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今夜は中秋の名月。 新しいコンパクトデジカメ。使い慣れていないので、露出を落とす方法が分からない。月の模様が写らない明る過ぎる月となりましたが、取り巻きの群雲の表情で誤魔化すこととしました。(中秋の名月)(同上)(同上)(同上)(同上)(同上)名月を 見つつ一首と われ思へど 言の葉隠す 雲の出で来て (言い訳家持)ということで、今宵は「歌」もなく月の船行く中秋の空、写真のみと致します。
2015.09.27
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<承前> 観心寺門前到着は11時過ぎ。自宅からは約3時間、滝谷不動からは約1時間を要したことになる。 観心寺という名は、母方の祖父の出身地がこの近くとか、母の伯母がこの近くに住んで居られて「観心寺の〇〇おばさん」というような呼び方を幼い子供の頃、母の実家で耳にした記憶がぼんやりとあるなど、その名は予てより承知していたのであるが、訪問するのは今回が初めてである。(山門)観心寺・公式ホームページより 観心寺・Wikipedia 観心寺は大宝元年(701年)役小角によって開創。雲心寺と称した。大同3年(808年)空海が訪れ、北斗七星を勧請したという。七つの星塚が今も境内に残り、これを一巡するとその年の厄が払われると言われている。 河内の北に星田妙見宮、南に観心寺と北斗七星(もっとも、星田は北斗八星だが)に因む社寺があるのも面白い。 空海は寺の造営を一番弟子の実恵(じちえ)に任せ、天長4年(827年)寺の造営が始められる。空海は高野山を開くための拠点として観心寺を整備したと見られている。 また、観心寺は楠木氏の菩提寺であり、正平14年(1359年)には後村上天皇の行在所になるなど、南朝ゆかりの寺である。山門脇には楠木正成銅像があり、山門を入ってすぐ右には後村上天皇御旧跡碑が、境内奥には後村上天皇桧尾陵がある。(後村上天皇御旧跡碑)(金堂へ)(金堂<国宝>)(同上)(建掛塔 左に見えているのは阿弥陀堂) この建掛塔というのは、楠木正成の発願により三重塔の建設が始められたが、彼が湊川の戦いで討死したことから一重目で工事が中止されたものだとのこと。(御影堂) (7番目の星塚) (後村上天皇陵参道入口) 7番目の星塚の向かいに後村上天皇桧尾陵参道入口がある。 長い石段の道を登って行くと漸くに御陵に着く。 (同上・参道)(後村上天皇陵)<参考>後村上天皇・Wikipedia 後村上天皇は後醍醐天皇の第7皇子。南朝第2代目天皇である。母の新待賢門院の墓とされる陵墓参考地も観心寺境内にある。写真には撮ったのですが逆光で且つピンボケ写真となってしまったので掲載は没です。(開山堂<本願堂>) 後村上天皇陵参道入口に戻り、左に行くと開山堂。その奥に楠木正成首塚がある。湊川で戦死した正成の首は足利尊氏の命により観心寺に届けられ、この首塚に祀られたということのようです。(楠木正成首塚) 新待賢門院墓の前の石段を下って行くと山門への道に出る。 その脇にある建物は、拝観受付で戴いたパンフレットによると「拝殿」とある。寺は「堂」「院」、神社は「殿」という常識を破るものだが、神仏分離前にあっては、そういう常識はなかったのでしょう。拝殿というからには、この建物の前の反り橋の先にある鎮守堂の詞梨母天を拝するための建物であるのだろうか。(拝殿)(拝殿前の反り橋の奥に見えるのは鎮守堂<詞梨母天堂>。) 境内には、梅林の下などあちらこちらにヒガンバナが咲き匂っていました。 ヒガンバナの出迎えを受け、ヒガンバナに見送られて、お彼岸中日の前日の観心寺を後にしました。(境内のヒガンバナ)(同上)(同上) 山門を出た処で時刻を見ると既に正午を過ぎていました。よって、山門前のうどん屋さんで昼食。帰り道は楽々。往路の上り坂を下るだけ。爽快に一気に駆け下る。 ということで、帰宅は午後3時。復路は途中で花や虫やその他の写真を撮ったりしての道草を含めても2時間半を要しただけでした。以上で河内長野銀輪散歩終了と相成りました。(石川の土手にもヒガンバナが)(見上げるとセンダンの実が鈴なりに) (同上)ーー完ーー
