全21件 (21件中 1-21件目)
1

PCの不調が続いて居り、いつご機嫌を損ねてフリーズするやも知れませんが、今のところ何とか回復して作動して居りますので、手早く記事をアップしてしまいます(笑)。 先日、飛鳥川などを久し振りに銀輪散歩して参りました。 飛鳥川自転車道は何度となく走っている道であるが、それでも新発見などがあるものです。その一つがこれ。八木札の辻交流館です。近鉄八木駅前の喫茶店で昼食を済ませて、横大路を東へとやって来ると、これがありました。(八木札の辻交流館) 古代からの道、下ツ道と横大路とが交差するこの場所にあった旧旅籠が、整備されて一昨年(平成24年)7月から無料で一般公開されているのでありました。江戸時代の旅籠の様子がよく分る建物で一見の価値があります。ボランティアでしょうか、女性の案内の方の説明も懇切明解でとても参考になりました。 偶々、大津から来られたというご夫婦と此処で行き合いましたが、ご案内の女性やこのご夫婦の方々との立ち話も、何やらご近所さんんと語らっているみたいな親近感が自ずと生まれて、なかなかいいものでした。(やぎまち・下ツ道 建物は河合源七郎家住宅) 下ツ道や横大路については、下記参考をご参照下さい。 <参考>大和の古道・Wikipedia(やぎまち・横大路) 横大路との交差点から、下ツ道を100m位北へ行った場所に芭蕉の句碑がある。今回こちらにやって来たのは飛鳥川べりを走る前にこの句碑を撮影しようとやって来たのでありました。すると八木札の辻交流館が目に入った次第にて、何やら得をした感じでした。(芭蕉句碑)草臥(くたびれ)て宿かる比(ころ)や藤の花 笈の小文(猿蓑・葛の松原) <参考>「笈の小文」では、本文「旅の具多きは道ざはりなりと物皆払捨たれども、夜の料にとかみこ壱つ、合羽やうの物、硯・筆・かみ・薬等、昼笥なんど物に包て後に背負たれば、いとゞすねよはく力なき身の、後ざまにひかふるやうにて道猶すゝまず。たゞ物うき事のみ多し。」に続いて上の句が置かれている。(同副碑) 飛鳥川自転車道に出てこれを南へと走る。(飛鳥川自転車道) おふさ観音の前辺りから500mほど飛鳥川沿いに上流へ行くと鷺栖神社というのがありました。この神社はこれまで立ち寄った記憶がないので覗いてみました。 すると、境内に人麻呂の万葉歌碑。ラッキーな遭遇であります。(鷺栖神社)(同上・本殿)(同上・由緒略記)(人麻呂・万葉歌碑)ひさかたの 天(あめ)知らしぬる 君ゆゑに 日月(ひつき)も知らず 恋ひわたるかも (柿本人麻呂 万葉集巻2-200) この歌は、高市皇子薨去を悼んで人麻呂が詠んだ長歌(巻2-199)の反歌2首のうちの一つである。クイズ風に言うなら、この人麻呂作の長歌が万葉集中最長の歌である。また、最短の歌は「春楊 葛山 發雲 立坐 妹念」(春柳 葛城山に たつ雲の 立ちてもゐても 妹をしぞ思ふ<巻11-2453 柿本人麻呂歌集>)である。(同副碑) 鷺栖神社を出て更に上流へ。人麻呂歌碑と来れば、雷丘の犬養万葉歌碑も見て行かねばなるまいと、雷丘に向かう。(雷丘<左>と甘橿丘<右>) 右からせり出している丘が甘橿丘。丘の頂きの2本の木が特長です。竹林を挟んで左端にある小さな丘が雷丘である。(雷丘)(人麻呂歌碑・背後は畝傍山) 飛鳥川を挟んで背後に遠く畝傍山が見えるが、この歌碑は雷丘の歌であるから、横から撮りましょう。(同上・後方は雷丘)大君は 神にしませば 天雲(あまぐも)の 雷(いかづち)の上(うへ)に いほらせるかも (柿本人麻呂 万葉集巻3-235)(雷丘頂上から香具山を望む。) 雷丘に登ったことがあったかどうか記憶があやふやなので、登ってみることに。南東角に細い登り道がある。頂上は直ぐであるが草茫々、木立に遮られて眺望はきかない。香具山方向だけ少し眺望が。 橿原神宮前駅まで来て、東口の案内板を見ると岡寺の駅の裏にも万葉歌碑があるよう。で、岡寺駅まで行ってみる。駅の裏には牟佐坐神社というのがありました。(近鉄吉野線・岡寺駅)(牟佐坐神社) 写真の正面石段の左に入った処に歌碑はありました。 石段を上ると拝殿。(同上・拝殿)(人麻呂歌碑) 歌碑の歌は人麻呂の泣血哀慟歌・巻2-207と巻2-210とある中の207番の歌の後半部である。全文引用したいのですが、長歌ですから、字数制限で無理のようです。コメント欄に記載して置きます。
2014.05.31
コメント(7)

本日は大学の同期会(夕々の会)で、心斎橋まで。 昨年の11月以来で半年ぶり・・と言っても、この会は年2回、5月と11月の最終金曜日に開催されることになっているので、必ず半年ぶりになるのでありますな。夕刻5時半の開会。小生は定刻ギリギリか1~2分の遅刻。会場には皆さん既にお揃いでありました。 今回は20名の出席と盛況。東京から西◎君が初参加で卒業以来の再会。彼は大病を患い、一時はもうこのまま・・と思ったりもしたようだが、幸いに元気に回復。で、この会のことを知り、懐かしい面々の顔を見たくなって、はるばるやって来たのだそうな。他の出席者は、守◎、谷◎、堀◎、岡◎、前◎、黒◎、佐◎、蝶◎、道◎、広◎、枦◎、深◎、小◎、出◎、油◎の各氏。 前回欠席の深◎、蝶◎、広◎、出◎君の近況報告や堀◎、岡◎、佐◎、古◎、油◎君のスピーチ、黒◎君からの7月19日の青雲会総会の案内などが続く中での食事、歓談の楽しいひとときでありました。小◎君は先般、小生と共通の友人である偐山頭火氏と吉備方面に旅行されたことでもあったので、その様子をお聞かせ戴きました。 ということで、掲載すべき写真もありませんので、下のようなものでお茶を濁して置くこととします。(会場の大成閣) 今回は5時半スタートといつもより30分早くの開会となったことや、初夏ということで日没も遅くなったこともあって、夕々の会なるもご覧のようにまだ明るい。 道頓堀通りから戎橋を渡って心斎橋筋に入る手前では「かにぼん」という見慣れぬゆるキャラが人を集めていました。6月22日が「かにの日」というのも初耳。(かにぼん) 心斎橋筋はいっぱいの人、人、人。 やたら中国語が聞こえて来ます。(心斎橋筋)道頓堀 水脈し絶えせず あるなれば この友垣も 尽きずあらなむ (偐家持)<参考>「夕々の会・2013.11.」
2014.05.30
コメント(6)

第142回智麻呂絵画展 久し振り(一カ月ぶり)に智麻呂絵画展開催であります。偐家持館長の怠慢で智麻呂絵画ファンの皆さまには長らくお待たせしてしまうことと相成りましたが、お赦し賜りたく。<参考>他の智麻呂絵画展は下記からどうぞ。 第1回展~第100回展 第101回展~第200回展 第201回展~ 絵画のみをご覧になられたい方は下記からどうぞ。 フォト蔵・智麻呂絵画集(すみれ) 先ず「すみれ」から。菫は春野の花。少し季節外れ、時じくとなってしまいましたが、ご容赦下さい。山吹の 咲きたる野辺の つぼすみれ この春の雨に 盛りなりけり (高田女王 万葉集巻8-1444) そして、次は智麻呂さんが一番お好きな花、菖蒲です。 (花菖蒲)(端午の節句) 上は柏餅の包装紙をスケッチされたもの。 下は、大阪の陣400年に合せて作られた「柏原名物・大阪の陣」という煎餅。偐山頭火さんの手土産です。 煎餅には葵と桐の紋があしらわれているのですが、煎餅に刻された図柄では不鮮明と言うか分りにくい。そんなことで、当初の絵は紋が正しく描けていない、と恒郎女さんが却下。「煎餅の図柄を間違っては偐山頭火さんからお叱りを食う」という訳です。 煎餅を食うのはいいが、お叱りを食うのは誰しも・・ということで、ヤカモチがひと肌脱ぎ、ネットから徳川・豊臣の家紋を拾い出し、これを拡大して印刷に打ち出し、智麻呂さんにお届けしました。これにて煎餅の図柄も正しく描けたという次第。(煎餅「大阪の陣」) で、ついでにということでもあったか、徳川・豊臣両家の家紋も次のように絵にされました。(徳川の葵の紋)(豊臣の桐の紋) 下の椿からイモカタバミまでの花の絵4点は当ブログ掲載のヤカモチ撮影の花の写真をモデルにして絵にされたものであります。ヤカモチとしては、イモカタバミの絵が一番気に入りました。(椿)(ハナミズキ)(オダマキ)(イモカタバミ) 下のカーネーションは智麻呂・恒郎女ご夫妻の一番下のお譲さまからの、母の日のプレゼントとして贈られたものだそうです。(母の日)(薔薇一輪) 上のバラはデイサービスで描かれたもの。恒郎女様へのプレゼントでしょうな。してその心はと言うと・・。 この薔薇の 一辧(ひとよ)のうちに 百千(ももち)なる 愛(あい)をぞこめむ わが心から (偐智麻呂) (本歌)この花の 一辧(ひとよ)のうちに 百種(ももくさ)の 言(こと)ぞ隠(こも)れる おほろかにすな (藤原広嗣 巻8-1456)(蕨) 上の蕨はご近所の玉◎さんからの戴きものです。智麻呂さんが絵をお描きになるということは、ご近所の皆さんもよくご存じですから、このように画材になりそうなものを折々にお持ち下さるのでしょうね。有難いことであります。(イカ・一夜干し) これはヤカモチ館長からの土産です。一夜漬けの ヤカモチにして この土産 イカはいかにも 一夜干しなり (偐烏賊持)(シクラメン) このシクラメンは・・と恒郎女さんが何やらエピソードをお話になりかかったものの、どういう邪魔が入ったのか記憶が定かではありませんが、別の話題に移ってしまって、聞き逃しました。素敵な絵ですから、エピソードを付す必要もないでしょう。(薔薇・カクテル) これは、カクテルという薔薇。智麻呂邸のご近所のナントカさんのお宅にこの薔薇がいっぱい咲いています。ヤカモチはそのお宅の場所は存じ上げて居ます。以前にもこの薔薇を絵にされていますが、その折に「現地取材?」を敢行いたしましたので(笑)。現地取材の薔薇の写真は下記の第34回展に掲載して居ます。 <参考>第34回智麻呂絵画展 2009.5.11. では、本日はここまでとします。 今回もご覧下さり有難うございました。
2014.05.29
コメント(10)

