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友人の岬麻呂氏の旅便りのハガキとE-meilによる写真画像が届きました。先般の北海道旅行の際に飛行機から見えた盆地の景色が気になって、調べたらそれが越前大野であったので、車を走らせてそこへ行ってみた、という何ともはや、偐家持も舌を巻くしかない、往復750kmのロングドライブ一人旅の旅便りでありました。 もっとも、金沢に所用があって日帰りで出掛ける心算の処、「気になった盆地」のことを思い出し1泊2日のミニ旅行にされたというから、まあ、ついでの旅行ということで、納得ではありましたが・・。 先ず、同氏が北海道旅行の際に飛行機から撮られたという写真からご紹介です。(白山と御母衣湖) 上の写真のダム湖が先ず同氏の目を引いたようであります。一瞬は黒部ダムかと思われたそうですが、ダムの形状が異なるということから、御母衣湖であることが判明したとのこと。そして、視線を上に転じて目に入ったのが、下の写真にある、白く雪に覆われている盆地。この盆地の市街は何処だろうと思われたことが今回の旅の契機であったということであります。(越前大野市 写真中央やや上左寄りの盆地の白い市街地) 金沢での所用を済まされた後、最初に訪問されたのは、丸岡城。(丸岡城) <参考>丸岡城・Wikipedia 丸岡城は小生も昔に訪ねています。調べてみると、91年10月12日に銀輪散歩で福井・足羽山~志比堺・手繰ヶ城山古墳~丸岡城~三国港と廻っていますので、この時に立ち寄っているようです。もう20年以上も昔のことになりますから、ブログには登場しませんが、今となってはどういうテーマで廻ったものか定かではありません。継体天皇とその母の振姫のことが念頭にあったことは確かですが、立ち寄り先は余り関係がありませんですな。2日目は東尋坊から芦原温泉ですから、いよいよ関係ない(笑)。 話が脱線しました。丸岡城の次の訪問先は越前大仏と勝山城博物館。両者共に地元出身の実業家・多田清氏(相互タクシー創業者)が祖先の地に建立したものとのことで、なかなかに立派な建物、壮観であります。もっとも、小生は寡聞にして、今回初めて知ったのではありましたが。(越前大仏殿 後方に勝山城博物館が見えている。)(越前大仏) <参考>越前大仏・Wikipedia(勝山城博物館) <参考>勝山城博物館・Wikipedia 次は、大野城。大野城と言うと万葉的には大宰府の大野城の方を思い浮かべてしまいますが、こちらは、戦国時代、一向一揆を平定した恩賞として織田信長から越前国大野郡内に3万石を与えられた、金森長近が天正4年(1576年)に築造した城である。(大野城) <参考>大野城・Wikipedia そして最後は、戦国武将朝倉義景に所縁の一乗谷朝倉氏遺跡。 此処は、小生も訪ねてみたいと予てより思っていた地ですが、未だ果たして居りません。 友人の偐山頭火氏もブログでこの地の訪問記を既にアップされていますから、岬麻呂氏とも併せ、友人二人に先を越されたこととなりました。 <参考>偐山頭火氏のブログ記事 旅の途中で「一乗谷朝倉家遺跡と永平寺」2009.11.12.(一乗谷朝倉氏遺跡)<参考>朝倉義景・Wikipedia 戦国大名越前朝倉氏の城下町を復元した一乗谷遺跡 <関連記事>過去の岬麻呂旅便りの記事はコチラからご覧下さい。
2014.03.31
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本日は若草読書会のお花見の予定でありましたが、生憎の雨にて、花園中央公園桜広場でのお花見は中止となり、智麻呂邸の若草ホール集合となりました。 もっとも、小生は風邪にて体調不良、欠席させて戴くことに。 しかし、前日までにE-mailで寄せられた各氏の短歌や俳句を印刷に打ち出してお持ちするという小生の役目は最低限果たさなくてはならないので、これを参加者人数分の部数を印刷し、お届けすると共に、途中、瓢箪山駅前のいつもの果物屋さんに立ち寄り、苺と枇杷を買って、これを差し入れして参りました。 皆さんに風邪をうつしてはいけないとマスクをしての参上でありまして、車で家まで送るという凡鬼さんのご好意も丁重にご辞退申し上げての、早々の退散でありました。(小生宅から智麻呂邸までは徒歩20分位でありますので、車で送って戴くほどの距離ではありませぬ。) 昨年に続いて2年連続、雨に祟られての花のない「お花見」となった若草の「お花見」でありますが、吉田兼好さんも徒然草の中で「すべて、月・花をば、さのみ目にて見るものかは。春は家を立ち去らでも、月の夜は閨のうちながらも思へるこそ、いと頼もしう、をかしけれ。」(137段)と仰って居られますように、何も花の下に筵を敷いてするのみがお花見には非ず、であります。心の内に咲きたる花の姿など思い浮かべ・・なども立派なお花見と言うべきものにて候へば、何ぞ雨をや恨むらむ、であります。 まあ、小生なんぞは「雨」に加えて「風邪」にまで見舞われて欠席の止むなきに至りましたが、「花園の桜の花のいかにかあるらむ」など思い描くだけで、十分な「お花見気分」なのであります(笑)。春雨の しくしく降るに 花園の 桜の花は いかにかあるらむ (河内風邪人) (本歌) 春雨の しくしく降るに 高円の 山の桜は いかにかあるらむ (河辺東人 万葉集巻8-1440) <参考>「桜花散りぬる風のなごりにはたこやきしつつ」 2013.4.7. 自宅近くまで帰って来て、山の方を見ると、山は雨に煙っているのでありました。 本日は「花の写真」がない「お花見」の記事でありました。 「観想念仏」という言葉がありますが、それに倣えば、「観想念花」であります。<追記です。> 本日(31日)小万知さんが、昨日小生が差し入れした苺と枇杷を写真に撮ったとしてE-mailで送って下さいましたので、それを以下に掲載させて戴きます。 どうぞ、皆さまもお好きな方をお一つお召し上がり下さいませ。ウーテイスさんは、枇杷の実を懐かしがって居られましたから、どうぞ枇杷をお召し上がり下さいませ。琵琶ではありませんよ(笑)。(差し入れの苺)(同上・枇杷)
2014.03.30
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本日でアクセス累計が25万件を超えました。 こういうものは、年月が経過すれば、何れそうなるというものにて、どうこう言うべきものにあらねども、一つの節目にてもあれば、此処にそのことを記し置くものなり。 記事カテゴリーに「ブログの歩み」というものを設けて、アクセス件数や当ブログそのものについてのことを記事にしたのは、2009年1月31日が最初でありますが、その後も折々にこのカテゴリーの記事を書いて参りました。読み返してみると、懐かしいと言うか、それなりに面白い。まあ、面白いと感じるのは小生のみにて、ご訪問下さるお方にとっては「何の面白きものかは」でありましょうけれど(笑)。 さて、これらの記事によると、2009年10月13日 50000件2011年 1月11日 100000件2011年12月16日 150000件2012年12月31日 200000件2014年 3月27日 250000件ということになる。 上の記録から読み取れることは、当ブログへのアクセス件数は2011年を最多とし、2012年、2013年と漸減傾向にあるということであります。もっと、魅力のある記事を書け、ということであるのでしょうかね(笑)。(氷室神社から見る若草山)大和なる 大寺のひがし 雲暗く 遊子鼻白むみどりなす はこべは萌えず 若草も 見るに甲斐なし (閑崎藤村 「吉城川旅情の歌」より)
2014.03.27
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今日は雨。雨なれば銀輪はお休み。 お休みは、ネタなし。ネタ無しの日は友だのみ。 ということで、先日届いた岬麻呂氏からの旅便りの写真をご紹介申し上げます。 先月に続いて、今月も17~20日と沖縄にお出掛けになったようであります。 今回は、石垣島・竹富島・西表島・波照間島を廻られたようです。(竹富島) 石垣新空港着。「気温26℃で現地の人は半袖」とある。 離島桟橋から船で竹富島へ。 竹富島は観光水牛車が有名であるが、水牛車と子供の接触事故があったらしく、観光水牛車の営業所の移転を求める住民の「抗議」の看板が各家に掲示されていて、景観も何もあったものではない、という状況に目下はあるらしい。(西表島・イダの浜) 西表島の「イダの浜」は、島の西側、道の果てる処から船で廻り行くしかないらしい。ということで、「石垣ドリーム観光のツアー」に参加。岬麻呂ご夫妻、73歳の男性一人、北海道からの母娘二人の5人で廻られたようです。白砂が美しいですな。(同上)白砂(しらすな)は 哀しからずや 空の青 海のあをにも 染まずつづける (老山墨汁) (本歌) 白鳥は 哀しからずや 空の青 海のあをにも 染まずただよふ (若山牧水)(イダの浜の珊瑚礁) 波照間島は前日のツアーで気が合った北海道からの母娘お二人も合流されて、岬麻呂氏がレンタカーでご案内されたご様子。まあ、何度も来て居られるから、ガイド役はお手のものであったことでしょう。(波照間島・ニシ浜)(波照間島・高那崎、後方は星空観測タワー) 波照間案内の後、石垣島に戻り、奥方様は竹富島に行くという北海道母娘に託し、お一人で島最北端の平久保崎や川平湾をレンタカーで行かれたらしい。平久保崎灯台を目指されたのは、「灯台廻りの岬麻呂」の本領発揮であります(笑)。此処では灯台の写真はありませんが、別途のハガキ説明文の方にはちゃんと平久保崎灯台の写真が掲載されていました。(石垣島最北端・平久保崎)見渡しても 見渡しても 青い海 (偐海頭火)(元句)分け入っても 分け入っても 青い山 (種田山頭火)(カンムリワシ)うしろすがたも わしや (鷲田山頭火)(元句)うしろすがたの しぐれて行くか (種田山頭火) これは、川平の近くの道路柵にとまっていたカンムリワシ。車でゆっくり静かに接近。2mの至近距離で撮影されたものとのこと。シャッター音に反応するも飛び立たず悠然としていたのは、さすがに「鷲」であります。(デイゴの花) このデイゴは白保中学校の校庭に咲いていたものだそうです。学校の先生にお願いして校庭に入らせて戴いたらしい。デイゴと言えば沖縄の花であるが、最近は害虫のデイゴヒメコバチの影響もあって花が付き難いなどの状況にあるとのこと。この虫はデイゴの葉や幹に産卵して虫こぶを作るため、木を弱らせるとのこと。 当ブログではデイゴの花はこれまで登場していませんが、アメリカ・デイゴなら掲載あり、です。もっとも両者は共にマメ科ではありますが、別種にて、花姿などはかなり異なります。 <参考>アメリカ・デイゴの写真は下記記事に掲載されています。 アメリカデエゴ(アメリカ梯梧・アメリカデイゴ) 2009.8.12. アメリカデイゴの実とクチナシの実 2009.9.30.<追記>本日(26日)夜、岬麻呂氏よりE-mailあり、下記写真が添付されていましたので、追記させて戴きます。上の写真は紙焼き写真を小生デジカメで撮影したものでありますが、これはデジタル画像そのままのものですから、鮮明であります。(デイゴの花)
