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偐万葉・LAVIEN篇(その2) 本日はシリーズ第211弾。偐万葉・LAVIEN篇(その2)であります。 <参考>過去の偐万葉・LAVIEN篇はコチラからどうぞ。 LAVIEN10氏のブログはコチラからどうぞ。 偐家持が羅美麻呂に贈りて詠める歌16首にゃんとなく ねこにもあらぬ ひともまた にゃんともさほど かはらぬものよ (猫麻呂) ああさくら さくらよさくら はなさくを こふればくるし まちがてにする(嗚呼桜 桜よ桜 花咲くを 恋ふれば苦し 待ち難にする)押し照るや なにはの城の 桜花 今ぞ盛りと 咲き匂ひける (馬場老(ばんばのおゆ)) アメリカに ありしやわが背子 草枕 旅行く道の ま幸(さ)きくもあれ (遣米使人)言の葉も 風にぞさやぐ アメリカの 四月の旅を 背子行くらむか (大和撫子)大和には 撫子待つらむ アメリカの せんだんぐさに なつかれそゆめ (大和撫子) 猫は鳴き 木々はざはめき 鳥啼きぬ 来る朝ごとの わが目覚めなりやまとまた とほきにありて おもふべき さりてかなしく うたふべきかな(偐犀星) (注)さりて=さありて。そうであって、の意。 さ夜更けて 雨しくしくに 降り来れば 遠き大和し 思ほゆるかも(ラビの皇子)わが背子は いかにかあらむ 美しき やまと言の葉 な忘れたまひそ懲りもせず 銀輪散歩 囲碁短歌 時に俳句の ヤカモチわれは懲りもせで またもアメリカ 背子の旅 日(け)ながくなりぬ 迎へか行かむ出口なき 口出しするは 投げ槍に する槍投げに 似つきてあらむ (出口槍麻呂)花咲けば 花にしよらむ 虫来れば 虫にしよらむ 日々またよしも (注)初案「日々のまたよし」を「日々またよしも」に改めました。ざうけふに 延ひおほとれる 屎かづら 烏滸の営み 絶えずやあらむ (本歌)ざうけふに 延(は)ひおほとれる 屎葛 絶ゆることなく 宮仕(みやづかへ)せむ (高宮王 万葉集巻16-3855) (注)ざうけふ=ジャケツイバラのこと。 おほとれる=乱れ広がる、の意。 屎葛=ヘクソカズラのこと。 烏滸=愚か者ふたおもの このてがしはは そこここに はひひろごりて かぜがまにまに (本歌)奈良山の 児手柏(このてがしは)の 両面(ふたおも)に かにもかくにも 佞人(ねぢけびと)の徒(とも)(消奈行文 万葉集巻16-3836) (注)掲載の写真は全てLAVIEN10氏のブログからの転載です。
2014.07.31
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(承前) 昨日の記事の続きです。大谷古墳公園を後にし、上って来た坂道を一気に走り下る。河内飛鳥川に架かる逢坂橋に出る手前200m位の処で左(東)に入った処にあるのが杜本神社。往路では此処で休憩しましたが、この神社のことは別に書くとして省略しましたので、今日はこの杜本神社から記事を始めることとします。 石川から河内飛鳥川沿いに上流へと来ると駒ヶ谷駅前にあるのが逢坂橋。ここで左に折れて坂道を上り切った処で右に入ると杜本神社がある。この神社は以前友人の偐山頭火氏と立ち寄ったことがある。その折に藤原永手の墓が此処にあることを発見して驚いたが、それ以来の再訪である。 <参考>安福寺から錦織公園まで 2009.11.1. 藤原永手(藤原北家)は、称徳天皇(聖武天皇の娘)亡き後の皇位継承をめぐり、白壁王(光仁天皇)擁立を推し進めた人物。 彼の目論見としては、白壁王の妃の井上内親王(聖武天皇の娘)を皇后にし、彼女と白壁の間の子・他戸親王を皇太子にし、光仁の次の天皇を他戸とすることであったようだが、光仁即位の翌年(771年)2月に早々と病死してしまう。 すると、翌772年3月には、光仁天皇を呪詛したという嫌疑が井上皇后に掛けられ、井上皇后、廃后、続いて他戸皇太子の廃太子という展開になる。 これは、山部親王を皇太子にという藤原百川・良継(藤原式家)らの陰謀だと言われているが、井上皇后や他戸皇太子にとっては、政治の実権が永手の死によって藤原北家から藤原式家に移ったことによる、身の不運、悲劇であったということになる。(藤原永手の墓)(杜本神社) 河内国安宿郡は百済系渡来人飛鳥戸氏の本拠地。杜本神社というのは下の説明にもある通り、元々は百済永継と飛鳥戸氏の氏神を祀る神社であったようだ。光明皇后は安宿媛と呼ばれていたように、飛鳥戸氏は藤原氏とも関係の深い氏族であるが、この神社は、摂関政治の基礎を築き、後の道長などに続く藤原摂関政治への道を開いたと評価される藤原冬嗣の時代に、藤原氏の神を祀る神社となったようです。 この百済永継という女性は、飛鳥戸奈止麻呂という下級貴族の娘。元は藤原内麻呂の妻で内麻呂との間に設けた子が上記の藤原冬嗣である。その後、桓武天皇の女嬬として宮中に出仕、桓武の手がつき生まれた子が良岑安世。あまつ風雲の通ひ路吹き閉じよ、の歌で有名な僧正遍昭は、俗名が良岑宗貞、この安世の息子である。それはさて置き、内麻呂が桓武治世で政治的な力を持ったのはこの女性によるところが大きいとみる見方もあるようだ。 内麻呂は藤原真楯(元は八束。仲麻呂が権勢を持っていた頃に唐風の名に改名することが流行り、真楯と改名した。仲麻呂が恵美押勝と改名したのと同様。)の三男。真楯は藤原北家の始祖・房前の三男で、二男が永手であるから、藤原北家に所縁の深いこの神社に永手の墓があっても不思議ではないが、何故ここに彼の墓があるのかは存じ上げませぬ。 祭神の経津主については、武甕槌と共に出雲に出向き国譲りを迫るという日本書紀の神話のことなどを知るのみにてよくは存じ上げません。説明も大儀。よって下記参考をご参照下さい。 <参考>経津主神・Wikipedia(同上・拝殿)(維日谷稚宮) 境内には色んな摂社があるが、その一つがこの維日谷稚宮。祭神は反正天皇、伊波別命(イワワキノミコト)。反正は仁徳の第三皇子、母は磐之媛。和風諡号は多遅比瑞歯別尊(タヂヒノミツハワケノミコト)であり、河内国丹比に柴籬宮を営んだ天皇であるから、ここに祀られているのでしょうか。日本書紀ではこの天皇は淡路島で生まれ、産湯をつかった井のほとりに多遅(イタドリのこと)の花が咲いていたことと歯並びが美しかったので多遅比瑞歯という名を付けたとある。 さて、今回初めて気が付きましたが、楠木正成の首塚もあるのでした。前回は永手の墓に気を取られて、すぐ傍にある首塚には目が向かなかったようです。(楠木正成首塚と南木神社) 南木神社の祭神は楠木正成。左側にある石塔が首塚である。(猿田彦大神) 猿田彦を祀る石の前で休憩していると、男性が一人お詣りに来られた。拝殿の前で礼拝してそのまま帰ろうとされるので、この奥に「楠公の首塚と藤原永手の墓がありますよ。」と声を掛けましたが、「ナンコウ?」怪訝な表情。「楠木正成です。」、「ああ、どうも有難うございます。」と言ってそのままお帰りになりました。余計なお世話であったようです(笑)。今や「楠公」は死語。難航か軟膏か南港の方になっているのでしょうな。(金剛輪寺址) さて、以上は往路でのこと。復路のことに戻ります。逢坂橋から飛鳥川に沿ってその河口の石川畔まで下り、石川沿いに玉手橋まで走り、玉手橋で左岸に渡り、河川敷の石川自転車道に入る。(石川自転車道) 石川自転車道にお別れして大和川を渡り、恩智川沿いの道へ。 柏原市堅下付近で見かけた小さな太鼓台。人影は周囲になく太鼓台だけがポツンと。枚岡神社の秋郷祭のそれのような担いで歩くタイプの布団太鼓ではなく、山車タイプの太鼓台。内部の太鼓の収まり方などは、布団太鼓のそれと同じ。(太鼓台・柏原市堅下付近)(太鼓台内部) 恩智駅付近まで帰って来たら午後4時過ぎ。