偐万葉・幸達篇(その1) 本日は久々に偐万葉です。 シリーズ第208弾、偐万葉・幸達篇(その1)であります。 幸達氏は偐万葉初登場です。咋年5月に当方から同氏ブログに訪問させて戴きコメントを差し上げて以来、時々訪問させて戴いて居りますが、同氏は、言わば「竹の魔術師」、竹を素材に様々な素晴らしい作品(バンブークラフト)を制作されています。 同氏ブログへのコメントに添えさせて戴いた歌もそこそこの数になったことでもあり、偐万葉にご登場戴くことと致しました。同氏の偐万葉風の勝手呼び名は「幸麻呂」とさせて戴きました。「さちまろ」「ゆきまろ」「さきまろ」など、どのように訓んで戴いてもいいのですが、万葉らしく訓むならば「さきまろ」でしょうか(笑)。 <参考>幸達氏のブログはコチラからどうぞ。 偐家持が幸麻呂に贈りて詠める歌16首ほか竹垣を 趣(おもむき)こらし 北庭に われたてつけし ひとも訪(と)ひ来よ (偐幸達)<たけがきを おもむきこらし きたにはに われたてつけし ひともとひこよ> (本歌) きくううと つちにまみれて さにはべに われたちくらす ひとなとひそね (会津八一) (竹垣)天井に 身は這はさるも われは竹 たけきたましひ うしなふまじや (竹麻呂)妄想と なりて果てぬる 六月(ろくがつ)の 孟宗竹は 折れて枯れ始(そ)む (偐竹麻呂)真打ちと 出でにし真竹 孟宗の 夢つながむと 告(の)りにけらしや (偐竹大夫) (タケノコ) (あとがまの真竹) 替え歌「蛍の光」 蛍の光 窓の雨 ひふみよいつ匹 飛び交ひつ まだしも梅雨は 明けずあり 継ぎてぞわれら 光り行く竹炭は さやにさやけし そのつやを いかにかわれは いかさふべしや (幸炭) (竹炭)おんでこの うつおとすなり くさぐさの うさをはらへと いふおとすなり (鬼家持) (鬼太鼓) (本歌)やすみしし わが大君の 朝(あした)には とり撫でたまひ 夕(ゆふべ)には いより 立たしし 御執(みと)らしの 梓弓(あづさゆみ)の なか弭(はず)の 音すなり 朝獵(あさかり)に 今立 たすらし 暮獵(ゆふかり)に 今立たすらし 御執(みと)らしの 梓弓の なか弭(はず)の 音すなり (中皇命(なかつすめらみこと) 万葉集巻1-3) (注)この歌は万葉集中最も古い歌とされる。ペガサスの 天駆けるごと あらたしき 年を君はも 駆け行くならむ 蝋梅の 花は含(ふふ)めり 朝寒(あさざむ)に 春の目覚めの いつとや待たむ (蝋梅)この爺(ぢい)に してこの孫や あるならむ 雪にし撓(しな)ふ 若竹のごと (爺麻呂)竹小町 いづく行くらむ 春の雪 ここだもふれる 笠かさましを (小野小雪) (注)ここだもふれる=盛んに降る。しきりに降る。沢山降る。 もしやとて 掻き分け見れば 蕗の薹 雪が下にも 春は来にける (大春蕗持(おほはるのふきもち)) (蕗の薹)貴人(うまひと)の 手練(てだ)れの琴や つまびけば 春は流れ来(く) わが黒髪に (琴郎女) (注)初案「その黒髪に」を「わが黒髪に」に修正。 モデルは茶髪ですが(笑)。 (琴姫)竹式部 竹野小町も 侍らせて のん兵衛をのこら 雛祭りせな (大酒呑人)これをしも みやびと言ふか 春盛り 二の句もつげず 酒つぐばかり (酒野好人) (男もすなる雛祭)竹の子は 切り捨て御免 夏の陣 今年も負けの いくさにあるか (豊臣竹頼) (アトリエに侵入の筍)たけと言へど 君が作りし 竹の髪 たかねど乱るる こともなきわれ (偐肥後郎女) (注)たく=「たくし上げる」の「たく」。髪を掻き上げること。 「たけ」で「髪を掻き上げなさい」の「たけ」と「竹」とを掛けて いる。 (新肥後髪姫)(脚注)掲載の写真は全て幸達氏のブログからの転載です。
2014.05.24
コメント(17)

一昨日(21日)の朝、起床した時、眩暈。目が回るような感じで体が大きく傾き倒れ込む。その後、座位から仰臥へ、或いは仰臥から座位へと姿勢を移すと、同じようなことが何度か発生。何やら体に浮遊感があって心もとない感じ。しかし、それもほんの一時のもので、起き上って普通に行動している段には何らの異常感もない。この日はナナでの万葉の会の日で、講師役を引き受けているので病院に行っている暇のないこともあって、翌22日に行ってみようということにして、喫茶ナナへとMTBで向かったのでありましたが、特に何ということもありませんでした。 しかし、床について寝ころんだ途端にまたしても体がぐるぐる回るような幻惑感。これはきっと三半規管に何らかの変状が生じているに違いないと、昨日(22日)午前中に病院に行って参りました。何やら水中眼鏡を大きくしたようなカメラ風の平衡機能検査器具を目に装着しての検査を受けましたが、三半規管の耳石の代謝がうまく行っていなくて、古い耳石の一部が吸収されず残って浮遊しているため、それが脳に誤った信号を送る結果、眩暈が生じるのだろう、という診断。 たしかに、その検査で頭を左下に傾けた時に大きな眩暈が生じました。右下に傾けた場合には異常はなし。帰宅して再実験してみようと、左耳を下にして暫く横になってから起き上ると部屋がグラグラ回り体の平衡が保てず自然に倒れ込んでしまう。右耳を下にした状態で起き上った場合にはそういうことは生じない。どうやら左の耳の三半規管の耳石が代謝不良になっているということのようだ。 古い耳石の残骸が吸収されてしまえば治る・・まあ、放って置いても時間が経てば治るということのよう。代謝を促進するためには耳石が浮かんでいる液を動かしてあげればいい・・ということは、「なるべく眩暈を起こすようにしたらいいのですね。」と小生が言うと、「まあ、そういうことになるが、安全な場所でやって下さいよ。」と先生。そうは言ったものの眩暈を起こさせると乗り物酔いをした時のような吐き気が軽く生じ、それが暫く続く。これを何度もすると間違いなく吐いてしまうだろう。とても出来そうもない(笑)。 そんな中でも病院への往復はMTBですから、こちらの方が「病気」かも知れませんですね(笑)。もっとも、頭の位置が左下に大きく傾く、ということがない限り、問題はないのであるから、自転車に乗るということに些かも危険性はないのであります。で、その道中に見付けた花が金宝樹の花。(キンポウジュ) この花はオーストラリア原産で、別名ブラシノキとも言うそうな。 <参考>ブラシノキ・Wikipedia(同上) この花を初めて見たのは2006年10月のしまなみ海道銀輪散歩の途中で、馬島という小さな島に立ち寄った時のことでした。その後、伊勢志摩銀輪散歩で大王崎から志摩市ともやま公園に行く途中かその帰途かで見たのが2度目でしたが、随分と身近にも咲いていました。 <参考>伊勢志摩銀輪散歩(その3) 2010.5.15.(同上) その名の通り、たしかに、ブラシのようです。接近して見ると、糸状の花が交互に並んで房となり、ブラシのようになっていることが分かる。一個一個の糸状の花を見ると、合歓の木の花に似ていなくもない。他に糸状の花と言えばアザミ、マユハケオモトなどが思い浮かびます。(同上) 合歓の花にしても、マユハケオモトにしても、そして、この花にしても、このような特異な形状となるについては、それなりの必然的な理由があったのであろうが、自然の造形、意匠は面白いと言うほかない。あつまりて 刷毛のごとにし 咲くからに ブラシノキとや 名付けけらしも (髪梳きの忌寸櫛麻呂) (本歌)直越( ただご)えの この道にして 押し照るや 難波(なには)の海と 名付けけらしも (神社忌寸老麻呂(かむこそのいみきおゆまろ) 万葉集巻6-977)老いたれば 耳の石さへ 神さびて めまひぐらりと 起こりけらしも (耳糞忌寸老麻呂)<参考>花関連の過去の記事は下記からどうぞ。 花(1)2007~2011 花(2)2011~
2014.05.23
コメント(11)

