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昨日は、大学の同期会「夕々の会」でした。この会は大学入学年次が同じという者の集まりです。何故卒業年次でしないのかと言うと、高校と違って、大学は留年する人も結構いるので、卒業年次でやると入学が先輩の人も「同期」となってしまうからです。 大学側の「期」は卒業年次であるが、学生の我々の「同期」という感覚は入学年次が同じであるというものである。ということで、少し変則の「同期会」、それがこの「夕々<よいよい>の会」なのである。何回目になるのか定かではないが、最近は年2回5月と11月に集まることが定例となっている。 本日の出席者は黒〇、小〇、佐〇、谷〇、蝶〇、道〇、中〇、西〇、広〇、深〇、古〇、前〇、守〇、油〇君と小生の15名。会場はいつもの心斎橋の大成閣。5時半開宴。 今回は小生が一番遅く、5時半の定刻の何秒か前に到着。JRみたいな人だね、と世話役の谷〇氏から揶揄されましたが、これは近鉄電車が3分遅れで難波に到着した所為である。近鉄が定刻到着なら3分前には会場に入れていた筈(笑)。乾杯、食事、歓談、各自近況報告のスピーチ、記念撮影、散会とこれもいつもの通り。 次回は来年5月の開催となるが、趣向を変えて、京都で昼間に集まり、散策と宴会にしようという話になりましたので、ブログ的には結構なことと、小生は大いに喜んでいます(笑)。脱現役が増加し、平日のお昼に集まるということも可能になって来たという訳であります。 そんなことで、写真はなし。会場へ向かう途中、御堂筋から撮った道頓堀の写真を掲載して置きます。(道頓堀) そして、今日29日は同窓会・青雲会の青雲塾による万葉ウォーク。連日の大学同窓会絡みの外出となりました。青雲塾万葉ウォークはこれが4回目になる。前回は一昨年になるから、久々の万葉ウォークになる。第1回以来、小生が案内役を仰せつかっている。そして、当ブログでも紹介しているナナ万葉の会の第8回例会も兼ねさせて戴くこととしましたので、第4回青雲塾万葉ウォーク兼第8回ナナ万葉の会ということになります。 雨の場合は来月6日に順延という予定であったが、予報では朝の内は雨、正午頃から回復、午後には青空も覗く、と言うことであったので実施に踏み切る。 小生は、近鉄で近鉄奈良駅まで出て、近鉄奈良駅からJR奈良駅へ徒歩移動、JRに乗り換えて加茂駅へ、というコース。JR奈良駅に着く辺りで雨がパラつき出す。(JR奈良駅)(JR奈良駅ホーム) JR加茂駅に着いた頃は本降りの雨。実施強行は失敗かと思う一方で、間もなく回復するだろうという思いも。皆さんが乗って来られるであろう10時27分着電車よりも二つ前の電車でやって来たので、加茂到着は10時前。駅前の喫茶店で珈琲を飲みながら参加者の到着を待つ。27分着の電車が入って来るのが見えたので、喫茶店を出て改札口前に移動。今回の参加者は青雲会からは、世話役の松〇氏ご夫妻、塚〇氏、田〇氏、植〇氏、田◎氏、仲〇氏、大〇氏、藤〇氏の9名。ナナ万葉の会からは小〇さん、松〇さん、若〇さん、永〇さんの4名。それにブロ友のビッグジョン氏が特別参加で、小生を含め全15名となりました。ナナ万葉の会の高〇さんは雨が酷いので最寄り駅まで行ったものの、これでは実施はないと思って帰宅してしまわれたので不参加。小生の携帯にお電話を戴いていたのだが、電車移動中でマナーモードにしていたこともあって、それに気が付かなかった小生のミスでした。 ということで、全員集合、駅前から船屋通りを通って恭仁大橋へと歩き始める。時折雨がパラつきましたが、さしたることもなく支障はありませんでした。(左手前・流岡山、中央奥・湾漂山、恭仁大橋の上から) 午前11時過ぎ恭仁大橋を渡る頃の湾漂山は「雲立ち昇る」様にて、これはこれでなかなか趣のある眺め。 川下側の鹿背山は雲に隠されて山頂部分は見えない。対岸の狛山も似たような感じ。(狛山) ということで、国分寺跡・恭仁宮大極殿跡の草地の上での昼食というのは諦めて、先に恭仁神社に向かい、そこで拝殿前の建物をお借りしてお弁当タイムとしました。 昼食後、そこで講義。恭仁京遷都の前後の政治状況や藤原広嗣の乱、橘諸兄や大伴家持などの恭仁京への思い入れなどの他、安積皇子の周辺のことと大伴家持との関わりなども説明させて戴き、それらに関連した万葉歌を皆で鑑賞致しました。 講義を終える頃には青空。日差しも出て明るくなったもみぢせる山々の美しさに見とれつつ、大極殿・国分寺跡へ。(恭仁京大極殿跡から「布当山」を望む。)(湾漂山) 大極殿跡などを一通り見学してから、加茂駅へと引き返す。来る時には煙っていた湾漂山も上の写真のようにくっきりと。 加茂駅前の喫茶店に皆と入り休憩、そしてそれぞれの交流。 お急ぎの方から順にお帰りになり、小生ら最後の組となった、松〇ご夫妻、小〇さん、松〇さん、永〇さん、塚〇氏、植〇氏が店を出たのは午後4時過ぎ。午後4時12分の難波行快速電車で帰途につきました。京都へお帰りになる永〇さんは木津で下車、次に奈良で小生が下車、皆さんとお別れして家路へ。 本日歩いたコースなどの詳細は先月に下見のためやって来た時のことを記事にしていますので、それをご参照下さい。 <参考>恭仁京銀輪散歩 続・恭仁京銀輪散歩(奈良・三条通り) 三条通りから途中で国道へ移動。西方寺を覗いて行く。 寺の由来などは下掲の説明板をご参照下さい。(西方寺・山門)(西方寺・本堂)(同上)(同上・由来記)(祐全上人坐像説明板) 寺を去ろうとしたら、山門脇の銀杏の木の先に上弦の月。 何となくブログ記事の締めくくりの写真にいいかと撮影。(山門脇の銀杏の木の先に弓張月)<参考>恭仁京周辺の「万葉ウオーク」(ビッグジョン氏のブログ記事)
2014.11.29
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<承前> 三山木駅前を出発しての京田辺市、井手町、和束町、木津川市にわたる11月23日の銀輪散歩の記事が今回で漸く完結します。僅か6時間の銀輪散歩でありましたが、記事にすると全6回、6日間にもなるのですから、ブログとは面白いものであります。 では最後に海住山寺の紅葉をお楽しみ下さい。 海住山寺も紅葉の名所なんだろうか。境内には多くの人が来て居られて、それを避けて撮影するのに苦労しました。(海住山寺の紅葉) 本堂の右手を奥に登って行くと紅葉は更にも。(同上)みほとけの みちもかくしか ほだらくの 山もみたへる 海住山寺 (偐家持)(同上)(同上) (同上)もみぢたる はにこぼるるは ひのひかり われにもほとけ ゑみたまふらし (偐家持)(同上)(同上 碑は「隆範大僧正頌徳碑」) 本堂裏の高みからは、恭仁京跡が一望である。(境内から鹿背山<正面>、狛山<右>、木津川を望む) 恭仁京は740年12月宮都となるも744年2月の難波遷都により廃都、3年余の短い期間で造営が中止、放棄された「幻の都」である。此処は、先月23日に銀輪散歩し記事にしているので、下記<参考>をご覧下さい。 <参考>恭仁京銀輪散歩 続・恭仁京銀輪散歩今なけど 恭仁の都は 山河の さやけき見つつ かけてしのはむ (偐家持) (本歌)今つくる 久邇の都は 山河の さやけき見れば うべ知らすらし (大伴家持 万葉集巻6-1037) 海住山寺を出て坂を下る。車のスリップ止めの細かい溝が刻まれているコンクリート舗装の道は走り心地が頗る悪い。ガタガタと下る。山域を出るとアスファルト舗装。軽快な走りに変わる。国道163号線を渡り、大伴家持の上の歌碑のある小緑地を右に見つつ恭仁大橋へ。偐家持の上の歌を歌碑にして家持歌碑の隣に建てたらブーイングでしょうかね(笑)。 橋を渡って道なりに直進、JR加茂駅前到着。午後2時44分。 自転車をたたみ、バッグに収納したり、駅舎を撮影しているうちに電車が出てしまいました。次の電車は3時15分。(JR加茂駅)(同上) 加茂、木津、平城山、奈良。奈良で下車。JR奈良駅から近鉄奈良駅までは収納バッグにいれたまま担いで徒歩移動。休日とあって三条通りは歩行者専用となっているが人通りが多過ぎて歩きにくい。ワシントンホテルの前で路地に入り国道の方に移動する。 で、字数制限までまだ少し余裕があるので(笑)、通りがかりに見掛けた寺にちょっと寄ってみた。葵の御紋が目に入ったので門前の説明板を読んでみようと思ったのでありました。(山の寺・念仏寺) 大阪冬の陣の木津の戦で真田幸村軍に敗れた徳川家康が奈良まで落ちのび、この地小字山の寺の桶屋の棺桶に隠れて生き延びたのだそうな。それでかどうかは知らぬことなれど、家康の末弟の松平定勝がこの地を買受け寺を建立した。それがこの念仏寺なのだそうな。(同上・本堂)(寺の由緒) 近鉄奈良駅から急行で石切駅まで。ここで下車。再度トレンクルを組立て自宅までもうひと走り。石切駅で収納バッグ(袋)からトレンクルを取り出していると一人のご婦人が話しかけて来られました。何やら随分トレンクルに興味を示され、色々と質問を受けましたが、駅前にあるキリスト教会のお方であり、来月6日に東大阪市立文化会館で行われるクリスマス・コンサートへのお誘いでありました。 以上で、全6回にわたる銀輪万葉日記完結であります。長らくのお付き合い、どうも有難うございました。<完>〇今回の銀輪散歩記事一覧1.三山木から玉水へ2.井手の玉川から以仁王墓・橘諸兄墓へ3.府道321号ひた走り、大正池・峠越え4.茶源郷「和束」・安積皇子墓5.府道5号駆け下り、菜切橋・海住山寺へ6.海住山寺の紅葉・井手和束銀輪万葉完結(当記事)〇近辺関連記事恭仁京銀輪散歩 続・恭仁京銀輪散歩月ヶ瀬渓谷銀輪散歩余録・月ヶ瀬口から加茂まで加茂から京都まで木津川・淀川自転車道をゆく
2014.11.28