喫茶ナナは午後4時閉店だからと、通り過ぎようとすると、まだシャッターは下りていない。試しに覗いて見ると、店の松〇さんと万葉の会の常連の男性・畑〇氏とが談笑して居られた。小生もアイスコーヒーを注文し、話の仲間に入れて戴く。5時過ぎまで涼ませて戴いて、帰路に。 喫茶ナナを出て暫く行くと恩智川は外環状道路(国道170号)と交差する。通常は外環を横断し、恩智川沿いを走るのだが、この日は信号の具合もあって、外環沿いに帰る。(高安山と信貴山ケーブル) 丁度高安山が正面に見える位置から1枚撮影。中央に信貴山ケーブルの線路も見える。往路はこの山沿いの高みの道を走ったのでありました。 先日の高安古墳群めぐりの銀輪散歩で立ち寄った神光寺はこのケーブル線のすぐ左側だが、何処とも分からない。そのずっと左になる玉祖神社は写真の外のよう。 その玉祖神社と恩智神社の氏子争いで、神様の境界と定まった垣内地区(これは玉祖神社から見て「垣内」であって、恩智神社から見れば「垣外」ということになるから、玉祖神社側の命名なんだろう。)にあった子守社という小さな祠に、往路では立ち寄りましたから、その写真を最後に掲載して置きます。神社の由来などは不詳です。(垣内子守社)(同上) 以上で、今回の銀輪近隣散歩は終了です。猛暑の中の取材にて手抜きの段はご容赦を。今回もお付き合い下さり有難うございました。<完>
2014.07.27
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暫くブログの更新をサボっていましたが、5日ぶりに更新です。 猛暑続きや友人との暑気払いの会食などもあって、銀輪散歩を差し控えていましたが、それも限界。本日は大和川を越えて、羽曳野市のグレープヒルスポーツ公園まで銀輪散歩して参りました。 これも先日の河内飛鳥川銀輪散歩の折に、その存在を知ったので、そのうちに行ってみようと思っていたものでありました。大谷古墳公園という名前の表示もあり、大谷古墳群を中心とする公園であるという説明に誘われての遠征であります。 河内飛鳥川の逢坂橋から国分へと通じる道に入り、途中で杜本神社に立ち寄り休憩。杜本神社については、別に記事にすることとし、先に進みます。杜本神社の先の辻で右折。河内ワイン館の前から、グレープロードの坂を上る。これがすごい坂道。(河内ワイン館) 柏原市は葡萄の産地。ワインも醸造されている。河内ワインである。 醸造工場の前には懐かしいミゼットがありましたが、これは現役ではないでしょうね。飾りで置いてあるのでしょう。(河内ワインの醸造所) 河内ワイン館からの坂道の左右は一面の葡萄畑である。美しく舗装された道はグレープロードと名付けられているようです。目指すグレープヒルスポーツ公園(大谷古墳公園)はこの丘の上にあるのだろうか。(グレープロードと葡萄畑)(葡萄畑) 美味しそうな葡萄を横目に坂道をひたすら上る。坂を上り切るとぶどうの直売所がありましたが、公園は未だ上のようです。ここからの坂道が急坂で、殆ど息切れ、喘ぎつつ上る。(葡萄畑とぶどう直売所) ようやくにして、公園入口に到着。 スポーツ公園の西側にこれに添うようにして小高くなった丘の上に数基の古墳群があり、古墳公園になっている。上のあづま屋にて暫し休憩。(大谷古墳群・手前は2号墳) (大谷古墳群案内図)(同上・説明板)(大谷古墳群・3号墳)(同上・6号墳) 更に上へと坂道は続いていましたが、これは羽曳野中央霊園への道。まだその時期ではないので、霊園の方はご遠慮申し上げることと致しました。(あずま屋から東方向の展望・手前はスポーツ公園のグラウンド) 公園からからの展望は期待した程ではない。西側が葡萄畑になっていて展望を邪魔している。上の霊園まで行けば西側が一望なんでしょう。 上の写真の左端に写っている建物は霊園関連の建物なんだろうか。その右奥に見えている山は鉢伏山であるのだろう。手前の青いタオルはヤカモチさんのタオルです(笑)。(同上・北東方向の展望) 眼下のスポーツ公園では子供たちがキャンプをしているようです。賑やかな声が聞こえて来る。沢山のテントが張られている。キャンプ好きの新潟のふぁみり~キャンパーさんは、きっとこのような子供時代を過ごされたのでしょうな。 なお、駐輪している自転車はわが愛車のMTBです。(展望台から北方向の展望) 北側も葡萄畑が広がっています。奥に見えているのは信貴・高安・生駒の山並みだろう。(スポーツ公園・子供たちのキャンプのテント。) 公園入口近くの管理棟・セミナーハウスの方に行くと自販機近くの喫煙場所で男性2人が談笑して居られました。小生もお邪魔して、冷たい飲み物を買い求め、一服。雑談の中に入れて戴く(笑)。 子供たちは、羽曳野市内の色んな小学校の児童で、このキャンプへの参加に応募してきた子供たちであるとのこと。このお二人の男性も含め、付き添って居られる大人の皆さんはボランティアで少年指導員をやって居られる皆さんであるとのこと。(萩が咲き始めていました。) 展望台の近くには萩の花が咲き始めていました。今日も亦うだるような暑さでありましたが、萩の花を目にすると「わが待つ秋の近づくらしも」という気にもなって、木陰の風の涼しさに「秋」を感じてみたりも・・のヤカモチでありました。(同上)高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人無しに (笠金村 万葉集巻2-231)大谷の 丘の上の萩 今日咲きて 秋近しもと われに言ふらし (偐家持) (つづく)
2014.07.26
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第145回智麻呂絵画展 本日は智麻呂絵画展であります。本来は、もっと早くに開催する心算であったのですが、家持館長の失敗で、撮った写真の画像が中心部は鮮明であるが、外周部はピンボケという状態に。どうもそういうモードにカメラの設定がなっていたようで、パソコンに取り込んだ拡大画面でそれに気づきました。そんなことで、再度撮影し直すということになり、約1週間遅れの開催となりました。 <参考>他の智麻呂絵画展は下記から。 第1回展~第100回展 第101回展~第200回展 第201回展~ 梅雨が明けて、紫陽花もダンス(舞)どころではなく、そろそろ店仕舞の方なんでしょうが、この紫陽花はダンスパーティーという名が付いている。景郎女さんが以前にお持ち下さったものが漸くにして絵画展に登場と相成りました。(紫陽花・ダンスパーティー) 次は、凡鬼農園の元気な野菜たちです。 先ずは茄子から。 「紫のにほへる妹」ならぬ、紫に匂へる茄子であります。紫に にほへる茄子の 長くあれば ひとつは紙を はみ出しにける (大雑把皇子) (本歌)紫の にほへる妹を 憎くあらば 人づまゆゑに 吾恋ひめやも (大海人皇子 万葉集巻1-21)(茄子) 次はズッキーニ。 ズッキーニ 日本の夏に 馴染みけり (筆蕪蕉)(ズッキーニ) そして、ジャガイモ。 凡鬼農園ですから馬鈴薯と呼ぶ方が似合っている気もしますが。馬鈴薯の 無骨なるよし 三つありて 土の香立つや わがアトリエも (偐智麻呂) (ジャガイモ) 次は、祥麻呂さんからの朝顔です。アトリエの 奥に今朝もや 三つ咲きて 祥麻呂やあと 言へるが如し (偐智麻呂)(朝顔) 次のメロンはご近所の東〇さんからの戴き物。 甘い香りが漂っても来る感じの絵であります。まくはうりと 言へば憶良の 思はるも メロンとあれば 栗もマロンぞ (瓜売りの憶良)(夕張メロン) そして、ハム。ハムは五〇さんからの贈り物。 ハムはくっつくと公。イムだと仏になる、なんぞと絵や絵のモデルとは無関係の、あらぬ方向に行くのが家持館長の悪い癖であります(笑)。(ハム) 今月8日は智麻呂さんの誕生日でありました。