首かにかくに かにをやかみに 折らましを すべも知らなく いかにか折らむ (蟹家持) クラゲらも 今は春べと ゆらゆれて 色とりどりに 折られけらしも (偐海月持) (注)折られけらしも=「折られけらしも」と「居られけらしも」とを掛け ている。
2013.09.09
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(承前) 昨日の日記の続きです。 境内には「幻住庵記」の全文を記した陶板の碑がありました。横長なので6分割して撮影。参考までに以下に掲載して置きます。(幻住庵記1)(同2)(同3)(同4)(同5)(同6) 「幻住庵記」に記載されている唯一の句が「先たのむ椎の木も有夏木立」であるが、その句碑が幻住庵跡碑と並んで建てられている。(芭蕉句碑)先(まづ)たのむ椎(しひ)の木も有(あり)夏木立(夏木立に囲まれた庵の傍らには椎の木もあって頼もしく感じられる。) 古事記には応神天皇が木幡村で出会った少女に贈った歌があるが、それでは少女の歯並びの美しさを「椎菱なす」と表現している。万葉集では「向つ峰」(神の降臨する山)に生える椎を歌っている(巻7-1099)ものや、椎の葉に飯を盛って神に捧げた有間皇子の歌(巻2-142)があるが、椎の木も亦神聖な木とされていたようである。源氏物語の「立ち寄らむ蔭と頼みし椎が本むなしき床となりにけるかな」(宇治十帖「椎本」)の歌もあるように、古来、椎の木は絶対的な安心を与える象徴的な存在とされて来たようである。ここではその伝統を踏まえて「椎の木もあるから」と洒落ているのであろう。(句碑と椎の木)(とくとくの清水) 上の幻住庵記4の8行目末尾から11行目にかけての文章「たまたま心まめなる時は、谷の清水を汲みて自ら炊ぐ。とくとくの雫を侘びて、一炉の備へいとかろし。」とあることから、「とくとくの清水」と名付けられているようだが、小さな湧水がある。「湧水ですが飲めません」と記されているので、芭蕉さんの頃とは水質は違っているのであろう。(同上説明板)(小さな流れ) とくとくの清水の脇には小さな流れがあって、森閑な森の中でちょろちょろと絶え間ない音を立てている。「ほろほろと山吹ちるか瀧の音」の芭蕉句が似合う風情であるが、辺りに山吹の花はない。(幻住庵の門) そうこうしているうちに、背後で板戸を開けるガラガラ、バタンという音。どうやら幻住庵を管理されている方が開館の準備を始められたよう。物音が収まるのを待って、ゆっくりと幻住庵へと向かう。(幻住庵) はい、ご覧の通り、板戸が開け放たれていました。おじさんが箒かけされているのを暫く門の処で眺めつつ待ち、作業の切れ目と思しき頃合いを見はからって「おはようございます。」と声を掛ける。「ようこそ」と笑顔で迎えて下さり、ご自由に上ってご覧下さい、と仰る。 建物内部は「住み捨てし草の戸有。蓬、根笹、軒をかこみ、屋根もり壁落ちて、狐狸ふしどを得たり」(上の写真、幻住庵記1の10~13行目の文章)とは似つかぬ小奇麗な様。地元の方が句会や茶会に利用されているのでもあれば、「狐狸のふしど」であっていい訳がないのだから是非も無しですな。(同上) 縁側に座り込んで、管理のおじさんと世間話。年齢は72才とか73才とか仰っていたように記憶するが定かではない。幻住庵の掃除・管理は地元の方が輪番制で担当されているとのこと。今日はこの方が当番であったという次第。若い頃はミノルタや南海電車系列の子会社にお勤めで大阪で勤務されていたとか。長らく話し込んでしまったようで、気が付けば10時過ぎ。「ちょっと境内の掃除もありますので・・、どうぞごゆっくりされて下さい。」と彼が出て行く。気付かずに彼のお仕事の邪魔をしていたのかも知れない(笑)。(同上) 庭を掃除されているおじさんにお礼を述べてヤカモチも立ち去ることに。