2014.03.26
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偐万葉シリーズも前回で201弾を数えましたが、今日までに掲載した歌の数は?、と試しに数えてみました。するとヤカモチ作の歌が3883首、ブロ友さん作の歌が445首、合計4328首になっていました。 万葉集の4516首には未だ僅かに届きませんが、これを超えるのも時間の問題ですね。未掲載の保留分177首を加えれば既に4505首で11首下回るだけですから。偐万葉も歌の数だけなら、本家、万葉集に肩を並べるまでになりました(笑)。 もっとも、ブロ友さんが下さった575の句を上3句に見立てこれにヤカモチが77の下2句を付けて短歌風にしたものや、銀輪万葉その他の記事本文に掲載のヤカモチ作の歌なども多数あり、これらを加えれば少なく見ても6000を超えているでしょうから、当ブログ全体としては万葉集など足元にも寄せ付けない歌数に既になっていることは間違いないのではありますが、これらについては歌数を記録する仕掛けをして居りませんので、今更、数える気にもなりません。 偐万葉シリーズに掲載の歌は、ブロ友諸氏のブログ記事へのコメントに付した小生の歌、それに追和戴いたブロ友諸氏の歌、当ブログへのコメントに記入戴いたブロ友諸氏の歌、それらの歌やコメントへの返事コメントに付した小生の歌、等々で構成されています。 第1弾の偐万葉・松風篇をアップしたのが2009年3月27日。 間もなく丸5年になります。 掲載歌数の多い順に各篇を列記すると下記の通りとなります。1.英坊篇603首(偐家持作408首、英麻呂作195首)2.松風篇435首(偐家持作435首)3.木の花桜篇425首(偐家持作340首、木花桜媛作85首)4.ビッグジョン篇409首(偐家持作388首、歩麻呂作21首)5.大和はまほろば篇380首(偐家持作380首)6.ひろろ篇276首(偐家持作267首、ひろろの郎女作9首)7.真澄篇271首(偐家持作270首、真澄郎女作1首)8.若草篇214首(偐家持作197首、若草諸氏作17首)9.るるら篇184首(偐家持作145首、るるらの郎女作39首)10.ふぁみキャンパー篇136首(偐家持作136首)<参考>他の偐万葉は下記リストからご覧戴くのが便利です。 偐万葉シリーズ・リスト リスト(1)(2) 花の色は うつろふものと 人は言へ 常盤の松も また喜ばず (春伴花持)(本歌)八千種(やちぐさ)の 花はうつろふ 常磐(ときは)なる 松のさ枝を 吾(われ)は結ばな (大伴家持 万葉集巻20-4501)
2014.03.25
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偐万葉・LAVIEN篇(その1) 本日は久々の偐万葉です。シリーズ第201弾はLAVIEN篇(その1)です。今回初登場のlavien10氏は、昨年11月に当ブログをお気に入りにご登録下さり、その返礼ご訪問申し上げたことによってブログの交流が始まりました。まだ、浅いお付き合いでありますが、歌もそこそこの数になりましたので、偐万葉にご登場戴くことと致しました。 さて、ご登場戴く以上は、恒例に依り、偐万葉風のお名前を名乗って戴くこととなります。ということで、ラビ麻呂とお呼びさせて戴くことと相成りました。 <参考>lavien10氏のブログはコチラからどうぞ 偐家持がラビ麻呂に贈りて詠める歌17首くりかへす しずのおだまき こりもせで 人待つらむか 蒼ざめし馬 この国は いづく行くらむ 人らみな それぞれの平和 むさぼる時に 驕りたる 桂(けい)の高跳び 歩(ふ)の餌食 御す術(すべ)知らず 打たぬものかは (坂本桂馬)あべこべに なりてちぐはぐ 世の中は さなれど今年も かにかく暮れぬひんがしの 野にふじ山の 影見へて かぎろひ立ちぬ 年明けの朝 (偐人麻呂) (本歌)東(ひむかし)の 野にかぎろひの 立つ見えて かへりみすれば 月西渡(かたぶ)きぬ (柿本人麻呂 万葉集巻1-48)みづ山と 神さび立てる ふじ山に 入り日も赤き 睦月立つ夕(よひ) 国境は つとにし越えり 今更に ものか思はむ パンパスグラス (パンパース)大和にも 野原に芒 あるなれど 尾花にしあり 草にはあらじ (芒家持)シロガネも クガネもタマも 何せむに シロガネヨシに しくものぞなき (葭上憶良) 来ず方を 来むとは待たじ 春の空啄木に 引かれあれこれ 思ふれば 時に六十路も 空に吸はるる (石川拓本 「一握の歌」)来し方や 行く末いかにと わづらひそ 野の花ほども なき身なるわれ (石川石木 「一握の人」)不来方の お城の草に 鳩ら来て 残らず食はれし 十五の豆は (石川鳩木 「一握の豆」) (本歌) 不来方(こずかた)の お城の草に 寝ころびて 空に吸はれし 十五の心 (石川啄木 「一握の砂」) ラビ麻呂が贈り来れる句に偐家持が付けたる脇句 雪 往きて 白銀の世界 ソチもこちも (ラビ麻呂) メダルはソチも こちはミダルる (偐家持)我が背子は みみより黄なる ものの出で 目よりうろこの 落ちたるなるか (ゲゲゲの家持)美しき 梅と富士見て 思ひ出す ひともあるなり 春の雪かな (偐ラビ麻呂) (注) 上の1首の原案はラビ麻呂によるものなり。 (「美しき梅と 富士を見て思い出す人 春の雪」) 呑み過ぎの身 行く足千鳥 転びては 心もしのに 老いをし思ほゆ (柿本老麻呂) (本歌) 淡海(あふみ)の海(み) 夕波千鳥 汝(な)が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ (柿本人麻呂 万葉集巻3-266) 青雲(あをぐも)の 空も狭(せ)に立つ 石垣も 天守も春なり 大坂の城をみななら ひとりもよけど をのこはも ひとりし歩くは あやしと見らる (横丁の散歩者) ラビ麻呂が本篇に追和して詠める歌1首遠く西より見渡す 富士やまも 東よりとおなじ天晴かな (羅美麻呂)<脚注>掲載写真は全てlavien10氏のブログからの転載です。
2014.03.23
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この程、楽天さんがブログ画面・記事ページのデザインを変更され、字体を「MSPゴシック」から「メイリオ」に変更されました。 メイリオでは、数字やアルファベットは全角だと間延びのしたものになり、見栄えがよろしくない。以前の「MSPゴシック」では逆に半角の方が不自然に太くなって見栄えが悪く、小生は全て全角で打っていました。それが仇となって、新しいデザインのメイリオによる表記では、その部分が見栄えの悪いものとなりました。 また、メイリオとMSPゴシックとでは、従来のそれと1行の長さに相違が生ずることとなり、それに伴い改行される場所にも相違が生じます。その結果、短歌など、不自然な場所での改行を避けるため、こちらで、一行で表示される文字数を勘案して、適切な位置で改行して、文字列を合せるなどしていましたが、メイリオに変ったことで、不自然な場所での改行となり、文列がズタズタになって、とても見づらい画面になっている箇所が少なからず発生しました。 そのことを、指摘申し上げたら楽天さんの方で対応戴き、旧のデザインに戻すことも可能となりました。しかし、旧に戻すと、今後の記事も旧の表記となります。新しいデザインではコメント欄の文章が読み易く、スッキリしているので、捨て難い。しかし、本文の過去の表示の乱れも看過しがたい、と悩みましたが、読み易さが第一だろうと、新しいデザインで行くこととし、過去記事の乱れは編集し直して修正することとしました。 ぼちぼちと、やり始めて、本日で漸く2013年10月21日の記事まで修正を完了しましたが、未だ先は長い。こういう場合、将来に向かってだけ新しいデザインが適用されるようにして貰えると有難いのだが、それは「ないものねだり」という奴でしょうか。 まあ、特に何処で改行されようと影響のないような文章であったりなら、差障りもないことなんでしょうが、他の方はどんな風に対応されているのでしょう。 古い記事など見る人もないのかも知れませんが、ズタズタな画面を放置するのも気持ちが悪く、少しずつ調整・修正を行っている今日この頃です(笑)。 2013年10月20日以前の過去記事は未だ処理が終わっていません。よって、これらの記事に於いて、不自然な画面や文字のズレ、乱丁(こういうのは乱丁とは言わず、行の乱れで「乱行」と言うべきかも知れませぬが、「乱行」も別の意味があり不適切な用語、と言うことで他にピッタリの言葉がありませんので、敢えて乱丁と言わせて戴くこととします。)がありましたら、それは修正前のものでありますので、ご容赦の程を。例えば、下記のような具合になります。偐万葉シリーズのように、短歌などを羅列した記事が一番無惨です(笑)。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー<一例>徒然の ひとの言ひける ことやうの 八重もよしなる 智麻呂桜 (注)徒然のひと=徒然草の作者吉田兼好のこと。兼好は徒然草の中 で「花は一重なる、よし。(中略)八重桜は異様(ことやう)のも のなり。」と言っている。あぢさゐの つねにしもがも さくはなの はしきとみつつ けふもすぐさな (ともまろ) (注)つねにしもがも=「つねに」は「常に」と「恒郎女」の「つね」とを掛 けている。「もがも」は願望、「~だったらいいの に」の意。 はしき=「愛(は)しき」で、いとおしい、愛らしい、可愛い、の 意。 すぐさな=「過ぐさな」で「過ごそう」の意。「~な」は意思を 表す助詞。「~む」の古い形である。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以上、愚痴麻呂でありました(笑)。メイリオも 痛し痒しの 弥生哉 (筆蕪蕉)
2014.03.22