デイサービスの施設の方でもそのお祝いをして下さったようで、素敵なお祝のメッセージと共にお花も戴きました。(薔薇) 上の薔薇は「アンデスのトマト」からのもの。下のガーベラは福寿苑からのもの。福寿苑からのお祝メッセージには、智麻呂さんの写真が貼られてありました。写真の中の智麻呂さんの後ろには智麻呂さんの絵と当ブログの「智麻呂絵画展」の記事を印刷したものなどが飾られていましたが、それは、ご満悦の智麻呂さんの笑顔を引き立てているかのようでもありました(笑)。(ガーベラ) 次は、葡萄の房ではなく、ミニトマトの房です。 福寿苑で写生されたようですが、滞在時間内に描き上げることが叶わなかったようで、写真に撮って戴いて自宅に持ち帰り、仕上げられたそうです。その写真の方も写真に撮って掲載して置きました。(ミニトマト)(実物の写真) 最後は、ムラサキツユクサです。当ブログの今月6日の記事に掲載の写真を絵にされました。家持館長は、この花については正面よりも横顔の方が好みであると書きましたが、智麻呂さんは、それは花に失礼であろうと、横顔ではなく真正面からの絵を描かれました。 <参考>「墓参・花散歩」2014.7.6.(ムラサキツユクサ) 本日は以上です。 最後までご覧下さり、有難うございました。 またのご来場お待ち申し上げます。
2014.07.21
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偐万葉・英坊篇(その29)本日はシリーズ第210弾、偐万葉・英坊篇(その29)です。 <参考>過去の英坊篇はコチラからどうぞ。 英坊3氏のブログはコチラからどうぞ。 偐家持が英麻呂に贈りて詠める歌20首併せ2句 並びに英麻呂が贈り来れる歌3首併せ1句 英麻呂が贈り来れる歌1首並びに偐家持が返せる歌1首大阪の ビルの谷間の 桜はな こぶしを握り 花に鼓舞せし散る花も なにはしぐれか こぶしまた きかせどころか みどころなるや(千はるみ)わがやまと あきつのしまに ありければ つぎてぞあらめ しぶうらのいけ(雄略麻呂)きみが行く 道のしるべも な立ち入りそ とんぼがへりの 池にしあれば(蜻蛉蛙) (渋浦池) 英麻呂が贈り来れる歌1首並びに偐家持が返せる歌1首絵も歌も こころ癒され 安堵の気 やすらぎ浸り やすらぎ眠るうらうらの はるのかぜなり ひざしなり ひろろがゑのもと ひとぞやすらげ(偐やかもち) 英麻呂が贈り来れる上3句に偐家持が付けたる下2句による歌1首絵も歌も 背伸び仕草で 鉄面皮 天衣無縫は 針糸不要英麻呂の 行き廻るらむ 春の花 思ひのままに 今盛りなり (注)オモイノママ=梅の品種の一つ。ピンクの花、白い花、両者が斑になった 花を一つの枝に咲かせる。 (梅・オモイノママ) (勝興寺の落ち椿)みほとけの 下にしあれば 落ち椿 眠れやすらに 勝興寺の庭わが駒を つなぎし木には あらねども サクラとあれば それもしかなり (注)氷見市粟原地区に大伴家持が馬をつないだと伝えられる「駒つなぎの桜」 という古木がある。 サクラ=桜と客のふりをするサクラとを掛けている。 しかなり=然なり。「しか」は「然」と「鹿」の掛詞で、第1句の 「駒(馬)」と合せて「馬鹿」となり、「そんな馬鹿な」 を隠し味にしている。 (駒つなぎの桜)明日ありと 思ふ心の あだ桜も さまで長くは 待てぬとは知る (仇桜餅)老谷の 悲しき椿 咲きて散る 赤き涙の 花にしあらむ (老谷の大椿)ボケなどと わが名つけしは 誰なるか 替え歌にすら ならぬ名なるを(それも知らんがな)ひともなき 氷見の一刎(ひとはね) 山峡(やまかひ)に つばらつばらに 水芭蕉咲く (一刎水芭蕉園)ひめみこの ふねのまれびと 二上の 山には来ぬか 鳥の来鳴くに (本歌)玉くしげ 二上山に 鳴く鳥の 声の恋しき 時は来にけり (大伴家持 万葉集巻17-3987) (ダイヤモンド・プリンセス号)やかもちは 帰り来たれど ヤカモチの パソ固まりて すべなかりけり(大騒固持)榛原ゆ 沢の城跡 遠ければ まだ踏みもみず ジュストへの道(小式部右近) (注)ジュスト=高山右近の洗礼名。右近は沢城で洗礼を受けた。 (高山右近像・古城公園) 英麻呂が贈り来れる歌1首並びに偐家持が返せる歌1首花見つけ 野の花色様 胆に入り ルリタマアザミ さらに胆いるたまたまに 玉と咲き始(そ)む 花見てや 名をし尋(と)ふれば 瑠璃玉薊(玉下駄家持)さ丹の橋 映す水面(みなも)の 影清み たぐひて二人 見し日恋(こほ)しも (高岡古城公園)われはもや 埋もれなむとす 高岡の 街の片隅 恨み葛の葉(車寅次郎)乗らざれば 屑にしあれど 秋されば 葛もひと花 咲かせもぞする(高岡葛)捨て車の おとがいふさぐ 真葛哉 (筆蕪蕉)(元句)山賤(やまがつ)の おとがい閉(とづ)る むぐらかな(松尾芭蕉) (高岡珍百景)言ひ触らし 団右衛門には われ非じ 本歌取りにて 本にはならじ(言ひ散らし家持) 英麻呂が贈り来れる歌1首並びに偐家持が返せる歌1首野の花は 季よみ先へ 進みけり 一途の様は 派手にあらずも野の花は 季の奏でと 咲くなれば 惜しと見つつや わが日暮らさむ(注)掲載の写真は英坊3氏のブログからの転載です。
2014.07.20
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本日は大学の同窓会、青雲会の総会に出席して来ました。 会場は、大阪市都島区の太閤園。此処は小生が結婚式を挙げた場所でもあり、懐かしい処でもあります。小生が結婚式を挙げた当時は、此処は神式の会場しかなくキリスト教式で挙げたいと言うと、対応できないと言われました。そこで、牧師とオルガン奏者はこちらで手配するので、適当な部屋に十字架のようなものを作って戴き、これこれこのように部屋を設えてくれ、と依頼して、此処で初めてのキリスト教式の結婚式を挙げたのでありました。 その際に牧師として司式を務めて戴いたのが、その当時既に牧師を辞めていらっしゃった智麻呂氏であったという次第。また、披露宴の司会は凡鬼さんがして下さいました。仲人は、中学時代3年間担任であったI先生ご夫妻(I先生は既に故人となられましたが)。 現在は太閤園もチャペルを備えて、キリスト教式の結婚式にも対応出来るようになっているようですが、小生がその先鞭を付けたのかも知れないなどとひそかに思っている次第(笑)。 まあ、全て今は昔の話であります。(太閤園入口)<参考>太閤園ホームページ(同上・ガーデンホール入口) 同窓会総会の会場は、ガーデンホールの方の宴会場でありました。 午後1時開会で小生が会場に到着したのは12時半。まだ来場者はまばらでありました。(開会前の会場内風景) 定刻に開会。同窓会会長の開会のご挨拶、法学部長のご挨拶に続き、会務・決算・予算の承認などどの議事が進められ、引き続いて恒例の講演となりました。 今回は、久々に2本立ての講演となり、前半が狭間研至氏(ファルメディコ株式会社代表取締役社長)。後半が三木秀夫氏(弁護士)。 狭間氏の講演は「薬局から始める地域医療イノベーション」と題して、ご自身が取り組まれている事業を通しての地域医療制度改革への提言・展望を熱く語られました。会場受付で買い求めた同氏の著書(下掲)に詳しく述べられていますので、興味ある方はこれをお読み下さいませ。(狭間研至著「薬局が変われば地域医療が変わる」) 三木氏の講演は「報道について思うこと~ゆがむ事実像」と題して、最近世間の注目を集めているSTAP細胞についての小保方論文をめぐる騒動に関し、渦中の小保方さんの弁護士としての活動の中で直面された様々のことや、それらを通して見えたマスコミ報道の在り方や問題点についての感想や意見を論じられました。 