全17件 (17件中 1-17件目)
1

本日は中学時代の恩師のお墓参りでした。今月17日が命日で13回忌法要が営まれましたが、我々教え子はそれへの列席に代えて本日の墓参ということとしました。 参加者は、木〇君、谷〇君、嶌〇さん、塩〇さん、大〇さん、堀〇さん、ひろみちゃんと小生の8名と恩師の奥様。東京から参加の朝〇君は午前中の墓参には間に合わないので墓参後のミニクラス会からの参加となりました。(墓参) 墓参後、ひろみちゃんの車とタクシーに分乗して皆さんは宝山寺の奥にあるレストラン「グリーンテラス」へ。 小生は遅れて東京からやって来る朝〇君を出迎えるため生駒駅へ。 駅改札口前で待つこと30分。12時41分着電車で朝〇君登場。彼とは高校も同じで同じサークルに属していたこともあって親しい付き合いであったが、高校卒業後は彼は東京の大学に、小生は大阪の大学にということで、お付き合いは疎遠となり、久しぶりの再会であった。 彼と小生がグリーンテラスに到着したので、昼食パーテイーの開催となりました。朝〇君は久々の参加ということで皆さんからウェルカムしきりでありました。 グリーンテラスは生駒山の中腹にある眺望が売りのレストラン。下の写真の建物まで、下の入口からはかなりの階段を上って来ることとなるので、少し疲れます(笑)。(グリーンテラス) それだけに、売り物の眺望はまことに素晴らしい。 ランチの後、デザートと珈琲はレストラン棟から更に上にある建物に移動してというのが、この店のコダワリと言うかしきたりのよう。で、我々も上に移動。売り物の眺望を存分に楽しんで戴こうというのが店の主人の「おもてなし」という訳である。 下の写真の左奥の高い場所にあるのが食後の珈琲の場所である。右端に写っているのがレストラン棟である。(同上)(グリーンテラスからの眺望) 上と下の写真がレストラン棟のデッキからの眺めです。(同上) そして、下が一段高い珈琲ルーム(テラスもある。)からの眺めです。 手前に矢田丘陵があり、その向こうに奈良の市街地。写真には写っていませんが右手奥には若草山なども見えていました。(一段高い部屋からの眺望)<参考>グリーンテラス 午後3時過ぎまで歓談し、この後、恩師宅で二次会というのが小生の計画で恩師の奥様もその心算で居られたのですが、女性陣はそんなに遅くまでは無理とのことで、計画変更、解散となりました。 ひろみちゃんはマイカーで奥様をご自宅までお送りし、他の8名は、タクシーに分乗の方が安上がりと言う店の主人のアドバイスを聞き流して、ケーブルカーで下山すべく、宝山寺(生駒聖天)境内を抜けて、ケーブル乗り場の宝山寺駅へ。(岩谷の滝) ひろみちゃんが「途中にある岩谷の滝を写真に撮るように」ということであったので、皆でちょっと立ち寄りました。(同上) (岩谷の滝の手前の滝行場とお不動さん)(宝山寺の山門) 宝山寺駅に着くと、発車までの待ち時間は7分。ということで予定通りケーブルカーで下山することとしました。(ケーブルカー・ミケ号) 生駒駅でそれぞれの行き先(帰り先と言うべきか)に応じて別れ、朝〇君と谷〇君と小生の3名は瓢箪山駅まで。そこで下車して喫茶店で暫し時間つぶし。 朝〇君を接待する心算でいた小生でしたが、喫茶店を出て、では食事にと誘うと、彼は兄の家に今夜は泊ることとなっていて、夕食もそこでという約束になっていると小生らの申し出を固辞、仕方なくそこで別れることとなりました。 明日は、彼は河内源氏三代墓を訪ねると言っていました。小生は此処は訪問済みなので案内して上げようと言ったものの、よく考えると明日午後は若草読書会なのでありました。彼は自分一人で気ままに歩いてみたかったのでしょう、お気遣い無用と断ってくれたので、ダブルブッキングにはならずに済みました(笑)。<参考>「銀輪散歩・霞立つ野の上の方に」2014.3.2. 「銀輪散歩・彼方の赤土の小屋に」2014.3.3.<関連記事> 恩師の墓に参り来しかも 2014.10.30. 大和西大寺駅から矢田寺経由富雄駅まで(その3) 2010.3.7. 中学時代の同級生と一緒に恩師のお墓参り 2009.9.12. 墓参と銀輪行 2009.5.24. お墓参りが思わぬ大遠征に・・ 2008.6.14. 昨日の走行を歌に 2008.6.15. 奈良金春会能公演 2007.10.21. 恩師の命日 2007.5.17. 恩師の墓参 2007.5.13.
2015.05.30
コメント(8)

今日は「夕々の会」例会。これは大学の同期会である。と言っても卒業年次による同期会ではなく、入学年次による同期会である。東京にも同様の集まりがあるようだが、東京のそれに倣って、関西でもやってみようと10年位前から始めたもの。いつの頃よりか毎年5月と11月の最終金曜日開催ということになった。参加者は遠くは福井県、岡山県、徳島県からという御仁も居られるが大多数は京阪神奈良在住組である。 これまでは心斎橋でやっていたのであるが、今回はより集まり易くということで場所を梅田に変えての集まりとなりました。 今回の出席者は、岡〇、黒〇、小〇、佐〇、谷〇、出〇、道〇、仲〇、中〇、西〇、広〇、深〇、古〇、堀〇、前〇、守〇各氏と小生の17名。 午後6時開会で、店は大阪駅ビルの大阪大丸14階にある「燦」でありました。(「燦」) 少し早く大阪駅に着き過ぎたので、駅やら駅からの周辺の景色をカメラに。この会のことをブログ記事にするにしても、写真に困るのがいつものこと。宴会さ中の人物の写真はちょっと差し障りもある、さりとて料理を一々撮影していては興醒めだし、小生の柄には合わない、ということで、下記のような写真となった次第。 写真は全て大阪駅3階デッキからの撮影です。(大阪駅)(同上)(大阪駅南側駅前のビル群) 月2回囲碁でお世話になっている梅田スカイビルもついでに撮影。此の角度から眺めるのは初めてなので新鮮な感じである。(大阪駅北側の梅田スカイビル) 駅構内をぶらついての上記写真でありましたが、そんなに時間が潰れるものでもない。少し早いがいいかと店に行くと既に数名が集まっていて、早くもありませなんだ。 8時までの2時間の飲み食い・歓談、これはいつもの通り。とりとめもない話であるが青春時代の一時期を共にした仲間と過ごす時間というのはまことに心地よいものである。小生は下戸にて、アルコールは乾杯のビールの他はもっぱらウーロン茶なのであるが、それでもこの会は皆勤である。 次回11月の例会は京都在住の佐〇氏のお世話で京都で開催ということに決まり、散会となりました。
2015.05.29
コメント(8)