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<承前> 府道5号線を駆け下る。和束川沿いに走る快適な下り坂。やはり自転車は下りに限る。しかし、これは自らが汗して高みまで上った「貯金」を下ろしているに過ぎないのである。上った分しか下れない。 5号線は菜切橋の北西で国道163号にぶつかり、そこで終点。和束川はその菜切橋の200m位先で木津川に流れ込んでいる。 みかの原大橋で和束町とお別れ、木津川市(旧加茂町)に入る。(みかの原大橋) (和束川) 上の写真は途中の小さな橋の上から撮ったもの。再び走り出した時、右手の山側でバキバキと音がしてドスンと何かが飛び降りた感じ。通過して振り返ると真っ赤なお尻の猿が悠然と去って行き、写真を撮っていた橋を渡って対岸へ。多分彼は小生が橋を立ち去るのを待っていたのだろう。 菜切橋に到着。国道163号である。ここで右折して西に走るのが帰路コースであるが、菜切橋を撮って置こうと橋の方に回る。アングルとしては南側に回った方がいいかと、国道を渡って反対側に回ってみたが、いいアングルが見つからず、下のような写真で妥協。(菜切橋、右に少し見えているのが湾漂山トンネル) 菜切橋の先は直ぐに湾漂山トンネルである。その名が示すように、この山が湾漂山。26日の記事にて触れた万葉の「活道の岡」の候補地の一つがこの湾漂山である。王廟山とも呼ばれる。 で、見つけたのが「名水二ッ井」という古びた木製の案内標識。予定より早く走り下って来てしまったので、見て行くことに。(名水・二ッ井) 一つ目の井は菜切橋のたもと、国道下にある。入口に井の名を記載していたのであろう札木が朽ち果てて倒れている。書かれた文字は痕跡をとどめていないのでその名は不明である。奥の二つ目の井は札木には「柏ノ井」とあるから、「松柏」でこちらは「松ノ井」なのかも知れない。 (手前の井) (奥の井、「柏ノ井」) 二ッ井の西側(上の写真の土塀の内側)に神社があった。石の鳥居には何とも書かれていないので神社の名も不明であるが、奥に設置された真新しい赤い祠には春日神社とあるから、春日神社であるのだろう。(春日神社) しめ縄に吊り下げられているのは柏の葉と松の葉を束ねたもの。 いよいよ、先程の井の名も松・柏に違いないと勝手決めしているのでありました(笑)。 司馬遼太郎さんの著作か何かに書いてあったかと思うが、松柏の「柏」とは本来は「檜」のことである。 コノテガシワはヒノキ科の植物。万葉にも、 奈良山の児手柏の両面(ふたおも)に 左(か)にも右(かく)にも佞人(ねじけびと)の徒(とも) (消奈行文大夫 巻16-3836)という歌で登場している。 ところで、「カシワ」は食器の意味である。ブナ科のカシワは、その葉を食器代わりに使ったことから、これを「カシワの木」と呼ぶようになった。ヒノキの葉も同様な使い方をしたから、コノテガシワというような名も付いたと思われる。で、檜も亦「カシワの木」であった。要するに「カシワの木」というのはその葉を食器代りに使う木の総称で木の品種名ではなかった。 そんな処へ「柏」の漢字が入って来た。柏は檜であるから当初は「檜」に対して使われた。「檜」は「カシワの木」であるから「柏」は「カシワ」と訓じた。その結果、ブナ科の「カシワの木」にも「柏」という漢字が使われるようになった。やがて、「柏」と言えばブナ科のそれを指すことが主流となり、檜を指すことは無くなり、ブナ科の植物カシワの品種名になった。これが「柏=カシワ」となった経緯ではないかと推量する。 結果的に意味の取り違えが生じた訳であるが、こういうのは「使い方に瑕疵は(カシワ)ない」と言うべきでしょうか(笑)。かくて柏餅が檜餅にならずに済んだと言う訳である。(同上)(社務所?) 鳥居脇の茅葺の小さな小屋がいい雰囲気である。方丈の庵とか芭蕉さんの幻住庵などが連想される。 さて、未だ時間が早い。海住山寺に立ち寄って行くこととする。 途中で畑焼きをされている方が居られた。立ち昇る煙がいい雰囲気なのでカメラを向ける。(海住山寺への道)(同上) 海住山寺へは狭い坂道を上って行かねばならない。山域に入った処から勾配が急峻となり、とても漕いでは上れなくなる。前屈みに楼門前まで押して上がる。 海住山寺訪問も久しぶりである。10年以上も前に、恭仁京趾・加茂神社の方からの裏道伝いにやって来たのが最後で、それ以来の訪問である。 海住山寺については、下記<参考>をご参照下さい。 <参考>海住山寺公式ホームページ 海住山寺・Wikipedia(海住山寺楼門) 楼門前から再びトレンクルに乗って駐車場へ。駐車場前の紅葉が美しい。駐輪してお堂の方へ。入山料100円。仏像拝観は別途料金であるが、これはパス。紅葉を見に来たのであるから。(海住山寺駐車場側の紅葉)(海住山寺・本堂)(同上・五重塔) 五重塔前の紅葉が特に素晴らしい。(同上) お堂の裏の高みにかけても紅葉が美しいので行ってみたが、これは次回記事とさせて戴きます。(つづく)
2014.11.27
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<承前> 和束は茶畑の町。志貴皇子の墓のある奈良の田原地区も茶畑の広がる町だが、安積皇子の墓のある和束町も茶畑の町。こちらは「茶源郷」と自らを呼んでいる。この銀輪散歩は11月23日のこと。この日は亡き父の誕生日である。父が元気であった頃、万葉の故地を訪ねてよく二人で歩いたものであるが、ここ和束もその一つである。そんなことで、父のことなども思い出しての和束行きとなった次第。きっかけは冒頭で述べたビッグジョン氏のブログの和束の茶畑の写真でありましたが、23日に実施したのは父との思い出でありました。(茶畑) 峠から九十九折りの急峻な坂道を下っている時に見掛けた山間の茶畑。何か不思議な静寂が茶畑にはある。里山の静寂。人の手が加わっている風景であって人の影が絶えている、それが「静寂」というイメージを喚起するのでしょう。 山裾に下って突き当りで府道321号は直角に左に折れる。それを行くとすぐに雄大な茶畑の風景が目に飛び込んで来る。(白栖地区の茶畑) 暫し茶畑の風景に目を遊ばせる。 「見らくしよしも」とか「見れども飽かず」というのは、こういう場合に使うのであろう。 (同上)(同上) 砂丘の風紋と同様、この何とも言い難い曲線の折り重なりが、見る人の心に自ずからなるやさしいメロデイーを奏でるもののよう。リズムが「喚起」ならメロデイーは「癒し」である。(堀ノ尾地区の茶畑) 遠くに目を転じると、色づいた秋山が日に映えて・・。春花の 和束もよけど 茶畑の 先にもみたふ 山こそまされ (偐家持)(同上)(同上) ゆるやかな坂道を更に下って行くと右手に公園があった。活道ヶ岡公園とある。 「活道(いくじ)の岡」というのは安積皇子の別荘があった処であり、天平16年正月11日に市原王、大伴家持らはこの岡に登って集宴している。この折に二人が詠んだ歌がこれ。一つ松 幾代か経ぬる 吹く風の 声の清きは 年深みかも (市原王 万葉集巻6-1042)たまきはる 命は知らず 松が枝を 結ぶ心は 長くとぞ思ふ (大伴家持 同巻6-1043) 活道の岡については、ここ和束町白栖説のほか、木津川市加茂井平尾の湾漂山説や同岡崎の流岡山説などがあって、何処とも定まらない。(活道ヶ岡公園)(大伴家持歌碑) 大伴家持の歌碑もありました。 若き大伴家持は安積皇子に仕える内舎人でもあった。安積皇子は上の活道の岡での宴のあった翌月の閏正月13日に急死してしまう。聖武天皇の唯一の男子であった皇子。既に光明皇后との間に生まれた娘の安倍皇女(後の孝謙天皇)が皇太子となっていたので、安積皇子に皇位継承という目は当面なくなっていたが、安倍皇女の次の天皇ということになると安積皇子になる訳で、藤原氏としては邪魔な存在。そんなこともあって、この急死は藤原仲麻呂に毒殺されたのだという説もあったりする。 それはさて置き、安積皇子の死を傷み家持は長歌2首、反歌4首を作っている。上の歌碑の歌はそのうちの1首である。わが大君 天知らさむと 思はねば おほにぞ見ける 和束杣山 (大伴家持 万葉集巻3-476)(安積皇子の墓)(同上) 漸く、銀輪万葉らしくなってまいりました(笑)。(安積皇子墓から西方向の眺め) 安積皇子の墓も茶畑の中。 西方向を眺めると、わが打ち越え来たる山並み。(同・東方向の眺め) 東方向には和束川。和束川に沿っている道は、府道5号線。これを左に行くとやがて国道307号に合流し、信楽へと行ける。遠山はるか東に行けば伊賀上野、芭蕉さんの生地である。しかし、今日の銀輪はここまで、府道5号を右に取って和束川沿いに下流へと下ります。 安積皇子にお別れし、白栖橋で和束川を渡る。(白栖橋上から和束川と府道5号線) 白栖橋交差点を右折、府道5号線を下る。昔、父と和束へとやって来た時は、恭仁京跡から和束川沿いにこの道を時々は車を避けて脇道を使いながらやって来たのであれば、今回はそれを逆に辿ることとなる。 では、もみぢ見つつや、いざ帰らなむ。亡き父と 来し道逆に 辿りつつ 和束杣道 われは帰らな (偐家持)(和束川支流の杣田川畔にあった仏塔)(府道5号から見る和束のもみぢ)(同上・杣田付近)(同上)(同上・撰原へと下る。)字数制限です。今日はここまでとします。(つづく)
2014.11.26
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<承前> 橘諸兄さんにお別れし、元のまともな道に戻り、再びトレンクル君で出発。北へ。坂を下ると再び玉川である。玉川を渡り、再び坂を上る。つばき坂という名の坂。これを上り切ると府道321号に突き当たる。府道321号の坂を下った処に橘諸兄が創建したという井手寺跡があるが、今回はパスして上りへと入る。(つばき坂を上った処から山吹山を望む。) 正面奥に見えているのが山吹山なのか手前右手の山がそれなのかはよく分からないが、左手山裾の道が府道321号である。山を越えて安積皇子墓の前までこの道をずっと走ることとなる。(同上) 道は予想通りの坂道。延々と上る。時々一息ついて山の紅葉に目を遊ばせる。途中で三脚のカメラを構えて山を撮影されている男性に出会った。こんにちは。「おはよう」には「おはようございます」という丁寧な言い方があるが、「こんにちは」と「今晩は」にはそれがない。「こんにちは、好いお天気でございますね。」など、後ろの言葉が省略された言葉だから仕方がない。 猛スピードで走り下って来る自転車族にも何人かすれ違った。 羨ましい(笑)。まあ、こちらも何れ下りとなるのだが。(美しい紅葉も) 名勝岩壺なる文字が目に入る。かなり足がだるくなり、息も荒くなっていたので、これを口実に自転車を降りて見学して行くこととする。(名勝・岩壺)(同上)(同上) 壺と言うからには、これがそうなんだろう。 漸くにして大正池への登り口に到着。(大正池登り口) ここからは、草が茂り、落ち葉も降り積む凸凹の急坂で自転車は押したり担いだりして行くしかないのでありました。(ダムサイト) ダムサイトに到着。大正池というのはダム湖であったのですな。上にはログハウスも見えているからキャンプ場になっているようです。何のことはない。もう少し先の方からは舗装道路でキャンプ場に入ることができたのでした。