昨日(21日)は先月27日に続いて2回目のナナ万葉の会でした。 今回は、身近な万葉歌を、ということで、地元の生駒山に因む歌や弓削の川原の歌などを取り上げ、解説・鑑賞する傍ら、遣新羅使や防人のことなどを説明し、ついでに弓削ということで、弓削の道鏡の関連で孝謙(称徳)天皇誕生の経緯や仲麻呂の乱など長屋王の変から光仁天皇即位までの歴史の流れをざっと説明させていただきました。 出席者は、男性2名、女性8名の全10名。午後2時過ぎに開始、途中休憩を挟んで4時半頃に講話終了。質問などの雑談時間を持って5時頃に終了。その後、お時間の許す方はどうぞということで、参加者の中の一人の男性が自らの体験を通じての「神と神ながらの生き方」のお話を30分余されました。小生も拝聴させて戴く。全てが終って帰宅の途についたのは5時45分位になっていたでしょうか。勿論、往復の足はMTBです。(2014年5月21日の喫茶ナナ) 上の写真は、男性がお話しされている途中で、店に一般のお客様が二人入って来られた合い間を利用して、煙草休憩のため店の外に出て撮影したものです(笑)。 撮影を済ませて店内に戻ると、男性のお話が丁度終ろうとしている処でした。 さて、本日、取り上げた歌は下記の通りです。1.・・平城(なら)の京師(みやこ)は かきろひの 春にしなれば 春日山 三笠の野辺に 桜花 木(こ)の晩(くれ)隠(がく)り かほ鳥は 間なくしば鳴く 露霜の 秋去り来れば 射(い)駒(こま)山 飛火(とぶひ)が岳(をか)に 萩の枝(え)を しがらみ散らし さ雄鹿は 妻呼びとよむ 山見れば 山も見が欲し 里見れば 里も住みよし・・(巻6-1047)<・・奈良の都は、かぎろいの立つ春になると、春日山の三笠の野辺で、桜花の木陰に隠れてかお鳥が絶え間なく鳴く。露や霜の置く秋になると、生駒山の飛火が岡で、萩の枝を身にからませては散らしながら、牡鹿は妻を呼んで鳴き声を響かせる。山を見ると山は魅力的である。里を見ると里も住みよい様子である。・・>2.妹がりと 馬に鞍置きて 射駒(いこま)山 うち越え来れば もみち散りつつ (巻10-2201)<妻の許へと、馬に鞍を置いて、生駒山を越えて来ると、紅葉がしきりに散っている。>3.君があたり 見つつもをらむ 生駒山 雲なたなびき 雨はふるとも(巻12-3032)<あなたが居られる辺りを眺めながら過ごしましょう。生駒山には雲がかからないで欲しい。雨は降っても。>4.夕されば ひぐらし来鳴く 生駒山 越えてぞ吾(あ)が来る 妹が目を欲り (秦間満(はたのはしまろ) 巻15-3589)<夕方になるとひぐらしが来て鳴く生駒山を越えて私は大和に来ている。妻に逢いたくて。>5.妹にあはず あらば術(すべ)なみ 石根(いはね)ふむ 生駒の山を 越えてぞ吾(あ)が来る (巻15-3590)<妻に逢わずにいるとどうしようもなくたまらないので、岩のごつごつしている生駒山を越えて私はやって来たよ。>6.難波津(なにはと)を 漕ぎ出(で)て見れば 神(かむ)さぶる 生駒(いこま)高嶺(たかね)に 雲そたなびく(大田部三成(おほたべのみなり) 巻20-4380)<難波津を船で漕ぎ出て見やると、神々し生駒の高嶺に雲がたなびいている。>7.おし照る 難波を過ぎて うちなびく 草香の山を 夕暮に わが越え来れば 山も狭(せ)に 咲けるあしびの 悪(あ)しからぬ 君をいつしか 往きてはや見む(巻8-1428)<押し照る難波を通り過ぎて、うちなびく草ではないが、その草香山を夕方にわたしが越えて来ると、山を狭しと咲いているあしびの花よ。そのあしびのように素敵なあの方のもとに行って早くお逢いしたいものです。>8.難波潟(なにはがた) 潮干(しほひ)のなごり 委曲(つばら)に見む 家なる妹が 待ち問はむため(神社忌寸老麻呂(かむこそのいみきおゆまろ) 巻6-976)<難波潟の潮の引いたあとの様子をよく見て置こう。家に居る妻が私の帰りを待っていて尋ねるだろうから。>9.直越(ただご)えの この道にして 押し照るや 難波(なには)の海と 名付けけらしも(同上 巻6-977)<この日下の直越えの道だからこそ、昔の人は「押し照るや難波の海」と名付けたらしいよ。>10.真鉋(まがな)持ち 弓削(ゆげ)の川原の 埋(うも)れ木の あらはるましじき ことにあらなくに(巻7-1385)<ま鉋を持って弓を削る、その弓削ではないが、弓削の川原の埋もれ木が現れないということがないように、われわれの仲もやがては人に知られてしまうことでしょう。>11.家にあらば 妹が手まかむ 草まくら 旅に臥(こや)せる この旅人(たびと)あはれ(巻3-415)<家であったら妻の手を枕にするだろうに、草を枕の旅先で倒れ臥しておられるこの旅人はお気の毒なことである。>12.級(しな)照る 片足羽河(かたしはがは)の さ丹(に)塗りの 大橋の上ゆ 紅(くれなゐ)の 赤裳すそびき 山あゐもち すれる衣(きぬ)着て ただひとり い渡らす兒は 若草の 夫(つま)かあるらむ かしの実の ひとりか寐(ぬ)らむ 問はまくの ほしき我妹(わぎも)が 家の知らなく (高橋虫麻呂 巻9-1742)<級照る片足羽河の赤く塗った大橋の上を、紅の赤裳の裾を引いて山藍で摺り染めにした衣を着て、たった一人で渡っている、あの娘は、若草のような夫がいるのだろうか。それとも樫の実のように一人で寝ているのだろうか。尋ねてみたいと思うあの娘の家が何処なのか知らないことだ。> 反歌大橋の 頭(つめ)に家あらば うらがなしく ひとりゆく兒に 宿かさましを(同上 巻9-1743)<大橋のたもとに私の家があったなら、もの悲しい様子で一人行くあの娘を泊めてあげたいものである。>13.明日香川 もみち葉ながる 葛城(かづらき)の 山の木葉(このは)は 今し散るらし(巻10-2210)<飛鳥川に黄葉が流れている。葛城山の木々の葉が今まさに散っているらしい。>14.この里は 継ぎて霜や置く 夏の野に わが見し草は もみちたりけり (孝謙天皇 巻19-4268)<この里はいつも霜が降りるのでしょうか。夏野で目にした澤蘭(さはあららぎ)(ヒヨドリグサのこと)は色づいていました。> なお、次回3回目は6月18日午後2時からです。参加はどなたでもご自由です。ご希望のお方はどうぞ当日直接、喫茶ナナまでお越し下さいませ。<参考>「cafe de nanaでの万葉の集い」2014.4.27.
2014.05.22
コメント(4)

(承前) 龍潭寺を後にして落合橋まで下る。落合橋から都田川と井伊谷川の合流点を撮影。 昼食の出来る場所はと探すが見当たらない。(都田川<右>と井伊谷川<左>との合流点)(気賀駅) 気賀駅前まで来ると駅舎の中に中華のお店。此処で昼食とする。昼食後、自転車を宅配便で自宅へ送るべく、コンビニなど宅配を取り次いでくれる処が近くにあるか尋ねると、店のご主人から落合橋を渡った先にヤマト運輸の配送センターがあると教えて戴く。 上の1枚目の写真が落合橋の中ほどで撮ったもの。渡らずに中間で引き返して来たのであったが、どうやら、渡りかかった橋は渡りなさい、ということのようだ(笑)。 ヤマト運輸で自転車のトレンクル君を送る手配を済ませて、徒歩にてブラブラと駅方向に引き返す。橋の手前、ガソリンスタンドの前の辻に刑部城址の説明標識のあることに気が付く。標識越しに目に入ったのは下の山。これが城跡の山かと撮影したが、実際の城跡は背後にあったのでした。浜松ならぬお粗末(笑)。(刑部城跡かと撮影したが城跡は背後にあったようだから、これは西隣の山。)(刑部城址説明板) この説明板の設置位置が不適切で誤解のもと。文章をよく読めば間違うこともなかったのではあるが、説明板の向きがよくない。向きを反対にすればこのような誤解も生まれない。自分の迂闊を棚に上げて八つ当たり。ということで、刑部城跡が紹介されているサイトを下に貼り付けて置きます。下のサイトに掲載されている地図(下記引用掲載)によると、上の山の前で姫街道は城址を囲むように廻っている(当時は橋はなく落合橋の向こう側と城跡の北側とを都田川の渡しが繋いでいたようですが)から、この山も城と一体的なもので、城の一部であったかも知れない。 <参考>浜松市北区細江町刑部城跡と堀川城跡 落合橋を渡って、天龍浜名湖鉄道のガード下を潜り、国道362号線の交差点角にあったのが気賀関跡の碑。関屋の一部が残っているとのことだが、これがなかなか分からない。この碑の直ぐ裏の、人一人がやっと通れる位の細い路地を入った処がそれでした。(気賀関跡) この看板の向こう側の狭い路地を入った処から見たのが下の写真。この屋根の部分が関屋跡と言う訳ですかな。いやはや何とも。(気賀関屋) 駅前に戻って来ると13時50分。新所原方面行きは14時18分発。まだ時間はある。駅のホームの木造上屋は珍しいらしく、市の文化財か何かに指定されているよう。確かにいい風情である。手前にコスモスのような少し背の高い花が咲いていると景色としてのおさまりがいいのだが、その季節ではない。(気賀駅ホーム上屋)(同上) 電車が来るまでの間、今回の旅で撮ったマンホールを並べて置くことと致しましょう。 (細江町<気賀地区>) (同<中川地区>)(三ケ日町) 新所原到着15時2分。15時7分発の電車に乗るべく隣のJR新所原駅へと移動するが、改札前に人の群れ。電光掲示板には「強風のため運転を見合わせています」という文字が流れている。いつ回復するのかは風任せにて不明。 駅前にはタクシーの姿もなく、打つ手なし。仕方なく駅前のリスボンとかいう名の喫茶店に入って様子を見ることとする。 喫茶店に入ると登山靴にザックの女性が先客で一人。「まだ動きませんか。」と仰るので、「ええ、そのようです。」と彼女の後の席に座る。「もう長く動いていないのですか。僕は先程こちらに来たばかりなので・・」と言うと「私もそうです。同じ電車でしたよ。」と仰る。何のことは無い、彼女の方がいち早く適切な待ち方を選択して居られたのでありました。珈琲を飲みながら断片的に交わした言葉から彼女は名古屋から来られたことや、この辺りはよく強風でこういうことがあるのだというようなことを知る。 そうこうしているうちに店内は電車待ちの人でいっぱいになる。リスボンと言えば、ポルトガルの女性と結婚してリスボン郊外かに住んでいる筈の大学同期の光◎君は元気にしているのだろうか、などと徒然なるままに思ったりも(笑)。(天竜浜名湖鉄道・新所原駅) 今回は14、15日と妻と一緒に銀輪散歩したものであるが、最終日の今日は東都筑駅で別れて妻は豊橋へ。それぞれ別行動。小生一人の銀輪散歩となり、妻とは豊橋で落ち合って帰るということになっていたのだが、これではいつになったら豊橋へ行けるのか分からない。 タクシー乗り場が見える位置に席を取っていたが、1台のタクシーがやっと現れて、サラリーマン風の背広姿の男性がそれに乗った。次のタクシーに乗ろうと勘定を済ませて待っていると車が来た。店を飛び出し、それを確保。豊橋へと向かいました。 走り出してから、名古屋まで帰るという店で出会った女性も豊橋まで同乗させてあげればよかった、と気付くがアトの祭。(JR新所原駅) 16時10分頃に豊橋駅前に到着。予定していた16時22分発のこだまにて、京都17時44分着で無事帰って来れました。小生が豊橋駅に着いた頃には東海道線も運転を再開したようで、名古屋の先程の女性も無事帰宅の途につけたことでしょう。 以上にて奥浜名湖銀輪散歩、完結であります。ながらくお付き合い下さったことに感謝申し上げます。<完>
2014.05.21
コメント(4)

(承前) 漸くに細江公園の展望台に到着しました。(細江公園展望台) 引佐細江が一望です。暫し眺めをお楽しみ下さい。(展望台からの眺め・細江湖西岸方向、中央手前の建物は細江中学校) 奥に東名高速の浜名湖橋が見え、その向こうに浜名湖本体が広がっている。細江中学の右に延びている道が国道362号。それと並行してその左に見える緑の帯のような一筋の線が天竜浜名湖線である。中央奥に見える川が葭本川。葭本川河口の左に見える建物群は本田技研の細江工場である。(同上・細江湖東岸方向、都田川) 左の川が都田川。河口の橋が細江大橋。赤い橋の名は不明。右下に細江中学の校庭の端っこが写っている。中央下部の沈んだ茶色のビルが細江警察署。左下に赤い瓦屋根が見えるが、それが気賀駅。(同上・都田川<奥>と井伊谷川<手前>の合流地点) 展望台から下りて来ると奥から男性一人女性二人の三人連れが来られる。万葉歌碑の在り処を尋ねるがご存じではなかった。三人連れが来られた展望台の右奥へと行ってみたがレクレーション広場という標識が立っていて下り道になっている。山の上にあるというから下る筈がない。反対側の左に行く。少し回り込んだ上り道。ありました。(万葉歌碑)遠江(とほつあふみ) 引佐(いなさ)細江(ほそえ)の 澪標(みをつくし) 吾(あれ)を頼めて あさましものを(万葉集巻14-3429)遠江 引佐細江の 歌碑見むと 石根の道を 踏みつつぞ来し (偐家持)(与謝野晶子歌碑) 色んな歌碑や句碑がある中で目を惹いたのは与謝野晶子の歌碑。名を聞きて 王朝の貴女 ときめきし 引佐細江も 氣賀の町裏 (与謝野晶子)<参考>昭和11年7月この地を旅した晶子はこの地の歌を多く作っている。 井伊谷川 都田川の 落合の 口より引佐 細江はじまる さわやかに 水はるかなり 遠江 濱名の湖の 夏の夕ぐれ 綱をもて 束ねられたる ここちして 岩の悲しき 舘山寺崎 大空の 銀河も引佐 細江をも 入れんばかりに 長き室かな 内浦を 大草山の 蟲の音の 渡り来るかな 月の上れば(細江公園の文学の森) (気賀監視哨跡の碑) 細江公園山上からの帰途は舗装道路を一気に走り下る。 細江神社の裏手から左に入り、国道362号に出る。井伊谷川沿いに上流へ、龍潭寺に向かう。昨年秋の若草読書会の彦根旅行で彦根の龍潭寺に立ち寄ったが、その折にこちらの龍潭寺のことを知ったのでそのうちに訪ねてみようと思っていたのでした。 <参考>彦根銀輪散歩(その1)2013.8.15. (清水橋の道標) 国道は清水橋で井伊谷川を渡って東へと行くが、龍潭寺への道は清水橋を渡らず県道320号を北へ、川沿いに上流へと行く。清水橋のたもとに明治時代のものという道標が残されていました。 以下、字数制限の関係でコメントは省略。写真にある説明をお読み下さい。(同上説明碑)(清水橋・上流側から)(井伊谷川)(疣観音)(同上説明板)(同上・いぼ観音と「はたごの池」) 疣観音を過ぎて1km余で龍潭寺である。(龍潭寺)(同上説明板・龍潭寺)(同上・「井の国と井伊氏発祥の地」)(龍潭寺本堂)(井伊家霊廟)(井伊家のお籠)(庭園) 本堂をひと廻りして、自転車を駐輪させて戴いたお堂の前に戻ると見慣れぬ花がありました。何処かで見た花・・で思い出しました。生駒の霊山寺に咲いていたカルミアでした。 <参考>銀輪花暦2009.5.26.(カルミアの蕾) 本日はここまでとします。(つづく)
2014.05.20
コメント(2)

