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<承前> 高円山から奈良奥山ドライブウェイを下ると県道80号に出る。左に坂を上って行くと岩井川ダムを経て志貴皇子陵や光仁天皇陵のある田原の里である。右に坂を下ると春日病院を経て奈良教育大学の南側で県道188号(北進すると鷺池と飛火野の間を抜けて東大寺南大門に至る道)に出る。田原の里はパス。右に行く。教育大学の前で左折、崇道天皇社を経て率川神社へと向かう。 教育大学から崇道天皇社への道は、百毫寺などを頼まれて案内した万葉ウォーク(万葉ウォーク・奈良百毫寺篇 2011.10.19.)で歩いた道でもある。また、これから向かう率川神社はそのウォークの解散地点でもありましたので、懐かしいことです。(合歓の花) 奈良奥山ドライブウェイの道の辺に合歓の木が花を咲かせていました。 芭蕉の「奥の細道」なら「象潟や雨に西施がねぶの花」なんでしょうが、ここは奥山の道とは言え、高円山の奥山ドライブウェイ。細道ならぬ広い道、梅雨の晴れ間にてもあれば、高円や日の照る道にねぶの花、でありますかな。 木の下に入って逆光でも1枚撮影。 偐万葉なれば、芭蕉でもあるまい。大伴家持の歌を掲載して置きましょう。これは、紀女郎から贈られた歌への返歌として作られた戯れ歌である。吾妹子が 形見の合歓木(ねぶ)は 花のみに 咲きてけだしく 実にならじかも (万葉集巻8-1463) 偐万葉ともなれば、これだけでは不十分。もう1回ひねらなくてはいけません(笑)。実になりても いかがなものか 合歓木の花 豆にしあれど さやとも見えず (偐家持) (注)豆にしあるも=ネムはマメ科植物。莢の実が生る。 さやとも・・=「莢(さや)」と「清(さや)」とを掛けている。(同上) 率川神社に到着。この神社はこれまでに何度となく訪れている。当ブログでも何度か登場している。 <参考>奈良銀輪散歩(その1) 2009.5.19. 万葉ウォーク・咲きか散るらむ 2011.8.22. 率川神社三枝祭 2012.6.17.(率川神社拝殿) この時期らしく拝殿の前には茅の輪が置かれている。(同上・本殿)(同上・由緒書き) 境内には蛙石なるものがあるが、これは吾事に非ずであります。拝殿の 前に茅の輪の ある見えて かへり見すれば かへる石なり (率川蛙麻呂) (本歌) 東の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月西渡(かたぶ)きぬ (柿本人麻呂 万葉集巻1-48) (蛙石) 一応、銀輪万葉なれば、こちらの万葉歌碑が吾事なれりであります。 この歌碑も上の2009年5月19日の記事で、既に紹介済みであるが、再掲載して置きます。葉根かづら 今する妹を うら若み いざ率川( いざかは)の 音の清( さや)けさ (巻7-1112)<はねかづらを今つけているおとめがうら若く初々しいので、いざいざと誘う、その率川の瀬音のすがすがしいことよ。>(率川神社境内の万葉歌碑) 率川神社の前の道を北へ、三条通りを越えて少し行った位置に小さな神社があったので立ち寄る。(漢國神社) (同上) 漢國神社内にある林神社は我が国で唯一の饅頭の社だそうな。 貞和5年(1349年)に中国から来朝した林浄因という人が漢國神社社頭に住まいし、わが国で初めて饅頭を作って好評を博し、遂には足利将軍家、宮中にまで献上するに至ったとのこと。その御仁を祀ったのが林神社。 <参考>まんじゅうの社・林神社(饅頭塚) こんな饅頭塚もありました。(同上・説明板)<参考>銀輪万葉・奈良県篇
2015.06.30
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久しぶりに若草山、高円山を巡って来ました。 目的は、高円山の頂上付近にある犬養万葉歌碑を訪ねるというものでありました。 先ず、若草山山頂に向かい、そこから奈良奥山ドライブウェイに入り、春日山原始林の中の道を行き、高円山へと向かう。奥山ドライブウェイは車は有料であるが、歩行者や自転車は無料で通れる。 春日山というのは、北に若草山、中央前面に御蓋山、背後に花山、南に高円山という配置で並んでいる山々の総称であると理解していましたが、花山の別名又は御蓋山(前山)と花山(奥山)とを併せた総称と説明しているものもありで、かなり曖昧なようだ。 高円山は若い頃に百毫寺の裏から登ったことがあるのだが、犬養万葉歌碑はその頃は未だ存在していなかったのであります。 若草山山頂は、調べると2008年5月27日に銀輪散歩で立ち寄っているが、それ以来なので7年振りということになる。何故かこの時の銀輪散歩は記事にしていない。ということで、今回は若草山山頂から記事を始めることとします。(若草山山頂から西方向を望む。) 若草山山頂では鹿たちがのんびりと草を食んでいる。 西方には金剛山、葛城山、生駒山の山並が青く霞んで見える。(同上北西方向を望む。)(同上・北方向を望む。)(若草山山頂・鴬塚古墳) 若草山山頂にある古墳が鴬塚古墳。下掲写真の説明板にも記載の通り、枕草子で「みささぎはうぐひすのみささぎ・・」(第17段)と清少納言が御陵の第一に挙げた「鴬の御陵」は此処の事だと言われている。尤も、大阪府太子町にある孝徳天皇陵のことだと説明しているものもあり、その論拠などは知らない。(同上)(同上・鴬陵の碑) 古墳の頂上部には「鴬陵」の碑が建っている。此処が「うぐひすのみささぎ」であると主張して居ります。この古墳は古くは磐之媛(仁徳天皇皇后)の御陵だと考えられていたようです。万葉集巻2の巻頭の4首が磐之媛の歌として掲載されているが、その2番目の歌「かくばかり恋ひつつあらずは高山の岩根し枕きて死なましものを」の歌のイメージに相応しい山頂の墓ということになるが、明治になって磐之媛陵は奈良市佐紀町ヒシゲにあるヒシアゲ古墳がそれであるとされた。 鴬がケキョケキョと鳴く奈良奥山の道を行くとこんな碑がありました。東大寺の境内地はこのような処まであったのですな。若草山の山焼きは東大寺と興福寺の領地争いに起因するという云い伝えがある位だから、まあ、納得です。(東大寺旧境内の碑) (同上) (大仏殿) 更に行くと、大仏殿を建てる際の石材を切り出した跡だという石窟に彫られた石仏群もありましたので見て行くことに。2008年5月の折は、交番の前で右に入り春日大社の方へと下ったのであるが、凸凹道を走り下っていてトレンクルがパンクしてしまったという苦い記憶がある。 直近では2011年7月29日の柳生の里での銀輪散歩の帰途でこの道の一部を走っているが、その折のことなども懐かしく思い出される。ついこの前のことのように思っていたがもう4年も前のことになるのである。 <参考>柳生銀輪散歩(下) 2011.8.3.(春日山石窟仏)(同上)(同上)(同上) 地獄谷の道を過ぎて高円山頂上近く、高円山ドライブウェイ展望休憩所にある犬養万葉歌碑に到着です。 この歌碑は、平成2年(1990年)9月24日に「万葉の大和路を歩く会」10周年を記念して建立されたもの。(高円山犬養万葉歌碑)多可麻刀能 秋野乃宇倍能 安佐疑里尓 都麻欲夫乎之可 伊泥多都良武可高円の 秋野の上の 朝霧に 妻呼ぶ牡鹿 出で立つらむか (大伴家持 万葉集巻20-4319)<高円の秋野の朝霧の中に、妻を呼ぶ牡鹿は立っているだろうか。>今は未だ夏ですから、夏の歌に言い替えると、高円の 夏野の原の 朝露の 草押し分けて 牡鹿は行くか (偐家持)でしょうか(笑)。(高円山山頂からの眺望)(同上・山頂から少し下った場所からの眺望)<参考>銀輪万葉・奈良県篇
2015.06.29
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長らく(と言っても1週間程度に過ぎませんが)記事更新を怠って居りましたが、無事に生きて居ります。今月は月初より連日の如く記事を更新して居りましたので、暫し休養とブログから遠ざかって居た次第にて、特段の理由もなく、ヤカモチ当人はいたって元気、相変わらずの銀輪散歩の日々であります。 しかし、今日は朝から雨。雨の中を銀輪散歩すれば、それは殆ど病気。そこまでの酔狂もなくあれば、ヤカモチも今日は自宅謹慎であります。 ということで、今日の記事は銀輪散歩で目にした花たちと致します。(雲と行く)銀輪は 雲行くままに 雲と行く あてもなき道 風も友なり (偐家持)(チガヤ<茅>)風吹かば 風になびかむ ちがやの穂 銀輪われも 風がまにまに (偐家持) (同上) チガヤ(茅、茅萱)は浅茅(あさぢ)とも言う。その穂(花)は、つばな・ちばな(茅花)と呼び、万葉人は開花前の若い花穂を摘んで食べた。噛むと甘味があるそうだが、ヤカモチは試したことがない。一度試してみようとは思っているが、上のように銀白色の穂になって気が付くので、いつも手遅れである。 「ち(茅)」については以前のブログ記事で言及したことがあるので、それを再録して置きます。 <「ち」は「あさぢ、ちばな、つばな、ちがや」などとも呼ばれて、万葉にも登 場する植物である。「ち」は聖なる植物、霊力のある植物であったのでしょう。 