講演会終了後は懇親パーティー。今年は、軽音楽部の現役学生さんが出演してくれて、会場の雰囲気を盛り上げてくれました。 出席者は85名で例年より少な目となりましたが、小生の同期は小生も含め6名(黒〇氏、佐〇氏、蝶〇氏、広〇氏、守〇氏、偐家持)とまずまずでした。 懇親会の途中に若いご夫婦に車椅子を押して貰いながらお一人の男性が入って来られました。旧制2期の大先輩でした。たまたま、会場の前を通りかかって青雲会総会の入口の表示を見て、覗きに来られたのでありました。同期の山◎氏が出席して居られたので、旧友の再会となりました。同氏は住所が変わって居られて同窓会の連絡が途絶えていたようですが、面白い偶然があるものです。(軽音楽部の現役学生による演奏) ここは、庭園もなかなか美しいのですが、パーティーの途中、激しい通り雨があり、その雨音に誘われて、会場の中からガラス越しに庭を撮影しました。(太閤園の中庭・途中突如激しい雨が降りました。)(同上) パーティーの中締めは、最近の恒例に従い、副会長の山〇氏による「大阪締め」でありました。 閉会後、JR環状線京橋駅へと向かう途中で同期の佐〇君、蝶〇君とたまたま目に入った喫茶店に立ち寄り、暫し、歓談してから帰途につきました。 小生が、青雲会60周年を言祝いで詠んだ歌がありますので、これを最後に掲載して置きます。青雲の 庭に六十年(むそとせ) 重ねつつ またあらたしき 道をあゆまな継ぎ継ぎて 行かめともにし 青雲の 万花千葉 いやときじくに
2014.07.19
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<承前> 神光寺から愛宕塚古墳を経由し心合寺山古墳に戻り、そこの自販機で飲み物を買って水分補給、銀輪散歩を切り上げて帰途につきましたが、農免農道の坂を上りきって「農免スカイライン」に入ってすぐに立ち寄った玉祖神社のことは省略して記事を進めましたので、最後にそれを取り上げて置きます。トリ上げるのは長鳴鶏というニワトリや鳥の枯木アートですから、駄洒落家持には似合いです。(玉祖神社) 玉祖神社は久しぶりの訪問。調べてみると2010年11月27日の記事に玉祖神社のことが記されているから、それ以来なのかも知れない。 <参考>銀輪散歩・往生院から玉祖神社へ ということで、玉祖神社のことは上記<参考>の記事をご覧戴くとして、本日は天の岩戸神話に出て来るニワトリの話です。 以前来た時には無かった「常世の長鳴鶏」の木彫像が神社入口に鎮座して居りました。2012年の年末かに完成したもので、チェーンソー彫刻師の谷川昭広氏が制作されたとのことです。 (常世の長鳴鶏) 上の説明では鶏を鳴かせたのは玉祖命とあるが、古事記、日本書紀 の記事共にアマテラスが天の岩戸に隠れた時に長鳴鶏を集めて鳴かせたのは、思兼神(オモヒカネノカミ)であり、玉祖命はヤサカノマガタマ(八尺ノ勾玉)を作ったとされている。思兼神の指示によって、アメノコヤネノミコトやタマオヤノミコトやフトタマノミコトらは動いているから、実際に鳴かせたのはタマオヤノミコトだと言うのであろうか。 天照大神(略)磐戸を閉(さ)して幽(こも)り居(ま)しぬ。(略)故(かれ)、思兼神(おもひかねのかみ)、深く謀り遠く慮(たばか)りて、遂に常世の長鳴鶏(ながなきどり)を聚(あつ)めて、互に長鳴せしむ。(日本書紀・神代第七段) (長鳴鶏) そして、何と鶏舎まで出来ていて、その長鳴鶏が居るではないか。昨年3月に鶏舎が完成し、山口県防府市の玉祖神社で飼われている天然記念物の長鳴鶏「黒杓」雌雄8羽を、こちらで飼育することとなったらしい。 神社の前、農免道路を挟んで向い側(西側)は昔は梅林であったらしいが、そこに鳥をモチーフにした枯木によるオブジェが沢山と言うか、何やら好き勝手な風に立ち並んでいて、ちょっと面白い雰囲気なので、写真に撮ってみました。 こういうものは、解説やコメントには馴染まぬもののよう。まあ、勝手にご覧下さいませ。偐家持美術館特別展であります。もうかなり月日が経っていると見えて、雑草などとも馴染んでいる風なのがいいですね。(その1)洋種山牛蒡がマッチしています。(その2)(その3)(その4)(その5)(その6)(その7)(その8)(その9) 結局、訳の分からぬ古墳めぐりとなりましたが、以上でこのシリーズ完結です。お付き合い下さって、どうも有難うございました。<完>
2014.07.18
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<承前> 抜塚を抜けて農免農道に戻る。来迎寺の近くに農免農道から高安山へと登る道がある。(来迎寺近くの高安山登山口付近からの山の眺め) 農免農道を南に突き当たると神光寺という禅寺がある。そこで道は右(東)へと上る狭い道と左(西)へと下る広い道になっている。 折角なので、神光寺に立ち寄ってみる。 細い石畳の通路の奥に山門がある気配。蝉がしきりに鳴いている。涼しい風が通り抜けて行く。通路を突き当ると左手奥に山門が見えました。 禅寺らしい端正な佇まいの寺である。(神光寺) 背景の山も空の青さもすがしい。(同上) 人影もなく、寺の由来などは知る由もない。来た道を引き返す。農免農道に出ると、ママチャリを停めて寺の前で一人の男性が休憩して居られました。恩智か高安かこの下の方にお住まいのお方のようでした。この方と暫し雑談。 さて、古墳巡り。神光寺から坂を上ると墓地の中に古墳が点在している。古墳も墓であるから、墓地の中にあるというのは理に叶っている。(服部川7号墳)(同上) 7号墳の隣は神光寺の墓地が広がっている。 これは何号墳とも表示がない。この辺りの古墳は全て円墳である。後ろに回ってみると石室を覆っていた石が無くなっていて見通せるようになっている。土や石がもっと下まで無くなると、来迎寺の抜塚のようになるのでしょうが、これは未だそこまでは行っていない。抜塚予備軍。抜けかけ塚ですな(笑)。 もう一つ上の古墳。この古墳から更に行った処に石室が二つ連なった珍しい構造の二室塚古墳というのがあるようなのだが、これはパスして引き返す。古墳そのものには殆ど知識もなく左程の興味もない小生にはこれら古墳群は、猫に小判、ヤカモチに古墳であるようです。 それでも、大阪府下最大級の玄室を有するという愛宕塚古墳には立ち寄ってみることに。心合寺山古墳へと戻る途中にそれはあるのだが、場所はとても分かりにくい。以前にも一度立ち寄っているのだが、それは偶々出くわしたというものであってみれば、位置や道順は記憶の外である。(愛宕塚古墳)(同上)(同上・石室の中から)(同上・説明碑) やはり、古墳よりも花などの方に目が行くもののようで、今回はトクサのすがすがしい景色に見惚れました。(トクサ)(同上) トクサもこれほど集まって生えていると一つの景色である。 恰もトクサの御簾ですな。 御簾で連想したのは、何故であるか「十訓抄」や謡曲「鸚鵡小町」に出て来る、一字返しのこの歌。 雲の上は ありし昔に 変らねど 見し玉簾の 内やゆかしき 雲の上は ありし昔に 変らねど 見し玉簾の 内ぞゆかしき <注>玉簾(たまだれ) もう一つはオミナエシ。そして、ケイトウ、ススキです。(女郎花)高円の 宮の裾廻の 野づかさに 今咲けるらむ 女郎花はも (大伴家持 万葉集巻20-4316)<高円の宮のまわりの野の小高い丘に今は咲いているのだろう、女郎花の花よ>(鶏頭)恋ふる日の け長くあれば み苑生の 韓藍の花の 色に出でにけり (万葉集巻10-2278)<恋しいと思う日々が長く続いたので、み苑の韓藍の花のように色に出てしまったことだ。><注>韓藍=ケイトウのこと。(薄)はだ薄 穂にはな出でそ 思ひたる 情は知らゆ われも寄りなむ (娘子 万葉集巻16-3800)<はだ薄の穂のように言葉に出さなくてもいい。互いの気持ちは分かっています。私も従いましょう。> <注>はだすすき=まだ穂の出ていないススキ。 穂が出たのは、尾花、はたすすき。 情(こころ) 本日はここまでとします。次回は途中で立ち寄った玉祖神社と長鳴鶏を取り上げます。(つづく)