(承前) 奥浜名湖銀輪散歩3日目(16日)の日記になります。 ホテルを出て、東都筑駅から西気賀まで電車で移動し、西気賀駅からの銀輪散歩とします。 電車(気動車)がやって来ました。9時58分発です。無人駅ですが、写真のお方は、この線の何処かで保線工事をして居り、その工事作業員の安全確保のため、各駅に人を配し、無線で電車の通過を知らせ合っているのであります。(天竜浜名湖鉄道・東都筑駅) 浜名湖佐久米・寸座・西気賀ですから3つ目の駅で下車。前日に走った道を車窓から眺めたりしながらの短い鉄道の旅であります。ブログ的にはこういうのもアクセントになっていいのでは(笑)と思ったりも。(同上・寸座駅) 西気賀駅の写真は(その4)に掲載していますので省略しますが、10時5分着。わずか7分の乗車でした。駅舎内で自転車を組み立てていると同じ自転車族の男性二人が駅舎内に。彼らはクロスバイク。都筑、三ケ日の方へと走って行ったので小生とは反対方向。小生は西気賀小学校の前を通って東へ。 小学校手前の横断歩道の下に「旧姫街道」の標識。国道362号は旧姫街道と一部で重なっているようです。昨日(15日)はこの先で自転車道に入ったのであるが、今日はそのまま国道を行く。(旧姫街道の標識) 昨日お弁当を買ったコンビニ「サークルK」の前の交差点で国道は左に直角に折れているのだが、小生は直進し、小森川に出る。この川沿いに北上し国道362号がこの川を渡る小森橋の手前の川辺に万葉歌碑がある筈と見てのコース取りである。 小森川と葭本川の合流点まで川沿いに下ってから、小森川を遡上することとする。前日までと違って今日は晴れ渡っているので空の色を映して川面も青く見える。(葭本川<右・奥>と小森川<左・手前>との合流点) 歌碑は直ぐに見つかりました。(小森橋<国道362号>南側の万葉歌碑)霰降り 遠江(とほつあふみ)の 吾跡川楊(あとかはやなぎ) 刈れども またも生ふといふ 吾跡川楊(万葉集巻7-1293)<霰の降る音のトホ、そのトホではないが、遠江の吾跡川の楊よ。刈ってもすぐにまた生えて来るという吾跡川の楊よ。>(注)霰降り=霰の降る音をトホトホと聞いて枕詞にしたという。 「鹿島」に係る例(霰が降ると「かしましい」から。) あられふり鹿島の崎を波高み過ぎてや行かむ恋(こほ)しきものを(7-1174) 「吉志美」に係る例(降る音をキシキシと聞いたから) あられ降り吉志美(きしみ)が岳(たけ)を険(さが)しみと草取りはなち妹が手を取る(3-385) (注)吉志美が岳=吉野の山の一峰と見られるが不詳。(左注に作者が 吉野の人うましね<味稲>とあることから) 「遠津」に係る例 霰降り遠津大浦に寄する波よしも寄すとも憎くあらなくに(11-2729) (注)大浦=湖北の大浦とするのが多数説。 霰降り~寄する波=「よし」を導くための序詞。 吾跡川=浜松市北区細江町の跡川説。 細江町下気賀説(都田川と井伊谷川が合流する辺り) 小森橋付近説 浜名川説(角避から遠州灘に斜めに開削された水路。松山と大倉戸 の中間位に旧河口があったと推定されている。) 楊=ネコヤナギ。川やなぎ。再生しやすい植物の代表的なものとされる。 やなぎこそ伐れば生えすれ世の人の 恋に死なむをいかにせよとそ(14-3491)(同上) 右側の石柱には「吾跡川楊之古跡是ヨリ南壱町拾五間」とあるので、130~40mほど川沿いに引き返してみたが、それらしきものはない。天竜浜名湖線の手前に東屋のようなものがあり、距離的にはその辺りかと思われたが特に目に付く表示もなく、古跡なるものの位置は不明のまま、先へと進む。 小森橋を渡って国道362号を東へ。葭本川に架かる葭本橋を渡る。(葭本橋<国道362号>から葭本川下流を望む。)(同上・葭本川上流を望む。) 葭本川沿いにいい道があるので、それを行くことに。上の写真の右に見える白いフェンスの道である。国道362号と並走しているようなので、迷うことはあるまい。やがて道は細江中学の前で、カーブして来た国道と交差する。再び国道を行く。 間もなく目を引く建物が目に入る。本陣前公園とある。建物の奥の小さな公園では大勢の幼稚園児達が先生に引率されて遊びに来ていました。 姫街道の気賀宿本陣がこの付近にあったのでしょう。(本陣前公園)(本陣前公園周辺図) (本陣前公園脇の馬頭観音)(細江神社) 目指すのは細江公園山上の万葉歌碑であるが、その登山口はこの神社の裏手にあるので、立ち寄って行くこととする。(同上・拝殿)(同上由緒)(藺草神社) 細江神社拝殿の右隣にあるのが藺草神社という珍しい神社。その由緒などもなかなかに面白い話です(下掲参照)。(同上・由緒) 細江神社の裏手から細江公園への登り口がある。ハイキングコースとあるから自転車を連れて登る変人は吾輩位なものか。広い舗装道路を行くのが正しい選択なんだろうが、「近道ハイキングコース」とあり、「近道」とあっては抗えない。しかし、これは失敗であったよう。階段の多い道にて自転車には不都合極まるもの。急がば回れ、という古人の言を思い出すべきでありました。(細江公園展望台への近道ハイキングコース) ということで、本日はここまで。(つづく)
2014.05.19
コメント(0)

(承前) 昼食を済ませて、湾(内浦)を廻るようにして館山寺へと向かう。タイトルは見落としましたがこんな少女の像もありました。(少女の像) そして、こんな歌碑も。歌手の三沢あけみの名は記憶にあるが「誘われて浜松」という歌は知らない。と言うか、三沢あけみの歌で思い出すものは何もないのであるから、何も浜松に限ったことではないのである。浜松の歌、と言えば「磐代の浜松が枝を引き結び・・」の有間皇子の歌が思い浮かぶばかりとあっては「お粗末」と言う他ない。(「誘われて浜松」の歌碑) 遊園地の方に向かうと浮見堂が目に入る。遊園地を左に見つつ浮見堂に向かう。遊園地は休業日なのか人影が皆無である。頭上をロープウェイのゴンドラがゆっくりと通り過ぎて行く。(浮見堂)(浮見堂・寒山寺の鐘のレプリカ) 浮見堂には、中国蘇州から贈られたという寒山寺の鐘のレプリカが展示されている。 寒山寺の鐘と言えば、張継の詩「楓橋夜泊」に詠まれて有名な鐘。 <参考> 「楓橋夜泊」 張継 月落烏啼霜満天 月落ち烏啼きて霜(しも)天に満つ 江楓漁火対愁眠 江楓漁火(こうふうぎょか)愁眠に対す 姑蘇城外寒山寺 姑蘇(こそ)城外の寒山寺 夜半鐘聲到客船 夜半(やはん)の鐘声客船(かくせん)に到る ヤカモチも1首追和仕り候。 さ夜更けて 鐘の音(と)到る 草枕 旅の仮寐(かりね)に かすむ漁火(いさりび) (偐家持)(館山寺) 寒山寺ならぬ館山寺が見えている。本堂の上の木立から突き出て見えているのは観音様か。水辺伝いに銀輪を走らせる。(愛宕神社鳥居) 参道の正面に見えて来るのは愛宕神社の鳥居。右隣に館山寺の参道があるが、境内は繋がっていて一体なので、どちらから上っても同じである。(館山寺参道)(館山寺本堂)(「楓橋夜泊」詩碑) 本堂前には、寒山寺境内に建っている張継の「楓橋夜泊」の詩碑を復刻したものがある。当館山寺と蘇州寒山寺との友好記念に建てられたものだそうな。(同上説明板)(愛宕神社社殿)(同上由緒) 愛宕神社の社殿の脇の石段を登って行くと「穴大師」なるものがある。横穴式古墳の玄室を利用したもの。奥に祀られているのは、弘法大師自作の石仏だそうだが、よくは分らない。(館山寺・穴大師)(同上説明板) 更に登ると丘のほぼ頂上のような場所に小さな池がある。水は殆ど枯れているが、雨が降れば池らしくなるのであろう。 (天辺池) 更に少し行くと北西の岩肌に展望デッキが設けられている。眺望が素晴らしい。東名高速の浜名湖橋が指呼の間に見える。やって来た道がこのように見えるというのは感慨のあるもの。正面が東名浜名湖SA。写真左からやって来て、SAの向こう側の道を浜名湖橋手前奥の寸座ビラマリーナまで進み、そこから奥の引佐細江をぐるり廻って・・と行程を返り見ているのでありましたが、それはこの後、再び走らなければならないコースなのでもありました。(館山寺の展望台からの眺望) (聖観音像) 浮見堂の辺りから頭部だけ見えていた観音様にもご挨拶をして行くことに。 観音様の近くの鐘楼の鐘には西行と白秋の歌が刻まれていたようだが、それと知らぬままに立ち去りにけり、でありました。 館山の 巌の松の 苔筵 都なりせば 君も来て見む(西行)館山寺 松山隠し 湖を来て ここは小春の 入江さざなみ(北原白秋) 下山して、いよいよ帰途に。県道320号を行く。来た道である。この県道は動物園の前で左折し、そこから300m程先の分岐で右にカーブしている。来た道は右にカーブするこの県道ではなく直進する方の道であったのだが、うっかり道なりに進んでしまう。ややあって、間違いに気付いたが、引佐細江へと至る道であることを示す標識もあったので、道に任せて進むことに。東名高速を潜る前後からかなりの坂にて結構足に来る。後で地図を見ると「天神山」の横の峠越えの道であったよう。道理でそれを過ぎた後の急坂の下りは軽快爽快。 伊奈集会所の先で、見覚えのある自転車道への入口に出て、後は来た道をなぞるだけとなりました。(つづく)
2014.05.18
コメント(0)