神社の「茅の輪」くぐりも、その花を「ちばな、つばな」として抜いて、食べた のも、その霊力を身に受けようとする行為であるのでしょう。 血も地も知も「ち」であり、生命も「いの・ち」、力も「ち・から」、我々は 「ち」に特別な意味を込めて来たのですかな。>(第119回智麻呂絵画展) 上の記事・第119回智麻呂絵画展ではチガヤの万葉歌として大伴家持と紀女郎との相聞歌(巻8-1460、1462)を紹介しましたが、別の歌を此処では取り上げて置きましょう。浅茅原 つばらつばらに もの思(も)へば 故(ふ)りにし郷(さと)し 思ほゆるかも (大伴旅人 万葉集巻3-333)<浅い茅の原、つくづくともの思いにふけると、明日香の里のことが懐かしく思わ れることだ。>山高み 夕日隠りぬ 浅茅原 後(のち)見むために 標(しめ)結(ゆ)はましを (万葉集巻7-1342)<山が高いので夕日が隠れてしまった。浅茅原を後でもまた見るために、しるしを 結んで置こうものを。>(大金鶏菊) この花は河川敷や道の辺にてよく目にする花である。今まで名を知らぬままにいましたが、先日、ビッグジョン氏のブログでこの花がご紹介されて居り、大金鶏菊という名であることを知りました。名を知ると一層親しみが湧くというもので、早速見かけたものを写真に撮ったという次第。 尤も、この植物は北米原産の外来種にて、在来種に悪影響を与える特定外来植物として、栽培、譲渡、輸入などが禁止されている問題児だそうな。(ノイバラ) これも万葉植物。万葉では「うまら」として登場するが、これは「うばら」の東国なまりの言葉だそうな。その万葉歌は防人の歌である。道の辺の 茨(うまら)の末(うれ)に 這ほ豆の からまる君を 別(はか)れか行かむ (丈部鳥<はせつかべのとり> 万葉集巻20-4352)<道の辺の茨の先に這い延びる豆の蔓が絡まるようなあなたと別れて私は行くのか。> (同上)(コマツヨイグサ)我妹子は こまつよひぐさ 月待ちて 今か咲くらむ 夕日の丘に (偐家持) (同上)(スイセンノウ<酔仙翁>)ビロードの 花と呼ぶらし 酔仙翁 咲き残れるは 見らくしよしも (偐家持)(同上) この花は、ネットで調べると酔仙翁(スイセンノウ)という名でありました。ビロード草ともフランネル草とも呼ばれるらしい。(同上)(海棠の実) カイドウやライラックは、花の季節は過ぎて実の季節。 果実を食用とするものは別として、一般的には花は知っていても実の方は知らぬことが多い。海棠もライラックも花を見ればすぐにそれと分かるが、実だけでは何の木であるかは分からない。在りし日の 花を偲ばな 実を見つつ 行く銀輪の 道も楽しも (偐家持)(ライラックの実)<参考>「花」関連の他記事はコチラから。 花(1)・2007~2011 花(2)・2012~
2015.06.26
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昨日の記事は「稲田桃」でしたが、今日は「稲田八幡」です。 中央大通り(国道308号)から北へ第二寝屋川に沿って行くと最初にある橋が川俣大橋である。稲田桃の並木はこの川俣大橋の手前までの短い距離にあるだけ。 川俣大橋を東に渡った左手にあるのが川俣神社。この神社は2012年6月9日の記事で紹介済みなので省略します。(第二寝屋川 2012年6月9日記事掲載写真の再掲) 上の写真は川俣大橋から南方向を眺めたもの。正面の高架は阪神高速道路東大阪線で、その下が国道308号である。 川俣神社の前を通って北へと適当に銀輪を走らせる。住宅街の中の路地を適当に行くと、大きな銀杏の木のある神社の前に出ました。稲田八幡宮である。(稲田八幡宮 東大阪市稲田本町2丁目)(同上・拝殿)(同上・本殿) 稲田八幡宮の説明板の写真も撮りましたが、(不鮮明なので写真掲載に代えて)その文章を下に転記して、この神社の説明に代えさせて戴きます。 「稲田桃」で知られる稲田の地は、古くは新開池へ合流していた旧菱江川の両岸に営まれた集落で、「稲田村由来記」によれば、室町時代の中頃、東方に屋敷割と呼ばれる所があり、観音樋の西側に人家が18軒あったこと、誉田八幡宮を勧請して氏神としたことが記され、現在の八幡神社の沿革を知ることができます。 八幡神社は、字宮の町と呼ばれる所に鎮座し、仲哀天皇・神功皇后・応神天皇の三神を祭神としています。 稲田は、南町・中町・橋本町・北町・旭町の5町に分かれ、秋祭り(宵宮10月21日、本祭り22日)の宵宮には、各町内から伊勢音頭をうたいながら、長提灯の宮入が盛大に行われます。 境内のひときわ高い神木「いちょうの木」は、樹齢約500年、樹高約35m、幹回り5mもある古木で、稲田村と八幡神社の古い歴史を伝える天然記念物として、昭和49年3月25日に、市の文化財に指定されています。(平成2年3月 東大阪市)(説明板に掲載されていた写真)(同上・日露戦争戦勝碑) 境内にはこのようなものもありました。玉垣として使用されているのは大砲の砲弾でしょうか。 (大銀杏 左:鳥居側から 右:拝殿側から) 大銀杏の根元部分の直径はMTBよりも長いようです。ももとせを いつつかさねて おほいてふ けふも見守る いなだのたみを (偐家持)(大銀杏と愛車MTB) 稲田八幡から更に北へ、東へと路地を適当に走っていると、自転車・歩行者専用道路に出合う。この道も何度か走ったことがあるが、一般道と交差する箇所が多く、その度にモーターバイクなどの進入防止のための自転車ゲートを通過しなければならないので、余り快適とまでは行かない。それでも、こういう道を見つけるとつい入ってしまうのが銀輪家持の性。 道交法改正で自転車への適正・安全運転への指導が厳しくなっているようですが、それはそれで大いに結構なのであるが、自転車専用レーン設置・拡充など、自転車に対しての環境整備にも努めて戴きたいものであります。 (自転車・歩行者専用道路)
2015.06.18
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今日のブログ記事のタイトルは支離滅裂で「何の事?」と思われたことでしょうが、単なる言葉遊びです。回文という奴です。「かるたのももでいかにもいなだももだないもにかいでもものたるか」ということで、左から読んでも、右から読んでも同じ文になるという回文仕立てにしたものです。前と後ろに意味が通るように言葉を継ぎ足して、どんどん長い文章に作って行けば、更に長い回文となるが、余り長過ぎても面白くないので、この辺で止めて置きます。 タイトルとしては「稲田桃」で足りるのですが、ちょっと遊んでみた次第(笑)。 ブロ友の英坊3氏が桃の実の写真をブログに掲載されているのを見て、突如、「稲田桃や如何に」と思い出し、その木が植わっている処まで銀輪散歩のついでに立ち寄ってみたというのが、本日の記事の要諦であります。 その前に、先月30日の恩師13回忌の墓参兼ミニクラス会の折の全員での記念写真が恩師の奥様から送られて参りましたので、そのご紹介から始めます。 と言ってもその写真を公開しようと言うのではありません。同封されていた手漉き和紙の葉書の裏面に書かれていた奥様の俳句のご紹介であります。奥様からは何年か前に「夏椿」というご自身の句集を頂戴したこともあるが、いい句をお作りになられるのでもある。今回、記されていた自作句は、 涼しさの おのづからなる 阿弥陀仏 (立葉)というものでありました。(涼しさの・・の句) さて、稲田桃であります。 稲田桃とは何であるかについては、今年2月14日の記事(コチラ 花の時期の写真はコチラ)でご紹介していますので、同記事をご参照下さい。(稲田桃の並木 写真奥が南) 第二寝屋川と中央大通り(国道308号)が交差する地点から北へ、第二寝屋川左岸(西岸)沿いに稲田桃の木が植えられている。(稲田桃) 稲田桃の特長は、この尖った細長い形にある。 うっすらと色付き始めている実もあるが、熟すとどんな風な色合いになるのか、今後も観察を続けたいものです。 いかにも素朴な感じで、万葉の頃の桃も、こんな風であったのではないか、という気になる。モモは「燃え実」がつまって「もも」になったという説もあるらしいが、若い女性の比喩として使われたり、その実は邪気を払うとされ、神事に使われたりしたが、桃太郎の名は後者に由来するものであろう。 万葉では「毛桃」という言葉が使われるが、産毛のような毛で覆われた実は如何にも若い女性を連想させる。下記の万葉歌などもそういう連想をベースにした歌であろう。はしきやし 吾家(わぎへ)の毛桃 本しげみ 花のみ咲きて ならざらめやも (万葉集巻7-1358)<いとしい我が家の桃の木は幹に枝葉が繁っているので、花が咲くばかりで実がならないということがあろうか。>わが屋前(やど)の 毛桃の下に 月夜さし 下心良し うたてこのころ (同巻10-1889)<我が家の桃の木の下に月光がさし、何となく心が楽しい。ますますこの頃は。>大和の 室生の毛桃 本繁く 言ひてしものを 成らずは止(や)まじ (同巻11-2834)<大和の室生の桃の幹に枝葉が繁るようにしげしげと言い寄ったのだから、この恋は成就させずには置かない。> (同上)