2015.09.24
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昨日(22日)は石川を遡上、河内長野の観心寺まで銀輪散歩して来ました。 これまで石川は何度となく走っているが、金剛大橋で石川と別れて寺内町経由錦織公園ということが多い。一度だけ偐山頭火氏と彼方小学校正門前の万葉歌碑を見るべく、更に上流の川西大橋の先、高橋の手前の同小学校まで石川べりを走ったことがある。もっとも、石川べりの自転車道は川西大橋辺りまでで、川べりの道も高橋辺りまでである。(石川・下流方向 石川サイクル橋の上から)※11日の銀輪散歩は左手に写っている森で一休みして引き返しました。 <参考>久しぶりに石川へ 2015.9.11. サイクル橋というのは自転車・歩行者専用の橋。石川自転車道は左岸(写真左側)をこのサイクル橋までやって来て、ここで橋を渡り右岸に移動、少し下流側に戻ってから河川敷の道に入って上流へと通じている。上の写真の右側に見えている白線のある道が自転車道である。大きな木のあるところで右にカーブして岸に上がることになる。写真をクリックしてフォト蔵画面に入り、もう一度クリックして戴くと大きいサイズの写真で見ることが出来ますが、元画像サイズで見て戴くとお分かり戴けるように、上流から走って来た自転車族の一人がここで右折転回して岸に上がってこのサイクル橋に向かおうとしている処です。 下の写真は上の写真の少し前に撮った上流方向の眺めです。左側の自転車道に見えている(これも原画サイズでご覧戴く必要がありますが)自転車の男性が上の写真の自転車の男性の10秒程度前の姿です。(石川・上流方向 同上) 金剛大橋の上の、石川自転車道真上に当たる位置から撮った写真がこれです。 なお、写真は復路で撮ったものも記事の構成上(往路の説明用に)使用させて戴いて居りますので、撮影時刻は無視して下さい。(サイクル橋・Wikipediaより) 金剛大橋の上の、石川自転車道真上に当たる位置から撮ったのが下の写真です。 なお、写真は復路で撮ったものも記事の構成上(往路の説明用に)使用させて戴いて居りますので、撮影時刻などは無視して下さい。(石川自転車道 金剛大橋上から上流側撮影) 高橋(朱塗りの赤い橋)まで石川べりを走り、ここで左折し東へ。滝谷不動へ向かう。先に偐山頭火氏と彼方(をちかた)小学校まで来た時は滝谷不動まで行く予定にしていたのを中止したので、そのやり残しを今回果たしたことになる。 <参考>銀輪散歩・彼方の赤土の小屋に 2014.3.3. 滝谷不動へは結構な坂道。偐山頭火氏が難色を示されたのも肯ける。喘ぎつつ何とか登りきって、少し下った処が、滝谷不動明王寺。(滝谷不動尊) 自宅を出たのは朝8時過ぎ。滝谷不動到着が10時15分。滝谷不動は初めての訪問であるが、2時間程度で来れるのであれば、あの坂道は別としてまた来てもいいかと。ということで、山内には入らず、本堂前でご挨拶申し上げ、暫し休憩させて戴いたのみ。(同上・本堂)瀧谷不動明王寺・Wikipedia(同上・行場への道) 滝谷不動から高橋へと急坂を走り下る。高橋を渡ると国道旧170号錦織交差点に出る。ここで左折、国道を南へと走る。もう石川沿いに走る道はない。(近鉄長野線・汐ノ宮駅) 汐ノ宮駅を右に見て直進。近鉄長野線のガードをくぐり、菊水町交差点に突き当たる。今回の目的地である観心寺は、ここで左に行くのであるが、右に入って河内長野駅にご挨拶して行くこととする。(河内長野駅) 河内長野駅で近鉄長野線と南海高野線が連絡している。