2014.07.17
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本日は第4回目のナナ万葉の会がありましたので、高安古墳群めぐりの記事はお休みして、万葉の会の記事をアップすることとします。 万葉の会の本日の参加者は男性2名、女性4名の6名。 今回は、今年1月11、12日のブログ記事で取り上げた八尾第一万葉植物公園にある歌碑の歌を鑑賞・解説することと致しました。喫茶ナナから山側へ少し行くと恩智城跡があり、その一角にこの万葉植物公園があるので、地元の方がこの公園に立ち寄られた際に、今日の解説や資料が参考となって、この公園の歌碑に興味を持って戴けたら・・という意図で、このような選択をした次第。まあ、ブログ記事があるので手っ取り早いか、という手前勝手な理由も少しありましたが・・(笑)。 講義資料もズボラをして、ブログ記事をコピーし、現代語訳と注記を加え、それぞれ歌われている花の写真を添えたもので代用させて戴きました。 <参考>万葉歌碑・八尾第一万葉植物公園 2014.1.11. 万葉歌碑・八尾第一万葉植物公園(続)2014.1.12. 補足で付け加えて取り上げたその他の歌は下記の4首です夏まけて 咲きたるはねず ひさかたの 雨うち降らば 移ろひなむか(大伴家持 巻8-1485)天雲を ほろに踏みあだし 鳴る神も 今日に益りて 恐けめやも(県犬養橘三千代 巻19-4235)いにしへに 恋ふらむ鳥は ほととぎす けだしや鳴きし わが思へるごと(額田王 巻2-112)わが君は わけをば死ねと 思へかも あふ夜あはぬ夜 ふた走るらむ(大伴三依 巻4-552)わが園の 李の花か 庭に降る はだれのいまだ 残りたるかも(大伴家持 巻19-4140) 午後2時開講。 3時に途中休憩。ケーキを出して戴いて珈琲ブレイク。30分ほど雑談。 3時半から後半の講義。午後4時40分頃終了。 次回(第5回)8月27日開催予定の万葉の会で取り上げて欲しいテーマが何かあるかと、希望をお聞きした処、男性の畑〇さんからは、神のことを詠った歌を紹介して欲しいとの希望があり、また、女性からは今回は花や木の歌であったから、動物の歌を、との要望が出ました。ということで、来月27日は神のことを詠った万葉歌を取り上げることとなりました。歌の数に余裕があれば、動物の歌も取り上げることとします。 はてさて、どんな成り行きになりますやら、小生も少し勉強しなくてはなりませんかな(笑)。 本日は、恩智川沿いの道ではなく、山側の道から近鉄大阪線恩智駅前の喫茶ナナへと向かいましたが、途中、高安山が正面に見える場所から高安山を撮影しましたので、それを掲載して置きます。この山は気象レーダーが目印であるが、これが無ければ、どの山がそれとは分かり辛い、山の姿であります。 小生が卒業した八尾高校の校歌には「高安山に照る月を長瀬の川に映す時・・」と高安山が歌われているのだが、長らくどれが高安山とは気付かぬままに居ました。(高安山。八尾市教興寺7丁目付近から)<参考>喫茶ナナ関係、ナナ万葉の会関係の過去の記事はコチラからどうぞ。
2014.07.16
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本日は八尾市の高安古墳群「千塚」の一部を巡って来ました。 明日は、喫茶ナナでの第4回目の万葉の会ですが、その講話のための資料を先日銀輪散歩のついでに届けた処、ナナの経営者、小〇さんが「Yaomania」という八尾市観光協会が発行している小冊子を下さいました。それに、「高安古墳群‘‘千塚’’をめぐる」という記事があり、興味を持ったからでありました。小生の高校1年の時のクラスメイトで割に親しくしていた男生徒に〇〇君というのがいたが、思い違いでなければ、彼は八尾市の千塚という地区から通って来ていたかと思う。彼とは卒業以来会っていないので、懐かしい。お元気にされているのだろうか。<追記・修正2022年9月1日午前0時40分>上記の〇〇君という部分を、原文では同君の苗字をそのまま書いていました。2022年8月31日深夜に、同君の親族というお方から、当該部分は削除していただきたいというコメントを頂戴した。親しかった同級生ということで、苗字をそのまま書いてしまったが、ご本人はどうあれ、ご親族のお方にご不快を与えてしまったようなので、伏字とさせていただきました。 さて、その記事に「抜塚」という古墳の写真が掲載されていて、ちょっと面白い風景であったので、実物を見てみたいと思った、ということと、日本史の授業で習った好太王碑の複製が八尾市楽音寺にある大阪経済法科大学のキャンパス内に建てられているというのを、同記事に添えられた地図の記載から知った、ということによるもので、小生の興味なるものは、少しも学問的なそれではなく、ブログ・ネタに丁度よいかなという程度のものなのでありました(笑)。 先ず、心合寺山(しおんじやま)古墳の前に出て、其処から八尾農免農道を辿って、ひたすら坂道を上る。心合寺山古墳は何度も取り上げていますので今回は省略です。 大阪経済法科大学の構内の好太王碑へと向かう。(好太王碑<複製>) (同上)<参考>好太王碑・Wikipedia(同上・説明副碑) 古代史では有名なこの碑のレプリカがこんな身近な場所にあるとは迂闊にも存じ上げぬことでした。それも15年も前から此処にあるのですな。 好太王碑の前の坂を下り、大学構内を北に抜けて熊野神社に立ち寄る。(楽音寺熊野神社)(同上・説明碑) 熊野神社から更に坂を下って、大学の正門前に回り、構内を抜けて、先程の好太王碑の場所に戻ろうとしたら、この区域は自転車乗り入れ禁止だと言われ、再び、熊野神社経由の来た道を辿って碑の方へと引き返しました。正門を入った処にある花岡山遺跡の石碑だけを撮影させて戴きました。(大阪経済法科大学)(花岡山遺跡石碑<複製>)<参考>花岡山遺跡石碑 好太王碑から少し坂を上った処にバス停がある。近くの自販機でお茶を買って水分補給。大学のガードマンさんと暫し言葉を交わす。この大学は開校してもう40年になるそうだ。大学を出て、再び農免道路の坂を上る。只々上る。(八尾農免農道の高みからの眺め。右寄り手前の白い建物は大阪経済法科大)<参考>農免農道とは何かについてはコチラの農免農道の項をご覧下さい。(八尾農免農道の上り坂は更に続く) 漸く一番高い地点まで来ました。ここからは下ったり、上ったりしつつも全体としては下りにて、楽々走行です。(八尾農免農道・ここからは概ね下り。ちょっとしたスカイラインである。) 途中の玉祖神社は別途記事にすることとし、先へ。 目指す「抜塚」は来迎寺の近くにあるようなので、その寺を目指す。それらしき寺を発見。行ってみると、果たして来迎寺でありました。(来迎寺)(同上・説明碑) 抜塚古墳は来迎寺の墓地の中にありました。古墳の玄室が抜けてしまってトンネルのようになっている。ちょっと面白い風景である。(大窪・山畑7号墳<通称・抜塚>)(同上・南側から)(大窪・山畑8号墳) 7号墳は玄室が抜けてしまっているが、隣の8号墳は玄室が土嚢のようなもので封鎖されている。玄室を塞ぐ石と死者を安置する玄室については、古事記のイザナギ、イザナミの神話のモチーフになっている、と上述の冊子には記されていました。死んだイザナミが腐敗して恐ろしい姿になっていたのが、黄泉の国であるが、これが古墳の玄室(石室)、それを見て逃げ帰って来たイザナギが黄泉の国に通じる道を塞いだ大石が、古墳の玄室への通路を塞ぐ閉塞石、古墳への入口付近の坂が黄泉比良坂、という訳である。(8号付近から大阪平野を望む。) 取り敢えず、本日はここまでとします。続きは明日に。(つづく)