2015.06.17
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偐万葉・ひろみ篇(その4) 本日も昨日に続き偐万葉シリーズです。 第236弾、偐万葉・ひろみ篇(その4)であります。 <参考>過去の偐万葉・ひろみ篇はコチラ ひろみちゃん8021氏のブログはコチラ 偐家持がひろみの郎女に贈りて詠める歌16首ほか和歌山へ 阪和道(はんわぢ)来れば 紀ノ川に めざすパンあり 連れ食ひ過ぎる (道辺白人) (本歌)若の浦に 潮満ち来れば 潟を無み 葦辺をさして 鶴鳴き渡る (山部赤人 万葉集巻6-919) 粉河寺 御朱印の色に 万両の 実は寄り添ひぬ 牧水の碑に (本歌)粉河寺 遍路の衆の 打ち鳴らす 鉦々聞こゆ 秋の樹の間に (若山牧水) (若山牧水歌碑)われはもや 堅気なりけり いたづらに 爪はたてまじ 唸りもすまじ (高市黒猫) (タロ)カラタチの ほどにはあらね 棘あれば 触(ふ)るるに素手は キンズと言へり (禁柑家持) (キンズ<金豆>)犬上の 彦根にあるを しろの猫 告(の)らむその名は ひこにゃんなれり (にゃん麻呂) (本歌)犬上(いぬがみ)の 鳥籠(とこ)の山なる 不知也(いさや)川 いさとを聞こせ わが名告(の)らすな (万葉集巻11-2710) (猫の日と足型の飴)らべんだあの かぜふきゆける つぼさかの みてらのしろき いしのみちかな (にせやかもち) (壺阪寺)ねぢけたる 心はたれぞ われはただ ひとへに八重と 継ぎて咲くなり (偐桜餅)ひとへよし いひしひとあり さとざくら みなうつむきて さきにけるかな (同上)(参考)「花は一重よし。(略)八重桜は異様のものなり。いとこちたく、ねぢけ たり」(徒然草第139段) (花園中央公園のサトザクラ)ぬかるみの 道は避けよと ぬかりなく 急がば回れ 藤原の宮 (手抜き家持)三井寺に 見し莫山の 月けふは 安倍の文殊の 池にし見たり (偐莫持)名ぐはしの アガパンサスは 神の愛 かくにしひとに 咲きて笑むなりしまかぜの 旅なる妹は 沖津藻の 名張越えてや 今か行くらむ (近鉄特急「しまかぜ」)白丁花 つぼみたるとは つゆ知らず ナマエワスレと われはすれども (白状花)貼るだけも 探す気無うて 手間惜しみ (与謝不精) (元句)春風や 堤長うして 家遠し (与謝蕪村)家持も 元は田舎と 呼ばれけめ 今は些か 都びにけり (現代家持) (本歌)昔こそ 難波田舎と 言はれけめ 今は都引き 都びにけり (藤原宇合 万葉集巻3-312)幸せの 四つ葉は水に 浸け置けや ゆめ泥土に まみれなさせそ (水生家持)ならまちの みせはさはにし あるなかに 食べらくよしも ぽくぽくのランチ (坂下郎女) (本歌)古郷(ふるさと)の 飛鳥はあれど あをによし 平城(なら)の明日香を 見らくし好(よ)しも (坂上郎女 万葉集巻6-992) (ならまちの「ぽくぽく」) (注)掲載の写真はひろみちゃん8021氏のブログからの転載です。
2015.06.16
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偐万葉・英坊篇(その32) 本日は偐万葉シリーズ第235弾、英坊篇(その32)であります。 <参考>過去の英坊篇はコチラからどうぞ。 英坊3氏のブログはコチラからどうぞ。 偐家持が英麻呂に贈りて詠める歌14首ほか 並びに英麻呂が贈り来れる歌4首ほか 英麻呂が贈り来れる上3句に偐家持が下2句を付けたる歌6首いにしへの 社寺を訪ねて 由緒知り (英麻呂) うつつと夢の あはひに遊べ (偐家持)描くのにも 根気がいるよ 細密画 (英麻呂) 歌詠むことも 然りとぞ思ふ (偐家持)春近し 砺波の野にも チューリップ (英麻呂) 咲くをし待たむ あゆの風吹け (偐家持)白菜と 馬鈴薯を煮て ぐつぐつぐ (英麻呂) 寒き夕べは おふくろの味 (偐家持) (注)上の1首は第3句も偐家持が作れり。深め雪 ところかまはず 降りさかり (英麻呂) 音はなけれど しんしんずんずん (偐家持)隠し金 桐の箪笥に 仕舞ひこみ (英麻呂) 蔭に引き出す 飲み食ひの席 (偐家持)大王(おほきみ)は いかにしあれば いかにかも 網にかかるや かむさりましぬ (烏賊本烏賊麻呂) (注)いかに=「烏賊に」と「如何に」とを掛けている。 こちとらは 旅人にしあり こち吹くも 吹かぬも飛び梅 吾が事に非ず (偐定家)冬されば つたなき我の ありのままの 姿見せむや 杉材の倉 (秋田杉麻呂) 福はうち 福が服なら 衣(きぬ)着せぬ 物言ひなるは 鬼の言ひかも 英麻呂が贈り来れる歌4首並びに偐家持が追和せる歌5首木の輪みな 繋がりさせて 一本木 千本に割りで マッチ軸かな (英麻呂)われいまだ 箸にも棒にも なりかねて ごろり丸太で 名もなく候 (偐丸太夫)紅(べに)にほふ ナナの喫茶に 輪を止め いささか痛い 腿を癒して (英麻呂)紅(くれなゐ)は 何さすものか 紫は 灰さすものぞ 片腿痛し (銀輪家持) (本歌)紫は 灰指すものぞ 海石榴市(つばいち)の 八十のちまたに あへる児や誰(万葉集巻12-3101) 春の苑 紅にほふ 桃の花 下照る道に 出で立つ少女 (大伴家持 万葉集巻19-4139) (注)片腿痛し=「片腹痛し」の洒落。銀輪家持も走り過ぎて腿が筋肉痛に なったという次第。「腿」は「桃」を掛けている。春盛り なにはともあれ 浪花野は 銀輪先野崎 艶(あで)の花ばな (英麻呂)春たけて 行くは野崎か 深野池(ふかうのいけ) さくら菜の花 盛りと咲けば (偐家持)のざきまゐり やかたの舟を 銀輪に かへてわれゆく 菜のはなさくら (偐家持)桜耐え 満顔の笑み 輝かせ 人のこころを 華やかにさせ (英麻呂)花散るを 惜しとし見れば 生駒山 ほつ枝の先に 笑みてあるらし (偐家持)朝なさな 継ぎて見が欲し 高岡の 古城の桜 今盛りなり (大阪家持) (古城公園の桜)桃咲けど をとめ出で来ず 越の路地 (高岡子規) (本歌)春の苑 くれなゐにほふ 桃の花 下照る道に 出で立つ少女(をとめ) (大伴家持 万葉集巻19-4139) (越の桃の花)道草の 空に名もなき 月の出で ぽっかり夏へ 無事に暮れゆくかくばかり 混みつつなくは 高山の 町にも訪ね 行かましものを (偐姫皇后) (本歌)かくばかり 恋ひつつあらずは 高山の 岩根し枕(ま)きて 死なましものを (磐姫皇后 万葉集巻2-86) (飛騨高山)悪皇子の うらみの風は 二塚の 気多ゆ吹くかや 越の夏はも (悪家持) (恒性皇子墓)<注>掲載の写真は英坊3氏のブログからの転載です。
2015.06.15
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本日は友人から相談があるということで彼と昼食を共にする。 相談内容は相続に関することでした。 現役の頃、企業法務を担当していたこともあって、今でも時々法律問題の絡む相談を受けることがある。弁護士ではないのだから、法律事務や法律相談を業として行えば弁護士法違反ということになるが、友人や肉親から相談を受け、アドバイスすることは「業」ではないから、違法にはならない。より専門的なことは弁護士などの知り合いも多いので、そちらをご紹介することとしている。 今回の相談は、相続に関連することで、小生のやって来た「企業法務」から言えば、余り関係のない分野であるのだが、一応話を聞いてみた。 伯父が多額の借金を残したまま死亡し、その妻や子供(彼から見れば伯母、従兄弟姉妹)が相続放棄をしたのであろう。債権者の銀行から彼に対して相続人としてその相続分に応じて借金を弁済するようにという内容証明郵便が届いたというもの。 法定相続人が相続放棄をすると、その相続人は当初からいなかったものとみなされるので、次の順位の法定相続人に対して相続が開始することとなる。 彼の場合は、被相続人である伯父の死によって発生した相続がその配偶者(妻)、子供が相続放棄をしたため、その伯父の兄弟姉妹である彼の母が相続人とされ、その母が相続開始前に(つまり。伯父の死亡前に)既に死亡していたので、代襲相続の制度によって、その子供である彼及び彼の兄弟姉妹も相続人になってしまった、というものである。 被相続人の妻子が弁済する気もなく放棄した借金を彼が弁済しなければならないという道理もなく、被相続人たる伯父の住所地を管轄する家庭裁判所に出向き相続放棄の申述の手続きをすればよいだけのことであるので、当該裁判所に出向いてその手続きについて相談するようにアドバイスして、本件は終わりでした。 これに関して感じたことが二三あるので、それを記述すると、 1.親族が借金だけを残して死亡した場合は、その妻子が相続を放棄す ることが普通だろうから、思わぬ形で、自身が相続人となることも ある、ということを認識して置かなければならないということ。 2.この場合、相続開始を知った時(妻子の相続放棄という事実を知っ た時)から3か月以内に相続放棄の手続きをしなければならないと いうこと。 3.