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銀輪散歩のオマケ。マンホールの写真がかなり溜まりましたので、(その3)として纏めてみます。 <参考>銀輪散歩・マンホール(その1)(その2)1.大阪市 大阪市のマンホールは大阪城ですが、大阪城とOBPのツインタワービル、中之島の水晶橋、堂島川を行く水上バスをあしらった下のようなのもありました。よく見ると外周には御堂筋の銀杏の葉も入っています。<大阪城をデザインしたものはコチラです。>2.東大阪市 東大阪市のそれは梅をデザインしたものとラグビーを描いたものなどがありますが、古い抽象的な図柄のものが何種類かあり、これもその一つです。 先日、ブロ友のビッグジョンさんが梅をデザインした当市のマンホールの写真を記事に掲載されていましたので、そのページもご紹介して置きます。 <参考>「干支登山・生駒山」2014.3.11.<参考 紹介済みの東大阪市のマンホールはコチラです。>3.八尾市 八尾市のマンホールは河内女が糸車で木綿糸を紡ぐ姿(コチラ)がデザインされていますが、このような古いタイプのものもあります。4.富田林市 これは二上山を背景に富田林寺内町の古い町家(杉山家住宅だろうか。)の建物と市の花のツツジがあしらわれています。<追記>山は、二上山ではなく、葛城山と金剛山のようです。5.伊丹市 伊丹市のそれは白鳥と鴨。これは昆陽池の様子を描いているのでしょう。 カラー版とモノクロ版です。 6.宝塚市 宝塚市はすみれの花があしらわれています。 「すみれの花咲く頃・・♪」の宝塚歌劇団の町。納得です。 右の消火栓は、銀輪同行の友人・蝶麻呂君に言われて撮りましたが、その後他の地域でも、このデザインのものをよく目にしますので、これは、宝塚市固有のものではなく、既製品のようです。既製品に市章だけを付けたのでしょう(章)。 7.奈良市 奈良市はやはり鹿でした。花は桜でしょうか。「いにしへの奈良の都の八重桜」ですから、奈良の桜は八重の筈ですが、これは一重のようです。まあ、八重にすると、桜なのか薔薇なのか山吹なのか、何の花か分からなくなる、ということで一重にせざるを得なかったということでしょうか。八重の桜のことはさて置くも、桜と鹿というのは何やらミスマッチではないでしょうか(笑)。やはり、萩か紅葉でしょう。 右のシンプルなのは古いタイプですが、こういうものの方が力強く、何やら丈夫そうに見えるのは何故か。 8.橿原市 橿原市ではシンプルなデザインのものしか目につきませんでした。 右は、今井町の前の道にあったものですが、同じ橿原市でも今井町だけはマンホールのデザインも違っているのが面白い。しかし、何をデザインしているのかは、「いまいちょう」だけに「いまいち」分からない。<追記>今井町のマンホール蓋のデザインは中央が駒繋ぎ、回りが瓦葺屋根だということです。言われてみればその通りで、「いまいち」は撤回致します。「いまいち」だったのは「ヤカモチ」の理解力の方でした。 9.明日香村 明日香村のそれは、外周に村の木・「槻(欅)」の葉を並べ、内側には村の花・「橘」をあしらい、中心に村章を置く、というデザインになっている。 村章は飛ぶ鳥を表現し、上部の円形は古墳を表現し、下の三つの形は飛鳥村・高市村・阪合村の合併前の3村を表現しているそうな。また円形が左に来るように横向きに倒すと、「明日香」の「明」という字にもなるというようにデザインされているとのこと。 10.大津市 大津市のこれは「波」でしょうね。「さざなみの大津」ですから。11.宇治市 宇治市のそれは、宇治橋と紅葉です。 右のものは古いタイプかも知れませんが、3枚の葉で市章の形を作っているよう。葉は当然、宇治茶の葉ですな。 これは天ヶ瀬ダムの前にあったものですが、実用本位のもの。もっとも仕切弁というのが不案内なヤカモチにはよくは分からない。 以上です。また、銀輪散歩で新しいマンホールが目についたら撮って置くこととし、或る程度まとまった数になれば、ご紹介申し上げます。 うん?要らない?まあ、そう仰らずに(笑)。
2014.03.21
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(承前) おふさ観音から飛鳥川自転車道に戻る。(飛鳥川) おっ、梅が満開、と近寄ってみると、どうも梅ではなさそう。木の肌は桜の木のそれ。早咲きの桜の一種なんだろうと思うが、何と言う桜なのかは知るよしもない。(同上) 接近して見るとこんな花。(梅か桜か) こちらは間違いなく梅。違っていたらまた悩むから近寄らないで置こう。花は遠目がなべてよし。(梅の花いま盛りなり) 甘橿丘の近くまでやって来ました。そこに大伴家持殿の歌碑。(大伴家持万葉歌碑)わが屋外(やど)に 蒔きしなでしこ いつしかも 花に咲きなむ 比(なぞ)へつつ見む (大伴家持 万葉集巻8-1448) しかし、まあ、何と空気の読めない家持殿であることか。 梅だの、桜だのと言いつつやって来たヤカモチを「なでしこ」の歌で出迎えるとは。(甘橿丘) 甘橿丘には蘇我蝦夷・入鹿の屋敷があったとされる。 眼下に天皇のいます板葺宮を見下ろすことになるのであるから、尊大・不敬の謗りは免れない。彼らも亦空気が読めなかったと言うべきか。(甘橿丘・茶屋前の梅) 甘橿丘には犬養万葉歌碑の第1号歌碑がある。(犬養万葉歌碑 2009.11.26.の記事に掲載の写真)采女の 袖吹き返す 明日香風 都を遠み いたづらに吹く (志貴皇子 巻1-51)(犬養万葉記念館庭の万葉歌碑 同上の記事に掲載の写真)山吹の 立ちよそひたる 山清水 汲みに行かめど 道の知らなく (高市皇子 万葉集巻2-158) 甘橿丘から水落遺跡を経て飛鳥坐神社の前で暫し休憩。取って返して、飛鳥寺、万葉文化館、板葺宮跡を経由して、「めんどや」で昼食。 昼食後、犬養万葉記念館から石舞台へ。まあ、昼食の「めんどや」を除き、何れにも立ち寄らずその前を走り抜けただけであります。石舞台で引き返し、飛鳥川沿いの道へ。 橘寺東門への道と交差する手前に飛鳥川の碑と犬養先生揮毫の犬養万葉歌碑がある。(飛鳥川の碑と犬養万葉歌碑)明日香川 瀬瀬の玉藻の うちなびき 心は妹に 寄りにけるかも (万葉集巻13-3267) 橘寺もパス。いつ出来たのかは知らぬが橘寺の北西に人麻呂の泣血哀慟歌のまだ新しい歌碑。何でこのような場所に泣血哀慟歌の歌碑が、と思ったら、ここからはるか後方に竜王山、三輪山、巻向山が並んで見えるのでありました。(橘寺前の万葉歌碑・人麻呂泣血哀慟歌 巻2-210)(左・竜王山、中央・三輪山、右・巻向山) 亀石、天武・持統天皇合葬陵などを経て欽明天皇陵へ走り下る。 亀石、天武・持統合葬陵などの写真は以下の記事参照。 2009年11月26日の記事(欽明天皇陵近くの犬養万葉歌碑)さ檜の隈 檜の隈川の 瀬を早み 君が手取らば 言寄せむかも (万葉集巻7-1109) 欽明天皇陵から、岡寺駅前を通り、橿原神宮前駅の東口へ。 駅舎の外壁にも万葉歌のレリーフが。(橿原神宮前駅東口駅舎外壁の万葉歌レリーフ) 橿原神宮前駅東口から地下道を潜って駅西口に出る。駅西口から西方向に延びている道が県道133号。これを進み、高取川を渡った処にある公園が益田池の堤跡。 なお、この高取川は上の歌碑「さ檜の隈 檜の隈川・・」の歌に詠われている檜隈川のことである。 どうやら、文字制限数一杯のようなので、以下は説明を端折ることとします。(益田池の堤跡)(同上) 益田池堤跡から少し西の交差点を左に入ると、継体天皇の息子の宣化天皇の御陵。その奥が垂仁天皇第三皇子の倭彦命の墓。(宣化天皇陵)(倭彦命墓) 駅方向に戻り、畝傍山麓の天皇陵を廻る。(懿徳天皇陵)(安寧天皇陵)(畝傍山北西麓の梅)(山本太子堂)(二上山夕照)(綏靖天皇陵)(神武天皇陵 背後の山は畝傍山) 畝傍山をぐるり一周したことになる。日も暮れて来たので橿原神宮前駅へ。これにて明日香・橿原銀輪散歩は終了であります。(完)
2014.03.20
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先日、飛鳥川や大和三山周辺などを銀輪散歩して参りましたが、何と言ってあてもない散策にて、今回は「ヤカモチも走れば歌碑に当たる」で、出会った万葉歌碑などをご紹介しつつ、記事になどしてみむとて・・。 成り行き任せで走りましたが、結果としてはこのようなコースとなりました。 橿原神宮前駅~本薬師寺跡~天香山神社~藤原宮跡~耳成山~八木駅~飛鳥川自転車道~今井町~おふさ観音~甘橿丘~石舞台~橘寺~天武持統合葬陵~亀石~欽明天皇陵~岡寺駅~橿原神宮前駅~宣化天皇陵~倭彦命墓~懿徳天皇陵~安寧天皇陵~綏靖天皇陵~神武天皇陵~畝傍御陵前駅~橿原神宮前駅 橿原神宮前駅出発、本薬師寺跡経由、香具山に向かう。本薬師寺跡には大伴旅人歌碑があるが、今回は撮影せず。以前の写真で代用です。(大伴旅人歌碑 2012.10.13.記事に掲載の写真)わすれ草 わが紐に付く 香具山の 故りにし里を 忘れむがため (大伴旅人 万葉集巻3-334) 本薬師寺跡を出て東へ。前方には香具山、振り返ると畝傍山がよく見える。畝傍を背中に香具山へと向かう。飛鳥川を渡った処で道はカーブして北方向になるが200mほど行くと広い東西の道路に出る。これを右(東)に行くと、藤原京朱雀大路跡があり、それと道を挟んで向かい合うようにして万葉歌碑がある。遠く耳成山が背後に見えている。(万葉歌碑)藤原の 古りにし里の 秋萩は 咲きて散りにき 君待ちかねて (万葉集巻10‐2289) 歌碑から少し東に行った辺り、香具山の背後に広がる山々が美しい襞をなして連なっているのが望まれる。こういうのを「たたなづく」というのであろう。大和しうるはし、である。(たたなづく山々 左手前に少し見えているのは香具山の山裾) 突き当りを左(北)に行くと奈良文化財研究所があり、藤原京についての展示室があって一般に無料公開されている。が、今日は立ち寄らない。 文化財研究所の北隣の小さな森が「哭澤の杜」である。ここにある万葉歌碑も過去に掲載の写真で代用します。高市皇子の死を悲傷んで詠ったものである。(哭澤の杜・万葉歌碑 2012.10.22.記事に掲載の写真)哭澤(なきさわ)の 神社(もり)に神酒(みき)すゑ 祈れども わが大君は 高日知らしぬ (桧隈女王(ひのくまのおほきみ) 万葉集巻2-202) 哭澤の杜の北側の辻を右(東)に、八釣地蔵の方向に入り、突き当りを右に行くと天香山神社がある。神社の拝殿脇に香具山への登山口がある。(天香山神社)(天香山神社境内の万葉歌碑)ひさかたの 天の香具山 この夕べ 霞たなびく 春立つらしも (万葉集巻10-1812)(同上)春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣ほしたり 天の香具山 (持統天皇 万葉集巻1-28) 香具山には登らず、藤原宮跡、醍醐池畔の万葉歌碑を経て耳成山公園へ。 (持統天皇歌碑 右は2012.10.23.の記事に掲載の写真) 耳成山公園の万葉歌碑も過去記事の写真で代用とします。(耳成山公園の万葉歌碑 2012.10.24.の記事に掲載の写真)無耳(みみなし)の 池し恨めし 吾妹子が 来つつ潜(かづ)かば 水は涸れなむ (万葉集巻16-3788) 耳成山公園から近鉄八木駅に向かう。駅手前で国道24号に入る。近鉄大阪線のガード下を潜り、一つ目の交差点、柳町交差点で右(西)に入る。 この東西の道が横大路と呼ばれた古代からの道である。(大神宮灯籠) 近鉄大和八木駅南口前広場を過ぎて少し西に行った角にこのような石灯籠がある。横大路は、伊勢街道、初瀬街道とも呼ばれる道。大和と伊勢を繋ぐ道である。 下の説明板によると、この灯籠はこの道筋の東200m位の処にあったものを現在地に移設したもので、「明和八辛卯九月参宮接待連中」と刻された銘から、江戸時代お伊勢参りの旅人への道先案内の役割を果たすと共に、旅人への「お接待」の場所ともなった、とのこと。(横大路・伊勢街道と大神宮灯籠) 横大路を西へ。近鉄線踏切を渡り200mほど行くと飛鳥川に出る。飛鳥川は北へと流れて河合町保田地区で大和川に流れ込んでいるが、川岸に自転車道が整備されていて快適な銀輪散歩が楽しめる。明日香から田原本辺りまで通して走ったことはあるが、それより下流も今は自転車道が整備されているのかは知らない。そのうちに確かめてみましょう。 川沿いに行くと今井町の前に出る。蘇武井に立ち寄って再び飛鳥川沿いを行く。(蘇武井) 「おふさ観音」という表示が目に入ったので立ち寄ってみる。ぼけ封じの寺としてその名は知っていたが、未だ立ち寄ったことがない。まだまだ用はないと思うが、先々の参考にもなることなればとて立ち寄ることに(笑)。(おふさ観音) 寺の境内には薔薇の鉢植えが一杯。ボケてからお参りすると薔薇の棘が危険です。お参りはボケる前に済ませましょう。さすがに境内には木瓜の鉢植えはありませなんだ。(同上) ここでページを改めます。続きは明日に。(つづく)