(ダムサイトから府道321号を見下ろす。)(大正池)(案内地図と大正池の説明板) (キャンプ場) キャンプ場には休日とあって、子供たちも大勢。(キャンプ場サイトから眺める大正池) キャンプ場から眺める大正池はなかなかに宜しい。 池を巡る遊歩道もあるが、自転車で走るには少し難のある道のようなのでパスして、先を急ぐこととする。まだ、上りは続くのだから。 (これより和束町。振り向けば井手町) やがて杉林、檜林の中の道となる。井手町から和束町に入る。更にも坂道をうねうねと上って行く。いつの間にか隣を流れていた玉川も姿を消している。すると突然に目の前が開けて明るくなる。どうやら坂を上り切ったようである。杉林を抜けるとそこは茶畑であった。和束は桃源郷を文字って「茶源郷」と称しているそうだが、その言葉通り峠で迎えてくれたのは茶畑でありました。(やっと、峠の頂上に) 途中休憩はあったものの、321号は自転車を押すことなく全行程を漕いで上ることができたのは、我ながら天晴れ。それを測ったかのように、和束の里の方からチャイムの音。正午の時報であった。 さればとて、この素敵な眺めを独り占めにして、お弁当タイムとしました。多分山の中でお昼だろうと弁当を持参したのでありました。(和束の山々)たたなづく 遠き青山 吹く風も いよよさやけし 和束の峠 (偐家持)(紅葉する山) 昼食の後は一気に下るだけ。天国と地獄は峠を境に接しているのですな。上って来た時の汗が嘘のよう。風が頗る心地よい。(毘沙門寺) 九十九折りの坂を下った処に寺があったので立ち寄ってみた。(同上) 寺の由緒などは分からぬが真言宗の寺。まあ、いい雰囲気のお寺。 そうそう、今回は和束の茶畑の風景を見に来たのだから、その写真をお見せしなくてはなりませんね。 しかし、今日はここまでとし、茶畑の、これぞ和束という景色は次回ということに致しましょう。(つづく)
2014.11.25
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<承前> 玉水駅前の道を南へ行くと、先程渡って来た玉川の土手に突き当たる。先ほどは南から北へと流れていた玉川がここでは東から西へと流れている。玉川は300mほど下流、国道24号を過ぎた処でほぼ直角に蛇行しているのである。川が曲がった辺りに井手町役場がある。此処は井手町。川の水を堰き止められた処を、古くは「ゐで(井堤)」と呼んだようで、万葉集にはこのような歌がある。玉藻刈る ゐでのしがらみ 薄みかも 恋のよどめる わが心かも (万葉集巻11-2721)<美しい藻を刈る井堰のしがらみ。そのしがらみのような障害が薄いせいで、恋が停滞しているのか。それとも私の心のせいでしょうか。> 井手という地名もこの「ゐで」から来ているのであろう。 さて、玉川はこの付近では天井川になっているのだろう、堤の道に出るには坂道を上らなくてはならない。堤の遊歩道に出ると山吹歩道橋という小さな橋があった。(玉川)(山吹歩道橋) 山吹が沢山植えられている。 井手の玉川と言えば、山吹である。 この地は橘諸兄の本拠地。 諸兄が玉川堤に山吹を植えて以来、井手の玉川は山吹の名所として、古来多くの歌に詠まれて来た。生憎の季節にて花はない。春さらば またも来て見む 山吹の 花よそひたる 井手の玉川 (偐家持)(玉川・山吹歩道橋から上流を見る。) ここは自転車を降りて、押しながらゆっくりと歩くこととしましょう。歌碑もあるではないか。それも、小野小町、紫式部、和泉式部の競演である。(歌碑・小野小町)色も香も なつかしきかな 蛙なく 井手のわたりの 山吹の花 (小野小町) (歌碑・紫式部) (歌碑・和泉式部)思はずに 井手の中道 へだつとも 云はでぞ恋ふる 山吹の花 (紫式部)河辺なる 所はさらに 多かるを 井手にしも咲く 山吹の花 (和泉式部)(JR奈良線・玉川の遊歩道から撮影) JR奈良線は玉川の川底のトンネルを通過しているのであろう。川べりの遊歩道とは随分の高低差になっている。これから行こうとしている和束町は玉川に沿って通じている府道321号で山越えとなるので、このまま玉川沿いを東に行けばいいのだが、以仁王墓に立ち寄るため、府道70号で右折、南へ向かう。1km程で以仁王を祀る高倉神社。この神社の傍らにその墓がある。(高倉神社) 神社では何やら祭事があるらしく、正装の人たちが忙しそうにされている。お邪魔してもいけないので、拝殿前で失礼し鳥居右横の以仁王墓にご挨拶をしておいとま仕り候。(以仁王墓)(同上)(同上) 以仁王については下掲の説明板または下記<参考>をご参照下さい。 <参考>以仁王・Wikipedia(以仁王墓説明板) 以仁王墓を出て、東に向かい最初の辻を左に入ると小さな川に出る。川の土手道を上流へ。やがて竹林が正面に。 ここで川を渡り、坂を下ると広い舗装道路に出る。これを右に取って坂を上って行く。500m位坂道を行った辻で左に入り更に坂道を上る。そこで後ろからやって来たロードバイクかクロスバイクかの3人組に追い抜かれる。 坂を上りきって平坦な道に出ると、すぐに井手左大臣橘諸兄公旧趾という石の道標が目に入る。追い抜いて行った3人組を追いかけようとスピードを上げ始めた処だったので危うく見過ごす処であった。変速機付きのバイクとそれのない小口径バイクのトレンクルでは勝負にならないのであるから、追いかけるのは野暮というものであるが、つい反応してしまう(笑)。(橘諸兄公旧跡への入口)(橘諸兄公旧趾の道標) これを入って行くと道は完全に竹林の中の道となり、坂の勾配もきつくなり、加えてガタガタの悪路。自転車での走行は諦めて押して行く。(橘諸兄公旧趾参道)(橘諸兄旧趾) 竹林に囲まれて、と言うよりそれに埋もれるようにしてひっそりとそれはある。(同・由緒碑) 橘諸兄は大伴家持が官人としてスタートした時に政権の中枢にあった人。新入社員家持にとっては諸兄はその会社の社長か専務みたいな存在であったろうか。 (旧趾碑と供養塔)<参考>橘諸兄・Wikipedia 字数制限です。ここまでとし続きは明日に。(つづく)
2014.11.24
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本日は、近鉄三山木駅を出発、JR玉水駅経由、以仁王墓、橘諸兄旧跡、府道321号を走破、大正池から山越えで安積皇子墓に立ち寄り、和束の茶畑の風景を楽しみ、府道5号線で菜切橋まで下り、JR加茂駅までという、久しぶりの、しっかりした銀輪散歩をしてまいりました。 それというのも、昨日だったかビッグジョン氏が金胎寺を訪ねられ、その帰途に和束の茶畑の景色をご覧になり、その写真を掲載されていたのを拝見したからでありました。無性に和束の茶畑の風景を見たくなった、という他愛もないものでありますが、普通に和束川を遡上するだけでは芸がないと、井手町の玉川の方から山越えで安積皇子墓に行き、そこから和束川沿いに下って、JR加茂駅まで走ろうということとしました。 何回かに分割してのアップになりますが、お気に召されたらお付き合い下さいませ。 では、近鉄三山木駅前からの出発です。(近鉄・三山木駅) 朝8時50分を少し過ぎた頃に三山木駅に到着。 トレンクルを組立て8時57分駅前出発。 府道65号に出て右折、東へ。木津川へと向かう。 木津川に架かる玉水橋の手前で木津川自転車道を下流側に入り、飯岡の渡し場跡に立ち寄って行くこととする。ここは何度目かの訪問である。(飯岡の渡し場跡の碑) 渡し場跡には千貫岩と呼ばれる大きな岩が露出している。 朝の散歩をされていたご老人に出会い、声をお掛けして話をお聞きすると、昔はこの岩から子供たちが川に飛び込んで遊んだものだと言う。(千貫岩) 千貫岩の背後は葦が繁茂していて、それに隠されて土手の上の道からは千貫岩は視界に入らない。河川敷に下りて行って葦の途切れた処から水際まで行って撮影したのが上の写真。 木津川の上流、恭仁大橋の北詰に流岡山という小山がある。この小山にまつわる伝説がある。 奈良時代、大仏造営の頃の話。木津川の上流で切り出した材木を平城京へ運ぼうとしたら、笠置山の麓にあった巨岩が筏の行く手を阻み、運べなくなった。そこで、聖武天皇の命により東大寺の良弁が法力によりこれを取り除くべく祈願した。すると大雨となり大洪水となった。また、落雷により巨岩は二つに割れて流れ出した。一つは恭仁京のあったみかの原に、もう一つは下流の田辺まで流された。ふたつの岩は互いを恋しがり、風が吹くとみかの原の岩からは「流れようか」、田辺の岩からは「いのうか<帰ろうか>」と呼び合う声が聞こえた。人々はそれで「流れようか」と叫んだ岩を「流岡」、「いのうか」と叫んだ岩を「飯岡」と呼ぶようになった、という。 飯岡と呼ばれた岩というのは、この千貫岩なんでしょうか。(文政の年号が刻まれた供養碑) 千貫岩の背後の葦原と土手道の間の河川敷に小さな古い石碑があった。何やらの供養碑のようだが、文政という年号が刻まれているように見える。文政というと1818年~1829年であるから幕末期である。 勝海舟 1823年生 岩倉具視 1825年生 ジョン万次郎、河井継之助、山内容堂 1827年生 西郷隆盛、松平春嶽 1828年生 武市半平太 1829年生(豊田翁の碑) ご老人の話はこの豊田翁のことにも及び、私費を投じて木津川からの用水路を開削しこの辺りの水田を開いた、などと説明戴く。まあ、そのように説明戴くと無視もならず、豊田翁顕彰碑も写真に撮りました。(玉水橋) 玉水橋に戻る。対岸が井手町玉水地区である。 遠く見えている正面の山をこれから自転車で越えて行くのかと思うとちょっと身も引き締まるというものである(笑)。(玉水橋上から見る「飯岡の渡し」跡) 橋の上から、先程の千貫岩を撮る。(JR奈良線・玉水駅) 玉水橋を渡り、更に木津川の支流玉川を渡り、JR奈良線の玉水駅までやって来ました。9時36分。銀輪万葉の旅はこれからが本番ですが、夜も更けましたので、今日はここまでとします。(つづく)
2014.11.23