伽藍山の西側の道に出て南へ走る。滋賀刑務所の前を過ぎて道はゆっくり左へカーブ。京滋バイパスの下を潜ると程なく瀬田川沿いの道に出る。(瀬田川)(瀬田川沿い遊歩道)(瀬田川洗堰)(南郷洗堰説明板)(旧南郷洗堰の跡) 南郷洗堰まで来たところで10時40分。暫く周辺を散策した後、石山寺方向へと引き返す。(南郷公園)(芭蕉句碑) 石山寺はパス。門前の芭蕉句碑にだけご挨拶。石山の石にたばしるあられ哉(石山寺山門) 門前を過ぎた処にある喫茶店「HOTORI」の前に差し掛かると中から手を振る人影。健人会のメンバー4人(岡◎、只麻呂、草麻呂、森◎の各氏)。小生もここで一休み。洗面所をお借りして汗を拭い、新しいTシャツに着替えるなどして新月へと向かう準備完了(笑)。 未だ書き足りぬこと多けれど字数制限のようにてもあれば、これにて完結と致します。来し秋は近江の人と迎へばや (筆蕪蕉)
2013.09.07
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本日は健人会の集りの日。この会はこれまでにも何度か取り上げているので、いかなる会かの説明は省略です。気になる方は下記参考の記事をご覧戴けばと存じます。 <参考>健人会の新年会 2013.1.29. 行く夏も近江の人と惜しむべき 2012.8.29. 健人会・比叡山坂本へ 2011.8.26. 本日の会場は石山寺近くの料亭「新月」。12時集合。新年の集りは夜。夏の集りは昼、というのがこの処のパターン。今回の会場の手配は、この近くに居を構えて居られる岡◎氏がなさって下さったとのこと。 出席者は、順不同にて、上記岡◎氏のほか、杉◎氏、今◎氏、徳◎氏、正◎氏、小◎氏、近◎氏、竹◎氏、草麻呂氏、鯨麻呂氏、由◎氏、平◎氏、田◎氏、只麻呂氏、森◎氏、川◎氏、これに小生を加えて全17名の出席。 世話役の草麻呂氏の司会により開宴。岡◎氏の発声で乾杯。小生のブログで「締めは恒例により平◎氏の一本締め」と書いてあるとのことで、司会者の指名により平◎氏の一本締めで散会となりました。 さて、昨年の夏のこの会の時は自転車(トレンクル)を持って行き、芭蕉の墓のある義仲寺を訪ねたが、今回は石山寺近くの料亭が会場とあっては、芭蕉に所縁の幻住庵を訪ねない訳には参らぬとて、今日もトレンクル持参でJR石山駅までやって来ました。 12時集合なので、それまでに走ってみようと、早起き(5時半)して支度を整え出掛けました。西大寺から近鉄特急で京都着7時20分。JRに乗り換え7時47分石山駅に到着。 石山駅でトレンクルを組み立て出発。途中、北大路地区の御霊神社に立ち寄るなどしながら行く。この御霊神社は大友皇子を祭神とする神社。今年の1月に銀輪散歩で立ち寄って以来の再訪。大友皇子に8ヶ月ぶりのご挨拶を申し上げるが、此処は当ブログで紹介済みなので割愛します。(<参考>「大津歌碑散歩(その5)」2013.1.11.)(JR石山駅~幻住庵への地図) 上の地図でもお分かりの通り、JR石山駅から幻住庵までは2キロ足らず。自転車なら楽々且つスグの到着である。幻住庵到着は8時半頃。 芭蕉の「奥のほそ道」の旅は元禄2年(1689年)3月から9月に掛けてのもの。幻住庵は、その翌年の元禄3年4月6日から7月23日までの約4ヶ月の間を芭蕉が住処とした建物。ここで、彼は、芭蕉俳文の中でも秀作とされる「幻住庵記」を著す。「幻住庵記」は翌元禄4年7月3日出版された「猿蓑」に収められている。(国分山) 幻住庵はこの国分山の中にある。現在復元されている建物は平成3年9月に「ふるさと吟遊芭蕉の里事業」として新しく建てられたものであり、当時の姿がこのようなものであったかどうかは保証の限りではない。建てられていた場所も此処とは限らないのだろうが、この近くであったことに違いはなく、幻住庵を偲ぶよすがとしてはまあ十分なものと言ってよいでしょう。