従って、相続放棄をする場合は、他の親族にも影響が生じるので、 立場を変えれば、そのような影響を受ける親族にはその旨の通知を し、相続放棄の手続きを取って貰うよう予め告げて置くことが必要 だろう。(友人の場合はそのようなことは一切知らされていなかっ たようである。) 4.債権者たる銀行であるが、このようなケースで他の親族にまで弁済 請求の内容証明郵便を送り付けるのは、無神経というか、金貸しの 倫理として如何なものか、ということである。相続人にはマイナス 財産(借金)しかなく、妻子も相続放棄したのであるから、その結 果相続人となった他の親族に請求しても、彼らも相続放棄をするだ けのことで、弁済される筈もないこと。にも拘わらず、コケオドシ のような内容証明郵便を送り付けるというのは一流銀行のすること ではないだろう、ということでありました。 因みに、その銀行は三菱東京UFJ銀行某支店である。その友人も同 銀行に口座を有して取引をしているようだが、いきなりのこの通知 催告に対して立腹、取引を止めると言っていました。 銀行側にも会計上の貸し倒れ処理をするには、こういった催告請求 をしたという実績を残すことが必要と言う事情があるのかも知れな いが、それは自分の事情、それなら、一言事前に相手にその旨を告 げて置くのが礼儀だろう。 催告によって相続開始の事実を知ったその親族が相続放棄の手続き を3か月以内にすることをうっかり忘れ、相続放棄できなくなるこ ともあるかと考えてのものであるなら、極めて悪質で下司なことで あると言わねばならない。(注)法定相続人とその順位 相続は次の順位で生じる。 配偶者は常に相続人となる。 第1順位 子供(子供が既に亡くなっている時は、孫) 第2順位 父母(父母両方が既に亡くなっている時は、祖父母) 第3順位 兄弟姉妹(既になくなっている兄弟姉妹がある時は、その子供、つまり 甥・姪) 代襲相続 被相続人が死亡し、相続が発生する前に相続人が死亡していたり、相続欠格 事由に該当している場合に、その子供や孫が代りに相続人となる制度。 本日は世捨て人ヤカモチらしからぬ話題でありましたが、こういうことも時にあって、ヤカモチも俗世間に暫し連れ戻されることがたまにはあるということであります。 まあ、皆さまもご親戚に多額の借金をしている御仁が居られる場合は、このようなことにも巻き込まれることがありますので、どうぞご注意を。(のらや・石切店) 本日の昼食場所は上の写真の「のらや」。 昼食後、友人と別れて、この「のらや」さんの「珈琲わらび餠」を手土産に智麻呂邸を訪問。暫し閑談。新作絵画3点を仕入れて参りました(笑)。
2015.06.14
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本日は青雲会囲碁サークルの例会の日。天気に問題はないので、MTBで会場へ。(とは言え、最高気温32度という炎暑の中の銀輪行となりました。暑い、暑い。) 昼食は、いつもの喫茶店「なかおか珈琲」堂島店で。昼食後まだ少し時間が早いので中之島公園などをぶらり銀輪散歩してから会場に。 本日の出席者は、山〇氏、中〇氏、三〇氏、岩〇氏、新〇氏、銭〇氏と小生の7名。小生は先ず銭〇氏と対局。同氏には勝った記憶がないのでありましたが、今日は珍しく大石を仕留めることが出来て、中押し勝ち。終局後周囲を見渡すと他の方の対局が未だ続いている。まだ相当に時間が掛かりそうなので同氏ともう1局打つことに。今度は終盤近くのミスで形勢が一気に悪くなり、中押しで負け、1勝1敗。続く、新〇氏、三〇氏には勝ち、最後は岩〇氏に惜敗で、結局3勝2敗。 これで、青雲会囲碁の今年の通算成績は9勝7敗となりました。 さて、本日もこれという立ち寄り先もなく、自宅と堂島の会場との往復だけでありましたので、銀輪散歩的な写真というのがありません。昼食場所の喫茶店と中之島界隈の建物などの写真でお茶を濁して置きます。(なかおか珈琲・堂島店) 右奥の通りが御堂筋です。左に行くと大江橋を経て淀屋橋。右に行くと大阪駅方面。 青雲会囲碁の時の昼食は大抵此処で済ませている。会場に一番近い喫茶店である。と思っていたが、会場のある大阪法曹ビルの1階であったか、隣のビルの1階であったかちょっと記憶が曖昧になっているが、昼食ができそうな喫茶店らしき店があることに今日気が付きました。新しくできたのだろうか。(同上・店内)(水晶橋) 川は堂島川。水晶橋は大江橋と鉾流橋との間にある人道橋。(大阪府立中之島図書館) 現在臨時休業中(10月まで)の大阪府立中之島図書館。(中之島中央公会堂) 公会堂では或るカップルの結婚式が行われていました。 通り掛かった時に丁度、ウェディングドレスの新婦とタキシード姿の新郎が公会堂の中に入って行くところでした。(大阪市立東洋陶器美術館) 公会堂の東側、向かいにあるのがこの美術館。小生は未だ入ったことがない。(大阪市庁舎) 御堂筋を挟んで向き合っているのが、大阪市庁舎(東側)と日銀大阪支店(西側)。(日本銀行大阪支店)<参考>過去の囲碁関連記事はコチラから。
2015.06.13
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偐万葉・あすかのそら篇(その2) 本日は久々の偐万葉です。最近は他人様のブログへのコメント和歌を作ることも少なくなって、偐万葉シリーズのアップも間遠になっていますが、気が付けばそこそこに歌数のまとまっているお方も居られますので、久々に順次、偐万葉をアップして参ることと致します。 ということで、偐万葉シリーズ第234弾、偐万葉・あすかのそら篇(その2)と致します。なお、ブロ友・あすかのそら氏は偐万葉では「明日香郎女(あすかのいらつめ)」と呼ばせて戴いています。 <参考>過去の偐万葉・あすかのそら篇はコチラから。 あすかのそら氏のブログはコチラから。 偐家持が明日香郎女に贈りて詠める歌18首清き香の これぞと行けば 金木犀 閑(しづか)に照れり みささぎの道 (磐媛陵)ありのままの わたしは見せじ 尻尾をば つかまれたりし けんか家持 (喧嘩家持)われも見つ 似島(にのしま)に似る 島影と 小黒神島 弥山(みせん)の岩ゆ (似島)裏口は 道たづたづし 遠回り して表より 行かせ我妹子(わぎもこ)(本歌)夕やみは 路たづたづし 月待ちて 行かせ吾背子 その間にも見む (大宅女 万葉集巻4-709)立つ霧の 海の田原に 恋ふ妹は た遠き道を いとはずぞ来(こ)し立ち流る 霧にも乗れや 沖辺漕ぐ 小舟(をぶね)が影に 朝日さし来(き)ぬ朝ぼらけ 光れる霧の 立つ春を 今日と告げこそ 海人(あま)の釣船 (田原の海霧)潮岬 いづち行かめや みさき守 弾痕はあれど 望楼の壁(注)上の歌は、偐万葉掲載に当り、語順の変更を行いました。時つ風 いたくな吹きそ 春草の 繁きにとはむ 戦跡の沈黙(もだ)猫の影 長くやなりぬ 望楼の 跡とひ行きて 帰る道の辺 (海軍望楼跡) (潮岬の猫)慣れよ汝(な)れ なれればなれぬ 言の葉も 花と咲くなれ 歌ともなれる (橘のなれ麻呂) (注)橘のなれ麻呂=橘諸兄の息子・橘奈良麻呂のパロディ。われむかし 越にいつとせ すみすみて やかもちともの かいなどなしつ (あすかのいらつめ)有田川 い行き廻れる 島山を あらぎの里は 棚田となしつ(大棚家持)(注)初案「あらぎの里の」を偐万葉掲載に当り「あらぎの里は」に修正した。 (あらぎ島)裏のつまま 落とす実や葉の いや多み 鬱陶しからし 興醒めにけり (あすかのそらまめ)家の裏の 都万麻伐らむと わがすれど 幹ふとからし 腰引けにけり (中休みの鎌足)家持の 歌に免じて わが都万麻 暫しいのちを 延ぶにあるらし (裏庭家持)(本歌)磯の上の 都万麻を見れば 根を延へて 年深からし 神さびにけり (大伴家持 万葉集巻19-4159) (裏庭のタブノキ)あしにひれ 船こぐ人を あきづ羽の 橋の隙間ゆ 見たまふ吾妹(あぎも) (湯冷め王<ゆざめのおほきみ>)(本歌)あきづ羽の 袖振る妹を 玉くしげ 奥に思ふを 見たまへ吾君(あぎみ) (湯原王 万葉集巻3-376)(注)あきづ羽=「あきづ(蜻蛉)」はトンボのこと。「あきづ羽」はトンボの 羽。ここでは、透き通った薄い布をトンボの羽に喩えている。 (フローター)さざなみの あとなる岩を 見まく欲り 妹来つらむか すさみの海辺 (柿本明日麻呂)(本歌)さざなみの 志賀の大曲(おほわだ) 淀むとも 昔の人に またも逢はめやも (柿本人麻呂 万葉集巻1-31) (漣痕化石求めて)
2015.06.12