2014.03.19
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(承前) 室生寺本堂脇から五重塔を眺めていると、雪が激しく降って来ました。雪舞う先に見える端正な五重塔の姿。思わず見惚れてしまいましたが、これは写真に撮って置くべきと気がついて、カメラを取り出しているうちに、嘘のように止んでしまいました。「少年老い易く学成り難し」ではありませぬが、 降雪止み易く撮(さつ)成り難し 一寸の機会逃すべからず 未だ取れずちと逡巡の癖 塔前の春雪既に終息でありますな(笑)。 それでも、下の写真、一見には雪は見えませんが、降り止みかかりたる雪が写ってはいます。写真をクリックして「フォト蔵写真」のページに移行して戴いた上で、再度画面をクリックして戴くと写真サイズを選ぶことが出来、そこで元画像を選択してご覧戴くと、沢山の細かい雪が未だ降っているのが見て取れます。だからどうなの?と言われると何とも申し上げようもありませぬが(笑)。何にしても中途半端なことで・・。(室生寺・五重塔 平安時代初期<国宝>) この小さな、如何にも「女人高野」に相応しくもある端正な五重塔。これを前にすると小生は「室生寺にやって来たなあ」と、いつもながら思うのであります。赤き裳の 少女(をとめ)なるらし 室生の塔 折(をり)しも雪の 流れ来(きた)れる (偐家持)(同上) 五重塔の左側を更に登って行くと奥の院である。(奥の院への道)(同上)(奥の院・金剛堂)(奥の院・御影堂 鎌倉時代<重文>) 御影堂には弘法大師42歳の像が安置されているとのこと。(七重石塔)(金剛堂の回廊から室生川と県道28号を見下ろす。) 金剛堂の外周回廊から下を見下ろすと、自転車で走り上って来た県道28と室生川が殆ど真下に、木間ゆ望まれぬ、でありました。 それで、室生寺を出て、上から見下ろした県道28の辺りから見上げた写真が下の写真です。拡大写真画面に切り替えてご覧戴くと山上中央に金剛堂とその回廊が写っているのがよく分かりますが、ブログ画面サイズでは少し判別しにくいでしょうから、その部分を拡大した写真も掲載して置きました。 (県道28号から金剛堂を見上げる。右は部分拡大の写真) 室生寺と言えば、シャクナゲの花。どんどん境内のシャクナゲが増えているようですが、未だその季節に非ず。蕾がその時を待っているようです。それ花の こころやいかに 石楠花の 蕾はときを 待ちつつあらむ (偐家持)(シャクナゲ<石楠花>の蕾) 室生寺を出て県道28号を下る。銀輪は下りに限る(笑)。人生下り坂も然にしあるか。(県道28号)(室生川・もみじ公園付近) 往路の何分の1かの時間で室生口大野駅前に到着である。未だ時間が早いので室生湖の方に回って榛原まで走るかという考えが一瞬、脳裏を掠めたが決断しかねているうちに交差点を通過してしまったので、そのまま駅に。室生口大野駅帰着が午後2時15分。 朝9時半に出発したから4時間45分の銀輪散歩でありました。(近鉄大阪線・室生口大野駅) 写真奥が次の駅・榛原を経て上本町方面、手前側が次の駅・三本松を経て名張、名古屋、伊勢方面。向かい側ホームに停車中の電車は名張行き急行電車。 駅のホームで次の14時37分発上本町行き電車を待っている間に、三本松駅方向へとホーム端まで歩いて行ってみた。線路は先で直ぐにトンネルになっていて、山が迫っている。右手前方線路脇に、近鉄電車関連のものであろう、倉庫か何かの白い板壁の建物がある。その窓の処で何やらガタガタと音を立てて居られる方が居られる。窓の修理でもされて居られるのかとよく見ると、それは人間ではなく猿でありました。窓をこじ開けて建物内に侵入しようとしているのである。人ならぬ 猿もや空き巣 するならむ 室生の里は 春の午後なり (偐家持) これは面白いとカメラを構えて距離を合せていると、それに気付いたのか下に跳び下りて裏の藪へと忽ちに消え去ってしまいました。 雪は止み行き、猿は去る、で二度ともシャッターチャンスを逃しました。とかく撮影はママならぬものであります。 と言うことで、オチも付いたようでありますれば、室生銀輪散歩これにて終了と致しまする。長らくのお付き合いまことに忝く、有難きことに存じ上げ候。(完)
2014.03.18
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(承前) 漸く龍穴への下り口に到着。 時折、雪が舞う。杉群(すぎむら)の みち来(こ)しわれに 雪舞ふは 室生の神の 祝(ほ)ぐとやあらむ (偐家持)(龍穴への下り口 自転車は愛車のトレンクル君。) 鳥居を潜って細い階段道を川原へと下って行くと板屋の質素な参拝所がある。土足厳禁とあってスリッパが置いてある。靴を脱いでスリッパに履き替える。処が、前日の雨でスリッパの中が濡れている・・失敗。靴下が濡れてしまいました。 どうやら、先程、ひとしきり舞った雪は龍神がわれを歓迎してのそれではなかったようだ(笑)。(龍穴へはここを川原へと下りて行く。)(参拝所から対岸の龍穴を望む。)(龍穴付近の流れ)(同上) この流れは、下の龍穴神社の横の小川へと流れ下り、室生川へと流れ込んでいる。<参考>奥宮(龍穴)については、龍水さんのブログにもっといい写真が掲載されていますので、コチラもご参照下さい。(羊歯) 上の道に戻る。道脇に羊歯が群生している。 室生寺の奥の院から山上にかけて群生する羊歯は暖地性羊歯の北限地とかで天然記念物に指定されていた筈。 上りには息が荒くなった坂道も下りは一気、県道28号に忽ちに出る。行きはよいよい帰りは「速い」である。 龍穴への登り口と龍穴神社の中間辺りで、室生川の上流側と下流側を撮影したのが次の2枚の写真。(室生川・上流側 右手奥が龍穴の入口、左手山中に道がある。)(室生川・下流側 道が右にカーブした処に室生龍穴神社がある。)(室生寺前 右が橋本屋旅館、左が食堂・橋本屋) 室生寺山門前に戻って来た。時計を見ると11時55分。 橋のたもとの橋本屋という理屈に合った名の、昔からある食堂で昼食とする。 昼食後、久し振りに室生寺に入ってみる。(反り橋を渡って室生寺へ) 正面の山門の奥には、本坊と護摩堂があるが、ここは一般参拝者は入れない。ご参拝者は右に進んで拝観料お支払いの上、仁王門の方へとお進み下さいませ。(室生寺・仁王門) 室生寺は、山部親王(後の桓武天皇)の病気平癒の祈願がこの地でなされ、それによって平癒したとして、勅命により国家護持のため建立されたことに始まるという。 女人禁制の高野山に対して女性の参拝も許したことから「女人高野」とも呼ばれることはどなたもご存じの通りである。 仁王門を入ると金堂へ続く石段がある。(金堂への石段 両サイドはシャクナゲの木) この石段の道は鎧坂と呼ばれる。シャクナゲの咲く季節には花の坂ともなる。(金堂 平安時代初期 <国宝>) 金堂内の、釈迦如来立像や十一面観音菩薩像や十二神将像などはなかなかに見応えがある仏像である。(弥勒堂 鎌倉時代 <重文>)(本堂・灌頂堂 鎌倉時代<国宝>) 本堂の左側の石段を上ると室生寺のシンボルとも言える五重塔であるが、それは次回とし、本日はここまでです。(つづく)
2014.03.17
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これは、3月14日の銀輪散歩の記事であります。二日遅れのアップとなります。 室生寺には何度となく行っているので、今更という感じでもあったが、当ブログには未登場なのと、その奥にある室生龍穴神社には行ったことがなかったことから、この日は室生銀輪散歩と致しました。 2004年3月には榛原から室生湖・ダム経由で室生寺へと自転車を走らせているが、この頃はブログを始めていなかったので、記事にはなっていない。それにしても、もう10年も前のことになるのでありました。 今回は室生寺は従で、主目的は室生龍穴神社。この神社を意識したのは、時々ご訪問させて戴いている龍水さんのブログ記事(室生龍穴神社 2014.1.30.)で知ってからのこと。ということで、トレンクルを持って近鉄電車で室生口大野駅までやって参りました。 朝9時半、駅前でトレンクルを組み立て出発。 先ずは、定番の大野寺です。大野寺は白鳳9年(681)に役小角が開き、天長元年(824)に弘法大師が室生寺を開創した際に、ここを西の大門と定め一宇を建て、本尊・弥勒菩薩を安置して慈尊院弥勒寺と称した。その後、この地の地名を名とし大野寺と称するようになったという。(大野寺)(梅の古木)(宇陀川と摩崖仏 写真右が上流。) 大野寺の前を流れているのは宇陀川。上流は室生ダムのある室生湖になっている。(宇陀川 写真奥が下流、右に大きく蛇行している。) 宇陀川は、大野寺の前で大きく蛇行して三重県で名張川に合流する。昨年3月に月ヶ瀬梅林などを銀輪散歩した際に川沿いを走ったのが名張川、木津川である。宇陀川は名張川に流れ込み、名張川は木津川に流れ込んでいるが、道路や鉄道で陸路を移動する生物であるヤカモチにはこれらの繋がりが頭の中ではうまく像を結ばない。 (摩崖仏 右は大野寺のパンフレットより。) 大野寺と言えば、宇陀川の対岸の崖の巨岩に彫られた弥勒摩崖仏である。 摩崖仏は、鎌倉初期、承元元年(1207)に興福寺の雅縁大僧正の発願により、後鳥羽上皇に奏上し、上皇の勅願を得て造立された。人々は宇陀川の対岸(即ち彼岸)に、弥勒浄土をイメージしたのでもあるか。 阿弥陀浄土は西方浄土であるが、弥勒浄土は東方浄土。大野寺からは真東に摩崖仏はある。(摩崖仏説明板) 県道28号は宇陀川を渡って、支流の室生川に沿うようにして室生寺へと緩やかにのぼって行く。(室生寺への道・宇陀川を渡る。)(同上・島ヶ谷橋トンネル) 途中で歩道をジョギングしている男性を追い抜く。 しかし、仙人の岩屋とある場所で、どれが岩屋なのかと判断しかねて、撮影にモタモタしているうちに、先程の男性に追い抜かれる。 説明文を読んでもよく分らない。近くの大岩がそれなのか、もっと高い場所にあるのか・・しかし、上に登れそうな道があるようでもない。(仙人の岩屋)(同上)(弘法の井戸) 弘法の井戸の辺りで、折り返して来たジョギング男性とすれ違う。室生寺は直ぐそこであるが、帰途に立ち寄ることとし、龍穴神社へと走り続ける。(室生寺・室生龍穴神社地図)(室生龍穴神社) 杉の巨木が林立する森閑とした境内。清浄な空気が漂う。(同上・拝殿)(室生龍穴神社御由緒) 龍穴神社の祭神はタカオカミの神。イザナミが火の神カグツチを産んだため死んでしまったことに怒ったイザナギがカグツチを切り殺すが、その時にこの神が生まれている。火や水を司る神である。それで思い出す万葉歌はこれ(笑)。わが岡の おかみに言ひて 降らしめし 雪の摧(くだ)けし そこにちりけむ (藤原夫人 万葉集巻2-104)(室生龍穴神社本殿)(同上) 暫く境内や周辺を散策した後、奥宮の龍穴に行こうとするのだが、入る道が分からない。上の地図でもお分かりの通り、龍穴への登り口は神社からかなり奥にある。 幸いに簡易舗装された道なので、坂道であるが自転車に乗ったままで上って行ける。 途中に「天の岩戸」がありました。そこからもうひと登りすると龍穴の入口である。 それほど寒いとも思わなかったが雪が舞い出しました。龍神が何らかのメッセージを送っているのだろうか。(天の岩戸)(同上) 本日はここまで、龍穴は次回とします。(つづく)