(承前) センダン(楝・あふち)の花にお別れして国道362号を行く。 湖畔に花もいいが、棚無し小舟も亦よろしい。漕ぎたみ行けるもよし、もやひてあるも亦よしであります。モーターが付いているのは見なかったことにしよう(笑)。(浜名湖と小舟) 国道362号と天竜浜名湖鉄道の線路が接近して走る辺りに句碑がありました。柳園成佳という、この地域出身の俳人の句碑でありましたが、存じ上げぬお名前にて候。(柳園成佳句碑)(同上)ややあって 放つ光や 今日の月 (柳園成佳)(同上)(句碑前の細江湖<浜名湖>、引佐細江) 句碑から500m位行くと西気賀駅である。国道から少し奥まった場所にある。(西気賀駅) 駅を過ぎて直ぐ右側にあるのが西気賀小学校。此処に「引佐細江のみをつくし」の万葉歌碑があるので拝見させて戴くことに。通用門を入って行くと男性が出て来られて、歌碑の件を申し上げると職員室に行って先生の許可を得るようにとのお話。職員室の場所を教えて戴き、建物の中に入ろうとしていると、先程の男性が来られて、職員室に行き小生の用件を取り次いで下さいました。女性の先生が出て来られて「どうぞ」とお許しを戴く。歌碑は校庭の南東片隅、湖を背に建っていました。(西気賀小学校校庭の万葉歌碑)遠江(とほつあふみ) 引佐(いなさ)細江(ほそえ)の みをつくし 吾(あれ)をたのめて あさましものを (万葉集巻14-3429)<遠江の引佐細江のみをつくしは頼みになるものだが、そのみをつくしのように私を頼みにさせて置いて、きっと浅いお心であったのでしょう。> (注)遠江~みをつくし=「たのめて」を導くための序詞と考えられる。 この歌は小学生にはちと難し過ぎる気がしますが、意味は分からずとも先ず覚えてしまいなさい、ということでしょうか。やがて意味は分かるようになる。こういうのも教育の一つの在り方ではあります。 西気賀小学校から300m足らずで再び自転車道である。(浜名湖周遊自転車道・西気賀付近) 引佐細江を眺めつつの快適な走行です。湖面からの心地良い風に吹かれて、風と共に行く銀輪引佐細江の旅であります。どの辺りであったか、大きな澪標が湖面に立てられていましたが、撮影するのを失念しました。(同上・本田技研細江工場付近) そして、またしても句碑です。今回は室町末期の連歌師・里村紹巴の句ですが、これも初めて目にする名前と句です。句碑裏面の説明文をご参照下さい。 (里村紹巴句碑)夏をとへば 引佐細江や 秋の声 (里村紹巴)(浜名湖周遊自転車道)(同上) 都田川に出る。みやこだ川と読む。細江大橋を渡る。 上流に見える赤い橋の先で川は右に曲がり、その上流にある落合橋の先で井伊谷川が流れ込んでいる。彦根の井伊家は、この井伊谷川を遡った井伊谷の出にて、井伊家菩提寺である龍潭寺も井伊谷の地にある。彦根の龍潭寺は、関ヶ原の合戦で功のあった直政に彦根の地が与えられた後に、こちらから招聘して建立されたものであるから、こちらの龍潭寺が本家ということになる。 龍潭寺訪問は明日(16日)のこととし、今日(15日)は湖岸の道をそのまま直進である。(都田川)(細江大橋)(細江のマリーナ) 名前は見落としたがマリーナを過ぎて、岬を回ると東名高速の浜名湖橋はもう近い。しかし、呉松町の岬を回った先で道は山中に入って行くが、この辺りのサインが不十分でどれが自転車道なのかよく分らない。迷路のようになっているが、方向さえ間違わなければどの道をとっても館山寺へと抜ける道に出る。とは言え、山中では方向感覚も怪しくなる。要は東名高速の下を潜って反対側に出て、坂を上り、下る、これを忘れないことです。 小生の場合は、最初の四ツ角で、山菜・筍採りの男性がたまたま居られて、その方に道を教えて戴けたので事なきを得ました。 動物園前の芝生広場に出ました。時刻はほぼ12時。あちらこちらで寄り道した割には早く着いた。湖岸の自転車道では、食堂もあるまいと途中で自転車道を外れて、国道沿いのコンビニでお弁当を買ったのであったが、このような時刻に着くのであれば、その必要がなかったのでした。 とにもかくにもと、芝生広場で館山寺の遊園地やロープウェイを眺めながらお弁当タイムと致しました。(館山寺遠望)(同上) 写真右寄りに館山寺のお堂が見えている。昼食後そこまで走り引き返すということにする。(同上) しかし、字数制限です。続きは明日ということで。(つづく)
2014.05.17
コメント(6)

(承前) 銀輪散歩2日目。朝9時少し前にホテルを出発。東都筑駅前に出て其処から南へ入り浜名湖岸の道に出ることとする。自転車道を忠実に辿るなら瀬戸を回るべきなのであるが、前日に瀬戸まで走っているので、ショートカットで浜名湖岸に出ることとする。(かんぽの宿浜名湖三ケ日) ホテルの前の道路脇の木はエゴノキでした(上の写真の両サイドの木)。こちらのエゴノキは見慣れた白い花でしたが、やはり白い花の方が小生の好みに合っているようです。 ホテルの前の道を上り、突き当りを右に行くと浜交マリーナに出るが左に行って東都筑駅の手前で国道301号に出る。国道を150mほど下ると東都筑駅である。駅と言っても無人駅で、駅前には喫茶店が1軒と自動販売機があるのみ。自動販売機でお茶を買っていると電車(正確にはディーゼル車であるが)がやって来た。(天龍浜名湖鉄道・東都筑駅)(駅前の公衆便所) 静岡はお茶と蜜柑。此処は蜜柑の便所ですな。一瞬カボチャかと思いましたが、静岡県ということで、蜜柑だと思い到りました。 電車を見送ってから出発。駅前で301号から南へ入る道を行く。500m位で湖岸である。下の写真で言うと松の木の向こうのミラー設置ポールの辺りで湖岸に出たので、写真左後方の岬を向こうに回り込んだ処が瀬戸であるから、概ね7~8kmはショートカットしたことになる。(浜名湖) 浜に降りて、浜名湖を撮影です。右が西。正面が南。左が東。(浜名湖・西方向)(同上・南方向)(同上・東方向) 東に向かうが、松の木の近くでヘビの死骸に出会ったので、それをご紹介です。こんな模様のヘビは余り見掛けませんが、何と言うヘビでしょう。それにしても蛇の屍によく出会う。裏磐梯の銀輪散歩でも出会ったかと記憶するが・・。(ヘビの死骸)巣にあらば とぐろも巻かむ 草まくら 旅にもつれて 臥せる蛇あはれ (蛇徳太子) (本歌)家にあらば 妹が手まかむ 草まくら 旅に臥(こや)せる この旅人(たびと)あはれ (聖徳太子 万葉集巻3-415) 湖岸に沿って東へ進むとやがて道は左へ大きくカーブし、グリーンプラザ浜名湖というホテルと松林の前を通り過ぎる。松林の中に石碑がありました。何かと立ち寄ると「聖上陛下御上陸地」とか何とかの文字が刻まれていました。戦前の何れかの時期(多分昭和の初期)に、昭和天皇が船で当地まで来られ、ここで下船・上陸されたということであるのでしょう。 踏切を渡り、東名高速の高架下を潜って、国道362号に出、右折すると浜名湖佐久米駅である。此処のトイレは蜜柑ではなく乳牛でした。(浜名湖佐久米駅) 駅の向かい側の高みに寺院があったのでちょっと立ち寄る。(石雲禅寺) 5~600mほど国道を走り、右脇道に入り、踏切を渡ると、緩やかな上りとなり、東名高速の浜名湖SAの前に出る。(東名高速浜名湖SA付近から館山寺方面を望む。) 今日は館山寺まで行って帰って来るという計画であるが、浜名湖SA付近から南方向を眺めると館山寺にある観覧車がすぐ其処に見える。東名高速の浜名湖橋を自転車で渡れるなら30分もあれば館山寺に着けることでしょうが、湖岸の道はその館山寺を背にし、寸座ビラマリーナを右に見て、細江湖をぐるり一周の道とへ入って行くので未だ先は長い。(東名高速浜名湖SA付近から東方向を望む。)(寸座ビラマリーナ。後方は東名高速「浜名湖橋」) 湖岸の道は寸座駅の裏を過ぎた処から急な上りとなり、天龍浜名湖鉄道のガード下脇で再び国道362号と合流する。国道を走るのは味気なしであるが、センダンの花が目を楽しませてくれる。(浜名湖とセンダンの花) センダンも万葉植物である。万葉では「楝・あふち」である。妹が見し あふちの花は ちりぬべし わが泣く涙 いまだ干(ひ)なくに(山上憶良 万葉集巻5-798)珠に貫(ぬ)く 楝(あふち)を家に 植ゑたらば 山ほととぎす 離(か)れず来むかも(大伴書持 同巻17-3910)ほととぎす 楝の枝に 行きて居(ゐ)ば 花は散らむな 珠と見るまで(大伴家持 同巻17-3913) 大伴書持(ふみもち)は家持の弟である。家持が越中守であった時に、若くして亡くなっている。(センダン) 万葉植物が登場し、何とか銀輪万葉の記事らしくもなりましたので、字数制限もありますれば、今日はここまでとします。(つづく)
2014.05.16
コメント(4)