本日はナナ万葉の会の第13回例会の日でした。 喫茶ナナは女主人「ナナの郎女」さんこと小〇さんのご都合で閉店となりましたので、ナナ万葉の会も打ち切りにしてもいいのですが、今回の「崇福寺跡へのウオーク」は、3月に実施する予定であったのが雨で中止となり、順延となっていたものなので、一応実施することとしたものであります。小〇さんは生憎と足の不調で不参加となるなどもあって参加者は少数となりました。男性3名(植〇氏、中〇氏、ビッグジョン氏)、女性2名(松◎氏、松〇氏)で、案内役の小生を含めて全6名の少数精鋭でありました(笑)。 今回のウオークの下見を3月1日にして居り、それを記事にしている他、2012年にも崇福寺跡を訪ね記事にしていますので、併せご覧戴くこととし、それを前提に写真などはかなり省略して居りますのでご容赦を。 <参考>「近江神宮・志賀の山寺」2015.3.1. 「崇福寺跡へ」2012.1.26. 京阪・石山坂本線の近江神宮前駅に午前11時集合・出発。コースは、近江神宮前駅~大津京シンボル緑地~近江神宮~南滋賀廃寺跡~榿木原遺跡~千躰地蔵堂~百穴古墳群~崇福寺跡~滋賀里駅である。6km程度の行程である。 JR京都で湖西線の普通電車に乗り換えると松◎さん、松〇さん、中〇さんと車内で一緒になりました。近江神宮前駅に着き、既に到着されていた植〇さんと合流。一つ後の電車でビッグジョン氏も到着、10時52分には全員集合、出発となりました。 大津京錦織遺跡などを見学した後、大津京シンボル緑地へ。此処には、天智天皇、額田王、藤原鎌足、柿本人麻呂、平忠度の歌碑がある。それぞれの歌碑については、下記ブログ記事で紹介していますので、それをご参照下さい。 <参考>「大津京歌碑散歩(その2)」2013.1.8. 近江神宮の参道に入る。(近江神宮鳥居) 近江神宮境内にある、大友皇子詩碑(吟友之碑)、柿本人麻呂歌碑、高市黒人歌碑、保田與重郎歌碑、芭蕉句碑、天智天皇歌碑などを巡る。 ゆっくりペースであった所為で近江神宮を出る前に正午を回ってしまっていたので境内域内でお弁当タイムとする。 昼食後、南滋賀町廃寺跡に立ち寄る。地元の方であろうか数名の方が草刈の作業中でありました。(南滋賀町廃寺跡) この寺は発掘当初は、崇福寺か梵釈寺ではないかとも見られたが、崇福寺跡がその後発見され、梵釈寺は崇福寺に近接して建立されたものであるから、その何れでもないということで、寺名不詳・南滋賀町廃寺と呼ばれている。 廃寺跡から南志賀ランプに向かう。下鴨大津線バイパス沿いに榿木原遺跡という窯跡がある。この南滋賀町廃寺の瓦などは此処で焼かれたものとのこと。 (榿木原遺跡)(同上説明板) バイパスに沿って北へ。最初の信号でバイパスの下をくぐり、川沿いに行く。滋賀里駅から上って来る道に突き当たった処で左折、少し坂を上ると千躰地蔵堂。更に上ると百穴古墳群である。(百穴古墳群説明板※)(百穴古墳群入口※) 百穴古墳群に隣接して竹林があり、葉洩れ日が竹林を煙らせているような不思議な風情。 サラサラと砂のごとにも光降り・・でありました。 かぐや姫は何処におはしますか(笑)。(百穴古墳群の竹林) 百穴古墳から少し上ると志賀大仏。更に上ると本日の目的地の崇福寺跡である。 (志賀大仏※) (同左※)(同上説明板※)(崇福寺跡伽藍位置図※)(崇福寺跡説明板※) 崇福寺にまつわる万葉悲恋のご紹介。 但馬皇女と穂積皇子との悲恋物語である。 母、氷上娘(鎌足の娘)に早くに死なれ<天武11年(682年)正月没>た但馬皇女は、同母の兄弟姉妹もなく庇護者もなかったので、異母兄の高市皇子に引き取られ、後に妻の一人となったと見られている。尤も、これは万葉集の歌からの推量で確証はなく、兄として高市が面倒を見ていただけという説もある。穂積皇子と許されぬ恋愛関係となるが、露見し、二人の仲は引き裂かれる。穂積皇子は志賀の山寺へ追いやられる。 万葉集の歌から、但馬との恋愛・密通事件で左遷されたと推測されている穂積皇子であるが、彼の志賀山寺派遣は、別の何らかの理由による左遷であるとする説や藤原京遷都の報告をするため持統天皇の命によって崇福寺に派遣されたに過ぎないなどの説もあって、真相は「藪の中」である。そして、その崇福寺跡は「山の中」である(笑)。 <参考>「ふる雪はあはにな降りそ・・」2011.12.25.(崇福寺跡・金堂跡) 但馬皇女の歌2首を記載して置きましょう。秋の田の 穂向きの寄れる 片寄りに 君に寄りなな 言痛(こちた)かりとも (巻2-114)おくれゐて 恋ひつつあらずは 追ひ及(し)かむ 道の隈廻(くまみ)に 標(しめ)結(ゆ)へ吾背(あがせ) (巻2-115)(ウオーク参加者のスナップ。松〇さん、ビ氏、松◎さん)うしろ姿もながめてみるか (志賀山中火) 帰途は、皆で滋賀里駅前の喫茶店「大受」に入り、冷たい飲み物で体を冷やしながら5時少し前まで歓談でした。(注)上記掲載の写真のうち、キャプションに※印のあるものは本日撮影のもので はなく、以前の訪問の折に撮影したものを流用しています。
2015.05.27
コメント(8)

フォト蔵への写真アップが出来なくなっていたので本日はブログ更新をお休みとする心算でしたが、今朝にはもう正常に復していました。 ということで、蕪村銀輪散歩の記事が長引いて、フォト蔵へのアップをしないままでいた、先日(20日)実施の倉橋池銀輪散歩の折の写真をフォト蔵に本日アップロードしました。しかし、その記事を始めると長くなるので、それは追って後日にするとして、本日は、その倉橋池畔で撮った蝶の写真のみ掲載してお茶を濁して置きます。 倉橋池というのは、奈良県桜井市にある。桜井駅から談山神社へと行く道の途中にある大きな溜池である。池の周囲を廻る遊歩道(約4km)があって散策には手頃である。自転車だと更にも簡単に回れてしまって少し物足りないが、トンボ池広場、野鳥の森広場などと名付けられた芝生広場が処々にあって、池の景観もなかなかによく、快適な散策を楽しめる。 倉橋池は、高山池、白川池、斑鳩池と並び奈良県の四大溜池とされているとのこと。 白川池は北・山の辺の道銀輪散歩で立ち寄っているが此処は今回初めてである。高山池と斑鳩池は知らない。何れ機会があれば、です。 桜井駅前で買って来たお弁当で、この池の畔の「トンボ池広場」で昼食としたのであるが、その折に飛来した蝶というのが今日の写真です。 トンボ池広場なのにトンボが居なくて蝶が来た、というのが面白くて写真に収めたのであるが、小生のそのような心を察してか、程なくトンボが一匹飛来しました。尤も、これは撮影に失敗しました。(イチモンジチョウ)(同上)(注)フォト蔵へのアップは出来たものの、ブログへ貼ろうとすると「アップロー ド処理」が完全には済んでいないようで、出来ない。結局、楽天写真館を利 用してのブログ貼り付けとなりました。 万葉集に蝶は出て来るのかと調べたら、蝶を詠った歌はありません。歌の題詞の中に登場するのみです。 一つは、万葉集巻5の天平2年正月13日の大伴旅人の館で催された梅花の宴の歌32首の題詞である。「・・庭には新しき蝶舞ひ、空には故つ雁帰る。・・」とある。 もう一つは、巻17の、病に臥した大伴家持とそれを見舞う大伴池主との間に交わされた歌群の中の、大伴家持の天平19年2月29日の歌(下記)の題詞である。「・・紅桃灼灼として戯蝶囘りて舞ひ・・」とある。 花鳥風月であって花蝶風月に非ずという訳で蝶はあくまで脇役であったのですな。蝶に言わせれば、鳥無き里の蝙蝠ならぬ、鳥無き里の蝶にもあらまし、でしょうか。山峡(かひ)に 咲ける桜を ただひと目 君に見せてば 何をかおもはむ (大伴家持 万葉集巻17-3967)うぐひすの 来鳴く山吹 うたがたも 君が手触れず 花散らめやも (同上巻17-3968) 一方、トンボの方や如何にと尋ぬれば、これもトンボそのものを直接に詠った歌はありません。トンボの古称は蜻蛉(あきづ)。雄略天皇が狩をしていた時にふくらはぎに虻がとまって刺すがそれをトンボが捕まえて飛び去る、で、それをよしとした天皇がその地を秋津(あきづ)と名付ける。やがて秋津は「秋津嶋やまと」などと使われるようになり全国区の名称となりますが、万葉では、もう一つ「あきづ羽の袖」とか「蜻蛉領巾(あきづひれ)」というのが出て来る。これは女性の衣や領巾など薄い布をトンボの羽になぞらえた美しい表現である。あきづ羽の 袖振る妹を 玉くしげ 奥に思ふを 見たまへ吾君 (湯原王 万葉集巻3-376)つぎねふ 山城道を 他夫の・・蜻蛉領巾 負ひ並み持ちて・・ (万葉集巻13-3314)
2015.05.26
コメント(8)