(河内長野駅前の高野街道のモニュメントとマイMTB)(同上モニュメント) 河内長野は東高野街道と西高野街道が合流する地で、高野山へと続く高野街道の起点であったのですね。 高野山へは無理なので、菊水町交差点に取って返し、国道310号を観心寺に向かって走ることに。石川を渡った処から310号は急坂の上りとなる。左から脇道をやって来た自転車族3人組が急坂を前に思案している。「走りにくい道、どうする?」という声を小耳に挟みつつヤカモチさんはその急坂に挑む。またも喘ぎながらの「辛き道行き」である。3人組は結局別の道を行ったらしく、振り返ってもついて来る気配がない。 急坂をほぼ上り切って勾配が緩やかになった処に河合寺というのがあった。ここの門前で一息入れる。(河合寺)(国道310号 くずの口バス停前交差点) くずの口(葛ノ口)から少し下って再び上った処が観心寺である。(観心寺近くの稲田) 漸くにして観心寺門前に到着。 ですが、字数制限です。本日はここまでとします。(つづく) <参考>近隣散歩カテゴリの記事はコチラから。
2015.09.23
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本日(22日)は石川を遡って、河内長野の観心寺まで銀輪散歩して来たのですが、そのご報告は明日以降ということにして、先に岬麻呂氏から届いた北海道の旅便りをお届けします。 (注)前回の旅便りは175になっていましたが、正しくは176であったとのこ と。岬麻呂氏は途中から旅便りに番号を付されるようになりましたが、 その際にそれまでの旅便りを一つ数え忘れされました。今回そのことに 気付かれて、番号を修正し177とされました。 北海道は早くもすっかり紅葉、「秋深し」のようですね。 それでは、岬麻呂氏からの紅葉のプレゼント。ひと足早い紅葉を存分にお楽しみ下さいませ。(赤岳東斜面)岬麻呂氏解説「銀泉台から登山口(1517m)経由してこの場所まで35分。見えて いる稜線は第一花園付近で、赤岳山頂(2078m)はこの位置から は見えない。」(旭岳・姿見駅周辺・北北西斜め下)岬麻呂氏解説「沼が点在するが立ち入りできない。望遠で撮影。」(同上)岬麻呂氏解説「姿見の池は標高1660mで、姿見駅は1600m、撮影した場所はその 中間地点。奥に十勝連山、右奥に忠別ダム湖が望まれる。」(十勝岳温泉・安政火口)岬麻呂氏解説「十勝岳温泉は厳冬期でも上富良野町からの道路が除雪されるので訪 ねることが出来る。雪のない時期は白金温泉から望岳台経由道路で 15km程度と近い。冬は通行止め(道路が除雪されない)なので、 美瑛に一度下り、上富良野町から登ることとなり、60km以上の大 迂回になる。」(岬めぐり報告177)<注>過去の岬麻呂旅便りの記事はコチラからどうぞ。
2015.09.22
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第165回智麻呂絵画展 本日は第165回智麻呂絵画展であります。今回の作品15点でこれまでの総出展智麻呂絵画点数が1512点となり、1500点を突破しました。従って今回の絵画展は1500点突破記念展でもあります。 1000点突破は第115回展(2013年2月28日開催)でありましたから、智麻呂画伯は約2年半の間に500点余の新作絵画を描かれたこととなります。これも色んな方々のご支援や当絵画展にご来場戴き、コメントでお励まし下さる皆さま方のお陰であります。改めて心よりお礼申し上げます。 ではどうぞ、ごゆるりとご覧下さいませ。 <参考>他の智麻呂絵画展は下記からご覧になれます。 第1回展~第100回展 第101回展~第200回展 第201回展~ 先ずはバッタから。 花の智麻呂ですが、時に「虫麻呂」ともなられることは以前にも申し上げました。今回は1500点突破という節目の展覧会。