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偐万葉・英坊篇(その30) 銀輪散歩のネタこれとてもなくあれば、本日も偐万葉。シリーズ第224弾、偐万葉・英坊篇(その30)です。 <参考>過去の英坊篇はコチラからどうぞ。 英坊3氏のブログはコチラからどうぞ。 偐家持が英麻呂に贈りて詠める歌10首並びに英麻呂が贈り来れる歌6首星逢ひの日にしもあるに彼方(をちかた)の 人にはなどて逢ひかつましじ 白妙の衣ひづちて行く人の 泣ける涙に神はますらむ (注)ひづちて=「ひづつ」は水に濡れる、泥で汚れる、の意。 英麻呂が贈り来れる歌1首道歩み子らにぎやかの歓声に 見やれば庭のそうめん流し 偐家持が返せる歌1首行水も烏のみなるこの頃の 素麺流し見らくしよしも (庭上郎子(にはのうへのいらつこ)) 英麻呂が贈り来れる句1句並びに偐家持が付けたる脇句1句ほほづきをくはへてゆるり木戸を開け かほ神妙なれどすね泥だらけ 英麻呂が贈り来れる歌1首並びに偐家持が返せる歌1首銀輪の鎖取替え力む脚 輪旅の先は更に拡大今日よりは力むことなしあらたしき チェーン踏み行く輪旅の我は 屋久島はまかせたりける家の子に われはしばしのいのちの洗濯 茶毒蛾の毒牙も何ぞ背子が家の 椿芽吹きぬ春咲く待たな 英麻呂が贈り来れる歌1首野を覗き花生り様に季を感じ 詩を練るをも歌に結ばず (汗英爺) 偐家持が返せる歌1首言の葉にまかせばおのづ歌の花 咲くといふなりな練りそ背子 (出任せ家持) 英麻呂が贈り来れる歌1首並びに偐家持が返せる歌1首曳き廻す勝どき声に勇みくる 逸るこころに自制促し千歳祝ぐことも過ぎたり太鼓台 遠きに眺むわれもかなしき (老家持) 英麻呂が贈り来れる歌2首木々を見て色の冴えにて秋感じ やがての冬をつと忘れしもしげしげと見れば実も熟れ誇らかに しかと存在生りをなしおり 偐家持が追和せる歌1首をちこちのもみぢ如何にとわが来れば 木の実も空も秋にしあれり 英麻呂が贈り来れる上3句に偐家持が付けたる下2句による歌秋空に似合うヘリさまおもちゃ様 ヤカモチさまも富山では餅 珠洲までの往きもかたかり徒歩なれば 長浜の浦に月待て我が背 (徒歩麻呂) <注>掲載の写真は英坊3氏のブログからの転載です。
2014.11.20
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偐万葉・ふらの篇(その4) 本日はシリーズ第223弾、偐万葉・ふらの篇(その4)とします。北海道は早くも何度かの雪が降り、早や冬景色。厳しい季節へと入って行くに当って、furano-craft氏(偐万葉では「ふら麻呂」とお呼びしますが)のご健勝をお祈りしつつ、北の大地、富良野の森で頑張って居られる同氏へのエールと致したく存じます(笑)。<参考>過去の偐万葉・ふらの篇はコチラ。 furano-craft氏のブログはコチラ。 同氏開設の木力工房・富良野麓郷庵(富麓庵)のHPはコチラ。) 偐家持がふら麻呂に贈りて詠める歌10首蝦夷鹿も迷ふ小径の道の隈 われは待たむと森人壮士(もりひとをとこ(本歌)夕星(ゆふづつ)も通ふ天道(あまぢ)をいつまでか 仰ぎて待たむ月人壮士(つきひとをとこ) (万葉集巻10-2010) しかじかといはれは説かじしかと見よ われは富良野の森の撫で鹿 (風の森のナデシカ) わが祖(おや)は武甕槌(タケミカヅチ)の鹿ならず 北甕槌(キタミカヅチ)の鹿にしあれり (武似た槌))狸犬連れてふらりの森の人 少彦名か富良野の神か わが庵は富良野の森の奥深く 木々と暮らせりしかと住むなり (鹿撰法師)<注>木々と暮らせり=「喜々と暮らせり」を掛けている。 しかと住むなり=「確と住む」と「鹿と住む」を掛けている。(本歌)わが庵)は都のたつみしかぞすむ 世をうぢ山と人はいふなり(喜撰法師 古今集983) はやみとせ北のふらのに住み住みて 冬の雪にも馴れしこの頃石の上ならぬ富良野にみとせ経て つぎなる三年の夢はさらにも富麓庵生(あ)れつく今日)の日はよき日 冬大空にわれは立ちける わが背子の富良野の森ははや冬の それにあるらし雪ぞ降りつぐわが背子は富良野の森に住みなじみ 冬の迎へもこととなく見ゆ (注)写真はfurano-craft氏のブログからの転載です。
2014.11.18
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<承前> 名張川沿いを下流に向かって走る。近鉄大阪線のガードを潜り少し行った処にあるのが宇流冨志禰神社。 <参考>宇流冨志禰神社(宇流冨志禰神社)(同上)(同上・拝殿) 主祭神の宇奈根命というのは初めてお目にかかる名前にてよくは分からぬが、神社名のウルフシネ(宇流冨志禰)は粳米に通じ、穀物の神と解されているよう。尤もウルフシミ(宇流冨志彌)が元の形だとして、潤ふ水、即ち水神だとする説もあるそうな。 武甕槌ほか春日の神々も祀られ、地元での通称は「春日さん」とのこと。鹿島立ちしてやって来た武甕槌命が大和に到る前に此処に一時滞在したとの伝説があり、それで武甕槌も祀るようになり、やがてその他の春日の神々も祀るようになったということのよう。(同上・由緒) この神社には名張藤堂家から寄進されたというの能・狂言面が保存されているとのことであるが、資料館のそれを見学するには予約が要るらしい。通りすがりの銀輪家持、能面にはさしたる興味もなくあれば、勿論パスであります。上に貼り付けてある当神社のホームページにはそれらの面の写真も掲載されていますので、ご覧になりたいお方はそちらからどうぞ。(石造鳥居・手水鉢・能狂言面説明板) 神社を出て少し西に行くと初瀬街道と交差する。初瀬街道を左(南)に行くと名張川に架かる橋に出る。(名張川・上流側) 名張川の上流は青蓮寺ダムがあり、そのダムによってできた人造湖・青蓮寺湖がある。(同上・下流側) 下流は、この先、右奥で左から流れ込む宇陀川の水を取り込み、北流し月ヶ瀬を通って高山ダムの先で木津川に注いでいる。こんなことを頭の中で思い描いていると何やら方角が混乱して来るのでありました。 橋を渡ると稲荷神社。そこで初瀬街道は右に折れて名張川沿いを行き、支流の宇陀川を渡って左にカーブし国道165号と合流する。小生はひと足速く国道と合流すべく直進。国道165号に出て右折。宇陀川を渡る。橋の名は黒田大橋とあった。これから向かう室生口大野の辺りはこの宇陀川の上流になる。(宇陀川・黒田大橋上から上流を望む。) 宇陀川を渡って100m程行くと国道165号も左にカーブし初瀬街道と並行して南西に向かい、やがて初瀬街道と合流し、宇陀川に沿って南へと坂道を上って行く。 名張ともお別れとなるのであれば、名張に因む万葉歌を添えて置きましょう。吾背子は いづく行くらむ 沖つ藻の 名張の山を 今日か越ゆらむ (当麻眞人麻呂の妻 万葉集巻1-43)(国道165号線から見る室生の山々) 道の辺の景色は再び長閑なそれとなる。山々も秋の衣装である。暮(よひ)に逢ひて 朝(あした)面(おも)無み 隠(なばり)野の 萩は散りにき もみぢ早続(つ)け (縁達師の歌 万葉集巻8-1536)暮に逢ひて 朝面無み 隠(なばり)にか 日(け)長く妹が 廬(いほり)せりけむ (長皇子 万葉集巻1-60) 因みに、名張というのは「なばる(隠る)」の名詞形「なばり」がその起源である。その入口である初瀬が「隠口(こもりく)の初瀬」と呼ばれるのと符合する。(同上・三本松駅付近) 三本松駅の南を過ぎた辺りに道の駅「宇陀路室生」があり、その隣に野菜や果物の直売所があった。休憩を兼ねて立ち寄ってみた。小生が曳いているトレンクルを見て、店のおじさんが「変わった自転車やね」と仰る。折りたたんで袋に入れて電車に乗れることなどを含めその効用をひとくさり(笑)。ついでに柿1パック(6個入り・200円)を土産に買い求める。(同上) 更に坂は上りとなり、室生洞門で頂点、これを潜ると下りとなり、室生寺入口交差点に到る。此処から先は勝手知ったる道である。(室生洞門) 榛原駅前まで更に走ろうかという考えが一瞬脳裏をかすめたが、何事も八分目がよし。それに珈琲が飲みたくなったので、予定通り室生口大野駅へと向かうこととする。もう駅前の喫茶店が頭の中に居座ってしまっている。願わくば休業日ではありませぬように、である。(大野寺磨崖仏) 駅へ向かう道に入るため国道にお別れし宇陀川沿いの下の道へと下る。途中、大野寺と磨崖仏の前を通るので、簡単にご挨拶。(同上) 眼前の川は宇陀川、先程渡って来た黒田大橋へと蛇行しながら流れて行っているのだと思うと何やら妙な感覚になる。(大野寺門前の銀杏) 駅前到着は午後2時40分を少し過ぎた頃。3時14分発の上本町行き急行に乗車することと決め、喫茶店へ。先客は男性2人。年配の地元の方。店主ご夫妻とは親しい間柄のようで、何やら楽しげな会話。それを聞くともなく聞きながら熱い珈琲。煙草を一服。(室生口大野駅前の喫茶店) 3時過ぎに喫茶店を出て駅改札口の前でトレンクルを折りたたみ、収納バッグに。朝10時半頃の出発であったから、約4時間の銀輪散歩でありました。これにて青山・室生銀輪散歩終了であります。3日間のお付き合い有難うございました。<完>
2014.11.17
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<承前> 昨日の続きです。初瀬街道はこの後は国道165号線と重なっているよう。国道を行く。次の目的地は名張市役所の近くにある夏見廃寺跡である。国道は上り坂が続く。木津川を渡った辺りから県道692号と交差するすずらん台口交差点までの2km余がずっと上り坂である。これはかなりこたえる。上りきった交差点角のGSの前で一休み。少し息が荒くなっている。しかし、此処から先は下り。桔梗ヶ丘団地へと下って行く。 桔梗ヶ丘に入ると景色が一変する。山中の道が街路に変わった感じ。時計を見ると12時少し前。今日はおむすび持参である。お弁当タイムに適当な場所はないかと見回しながら走っていると、右手に小さな丘と林。公園の名前は不明だが、桔梗ヶ丘2丁目交差点の北側に広がる緑地である。丘への細道を行く。階段を含む細道。トレンクルは肩に担いで行く。 すると、このような見事な紅葉が。いきなり別世界に迷い込んだ心地。(桔梗ヶ丘6番町の公園) 背の低いカエデの林。(同上) 池まであるではないか。 真っ赤なドウダンツツジの間を通って池の畔へ。(同上) 池の畔で昼食とする。閑けさや魚の跳ねる音もせず。 池の向う側遠くを通る白い人影。 人影が立ち去ると、時折はらりと枯葉が落ちるほかは、 動くものはもう何もない。(同上) 此処でお弁当にする。 眼前には青空を映す水面。背後には燃え立つ紅葉。 公園入口のコンビニで買い求めた温かい食べ物もある(笑)(同上・ドウダンツツジ) ドウダンは満天星と書くが、これは花に視点を当てての命名。秋の紅葉に視点を当てれば「満天紅」であろうか。(同上) 昼食後再び国道165号に戻り、坂を下って行く。