<承前> 金福寺は村山たか(舟橋聖一「花の生涯」のヒロイン)に所縁の寺でもあるようで彼女の墓や彼女が建立したという弁天堂などもありましたが、今回は「恋しぐれ」蕪村銀輪散歩なので割愛します。 金福寺を後にし、白川通りに出てこれを南へ。今出川通りで右折、西へ。左折して東に行けば銀閣寺であるが、今日は銀閣寺もお呼びではないのである。 今出川通りに入って京都大学にさしかかった辺り、通りに面して後二条天皇北白河陵があったので立ち寄りました。蕪村とは関係ありませんが、後二条天皇と言えば後醍醐天皇の兄に当たるお方なのでちょっとご挨拶であります。(後二条天皇陵) (同上) (邦良親王<後二条天皇皇子>の 墓。背後は京大の学舎) 後二条天皇もその息子の邦良親王も20代の若さで死亡。この結果、後二条の弟の後醍醐天皇に天皇即位の道を開くこととなったのであるから、後二条が長生きしていたら歴史はどういう展開になったものやらなどと考えると面白い。 京都大学を過ぎ、出町柳で再び賀茂大橋を渡り、同志社大学を過ぎ、烏丸通りも渡り、ひたすら西へ。 何処へ行こうとしているかと言うと、北野白梅町・西大路にある地蔵院(別称・椿寺)なのである。この寺の境内に蕪村の俳句の師匠に当る夜半亭宋阿(早野巴人)の墓がある。ついでにこれにもご挨拶して置こうという次第。 堀川通りに出る少し手前に白峯神宮があったのでこれにも門前からご挨拶して置きました。(白峯神宮) 西に向かって走っているので道路の左側車線を走行しています。反対車線側にある白峯神宮に立ち寄るには横断歩道に回って信号待ちをしなくてはならない。それ程までして立ち寄るのは今回の銀輪散歩の趣旨には反する。次の北野天満宮も同様の理由で鳥居前からのご挨拶でありました。(北野天満宮) ようやく西大路通りまでやって来ました。ここで左折、西大路通りを南に向かう。一つ目の辻を左に入ると地蔵院である。(地蔵院) この寺は、神亀3年(726年)つまり大伴家持9歳の時に、行基が兵庫県伊丹市にある昆陽池の畔に建立したのが始まりで、平安時代に京都(衣笠山麓)に移転し、天正17年(1589年)に秀吉の命により現在地に移転させられたとのこと。従って、蕪村の時代には現在地にこの寺があったということになる。 さて、蕪村のお師匠はん、宋阿さんのお墓は何処にあるのでしょう。(同上説明板)(同上・地蔵堂)(同上・観音堂) 地蔵堂の左側、一般墓地への入口脇にそれはありました。 小説「恋しぐれ」の中でも、蕪村とその娘くのと内弟子月渓との三人が、この地蔵院の宋阿の墓参りをしている場面があるが、三人の姿をこの場所に空想・幻視してみるのも面白い。境内には人影もなく、幻視を邪魔するものは何もない(笑)。(夜半亭宋阿の墓)<参考>宋阿(早野巴人)・Wikipedia 夜半亭宋阿(早野巴人)は、宝井其角、服部嵐雪の門人となって俳諧を学んでいる。其角、嵐雪は芭蕉の弟子であるから、宋阿は芭蕉の孫弟子。宋阿の弟子となる蕪村は、従って芭蕉のひ孫弟子ということになる。 こしらへて有りとは知らず西の奥 (宋阿) 宋阿、辞世の句である。(五色八重散椿) 書院の前庭にあるのが五色八重散椿。 秀吉が寄進したものらしいが、それは枯死し、現在あるのは樹齢約120年の2代目の椿であるという。墓参の蕪村ら3人が目にした椿の木は初代のそれで、この木ではないということになる。 椿はポトリと「落花」するのであって、花びらが散るということは通常はないのだが、この椿は山茶花のように花びらがばらばらに「散る」処から「散椿」と呼ばれ、それが珍しがられたのか、それとも秀吉寄進の椿というブランドが物を言ったのかは知らぬが、この椿によって「椿寺」とも呼ばれるようになったという訳である。 以上で、蕪村銀輪散歩の立ち寄り予定地を全てクリア致しました。天気予報では夕方から雨とのことであったので、雨具の用意はして来たものの、降り出す前に京都駅に着くにしかずで、急いで帰途に。帰途は、西大路を南に丸太町通りに出、丸太町通りを東に堀川通りに出て、これを南に、というコースで帰って参りましたが、途中でポツリポツリ、やがてパラパラと雨が降り出しました。少し焦りましたが、本降りは京都駅到着後で、事なきを得ました。 長らくのお付き合い有難うございました。これにて京都・蕪村銀輪散歩完結です。 最後に、少し字数に余裕があるようでもあり、河原院趾碑の近く、高瀬川畔にセンダン(楝・あふち)の花が見事に咲いていたので、その写真を掲載して置きます。(センダン<楝(おうち)>の花)(同上)(同上) 楝は、山上憶良や大伴家持・書持兄弟らが詠っている万葉植物。一応記事カテゴリが「銀輪万葉」であるから、これで辻褄が合うというものである(笑)。<完>
2015.05.25
コメント(8)

<承前> 芭蕉庵の傍らには芭蕉の句碑がありました。 うき我をさびしがらせよかんこ鳥 (芭蕉) 金福寺のパンフレットでは当寺にての句とされているが、元禄2年伊勢長島の大智院で詠んだ「うきわれをさびしがらせよ秋の寺」の改作である。 西行の「訪ふ人も思ひ絶えたる山里のさびしさなくは住み憂からまし 」(山家集937)と「山里へたれをまたこは喚子鳥(よぶこどり)ひとりのみこそ住まんと思ふに 」(同49)とを踏まえた句でもある。(芭蕉句碑)(同副碑) では、芭蕉庵の背後の小丘にあるという蕪村の墓に参ることと致しましょう。しかし、その前に蕪村句碑を紹介して置きます。庭に入って先ず目に入った句碑でありました。(蕪村、百池の句碑) 花守も野守に劣るけふの月 (蕪村) 西と見て日は入りにけり春の海 (百池) 蕪村の「花守も・・」の句は、前頁記事で紹介済みである。 百池は寺村百池。蕪村の門人。京の糸物問屋・堺屋の主人。 小丘の細い径を上って行くと蕪村の墓がありました。右隣には月居の墓があり、左隣には大魯の墓がある。月居も大魯も蕪村の門人である。(蕪村の墓) 蕪村は門人たちに囲まれて眠っているのである。 しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけり (蕪村) 蕪村辞世の句である。(蕪村の墓と月居の墓) (江森月居の墓) (江森月居説明板)(与謝蕪村説明板)(蕪村の夏の句) 春夏秋冬で掲示される句は取り換えられるようであります。(吉分大魯の墓) 少し離れて月渓の墓がある。弟の景文の墓と並んでいる。 上の大魯と下の月渓は、小説「恋しぐれ」にも登場するので、「やあ」という感じでありました(笑)。(呉月渓<松村呉春>と呉景文の墓) 月渓は、呉春とも号したが、大阪の池田に住んだこともあり、池田の酒「呉春」はこの月渓こと松村呉春に因む命名であるとのこと。呉春という酒の名は以前から知っていましたが、松村呉春のことは今回初めて知りました。 (呉月渓と呉景文説明板) (松村呉春の碑) 周辺には俳人や画家の墓や句碑が沢山ありましたが、全て存じ上げぬ名前でありました。一応、写真だけ掲載して置きます。 (中川四明句碑) (青木月灯の墓) (森川曾文の墓) 高浜虚子が蕪村の墓にお参りした時に詠んだ句もありました。(高浜虚子の句) 徂(ゆ)く春や京を一目の墓どころ (虚子) 本堂に上がらせて戴くと、蕪村関連のこのような展示もありました。(洛東芭蕉庵再興記)(同上)※写真をクリックしてフォト蔵画面に切り替え、それを再度クリックすると 写真サイズを拡大できます。他の写真も同様です。(蕪村筆「夜色楼台図」)(石本暁海作・蕪村像)(蕪村筆・芭蕉翁像) どうやら字数制限のようです。本日はここまでとします。(つづく)
2015.05.24
コメント(4)