2014.07.15
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偐万葉・若草篇(その13) 本日は、シリーズ第209弾、偐万葉・若草篇(その13)であります。 <参考>過去の偐万葉・若草篇はコチラから 小万知が贈り来れる句1句 分け入っても 分け入っても 黒の実ばかり (小万知) 偐家持が追和せる句7句 摘み取っても 摘み取っても まだある実 摘み取っても 摘み取っても またなる実 訳言っても 訳言っても 言い訳 禁酒する 禁酒する と言う訳もない偐山頭火 うしろ姿の 酔ってもいるか 禁煙する 禁煙する と言う訳もない偐家持 うしろ姿の 煙っているか (元句)分け入っても分け入っても青い山(種田山頭火) うしろすがたのしぐれてゆくか (種田山頭火)彼方(をちかた)の 里の先なる 滝谷の み寺に咲ける 花を訪ねな(偐南行)谷くぐり 丘越え来れば 木)の下の 水沼(みぬま)のほとり 水仙咲きぬ(ワーズワーカモチ)風わたる 花花花に また花の いづくや果てむ 水仙の原(ワーズワーカモチ)石川の 菜の花見むと 行く妹は クーは連れつつ 苦も無く行くか (注)クー=小万知さんの愛犬の名。 (クーの休日)はつ夏の 道はゆかしも 夕風に 流れか来たる 桐の花の香歌なきは さびし河内の 車谷 春日の神に 一首まつらむ草香坂 生駒の山に 雲居つつ 雨は降れども 濡れつつぞ来し (本歌)巻向の 穴師の山に 雲居つつ 雨は降れども 濡れつつぞ来し(万葉集巻12-3126)もぢずりに おもひなわびそ 汐なれば 船にてやるが 道理にあらむ(河原詐大臣)この頃や 知る子もなきの そのゆゑは 親も知らずて 言はぬ重太郎 (注)言はぬ重太郎=岩見重太郎を掛けている。 (蓮の蕾)<注> 小万知さんより写真2点提供を受けましたので追加掲載しました。2014.7.14. 偐家持が偐山頭火に贈りて詠める歌7首併せ俳句3句 並びに偐山頭火が贈り来れる俳句4句 偐山頭火が贈り来れる句に偐家持が付けたる脇句 洗頭皮 頭皮を洗う カミもなく (偐洗頭) カミさんも神も われ見放しぬ (偐家出)一粒は ケチくさいぞよ 山粒火 百万本の 薔薇もやあるに(大粒家持)栽培は 名ばかりなるや なまくらの 実(み)もなく立てる 名こそあさまし(仕様内侍(しやうのないし) (本歌)春の夜の 夢ばかりなる 手枕(たまくら)に かひなく立たむ 名こそをしけれ (周防内侍(すおうのないし) 千載集961 小倉百人一首67) 偐山頭火が贈り来れる句に偐家持が付けたる脇句 一粒が 三粒に見える ブルーベリー (偐健康食品) 白内障の 乱視にあるか (偐眼科医)山頭火 彼方(をちかた)野辺の 刈るかやの 束の間も 彼やすまずや(偐壁皇子)(本歌)大名兒(おほなこ) 彼方(をちかた)野辺に 刈る草(かや)の 束の間(あひだ)も 吾(われ)忘れめや(草壁皇子 万葉集巻2-110)三代の 墓にしあれど とひ来るは 風のほかなき 壷井の岡は(源家持) 偐山頭火が贈り来れる句に偐家持が付けたる脇句 並びに答へて詠める歌1首 河内宇治 源氏で繋がる 水の糸 (偐山頭火) 北と南に 今裂かるるも (偐家持)手枕を まかむひとなき 銀輪の 旅は蛍に 宿など借らむ(蛍合宿)尾も白き 犬の話を たづぬれば どこも同じの まゆつばはなし(閑倉閑景)藤の花 はや散りぬべし 薄田も 秋を待たじと 刈られけるかも 偐山頭火が追和して作れる句 女難かな 塙も薄田も 大坂の陣 (薄田兼相墓・偐山頭火氏ブログより転載)
2014.07.14
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本日は青雲会囲碁サークルの7月例会の日。お天気も好しでMTBで出掛けました。自宅を9時半に出発。9日の野里住吉神社で撮影し忘れた「乙女塚」の写真を撮るため、同神社に再度向かいました。野里住吉神社到着は11時33分。ほぼ2時間で到着です。 その乙女塚の写真は9日の日記の方に追加掲載しましたが、縮小版を下にも掲載して置くこととします。乙女塚は一夜官女のそれであるが、写真撮影は3日遅れの4日がかりとなりましたから、小生にとっては「四日官女」であります(笑)。 <参考>囲碁例会・野里住吉神社 2014.7.9. (乙女塚) 野里住吉神社を後にして東へ。JR塚本駅前に出る。塚本駅の西側一帯の地名は柏里。「野里の渡し」が日本書紀に出て来る「かしはの渡り」だという説のあることは、9日の日記にも書いたが、今に「柏里」という形で地名が残っているのでした。塚本駅前から淀川べりに出て、上流の十三大橋に向かうか下流の淀川大橋に向かうかで迷いましたが、淀川大橋の方が少し近くに見えたので、淀川大橋の方に向かう。(JR塚本駅) 淀川大橋の手前100m位の処に鼻川神社という小さな神社があったので、立ち寄りました。野里地区と淀川に挟まれたこの辺りの地域の地名は「花川」であるが、古くは「鼻川」であったのでしょう。もっと古くは「端(はな)」であったのでしょう。川の端(鼻)ということですな。(鼻川神社) 祭神は、神功皇后と素戔嗚命のようです。夏祭りが近くあるのか、それとももう終わったのか、境内には山車の台車部分がビニールシートに覆われて置かれていました。(同上)<参考>鼻川神社・Wikipedia(同上・拝殿)(同上・本殿) 国道2号線・浄正橋交差点で「なにわ筋」に入り、玉江橋で堂島川に沿って東へ。大江橋北詰を少し東に入った処にある、いつもの喫茶「なかおか」に到着したのが12時20分位。そこで、昼食。昼食後、洗面所で汗を拭い、新しいシャツに着替えて、囲碁会場の青雲会交流センターに入ったのは12時45分位。 本日も12~3名の出席。小生の成績は田〇氏に負け、宮〇氏に2勝し、岩〇氏に勝ち、銭〇氏と広〇氏に負けで、3勝3敗。可もなし不可もなし、でありました。
2014.07.12
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今は雨も止んでいますが、また降るかも知れず、銀輪散歩はお休みです。ありつつも去るをし待たむ雨雲の・・であります。と言うようなことで、本日は昨日の囲碁例会の時に、梅田スカイビルの里山で撮った写真などで記事アップすることとします。 先ず、中自然の森から。もっとも、中自然の森の写真は、昨日撮ったものではなく、先月4日の囲碁例会の折に撮ったものであります。 中自然の森というのは、里山の反対側、スカイビルの南側にあります。地下の滝見小路の前庭からウェスティンホテルのロビーへと続く空間に設けられた、人工地盤の上の小さな森のことで、大自然とまでは行かないので、「中自然」の森と名付けられたものであります。これまで、里山こと花野は何度もご紹介していますが、この中自然は取り上げたことがなかったようなので、森の中の風景を少しだけご覧戴きましょう。 スカイビルが完成した当初はリスを放ち、都会の森にリスという景色を目指しましたが、これは失敗であったようで、リスは居つきませんでした。リスもこのような森に居つくのはリスクが大き過ぎると判断したようです。(新梅田シティ・中自然の森)(同上)(同上) では、里山の方に回って、花散歩と致しましょう。コムラサキの花が楚々と咲いて・・(コムラサキの花) ムラサキシキブの方は、既に花が散ってしまったようにて、小さな実が生り始めていました。まだ、アサミドリシキブの状態ですかな。