再び上りがあって、再び下りがあって、とアップダウンの後、マキシンコー名張工場の先の市役所前交差点で左に入ると名張中央公園である。 夏見廃寺跡は公園の南西隅にある。(夏見廃寺跡)(夏見廃寺資料館) 資料館の建物裏に夏見廃寺跡がある。 建物裏に回って、先ず目に入ったのが、犬養孝先生揮毫の万葉歌碑。 (大来皇女万葉歌碑<犬養万葉歌碑>)磯の上に 生ふる馬酔木を 手折らめど 見すべき君が ありといはなくに (大来皇女 万葉集巻2-166)(同上・副碑) 大来皇女は大津皇子の同母姉。母の大田皇女が早くに亡くなってしまい、大田皇女の妹の鸕野讃良姫(後の持統天皇)が皇后となったことがこの姉弟の身の不運。 大津は謀反の嫌疑をかけられ処刑。伊勢の斎王となっていた大来は弟が刑死した後、斎王の任を解かれ帰京する。その際に作った歌4首のうちの1首がこれ。 この道は、天武天皇や聖武天皇や本居宣長やお伊勢参りの名も無き人々の他、大津皇子も大来皇女も通った道なのである。 大来皇女の他の3首も記載して置きましょう。 神風の 伊勢の国にも あらましを いかにか来けむ 君もあらなくに 見まく欲り わがする君も あらなくに いかにか来けむ 馬疲るるに うつそみの 人なるわれや 明日よりは 二上山を 兄弟とわが見む 大来の悲しみに寄り添うかのように晩秋の日差しが木々を照らしている。高校時代、古文の授業でおばあちゃん先生がこれらの歌を涙を流しながら朗誦されたことなども思い出される。(同上) 薬師寺縁起の「大来皇女、最初斎宮なり。神亀二年を以て、浄(御)原天皇の御為に昌福寺を建立したまふ。夏身と字す。もと伊賀国名張郡に在り。」の記述と発掘遺物などから、この夏見廃寺は昌福寺であると考えられている。(夏見廃寺跡)(同上・説明碑) 資料館は本日無料公開日とある。折角なので覗いて行く。(資料館展示風景) 薬師寺縁起の写本の展示もありました。(薬師寺縁起) これで、本日の銀輪散歩の課題はクリアしました。名張駅に向かい帰途についてもいいのだが、時刻はと見ると未だ午後1時を過ぎたところにて早過ぎる。走り足りない気分でもある。さればとて室生口大野駅前まで走ることとし、名張川に出る。 来る前の下調べで宇流冨志禰神社という耳慣れぬ名の神社が川沿いにあった筈と川沿いを下流(西)へと行くのですが、キリがいいようなので、本日はここまでとします。(つづく)
2014.11.16
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本日の銀輪散歩は、先週7日の川口行宮銀輪散歩の続編のようなものです。聖武天皇の東国巡幸コースは、740年10月26日平城京を出発、29日都祁、30日名張、11月1日阿保、2~11日河口、12・13日壱志、14~22日赤坂、四泥の崎(四日市)・朝明・桑名を経て、26~29日多芸(養老)、12月1~5日不破の関(関ヶ原)、6日横川(醒ヶ井)、7・8日犬上、9日蒲生、10日野洲、11~13日栗津、志賀山寺(崇福寺)・逢坂の関・宇治を経て、14日玉井、15日恭仁京というものであるが、河口の前に通ったのが阿保と名張である。青山町駅から南1キロ足らず、初瀬街道から数十メートル南に入った小高い丘に阿保頓宮跡の碑がある。河口頓宮跡の碑を訪ねて、阿保頓宮跡碑を訪ねないのでは「アホか」と言われ兼ねないと、再度出掛けて参りました。 名張では何処に滞在されたのかは存じませぬが、或は夏見あたりかも知れませぬ。夏見には大伯皇女(大来皇女とも書く)が建立した昌福寺だとされる夏見廃寺跡があるので、これもついでに訪ねよう、というのが今回の銀輪散歩の趣旨であります。(近鉄大阪線・青山町駅) 青山町駅到着午前10時24分。駅前でトレンクルを組立て出発。この駅に降り立つのは2度目。随分の昔、小生が勤務していた会社の技術部門担当のF専務のご実家がこちらにあり、そのお父上の葬儀に参列するためにやって来たのが最初。 駅前から直進すると、川に出る。木津川である。(木津川) 橋を渡った処に阿保宿の標識が立っている。この道は大和から伊勢へと通じている初瀬街道に当たるのでありました。お伊勢参りの人は、写真奥からこちらへと歩いて来ることになるのだが、今日の小生はそれとは逆方向に走ることとなる。(初瀬街道・阿保宿の碑) 傍らに本居宣長の菅笠日記抄の碑がありました。本居宣長さんもこの道を歩かれたのでありますな(明和9年<1772年>吉野への花見)。名張にかけて菅笠日記抄の碑は五つ建てられているそうだが、今回目にしたのはこの1件だけでした。 見落としたか、初瀬街道を外れて国道165号を走ることが多かったので出会えなかったかのどちらかでしょう。(本居宣長・菅笠日記抄の碑)(初瀬街道・交流の館) 交流館の前で一人歩きの男性と出会う。彼も名張まで歩くのだと言う。自転車と徒歩では「旅は道連れ」とも参らず、「ではご免」となる(笑)。(常夜灯)(同上・説明板) 常夜灯の処で左に入ると阿保頓宮跡である。 小高い丘の上の平坦になった場所に石碑があるだけ。 (阿保頓宮跡登り口) (阿保頓宮跡碑)(同上)阿保山の 桜の花は 今日もかも 散り紛ふらむ 見る人なしに(万葉集巻10-1867) この阿保山は大和の佐保山のこととする説が多いようだが、青山町の山だとする説も有力である。聖武天皇一行は冬のことであるから、この歌とは無関係。阿保山に 散れるもみぢ葉 惜しからず 見すべき妹の いや遠みかも (偐家持) (息速別命墓) 阿保頓宮跡と道を挟んで西側に阿保親王墓なるものがある。阿保親王と言えば平城天皇の第一皇子で、在原行平・業平の父親に当たる人。しかし、この人の墓ではない。 こちらの墓は垂仁天皇と薊瓊入媛との間に生まれた皇子・息速別命(池速別命)の墓なのである。では何故、阿保親王墓と言うのか。この皇子も阿保親王と呼ばれるのか。そんな風に説明しているネット記事もあるが、そうではなく、「阿保の地にある親王の墓」という意味で「阿保親王墓」ということのようだ。(同上)(初瀬街道から見る頓宮跡<左奥の森>と阿保親王墓<中央手前>)(初瀬街道から北西方向を見る)(国道422号と国道165号の交差点)(木津川)(木津川<左>と前深瀬川<右>との合流点付近) 木津川と前深瀬川が合流する辺りの初瀬街道で再び先ほどの一人歩きの男性と出会う。「やあ、またお会いしましたね。」と、下のよくは分からぬ石灯篭などを眺めながら少し言葉を交わす。で、「そちらがそれで、こちらが歩きでは勝負になりませんから、どうぞお先に」と仰る。別に勝負をしている気はないのだが、お言葉に従い、先へ進む(笑)。 汝、一人歩きの男の邪魔をするなかれ。 一人歩きの女性ならいいのかな(笑)。 (照皇宮神明社) (水神碑・背後は国道165号) 初瀬街道は、国道165号と重なったり、分かれたりでややこしい。いつの間にか国道のみを走ってしまっていました。 どうやら字数制限のよう。本日はここまでとします。(つづく)
2014.11.15
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日頃は智麻呂絵画展をご覧戴き有難く感謝申し上げます。 本日は智麻呂絵画展ではありませんが、智麻呂美術全集についてご紹介申し上げます。 世界でただ一つだけという美術全集があります。それが智麻呂美術全集であります。 偐家持美術館編集・発行の美術全集であります。 現在第25巻まで刊行されています。正確には第25巻は未完。今後開催されるであろう3~4回分の智麻呂絵画展を網羅して完成することとなります。 と言っても何の事やらよくはお分かりにならないでしょうから、その写真などを添えて、以下その概略をご説明申し上げます。 先ず、美術全集の各巻の外観は下掲の写真の通りです。(智麻呂美術全集) 智麻呂邸のアトリエの一角には、こんな風に全25巻が並べられています。(同上・只今全25巻です。) 中身はどんな風になっているかと申しますと、各回の智麻呂絵画展のブログ記事を印刷に打ち出したもので構成されています。 例えば、第149回智麻呂絵画展の例では、下掲の写真のようになります。 (智麻呂美術全集・第149回智麻呂絵画展の部のページ1~3) ブログの記事本文部分をコピーしてワード白紙に貼り付けます。そのままだと、写真の大きさの具合で写真が次ページ送りとなって不自然な空白が生じたりします。それを補正するため、写真を大きくしたり、小さくしたりして、当該用紙に丁度収まるように編集します。 (同上・ページ4~6) 最後に、皆さまから戴いたコメントもコピーして貼り付けます。改行や行詰めなど多少の編集を加えます。明らかなミスタイプや変換ミスを適宜修正する以外には、原文に手を加えるなどのことは致しません。編集が完了すると、これを印刷に打ち出します。 (同上・ページ7、8) 印刷に打ち出したものを、100円ショップで買い求めたクリアファイルに1ページずつ入れて行きます。概ね6~7回の絵画展で1冊のクリアファイルのポケットが満杯になります。 最初のページには表紙を作り入れます。表紙がよく見えるように、クリアファイルのビニール表紙は透明のものを利用します。 これで1巻が出来上がることとなります。 下の写真が表紙の例です。全て手作りの美術全集であります。 (同上・表紙 第11巻と第20巻の表紙例) パソコン画面で見るのとはまた一味違った雰囲気で、これはこれでなかなかに楽しい画集になっているのです。 原画の殆どは、他人様の手許に行ってしまい、智麻呂さんの手許には残りません。PCを持たぬ智麻呂さんのために、時に自身の過去の作品を顧みて戴くためのツールとしてヤカモチ館長が考案したのがこの美術全集と言う訳であります。 美術全集にファイルするために印刷する際に少し余分に印刷します。智麻呂さんは、お世話になっているデイサービスの皆さんにご覧戴くためにそれを持って行かれます。また、画材をご提供戴いた方へもお礼としてこれを差し上げられるという次第。 智麻呂絵画展ファンはPCでご覧戴くお方以外にも、このような紙焼き版でご覧戴いているお方も居られる訳で、その裾野は広いのであります(笑)。
2014.11.13