<承前> 再び烏丸通りに戻り、北へ。ここは自転車OK。京都御苑を右に見ながら更に北へ。今出川通りの同志社大学裏手の相国寺へ。相国寺は2007年12月以来であるから7年半ぶりの訪問となる。 <参考>「定家卿之墓」2007.12.29. 前回は偐山頭火氏との二人連れ、目的は藤原定家の墓であったが、今回は一人っきり、目的は伊藤若冲の墓である。蕪村と若冲とは絵の方向が全く違うので同時代の絵かきとは言え、親しい交流があったのかどうか。しかし、同時代の画家でもあれば、これも蕪村関連ということになります。前回、定家の墓を訪ねた際に偶然にその隣に若冲の墓があることを発見したのだが、そのことが何故か鮮明に記憶に残っていたので、ついでにお訪ねしようと思った次第。 「恋しぐれ」では応挙と蕪村は親しく交流しているが、蕪村は1716年生まれ、応挙は1733年生まれで17歳も年齢が離れている。一方の若冲は蕪村と同じく1716年生まれで年齢的には親しい交流があっても不思議ではないが、相性というのもありますからね。(藤原定家、足利義政、伊藤若冲の墓) 時代も分野も異なるこのお三方の墓が並んで居るというのも面白いことである。何処か別の処にあったものを此処に持って来たということであるのでしょうか。 今回はお隣のお二方はお呼びではありません。(伊藤若冲の墓) 相国寺は足利義満の発願・建立の寺。京都五山第二位、臨済宗相国寺派の大本山寺院。正式名称は萬年山相國承天禅寺。金閣寺・銀閣寺は相国寺の山外塔頭になる。(相国寺法堂)<参考>相国寺・Wikipedia 相国寺公式ウェブサイト) 若冲の墓は法堂の左側の道を奥に行った処にある墓地の一画にある。 墓からの帰途に目に入った石碑には、後水尾院天皇御歯髪塚と刻されていた。元々、この場所には足利義満建立の宝塔があったらしいが応仁の乱の戦火で焼失。承応2年(1653年)後水尾上皇がそれを再興し、上皇落飾(出家)時の髪と歯を上層柱心に納めたとのこと。しかし、その建物も天明8年(1788年)の大火で焼失。その跡地に歯髪塚を建てたものと考えられている。 蕪村は天明3年(1783年)に没しているから、天明の大火を彼は知らぬことになる。(後水尾院天皇御歯髪塚) この塚の写真を撮っていると、何やら声高に楽しそうに語らいながら年配のご婦人お二人が通りかかられました。その内のお一人が「カメラを持って来たので二人の写真を誰かに撮って貰おう。」と言って居られるのが耳に入る。「写真、私が撮りましょうか。」と小生。まあ、会話が耳に入ってしまっては放って置けないヤカモチさんでありました(笑)。 塚の前では些か雰囲気が悪いので隣の宝塔を背景にパチリ。「どちらからお越しですか?」とお聞きすると、カメラの方のご婦人は東花園からとのこと。小生のご近所さんみたいな方ではないか。もう一人のお方は「わたしは京都。いけずどすえ。」と仰っていました。「いけず」というのは「意地悪」という意味であるが大阪人にもお馴染みの言葉であるから十分に通じる冗談である。 再び今出川通りに戻り、東へ。鴨川を渡り、出町柳から高野川沿いを上流へ。蕪村の墓などがある金福寺へと向かう。(鴨川<手前・左>と高野川<奥・右>) 賀茂大橋を渡る。高野川沿いに川端通りを北へ高野橋東詰まで。 北大路通りを東へ。白川通りにぶつかった処で左折、二つ目の辻を右に入って坂道を上ると突き当りが本願寺北山別院。 (本願寺北山別院) 北山別院の手前を右に入ると奥に金福寺がありました。 門前で時計を見ると12時40分。で、取り敢えず「腹ごしらえ」とて、門前に唯一ある「かぐや姫」という喫茶店に入る。(金福寺) 客はわれのほか誰とてもなかりき、で女主人と世間話をしながらのゆったりした昼食と食後の珈琲でありました。もう30年も此処で店をやっているという女主人の話でした。「そうどす。そうどす。」という相槌を打つ京言葉も何やら気分をほっこりさせてくれる居心地の良さでありました(笑)。 金福寺は貞観6年(864年)安恵(あんね)僧都が慈覚大師・円仁の遺志により創建した寺。大師自作の観音像を本尊として安置したのがその始まりで、もとは天台宗の寺であったが、後に荒廃し、江戸時代中期に鉄舟和尚が再興し、臨済宗南禅寺派の寺となって今日に至っているとのこと。 当寺の草庵に閑居していた住職の鉄舟和尚のもとを芭蕉が訪れ、親交を深めたという。和尚は草庵を芭蕉庵と名付け芭蕉を偲んで居られたそうな。後年、芭蕉の足跡を慕って蕪村が当寺を来訪した頃には芭蕉庵はすっかり荒廃してしまっていたらしい。その荒廃を惜しんだ蕪村は、安永5年(1776年)に芭蕉庵を再興する。(金福寺の庭。奥に見えるのが芭蕉庵)(芭蕉庵)(同上)(芭蕉庵の由来)(鉄舟和尚が芭蕉をもてなしたとされる翁の水) (蕪村らが建立した芭蕉の碑。芭蕉の生涯をたたえる文が刻されている。) この碑建立の時に蕪村が「我も死して碑に辺(ほとり)せむ枯尾花」と詠んだことから、この碑の後丘に蕪村の墓が建てられたとある。 またも字数制限です。続きは明日とします。(つづく)
2015.05.23
コメント(10)