2014.03.16
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(承前) 宇治神社を出て、仏徳山へと向かう。この道は「さわらびの道」と名付けられている。源氏物語・宇治十帖の「早蕨」に因む名前であろう。 <参考>宇治十帖・Wikipedia 橋姫・椎本・総角・早蕨・宿木・東屋・浮舟・蜻蛉・手習・夢浮橋 宇治神社を出て、さわらびの道を右へ、ゆったりとした坂道を行くと宇治上神社である。両神社はほぼ隣接している、本来は一体のものであったのだろう。 <参考>宇治上神社・Wikipedia(宇治上神社) 宇治上神社の本殿は平安後期の築造にて、現存する神社建築としては最古のものであるが、現在は改修工事中にて仮囲いシートに覆われて見えない。 本殿内には、左殿・中殿・右殿の三つの内殿があり、左殿は菟道稚郎子、中殿は応神天皇、右殿は仁徳天皇を祀る。(桐原水) 宇治上神社拝殿脇にある桐原水は、宇治七名水(桐原水(きりはらすい)、公文水(くもんすい)、法華水(ほっけすい)、阿弥陀水(あみだすい)、百夜月井(ももよづきい)、泉殿(いずみどの)、高浄水(こうじょうすい))の一つで現存する最後のものとのこと。 )(宇治上神社・拝殿) 宇治上神社を出て少し坂を上ると仏徳山への登山口がある。そこに与謝野晶子の歌碑がありました。宇治十帖に因む歌である。(与謝野晶子歌碑)橋姫しめやかに心の濡れぬ川ぎりの 立舞ふ家はあはれなるかな椎が本朝の月涙の如し真白けれ 御寺のかねの水わたる時総角こころをば火の思ひもて焼かましと 願ひき身をば煙にぞするさわらびさわらびの歌を法師す君に似ず 良き言葉をば知らぬめでたさ宿り木あふけなく大御女を いにしへの人に似よとも思ひけるかな 九十九折りの道を枯れ落ち葉踏みつつ行くと山頂の少し手前に展望台があり、その脇に万葉歌碑がありました。(仏徳山<大吉山>展望台脇の万葉歌碑)妹らがり 今木の嶺に 茂り立つ 嬬(つま)松の木は 古人(ふるひと)見けむ (万葉集巻9-1795)<いとしい妻のもとに今来るという、その今来ならぬ、今木の嶺に枝葉茂らせて立っている松の木、夫の訪れを待つ、そのマツではないが、この松の木を昔の人も見たのだろう。> この歌の題詞には「宇治若郎子宮所歌1首」とあるから、古人とは菟道稚郎子のことを指している。(仏徳山展望台からの眺望)(同上・対岸中央に見えるのは平等院。) 展望台からの眺めを暫し楽しんだ後、山道を下り、さわらびの道から宇治川右岸の道に出て宇治橋から、京阪電車・宇治駅の直ぐ近くにある宇治彼方神社を訪ねる。 此処は、今月1日に大阪府富田林市の彼方小学校の万葉歌碑を訪ねた時に「機会があれば訪ねてみよう。」と思っていたもの。早くもその機会がやって来たという次第。「彼方」というのは普通名詞と考えるのが普通だが、地名にも「彼方」があることから、その歌碑の歌に出て来る「彼方」が宇治彼方神社のある一帯の地のことという説があったからである。(宇治彼方神社)(同上) 京阪宇治駅の北西に菟道稚郎子陵があるので、訪ねる。以前にも何度か訪ねているが、ブログには未登場なので、立ち寄ることにする。(菟道稚郎子陵) 菟道稚郎子は応神天皇の子。応神は菟道稚郎子を皇太子にしていたが、応神天皇死後、異母兄の大山守に命を狙われたりする。これに嫌気がさしたか、自分は天皇の器ではないと異母兄の大鷦鷯に皇位を譲るために自殺してしまうという人物。(同上)(宇治橋) もう一つの万葉歌碑を訪ねて、宇治市役所の南方向にある下居神社に向かう。(下居神社)(同上・本殿) 薄暗い境内に、額田王の歌の歌碑。(下居神社境内の万葉歌碑)秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 宇治の京の 仮廬し思ほゆ (額田王 万葉集巻1-7)<秋の野のカヤを刈って屋根に葺いて宿った、宇治の宮処の仮廬のことが思い出されることだ。> 下居神社を出て、JR宇治駅へ。(JR宇治駅) 宇治駅前到着。トレンクルをたたみ、バッグに入れて電車にて帰途に。これにて瀬田川・宇治川銀輪散歩終了です。<完>
2014.03.15
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(承前) 宇治市街へと入る。瀬田川・宇治川銀輪散歩としては、宇治橋までで終了ということになるが、折角なので、宇治の万葉歌碑をざっと廻ってみることにしました。 その前に、天ヶ瀬ダムの直ぐ下の道脇にあった源三位頼政の歌碑をご紹介して置きます。天ヶ瀬ダムの入口前で府道3号線から右(宇治川べり方向)に入る脇道がある。それを下り切った辺りの道の左手に「蛍塚」と刻された石碑があり、それと並んで頼政の歌碑がありました。かなり昔に平等院を訪ねた際に頼政の墓があったのを見た記憶があるが、そんなことや今月1日に河内源氏三代墓を訪ねたことなどを思い出しながら写真に収めることとしました。(蛍塚と源頼政歌碑) (歌碑面拡大写真) (蛍塚裏面) 歌碑文面と蛍塚裏面の記載は以下の通り。いさやその 蛍の数は 知らねども 玉江の葦の みえぬ葉ぞなき (源頼政)蛍合戦由来記宇治川の蛍は、古くから世に知られた、夏の風物詩であった。高く低く川面に映える無数の蛍火は、蛍が渕と名付けられたこのあたりを中心にして、幻想的な光の渦を描きだしていた。とりわけ毎年旧暦の五月二十六日の夜は、平家打倒の夢も空しく、治承四年(一一八〇)のこの日に、平等院の境内で無念の最期を遂げた、源三位入道頼政と同志の亡魂が、蛍と化して挑み合うと伝えられ、宇治の蛍合戦とさえと呼ばれて、多くの遊客をあつめていた。源氏蛍の名を得た所以もまたこゝにあるという。往時を偲び、記念碑を建立する。平成十一年十一月十一日建之 脇道は、頼政の歌碑の前から再び坂を上ると府道3号と合流する。坂を下り切った処にある源氏物語・宇治十帖・宿木古蹟の碑の前から再び脇道に入り、川沿いを行く。宇治観光センター前の万葉歌碑を訪ねる。(宇治観光センター前の万葉歌碑)ちはや人 宇治川波を 清みかも 旅行く人の 立ちがてにする (万葉集巻7-1139)<勢い盛んな氏人、その氏ではないが、宇治川の波が清らかだからだろうか、旅行く人が立ち去りがたそうにしている。> 観光センター前から来た道を引き返し、橋(喜撰橋)を渡って、中洲の島に渡る。上流側の島が塔の島、下流側の島が橘島と言う。塔の島は、その名の通り、十三重石塔が建っている。我が国最大の石塔とのこと。塔の島と橘島は中の橋で結ばれている。(宇治川の中洲・塔の島に建つ十三重石塔) 橘島の南東の隅にあるのがこの歌碑。人麻呂の有名な歌である。もののふの 八十氏河の 網代木に いさよふ波の 行く方しらずも (柿本人麻呂 万葉集巻3-264) <朝廷に仕える官人たちの多くの氏人たち、そのウジではないが、宇治川の網代木にさえぎられて漂っている波は何処へ行くのか。行く先の分からないことだ。(人の世もまたかくの如し。)> (宇治川中洲・橘島にある万葉歌碑) 橘島は、平等院側の左岸とは橘橋で、宇治神社側の右岸とは朝霧橋で結ばれている。(朝霧橋) 朝霧橋を渡ると宇治神社の鳥居の前に出る。鳥居に向かって右側(上流側)に少し行くと万葉歌碑がある。(宇治神社鳥居)(朝霧橋東詰めの万葉歌碑)宇治川は 淀瀬無からし 網代人 舟呼ばふ声 をちこち聞こゆ (巻7-1135)<宇治川には淀瀬がないらしい。網代で魚を捕る人の舟を呼ぶ声があちこちで聞こえる。> さて、宇治神社に立ち寄ってみる。 境内には喜撰法師の大きな歌碑がありました。前ページに掲載した「わが庵は・・」の歌である。(喜撰法師歌碑)(宇治神社・拝殿)<参考>宇治神社・Wikipedia 宇治神社の祭神は、菟道稚郎子命。仁徳天皇の異母弟に当たる御仁である。隣接の宇治上神社と併せたこの地に、菟道稚郎子の離宮「桐原日桁宮」があったと伝えられている。(宇治神社・本殿) この後、宇治上神社を経由して、仏徳山(別名・大吉山)の展望台へ登山道(遊歩道)を上って行きます。展望台脇の万葉歌碑を訪ねるためですが、それは次回のこととし、本日はここまでとします。(つづく)
2014.03.14
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(承前) 曽束大橋を渡って、瀬田川左岸の道を下る。暫く行くとロードバイクの3人組がやって来るのとすれ違う。コチラは石山から宇治であるから、部分的には登りも少しはあるが、全体としては下りにて楽々。逆の宇治からだと登りになってかなりきついことでしょう。などと考えながら、少し坂を上った処に現れたのは「トラトラの道」。阪神タイガースのことが思い出されましたが、ゲゲゲの鬼太郎のチャンチャンコを思い出された方もあるようなので、「ゲゲゲの道」と呼んでもいい。 未だ塗布されたばかりで、鮮やかな黄色が目を射るのでありました。(トラトラの道)(同上)(これより京都府) 滋賀県とお別れ、京都府に入りました。 京都府に入ると瀬田川は宇治川と名を改めるのかと思っていましたが、実際はそうではなく、もう少し下流で宇治川になるようです。 喜撰山大橋が見えて来ました。喜撰山というのは百人一首の歌で有名な喜撰法師に因んだ名前ですな。(喜撰山大橋) 橋を渡った向かいの山が喜撰山なのか、更に奥の山がそれなのかは知らないが、喜撰法師が住んだという洞窟が今も残っているとか。(同上) 喜撰山には、関西電力の喜撰山揚水発電所なるものがあるようで、その管理のためか、ご覧のようにシャットアウトで、橋にも立ち入れない。チョウザメではなく興醒めですな。 世を憂し山と言うもしか(然か・鹿)なりてこそやあらめ、である。わが庵は 都のたつみ しかぞ住む 世をうぢ山と 人は言ふなり (喜撰法師 古今集983 小倉百人一首8)(まだ、瀬田川です、多分。) 川が結構蛇行しているので、所々で、このような川の景色が望まれるのもいい。 次に出会った橋は大峰橋。これは、対岸へ渡れそうだが、見たところ、対岸の道は途中で立ち消えのよう。よって、左岸を行く。(大峰橋)(同上) 大峰橋から暫く行くと宵待橋という粋な名の橋を渡ることになる。この橋は瀬田川に架かっているものではなく、瀬田川に注ぎ込んでいる田原川という支流に架かっている橋である。 橋を渡ると突き当り。右が瀬田川沿いに宇治に下る道。左に行くと枚方のようだが、小生の頭の中ではうまく道筋が浮かんで来ない。しかし、枚方に向かうのではないから、深くは考えない。右に行く。(宵待橋の上から。突き当り右・宇治、左・枚方) さて、ここで、これは小生の憶測も入れてのものであるが、この田原川と合流した辺りから下流を宇治川と呼ぶのではないかと考えるのだが・・どんなものでしょうか。 