もう少し老朽化した方がそれらしくなると言うものではあるが。 それはさて置き、「幻住庵記」の書き出しに「石山の奥、岩間のうしろに山有り、国分山といふ。」とある国分山がこれである。石山寺のある伽藍山と向き合うようにして、その西側にある。(幻住庵・近津尾神社正面参道入口) 幻住庵は近津尾神社の境内の傍らにある。神社の正面参道入口がこちら。少し手前に駐車場へと入る道があり、そこから行くと裏参道となる。ヤカモチは多くは裏から入って表から出て行くという空き巣みたいな(笑)行動が多いのであるが、今回は正面から入る。(近津尾神社参道) 背の低い鳥居を潜り、石階段の木陰の道を上って行くと神門が見えて来る。「幻住庵記」には「翠微に登ること三曲二百歩にして、八幡宮たたせたまふ」と記述されている。(近津尾神社神門) 神門を入ると本殿。神門の前で左に階段を上ると社務所にて、その南側の小高い場所に、幻住庵がある。(近津尾神社由緒)(近津尾神社・本殿)(幻住庵はこの丘の上にある。) (左側登り口) (右側登り口)(幻住庵) 幻住庵は午前9時半からの開館にて、まだ板戸を閉め渡し、森閑静寂の中に朝寝を貪っている。(近津尾神社境内の楓) 朝日に映えて楓の青葉が輝く。ミンミンゼミとツクツクボウシが鳴いている。 「幻住庵記」には「春の名残も遠からず、つつじ咲き残り、山藤松にかかりて、時鳥しばしば過ぐるほど、・・」とあるが、それとは微妙に季節はずれて、「夏の名残も遠からず、蝉しぐれ降り残り、朝風涼やかに吹きて、楓の青葉暗き木立の中に輝くほど、・・」でありました(笑)。 時計を見るとまだ8時50分。開館時間まで付近を散策しながら過ごすこととする。取り敢えず本日はここまで。続きは明日(7日)とします。(つづく)
2013.09.06
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本日は囲碁例会。 雨の予報もあったが、MTB(マウンテンバイク)で出掛けることとする。 途中大阪城に立ち寄りざっとひと回りしてから、天神橋筋商店街の店で昼食を済ませ、会場の梅田スカイビルへと向かいました。 もっとも、大阪城を出た辺りから雨が降り出し、天満橋を渡った処で急に雨脚が強くなりました。雨具を着ていましたが、それでも走行が躊躇われる程の降りようとなり、道脇のビルのピロテイに飛び込んで雨宿りを余儀なくされるというようなこともあり、天神橋商店街に入った時には12時半頃になっていました。 で、梅田スカイビルにある囲碁会場到着は1時20分頃。いつもは12時半には着いていましたから、今日は一番乗りではなく、既に青◎氏、荻◎氏、福◎氏が来て居られて、小生は4番目。青◎氏と荻◎氏は対局中。ということで、小生は福◎氏にお相手戴くことに。 6月から始まった連敗が前回の8月7日までで11連敗となっていましたが、福◎氏に勝って漸く連敗をストップさせることが出来ました。 福◎氏と対局している時に竹◎氏、村◎氏がお見えになり両者の対局も始まりました。隣の青◎・荻◎戦は荻◎氏の勝ち。ということで、次は荻◎氏にお相手戴く。これも大石をうまく攻め取りすることが出来て中押し勝ち。次に竹◎・村◎戦の勝者竹◎氏とお手合わせ。これも勝って、今日は久々に無敗の3戦全勝。少しばかり戦績を戻しましたが、それでも今年に入ってからの成績は12勝25敗ですから、まだまだです。年末までに何とか5割には戻さないといけません(笑)。 帰路は雨の中真っ直ぐに帰りましたので、往路の大阪城銀輪散歩というか銀輪道草の次第をご報告して置きましょう。 本日は南東側の桜門から城内に入り、天守閣の回りを一回りして大手門から出る、というコース。(桜門枡形巨石) 桜門を入って先ず目に飛び込んで来るのが、この巨石。