次回読書会で凡鬼さんがお話し下さる葉室麟「恋しぐれ」は与謝蕪村やその周辺人物の織りなす恋模様を描いた短編小説集であるが、その舞台は京都である。 ということで、先日、京都を銀輪散歩して参りました。 京都駅前をトレンクルで出発。先ず、蕪村句碑があるという粟嶋堂に向かう。粟嶋堂は塩小路通りを西へ、堀川通りを渡り、リーガロイヤルホテル京都の北側を少し西に入った処にある。(粟嶋堂、相棒のトレンクル君も) (蕪村句碑) 粟嶋へはだしまゐりや春の雨 (蕪村) 蕪村の娘・くのは、茶懐石料理の仕出し屋・柿屋の長男・佐太郎に嫁ぐが、病気になって離縁となっている。上の句は蕪村が娘の病気回復を願って粟嶋堂へお参りした折のものであるのでしょう。 小説「春しぐれ」(「恋しぐれ」所収)では、「先方の親が金儲けのことばかりで、自身の思いと食い違ったので、娘を取り戻した。」という友人への蕪村の手紙が紹介されているが、その手紙に添えられていた句が、かの有名な「さみだれや大河を前に家二軒」であるという。 この句は芭蕉の「五月雨をあつめて早し最上川」と比べて、正岡子規が蕪村に軍配を上げた句と記憶する。画家でもあった蕪村ならではの句であるが、背景に娘くのの病気と離縁というような事情が潜んでいるとするなら、また違った色彩も帯びて来るというものである。 人形供養の寺社は全国に沢山あるが、ここ粟嶋堂宗徳寺もその一つである。人形供養と言えば、和歌山市加太の淡嶋神社が有名であるが、このお堂も淡嶋神を祀るのであってみれば人形供養も納得というもの。境内には持ち込まれた人形たちを収めたお堂があり、淡嶋神社には遠く及ばぬものの、独特の景観を醸している。 堀川通りに戻り、これを五条通りまで北上。五条通りを東へ。五条大橋の手前、高瀬川沿いに少し南に入った場所に河原院跡の石碑があるので立ち寄ることに。 河原院とは左大臣源融の屋敷のこと。源氏物語・光源氏の邸宅・六条院のモデルとされる。4町(250m四方)とも8町(500m四方)とも言われる広大な敷地の邸宅であったらしい。河原院趾碑は高瀬川の東岸に建てられているので、河原院跡地の外側になるのでしょうが、まあ、偲ぶよすがとしては今はこれのみ。(河原院趾碑)(同上説明板) 河原院と蕪村とは関係ないのだが、蕪村の句に「鬼老いて河原の院の月に泣く」という句がある。 小説「夜半亭有情」(「恋しぐれ」所収)では、蕪村が未だ若い頃に、下館の木綿問屋の主人で、蕪村と同じく夜半亭門人であった中村霞堂の家に滞在したことがあり、その際に主人の妻の美和と深い仲となってしまう。美和は蕪村の子を宿すが蕪村はそのことを知らぬままに下館から姿をくらます。年月が流れて成長したその子・与八は京の染物屋の職人となっているが、成り行きで蕪村との対面を果たすこととなり、既に死病に冒されていた与八は母・美和の形見の櫛を蕪村に託し、自分は蕪村の息子だと名乗る。その夜に蕪村が胸中でつぶやいた句が上の句だとされている。 身にしむや亡き妻の櫛を閨(ねや)に踏む (蕪村)ということで、河原院跡も踏んでみた次第。 (同上) 本覚寺、上徳寺に立ち寄った後、河原町通りを北へ。両寺は蕪村関連ではないので、此処では割愛。機会があれば追ってご紹介します。 次に目指すは与謝蕪村宅跡。仏光寺通りを西へ、烏丸通りを越えた処にそれはある。ついでに仏光寺にも立ち寄って行く。 ブロ友の新潟のふぁみり~キャンパーさんのお家の菩提寺の安了寺が真宗仏光寺派の寺院だとご紹介されていたので境内を覗いて行くこととしたもので蕪村とは無関係(笑)。(仏光寺)(同上) 仏光寺の北側の通りが仏光寺通り。蕪村と仏光寺は無関係と書きましたが、小説「月渓の恋」(「恋しぐれ」所収)で、蕪村の弟子・月渓の恋の相手で紆余曲折の末その妻となるおはるの父親伝七は仏光寺通りの借家に住んでいることになっている。 月渓とおはるの婚礼の夜に蕪村が詠んだ句。 月天心貧しき町を通りけり 花守は野守に劣るけふの月(与謝蕪村宅跡) 蕪村宅跡は仏光寺から200mばかり西に行った処、烏丸通りを越えて直ぐの処にある。啓明商事という染織物の会社建物の前にその碑が建てられている。(同上説明板)(同上) 蕪村は上田秋成や円山応挙などとも親しく交際していたようだが、その応挙さんの屋敷跡は四条通りにある。蕪村宅からは5~600m程度の距離。不動産広告では80mを徒歩1分に換算する決まりになっているから、それに倣えば徒歩7~8分の距離に過ぎない。 四条烏丸で四条通りを東へ。河原町通りまで来てしまったが、円山応挙宅跡の碑が見当たらなかった。見落としたようなので引き返す。引き返そうとして自転車に跨ると来合わせた婦人警官から「ここは自転車乗れませんよ。」と注意を受ける。車道を行こうとすると車道も自転車乗り入れ禁止とのこと。渡されたビラはご覧の通り。(自転車通行禁止の四条通り) 自転車を押しながら西へ戻る。するとありました。碑の前に店の看板などが出されていてよく見えなかったのでありました。 応挙「往生しまっせ。」(円山応挙宅址碑) 文字数制限です。続きは明日に。(つづく)
2015.05.22
コメント(6)

第160回智麻呂絵画展 本日は五月に入って最初の智麻呂絵画展であります。早くも160回目となりました。今回は16点一挙公開です。どうぞお楽しみ下さいませ。 <参考>他の智麻呂絵画展は下記からご覧になれます。 第1回展~第100回展 第101回展~第200回展 第201回展~ 先ず最初はブロ友のひろみちゃん8021さんが智麻呂さんに下さった花たちの絵です。ミヤコワスレからナマエワスレまでの5点がその花たちです。(ミヤコワスレ<都忘れ>) ミヤコワスレの絵は濃い紫とピンクのそれが絶妙の配置で爽やかな印象を与えます。 次はオダマキです。(オダマキ<苧環>)しづやしづ しづのをだまき くりかへし 昔を今に なすよしもがな (静御前)吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋ひしき (静御前) 頼朝に命じられて鶴岡八幡宮社前で白拍子の舞を舞った静御前が義経を偲んで詠んだ歌とされるが、この歌を思い出す花であります。(スズラン<鈴蘭>) すずなりのスズランです。(アガパンサス<紫君子蘭>) ひろみちゃん氏のアガパンサスの株分けのブログ記事に、アガパンサスは智麻呂氏のお好きな花だとコメントしたら、「ひと鉢差し上げましょう。」と下さった鉢植えです。花が咲くのは来年のことになるでしょうが、楽しみなことです。 花が咲くまでヤカモチの自宅で預る心算でしたが、智麻呂邸に近い場所でその鉢植えの受け渡しを行うこととなったので、予定変更。直接、智麻呂邸にお届けしました。(ナマエワスレ<名前忘れ>)<追記:やはりハクチョウゲだそうです。(ひろみちゃん氏コメント参照)> この花の名前が分からない。で、取り敢えずナマエワスレと名付けて置くこととしました。恒郎女さんのメモにあったいくつかの花の名のうち小生の知らぬ花の名は「ハクチョウゲ」という名で、或はこれかとも思いましたが、ネットで調べてみるとハクチョウゲ(白丁花)というのはこれとは違う花でした。 次はルナリア。 これは、ブロ友のビッグジョン7777氏がブログ記事に掲載されていたものをヤカモチが印刷して智麻呂さんにお届けしたのでありますが、それを絵にされました。 かなり前にお渡ししたのだが、絵にはならなかったので、智麻呂氏の興味を引かなかったものと思いきや、遅れて今回絵になりました。 ルナリアは合田草(ゴウダソウ)とも呼ばれるが、この実というか種というか、その姿形がユニークで面白いので、何れ実の方も絵にして戴きましょうかね。(ルナリア<合田草>)(シャクヤク<芍薬>) 上は芍薬だろうと思います。小生がイメージする普通の芍薬の花とはちょっと雰囲気が違うので迷いましたが、思い付く花はこれしかなかったのでシャクヤクということにしました。或は牡丹かも知れないのですが、立っているのか座っているのか不明であったことと、葉の形が牡丹とはちょっと違うかな、というヤカモチのいい加減な観察からの結論です。 この芍薬は智麻呂さんのご友人の友〇さんからの戴きものだそうです。 次のアイリスもその友〇さんが下さったものです。(アイリス)(これもアイリス) こちらのアイリスは小万知さんの写真集から絵にされました。 下のアセビ2点も同様です。小万知さんの花写真は智麻呂さんの画材として相変わらず重宝な存在です。(アセビ) アセビ(馬酔木)と来れば、思い浮かぶ万葉歌はこれでしょうね。尤も、この場合のアセビはピンクではなくて白い花であるべきだと思うヤカモチではありますが。磯の上に 生(お)ふるあしびを 手折らめど 見すべき君が ありといはなくに (大伯皇女 万葉集巻2-166)(またまたアセビ)(生駒山の夜明け) 恒郎女さんに暫しご旅行の必要が生じました。智麻呂さんはその間、施設にショートステイでありました。これは、その施設から眺めた生駒山からの日の出の景色です。 今回、随分多くの絵が揃ったのも、このショートステイのお蔭かも知れません。ヤカモチ館長としては、このように絵の制作が進むのであれば、時々のショートステイも歓迎でありますな(笑)。(藤の花房) この藤の花はご近所で戴かれたものだそうです。 藤の花でヤカモチが好きな万葉歌はやはりこれ。藤波の 影なす海の 底清み 沈(しづ)く石をも 珠とぞわが見る (大伴家持 万葉集巻19-4199) 以下の3点は、当ブログ記事の写真から絵にされたものです。(ドウダンツツジ<満天星>) 上のドウダンツツジと下の椿は花園中央公園に咲いていたもので、智麻呂ご夫妻とヤカモチとの3人で散歩した折に見掛けた花でもあります。(椿) 次のソラマメはヤカモチが銀輪散歩で見かけたもの。 奥の細道の旅の途上、曾良が芭蕉に尋ねました。 曾良「師匠、これは何の花ですか?」 芭蕉「そら、マメや。」で、ソラマメと呼ばれるようになったとのこと。(そら、ウソや。)(ソラマメ) 本日もご覧いただき有難うございました。
2015.05.17
コメント(10)