まあ、喜撰山大橋から下流を宇治川としても良いが、最近に出来た人工の橋で古代からの名の区分をするというのは説得力がない。やはり何らかの自然の地形のような目印が必要。 となると、田原川との合流点は恰好の目印である。ということで、小生は、ここより下流を宇治川と決めました。(注)上はヤカモチの独自の見解。喜撰山大橋の橋柱には宇治川と刻されていますから、喜撰山大橋の処で名が変るのが現在の区分のようです。しかし、両川の名は万葉の昔からあるものですから、近代に築造された橋でこれを区分するのは些か乱暴ではあります。(瀬田川が宇治川と名を変える場所) 右から流れ込んでいるのが田原川、中央奥が瀬田川の上流。そして画面下部から左手前に掛けての水域から宇治川になる。(これより宇治市) 宇治川と名が変るのに合せるかのように、直ぐに宇治市へと入る。 やがて、天ヶ瀬ダムが見えて来る。しかし、ダムは上流から見るものではない。(天ヶ瀬ダム) 休憩を兼ねて、ダムを見学させて戴く。 自転車を担いでは入場出来ないのか、守衛所の前に自転車を停めて行けと言われる。まあ、担いで入ってはいけないというルールはないのかも知れないが、そんな変な奴が居るなどとは夢にも思わない健康な精神をお持ちの係員の方が親切に駐輪場所をご指定下さったのだから、従わない訳には参りませぬ。 ダムの向こう側の高みは公園になっているようだが、抜け道と繋がっているのかどうか。何れにせよ、自転車を置いて来た以上は、その選択肢はなし、戻ることとする。(同上・南<手前>側から)(同上・北<奥>側から)(天ヶ瀬発電所)(同上) さて、ダムの前から脇道に入って、宇治市街へと一気に下り降りるのであるが、本日はここまでとします。(つづく)
2014.03.13
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獺の祭見て来よ瀬田の奥 (芭蕉) カワウソは獲った魚を川岸に並べて置くという面白い習性があるらしい。 これを獺祭という。獺祭忌というのは正岡子規の命日のこと。子規が獺祭書屋主人と号したことから、命日をこのように呼ぶこととなったとか。 さて、本日は、芭蕉とも子規とも関係なく、益してや獺とも無関係でありますが、JR石山駅前出発、JR宇治駅まで、瀬田川(途中から宇治川と名が変る)沿いに下るという、銀輪散歩をして参りました。 石山駅前、瀬田唐橋などは以前の記事にも登場していますれば、これを省略、京阪・石山寺駅前の写真から始めることとします。(京阪・石山寺駅)(朗澄大徳ゆかりの庭園) 石山寺の山門の少し手前で、鬼と目が合ったので覗いてみると、「朗澄大徳ゆかりの庭園」とあった。朗澄とは、12世紀後半から13世紀初頭に掛けての石山寺屈指の名僧で、没後鬼の姿になって、石山寺や経典や民衆を守護したと言われる人物だそうだが、小生は存じ上げぬお方でありました。(同・説明板) そして、山門と向き合うようにして、道路脇に「青鬼小唄」の碑。歌詞を見ると朗澄さんのことを歌っているのでありました。 しかし、なんで亀が乗っているのだ?まあ、かめへんけど。 石山寺もパス。(青鬼の小唄)(瀬田川洗蹟) 瀬田川洗堰を過ぎ、向かうは立木観音。夙にその名は存じ上げれどこれまで訪ねる機会がなかったので、今日は訪ねてみようと心に決めて居りました。(瀬田川) 瀬田川もこの辺りはゆったりと広く、遠くに湖南アルプスの峰が連なっている。正面に見えるのが田上山(太神山)であろうか。随分昔に自転車で登ったことがありましたが、どんな形であったか記憶が曖昧。やすみしし わが大君 高照らす 日の皇子(みこ) 荒栲(あらたへ)の 藤原が上に 食(を)す国を 見したまはむと みあらかは 高(たか)知(し)らさむと 神ながら 思ほすなへに 天地(あめつち)も 寄りてあれこそ 石走る 近江の国の 衣手(ころもで)の 田上山(たなかみやま)の 真木さく 桧のつまでを もののふの 八十宇治川に 玉藻なす 浮かべ流せれ 其を取ると 騒く御民(みたみ)も 家忘れ 身もたな知らず 鴨じもの 水に浮き居て わが作る 日の御門(みかど)に 知らぬ国 寄(よ)し巨勢道(こせぢ)より和が国は 常世(とこよ)にならむ 図(あや)負へる くすしき亀も 新代(あらたよ)と 泉の川に 持ち越せる 真木のつまでを 百(もも)足らず 筏に作り のぼすらむ いそはく見れば 神ながらにあらし (藤原宮の役民(えだちのたみ)の歌 万葉集巻1-50) 藤原宮造営に使用する木材はこの田上山一帯から伐り出されたことが、歌から分かるというものである。(同上) 瀬田川も色々な顔を見せる。(同上)(立木観音) 漸く、立木観音前に到着です。石段が800段あるらしいが、自転車を肩に担いで登り始める。急ぎ過ぎると息が荒くなる。ゆっくり参ろう。 気温が高くなって4月並みの陽気とか。既にシャツ一枚になって腕まくりまでしているのだが、それでも汗が額から滴り落ちる。(延々と続く石段の登り口) まだか、まだか、と息荒く登り続けて、漸くに本堂のある場所に到着。結構な人数の人と行き合いましたが、さすがに此処は参拝者が多いよう。しかし、自転車持参の馬鹿はいない(笑)。(立木観音縁起)(本堂)(同上・南側から撮影) 本堂の裏(南側)に回ると上に行く石段がある。年配のご夫妻と思しきお二人が登って行かれる。「奥ノ院があるのですか。遠いですか。」とお尋ねすると、直ぐそこだ、と仰るので、小生も行ってみる。なるほど、奥之院と言うほどもない、直ぐの処にありました。(奥の院)(立木観音) ひとめぐりして再び本堂のあるレベルまで戻って来る。休憩所の前に置いていた自転車を担いで、石段を下る。 立木観音で結構時間を取られたよう。瀬田川沿いの県道3号線に戻り、下流へと走る。(白洲一願不動尊) 直ぐに、小さなお堂がありました。立ち寄ってみる。 左奥に広い道があって、それを行くと霊園があるよう。「石山瀬田川浄苑」という表示がありましたが、まだ、用はない(笑)。(同上) お堂の中を覗くと、石造のお不動さんが鎮座して居られました。何やらアニメっぽいお顔をされて居られます。憤怒の形相と言うより困惑の表情にて、こちらも困惑でありました。 川の向かいの山裾には竹林が風に揺られてザワザワ。(対岸の山) そして、曽束大橋。この橋を渡って今度は左岸の道を下流へと向かうのである。(曽束大橋) 瀬田川は何処かから宇治川と名前を変えるのだが、此処はまだ瀬田川である。 今日はここまでとします。続きは明日以降に。(つづく)
2014.03.12
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第138回智麻呂絵画展 本日、智麻呂邸を訪問し新作4点を仕入れて参りましたので、ストックの3点と合せ、智麻呂絵画展の開催と致します。 先ずは、スノードロップです。 これは、ブロ友のビッグジョン氏のブログ記事に掲載されていた写真から絵にされました。この花姿を見て、これは智麻呂さんが絵にしたくなる花に違いないと、印刷に打ち出してお持ちしたら、予想通りの素敵な絵になりました。(スノードロップ)(元写真)(注)上をクリックすると拡大写真がご覧になれます。<参考> 元写真が掲載されているビッグジョン氏のブログ記事はコチラから。 スノードロップには「待雪草」とか「雪の花」という雅な別名もあるとのことなので、ヤカモチ館長も1首。春されば 消(け)ぬる雪もや 花と咲き 恋ひつつひとを 待つらむものを (雪郎女) ビッグジョン氏の花写真が絵になるのは、白彼岸花、リンドウに続き3作目であります。 次の絵は当ブログの2月19日の記事に掲載の写真を絵にされました。これは予想外のことでありましたが、花の絵師たる智麻呂さんも時々は建物の絵を描いてみたくなるもののようであります。(高良家住宅)(元写真)(注)上の写真をクリックすると拡大写真がご覧になれます。<参考>元写真が掲載されている当ブログ記事はコチラから。(ひなまつりのクッキー) これは、鎌倉だったかにご在住の五◎さんから送られて参りました、雛アラレ、ならぬ雛祭りクッキーであります。食文化も変化し、今やお雛様もアラレよりもクッキーやケーキがお好みなのかも知れませぬ。(サツマイモ) さて、芋です。ど~んと何やら存在感のある大きなサツマイモ。これは、ご夫妻でお買い物に行かれた際、いつもなら「花」を所望される智麻呂さんが、珍しく「芋を買って。」と仰ったそうな。そう言って恒郎女さんが笑って居られました。智麻呂も 時に花より 芋となる (筆蕪蕉) そしたら、今度は偐山頭火さんが下の焼き芋を手土産にやって来られました。かくて、図らずも「芋」の連作と相成りました。上の生の芋と下の焼いた芋とで色の微妙な違いを感じて戴ければと存じます。 下の芋は、種子島などで栽培されている「安納芋」だと、恒郎女さんは仰っていましたが、「芋」も「妹」も区別がつき兼ねる朴念仁ヤカモチ、見ただけでそれと分かる筈もなく、上はナマの「サツマイモ」、下は「焼き芋」、とさせて戴きました(笑)。(焼き芋) さて、「焼き芋」で幕を閉じては花絵師・智麻呂の名がすたる、というもの。やはり、締めはお花の絵であります。 どちらも、智麻呂さんがお世話になっているデイ・サービス施設の「アンデスのトマト」に関連した作品です。 桃は雛祭りの関連でか、智麻呂さんがトマトから桃の花枝を戴いて帰って来られ、自宅で絵にされました。描くうちにハラハラと「花の散るらん」という風情でありましたが、急ぎ描きたれば、かくしぞ絵とはなりぬる、でありました。(桃の花)春の苑 くれなゐにほふ 桃の花 下照る道に 出で立つをとめ (大伴家持 万葉集巻19-4139) 次の花、菜の花もこの時期には外せない花。上のトマトでデイサービスに行って居られる間に描き上げられた絵であります。 桃と菜の花。皆さまに春の香をお届けせむと智麻呂さんが心を込めて描かれました。(菜の花)山吹の露 菜の花の かこち顔なるや (松尾芭蕉)菜畠に 花見顔なる 雀哉 (松尾芭蕉) <参考>他の智麻呂絵画展は下記から。 第1回展~第100回展 第101回展~第200回展 第201回展~
2014.03.09