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本日は囲碁例会の日。 いつもの如くにMTBで梅田へ。今日は少し違ったコースを走ってみようと、中央大通りを越えて北へ。適当な処で左折して西へと走るが路地道にてジグザグ、阿弥陀籤のような走り方となる。やがて中央環状線道路に突き当たる。右折して北へ。寝屋川沿いを西へと行く。しかし、川沿いのこの道はやけに車の通行が多い。またしても脇道に入り、方向感覚だけを頼りに西へ。今津とか今福とか蒲生とかの地名などからどの辺りを走っているのかは何となく分かるのだが、些か心もとない気分。それでも気がつけばいつの間にやら京橋駅の北側に来ていました。 新しいコース(もう一度同じ処を走れ、と言われても走れそうにもないから、コースとは呼べませんが)であったが、めぼしいものは何も発見せず。で、道の辺に高々と咲いていた皇帝ダリアの花を先ず掲載することと致しましょう。(皇帝ダリア) (吉原観音) (今福の行者堂) 吉原観音は花園ラグビー場から少し北に行った路地にあったお堂。今福の行者堂もそうであったが、真新しいお花、行き届いた掃除などから、地元の方が大切に守って居られることがうかがえる。 行者堂の隣は皇大神宮。京橋駅前を通り太閤園の前を通過、大川に出る。桜宮橋東詰から大川端の自転車道に入る。 (今福・皇大神宮) (桜宮橋) 大川端は期待通りの紅葉でした。(大川端の紅葉) 川には水上バス。桜並木の紅葉を背景に大川を遡上して行く。(大川と水上バス) 水上バスを見ていると難波堀江の万葉歌も思い出されるというものである。舟競(ふなぎほ)ふ 堀江の川の 水際(みなぎは)に 来居つつ鳴くは 都鳥かも (万葉集巻20-4462)<船が行き交う堀江の川べりに来て鳴いているのは都鳥だろうか。>松浦船(まつらぶね) 騒ぐ堀江の 水脈(みを)速み 梶取る間なく 思ほゆるかも (同巻12-3173)<松浦船が、波騒ぐ堀江の流れが速いので絶え間なく梶を切る、そのようにしきりにあなたのことが思われることです。>妹が目を 見まくほり江の さざれ波 しきて恋ひつつ ありと告げこそ(同巻12-3024)<あの娘に逢いたいと欲する、その堀江のさざ波のようにしきりに恋していると伝えて欲しい。>(扇町公園) 大阪天満宮の近くで昼食を済ませてから、これもいつもの国道1号線(曾根崎通り)を取らず、扇町公園などを経由し、中津の方から梅田スカイビルに向かう。 スカイビルの中庭・ワンダースクエアではこの14日から始まるドイツ・クリスマス・マーケットの準備が着々と進んでいました。(梅田スカイビルのクリスマスツリー) さて、漸く、囲碁例会の話。本日の出席者は福〇氏と荒〇氏と小生の3人だけ。成績の方も福〇氏に勝ち、荒〇氏に負けで1勝1敗。可もなし不可もなし。本日の銀輪散歩と同様でありました。
2014.11.12
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第151回智麻呂絵画展 本日は智麻呂絵画展であります。どうぞごゆるりとして行かれませ。 <参考>他の智麻呂絵画展は下記からご覧になれます。 第1回展~第100回展 第101回展~第200回展 第201回展~ 先ずは「ありがとう」の絵から。 いつも智麻呂展をご覧戴いている皆さまへの「ありがとう」の思いも込めて冒頭に掲載させて戴きました。(ありがとう) この絵は、下の前島秀章作品集が恒郎女さんのご友人から送られて来たことへのお礼の手紙に添えられた絵であります。そのお友達は静岡ご在住にて、同じく静岡出身の彫刻作家前島秀章の作品の大ファンとのこと。 そんなことで、お礼状に前島作品に倣った絵を添えられたという次第。 このように現代作家の作品をモデルにして絵にするというのは、著作権の侵害という可能性もあり、ブログ絵画展でご紹介することには些かの躊躇いもありましたが、まあ、これはお礼状への挿画であり、原作との違いは歴然として居り、模写・複製の範疇からは外れるだろうと考え掲載することと致しました。 と言うことで、この項は展示作品ということではなく、前島秀章先生のご紹介と前島秀章作品を展示している「時之栖美術館」のPRコーナーとお考え下さいませ。(前島秀章作品写真集)<参考>前島秀章プロフィール 時之栖美術館 次は「秋」です。関西地方はこれからが紅葉の季節本番を迎えますが、北の方では既に散ってしまって雪景色がそれに取って代ろうとしているようでもありますので、大急ぎの展示であります(笑)。(もみじ葉) 万葉歌人額田王が、花の春山ともみじの秋山のどちらがいいかと問われて「秋山われは」と「秋」に軍配を上げたことは有名な話でありますが、その理由は、春山は木々が生い茂って足を踏み入れることがままならない、比べて秋山は草木も枯れて山に入りやすく、もみじ葉の枝を直接手に取ることが出来るからというもの。 どうやら、智麻呂さんも同意見のようであります。 次は棉の実。弾けて綿毛がモコモコと、であります。白いものと黄色のものとがありますがこのような違いが生じるのはどういう理由によるのでしょうかね。(棉の実) これはデイサービスの福寿苑で描かれたもの。 「丈夫な扉の向ふに、古い日は放心してゐる。丘の上では 棉の実がはじける」は中原中也の詩の一節であるが、「テーブルの上では はじけた棉の実が並んでゐる レースのカーテン越しに、秋の日が差してゐる」というのが智麻呂絵画でありました。 次も「秋」。こちらは、ヤカモチ館長お馴染みの喫茶店「ナナ」の店先のディスプレーであります。当ブログの10月10日の記事掲載の写真から絵にされました。 <参考>第7回ナナ万葉の会 2014.10.10.(喫茶ナナのディスプレー「秋」) 柘榴、柿、栗などが秋を演出しています。 で、その柿を描いた絵がこれ。(柿ふたつ) この柿はご近所の東〇さんからの戴き物。 「里ふりて柿の木もたぬ家もなし」(芭蕉)で、昔は何処の家の庭にも柿の木があり、柿は果物屋で買い求めるものではなかったが、今は近所でもそういう家は少なくなりました。小生の家の庭にも柿の木が4本ありましたが、いつの頃よりか消えてしまっている。「ふる里も柿の木もたぬ家多し」(筆蕪蕉)であります。 では、ここで、ティ―タイムと致しましょう。先着9名様にはケーキをセット致します。(フルーツケーキ) このケーキは神奈川県ご在住の五〇さんからの贈り物。恒例のものにてあれば、この智麻呂展でもお馴染みですから、ああ、と思い当たられる方も多いかと。このケーキ、先日智麻呂邸を訪問中に宅配便で到着したものにて、良い処に居合わせたとヤカモチ館長もお裾分けを頂戴致す栄に浴しました(笑)。 次は、先般の若草読書会の折にヤカモチ館長が差し入れに持参した果物の一部です。智麻呂さんの画材になりそうな物は、「お預け」となった次第。かくて名画というのは生まれるのでありますな。(果物) 林檎、洋ナシ、葡萄。果物3人組。まあ、丁度色取りも合っていて、いい絵になりました。 最後は、またもお地蔵さんです。これも当ブログ記事の写真から絵にされたものです。智麻呂さんは大のタイガースファン。タイガースの帽子を被ったお地蔵さんとは宗派、思想信条の違いを越えて「共感」であります。 <参考>墓参・摂取不捨 2014.11.2.(阪神タイガースのお地蔵様) では、最後に「ありがとう」であります。これも亦「感謝」のポーズ。メッセージは「ありがとう」であります。本日もご覧下さり有難うございました。皆様に神の祝福がありますように。
2014.11.11
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<承前> 八ッ山橋から県道662号を東へ最初の交差点で県道28号の坂道を上る。往路では快適に走り下って来た道であるが復路はその借りを返すべくひたすら漕がなくてはならない。常にプラマイ・ゼロが銀輪往復に於けるエネルギー均衡の法則なのである。 白山運動場から600m程北に戻った処で目に入ったのが白山比め神社の案内板。「め」の漢字(口へんに羊)が機種依存文字とかで当ブログには使えない文字であるのは興ざめでありますが、是非もなしであります。 それはさて置き、ご挨拶かたがた立ち寄って行くことと致しました。鳥居を潜って参道の急な坂道を上って行くと立派な社殿、なかなか雰囲気のある神社である。(倭白山比め神社) 祭神の白山媛は菊理媛の別名。菊理媛のことは一昨年の氷見銀輪散歩の記事の処で触れているので省略します。 <参考>氷見銀輪散歩(6) 2012.11.10.(同上) 当神社は天文22年(1533年)鎮徳上人が加賀・白山神社の分霊を勧請したことに始まるという。(同上)(同上・拝殿)(同上・左から本殿、八幡須賀社、祖霊社)(同上・十二社) 十二社は、左から北畠神社、靖国神社、多度神社、明治神宮、多賀神宮、伊勢神宮内宮、伊勢神宮外宮、熱田神宮、橿原神宮、春日神社、湊川神社、結城神社の十二社の分神が祀られている。(同上) 白山神社から県道28号に戻り、坂を上りきると白山幼稚園。ここからは下りとなり、倭交差点で国道165号を渡って100mほどの処に白山郷土資料館なるものがあった。未だ時間に余裕があったので立ち寄ってみた。(白山郷土資料館の展示物) 民具などが所狭しと展示されていた。(同上) 管笠もありましたが、此処は伊勢の国。これは深江の難波菅笠ではなく、伊勢の菅笠でしょう。(同上) こちらは消防車ですかね。(資料館前の案内標識) 展示を一通り見て資料館を出ると道脇にこんな案内標識がありました。県道28号と交差している博物館前の道は初瀬街道であった。 辿ってみたい気もしましたが、今日は遅くとも5時半頃には自宅に帰らなくてはならない用事が出来てしまったので、何れかの機会にとやり過ごす。帰る方向に「紀貫之の墓」とあるので、それを見て行こうと28号を北へ。墓の近くにはそれと示す案内標識があるだろうと思ったのですが、見落としたか気付かぬままに駅前まで来てしまい、墓に立ち寄れなかったことは先に述べた通りです。 紀貫之の墓と言うと比叡山ケーブルの山上駅近くにあったかと記憶するが未だ立ち寄っていない。こちらの墓も今回は縁が無かった。紀貫之さんとはどうも相性が悪いようです。つらゆきの 墓があるとは つゆ知らず まさかまさかの まさかき原は (真榊原家持)訪ねむと 思ほえど紀の つらゆきの 墓はいづくと 気のつかぬまま (迷走家持) 時計を見ると、次の電車まで30分ほどあるので、駅のホームから見えた巨大な金色の観音像とルーブル彫刻美術館なるものを近くから見てみようと線路の反対側に回ってみる。(大観音寺) 美術館の奥に大観音寺があるようだが、道路が柵で閉ざされていて関係者以外立ち入り禁止の表示。美術館と寺の拝観はセットになってでもいるのだろうか。何とも奇妙な景色である。ルーブルの 美術館あり パリならぬ まさかのまさか まさかき原は (真榊原家持) これこそ、まさかき原ですな(笑)。 観音像の近くに行くのは諦めて駅前に戻る。駅のホームから美術館と観音像をセットで撮って置くこととしました。(駅ホームから、ルーブル彫刻美術館と大観音寺の観音像) 清少納言が枕草子117段で「湯はななくりの湯、有馬の湯、玉造の湯」と挙げた「ななくりの湯」は、異説もあるがこの榊原温泉のことだという説が有力だそうな。されど温泉に関心のないヤカモチには猫に小判。偐山頭火氏やふぁみり~キャンパー氏の領域には敢えて足を踏み入れず、でありました。一志なる 七栗の湯も 吾が事に 非ずと言ひて いざ帰らなむ (偐家持)(本歌)一志なる 七栗の湯も 君がため 恋しやまずと 聞くは物憂し (橘俊綱 夫木和歌抄)=完=