ムラサキも 浅き緑の 色にして ひと知れずこそ 秋待つらしも (偐家持) (ムラサキシキブ)(ヒメヒオウギスイセン<姫檜扇水仙>) 赤々と情熱的な色に咲いてひと際目を引いたのはこの花。モントブレチアとかクロコスミアなどという名もあるようだが、「門徒」や「黒子」よりも「姫」とか「檜扇」の方が和歌向きの名であります。しかし、ちょっと長すぎる名であるのが問題であります。それでも何とか歌にしてみれば、こんな具合ですかな。夏の野に ここだも咲きて 吾を呼ぶは 姫檜扇の 水仙ならむ (偐家持) (同上) 次はニワトコの花。と言ってもこれを花と呼べるのであれば・・でありますが。既に実をなしていて、花の残骸がへばりついているといった風でしょうか。実が真っ赤に色付くまでは、写真的にはイマイチの眺めであります。 先月の4日にはこの木、赤い実を付けていたのですが、それは姿を消していました。僅か1ヶ月でかくも変わるものですかな。ニワトコの花の時期や実が赤くなる時期などをネットで調べるとどうも合致せず、これがニワトコなのかどうかも自信がなくなって参りました。しかし、確かニワトコと言う名札が木の前に立てられていたように記憶しますので、ニワトコということにして置きます。 <参考>梅田の里山の花たち 2014.6.4.(ニワトコ) 次はツルムラサキ。ムラサキシキブやコムラサキとは関係ない、野菜であります。可愛いピンクの花が咲く筈なのですが、見当たりません。されば名にし負う、紫の蔓を撮るしかありますまい。(ツルムラサキ)(同上) ツルムラサキの近くに咲いていたのは、この花。例によって名前不詳であります。茄子などの植えられている野菜畑の一角ですから、これも野菜なのでしょうかね。(名前不詳の花)(同上)<追記>上の花はボリジという名だそうです。ハーブの一種で食用にもなるほか、アブラムシを食べてくれるナナホシテントウを呼び寄せる花ということで、野菜の傍に添えて植えられるコンパニオン・プランツとしても有名だそうです。以上、ブロ友のfurano-craftさんからご教示いただきましたので、追記して置きます。
2014.07.10
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本日は囲碁例会の日。雨が気になりましたが、ザックに雨具を入れて降れば降ったでよしとMTBで出掛けることとしました。復路では少し雨がパラつきましたが、雨具を着用するまでもない程度で、事なきを得ました。今月は前回2日は欠席しているので、今回が初めて。出席者は福〇氏、平〇氏、荒〇氏と小生の4名。 最初に福〇氏と打ち、これは負け。続く平〇氏にも負け連敗。最後に荒〇氏と打ち、これは勝って1勝2敗。これで今年に入ってからの成績は11勝11敗と一進一退であります。 さて、会場の梅田スカイビルに行く前の今回の立ち寄り先は野里の住吉神社でした。先日、岩見重太郎こと薄田兼相墓を訪ねたことから、野里の住吉神社に岩見重太郎の伝説が残っているということを知り、ならば、と足を延ばしたものであります。 <参考>薄田隼人正兼相の墓 2014.6.26. 野里住吉神社は国道2号線で淀川大橋を渡り、姫島通りの一つ先の野里本通り商店街を東に入った処にある。商店街のアーケードが途切れる処に神社の鳥居が「いきなり」という感じで突如出現する。 この神社の「一夜官女の祭」が岩見重太郎伝説と関係しているのであります。(野里住吉神社) 当神社の由来などは下記の<参考>をご覧下さい。 <参考>野里住吉神社・Wikipedia(同上・拝殿)(同上) 拝殿右奥には淀川戎神社も合祀されている。(淀川戎神社) さて、その一夜官女の祭であるが、下掲の写真の説明文をお読み下さい。ネットで調べると祭の様子を撮影した写真を添えて詳しく紹介されているサイトがありましたので、下にリンクして置きました。興味を持たれた方は覗いてみて下さい。(一夜官女の祭の由来) <参考>2011年に行われた一夜官女の様子 上の説明にある「乙女塚」の写真を撮り忘れたようです。後日、撮影してここに貼り付ける予定です(笑)。 <追記>本日(12日)青雲会囲碁例会に出るついでに、乙女塚の写真を撮影し て参りました。下掲の通りです。(乙女塚) (同上・全景) ついでに、司馬遼太郎の短編小説「一夜官女」をご紹介して置きます。囲碁の帰り道に近鉄小阪駅前の栗林書房に立ち寄り買い求めて先ほどパラパラと読んでみました。この野里住吉神社の祭と岩見重太郎伝説をヒントに書かれたもののようですが、ヒヒ退治などという話は登場致しません。姫路の医者に嫁いだものの夫婦仲がうまく行っていない小若という女性と岩見重太郎がこの住吉神社の祭礼で出会って、妙な成り行きになって・・というお話です。(司馬遼太郎「一夜官女」中公文庫)(野里の渡しの碑)(同上・副碑) 神社の境内、鳥居の脇に「野里の渡し」の碑が建てられている。明治になって改修される以前には、淀川(旧中津川)はこの野里住吉神社の直ぐ傍を流れていたらしい。この付近に野里の渡しがあったようだ。また、この野里の渡しが日本書紀に出てくる「かしはの渡し」のことであるとのこと。 「かしはの渡し」というのは、磐媛皇后が熊野に出掛けている留守中に仁徳天皇が他の女性を宮中に引き入れていた、これを知った皇后さんが怒り心頭、熊野で摘んで来た「みつなかしは」を海に投げ捨て、淀川を遡り、難波宮には帰らず、山背の国・筒城の岡に籠ってしまうことになる、というエピソードに登場する、「みつなかしは」を投げ捨てた場所である。<参考>時に皇后、難波済(なにはのわたり)に到りて、天皇、八田皇女(やたのひめみこ)を合(め)しつと聞(きこ)しめして、大(おほ)きに恨みたまふ。則ち其の採れる御綱葉(みつなかしは)を海に投(なげい)れて、著岸(とま)りたまはず。故(かれ)、時人(ときのひと)、葉(かしは)散(ちら)しし海を号(なづ)けて、葉済(かしはのわたり)と曰(い)ふ。(日本書紀仁徳天皇30年秋9月の条)景行天皇27年12月の条にも「柏済の悪ぶる神を殺しつ」という記載がある。
2014.07.09
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本日は墓参。 昨日の朝、2階のベランダから部屋に戻ろうとして、右足親指を敷居にぶつけてしまい突き指。不義理をした方の家の敷居は高くなるものであるが、我が部屋の敷居も加齢によって相対的に高くなってゆくもののようにて、先に部屋の中に入った左足の認識とそれを追いかけて部屋に入ろうとした右足の認識とに齟齬があったのでしょう。十分な高さまで上っていないのに右足を引き寄せてしまったがための「事故」。これは「自己」責任という奴ですな。痛みはあるものの、指も動くので医者へ行くほどのことではなさそうです。ということで、その指をかばいながらの心もとない歩きで墓までの散歩でありました。 その前に昨夜我が家に紛れ込んで来たコガネムシをご紹介して置きます。これはアオドウガネというコガネムシ。これよりひと回り大きく色がもっと濃い茶色で光沢がない虫で、ドウガネブイブイというのが居るが、アオドウガネの方が勢いがあって、在来種のドウガネブイブイはこいつに生息域を奪われつつあるらしい。名前はブイブイなのにブイブイ言わせているのはアオドウガネの方でドウガネブイブイは名前倒れであるようです。(コガネムシ<アオドウガネ>) 上も下も同じ虫。撮影の角度によって色が微妙に異なって見えるようです。下は部屋のカーペットに止まった処で、まだ下翅がたたみ切れていません。 コガネムシは金持ちだ♪、という歌があるが、ワガハイは家持であって金持ちではない。早々においとま願うこととし、丁重に庭の闇の中へと放り投げて進ぜました。(同上) さて、お墓参りは、その道中にある寺の門前に掲示されている言葉を撮影することから始まる、というのが最近の定番行動。