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本日は大学の同窓会(青雲会)の囲碁サークルの例会。昨年の12月以来の出席。天気もよしで、MTBで会場の堂島まで銀輪散歩を兼ねて出掛けて参りました。 往復ともに大阪城公園を通過。 写真は撮りませんでしたが、城内の梅林も花咲き、多くの人出が見られました。(大阪城) 上の大阪城の写真、中央下部に正体不明の黄色いものが写り込んでいますが、何でしょう。やや逆光で撮影したので、光線の加減でこのようなものが写ったよう。それとも杉花粉でもレンズに付着したか(笑)。 囲碁の会場である「青雲会交流センター」は裁判所の西側、積水化学・積水樹脂・積水化成品など積水グループ各社が入っているビルの北側のビルの2階にある。 12時に到着。近くの喫茶店「なかおか」で昼食&珈琲。(喫茶「なかおか」から眺める外の景色) 上の写真は、喫茶「なかおか」の店内の小生が坐った席から外を眺めた風景です。 昼食後、珈琲と煙草をしながら窓の外の上のような風景の中、行き交う人々などを眺めて居りました(笑)。 12時半になったので、喫茶店を出る。いつもの駐輪場所に自転車を停め、会場へ。世話役の山◎氏が碁盤と碁石をテーブルに配置されていましたので、小生もお手伝い。小生が一番乗りでした。 本日の出席者は12名。うち4名は大学囲碁部の現役学生さん。4名の内3名は女子学生でありました。先月現役学生囲碁部と当OB囲碁部との交流戦があったらしく、その折に参加された現役学生のうちの4人が参加して下さったということでありました。 さて、対局は、山◎氏との1局目は小生の中押し勝ち。2局目の銭◎氏には中押し負けで1勝1敗。現役女子学生さん3人のうちのお2人とお手合わせさせて戴きました。どの程度の実力なのか分からないが、A子さん曰く「3~4級位」とのことなので、3子局で打ってみることにする。楽勝。次のB子さんも「A子さんと互い戦で打っている」と仰るので、同様に3子を置かせて打ってみました。B子さんの方がA子さんより少し力は上か、しかし、これも盤面10目余の差で楽勝。一応先輩の面目は保ったという次第(笑)。 ということで、本日は番外の2局も含め3勝1敗でありました。 午後4時半。まだ、対局中の山◎・銭◎戦は観戦せず、帰途に。 御堂筋に出て、土佐堀通りを東へ。北浜で堺筋を南へ。本町で東に入り、NHKの前から大阪城公園に入り、JR森ノ宮駅前から中央大通りを東上、というコースで帰って参りましたが、途中道草はなし。帰宅は5時40分でした。日が長くなって、未だ明るいうちの帰宅でありました。<参考>当ブログの囲碁関連の記事はコチラから。
2014.03.08
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本日は、久々に囲碁例会に出席しました。先月は2度とも入院中に当たっていましたので欠席しましたので、1月8日以来ということで、ほぼ2ヶ月ぶりに碁石を手にすることとなりました。 出席者は青◎氏、荒◎氏、竹◎氏、福◎氏、村◎氏と小生の6名。成績は竹◎氏と村◎氏に勝ち、福◎氏の負けて2勝1敗。村◎氏との対局では中盤までは圧倒的に不利な状況の碁でしたが、後半にかけて相手の大石を攻め取り、逆転の中押し勝ち。一方、福◎氏との対局では終盤まで圧倒的に優勢でありましたが、コウになって左隅の大石が中央の石と切断される危機に・・。しかし、このような大きなコウ材はなく、コウは負け。大石が頓死する羽目となって逆転負け。負けている碁に勝ち、勝っている碁に負ける・・碁とはそのようなものでもあるようです。 さて、今日は朝から雨。ということで、梅田へは電車で。いつものMTBによる銀輪散歩の土産話が何もありません。それでと言う訳でもありませんが、大阪環状線の車内から撮影した写真を掲載して置きます。 その写真というのは、環状線天満駅に電車が停車した際に、いつも眼下に見える面白い名前の店であります。(「牛の巣」) 天満駅で下車することは滅多になく、この「牛の巣」という店も、勿論、入ったこともありませんので、どのような店なのかは存じ上げません。焼き肉店なのかステーキハウスなのか、少なくとも「豚の巣」ではなく「牛の巣」なので、牛肉の料理を出す店であることに間違いはないでしょう。 面白いネーミングなので、毎度、電車が天満駅に停車するごとに、眼下に車窓から見えるその店を眺めては、何となく気にかかっていたのでありました。 そんな折に、ブロ友の英坊3氏が「笑うせえるすマン」こと喪黒福造の人形の写真を掲載されている記事(2014年1月25日同氏ブログ記事)に遭遇。その喪黒福造氏が出没するスナックの名が「鷹の巣」。それで、コメントに、大阪には「牛の巣」という店があると書き込んだのでありました。 そうすると、英坊3氏は今度は「蜂の巣」という名の店をブログでご紹介されました(2014年1月30日同氏ブログ記事)。そんなことで、小生も「牛の巣」の写真を掲載することを、何となく同氏とお約束したような感じになったという次第。 ということで、本日、囲碁例会の帰りの電車の窓から見た店の様子を撮影させて戴いたという次第(笑)。まあ、それだけの他愛も無いお話でありま巣。
2014.03.05
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一昨日(2日)は月例の墓参でありました。 墓参の折に通る寺の門前に掲示の言葉を写真に撮るというのが、最近の恒例になっているが、この日は、坂村真民氏の言葉でした。(坂村真民「一雨ごとに花がふくらみ、一雨ごとに芽がのびる」) 坂村真民という方の名は存じ上げなかったのですが、ブロ友のビッグジョン氏の記事でその名を知りました。同氏が何度かブログに取り上げてご紹介されて居られましたので、この掲示を見た時は「やあ、やあ、お久し振り・・」という感じでもありました(笑)。 参考までに、同氏の、坂村真民関連の記事をご紹介して置きます。 下記URLをクリックすると、その記事をご覧戴けます。 1.しんみん五訓(坂村真民) 2013.12.12. http://plaza.rakuten.co.jp/kansonaikikata/diary/201312120000/ 2.せいさんだからといって 2013.9.3. http://plaza.rakuten.co.jp/kansonaikikata/diary/201309030000/ 3.坂村真民の詩 《飯 台》 2013.8.26. http://plaza.rakuten.co.jp/kansonaikikata/diary/201308260000/ 4.砥部、今治から高松へ 2013.8.14. http://plaza.rakuten.co.jp/kansonaikikata/diary/201308140000/ 墓は、このお寺(教覚寺)から更に2~300m坂道を上った処にある。 墓の場所から西方向を眺めやると、下のような風景である。大阪平野が一望である。(墓からの眺め・クリックすると拡大写真でもご覧になれます。) この日は夜来の雨が止んでの朝にて、雲が垂れ込めていましたが、よく晴れた日には遠く淡路島や六甲の山並みも望まれるのであります。 万葉の頃には、ここに大きな河内湖とも呼ぶべき水面が広がっていて、日が西に傾くと一面銀色に或いは夕照の色に輝いたのであろう。 難波の枕詞は「押し照る(や)」である。 これは、そのような光景から生まれた言葉である。 万葉時代に同じ感想を持った老麻呂さんが既にこのように詠って居られます。直越えの この道にして 押し照るや 難波の海と 名付けけらしも (神社忌寸老麻呂 万葉集巻6-977) 山に囲まれた大和盆地から生駒山を越えて難波へとやって来た万葉人にとって、難波は「海」が光る、明るい土地、そんなイメージであったのだろう。 それは、難波津から瀬戸内海を通じて先進文化の地、大陸へとつながっている、という「明るさ」でもあった。<参考>「直越えの・・・」の歌を記載している過去の記事一覧 1.直越えのこの道にして・南生駒まで 2013.6.29. http://plaza.rakuten.co.jp/yakamochi35/diary/201306290000/ 2.生駒山あれこれ 2012.7.10. http://plaza.rakuten.co.jp/yakamochi35/diary/201207100000/ 3.府民の森・紅葉散歩 2009.11.14. http://plaza.rakuten.co.jp/yakamochi35/diary/200911140000/ 4.暗(くらがり)峠 2009.1.29. http://plaza.rakuten.co.jp/yakamochi35/diary/200901290000/ 5.枚岡神社 2008.7.12. http://plaza.rakuten.co.jp/yakamochi35/diary/200807120000/ <注>間違って3日の記事になっていましたので、4日に転記しました。 この関係で、転記以前に頂戴したコメントなどもそれぞれコピーし転記さ せて戴きました。
2014.03.04
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(承前) 前頁掲載の壷井八幡宮から始めます。 壷井八幡宮と壷井権現社の間の庭に源義家の歌碑がありました。(源義家歌碑)吹く風を なこその関と 思へども 道もせにちる 山桜かな (源義家) 歌意は下の写真にてご覧下さい。歌碑の隣の木製の古い副碑に歌意が印刷された紙が虫ピンで貼り付けられていました。こういうのも河内源氏らしくてよいではないか(笑)。(同上) 壷井八幡宮を出て南へ。左手(つまり東側)間近に見える岡が義家らの墓のある丘と見たが、古い集落の細い路地にて、左に入る道がどれも一見には行き止まりに見える。どれとも決めかねているうちに府道27号との通法寺交差点に出てしまう。再び引き返し、行き止まりに見えた路地の場所へ。その路地に入り、突き当りを左に行くと通法寺跡。その少し手前に通法寺共同墓地がある。墓地に入って奥へと登って行くと義家と頼信の墓がありました。(源氏三代墓・義家の墓) 墓は森閑として人影もない。枯れ葉が風でかさこそと乾いた音を立てるのみ。 まあ、頼朝・義経の時代と違って、武士がまだ公家の下風に立っていた時代、そして前九年の役や後三年の役なども奥州の戦。東北の人には関心を持たれる方も多いのかも知れませんが、後世の保元・平治の乱などと違って、中央の政権を揺るがすものでもなく、注目度は低くならざるを得ない。ということで、これらの事件で活躍した河内源氏も地味な存在。とあれば、この源氏三代墓の何やらもの寂しく打ち捨てられた感じというのも無理のないことですかな。 しかし、小生などは、これらの墓の在り様や佇まい・雰囲気といったものがすっかり気に入ってしまったのでありました。まあ、店や公園や町並ならいざ知らず、墓の雰囲気が気に入るとは変な言い草ではありますが・・(笑)。(源氏三代墓・頼信の墓) 義家の墓と向き合うようにして南側に義家の祖父の頼信の墓がある。義家の墓が南向きであるのに対して、頼信のそれは東を向いていますから、墓そのものが向き合っている訳ではない。 参考までに、河内源氏の系図を記して置くと、 満仲(摂津・多田源氏の祖)-頼信(河内源氏の祖)-頼義-義家-義忠-(義高)-為義-義朝-頼朝である。義高についてはこれを外す説が有力説のようなので括弧表記して置きました。 頼信の長兄が、酒呑童子討伐や渡辺綱・坂田金時ほかの頼光四天王などで有名な源頼光である。 頼信の墓の傍らに大僧正隆光の墓があった。何故?と思ったが、彼は通法寺再興の折には柳沢吉保と共にこれに協力して居り、綱吉死後は失脚し一時この通法寺の住職にもなっていたのですな。将軍綱吉の生母桂昌院の寵愛を背景に隆盛を誇った坊主にしては、まことに粗末な墓である。こちらの墓は分骨墓。彼の生地である奈良市二条町にある超昇寺跡にある本墓も似たりよったりの墓らしいが、機会があれば訪ねてみましょう。(隆光の墓)(同説明板) 義家・頼信の墓の次は、通法寺跡にあるという、頼義の墓を訪ねる。 通法寺は頼信が小堂を建てたことに始まるという、河内源氏の菩提寺である。明治の廃仏毀釈で、今は山門と鐘楼を残すのみである。 