次なる目標2000点に向けて、更にも飛躍せんとて、冒頭にバッタの絵を持って参りました。(ショウリョウバッタ) 堂々とした風格のあるバッタに仕上がりました。 次はゴーヤ。これはご友人の坂〇さんからの戴き物。 ゴーヤは第9、43、83回展に続いて4作目となりますが、特長を正確に捉えた、なかなかの力作であります。(ゴーヤ) 次のトルコキキョウはデイサービスの「アンデスのトマト」にて画材にと戴いた花です。この花の絵はこれが5作目。 過去には第19、123、130、146回展に登場しています。(トルコキキョウ) 次のカンパニュラは小万知写真集から絵にされました。カンパニュラ(釣鐘草)は智麻呂さんのお好きな花。これが6作目になります。(カンパニュラ)※第6(2作)、35(2作)、36回展 次のツユクサからカモメまでの4作品は当ブログに掲載のの写真から絵にされたものです。ツユクサの絵はこれが9作目となります。(ツユクサ)※第9(2作)、39、59、63、64、83、107回展 カンナは6作目となります。(カンナ)※第38、41、62、84、107回展 次のアメリカデイゴは初登場です。 恒郎女さんは赤い花弁状の上から出ている白い部分が、赤ちゃんか子供の手のように見えて気味が悪い、と仰っていましたが、言われてみると確かにそのように見えますね。アメリカ手イゴですな。(アメリカデイゴ) カモメは北海道小樽のカモメです。 カモメも智麻呂絵画展には初登場です。(カモメ) 次のオキナワスズメウリの絵2点はブログ友のビッグジョン氏のブログに掲載されていた写真から絵にされました。 ヤカモチ館長が面白いと印刷してお持ちしたら、智麻呂さんも面白いと感じられたのでしょう。このような面白い絵になっていました。(オキナワスズメウリ<赤>)(オキナワスズメウリ<青>) 次は絵のタイトルからもお分かりのように、偐山頭火さんがお持ち下さった、大阪は柏原産の葡萄です。偐山頭火さんにとってはワインになってこその葡萄。只の葡萄には用がないという訳であります。 ブドウの絵はこれが21作目(他の果物と一緒に描かれているもの2作品、ガラス製のブドウの置物の絵1作品を含む)。(葡萄of柏原from偐山頭火)※第4、11、16、27、42、43、63、64(2作)、86、104、 105、126、127、131、147(2作)、149、150、151回展 次のタマスダレ(ゼフィランサス)は、もう一つのデイサービス施設「福寿苑」に咲いていたのを画材にと施設の職員の方が智麻呂さんに下さったものだそうです。(タマスダレ)※第87、107回展 次に赤いコスモスはデイサービス施設「アンデスのトマト」に咲いていたのを絵にされたらしい。恒郎女さんは小万知写真集の写真からの絵ではないかと思う、と仰っていましたが、その写真なるものが出て来なかったので、証拠不十分、智麻呂さんの「自供」通りに、トマトで描いたものと認定することといたしました(笑)。 黄色い花粉が散っているようでもありますから、これは写真からではなく生きた花からの写生に相応しいのではないか・・というのが館長の認定の根拠であります。(コスモス)※第10、17、35、46、65、89、128、129、 130、149回展 次のムクゲは智麻呂邸の前に咲いている花を写生されました。 赤いコスモスには白いムクゲを対置するのがよろしいかと並べてみました。(ムクゲ)※第12、35、43(2作)、45、64、66、86、 104、106、147回展 最後は金魚です。 智麻呂邸の水槽に最近引っ越して来た金魚たちであります。(金魚) 今回は絵画点数も多数ゆえ、ヤカモチ館長の口説は控えめとしました。絵画は絵画をして語らしめよ、であります。本日もご覧下さり有難うございました。
2015.09.19