(寺の門前の今日の言葉)衆水 海に入りて 一味なるがごとし ―正信偈― (注)正信偈=親鸞の著作「教行信証」全6巻のうちの第2巻「行の巻」の末尾に 添えられている正信念仏偈(念仏の教えを正しく信ずるための道 理を述べたる歌)のことで、漢字で表記され7文字を1句とし、 120句60行からなる。 墓の近くに咲いていたのはムラサキツユクサ。よく見かける花であるが、そのような花も子細に眺めると新しく気付くものがある。蕊が黄色で紫の花弁にいいアクセントを添えていることや蕊の周囲には青い糸状の繊毛があることなどは、今日気が付いたことであります。 横顔だけでは失礼。正面の顔もどうぞ。しかし、小生はこの花に限って言えば、横顔の方が好きですかな(笑)。(ムラサキツユクサ)(同上) もう一つ目を引いたのはゼフィランサス。西風の神・ゼピロスの花という名を持つこの花もなかなか美しい。(ゼフィランサス 別名:タマスダレ、レインリリー) そして、カタバミ。剣の形の種苞が既に生っている。熟すと手を軽く触れるだけで、プチパチと音を立てて種子を周囲にまき散らす。その旺盛な生命力・繁殖力にあやかろうと、カタバミをデザインした家紋も多い。(カタバミ・片喰)(同上) そして、アカメガシワの花である。墓地の片隅にあった木に近付いて花を撮影しましたが、先日、河内飛鳥川畔で撮影したそれと印象が違う。調べてみると、これは雄花で、先日のそれは雌花であったという次第。 <参考>河内飛鳥川銀輪散歩(その1) 2014.6.20.(アカメガシワ)(同上) 墓と道を挟んで向い側の石垣に沿うように繁茂していたのはヤブガラシ。この蔓性の雑草は何処にでも生えているお馴染みのもの。別名がビンボウカズラ(貧乏葛)だそうな。昨夜は金持ちのコガネムシさんを追い出したものだから、今朝は貧乏葛が繁茂してしまったということのようです(笑)。しかし、この草、名は貧乏でもすごい生命力、ちょっとやそっとではへこたれない強い草なのであります。(ヤブガラシ)(同上)<参考>ヤブガラシ・Wikipedia そして、恒例の名前不詳の花です。何やら竹の花っぽいのが、草の頂上から垂れ下がった花柄に群れて咲いています。線香花火が弾けているみたいです。(不明の花)(同上)追記:小万知さんのコメントをヒントにネット検索してみたら、シュロガヤツリと いう名であることが判明致しました。(2014.7.7.) <参考>シュロガヤツリ・Wikipedia こちらも名前不詳の花。アザミのような葉でしたが、普通に見るアザミとはちょっと違う。まあ、花が咲いてからもう一度撮影してみますかね。もっとも、墓に向かう途中の道脇のお家の庭にあったものですから、注意しないと「不審者」となりますな(笑)。丁度、庭のフェンスからこの部分が顔を出していましたが、この後も顔を出したままに咲いてくれるかどうかは保証の限りではありません。(もう一つの、その名不詳の花)追記:この花の名はルリタマアザミだそうです。 小万知さんが教えて下さいました(2014.7.7.)
2014.07.06
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暫くブログをサボっていました。 ということで、この処の銀輪散歩で見かけた花や実などを、そこはかとなく書き綴ることと致します。兼好さんと違ってヤカモチは特段「ものぐるほしく」もならないのではありますが、文章の方はいささか「怪しく」はなるのであります。(アカツメクサ<赤詰草>またはムラサキツメクサ) アカツメクサというと先日の淀川自転車道銀輪散歩のことが思い出されます。この花は河川敷などを走っているとよく目にする。平城京公園でもよく見かける。<参考>淀川自転車道銀輪散歩(その1)2014.6.1.(合歓木の花) 合歓の花は今が盛り。万葉集から1首掲載して置きましょう。昼は咲き 夜は恋ひ宿(ぬ)る 合歓木(ねぶ)の花 君のみ見めや 戯奴(わけ)さへに見よ (紀女郎 万葉集巻8-1461) <昼は花開いて夜は慕い合って寝る合歓の花です。主人である私だけ見ていてよいのか、そうではない。お前さんも見なさい。> 合歓の花で思い出す銀輪散歩は象潟と千曲川でしょうか。<参考>象潟銀輪散歩(その1) 2013.7.19. 千曲川銀輪散歩・上山田万葉公園・千曲川自転車道 2008.7.25.(オニグルミ) ネムノキの隣にはオニグルミの木。近寄って見ると実が生っていました。(同上) クルミの隣には名の知らない木。葉はセンダンやアカシアのそれに似ていなくもないが、そのような高木ではなく低木である。胡麻のような小さな実がいっぱいに生っている。まるでアブラムシがたかっているようです。(不明の木)追記:これはイタチハギだそうです。(2014.7.7.) そして、杏の実。小生が子供の頃は近所にも杏の木が結構あって、その実を好んで食べたもので、とても美味しい果物というイメージがある。そんなことを思い出して、一つ失敬して齧ってみたが、不味い。全く美味しくない。この違いは何なのだろう。昔は甘いものもそうはなく、この程度の糖度や酸味でも美味しいと感じたのだろうか。それとも、これは、果実を栽培するための木ではないから、生っている実もそれなりのもの、ということであるのか。杏というもののイメージが壊れた瞬間でありました。(杏)(同上) 次は椿の実。さすがにヤカモチも椿の実は食べない。この実が弾けて真っ黒に固くなった種がこぼれ落ちると、それを拾ったり、弾け始めた実から種を取り出し、それで笛を作って遊んだことを思い出す。(椿の実) 次はツツジ。白い花のツツジというのは珍しい。(白いツツジ) そして、これは多分、ニガナ。ノニガナとかヤマニガナとか色々の種類があるようだが、その区別などはヤカモチの手に余ることにて、単に「ニガナ」である。 春の七草のホトケノザというのはこのニガナの一種のことらしいが、詳しいことは勿論存じ上げぬことである。(ニガナ?)<追記>上はニガナではなくブタナの可能性が高いかもです。 そして、野菜畑の一角にあったのがズッキーニ。最近ブログ上で交流の始まった「ひろみちゃん」は何と小生の中学時代の同級生で、卒業後も何かと親しく交流のあった同級生の一人であったことが判明し、驚きましたが、小生は年を取るのが早く1296歳となってしまったので、彼女とは随分の年齢差になってしまいました。 さて、その「ひろみ郎女」さんがご自身の最近のブログで「ズッキーニはどんな花が咲くのだろう」と書いて居られましたが、このほどたまたま通りがかった銀輪散歩の道すがらで、ズッキーニの花を目にする機会がありました。それは殆どカボチャの花と変わらないのでありました。ということで、ズッキーニの花を下に掲載して置きます。オマケで2枚も、です(笑)。(ズッキーニ)(同上) で、問題は、そのズッキーニの隣にあった並木道であります。どうみても木に見えるのですが、野菜畑に木が植えられている筈もなく、これは野菜であるのでしょう。葉を食うのか、茎を食うのか、それとも根を食うのか、それも分かりかねる何とも奇妙な姿の草、いや、野菜なのであります。因みに背の高さは30~60cm位の低いものです。(野菜畑の並木道・・これはいったい何なのだ。)<付記>小万知さんの下記コメントで上の奇妙な並木はコンニャクであると教わり ましたので付記して置きます。この土の下ではコンニャク芋が育ちつつあ るのですね。芋が収穫できるまで育つには3年程度かかるらしいです。<参考>花のカテゴリーの当ブログ記事は下記からどうぞ。 花(1)2007~2011 花(2)2012~
2014.07.03
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