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本日は囲碁例会の日。梅雨の晴れ間。MTBで会場の梅田スカイビルへ。昼食はれんげ亭で「そばめし定食」でした。 <参考>れんげ亭の記事はコチラ。 梅田スカイビル到着は12時半頃。まだ、誰も来ていないだろうからと今日は空中庭園に上がってみることにした。 空中庭園に上るのは久しぶりである。空中庭園へは3階回廊からエレベーターに乗らなくてはならない。31階だか32階だか途中でエスカレーターに乗り換え、それで39階まで行く。更にエスカレーターでもう1階上がると40階の空中庭園展望台である。そこから更に、階段またはエレベーターでもう一つ上の階に上がると、屋上の円形回廊・空中庭園スカイウォークである。(梅田の里山・梅田スカイビル3階の回廊から) 3階回廊から下を見ると、里山の前で小学生の遠足でもあるか、子供たちがお弁当を広げていました。 (空中庭園展望台へのエスカレーター 左:昇り、右:降り)(空中庭園・スカイウォーク) では、空中庭園からの360度展望の一部をご紹介申し上げます。(空中庭園からの眺め・北東方向) 北方向は淀川の流れが望める。(同上・北方向)(同上・北西方向) 西方向に目を転じると淀川河口から大阪湾である。(同上・南方向) 南は、大阪駅周辺のオフィスビル街。(同上) 英坊3さんがこの前コメントで触れて居られた、高速道路がビルの横っ腹を貫通しているという景色もよく見えます。(同上・南東方向) 空中庭園の散策も早めに切り上げて囲碁会場の部屋へと行きましたが、誰も来ていない。今日は常連の竹〇氏と福〇氏は欠席と、前回の例会の時に聞いていましたが、誰も顔を見せないとは想定外でありました。暫く待ちましたが、無駄だったよう。今日の例会は流会となりました。 暫し、1階の馴染みの喫茶店で時間を潰してから帰途に。 自宅に帰る前に花園中央公園に立ち寄ると、菖蒲園では花菖蒲が今を盛りと咲き匂っていました。暫し、花菖蒲と遊んでから帰ることとしました。碁勝負が流れた代りの花菖蒲ということでもありますかな(笑)。(花園中央公園・菖蒲園)(同上)
2015.06.10
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他の記事の関係でアップが遅れていましたが、友人の岬麻呂氏から旅便りが届いていました。先ず、届いたのは「岬めぐり報告171」の予告ハガキ。今回ははるばると小笠原諸島まで出向かれたようです。小笠原諸島父島に到着して直ぐに投函された予告ハガキでありました。「東京竹芝桟橋から南1000km26時間で二見港に到着しました。」とある。(予告ハガキ<部分>) 予告ハガキの後、追っかけて「岬めぐり報告」171とその補足写真が送られて来ました。 小笠原諸島。訪ねたこともなく何の知識もありませんので、岬麻呂氏の旅便りの説明文を要約転記して置くこととします。(父島 二見港) 父島は人口2000人で殆どが二見港周辺に住む。停泊中の大型船はパシフィックビーナス号(26518トン)で、左側の船は接岸船・小笠原丸(6700トン)。(父島・長崎展望台<兄島瀬戸>) 島の北東方向にあり、潮汐の変動で潮流が目視できる。小型観光船で兄島瀬戸に行き、パン屑を撒き餌ににして中型魚が群れる中を泳ぐことも出来る。(父島・二見湾 境浦) 二見湾内東部にある海岸。写真中央に岩礁のように見えているのは太平洋戦争中に魚雷攻撃で座礁した濱江丸。格好の漁礁となっている。(母島・鮫が崎展望台から) 母島は人口450人。父島からは連絡船・ははじま丸(490トン)で2時間10分を要するが、日帰り可能な便が少ないため、島で一泊するのが普通。(南島海食洞と砂浜) 石灰岩からなる沈水カルスト地形の島。海食洞の奥に見える浜辺が有名で、ガイド付にて1日100名という入島制限がある。 小笠原諸島旅便りに先だって到着した「岬便り170」は北海道旅行のものでありました。これもついでにご紹介して置きます。小笠原銀輪散歩はちょっと大層なことになるから無理であるが、北海道へはヤカモチも行ってみますかな。北海道の何処へ行くのかが問題であるが、万葉とは無関係の地なれば、焦点が定まらない(笑)。(小樽 高島岬 日和山灯台) 灯台右下の赤屋根はニシン番屋で見学できる。手前海辺の水槽は小樽水族館のイルカ飼育場。(上川町 大雪森のガーデン) 北海道ガーデン街道は大雪~富良野~十勝を結ぶ全長250kmの道。森のガーデンは大雪山系を望む丘陵地に作られた庭。隣接のガーデンレストラン&ヴィラ「フラテッロ・ディ・ミクニ」では絶品の北海道イタリアンが楽しめる。(旭川 上野ファーム) 射的山の斜面に植えられたエゾエンゴサクの絨毯は5月上旬必見。(エゾエンゴサク) 富良野麓郷の北隣集落・布礼別の男山八幡神社には人には余り知られていない、エンゴサクの自生群落がある。ここではヒメギフチョウが繁殖、地元ではその保護活動に取り組まれている。 エゾエンゴサクは、白花の希少種も含めて、富良野ご在住のブロ友・furano-craftさんのブログで知りましたが、可憐な美しい花であります。(風のガーデン) ホテル併設。倉本聰脚本のTVドラマの舞台となり、有名に。 風のガーデンは岬麻呂氏北海道旅行の定番。以前の便りでもご紹介したかと。<参考>岬麻呂旅便りの過去記事はコチラから。
2015.06.09
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第161回智麻呂絵画展 本日は智麻呂絵画展であります。 少し間隔が開きましたので、今回は18点一挙公開となります。 では、ごゆるりとご覧下さいませ。 <参考>他の智麻呂絵画展は下記からご覧になれます。 第1回展~第100回展 第101回展~第200回展 第201回展~ 先ずはこの時期の花、紫陽花です。 智麻呂さんの散歩の道すがらにも、この時期は紫陽花の花がよく目につくようです。 ところで、「紫陽花」という漢字は、白楽天が別の花に付けた名がアジサイに流用されたものとのこと。古くは「あつさあゐ(集真藍<群がる真の藍色の花>)」で、これが縮んで「あぢさゐ」となったもの。(紫陽花A)あぢさゐの 八重さくごとく やつ世にを いませ吾背子 見つつしのはむ (橘諸兄 万葉集巻20-4448) 智麻呂さんも間もなく傘寿である。まさに「やつ世にもいませ」吾が君である。いつまでもお元気に絵を描き続けて戴きたいものです。(紫陽花B) 下は、花屋さんがお休みであったので隣の八百屋さんにて、智麻呂さんのご要望で買い求められた蕪である。画材となりたる後は食材となるのであるから恒郎女さんもウェルカブであったことでしょう。(蕪)(ドクダミ) 紫陽花同様にこの時期道端などで目に付くのがドクダミ。この絵画展ではこの時期の定番の花である。(四葉のクローバー) これは、ひろみちゃんが下さった四葉のクローバーの鉢植え。可愛い楽しげな絵になっています。下のシランもその折に一緒に下さったものではないかと思うのだが、取材不足にて確かめていませんので、違っているかもシランです(笑)。(紫蘭)<追記>ひろみちゃん氏の下記コメントでこのシランは彼女からのものではないこ とが判明。であれば、小万知さんか景郎女さんからのものかもシラン。 ヤカモチ館長も最近はかなりいい加減になってきて居りますので、ご来場 の皆さまもそのつもりでお付き合い下さいませ。(向日葵) このヒマワリはデイサービスの「アンデスのトマト」で描かれたもの。もうこの花が登場する季節になったのですな。真夏を先取りして早々と智麻呂絵画展に登場であります。(金糸梅) 上のキンシバイと下のキンギョソウは小万知写真集から絵にされました。(キンギョソウ)(薊) 上のアザミは、小万知さんか景郎女さんかのどちらかが、先日の読書会の折にお持ち下さったもの。<追記:小万知さんでした。> 山には山の~♪、この花を見ると決まってこの歌が口をついて出るというのがヤカモチでありますが、先日の倉橋池銀輪散歩でもこの花を見掛け、此の歌を口ずさみながら走っていたことを思い出します。 以下3点はそのヤカモチさんのブログ「偐万葉田舎家持歌集」掲載写真から絵にされました。(茸)(ユキノシタ)(タンポポの絮) 次はザクロの花2点です。ザクロの花も山吹と同じで八重に咲く花は実を付けない。雄蕊が花弁に変異して八重咲きになっているのである。下の2点は共に一重咲きのようですから、実のなるザクロですな。(柘榴の花A) 上のAは景郎女さんが読書会の時にお持ち下さったもので、下のBは智麻呂さんの「トマト」でのご友人・坂〇さんが下さったものです。坂〇さんは折々に面白い画材をご提供下さいますが、まことに有難いことであります。(柘榴の花B) 次の玉葱とズッキーニは凡鬼さんが読書会にお持ち下さったもの。玉葱はヤカモチもお裾分けを戴きました。「凡鬼農園」は今年も豊作であったようです。<追記:ズッキーニは凡鬼農園の作物に非ず、小万知さんが持参されたものでした。>(玉葱)(ズッキーニ)ズッキーニ 三つ並んで 花つけて すまし顔なる 若草の里 (偐家持)玉葱も 三つ寄り添ひ さていかに この身処すべき 浮世しら波 (偐家持)それぞれに 三つ並んで 行儀よく われ召す人や いづくといふらし (偐家持) さて、最後はヤカモチが読書会に差し入れた枇杷とサクランボです。 飲み食いの後のデザートと智麻呂さんの画材にもというものでありましたが、このように賑やかな楽しい絵になりました。(枇杷とサクランボ) 今回で、当絵画展出展の智麻呂絵画は1454点となりました。1500点到達も近くなりました。益々頑張りますので、今後とも智麻呂絵画展をよろしくお願い申し上げます。 以上です。本日もご覧下さり、有難うございました。
2015.06.08