大阪城には多くの巨石が用いられているが、これはその中でも第一位の巨石である。(同上説明板) 天守閣の回りは今日も多くの観光客。大阪城の人気は根強いものがあるようだ。外国人観光客が多く目につく。遠足の小学生の団体も。 天守閣への入場口は南側にある。北側は裏になり、人影も殆どない。(天守閣東面石垣) 天守閣の東側と北側の石垣は、ご覧のように凸凹になっている部分がある。大阪城の北隣(現在のOBP地区)は戦前は大阪砲兵工廠であったので、一帯は米軍の激しい爆撃を受けることとなる。幸い天守閣への直撃弾はなかったようで、天守閣は燃え落ち崩れ落ちるということはなかった。 それでも、爆撃の激しさを物語る痕跡が残されている。それがこの凸凹になった石垣なのである。 (同上) (天守閣北面石垣) 天守閣にお別れし、西の丸庭園の前を通過し、大手門へと向かう。大手口にあるのが多聞櫓。(多聞櫓<渡櫓>と大門)(同上説明板)(多聞櫓<続櫓>と三つ子石<大手口枡形巨石) 正面に三つの巨石がある。左が「大手三番石」、中央が「大手見付石」、右側が「大手二番石」。右側の「大手二番石」は桜の木が邪魔して写真では少し分かり難いかと思いますが。 これらの石は元は一つの巨石であり、それを3枚にスライスしたものだそうな。石の模様などが一致することからそれと判明したそうな。言われて見てみると確かに同じ石をスライスしたものであることが分かる。(同上) 上の写真の右側のライトグリーンの半纏をまとったおじさんがボランティアガイドの方で、「三つ子石」云々はその方の説明の受け売りであります。(大手門)
2013.09.04
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第126回智麻呂絵画展 偐家持美術館へのご来場有難うございます。 本日は第126回智麻呂絵画展であります。 どうぞ皆さま、ごゆるりとご覧下さいませ。 <参考>他の智麻呂絵画展は下記から。 第1回展~第100回展 第101回展~第200回展 第201回展~(松葉菊) <参考>マツバギク・Wikipedia 花の智麻呂にてあれば、先ず花の絵から。松葉菊です。 菊という名は付いているがキク科ではなくハマミズナ科の植物。南アフリカが原産とのことだが、乾燥に強いこともあって、育て易い植物なんだろう。これを植えて居られる家が結構あり、最近はよく目にする。群生し、春から夏まで花の期間も長いので、目立つ花ではある。 次は百合の花。(百合1) この百合は、花屋さんの前を通った時に、智麻呂さんが恒郎女さんに「あれを買って欲しい」と仰ったので、買い求めた百合だそうな。 百合の花を持っての帰り道のいそいそとされている智麻呂さんの姿が目に浮かぶようです(笑)。(百合2) 百合の花は香りが強いので、ヤカモチはどちらかと言えば苦手な花かも。花姿が美しいことに異論はないのではあるが。 神武天皇の正妃は伊須気余理比売(いすけよりひめ)(これは古事記での表記。日本書紀では媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ))。 古事記によると、彼女は三輪山の北麓を流れる佐韋河(さゐがは)の畔に住んでいた。「佐韋(さゐ)」というのは山百合の古名。河の畔に山百合が沢山咲いていたので、河の名を佐韋河と名付けたとのこと。 立てば芍薬、坐れば牡丹、歩く姿は百合の花 と言いますが、百合の花は、「何れ菖蒲か杜若」よりもずっと古くから美女や愛しい女性の喩えとされていたようでありますな。 大和撫子よりも古いかも(笑)。 万葉集にも百合の花は多く詠われている。道の辺の 草深百合の 花咲(ゑみ)に 咲(ゑ)まししからに 妻といふべしや (万葉集巻7-1257)筑波嶺(つくばね)の さ百合の花の 夜床(ゆどこ)にも 愛(かな)しけ妹ぞ 昼もかなしけ (同巻20-4369) 次は虫の智麻呂、虫麻呂であります。 