本日は囲碁例会で梅田スカイビルへ。毎度のことですが今日も自宅からMTB(マウンテンバイク)です。途中、大阪天満宮近くの「れんげ亭」(3月11日の記事・4月8日の記事参照)で昼食。懸案のママさんご推薦の「豚玉定食」をやっと食べましたが、なかなかのもの、満足すべき美味しさでありました。 さて、囲碁ですが、出席者は竹〇、村〇、福〇、平〇各氏と小生の5名。小生は福〇、平〇、竹〇三氏と対戦しましたが、何れも完敗。今日は強引な打ち方となり、自滅に近い形で敗れました。これで今年の通算成績は10勝12敗となり、負けが二つ先行です。 往路の大阪城堀端には桐の花が咲いていましたが、豊臣家所縁の桐ですから、大阪城には似合いの花です。ということで撮影。(桐の花と大阪城) (同上) 梅田スカイビルに到着。以前はスカイビルの東棟(右側)にある部屋が会場でしたが、現在は手前に写っているアネックス棟の5階(最上階の白いテラスの奥の部屋)が会場です。(今日のスカイビル) 少し早いので、久しぶりに里山を散策。花散歩です。(卯の花) ホトトギスの声はなけれど、夏は来ぬ~♪です。 (シャリンバイ) (ニワゼキショウ<庭石菖>)(ボリジ<和名:ルリジサ>) (ユスラウメ) で、このアト、上に記したように、 囲碁3戦全敗となるのでありました(笑)。 帰途は難波橋を渡り北浜から堺筋を南へと走りましたが、難波橋の上から中之島公園のバラ園を一望。五月はバラの季節でもありますな。(中之島公園のバラ園)
2015.05.13
コメント(10)

<承前> 昨日の日記の続きです。昨日は河内七面山への道で終わってしまいましたが、本日は愈々河内七面山です。まあ、このように勿体ぶるような施設ではないので恐縮でありますが、ともかくも鳥居が見えて参りました。2.河内七面山 いかにも荒れ果てた廃墟という感じの境内です。箒のようなものも置かれているので、手入れをなさっている方も居られるようではありますが。(河内七面山) 鳥居には「河内七面山」という文字が赤々と刻されている。(同上・鳥居) 正面奥には「南無妙法蓮華経」と刻まれた大きな石碑。同様の石碑が何点か散在している。北側面には巨石を背に石仏が4体鎮座まします。(同上・正面)(同上・左<北>側面)(同上・南無妙法蓮華経の石碑)(同上) 右手の斜面を上って行くとあちこちに巨石と言うか巨岩と言うか、大きな岩がゴロゴロとある。古墳の玄室に使用する石にも似ているので、一瞬は古墳かと思ったが、そうではなく切り出された石が放置されただけ、というようです。(正体不明の巨石群、右側に群生しているのはウラシマソウ。) 上の洞の中には小さな祠がありましたから、其処に法華経の守護神とされる七面天女が祀られているのかも知れません。 此処は知る人ぞ知る、河内のパワースポットらしいが、巨岩というものには神が宿るというのが我々の先祖伝来の観念にてもあれば、これらの苔むした岩たちが発する、そこはかとない気配、エネルギーのようなものを、自ずからに感じてしまうというものでもあるか。(同上)(上から眺めると) 本家・山梨県の七面山には山頂近くに敬慎院というのがあり、其処には七面天女の磐座と伝える巨岩があり、その回りを廻りながら願い事をするとよいとのことであるから、この地の人々もこれらの巨岩のどれかをそれになぞらえて、その周囲を廻りながら願い事をしたのやも。 <参考>七面山・七面天女・Wikipedia(更に上にも巨石がゴロゴロ) (これはもう岩塊) こうして見ると、この辺りは石切場の跡であり、巨石はそれら切り出された石が運び出されることなく放置されたものと考えるのが順当のようです。 そう考えると、その跡地に後世の人々が七面山になぞらえて鳥居を建て、七面天女(七面大明神)を祀り、南無妙法蓮華経の石碑を次々と建立した、と言うのがその実態ということになる。河内七面山が先にあって、後で其処が石切場になったというのは少し考え難いことだろう。 その宗教的情熱なるものの残滓が打ち捨てられて此処に沈殿しているのである。今に生きている宗教施設にはない「おどろおどろしさ」のようなものが立ち昇って来るようでもあるのは、この夥しい数の巨石・巨岩と何やら無造作に建っているようでもある南無妙法蓮華経の石碑群が醸す幻影がなせるワザである。降り積む枯葉を踏む自分の足音のほかに聞こえるものも何とてはない、静寂。(岩塊の根元右側に回ってみると) 20分近く周辺を歩き回っていたろうか。これという発見もなかったので、退散することに。 帰途は、分岐まで戻り、くさかコース・ハイキング道に出て、これを下ることとしました。途中には子供騙しのような、こんな鎖場もありましたが、右端には幅は狭いが階段もあるので、これをトントンと下ればいいだけ。(鎖場と言うと大袈裟だが、補助のロープが設置されている) くさかコースのハイキング道の入口近くには、ユキノシタやトキワツユクサやニガナが咲いていました。まあ、マムシグサに似たウラシマソウもありましたが、里近くなるとこれらの明るい花の方が似合いである。 いつの間にかクロヒカゲは姿を消し、舗装道路に出るとモンキチョウが出迎えてくれました。(ユキノシタ)(ユキノシタの花) ユキノシタの花弁は独特のデザインである。 (トキワツユクサとニガナ) トキワツユクサを初めて目にしたのは高知を銀輪散歩した折であったので、岩崎弥太郎の出身地の土佐だけに「三菱」の花が咲いて居ると感心したのだが、小万知さんから「トキワツユクサ」だと教えられ、以来気を付けて見ていると、大阪にも咲いていたのでした。まあ、三菱の花は世界ブランドですから当然と言えば当然ですが(笑)。 <参考> 四万十川・高知銀輪万葉(その2) 2009.5.17. 5日と違って、月曜日ということでもあった所為か、今回は山中では誰にも出会わず、でありました。(不明) 最後に、山中で見かけた何とも名は知らぬ赤い実の木の写真で、河内七面山探索一件落着と致しまする。 <追記(13日):上の赤い実の木はニワトコでした。>
2015.05.12
コメント(9)

本日の記事は5月5日の「河内七面山」の記事の続編です。5日の山歩きでは七面山を見つけることができませんでしたので、本日再挑戦することとしました。 前回同様、MTBでの銀輪散歩の続きの山歩きでありましたが、今回は近鉄・石切駅前の駐輪場にMTBを預けて、駅前から山に向かいました。1.河内七面山への道 河内七面山への道は旧生駒トンネル・旧孔舎衛坂駅跡の北側の坂道を上り、そこから生駒山上へのハイキングコースに入ります。(ハイキングコース入口・くさかコース) 坂道の突き当りには清光寺という寺がある。ハイキングコースは坂の途中から左に山道へと入って行くのであるが、清光寺に立ち寄って行くこととする。(錦龍山清光寺)(同上・本堂)(同上・滝行を行う行場もある。) 再び、くさかコースへの分岐まで引き返し、山道へと入る。 やがて、標識のある分岐に出る。左がくさかコース(ハイキング道)であるが、七面山へは右の細い道を取る。人一人が通れる位の木の下隠れ、草の葉隠れの心もとない細道である。尤もこの道も上の方ではくさかコースと再び合流しているのではあるが。(分岐・左:くさかコース 右:河内七面山への道) 細道を上って行く。巨石があちこちに。(巨石が目につく河内七面山への道)(恐竜の卵) これは、「恐竜の卵」と呼ばれているらしい。 麓には石切セイリュウ(ホテルの名前)があるから、その卵ですかな(笑)。(注)「恐竜の卵」はこの岩ではなく別の岩のようです。 次の分岐に出る。(分岐・左:くさかコースと合流する。右:河内七面山) この分岐で左に行くとくさかコース・ハイキング道に合流し、右に行くと河内七面山である。(河内七面山への右の道) 勿論、小生は右の道を行ったのであるが、帰途には左の道を取り、くさかコースで下山したので、まず、そちらの方をご紹介して置きます。 左を上ると下のように「くさかコース」と合流する。(左の道を上ると此処に出る。右側はくさかコース・ハイキング道) 5日に出会った男性は、此処で細道の方を下り、小生は右のハイキング道を下ったのでありました。男性は、この下すぐの場所の分岐を見落とされて下ってしまい、かなり下った処で、河内七面山の位置を示した小さな案内標識によって、通り過ぎてしまったことに気付かれたのでしょうが、再び上る気力が無くてそのまま下ってしまわれたのだということが分りました。 ハイキング道を少し上ってみると、下に河内七面山の鳥居も見えてはいるのでした。しかし、木立が視界を遮っているので、余程注意して見ないと気が付かないでしょうな。(ハイキング道から樹林越しに見える河内七面山の鳥居)(ハイキング道から見える河内七面山の石碑群の一部) そのハイキング道の傍らにはマムシグサの群生。くさかコースの入口付近にも、河内七面山の境内にも生えていたが、何やらおどろおどろしい姿のこの草は、河内七面山の何とも怪しげな雰囲気には如何にも似合っている気がする。<追記訂正>以下の写真はマムシグサではなくウラシマソウでありました。よって、当記事のマムシグサとあるのは、すべてウラシマソウと訂正させていただきますので、マムシグサ→ウラシマソウと読み替えて下さい。(マムシグサ)(同上)(同上) 振り返ると石切場跡。これは以前にも見た記憶があるから、この道も何度かは通っているようだ。「大阪城の石垣の石を切り出した場所」と「だいもん」さんがコメントで仰っていたのは、多分この場所のことだろう。(石切場跡) さて、これより愈々河内七面山でありますが、字数制限の関係でページを改めて明日の記事でご紹介申し上げることとし、本日はここまでとします。 上でマムシグサは河内七面山の雰囲気に似合いだと申し上げましたが、下山途中で目にした茸と蝶も同様かもです。(名は何とも知らぬ茸) ツツジやニガナやその他の花も見掛けましたが、河内七面山への道にはそれらの明るい花よりも茸の方が似つかわしい。蝶もこのクロヒカゲが似合いである。ミスジチョウも見かけたが、こちらは似合いではない。まあ、単に撮影できなかっただけではありますが(笑)。クロヒカゲはずっと小生と同じ速度で道を下っていましたので何やら気心が通じ合っているみたいな親近感を覚えました。 (クロヒカゲ) <つづく>
2015.05.11
コメント(10)