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昨日(6日)は墓参でした。 墓参の後、久しぶりにぶらぶらと山沿いの小径を辿り枚岡神社まで散策。 徒然なるままに目に映り行くものをそこはかとなく綴れば・・というのが今日の日記であります。 先ず遭遇したのは、名の知らぬ蝶。蛾かも。遠目にはミスジチョウかと見えたのですが、木の下陰のブロック塀の上に止まったので近付いて見ると、見たことのない蝶でした。この蝶の名前をご存知の方が居られましたらご教示下さいませ。(蛾なのか蝶なのか、トラ柄である。) この蝶と同じのが柘榴の木陰にも一匹飛んでいましたが、これは距離が離れ過ぎていたため撮影は出来ず。(柘榴の花) 柘榴は花を咲かせ、枇杷は小さな実をたわわに付けていました。 (枇杷) (今日の言葉) そして、墓参恒例の寺の門前の言葉は、今日はこれでした。 「目をあけて眠っている人」私もその一人でした。(東井義雄) ヤカモチもこの口であるが、こういう人がそのことを自覚せずに何事かをなさんとやたら活発に動き、それが偶々リーダー的な立場にある人であったりすると、かなり始末が悪いことになる。さて、私は、あなたは、眠っているのか、起きているのか、それが問題だ。ムニャムニャムニャ。 (墓地からの眺め) 今日は上空が暗く、西の空が明るい。西方浄土ですな。 この墓地ではこの時期ムラサキツユクサがをちこちに咲く。 (ムラサキツユクサ) 右下の一群の草はヨモギの一種と見ましたが、余り自信はない。普通に見るヨモギはもっと葉が巾広のようにも思うのであるが、ヨモギにも色んな種類があるから・・。さしも草さしも知らじな、です。 (同上) (ヨモギの一種か?) 墓参を終えて山沿いを北へと歩く。山沿いの道とはこんな道である。 (山沿いの道)(同上) 西を見やれば大阪平野。アベノハルカスも見えている。 五条古墳を過ぎて、更に北へ。 (山沿いの道からの眺め) (五条古墳) 枚岡梅林に到着。(枚岡梅林) 梅の実がなっている。 神事用のため採らないで、とある。このように書いてあるということは「採る人」が居るということですな。写真に撮るのは問題なかろう。(梅林の梅の実) (同上) (梅林側の枚岡神社鳥居) 梅林の隣が枚岡神社。神社から言えば、梅林側は裏口となる。 またまた裏口から入場のヤカモチである。 (枚岡神社・若宮社) 若宮社は天児屋根命(あめのこやねのみこと)の息子、天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)を祀っている。 などと知っていたかのように書いていますが、天押雲根という名は上の木札で初めて知ったのでありました。何度もこの前を通っていますが、この名は見ていませんでした。やはり、目をあけて眠っていたようです。(同上・本殿) 本殿は四つある。右から第二殿(比売大神)、第一殿(天児屋根大神)、第三殿(経津主<ふつぬし>神)、第四殿(武甕槌<たけみかづち>大神)とのこと。 右端の第二殿の千木のみが水平切になっていて、他は垂直切になっているというのは、龍水さんのブログ記事(ココ)で知ったことです。見る人はこういう処までしっかりと見ているのでありますな。 本日は墓参後の徒然散歩の徒然日記でありました。
2015.06.07
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<承前> 当ブログ掲載写真は或る時期からフォト蔵に登録のマイフォトを利用するのを原則として来ましたが、此処に来てフォト蔵のシステムに障害が発生し、その復旧に随分と手間取っているようで、不安定な状況。ということで、本日の記事写真は楽天写真館のマイフォトで対応します。フォト蔵のそれに比べ、楽天写真館のそれは写真1枚当たりの使用文字数が多く、掲載写真枚数や記載記事文字数をより少なくする制約を受けますが、何とか今回で記事が終われるよう相努めます。 高家(たいや)から一気に坂を下る。やがて右手に山田寺跡が見えて来る。いったん県道15号に出て右折、北東に少し行くと旧道(磐余道)に入る分岐がある。それを行くと山田寺跡への入口がある。(山田寺跡) 茫洋とした草地。「跡」というのはこうでなくてはいけない。 視線を低くすると、 視線を高くすると、 山田寺は蘇我倉山田石川麻呂が建立した寺。大化5年3月、「皇太子を害さんとしている」という蘇我日向の讒言によって謀反の疑いをかけられる。石川麻呂はこの寺に逃れ自死する。「この寺は自身のために建てたものに非ず。天皇家のために建てたもの。日向の讒言によって殺されるは口惜しきことなれど、死して己の忠誠を示さむ。この寺に逃れ来たは心安らかに死ぬためで、朝廷と闘うためではない。」と言って、戦も辞さずとする長子興志(こごし)らを諌めたという。(日本書紀孝徳天皇大化5年3月条) お堂の脇に歌碑がある。日本書紀大化5年3月の記事の最後に出て来る歌2首の歌碑である。(日本書紀歌謡歌碑) 皇太子・中大兄皇子の妃、造媛(みやつこひめ)は石川麻呂の娘。父の死を悲しみ死んでしまう。中大兄皇子がその死をいたく悲しんだので、野中川原史満が皇子に奉った歌がこれである。山川に 鴛鴦(をし)二つ居て 偶(たぐひ)よく 偶(たぐ)へる妹を 誰か率(ゐ)にけむ本毎(もとごと)に 花は咲けども 何とかも 愛(うつく)し妹が また咲き出(で)来(こ)ぬ(山田寺跡) 山田寺跡から飛鳥川に出て、明日香をひと回りして帰途につきますが、予想通りもう制限字数を超えそうです。(飛鳥川)(飛鳥寺)(大官大寺跡)(耳成山)(香具山) ということで、尻切れトンボですが、これにて桜井・倉橋池・山田寺跡銀輪散歩完結とします。(完)<参考>銀輪万葉・奈良県篇の過去記事はコチラからどうぞ。
2015.06.06
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<承前> 今回のシリーズ記事に掲載の写真は、デジカメのオート撮影設定に間違いがあったらしく、殆どの写真がその周辺部分がぼやけるという写り方になっていました。パソコンに取り込んでから、このミスに気付きましたが、時既に遅し。トリミングなどの編集によって何とか誤魔化すものの、それも限界、些かお見苦しい点のあることお赦し下さいませ。 「荒城の愚痴」 夏朦朧の 写真撮り めぐる回りの 影ぼやけ うつしてのちは 手遅れと ああ、銀輪の 夜半の愚痴 さて、前回は倉橋山の歌碑の処で終わりました。 今日は愈々倉橋溜池です。(倉橋池) 倉橋池は溜池とは言うものの、ちょっとしたダム湖。周囲にめぐらされた遊歩道を行くと湖畔の散歩さながらの風情である。道の辺には薊も咲いている。みなもを渡る風も心地よい。(アザミ)(倉橋池 南側からの眺め) 上下の写真は池の南岸から撮ったもの。遠景の山は三輪山から続く初瀬の山々である。左端の丸みを帯びた峰が三輪山である。(同上) 記憶が曖昧で定かではないが「桜広場」という名であったか、芝生広場の一角に万葉歌碑がありました。(倉橋池畔の万葉歌碑)大君は 神にしませば 真木の立つ 荒山中に 海をなすかも (柿本人麻呂 万葉集巻3-241) この歌は長皇子(天武天皇の皇子、文屋氏の祖)が猟路(かりぢ)の池に出遊した時、これにつき従った人麻呂が作った長歌(万葉集巻3-239)の反歌(或る本の反歌)である。 猟路の池については、桜井市鹿路説や榛原の芳野川と宇陀川との合流点付近説などあって何処とも定まらないが、こうして倉橋池の畔にこの歌碑を置いてみると、いかにもという感じである。正本の方のもう一つの反歌はこれである。ひさかたの 天行く月を 網に刺し わが大君は 蓋(きぬがさ)にせり (同3-240) 山中に海を造るのもすごいが、月を網で捕まえて傘にしてしまうというのはもっとすごいですな(笑)。人麻呂流誇大表現です。月を日傘にすれば、それは日食ではないの、とヤカモチ独り言です。(倉橋池 ダム側<北東側>からの眺め) ダムを越えて北岸側に渡ると池が大きく湾入した先に芝生広場が設けられていて、トンボ池広場とか野鳥の森広場などと名付けられている。その一つのトンボ池広場でお弁当タイムとしたのですが、これは先に紹介済みです。 <参考>「トンボ池の蝶」2015.5.26.(同上 南西側からの眺め)(倉橋池地図) 倉橋池の遊歩道はぐるり一周で約4kmらしいが殆ど人に出会わない。この日池で出会ったと言うか見かけたのは男性4名、女性1名の計5名。何れも一人歩きの方でした。 池の畔のあづま屋で水分補給の後、下って来た坂道を上り、県道37号に戻る。県道を来た方向に少し戻って最初の辻を左(南)に入る。細い下り坂。崇峻天皇陵の前に出る。(崇峻天皇陵) 崇峻は第32代天皇。欽明天皇の第12皇子。母は蘇我稲目の娘の小姉君。蘇我馬子も稲目の息子であるから、崇峻は馬子の甥になる。馬子の推挙によって天皇となるが、馬子との関係が悪化し、馬子の命を受けた東漢駒によって暗殺されてしまうという天皇。 最近は、崇峻天皇陵はここではなく、倉橋池の北東にある天王山古墳だとする説が有力らしいが、今回は天王山古墳は(更に上なので)パス、宮内庁説に従い、坂を下ればいいだけのコチラの御陵だけに致しました。(同上) 崇峻天皇陵を出て、寺川を渡り(この日はこれで3回寺川を渡ったことになる。)、広い舗装道路の坂道の上りに取りかかる。今井谷への道。これが何とも急勾配、途中でギブアップ、押して上る。少し勾配が緩やかになった辺りから再びライド・オン。ようやくにして峠越えとなる高みに到着である。遠く金剛山が見えている。(今井谷から高家への道) 少し下った処で三叉路に出る。高家(たいえ)春日神社の境内に万葉歌碑がある筈と思い込んでいたので、左折して、急坂をまたしても上る。これも早々にギブアップして手押しである。前屈みで丁度良い位の急勾配であるからとても乗っては無理である。銀輪家持も銀輪を杖代わりにして・・という次第。 ところが、歌碑が見当らない。周辺を少し歩いてみたが分からない。 目指した歌碑は此の歌の歌碑であったのだが、見つからないものは仕方がない。諦めて坂を下る。急降下です。ぬば玉の 夜霧ぞ立てる 衣手の 高屋の上に たなびくまでに (舎人皇子 万葉集巻9-1706) (高家春日神社) もとの三叉路に戻る。ここからは次の目的地・山田寺跡へは坂を下るだけ。しかし、キリがいいので、本日はここまで。続きは明日とします。(つづく)