門前雀羅という言葉があるが、此処は門内も雀羅である。未だ蕾も固い桜木が、花の季節にはさぞと思わせつつ、今は寒々とほつ枝を空に向けているのみ。(通法寺跡・山門)<参考>通法寺・Wikipedia 山門を入ると、頼義の墓。 ほかに何も無いのだから、直ぐに目に入る。と言うより、山門を入るまでもなく、塀を廻らしてもいなければ、前の道路から既にそれは見えているのである。(源氏三代墓・頼義の墓) わがブログは「偐万葉」であって「源万葉」ではない。いささか源氏に関わり過ぎました。 通法寺を出て、府道27号から、石川べりに出る。上流へと東岸に沿って走っているうちに何やら様子がおかしいことに気付く。石川に東側から注ぎ込んでいる千早川沿いの道に入っていたよう。かなり、石川から離れてしまった。まさに「しまった」である。この辺りの地名は大伴。大伴の地でヤカモチが道を間違えるというのも「偐」らしくていい(笑)。 目に入った最初の橋を渡って石川東岸の道へと戻る。目指すは彼方小学校正門内にあるという万葉歌碑である。偐万葉というコンセプトに合せようという、まあ、弁解みたいな道行きであります。 やがて、前方左手に小学校らしき建物が目に入る。川の土手道だから標識も住宅もなく川と田畑の中の道。町名を知る手掛かりもない。走った距離感と建物の感じで、これと見定めましたが、的中でありました。(彼方小学校正門内の万葉歌碑)彼方(をちかた)の 赤土(はにふ)の小屋(をや)に ひさめ降り 床(とこ)さへ濡れぬ 身に副(そ)へ吾妹(わぎも) (万葉集巻11-2683) 歌碑の方は「小雨降り」と「我妹」となっているが、岩波文庫版の「万葉集」の方の訓で表記しました。「ひさめ」の方が寒そうでいい。「身にそへ」と言わなくても寄り添ってくれるというものである(笑)。しかし、この歌、小学生はどういう意味と理解しているのやら。 「彼方」は、遠くの方、川や野原などの向こう側の意。普通名詞ではなく地名と考え、宇治彼方神社のあたりのこと、とする説もあるようだが、富田林にも「彼方」という地名があるのであれば、名乗りを上げる資格はあると言うもの。こういうのは言ったもの勝ちである。どの道「水掛け論」なのだから。 「彼方」が使われている万葉歌で小生が知っているもう一つの歌はこれですな。草壁皇子が石川郎女に贈った歌である。大名兒(おほなこ) 彼方(をちかた)野辺に 刈る草(かや)の 束の間(あひだ)も 吾(われ)忘れめや (草壁皇子 万葉集巻2-110) この後、滝谷不動明王寺に回る予定にしていましたが、坂道が・・と偐山頭火氏が難色。よって、これにて銀輪散歩終了とし、富田林駅裏の大衆食堂で昼食。帰途は石川河川敷自転車道をひたすら疾駆。出発点のリビエールホール前で、偐山頭火氏と別れ、恩智川沿いを帰りました。途中から雨がポツリ、ポツリ。 以上で、銀輪散歩・石川偐山頭火編完結であります(笑)。<参考>偐山頭火氏のブログの関連記事はコチラから。
2014.03.03
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昨日(3月1日)は友人の偐山頭火氏と久々の二人銀輪散歩。 朝9時に柏原市安堂のリビエールホール前で待ち合わせ。 彼は小阪の方から長瀬川沿いの道をやって来る。小生は恩智川沿いの道からである。安堂まではほぼ似たような距離であるが、道路の状況や信号の具合その他諸々の要素を考えると小生の方が所要時間は少なくて済むよう。少し早めに家を出たこともあって、8時半に到着。 大和川や二上山などを写真に撮って・・時間潰しをしようと思っていたのですが・・なんとカメラを取り出し構えると「バッテリー切れ」で撮影不能。何たること・・とウェストポーチを探ると、古いコンパクトデジカメが出て来ました。先日、不調になり、新しいカメラに買い替えたことはブログにも書きましたが、新しいカメラを買った途端に、こいつが復活。また撮影出来るようになっていたのでした。それでもいつ何時、不調になるやもしれぬ代物。しかし、今はこいつに頼るしかない(笑)。(大和川・安堂付近) 此処には、高橋虫麻呂の「河内の大橋」の歌の歌碑があるのだが、これは以前にも取り上げているので、今回は写真は省略し、歌のみ掲載して置きます。 (注)上の虫麻呂の歌碑の写真は下記の記事に掲載されています。 「はだれのいまだ消えのこりたる」 2011.2.16.河内(かふち)の大橋を独去(ゆ)く娘子(をとめ)を見る歌1首並びに短歌級照(しなて)る 片足羽河(かたしはがは)の さ丹(に)塗りの 大橋の上ゆ 紅(くれなゐ)の 赤裳すそびき 山あゐもち すれる衣(きぬ)着て ただひとり い渡らす兒は 若草の 夫(つま)かあるらむ かしの実の ひとりか寐(ぬ)らむ 問はまくの ほしき我妹(わぎも)が 家の知らなく (万葉集巻9-1742)反歌大橋の 頭(つめ)に家あらば うらがなし ひとりゆく兒に 宿貸さましを (同巻9-1743) さて、我々は、上の写真の橋を渡り、石川の自転車道へと入って行くのでありますが、「ただひとりい渡らす兒」ではなくて「ふたりして渡り行く爺」であるのだから興醒め。宿を貸したいなどと思う人は勿論居る筈もないのである。 暫く石川に沿って走り、竹ノ内街道(国道166号)に出くわした処で、右に入り、古市駅をかすめて西へ、という予定が、うっかりそれをやり過ごしてしまい、違う道を取ってかなりの回り道で166号に入る。軽里北交差点の西側に峰塚公園がある。峰ヶ塚古墳を中心とした公園であるが、その入口にある万葉歌碑が下掲左の写真。霞立つ 野の上(へ)の方に 行きしかば うぐひす鳴きつ 春になるらし (丹比真人乙麻呂(たぢひのまひとおとまろ) 巻8-1443) (峰塚公園万葉歌碑) (後村上天皇歌碑) 峰塚公園から石川へと引き返す途中で偐山頭火氏が見つけた歌碑が上右の歌碑。わが頼む 西のはやしの 梅の花 みのりの花の 種かとそ見る (後村上院 新葉和歌集) 後村上天皇は後醍醐天皇の第七皇子。説明文では、「後村上天皇が河内の金剛寺や観心寺を転々としていた頃、側近の者から献上された西琳寺の梅の花に再起の想いを託して詠まれたもの」とある。この歌碑は、西琳寺の南40mほどの竹ノ内街道沿いにあったものですが、西琳寺には立ち寄らずでした。 石川沿いの道に戻り、次に目指したのは源氏三代墓のある壷井の集落。途中に壷井八幡宮を示す表示板があったので、立ち寄ってみた。 <参考>壷井八幡宮公式サイト(壷井八幡宮・鳥居) なかなか立派な神社である。 多田源氏の源満仲の4男、源頼信は寛仁4年(1020年)に河内守に任ぜられ、この地に屋敷を構えた。河内源氏である。翌年に長子頼義誕生、河内源氏2代目となる。頼義の長男・八幡太郎義家、次男加茂次郎義綱、三男新羅三郎義光もこの地で生まれている。従って壷井は河内源氏発祥の地という訳である。 平安時代後期に起こった前九年の役で、頼義が鎮守府将軍陸奥守に任ぜられ、出征するに当って石清水八幡宮に戦勝を祈願。凱旋後、当地に石清水八幡宮の神霊を勧請して祀ったのが当神社の始まりという。(壷井の井戸) 前九年の役で干ばつのため飲料水が枯渇、全軍壊滅の危機に瀕した際に、頼義が八幡大菩薩に礼拝祈願し自ら弓矢で岩を穿った処、其処から清水が湧出、危機を脱した。凱旋帰京の際にその清水を壺に入れて持ち帰り、井戸を掘って、底にこの壺を埋め、壷井水と称したとのこと。その井戸がこれだという。(壷井八幡宮)(同上・本殿)(壷井権現社) 八幡宮本殿の西に隣接してあるのが、壷井権現社。 天仁2年(1109年)正月3日に父祖からの夢のお告げを受けて、義家の5男義時が社殿を建立して祀ったもので、頼信・頼義・義家を祭神としている。 当権現社は、河内・壷井宮とも称し、京都・六孫王社、摂津・多田社と併せて、世に源氏三社と言われているそうな。 境内の一角に句碑がありました。若菜つむ 河内源氏を まつる野に (青葙子)源平の いづれにもなき やかもちは 野の上行かむや 霞とともに (偐家持)(石垣青葙子句碑)(同上・副碑) この後、源氏三代墓に参りますが、本日はここまでとします。 (つづく)
2014.03.02
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(承前) 今日(3月1日)は、友人の偐山頭火氏と久々に銀輪散歩を共にして参りましたので、本来ならそのことを記事にしなくてはならないのですが、昨日の銀輪散歩の記事が途中になっていますので、先ずそれをアップしてしまうこととします。 前頁の記事は物部守屋の墓で終っていましたので、そこから出発ということとします。 物部守屋の墓から数十米西に行くと大聖勝軍寺というものものしい名の寺があります。聖徳太子開基にて、単に太子堂とも呼ばれる。聖徳太子と蘇我馬子が物部守屋との戦で四天王に必勝祈願し、勝たせてくれたら四天王のために寺塔を建てると誓ったことから、戦勝後に四天王寺とこの地のお堂(太子堂)が建てられたとされている。 太子町の叡福寺が「上の太子」、藤井寺市の野中寺が「中の太子」と呼ばれるのに対して、こちらは、「下の太子」と呼ばれる。当ブログにもこれで上中下の三太子が全て登場したことになる(笑)。<参考>大聖勝軍寺・Wikipedia 叡福寺「太子町銀輪散歩(その2)」 2010.3.1. 野中寺「銀輪万葉・藤井寺界隈」 2009.11.22. 日本書紀崇峻天皇即位前紀秋七月の条 是の時に、厩戸皇子、(略)誓を発(た)てて言(のたま)はく「今若し我をし て敵(あた)に勝たしめたまはば、必ず護世(ごせ)四王(しわう)の奉為(みため)に、寺塔(てら)を 起立( た)てむ」とのたまふ。蘇我馬子大臣(おほおみ)、又誓を発(た)てて言(い)はく、 「凡そ諸天王・大神王等(だいじんわうたち)、我を助け衛(まも)りて、利益(か)つことを獲(え)し めたまはば、願はくは当(まさ)に諸天と大神王との奉為(みため)に、寺塔(てら)を 起立(た)てて、三宝(さむぽう)を流通(つた)へむ」といふ。(大聖勝軍寺・太子堂)(同上・聖徳太子像)(同上・太子堂) 境内に一人の年配のご婦人が居られ、太子堂をスケッチされていました。(神妙椋樹)(同上説明碑) ご婦人がスケッチされていた場所の近くに、十七条の憲法の抜粋、第1条の「以和為和」と第4条の「以禮為本」が刻された碑がありました。(和を以って貴しと為す・の碑) スケッチのご婦人にはにこやかにご挨拶(和を以って貴しと為す)はすれど、スケッチをむやみに覗き込んだりはしない(礼を以って本と為す)ヤカモチでありました(笑)。(同上・東門)(同上・説明碑)<追記>偐万葉というコンセプトのブログであるのに、万葉集に出ている聖徳太子の歌を掲載しなかったのは迂闊でした。掲載制限字数にまだ余裕があるようなので、追記して置くこととします。上宮の聖徳太子、竹原井(たかはらのゐ)に出遊(いでま)しし時、龍田山(たつたやま)の死(みまか)りし人を見て悲傷(かなし)みて作りませる御歌1首家にあらば 妹が手まかむ 草枕 旅に臥(こや)せる この旅人(たびと)あはれ (聖徳太子 万葉集巻3-415)(注)竹原の井=河内国大縣郡高井田(現、柏原市高井田)のこと。
2014.03.01
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