本日は、大学同窓会(青雲会)の囲碁サークルの例会の日。原則として月1回第2土曜日に開催される。小生は2009年12月から参加し出したので、5年半位になる。本日も雨の心配はなさそうなので、MTBで出掛けました。 出席者は10名。小生は4局打ちました。初戦は岩〇氏と打ちましたが、模様をうまく消されてしまって、完敗。続く五〇氏には、ハンディと相手のミスに助けられて完勝。3局目の田〇氏にも勝ち、4局目の中〇氏にも「死に石」を利用してのコウ争いに持ち込んだことが功を奏して、地を稼ぐことができ、完勝。3勝1敗と上々のできとなりました。 これで、この会での今年に入っての成績は6勝5敗となり、一つ勝ち星が先行することとなりました。 さて、MTBによる銀輪散歩を兼ねての囲碁例会参加ではありましたが、大阪城公園を横切ったのみにて、特段の立ち寄り先もなし。毎度変わらぬコースの往復でありましたが、それでも新しい気付きというものはあるようです。 大阪城大手門の少し南側に生國魂神社御旅所跡なるものがあることに気付きました。もう何十回となくこの前を往来しているのですが、今日まで見落としていたようです。(生國魂神社御旅所跡、奥に見えるのが多聞櫓と大手門。手前は愛車のMTB)(同上・石碑。碑文は下に転記して置きました。) 「生國魂神社記」に曰く豊臣秀吉石山の旧跡に大阪城を営むこととなるや神域(生國魂神社)城内に入るの故を以て此処(天王寺区生玉町)に奉遷し参らせたり(中略)この時城内の旧跡にも小社を残したりといふ 後世までも大阪城内廓の中庭に生玉の神木と伝へし老松一樹立ちたりといふはこの小社の名残なるべし(同上・説明板)<参考>生国魂神社関連の過去の当ブログ記事 生国魂神社 2010.7.5. 兎我野に近づく勿れ 2012.3.9.(生国魂神社行宮) かなり以前に撮影した写真だと思うが、生国魂神社境内にある「上方落語発祥の地・米澤彦八の碑」の写真です。ブログに掲載するタイミングのないまま、未整理ファイルに放置されていましたので、「いくたま」さん関連というのを奇貨として、これも掲載して置くこととします(笑)。(上方落語発祥の地・米澤彦八の碑) 囲碁例会とも生国魂神社とも関係ないのであるが、本日の昼食で立ち寄った、いつもの昼食場所「なかおか珈琲」堂島店で昼食後に珈琲しながら読んでいた本を掲載して置きます。今月31日(日)の若草読書会の課題図書として、発表者・凡鬼氏がご指定された本です。蕪村を中心としてその娘や周辺の人々の恋模様を描いた7編の短編小説集、葉室麟著「恋しぐれ」(文春文庫)です。 (葉室麟「恋しぐれ」文春文庫) 昨日、本を購入したばかりで、未だ半分も読み進んではいないが、今までに出て来た蕪村の句は以下の通りである。 筆濯(そそ)ぐ応挙が鉢に氷哉 花散りて身の下闇や檜の木笠 鬼老いて河原の院の月に泣く 身にしむや亡き妻の櫛を閨(ねや)に踏む 春雨やものがたりゆく蓑と傘 むくつけき僕(しもべ)倶したる梅見かな さみだれや大河を前に家二軒 泣(なき)に来て花に隠るる思ひかな 今月は月末に掛けて予定が混んでいる。 27日 第13回ナナ万葉の会例会で崇福寺跡への万葉ウオーク。 29日 大学同期会(夕々の会) 30日 中学の恩師の墓参兼ミニクラス会 31日 若草読書会
2015.05.09
コメント(8)