2014.11.10
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<承前> 行宮跡・医王寺を後にして坂道を下って来ると、カラスウリやハゼの実が秋らしい景色を醸している。と言っても今日7日は立冬であるのだから、話がややこしい(笑)。そして、この記事は昨日の記事の続きであり、今日は9日であるのだが、記事上の「今日」は7日のことであるのだから、更にややこしい(笑)。 (カラスウリとハゼノキの実) (山茶花と臭木) 医王寺から県道580号に戻って来ると道脇の民家で庭掃除をされている年配のご夫婦が居られた。「こんにちは。好いお天気ですね。」と声を掛けて庭先で暫し雑談。大阪からやって来て当てもなく自転車散歩をしている、と申し上げると、奥さんの方が「こうちの滝」に行きなさい、と仰る。其処へはご夫婦でよく散歩に行かれるらしく、今朝も歩いて来た処だと仰る。この坂を越えて、橋を渡って右に行くと山に入る道となるから、それを行けばいい、と道順も教えて下さる。ここまで薦められては「では、行ってみますか。」と言うほかない(笑)。 しかし、坂を越えた辺りで、滝の名前は忘れてしまった。橋を渡る手前で右だったか、橋を渡ってから右だったかも記憶が曖昧になっていた。渡って右の道の方がそれらしく見えると、行ってみる。すると、途中で軽トラックと軽乗用車が対向する形で並んで停まっていて、運転席の窓を開けて男性二人が何やらお話をされている。 厚かましくその間に割り込み、「ナントカの滝はこの道でいいのですか?」と間抜けた質問をする。 「ああ、’’こうちの滝’’だね。この道をアト4kmほど行くとある。」と教えて下さった。「大した滝じゃないよ。」と水を差す言葉も。まあ、滝だけに「水」を差されても致し方ないのである。(こうち滝への道) 畑中の道を暫く行くと、やがて道は坂道となり杉林の中に入って行く。(同上) 坂の勾配も徐々にきつくなって来る。(同上、これがこうち滝?違うな。) これがそうか? 「大した滝でない」とは言え、いくらなんでもと先へ進む。 更に勾配がきつくなり、道もアスファルトから滑り止めの溝が刻まれたコンクリート舗装の道となり、杉の落ち葉も積もっていて走りにくい道となって来る。(同上) 息が荒くなって来た処で、それらしき滝が現れた。傍らには「修験道場」という看板の掛かった小屋があった。(こうちの滝。多分これだろう。) 少し上にも何やら小屋のようなものがあるので行ってみると、小さな祠であった。軽トラックのおじさんが「弁天さん」とか仰っていたのはこれであるのだろう。(こちらにも滝がある。)(弁天堂) 弁天さんの祠の奥にも小振りの滝がありました。 此処で気付きました。「こうちの滝」の「こうち」とはどんな漢字表記をするのか聞いていなかったのでした。ここは三重県だから「高知」ではあるまいと思うが「河内」や「高地」もしっくりしない。「小内」や「幸地」「香落」あたりがいいか(笑)。巧緻や狡知ではよもあるまい。「子落ち」とか「鼓打ち」とかもあり得るか。(奥にも滝がありました。)<追記>ふろう閑人氏がネットで「こうちの滝」を検索下さったが判然としなかっ たとコメント下さったので、小生も筆者の責任として調べてみましたら、 「こうちの滝」は「河内の滝」でありました。そしてそれは真龍滝という 別名も持っていました。更に判明したのは、上で「こうちの滝」と断定し た滝は、実は「関ノ宮不動滝」で、弁天堂の奥の「小振りの滝」が「こう ちの滝」なのでありました。訂正して置きます。 (参考)瀑好さんのブログのこの記事 帰途は下り。忽ちに県道580号に戻って来た。県道15号との交差点角にあったレストランに向かう。(レストラン「みその」の店内から) 店の外観写真は撮っていなかったよう。店の駐車場に駐輪したトレンクル君を店内から撮った写真で代用です。 昼食後は雲出川べりに出てみる。出雲をひっくり返した名であるが「くもず」と訓む。(雲出川) この川と後方の山並みなどの景色は聖武天皇も大伴家持も眺めたものであるのだろう。高圧線の鉄塔や家々を消し、川の水量を増やした光景を想像してみる。 山並のよろしき国、川波の立ち合ふ里、と田辺福麻呂の恭仁京讃歌の一節が思い出されたりもする。こちらは「雲出づる川」、あちらの木津川は「木出づる川」ということであったのか、と思ったりもする。(八ッ山橋南詰) 直ぐに来る時に渡った八ッ山橋に来てしまった。周辺を「徘徊」乃至は「彷徨」してみましたが特に目欲しきものもなし。(雲出川。八ッ山橋の上から上流側)(同上・八ッ山橋の上から下流側)八つ山の 橋は高みか 雲の上に 立ちて眺むる 川瀬清しも (偐家持)雲出川 川波立ちぬ 空青く 風つめたかり 冬立つらしも (偐家持) さまよへるヤカモチも、榊原温泉口駅の方へと来た道を引き返すことと致しました。(つづく)
2014.11.09
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本日は河口行宮(かわぐちのかりみや)跡へ行って参りました。 河口行宮跡というのは津市白山町川口にある。JR名松線の関ノ宮駅の東方500m位の小高い丘の上にある医王寺の境内地に河口行宮跡碑がある。所在地については異説もあり確かなことは不詳であるが、一応此処として置きましょう。 藤原広嗣の乱が起こった時、聖武天皇は兵を連れて東国へと巡幸する。大宰府で起こった反乱であるが、都でもこれに呼応する動きがあったことから、天武天皇の故事に倣い、東国を巡ることで、身の安全を図るとともに自らの威信の強化を図った、という見解もある。であれば、颯爽と「駆け巡る天皇」であり、「さまよへる天皇」と言うのは聖武天皇に失礼極まりないこととなるが、小生などには過剰反応の弱々しい神経質な人物像が浮かぶので、「さまよへるすめろぎ」というタイトルにした次第。 藤原氏の影響力が強い平城京からの遷都を画策していた橘諸兄が広嗣の乱を奇貨として聖武天皇に必要以上の不安を煽ったのではないだろうか。 で、何故、このタイトルが河口行宮と関係があるのかと言うと、「さまよへる」聖武天皇がこの地に10日間ほど滞在したのであり、反乱者広嗣の捕縛とこれを斬首に処したという知らせを受け取ったのがこの地であるからです。(近鉄・榊原温泉口駅) 近鉄大阪線・榊原温泉口駅前から出発です。駅前でトレンクルを組立て「颯爽と駆ける」ヤカモチであります。やがて「さまよへるヤカモチ」となるのでありますが。(榊原温泉口から県道28号へ) 駅からの坂を下った最初の辻を左に入るとこの道である。この奥で県道28号と合流し南へと下って行く。合流地点付近にある常照寺の近くに紀貫之の墓があったようだがそれは後で知ったことで訪問ご挨拶は叶いませんでした。(県道28号から) 県道28号を走りながら右手後方を見やると山上に風力発電の白い塔列。これは伊丹空港に着陸する前にこの付近の上空を飛行するので、飛行機の窓からもよく見えるちょっと印象に残る光景なのである。 県道28号は倭2丁目交差点で国道165号に突き当たる。これを左に取って少し行くと倭1丁目交差点。そこから右(南)に坂を上る道からが再び県道28号である。倭1丁目交差点から1kmほど行くと大きな幼稚園があり、子供たちの声が賑やか。(白山幼稚園) 更に1kmほど行くと白山中央公園・白山運動場。入口に「花灯り」だったか、何かそんな風な名の喫茶店があったが11時からの営業のようで未だ準備中。(白山運動場) 幼稚園を過ぎた辺りからはずっと下り坂。白山運動場を過ぎると右にカーブしながら急坂を下り、下りきった処で県道662号と交差する。(県道28号と662号との交差点) 県道28号を直進してもいいのだが、662号に入り右(西)に行く。写真奥に見える鉄塔の辺りに架かる八ッ山橋を渡ることとする。(県道662号から南西方向を望む。) 県道662号から南西の方向の眺望は、襞なす山々が眺められてなかなかにいい。(八ッ山橋北詰。県道662号から橋を渡って県道664号へ。) 県道662号と別れ、雲出川に架かる八ッ山橋を渡る。ここから県道664号となる。(JR名松線・関ノ宮駅) JR名松線関ノ宮駅の前の踏切を渡る。川口の地には関所が設けられていたようで、河口行宮は関の宮とも呼ばれたよう。駅名がそのことを表している。(聖武天皇行宮址碑。医王寺への道) 駅を過ぎて県道15号との交差点を越えると県道580号に変わり左にカーブして行く。曲がり切った辺りに細い脇道があり、聖武天皇行宮址・医王寺の碑が立っている。(河口行宮跡と医王寺) 左の木立の中が河口行宮跡。正面奥が医王寺の建物である。(河口行宮跡)(同上・聖武天皇関宮宮址碑)(同上・副碑)(大伴家持歌碑) 天平12年(740年)冬10月、聖武天皇の巡幸に供奉した若き大伴家持がこの地で作った歌である。家持はこの時満22歳であるから、社長の出張にお伴した新入社員といった処だろうか。会社(天下国家)の危機であるというのに歌の内容は都に残した恋人が恋しいというもの。若き社員(官僚)がこんなことで良いのか(笑)。河口の 野辺にいほりて 夜のふれば 妹が袂し 思ほゆるかも (大伴家持 万葉集巻6-1029) この妹というのは彼の妻となる坂上大嬢であろう。 さて、家持殿の名誉のために付言して置くと、その社長たる聖武天皇さんがお作りになった歌も下記の如くなのであるから、新入社員の家持を叱る訳にも参らぬことにて候。妹に恋ひ 吾(あが)の松原 見渡せば 潮干の潟に 鶴(たづ)鳴き渡る (聖武天皇 同巻6-1030)(医王寺本堂) 聖武天皇はこの後恭仁京への遷都を決定するのであるから、今回の銀輪散歩は、今月29日に予定している恭仁京万葉ウォークの周辺取材ということになります(笑)。 この後は取材とは関係なしの単なる銀輪散歩となりますが、そのご報告は明日の事と致しまする。(つづく)