(承前) 三ケ日から再び自転車道に入り、来た道を引き返し、浜名湖と繋がっている猪鼻瀬戸へと向かう。奥浜名湖駅の先の下尾奈から瀬戸までの距離は猪鼻湖一周の4分3位になるから、これを往復した形となるので、距離としては猪鼻湖を一周半したのと同じ位になるでしょうか。一周10km余の小さな湖なので、途中の山登りや迷い道の走行分を加えても大した距離にはならない。半日の銀輪散歩としては程良いものでありました。(猪鼻湖・アカメガシワ) 湖畔にはアカメガシワがよく目につきました。 これは万葉歌にいう「久木」とされている。波の間ゆ 見ゆる小島の 浜久木 久しくなりぬ 君にあはずして (万葉集巻11-2753)という歌なども思い出させる景色であるが、「久木」で有名なのは下の歌でしょうか。ぬばたまの 夜のふけぬれば 久木生ふる 清き河原に 千鳥しば鳴く (山部赤人 万葉集巻6-925) 上の写真は、姿勢を低くして眺めた景色。普通の目線では下のような景色です。(同上) 自転車道は東急リゾートの別荘地内に入ると、サインが十分でなく道に迷いがちになるが、迷って出会ったのがこの城跡。(佐久城跡) (同上説明板) この地を支配した猪鼻氏、その流れを汲む佐久氏は「鵺退治」の源三位頼政の子孫ということらしい。この地に鵺代という地名のあることも納得であるが、このような伝承もあるそうな。 頼政の矢に射貫かれた鵺の体は三つに分かれて、頭が落ちた場所が「鵺代」、尾が落ちた場所が「尾奈」と呼ばれ、胴が落ちた場所が尾奈駅東方に湖に突き出している胴先半島だというのである。 源三位頼政の子孫と名乗った佐久氏が作り上げた話であるのは、万葉集に「乎那の峰」が既に登場している以上は明らかと言うべきか。尤も、佐久氏だけに作文はお手のもの。万葉の「乎那の峰」は此処のことではなく、別の場所であるという位のことは準備していたのだろうが、そのことは伝わっていない(笑)。 別荘地内の道を抜けて再び湖岸の道となる。やはり自転車道はこうでなくてはいけない。(猪鼻湖東岸を南へ走る) この先を曲がると自転車道は浜名湖レークサイドウェイと並走する形となる。立派な松並木が暫く続き(まあ、此処は浜松ですからね。)、松並木が途切れた処に一群のケシの花などが咲いていました。(湖畔の松並木、左は浜名湖レークサイドウェイ) (ケシの花) 県道310号と交差する処でこの県道を右に入ると瀬戸橋は近いのであったが、そのまま浜名湖レークサイドウェイに沿って直進。浜名湖岸に出る。浜名湖遊覧船乗り場があったが既に営業時間は終了していて乗り場の建物は閉じられ人影もない。隣の野菜果物直売所は営業中であったが用は無し(梨ではない)で、その前で湖岸へと下る坂道に入り、レークサイドウェイの通る新瀬戸橋の下を潜って、県道310号の通る向かい側の瀬戸橋の東詰に出る。 そこから階段を下りて行くと猪鼻神社の祠に行けるのだが、神社は瀬戸橋の上からも遠望できるので、参拝(見学?)は省略です。(猪鼻湖神社) 神社を撮影して振り返ると新瀬戸橋。この橋から向こうが浜名湖。(新瀬戸橋) 瀬戸橋を渡って少し行くと国道301号に出るので、これを右に行くと尾奈、奥浜名湖、三ケ日と先程走ったホテルCLASSEの前に行き着く。そうすれば猪鼻湖を一周する形になるのだが、時刻はと見るとその余裕はなさそうである。ホテルへと引き返すことに。(椎の花) 来る時にも気になった椎の花であったが、少し暮れかかって木間の陰影が濃くなると更にもその白さが目立ち、写真に撮れと言われているような気にも(笑)。椎に強いられて椎の花撮る・・であります。家にあれば 気にもならねど 草枕 旅にしあれば 椎の花撮る (偐間皇子) (本歌)家にあれば 笥(け)に盛る飯(いひ)を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る (有間皇子 万葉集巻2-142)(薄紅色のエゴノキ) 東急リゾートの別荘地まで帰って来た処で目にとまったのはエゴノキの花。万葉では「ちさの花」と呼ばれている可憐な花である。「ちさの花」は白いものと思い込んでいましたが、このように桜色というか、薄紅色の花もあるのですね。 「知佐の花 咲ける盛りに 愛しきよし・・」(万葉集巻18-4106)と大伴家持が詠った花であるから、これも万葉の花である。この万葉歌全文は下記参考の記事をご覧下さい。 <参考>「エゴノキ(ちさ)の花が咲いた。」2008.5.6. 「チサの実のさはにぞなれる」2013.10.24.(同上) 無事に夕食の時刻に間に合うようにホテルに帰着です。ということで、本日はここまでとします。また明日お付き合い下さいませ。(つづく)
2014.05.15
コメント(6)

5月14~16日と奥浜名湖を銀輪散歩して来ました。 浜名湖周遊自転車道というのがあることを知り、これを少し走ってみようと思い付いての銀輪散歩です。「引佐細江」や「乎那の峰」など万葉にも登場する地名のある奥浜名湖を中心に走ってみました。 初日は、猪鼻湖周遊です。(猪鼻湖・浜名湖周遊自転車道) 浜名湖周遊自転車道は、浜松市北区三ケ日から同市西区弁天島までの全長48kmの道である。今回は三ケ日に宿(かんぽの宿浜名湖三ケ日)を取って、万葉歌碑巡りをしつつ、その一部を走ろうというもの。 <参考>浜名湖周遊自転車道・Wikipedia(猪鼻湖) 先ず、「乎那の峰」を目指す。「乎那の峰」の万葉歌は次の歌。花散らふ この向つ峰の 乎那の峰の ひじにつくまで 君が齢(よ)もがも (巻14-3448)<花がしきりに散る、この向うの峰の乎那の峰が低くなって洲になり、水に浸かるようになるまで、あなたの寿命が長くあって欲しいものです。> 乎那の峰は、浜松市北区三ヶ日町の上尾奈、下尾奈地区の山とされるが、どの山であるかについては諸説がある。奥浜名湖駅西方1.4kmの板築(ほうつき)山(222m)とするもの(犬養孝説)、板築山南方の山(245.3m)とするもの(松田好夫説)、奥浜名湖駅南方、三ヶ日町下尾奈の浅間山(77m)とするもの(夏目隆文説)などである。(猪鼻湖・対岸に見える建物は浜名湖レークサイドプラザ<左> とホテルCLASSE<右>) 上の写真で言うとホテルCLASSEの右背後の小山が浅間山。その後方の高い二つ並びの峰の右側が板築山。左側の峰が松田説で乎那の峰とされる山であるが、今回は、山頂に万葉歌碑があるという浅間山に向かうこととする。(猪鼻湖・浜名湖周遊自転車道)(同上) 自転車道は快適。湖面からの風も心地良い。 薄曇という天気も銀輪散歩にはうってつけ。(猪鼻湖)(猪鼻湖・右の建物は三ケ日中学校) 三ケ日中学校に万葉歌碑があることは下調べで分っていたので、許可を得て校内に入らせて戴く。 校舎と校舎に挟まれた奥の中庭にそれはありました。歌は上に記載の「乎那の峰」のそれと「白羽の磯と贄の浦」の歌2首が併記されていました。(三ケ日中学校中庭の万葉歌碑)遠江(とへたほみ) 志留波(しるは)の磯と 尓閇(にへ)の浦と 合ひてしあらば 言も通(かゆ)はむ (山名郡の丈部川相(はつせべのかはひ) 巻20-4324)<普通に読めば、「遠江の白羽の磯と尓閇の浦とが隣り合っていたなら、便りもできて言葉が通い合うものを」であるが、作者が山名郡(群馬県高崎市)の人であるから、「遠江の白羽の磯と尓閇の浦とが隣り合っているように、この遠江の地と故郷の山名の地が隣り合っていたなら・・」と解すべきか。)>(注)志留波の磯・尓閇の浦=「白羽の磯」、「贄の浦」。遠江の海岸の何処かと 見られるが不詳。「にへ」神や朝廷に奉るその土地 の物産。食用の鳥、魚など。 浜名湖周遊自転車道は三ケ日駅の手前で国道362号に出た処で終り。一般道を車と並走。西天王町交差点で国道301号に入り南へ。ホテルCLASSEの手前で脇道に入り、天竜浜名湖鉄道の踏切を渡り、向かいの浅間山に登るが、道は途中で尽きてミカン畑の中の高みで立ち往生。(猪鼻湖西岸・浅間山東斜面のミカン畑からの眺め)(同上) 山頂の歌碑へと行くには山をぐるりと回って西側から登らなくてはならないのでありましたが、山を間違ったかと国道まで引き返し、ぐるり遠回りして西側に回る。似た山が並んでいるので、ややこしい。まあ、山とはそうしたものであるが(笑)。(浅間山・北側からの眺め)(浅間山の西隣の山) 隣海院という寺の前から急な上りとなる大型農道を上った処に駐車場があり、駐車場の先を左に入る進入路が浅間山山頂歌碑への上り口に至る道なのでありました。 何のことはない。この進入路は先程のミカン山への上り口の下の道と繋がっているのでした。国道に戻らず、そのまま道なりに進んだなら此処に辿り着くことができたのでした。 ミカン山の急斜面の道を無駄に上って疲れた足。目的地につながっているという保証もないとあっては、再び急坂を自転車で上るという気持ちにはならぬものです(笑)。 山頂歌碑へと木隠れの細道を上って行く。しかし、訪ねる人も殆どないのか、道は途中からどれとも分らぬものとなり、道の痕跡のようなものをそれかと見極めつつ行くこととなる。 そして、漸くにして犬養先生揮毫の万葉歌碑にご対面。(浅間山山頂の万葉歌碑A)(同上万葉歌碑B)(同上)(山頂近くにある小さな祠)(同上由緒)(浅間山・南西からの眺め) 猪鼻湖は山の右奥方向。これは山を下りて来て、方向を間違って反対方向に走ってしまい、途中で気が付いて引き返して来た時に撮ったもの。この様なウッカリもしばしばあるのが我が銀輪散歩である。 乎那の峰から先は一般道なので、引き返して、東岸の道を瀬戸へと走ることとする。瀬戸で猪鼻湖は浜名湖と繋がっている。が、字数制限です。続きは明日とします。(つづく)
2014.05.14
コメント(2)

本日は青雲会の囲碁例会の日。出席者は12名。宮◎氏と立て続けに3局打って2勝1敗。続いて中◎氏と打って中押し勝ち、最後に岡◎氏と打って中押し負け、で3勝2敗可もなし不可もなしでした。 天気もよしでいつもの通りMTBで出掛けました。青雲会囲碁の時の昼食場所は最近は喫茶店「珈琲なかおか」であることが多い。本日も此処で昼食と珈琲をしてから会場に向かうことにしましたが、時間が早過ぎるので、少し近くを銀輪散歩することにしました。(喫茶店「珈琲なかおか中之島店」) 上が昼食場所の喫茶店。囲碁会場は写真奥の黒い車が進入しようとしている道を50m位行った処にあります。喫茶店を出たのが12時。早過ぎて誰も来ていないだろうからと、御堂筋に出て大江橋を渡り、土佐堀通りを西へ。田蓑橋南詰めのダイビルの角に「四季の丘」という公開空地があったので立ち寄ってみた。ジグザグのスロープを上って行く。足元には色々な花が植えられて美しく咲き乱れている。中でも目についたのはこの花。これは西洋撫子でしょう、多分。(西洋撫子) もう少し接近してみましょう。(同上) もっと接近。近寄り過ぎては「一眼レフ」ならぬ「老眼レフ」カメラにて像がボヤけるよう・・と言ってはカメラに失礼か。カメラ曰く「自身の腕を棚に上げて何たる言い草」。(同上) で、ほどほどの距離で横から(笑)。 一番高い位置のベンチに同年輩位の男性が一人で休憩して居られました。ここでお弁当を食べて居られたのでしょう。食べ終ってひと息ついた処といった雰囲気でした(笑)。会釈して近くに行き、暫しその方と雑談。堺の方にお住まいの方でした。仁徳天皇陵のお近くとか。堺と言えば、ということで土塔(参照「土塔を訪ねて」2010.4.30.)のお話をしましたが、土塔はご存じではなかったようです。一見の価値があるとPRして置きました。 男性とお話しているうちに程良い時間となったので「では行って来ます。」とおいとまを告げて会場へと向かうこととしました。碁をしに中之島までやって来たことを話済みだったので、彼も笑顔で「行ってらっしゃい。」と送り出してくれました(笑)。 会場に入ると山◎氏と宮◎氏が来て居られて碁盤を並べるなどの準備中。小生もお手伝い。設営が終ったところで、宮◎氏から対局を求められお手合わせ。そうこうしているうちに岡◎氏が来られて、隣では山◎・岡◎戦が始まり、順々にその他の方もお見えになり、総勢12名となった次第。 帰途は大阪城内を少し銀輪散歩してみました。 大阪城のこの場所は元々は石山本願寺があった処というのはどなたもご存じかと思いますが、その碑はこれまでブログには掲載していなかったようなので、掲載することにします。碑は六番櫓の前、修道館の傍らにあります。(石山本願寺推定地碑)(同上副碑)(六番櫓)(同上説明板) 天守閣前の広場には下のような大きな鳥瞰図が設置されていました。豊臣時代の大坂城石垣を掘り返して其処に地下展示室を設け、常時その石垣が見られるようにしようということが提唱されて居り、これは、費用を市民等一般の募金で賄おうということで、その募金のための説明ディスプレーの一部である。 <参考>大坂城豊臣石垣公開プロジェクト(徳川期大坂城の鳥瞰図<クリックして拡大画面でご覧下さい。>) 玉造口から城外へ出ることとしたので、一番櫓も撮影して置きました。これらの櫓はいつもは堀の外側から眺めつつ桜広場(上の図で言うと、右下の堀沿いの道)を走り抜けているので、本日は内側からの眺めです。(一番櫓)(同上説明板)
2014.05.10
コメント(10)