昨日、当ブログの古い日記(下記)に質問コメントがありました。コメント下さったお方は「だいもん」さんと仰る方ですが、楽天ブログの方ではないので直接のご返事はできません。 <参考>問題の記事:「石切神社上之宮」2012.5.29. ご質問の内容は、くさか道を上って行くと鳥居と石像があるが、何を祀っているのか地元の人に尋ねても知っている人が居ない、というもの。 小生は、その鳥居や石像なるものについての記憶がないので、何ともお答えのしようもなかったのですが、気になったので、午後から銀輪散歩のついでにくさか道から山に入ってみました。(旧生駒トンネルと旧孔舎衛坂駅跡) だいもん氏は地元の日下にお住まいの方で、この旧生駒トンネルの北側の「くさか道」を上って生駒山上へとよく歩かれるそうな。その途中で目にする鳥居が気になっていらっしゃるようです。(くさか道・旧孔舎衛坂駅北の坂道) で、小生もその坂道を上って行くことに。 自転車で来たものの、この坂は手強い。途中で諦めて押して行く。直ぐに山道に入るから、乗っては行けない。何処か適当な場所に駐輪して・・というのが当初からの考えでありましたが、果たして、ご覧のような山道となりました。(直ぐに、こんな山道となる。) 暫くは、このような悪路を自転車を押しながら上ったのですが、無駄に体力を消耗するだけでありますれば、この先少し行った処に駐輪に丁度よい場所がありましたので、そこにMTBを置いて先へと進みました。(こんな休憩所もありました。) 途中鎖場もあるという道であり、何度か休憩しないと息が切れます。 この先で、山上の方から下って来られた男性と出合う。彼が「河内七面山が何処にあるかご存知ですか?」と聞いて来られた。最初、七名山と聞こえたのだが、よく聞くと七面山であった。そういう名は初耳なので、聞き返すと「鳥居があって廃墟になっている。この下辺りにある筈なのだが」と仰る。 小生の来た道にはそのようなものはなかったが「廃墟」みたいな建物はあったので、それのことかと早合点(鳥居がその建物の陰になっていて見えなかったのかも、と思った次第)。では一緒にそこまで下りましょうと、小生も引き返すことに。 下り出して直ぐに細い分岐道があり、「←生駒山上・日下→」の標識が草木に埋もれかかるようにして立ってもいる。男性は「この道に違いない」と、そちらの細道を下って行く方を選ばれました。小生は置いて来た自転車のこともあるので、来た道を下ることに。数百メートルほど下った処に案内板が立っていてそこに細い脇道が上へと延びていることに気が付きました。多分、先程の男性が下って行かれた細道に違いないと、これを上へと上って行くこととしました。 予想通り、途中で下って来る男性と再会です。「七面山ありましたか。」と聞くと、七面山へ行く道を示した標識はあったが、行かずに下って来たと仰る。多分そこからまた上り道になっていて行くのを諦められたのだろうと推察。小生も諦めてこの男性と一緒に下山する。 男性は東大阪市吉田にお住まいで、小生より3歳年長でした。差し障りのない世間話をしながらの下山。(山道にはツツジが咲き群れて・・。) その道すがらに咲いていたツツジです。「これは何の花ですか?」と男性。ツツジの花を何の花かと尋ねる人も珍しいと思うが、人それぞれに関心が異なることでもあれば、そういう方も居られるのでしょうな。 男性は、大阪や奈良や京都やらの山道を写真や動画に撮ってYou-Tubeなどに投稿されているとのこと。小生も自身のブログのことを話そうかと思ったが説明が面倒なので言わずに置きました(笑)。(ツツジ) 自転車の場所まで戻って、そこからは自転車と男性と小生の3人連れでの下山です(笑)。男性は「こんな処まで自転車でとは」と呆れて居られましたが、内心は「馬鹿か、こいつは」と思って居られたやも(笑)。 山道から舗装道路に出た処で、男性とお別れして、小生は一気に坂道を走り下る。 さて、問題の「鳥居」であるが、それが「河内七面山」という名であるなら、何を祀っているかは明白です。日蓮宗では、七面天女(七面大明神)は法華経の守護神とされる。河内七面山もこの関係のものであるのでしょう。 日蓮宗の寺院が其処にあって、その寺の守護神として七面天女を祀る祠を建てたか、山の麓の何れかの日蓮宗の寺の関係者がこの山中に七面天女を祀る神社を建てたということであるのでしょう。その寺が廃されるなどの事情があって、山中の神社も衰退し廃墟となった、ということであるのでしょう。 通りすがりの「だいもん」氏のコメントに触発されての久々の山歩きでもありました 何れ近いうちに再挑戦して、その鳥居なるものをご紹介することと致します。 帰宅すると、カナダ人と結婚した姪が生まれた赤ちゃんを連れての里帰り帰国で、我が家に遊びに来ていました。カエデちゃんという名のその赤ちゃん(女の子)は父親似にて西洋人の顔立ち。ちゃんと日本語も話せるようになってくれないと、大きくなっても口をきいてやらんぞ(笑)。<参考>付近関連記事 神武天皇孔舎衛坂顕彰碑へ 2013.3.6. 草香江の入江のはちす花はちす 2013.3.5. 旧川澄家ーゆきずりのわが小板橋 2013.2.22. パンドラの丘 2013.2.20. 近隣散歩関連記事はコチラからどうぞ
2015.05.05
コメント(10)

先日、友人の岬麻呂氏より東北・北陸旅行の葉書便りが届き、本日その折の写真8枚が封書で送られて参りました。<東北旅行> 一枚目は象潟の写真。象潟は「象潟や雨に西施がねぶの花」の芭蕉の句に誘われて一昨年の7月に銀輪散歩したばかりなので、懐かしいことでした。 <参考>象潟銀輪散歩(その1)(その2)(その3)(その4) (その5)(その6)(その7)(象潟・九十九島) 東北旅行は桜を追いかけての旅であったようです。山形・秋田・岩手と桜を追っての雅な旅ですな。(山形・玉川寺庭園)(羽黒山五重塔)(角館・枝垂れ桜)(岩手山と小岩井農場)<北陸旅行> 北陸旅行の方は、岬麻呂氏の便りによると、大阪発サンダーバードで金沢へ。金沢から新幹線で富山へ。富山駅前からポートラムで岩瀬浜へ。岩瀬浜から立山連峰を望むべしであったが、春霞の中にてよくは見えず、富山港の灯台を見て駅前に戻る。(初日) <参考>岩瀬浜は小生も2011年5月に魚津・富山銀輪散歩の折に立ち寄ってい る。「魚津から富山へ銀輪散歩(その4)」 レンタカーで立山アルペンルートへ。立山ICから入善PA。チューリップ畑。高速道に戻り、糸魚川の親不知へ。R8で富山へ。(二日目) 富山城趾公園。市内循環電車(セントラム)乗車。午後便で夕刻に帰阪。(三日目)というものであったようです。(立山アルペンルート 室堂・雪の大谷15m)(立山・黒部湖 紐状道路はアルペンルート) 上の写真は、上の東北旅行の折の飛行機から撮影されたものなんでしょう。(入善町のチューリップ畑)(糸魚川・親不知断崖)<追記:5月5日>過去の「岬麻呂旅便り」はコチラからどうぞ。
2015.05.04
コメント(2)

毎月初旬に行っている墓参。昨日の墓参は夕刻の墓参となりました。 墓参の度にご紹介している、途中にあるお寺の門前の言葉でありますが、この日のそれはこの人のものでありました。往く道は 精進にして 忍びて終わり 悔いなし -高倉健悔いなしと 言へば悔いなし 道草の ごとに散りゆく この身ひとつも (偐家持)(タンポポの絮) 墓参を済ませて西の空を見やると、落日が沈もうとしている処でした。 「落陽は慈愛の色の金の色・・」とか (注)正しくは「落陽は、慈愛の色の 金のいろ」です。 「やがても蜜柑色の夕日、欄干にこぼれたり」とかの (注)正しくは「やがても密柑の如き夕陽、欄干にこぼれたり」です。 中原中也の詩の断片が思い浮かんで来るのでもありました。(大阪夕照)今日ひと日 無事にありたり 金色の 夕日落ちゆく 見らくしよしも (偐家持) 音もなく日は沈んで行く。 はい、すっかり沈んでしまいました。(コマツヨイグサ) 墓の近くには月見草が咲いていましたが、日がすっかり沈んで、坂道を下り、振り返ると東の空には月がぽっかり出ているのでありました。 「月がぽっかり出ましたら 船を浮かべて遊びませう」 (注)正しくは「ポッカリ月が出ましたら、舟を浮べて出掛けませう。」です。 これも中也の詩の一節ですが、偐家持なれば「月がぽっかり出ましたら、銀輪駆けて帰りませう」でしょうか。(返り見すれば月のぼり来ぬ)西の野に 赤き夕日の 落つ見えて 返り見すれば 月のぼり来ぬ (偐人麻呂)(本歌)東(ひむかし)の 野にかぎろひの 立つ見えて かへりみすれば 月西渡(かたぶ)きぬ (柿本人麻呂 万葉集巻1-48) 上の如き馬鹿歌を口づさみながら家路を辿りました(笑)。 昨日の墓参の日記でありました。(脚注)上記(注)は5月4日の追記です。偐万葉的にはどうでもよいことなれど、 中也さんに失礼になってもいけませんので、訂正注記して置きます。 なお。上記「密柑」は本来「蜜柑」ですが、中也さんご自身が間違って 表記されたようで、中也全集でも「密柑」のママとなっています。
2015.05.03
コメント(8)

五月は鯉の季節。ブログ友の英坊3氏やビッグジョン氏のブログ記事にも「鯉のぼり」の写真が掲載されて季節感を漂わせて居られました。 そんなことで、小生も銀輪散歩で見かけた鯉のぼりの写真を掲載することと致します。(鯉のぼり)(同上)(同上)恋の歌 山ほどあれる 万葉に 鯉の一尾も なきぞかなしき (広島カープ) 万葉集には恋の歌が満載。しかし、鯉は登場しない。因みに、万葉に登場する川魚はと言うと、鮎、鮒、鰻などである。万葉に 鮒はあれども 鯉はなし 犬は走れど 猫鳴かぬごと (有無家持)花笑みの 五月の薔薇は わが恋の 花にしありて 窓辺にぞ咲く (偐家持)雲行けば 空にも波の 立つならし 五月の鯉は 風にし泳ぐ (幟家持)恋はこひ 鯉はこいにて こひならじ 恋する鯉の 戯れ言ならし (鯉家持)<追記:2022.9.2.>末尾の歌は、旧仮名遣いでは、恋は「こひ」、鯉は「こい」と表記するという筆者の誤解が生んだ歌にて、恋も鯉も共に「こひ」でありますので、遅ればせですが、追記して置きます。
2015.05.02
コメント(2)
全17件 (17件中 1-17件目)
1