蟷螂の登場であります。(蟷螂)<参考>オオカマキリ・Wikipedia カマキリは智麻呂絵画展初登場。 百合の花が可愛い美女の喩えなら、カマキリは男をたぶらかし破滅させてしまう魔性の女の喩え。智麻呂氏はそんな心算で両者を描かれたのではないのですが、へそ曲がりヤカモチが百合の花の次にカマキリを並べたのは、そのような繋がりを両者の間に見て取ったからであります(笑)。 そう言えば、花に似せた体に進化したカマキリ(ハナカマキリでしたっけ)もいましたですな。花笑みも 心して見よ をのこらは 花かまきりの 笑みもあるなれ (蟷螂家持)(カブトムシ) <参考>カブトムシ・Wikipedia 次はカブトムシ。これはクワガタムシと並んで子供たち、特に男の子に人気のある虫。 クワガタムシは第85回展に登場していますが、カブトムシは初登場ですな。(葡萄) この葡萄はご近所の東◎さんからの戴きもの。 美味しそうですね。 どうぞ皆さまもお一つお召し上がり下さいませ。 甘いものがお好きなお方は下にもデザートをご用意して居りますので、どうぞ(笑)。(ショートケーキ) コチラは偐家持の手土産。 そして下は偐山頭火氏の手土産。(笹まんじゅう) では、今回はこれにて智麻呂絵画展お開きとさせて戴きます。本日もご来場賜り有難うございました。
2013.09.03
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9月になりました。 本日は、NHKの囲碁を観た後、雨も上ったので、智麻呂邸を訪問、新作の絵5点をゲットして参りました。手許の絵2点と合せて7点の絵が揃いましたが、もう2~3点増えてから智麻呂絵画展と致しますので、智麻呂絵画ファンの皆さまは今暫くお待ち下さいませ(笑)。 本日は偐山頭火氏も智麻呂邸に来て居られたようだが、小生がお伺いした時にはもうお帰りになった後、入れ違いでありました。 帰宅後、月例の墓参に。朝のうちは雨でもあったので、遅い墓参となりました。道すがらの寺の門前の掲示板の言葉は、今日はこのようなものでありました。(今日の言葉) 仲野良俊氏がいかなるお方かは存じ上げないが仏教指導者のお一人であるのでしょう。墓参の都度、目にしていた寺の門前に掲示の言葉であるが、出典は真宗大谷派大阪教区の「銀杏通信」の「今月の言葉」からのものであることが、最近になって、ネット検索の結果、それと分かりました。 人間は一生を通して、誰になるものでもない、自分になるのだ。 「お前は一体何をして来たのだ」と吹き来る風に言われようと、自分は自分。自分でしかないのであってみれば、まあ、この道を行くのほかありませんですかな。(向日葵) 先日(8月27日)の日記に掲載した睡蓮の花や向日葵の花の写真を印刷に打ち出して欲しいという要望を智麻呂氏から戴きました。絵の題材にされるのでしょう。そんなことも思い起こされたので、墓参の道の辺の咲いていた向日葵の花を写真に撮ってみました。 こちらは、ひと際大きい花で重たげに少し俯いて咲いているのを下から見上げるようにして撮影しました。ヒマワリは「向日」の「葵」と書きますが、ここまで花が大きくなると、日に向かうよりも俯き加減になるのも止むを得ない。恰も9月になってもこんなにノー天気に咲いていてゴメンナサイ、と言っているようでもあるか。もしそうなら、この向日葵さんにも上の言葉を贈りましょうか。まあ、人も花もある時期からは自分の顔に責任を待たなくてはならないのであります(笑)。 本日の墓参でお見かけした花は少し「時じく」の感もなきにしあらずの向日葵の花でありました。
2013.09.01
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