(承前) 玉造稲荷神社へは、JR環状線鶴橋駅の西側の玉造筋を北に入り、直ぐにもう一つ西の真田山公園の東側に沿っている路地に入って、これを北へと走ったのでしたが、途中にあった三光神社には真田幸村の像が建っている。この辺りは大坂城の出城の真田丸があった場所ということらしい。三光神社は以前の記事で紹介済みなので立ち寄らずで、その前を通り過ぎて、直接に玉造稲荷神社に向かったのでありました。 <参考>「真田丸いずこに」2008.12.5. 玉造稲荷神社を出て、まだ少し時間にゆとりがあるので、三光神社の少し西側の心眼寺を覗いてみることにする。この寺は真田幸村(本名:信繁)とその子・大助の菩提を弔うために滋野氏が江戸時代に建立した寺である。滋野氏は信濃の名族。その流れを汲む「滋野三家」が海野氏、根津氏、望月氏で、真田氏は異説もあるようだが、海野氏から分かれた家柄とされているから、言わば「本家」の子孫が「分家」の先祖を供養するために寺を建てたということになる。 <参考>心眼寺 寺の山号は真田山。寺紋も例の六文銭のそれである。(心眼寺)(同上・本堂) 山門の左側には、京都見廻組・桂早之助・渡辺吉太郎墓所の碑があった。京都見廻組と言えば、近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎を暗殺したとされている、京都守護職・会津藩主松平容保配下の組織で、新撰組同様に反幕勢力を取り締まる警察活動をした集団のことである。本堂の北側に墓地が並んでいるが、そのどれが両名の墓であるのかは、ざっと見て回った限りでは分からなかった。 山門の右側には真田丸跡地であることを示す碑。碑には真田家の六文銭の紋が刻されていますが、山門の扉にも六文銭が付されています。 (同上・山門左側の碑) (同上・山門右側の真田丸跡の碑) 寺の前は坂道になっていて、心眼寺坂という名が付いている。南に向かって上り坂となっているから、真田丸はこの坂から南側にあったのだろう。心眼寺は真田丸の北端に位置するということになる。 坂道を上ると左側には寺が続き、右側には明星中学・明星高校の校舎である。(心眼寺坂・奥右側は明星学園校舎)(善福寺・どんどろ大師) 心眼寺坂を下り切った角にあるのが、善福寺(どんどろ大師)。境内に入ると修行中の弘法大師の像があり、その隣には勝軍地蔵という大きな像がある。 どんどろ大師というのは通称で、正式には鏡如庵といって、大坂夏の陣の戦死者を弔うために創建されたものだそうな。一方、善福寺というのは摂津国能勢郡にあったのが明治になって当地に移転して来たものだという。この辺の事情は下記<参考>をご参照下さい。 <参考>善福寺・Wikipedia(修行大師像)(勝軍地蔵)(同上) 門前には歌舞伎や文楽でお馴染の「傾城阿波の鳴門」(近松半二作)のお弓とおつるの母子再会の場面の像がある。二人が再会するのは、この玉造のどんどろ大師の門前であったのですな。(お弓・おつる像)(同上・説明板) 最期は「巡礼にご報謝」の話になってしまいましたが、「囲碁例会・大坂夏の陣関連銀輪散歩の段」、これにてお開きと致しまする。 <参考>近隣散歩関連の過去の記事はコチラからご覧になれます。
2014.05.08
コメント(4)

本日は囲碁例会の日。 出席者は青◎氏、福◎氏、竹◎氏と小生の4名のみ。対局は青◎氏に負け、福◎氏に辛勝で1勝1敗。 本日のMTBでの立ち寄り先は玉造稲荷神社。以前、ブログ友のビッグジョンさんが玉造稲荷神社を記事アップされていましたが、今回立ち寄ったのはそれに誘われてというのではなく、先日(3日)に玉手山公園での「小松山合戦まつり」に参加したので、大坂夏の陣400年繋がりということで、この神社に立ち寄ることとしたものです。ここには、豊臣秀頼の銅像があるからです。玉造稲荷神社の由来など詳しいことは下記参考などをご覧戴くこととして、境内をざっと写真でご紹介して置きます。 <参考>玉造稲荷神社・Wikipedia(玉造稲荷神社)(同上)(社殿)(神社由緒)(恋キツネ) 上の「恋キツネ」はビッグジョンさんのブログ記事に説明されていますので、それをご参照下さい。通常の絵馬と違って、ここではキツネが二匹寄り添って、ハート型を作っている、という独特の意匠になっている。 (玉作岡の碑) さて、本日は、大坂夏の陣400年協賛(?)の銀輪散歩でありますので、秀頼公銅像が主役であります。 (豊臣秀頼銅像)(同上副碑) 下は、秀頼が奉納したという鳥居。「慶長8年3月吉日」の銘が刻まれている。大阪城の鎮守神という当神社の性格をうかがわせる鳥居というべきであるが、阪神・淡路大震災で損傷したので、新しい鳥居に取り替えられ、このような形で保存されることとなったとのこと。(秀頼奉納の鳥居)(同上)(秀頼公胞衣塚)(同上)(同上) それほど広くない境内であるが、色んなものがありますな。 利休井、利休顕彰碑。そして、小野小町の歌碑まである。(利休井)(同上説明板)(千利休顕彰碑)(小野小町歌碑)湊入(みなとい)りの 玉造江(たまつくりえ)に こぐ舟の 音こそたてね 君を恋ふれど (小野小町 新勅撰集651) (本歌)湊(みなと)入りの 葦わけ小舟(をぶね) 障(さはり)多み わが思(も)ふ君に あはぬころかも (万葉集巻11-2745) そして、漫才作家の秋田實氏の碑まである。同氏はこの玉造の地の出身だそうな。 <参考>秋田實・Wikipedia(秋田實笑魂碑) この後、心眼寺へと向かいますが、夜も更けたので、本日はここまでとします。続きはページを改めて、明日アップします。(つづく)
2014.05.07
コメント(4)

先日(2日)銀輪散歩の途中に立ち寄った喫茶ナナで、どういう話の流れでそうなったのか記憶が曖昧ですが、女主人の小◎さんから「岩戸神社には行かれましたか。」と質問され、神社の名は以前に地図でその名の記載を見た記憶があったものの、訪ねたことがなく、何れは訪ねてみようと思ってもいたので、これもご縁とその足で岩戸神社に向かうこととしました。詳しいことはお聞きしなかったのですが、小◎さんは岩戸神社の宮司さんとお知り合いのような雰囲気でした。おおまかな道順を教えて戴くと、以前に見た地図の記憶と相俟って、その位置が理解できました。 しかし、恩智川べりからだとかなりの坂道。ナナを出て北側の道を恩智川を背に東へ。南高安小学校前で国道170号旧道を渡り、学校の南側の坂道を上って行くと、道は大きく左にカーブし北方向への道となる。道なりに1kmほど行くと岩戸神社の入口に着く。ここまでは何とかMTBで走って来れたが鳥居から先はガタガタの急な山坂道、とても漕いでは上れそうにもない。(岩戸神社鳥居と愛車のMTB) わがMTBも此処まで。この鳥居の先で道は急カーブして、急登となっている。押して行くの外ないのでありました。(岩戸神社説明碑) 鳥居の傍らに説明碑が設置されている。木の影の所為で読み辛い写真になっているので、全文を下に転記して置きます。「(岩戸神社)教興寺字弁天山の山腹の巨岩の中にある。俗に岩屋弁天として名高く、神体は木彫りの極彩色の弁財天であったが、明治の初め神仏分離後、教興寺の本堂に安置されていた。古くは教興寺の鎮守であり、傍らに式内社で春日戸神と称した天照大神高座神社が巨岩の窟の中にあった。いかなる旱天にも流れの変らない白飯の滝がある。(八尾市教育委員会)」 鳥居から350m位で岩戸神社である。左に岩戸神社、正面奥に高御座神社である。 <参考>天照大神高座神社・岩戸神社・Wikipedia(岩戸神社) 岩戸神社の祭神は市杵島姫命。宗像三女神の一人ですな。宗像氏は古代の海人族ですから、その神である市杵島姫も水と深い関係があり、インドの神様の弁天も元来が河の神様であったから水と関係する場所で祀られることが多い。そんなことで、市杵島姫は弁天と同一視されたりもするようになる。この岩戸神社もその例である。 岩戸神社は空海が高御座神社に参詣した折に神の託宣あって創建したとの伝承があるそうだが、隣合う高御座神社と岩戸神社は一体的なもので明確な区分がなされていなかったのが、大正時代になって分離され、岩戸神社は高御座神社の境内末社の扱いとなったとのこと。(岩戸神社拝殿) 拝殿の裏に回ると本殿が岩の上に築かれているのが仰ぎ見られる。(岩戸神社本殿) 岩戸神社の拝殿から回り込んで行くといつの間にか高御座神社の拝殿前に来ていることになる。まあ、離れ座敷から庭伝いに母屋へ行くような感じですかな(笑)。 母屋の高御座神社の祭神は天照大神と高皇産霊大神。神社の名も本来は天照大神高座神社であるようです。(高御座神社拝殿と本殿)(拝殿を横から見ると) こういう簡素な作りのもを「拝殿」と呼ぶのが適切なのかどうか知らぬが「拝所」では建物がないみたいな印象なので拝殿として置く。ここで種々の神事が執り行われるのでしょう。(高御座神社本殿) 本殿は巨岩の岩肌にへばりつくようにして築造されている。(同上) 本殿の御簾の奥にある岩窟の中に神が鎮座されているのでありましょう。(左が岩戸神社本殿、右が高御座神社本殿)(高御座神社の奥の道) 高御座神社の奥にも道が続いていて、何とも知れぬ祠が祀られているが、これらは、高御座神社と関係があるのかどうかよくは分からない。(山城大神)(最奥の祠) 神社を後にしMTBで一気に急坂を下る。山沿いの広い道路に出て北に行くとつつじ花の群れ咲く公園があったので立ち寄る。公園の名は見落としたが「市民の森」という表示がされていた。東屋からは大阪平野が一望である。正面にはアベノハルカスも見えている。(八尾市市民の森から大阪平野を望む。)(同上) 公園最上部に近い場所に桐の木があって沢山の花を付けていました。(桐) 公園から近鉄信貴山口駅の前に出る。近鉄大阪線の山本駅から信貴山口駅までを結ぶ近鉄信貴線の終点の駅である。と言っても間に服部川という駅があるだけの短い線である。 この駅から近鉄西信貴ケーブル線で高安山駅に行ける。昔、まだ銀輪散歩などを始める前は、休日の散歩で、枚岡神社の裏から生駒山縦走路に登り、高安山まで尾根道を縦走し、高安山駅からケーブルカーで信貴山口駅か服部川駅まで下って、再び自宅まで歩くというのをよくしましたが、最近はこの駅もご無沙汰です。(信貴山口駅) 信貴山口駅から住宅街の入り組んだ道を右に左に抜けて服部川駅前から、八尾市歴史民俗資料館の前の通りを北進し、心合寺山古墳で左折し、西に進み、再び恩智川沿いの道に出て、右折・北進、という随分の遠回りの形で家まで帰って参りました。 ということで、この記事も終ることと致します。
2014.05.05
コメント(4)