2015.06.05
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今日は奈良県桜井市の倉橋池などの銀輪散歩の日記です。実施したのは5月21日であったのですが、他の記事が色々あって、随分遅れてのアップとなりました。 近鉄・JR桜井駅前でトレンクルを組立て出発(朝9時50分)。 コースは、桜井駅前~桜井市立図書館(万葉歌碑)~等彌神社~桜井市高齢者福祉センター(万葉歌碑)~倉橋溜池~崇峻天皇陵~今井谷~高家春日神社~山田寺跡~雷丘~飛鳥川沿い自転車道~石舞台前(夢舞台)~犬養万葉記念館(定休日)~飛鳥寺~飛鳥坐神社~香久山~藤原宮跡~三輪神社~桜井駅前というもの。(JR桜井駅 右手奥の2階が近鉄桜井駅)(桜井駅から南方向を望む。) 上の写真の道は4月20日のODI万葉ウオーク(記事はココ参照)で歩いた道である。この日も団体でウオークする人の列がありました。列は若桜神社へと入って行きましたから、我々の4月のウオークと似たコースを歩かれるのかも知れない。 小生の今回のコースは、若桜神社の先で左折、東に進み寺川を渡り県道37号に出るというもの。県道に出た右手に桜井市立図書館がある。此処が最初の目的地である。 (伊勢街道<初瀬街道>。左が東方向、右が西方向。) 前後するが、駅前を出て直ぐに伊勢街道を横切る。大和八木の方から東へとやって来て初瀬、榛原、名張を越えて松阪から伊勢へと続く古道である。 伊勢の斎宮の姉・大伯皇女を訪ねた大津皇子も、大津亡き後伊勢から大和へと帰って来た大伯皇女もこの道を歩いたのだろう。 桜井市立図書館に到着。図書館の東側庭に万葉歌碑がある。この独特の字は保田與重郎のものですな。同氏は桜井市出身の人。(桜井市立図書館前庭の万葉歌碑)茂岡(しげをか)に 神さび立ちて 栄えたる 千代松の樹の 歳の知らなく (紀朝臣鹿人 万葉集巻6-990) (等彌神社。左が一の鳥居。右が二の鳥居。) 県道37号を挟んで向かいが等彌神社である。この境内にも3基の万葉歌碑があるので立ち寄る。 宮司さんのお話では、県道脇一の鳥居は先頃の伊勢神宮の式年遷宮で下宮にあった鳥居を譲り受けたものだそうな。(同上、上之社の社殿)(等彌神社の万葉歌碑A) 上之社の社殿から一段低い前庭右手にあるのが上の歌碑である。妹が目を 始見(はつみ)の崎の 秋萩は この月ごろは 散りこすなゆめ (大伴坂上郎女 万葉集巻8-1560) この歌は、題詞に「大伴坂上郎女、跡見(とみ)の田庄(たどころ)にして作れる歌2首」とある内の1首である。もう一つの歌はこれ。吉名張(よなばり)の 猪養(ゐかひ)の山に 伏す鹿の 妻呼ぶ声を 聞くがともしさ (同上 同巻8-1561) 反対側、左手にあるのが下の歌碑。 577577の旋頭歌である。(同上B)射目立てて 跡見の丘邊の なでしこの花 総手折り われは行きなむ 奈良人のため (紀朝臣鹿人 万葉集巻8-1549) 上の歌碑の右の石階段を上り、木立の中の坂道を100mほど上るとあるのがこの歌碑。(同上C)うかねらふ 跡見山雪の いちしろく 恋ひば妹の名 人知らむかも (万葉集巻10-2346) (下之社にある保田與重郎歌碑)とみ山の かの面この面を またかくし 時雨は夜の 雨となりけり(佐藤春夫と堀口大学の友情歌碑) 二の鳥居の右側には佐藤春夫の句碑と堀口大学の歌碑もあったが、左側の句碑は写真では判読が難しい。右句碑 大和にはみささぎ多し艸もみぢ中央歌碑 さきに来て等弥のおん神をろがみし友につづきてわれもをろがむ(大学)(同上説明板) 等彌神社から暫く行くと県道37号は上りに入る。結構きつい。坂の途中で少し休憩。一気に上り切るほどの体力我に無し、息が上がってしまう。やがて桜井市高齢者福祉センター前の三叉路に到着。これを左折して少し上るとセンター。直進すると多武峰。多武峰へは更に辛き坂道を行かねばならないが、倉橋池への道はここから下りとなる。 センターへの進入路右手の目立たない場所に万葉歌碑。こちらも577577の旋頭歌体の歌でした。(桜井市高齢者福祉センター前の万葉歌碑)梯立(はしたて)の 倉橋山に 立てる白雲 みまく欲り わがするなべに 立てる白雲 (万葉集巻7-1282) 倉橋山は、倉橋池の南東の音羽山という説と南の多武峰の一峰という説、双方を含む山塊の総称という説とあるようだが、音羽山と多武峰の間の谷が倉橋川で、これをダムで堰き止めて出来たのが倉橋池である。 字数制限です。本日はここまで。(つづく)
2015.06.04
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本日は囲碁例会の日。天気予報では雨ということであったので、MTBは自宅待機。久々に電車で会場の梅田スカイビルに出向きました。 銀輪散歩も無く何かブログ向けの写真を、ということで、スカイビルに入る前に貨物線に沿って少し中津方向へ歩き、グランフロント大阪の景色を北側から撮ってみました。(グランフロント大阪。手前はJR貨物線と再開発予定エリア) (同上) スカイビルの里山に入り、先月見かけたユスラウメの実はどんな具合になっているかと見に行くと、実は一つもありませんでした。小鳥たちが食べたのか、人間が食べたのかは存じ上げませんが、時既に遅しでありました。 中庭(ワンダースクエア)では、この週末にかけてのイベントであろうか、ベルギービールウィークエンド2015の舞台設営がされていて、出演者であろうバンドの音合わせかマイクテストかの最中でありました。(梅田スカイビルの中庭。ベルギービールウィークエンドの舞台) 本日の出席者は竹〇氏、村〇氏、福〇氏と小生の4名のみ。既に竹〇氏と村〇氏の対局が始まっていたので、小生は福〇氏と手合わせ。これは十数目の勝ちで、漸く連敗が止まりました。隣の竹・村戦は未だ中盤という進行状況。では、もう一局と福〇氏と再戦。今度は序盤で不用意な受け方をしたため左辺の石が死んでしまう羽目となり中押し負け。 隣は未だ決着がつかず長考中。で、もう一度福〇氏と。これも終盤で駄目が詰まって来た段階で手入れが必要であったのを見落とすというミスがあり、左上隅の石が死ぬ羽目に。これで逆転負け。ということで、今日は1勝2敗。連敗は止まったものの、その後また2連敗ですから、いけませぬ(笑)。これで、今年の通算成績は11勝14敗となりました。 なお、お隣の熱戦は、結局左辺の黒の大石が死んでしまい、地合いでは上回っていたと見られた村〇氏であったが、竹〇氏に逆転を許し、大差負けとなりました。碁は一目、いや半目勝てばいいのであるけれど、どの辺で鉾を収めるかが難しく、つい打ち過ぎになってしまうことが多い。まあ、石が死んでも命まで取られる訳ではないので、何処までも際どい勝負を挑むというのも、一つの美学ではある。なんて言っているようでは、なかなか碁は上達しませんかね。 結局、雨は降らずで、これならMTBで出掛ければ良かったと思うも結果論。今日から大阪も梅雨入りしたようで、銀輪散歩には有難くない天候が続くことになりそうです。<関連記事>囲碁関連の過去記事はコチラから。
2015.06.03