2014.11.08
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今日は立冬。 暦の上では冬ということになりますが、朝からトレンクル君をお伴に少し遠出をして参りました。 そのことは追ってご報告申し上げることとし、先に嬉しいご報告を。 それは何かと言うと、本日、当ブログ「偐万葉田舎家持歌集」へのアクセス総件数が30万件を超えたということであります。午後4時頃に帰宅してパソコンを開くと累計アクセス件数が30万を超えていたという次第。 ブログを開設して7年6か月余になりますが、漸くにして30万件突破です。立冬という節目の日に30万件突破というのも何やら嬉しい符合であります。 ご訪問下さった方々に心から感謝を申し上げます。 これからも、ヤカモチ老体に鞭を打つなどは致しませぬが、無知と無恥を打ち振るい、精進、相努めますれば、引き続き当ブログをよろしくお引き立てのほどお願い申し上げる次第であります。冬立つ日 心引き締め 行けとかや みそよろづにぞ なりぬアクセス (偐家持) 本日の銀輪散歩は明日の日記にてご報告することとし、本日はちょろっと写真を1枚だけ掲載して置きます。 (雲出川<津市白山町>)
2014.11.07
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昨日の囲碁例会に出るための銀輪散歩の途中に立ち寄った神社で思わぬ発見がありました。その神社というのは深江稲荷神社。布施駅前商店街を北へ大阪枚岡奈良線道路を過ぎて二つ目の辻を西に入った処にある。境内で見つけたのは高市黒人の「四極山・・」の万葉歌碑でありました。(高市黒人万葉歌碑)四極山 うち越え見れば 笠縫の 島漕ぎ隠る 棚なし小舟 (高市黒人 万葉集巻3-272) 四極山というのは、四方を見渡せる山という意であり、山というものは概ねそのようであるから、何処の山とも決め難く、諸説あって何処とも定まらない。大分の高崎山だとする豊後説や契沖の三河説、賀茂真淵の摂津説などがある。下掲の副碑(写真をクリックするとフォト蔵画面に切り替わり拡大写真でご覧戴けます。)によると四極山摂津説に依拠し、本居宣長の説にからこの付近が笠縫島である、というのが此処にこの歌碑が設置された根拠であるようです。昨年11月に建立された新しい歌碑である。(同上・副碑)(深江稲荷神社<笠縫神社>) 深江稲荷神社は、この地で菅笠編みを生業とする笠縫氏がその祖先神である下照姫を祀ったのが最初で、元明天皇の頃、和銅年間に伏見稲荷から分霊を勧請したものとのこと。(同上・拝殿)(同上・本殿)(同上・由緒) (境内のイチョウとクスノキ)(深江菅笠ゆかりの地碑と笠縫邑跡碑) 神社の門前には深江菅笠ゆかりの地の碑と摂津笠縫邑跡の碑が並び立っている。この地域は「管笠の里」の別名があり、明治頃までは笠づくりが盛んでこれに従事する人が多くいたらしい。伊勢神宮式年遷宮と天皇即位式大嘗祭には今も此処から管笠が奉納されているとか。 万葉集にも管笠の歌がある。おしてる 難波管笠 置き古し 後は誰が着む 笠ならなくに (万葉集巻11-2819)<照り渡る難波の菅で作った笠を着けもせずに置き、古びさせて、後で誰かが被る笠というのでもないのに。>(注)笠は女性の比喩として使われている。(菅田の復元) 神社の北側には菅田が復元されていました。地元の人たちによる菅田保存会がその保存活動をされているようである。 神社の近くにある、南深江公園の一角にも菅が植えられていました。これは管田とは言えませぬが。(南深江公園にある「深江の菅」)(南深江公園) 深江の菅に暫し心遊ばせてから、いつものコースに戻り、囲碁例会の会場である梅田スカイビルへと向かいました。(大川沿いの桜並木も色づいて)(大川沿い自転車道)(水上バス)
2014.11.06
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本日は囲碁例会。例によってMTBで梅田スカイビルまで銀輪散歩。 スカイビルの中庭では今月14日から始まる恒例のドイツ・クリスマス・マーケットのためのクリスマス・ツリーや出店の据え付け・飾り付けの工事でトンカチ、トンカチ。もうそんな季節になったのですな。(梅田スカイビル) 昼食は、スカイビルの里山にある喫茶店WILLER EXPRESS Cafeで。昼食の後しばし里山を散歩。イヌビワが実を付けていました。この木も亦万葉植物である。 「勇士の名を振はむことをねがふ歌」という大伴家持の長歌に「ちち(知智)」として登場する。尤も、チチはイチョウ、イチジクという異説もあるのではあるが、ここはイヌビワのことであるとして置かないと話が前に進まない(笑)。(イヌビワの木)ちちの実の 父の命(みこと) ははそ葉の 母の命 おほろかに こころ尽して 思ふらむ その子なれやも 丈夫(ますらを)や 空しくあるべき 梓弓 末振り起し 投矢(なぐや)以ち 千尋(ちひろ)射渡し 劔刀(つるぎたち) 腰に取り佩き あしひきの 八峯(やつを)踏み越え さし任(ま)くる こころ障(さは)らず 後の代の 語り継ぐべく 名を立つべしも (万葉集巻19-4164)<父や母が通りいっぺんに心配しているようなそんな子であっていいものか。大夫は空しく生きてはいけない。梓弓の末を振り立て、投げ矢を以って遠くを射通し、剣太刀を腰に帯びて、いくつもの山を越えてこのように任ぜられた心を晴れやかに、後世に語り継がれるような名声をたてるべきである。>(注)ははそ=コナラのこと。ナラガシワ、クヌギ、カシワという説やこれらの総 称とする説などもある。 ちちの実の・父、ははそ葉の・母、という使い方は大伴家持の別の 長歌(巻20-4408)でも見られる。 (イヌビワの実) 「ちちの実の父」のイヌビワの写真を掲載して、「ははそ葉の母」のコナラの写真を掲載しないのは片手落ちと言うもの。今日はそんな心算で撮影した訳でもないので、コナラの今日の写真はありませんが、里山にはコナラの木もあり、今年の6月14日の日記にその写真を掲載していますので、それを再掲載して置きます。(コナラの木) 上のコナラは6月撮影のものですから、秋の雰囲気ではありません。ハナミズキの紅葉と赤い実の写真で「アキ」らしくして「オキ」ましょう。(ハナミズキ)(同上) さて、本題の囲碁例会。本日の出席者は福〇、竹〇、平〇、村〇各氏と小生の5名。それぞれの方と1局打ち、福〇氏、村〇氏、竹〇氏に勝ち、平〇氏に負けで3勝1敗。これで、今年の通算成績は19勝17敗と勝ち星が先行することとなりました。
2014.11.05
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本日も墓参の日記になりました。と言っても本日は月例の我が家のお墓参りであります。いつもの道中にあるお寺の門前に掲示の言葉から始めましょう。選ばず 嫌わず 見捨てず ―竹中智秀― これは「摂取不捨」という弥陀の本願の働きを説明した親鸞の言葉を言い替えた言葉ですな。我々は、自身の欲するままに選択し、自身の意に染まぬものはこれを捨て、という「取捨選択」の生き方をしているが、阿弥陀様はそんな我々をも見捨てず我々を救済すべくいつも傍に寄り添っていて下さるのだ、という「弥陀の本願」を説明する言葉としてよく使われる言葉。 歎異抄は高校一年生の時に「歎異抄入門」という文庫本を下校時に立ち寄った八尾の商店街の本屋さんで見つけて読んだのが最初。その時店番をしていたお婆さんから「若いのにこんな本を読むなんて感心や。」と言われたことを記憶している(笑)。<参考>歎異抄第1章 「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり、と信じて念仏申 さんと思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけたまうなり。 弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とするべし。」(皿池の諸仏) 墓参の後、墓地を歩いていると「皿池之諸仏」という石碑が目につきました。皿池というのは、自宅から小学校への通学路の道脇にあった大きな溜池であったが、今は埋め立てられて中学校の敷地になっている。その埋め立て工事の際に堤防にあったものや池の底から発見されたものを此処に祀っているのであろう。埋め立てられたのは30年以上も昔のことであるから、これも30年以上も前から此処にあったのだろうか。今まで気が付かなかったとは迂闊家持とは言え、迂闊過ぎます。見ても見えず。「選ばず」ではなく「選んで」生きている吾輩は選んだ物しか見えていないという訳であります。 <追記>上の「一文字墓」というのが気になり「相撲取り」の名前ではないかと 調べてみたら、果たしてその通りでありました。我が家の墓の近くにも 江戸時代のものと思われる「森ヶ谷墓」というのもある。これも何やら 力士のそれのように思われるが、こちらは今の処よくは分からない。 「鴻池の村相撲と力士・三笠山」(阪神タイガースの帽子を被った石仏) そして、次に「選んだ」吾輩の目に入ったのはこんな可愛らしい石仏。墓石の傍らに墓石に寄り添うようにして建てられているから、このお墓の持ち主が個人的に設置されたものであるのでしょう。高さ数十センチの小さな石仏(石像)である。その小さな頭にぴったり合ったサイズの野球帽を被っている。これはこのお墓のお家の方がこの石仏のために誂えたものに違いない。何か悲しい話がこの石仏設置の背景には潜んでいるのでは、と想像されたりも。 それはそれとして、この石仏も先頃の日本シリーズでは阪神タイガースを応援したのではないでしょうか。その応援と言うか、祈りも空しく阪神日本一の夢は潰え去りましたが。(里の秋) 墓地の裏は直ぐに山。墓地そのものが山の西斜面に存在するのであるから、里の境界がこの墓地ということとなるのでしょう。少しばかりの畑があってその先は山頂へと広がる雑木林である。 紅葉(黄葉)は未だ左程には進んで居らず、柿の実が秋らしい佇まいを見せている。 帰途は少しばかりしぐれましたが、傘を必要とするほどの降りではありませんでした。 とりとめもない、墓参に関連しての散歩のお話でした。
2014.11.02
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