本日は墓参。道すがらに見た花の一部を掲載します。 先ずはオダマキから。(オダマキ<苧環>) オダマキ(苧環)というのは、麻糸を玉のように巻いたものであるが、花姿がこれに似ていることから花名になったもの。有名なのは静御前が鶴岡八幡宮で頼朝に舞を命じられた時に詠ったとされる次の歌。しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな<倭文の布を織る際の苧環から糸が絶えず繰り出されるように、繰り返し今を昔に返す手立てがないものだろうか。>(同上)をだまきの 花は風にし 揺れ咲くも 昔に返す よしはあらなく (偐家持) (同上) 墓の傍らには小さなピンクの花。オキザリスですな。 これはその中でも芋カタバミと呼ばれる、よく見掛ける花。こうして、アップで撮ってみると、何とも清楚な美しさをたたえた花である。「芋カタバミ」ではなく「妹カタバミ」という名こそが相応しいのではないだろうか。出会いの時の君のようです、と言うのはシクラメンですが、小生などは、こういう花こそがそれに相応しいと思ったりもするが、現実に「芋カタバミ」のようだった、なんぞと口に出したりすれば、「芋」のインパクトが強過ぎて、ブーイングだろう。やはり、名前は大事ですな。(オキザリス・芋カタバミ)朝露に 濡れてぞはしく 咲く花を たれや名付けし 芋かたばみと (偐家持)(ニガナ) そして、ニガナ。タンポポの花を八重桜とすれば、ニガナはソメイヨシノのような一重桜の雰囲気でしょうか。タンポポをスレンダーにした美しい花である。タンポポには明るい親しみ易さ、無邪気さがあるが、ニガナはちょっと気取っているような素っ気なさがないでもない(笑)。(同上) 似た花にオニタビラコというのがあるが、花だけを見ているとその違いはよく分らない。葉が違う。オニタビラコはタンポポに似たような葉である。 木を見て森を見ざる、というのは「部分を見て全体を見ないと判断を誤る」ということで使われるが、花を見て葉を見ざる、も部分的に似ているからと言ってそれだけで判断すると間違った判断になるよ、という戒めの言葉に使えそうですが、誰もそういう喩えはしておりませんですかな。(同上) さて、お墓参りの時の恒例になっている、道すがらの寺の門前に掲示の今日の言葉でありますが、今日はこれでした。人はみなそれぞれに己が人生を精一杯に生きているのであるから、花たちがそうであるように、あるがままにて、それ自体でそれぞれに美しく尊いのであります。(今日の言葉)<参考>当ブログ「花」関係の記事は下記からご覧になれます。 花(1)2007~2011 花(2)2012~
2014.05.04
コメント(8)

本日は、柏原市の玉手山公園で催された「小松山合戦まつり」を見物という形で参加して参りました。と言うのは、若草読書会のメンバーでもある和麻呂こと大嶽和久氏が、このイベントのために依頼を受けて新曲「誓いのとき~大坂の陣四百年に寄せて」を作曲され、それを演奏されるということであったからです。また、同じく若草読書会のメンバーであり、銀輪友達でもある偐山頭火氏がこの企画に関係して居られるということでもあったので、これは何が何でも参加しなければならないというものでありました(笑)。 例によって自宅から玉手山公園まではMTBによる銀輪行であります。途中、故あって、智麻呂邸に立ち寄り、豊臣の桐の紋と徳川の葵の紋をネットから拾い出して印刷したものをお届けしてから、玉手山を目指したのですが、これも亦今回の道行きに相応しいものでありました(笑)。 天気もよし。MTBで疾駆しているうちに暑くなり、八尾市に入った辺りで信号待ちの間にTシャツ1枚になりましたが、それでも汗、汗でありました。大和川畔には9時5分到着。家を出たのが8時17分であったから、48分かかったことになる。リビエールホールの前の喫煙コーナーで暫し休憩。9時15分に出発、大和川の川向かいに見えている玉手山の丘へと向かう。玉手山公園に到着したのは9時25分前後であったでしょうか。 中央入口の方ではなく、それよりもかなり高い位置に在る東入口の方から入ったので(下図参照)、最後の急坂でギブアップ、自転車を漕ぐのを諦めて押して上りました。うねうねとした坂道をかなり登って来て息の荒くなっている小生の前に、最後に立ち現われた直線100m足らずの急坂は、徳川方の大群を目前にしたようなもので、戦闘意欲を消沈させるに十分なものでありました。(小松山合戦まつり当日チラシ:偐山頭火氏撮影・提供) この催しは、大阪の陣400年祭の一環として企画されたもので、1614年の冬の陣、1615年の夏の陣から400年を迎えるに当たって、道明寺合戦、中でも後藤又兵衛が最期を遂げた小松山合戦に焦点を合せての記念事業として行われたもの。大坂の陣戦没者に奉納するという催しでもある。 <参考>大坂の陣・Wikipedia 道明寺の戦い・Wikipedia 大坂の陣については、上の参考をご覧戴くこととし、記述は省略ですが、小松山合戦などのあった夏の陣は慶長20年(1615年)5月6日のことですから、正確には今年は399年ということになる。また、5月6日というのも旧暦のそれであるから、現在の暦では6月2日ということになる。 会場では、若草読書会の槇麻呂さんが先ずやって来られ、彼と立ち話をしているうちに、凡鬼さん・景郎女ご夫妻、小万知さん、和郎女さんらも程なく来られて(勿論、偐山頭火さんも)、ご一緒させて戴きました。(筝曲「誓いのとき」演奏風景:偐山頭火氏撮影・提供) 偐山頭火氏撮影・提供とある写真は、若草メールで偐山頭火氏が送って下さったものを使わせて戴いたものでありますが、彼の承諾を得てはいませんので「提供」というのは偐家持の都合のいい解釈あることをおことわりして置きます(笑)。(同上:偐家持撮影)(大嶽和久氏) 曲は、大坂の陣で散った戦没者への鎮魂と慰霊、今なお世界各地で戦争が行われていることへ思いを馳せ、それを悲傷み、平和への誓い、願いを込めて作られたものである。(同上演奏風景) (パンフレット表面:偐山頭火氏撮影・提供)(同裏面<部分>:偐家持撮影) 大嶽氏らによる「誓いのとき」の演奏に続いて、河内音頭やモダンダンス、和太鼓の演奏などが披露されました。河内音頭は後藤又兵衛の最期を河内音頭で語るという、なかなかの熱演、名調子でありました。 モダンダンスは地元の大学生によるもの、和太鼓は高校生によるものでしたが、どちらも熱演でした。(河内音頭)(モダンダンス)(和太鼓) 会場では、大坂の陣に因んだ、合戦弁当や日本酒(下図)、合戦ワイン、煎餅「大坂の陣」、その他諸グッズが販売されていました。偐山頭火氏によると、古戦場巡りハイキングの参加者なども含め、このイベントへの参加者は1500名以上ということで、盛況でありました。(日本酒「大坂の陣」:写真提供偐山頭火氏) <参考>玉手山周辺銀輪散歩 2013.5.17. 終了後、若草読書会メンバーはサンヒル柏原へ同ホテルの送迎バスで移動。自転車で来場の小生と小万知さんは自転車でサンヒルに向かいました。皆さんはそこで昼食。偐家持は合戦弁当を買い求め大嶽氏の2回目の演奏を聴きながら会場で済ませてしまいましたので、珈琲だけご一緒させていただきました。サンヒルでの昼食では画家のI氏も合流されて、楽しいひと時でありました。(サンヒル柏原) 8月の読書会は、このサンヒル柏原に一泊して偐山頭火さんの講話を拝聴することになっています。(サンヒル柏原の前庭から大和川を望む)(サンヒルからは二上山もよく見えます。) 帰途は柏原市役所・リビエールホール前で河内長野の方へお帰りになる小万知さんとお別れして、小生は恩智川沿いの道を辿り、家へ。途中ナナに立ち寄り、珈琲休憩。店には客はなく、女主人の小◎さんとそのお手伝いをされている松◎さんのお二人だけ。ご両名と暫し雑談して帰途につきました。(心合寺山古墳の桐の木) これは、本日の写真ではなく、昨日(2日)の銀輪散歩で撮影したもの。桐の花が散りかかっているのでありました。桐の花も椿と同様にポトリと落ちる。木の下には沢山の落花。大坂夏の陣で戦場に散った豊臣方のもののふ達の姿にも見えなくもない。 桐一葉落ちて天下の秋を知る、ではないが、 桐の花落ちてもの思ふ夏の陣(筆蕪蕉)であります。桐の花 落ちたる様の あはれとも 露と消えにし もののふの夢 (偐家持)
2014.05.03
コメント(7)

ヤカモチの銀輪散歩の基地でもあり、若草読書会のお花見の場所でもあり、何かとヤカモチがお世話になっている公園。それが花園中央公園です。恩智川の西岸から全国高校ラグビーの開催される花園ラグビー場までの間に広がる公園である。 その一角にヤカモチお気に入りの場所がある。お気に入りと言うと語弊があるが、何となく決まってそこに腰をおろすことになるという場所である。 石造りのベンチが何個かあり、桜の木とハナミズキが何本か回りにあり、傍らにはエゴノキが1本ある(かつては2本あったが1本は如何なる理由か伐採されてしまった。)。すぐ前を小さな人工のせせらぎが流れ(枯れていることの方が多いのだが)、左にはクチナシの植え込みがあり、右手前方にはツツジの植え込み。その向こうは季節には花菖蒲苑があり、広い芝生広場を挟んで正面にはメタセコイアの林がある。 で、その石のベンチに腰掛けてカメラを正面に向けた時に、ファインダーに映る景色を、この1年、毎月1回写真に撮り続けて来ました。 それを今日は並べてみることにします。1年間の同じ場所から見る、季節の移ろいであります。 (2013年6月6日撮影) (2013年7月8日撮影) (2013年8月7日撮影) (2013年9月4日撮影) (2013年10月12日撮影) (2013年11月5日撮影) (2013年12月6日撮影) (2014年1月18日撮影) (2014年2月3日撮影) (2014年3月4日撮影) (2014年4月2日撮影) (2014年5月2日撮影) 上の公園案内図で「現在地」と表示されている場所の左側に「レクレーション広場」と表示された場所がありますが、それが上の写真の芝生の広場です。メタセコイアの木はこの「レクレーション広場」とその奥の「わんぱく広場」の間に植えられています。つまり、写真の撮影者たるヤカモチの立ち位置は、上の案内図ではトイレと花しょうぶ園との間の通路と花しょうぶ園に流れ込んでいる水路との間にある空間で、其処から「わんぱく広場」の方向にカメラを向けて撮影しているという次第(笑)。
2014.05.02
コメント(12)
全21件 (21件中 1-21件目)
1