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本日累計アクセス数が40万を超えました。ブログを開設して8年1ヶ月余。ゆっくりとした40万超到達かも知れませんが、また一つの節目を越えました。累計アクセス数というのは減らないのがよろしい。それぞれのペースで確実に増えて行き、遅かれ早かれ40万、50万に到達するのであるからいい(笑)。開設当初は一日当たりのアクセス数は50件にも満たなかったと思うが、最近は500件を下回ることは少ない。有難いことです。ご訪問下さる方々、コメントをお寄せ下さる方々、皆さまに感謝です。 2007年 4月29日 ブログ開始 2009年10月13日 50000件 2011年 1月11日 100000件 2011年12月16日 150000件 2012年12月31日 200000件 2014年 3月27日 250000件 2014年11月 7日 300000件 2015年 3月25日 350000件 2015年 6月 2日 400000件四十万(よそよろづ) 超えてなほ行く にせ万葉 いづくや果てむ ブログの道は (偐家持)(薬師石仏) これは八尾市楽音寺にある薬師堂。このお堂の前の道を東へ300mほど坂を上った処にある熊野神社境内にあった石仏をこちらに移したものとのこと。室町時代の作と考えられているようです。(下記説明碑参照。) この石仏は、小生が銀輪散歩で南方向へ走る場合に「上ツ道」と呼んでいる山沿いの道を行くと、心合寺山古墳に出る手前100m位の処にある。 かなり以前に撮影したものであるが、ブログに掲載するタイミングがなく、フォト蔵の一時ファイル・アルバムに眠っていた写真である。 この「ブログの歩み」というカテゴリの記事は、その性格上、関連写真というものがないのが普通。それで、このように殆ど関係のない記事も併せ掲載するということが恒例となっている。今回は薬師石仏にお出まし願ったという次第(笑)。(薬師石仏説明碑)楽音寺熊野神社の写真掲載記事はコチラ。 上の方の写真に写っている自転車は小生の銀輪散歩の相棒の一人であるMTB。MTB登場ついでにMTBに関連する話題も一つご紹介して置きます。 このMTB君、去る5月24日の銀輪散歩の途中でペダル・クランクが不調となり、走行不能に陥りました。幸い馴染みの自転車屋さんまで徒歩にして15分位の場所であったので、テクテクと手押しにて歩き、自転車屋さんに持ち込みました。分解して調べて戴くとシャフトとクランクの連結部分が摩耗して調整不能状態。シャフトなど部品の取り換えが必要ということで、入院治療となりました。これと関係あるのかどうかは分からぬが、後輪のバランスも狂いが生じていましたので、その調整も併せお願いすることに。ちと酷使し過ぎましたかな。 少し前から、坂道の上りなど負荷のかかる場所にさしかかると、ペダルを踏み込む度に「キューキュー」と軋む音が微かにしていたのでした。それはこの故障の前ぶれであったようです。 そのMTB。無事31日に修理完了、退院となりました。自宅から徒歩で自転車屋さんへ。MTBを受け取っての初乗り先は、読書会会場の智麻呂邸でありました。 部品取替えで4~5万円位はかかるかもという話であったが、退院時の支払いは2万円で済みました。MTB君、保険の範囲内でお願いします、とでも自転車屋さんに言ったのでしょうか(笑)。これで、また、心置きなく銀輪散歩が出来るという次第。
2015.06.02
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昨日(5月31日)は若草読書会の例会でありました。 課題図書は、葉室麟著「恋しぐれ」。解説は凡鬼さん担当。 何故、この本を選ぶに至ったかの話から、小説の読後感などをお話戴きました。また、蕪村の生涯を年譜でご説明戴き、芭蕉や一茶との比較で蕪村の代表句25句をご紹介下さいました。正岡子規によって蕪村の句の評価が高まったことなどの経緯をご紹介戴き、芭蕉の句は奥へ奥へ、これに対して蕪村の句は「広がり」であり、豊かな色彩があり、映像的・絵画的であり、物語性があるとも。 たしかにそんな気がします。小生のように文才の無い人間でも、蕪村の或る句から短編小説のストーリーを作り上げることも出来そうな気がしてくるのは、そのような蕪村の句の性格に依るものであるのでしょう。 この「恋しぐれ」所収の短編小説群も、サラリとした書き方で俳句の雰囲気とうまくマッチして品のいい上質な小説に仕上がっていると感じられました。 小生は、先月22日~25日の当ブログ記事でご紹介した蕪村関連銀輪散歩の写真も参考になるかと記事を印刷に打ち出したものをお持ち致しました。<参考>京都・蕪村銀輪散歩(1) (2) (3) (4) 凡鬼さんがご紹介下さった蕪村の「春風馬堤曲」は初めて知るもので、興味深いものがありました。これは、蕪村が旧友を訪ねて淀川べりを行く途上で行き逢った里帰りの若い娘の姿に触発されて、その女性の心の内を思いめぐらし、その女性になり代わってしたためた一文である。このような文章の作り方は何となく万葉の高橋虫麻呂の「河内の大橋」の歌などを連想させもするのでありました。 その全文を以下に記載して置きます。(春風馬堤曲前文)余、一日、耆老を故園に問ふ。澱水を渡り馬堤を過ぐ。偶、女の郷に帰省する者に逢ふ。先後して行くこと数里、相顧みて語る。容姿嬋娟として、癡情憐れむべし。因りて歌曲十八首を製し、女に代はりて意を述ぶ。題して春風馬堤曲と曰ふ。(春風馬堤曲 十八首)やぶ入や浪花を出て長柄川春風や堤長うして家遠し 堤より下りて芳草を摘めば荊と蕀と路を塞ぐ 荊蕀何ぞ妬情なる 裙を裂き且つ股を傷つく渓流石點々 石を踏んで香芹を撮る多謝す水上の石 儂をして裙を沾らさざらしむ 一軒の茶見世の柳老にけり茶店の老婆子儂を見て慇懃に無恙を賀し且つ儂が春衣を美ム 店中二客有り 能く解す江南の語 酒錢三緡擲ち我を迎へ榻を譲って去る古驛三兩家猫兒妻を呼ぶ 妻來らず 雛を呼ぶ籬外の鶏 籬外草地に滿つ 雛飛びて籬を越えんと欲す 籬高うして堕三四春艸路三叉中に捷徑あり我を迎ふ たんぽゝ花咲り三々五々五々は黄に 三々は白し記得す去年此路よりす憐みとる蒲公莖短して乳をあませり むかしむかししきりにおもふ慈母の恩 慈母の懐袍別に春あり春あり成長して浪花にあり梅は白し浪花橋邊財主の家春情まなび得たり浪花風流 郷を辭し弟に負く身三春 本をわすれ末を取る接木の梅故郷春深し行々て又行々楊柳長堤道漸くくだれり 嬌首はじめて見る故園の家黄昏 戸に倚る白髪の人弟を抱き我を待春又春君不見古人太祇が句藪入りの寢るやひとりの親の側 <参考>「春風馬堤曲」 上の「春風馬堤曲」の2首目の「春風や~」の句碑は、毛馬閘門脇に建てられていて、偐山頭火氏や小生にはお馴染みの句である。 馬堤とは毛馬の堤でしょうから、我々二人は何度となくこの長堤を輪行しているのでありましたが、春風馬堤曲を読むのは初めてのことでありました。 小生は今までさしたる根拠もなく、蕪村が家に帰るのに淀川堤を歩いている景色かと思っていましたが、これは藪入りで家路を辿る少女の心情を詠ったものであったのですな。まあ、蕪村さんよりも少女の方が絵にもなるし、「虫麻呂」的で宜しい(笑)。(蕪村句碑)※この写真は2008年10月21日の記事に掲載の写真の再掲載です。<参考>凡鬼さんから頂戴した「蕪村略年譜」も掲載して置きます。1716年(正徳6年 6月に享保に改元) 蕪村誕生。生まれた月日は不明 生地は摂津国東成郡毛馬村。一説には丹後与謝、摂津 天王寺生まれとも。両親については文献上は不明。1735年(享保20年)20歳 この頃江戸へ下る。早野巴人(宗阿のち宋阿)の夜半 亭の内弟子となる。 蕪村は初号の「宰町」から「宰鳥」と号す。1742年(寛保2年) 27歳 6月に師匠の巴人逝去。1744年(延享元年)29歳 浄土宗の僧侶姿で関東各地をめぐる。 「宰鳥」改め「蕪村」の号を名乗る。1751年(宝暦元年)36歳 京都へ上る。炭太祇が京都に来る。1754年(宝暦4年) 39歳 この頃丹後宮津の浄土宗寺で画業に励む。画業では めざましい発展。屏風絵も多く残す。1760年(宝暦10年)45歳 亡母33回忌の年と思われる。この頃還俗して与謝姓を 名乗る。この頃妻「とも」を娶る。この後娘「くの」 も生まれる。1763年(宝暦13年)48歳 「山水図屏風」を画く。画家として腕をふるう。1766年(明和3年) 51歳 「三菓社中句会」ひらく。炭太祇、黒柳召波も参加。1768年(明和5年) 53歳 この頃は熱心に句会を続ける。1770年(明和7年) 55歳 夜半亭を継承し二世となる。「三菓社」を「夜半亭社 中」句会と改称。高井几董入門。1771年(明和8年) 56歳 池大雅と「十便十宜図」を画く。 親友太祇没(63歳)。 「十便帖」は大雅、「十宜図」は蕪村。国宝。1773年(安永2年) 58歳 松村月渓(呉春)句会に出席。几董の選著「あけ烏」 成る。1776年(安永5年) 61歳 友人上田秋成の「雨月物語」が刊行される。 娘「くの」が嫁ぐも翌年離婚。1778年(安永7年) 63歳 この2,3年で「野ざらし紀行図屏風」「夜色楼台図」 などを描いたと思われる。「謝寅」の画号を用いる。1781年(天明元年)66歳 金福寺の芭蕉庵が落成。1782年(天明2年) 67歳 吉野へ花見。10月金福寺で芭蕉忌営む。1783年(天明3年) 68歳 浅間山噴火。冷害による大飢饉。 3月 芭蕉百回忌取越し追善俳諧興行に出座。 ※1793年になる処、10年繰り上げて実施。 8月 太祇13回忌追善俳諧に参加。 9月 宇治田原に家族一門と遊ぶ。帰宅して病臥。 12月25日(太陽暦では1784年1月17日)未明自宅で 没。
2015.06.01
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