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7月4日の記事に記載していますが、左目の後発白内障の手術は7月3日に受けました。今度は右目が同じ状況となり、本日その手術を受けました。 <参考>墓参・小雨の花散歩 2015.7.4. 次は左目 2014.2.10. 退院決定 2014.2.11. まあ、手術と言っても大袈裟なものではなく、水晶体を収納している袋に生じた濁りをレーザー光線を照射して除去(つまり、濁っている袋の真ん中部分だけ除去)するに過ぎないもので、パチッ、パチッと何回かレーザー光線を照射されて終わりというものです。 詳しくは、下記<参考>をご参照下さい。小生が下手な説明をするまでもなく、お医者さんが解説して居られます。 <参考>後発白内障 要は、白内障の手術(眼球内の水晶体を人工のプラスチック製の水晶体に入れ替える手術)を受けた後に、水晶体が収まっていた袋部分に何らかの原因で濁りが生じて、白内障と同じように物がみえにくくなる病気である。 濁った自身の水晶体は人工水晶体に取り替えられているが、水晶体を収める袋までは取り替えはできない。患者自身の袋があるから、人工水晶体を固定して眼球内に収めることが可能になるのである。この袋がなければ、人工水晶体を患者の眼球内に取り付け、固定して置くことが不可能という訳である。レンズの方が人工の物になっても、それを覆っている袋の膜は患者自身の組織の一部であるから、濁り・曇りなどの病変が生じることもあるという次第。で、レンズの中心部に近い部分の袋を破いて穴の開いた状態にするという訳である。 半透明の網か薄い膜が掛かったように見えているのが、レーザーをパチッと当てられた部分から、何処かへ吹き飛んで消えて、その部分がすっきりと見えるようになる。パチッと当てられるごとに網目部分が消えて行くというか、袋の穴が大きくなってスッキリ見える部分の面積が広がって行くのがよく分かって、その旨をお医者さんに告げると、「へぇ~分かりますか。」と感心したと言うか感じ入ったような風に仰っていました。 目の奥を覗く、と言うのは「人の心の内を読む」比喩で使われたりもするが、この場合、医者は、目の奥ではなく、目の入口近くの水晶体収納袋を見て居るに過ぎないのであるから、小生の「感じ」や「心」までは当然には見えないのでありますな(笑)。それにしても、このケースでの医者と小生とは面白い対置関係である。相互に顔を突き合わせて、眼科検診用の器具を間に挟んで、至近の距離で、医者は膜を外側から、小生はそれを内側から眺めているのですな。医者は光の当たる側から、小生は逆光でそれを見ているのである。 ここまで書いて来て、眼球の中のレンズ(水晶体)の膜を見ている小生は、レンズを通さずにそれを見ていることになる。物は目で見ると言うが、この場合、レンズは「見る側」ではなく「見られる側」。してみれば、網膜の黄斑細胞の方から脳の中の視覚中枢に至るまでの部分のことを目と言うべきであるのかも。眼球の水晶体は眼鏡のレンズと変わらず、水晶体の袋は眼鏡フレームに過ぎないということになる。もし、これらも目と言うなら眼鏡も亦「目」と言わなくてはならないことになるのではないか。 とまあ、でたら「目」なことを思ったり、考えたりしているうちに「手術」は終了。手術前に瞳孔が開きっぱなしになる目薬を点されたので、その効果が消えるまでの暫くの間は、右目の視力が回復したのかどうか心もとない心地でしたが、今はスッキリ、ハッキリになっています。 ただ、右目だけで物を見ると水平に引かれた直線などはゆるやかに波打って、少し歪んで見える。乱視かと思ったが、乱視は縦線と横線で二重に見える部分があったり、無かったりする症状。加齢黄斑変性は縦横の格子模様が中心部で盛り上がるような感じで歪んで見える症状。その何れでもないようだが、網膜の何らかの変状であり、眼鏡で矯正できるものではないそうな。 今の処、右目だけのことで、脳の補正作用も働いて、両目で物を見ている限り、殆ど違和感もなく、日常生活に何の支障もないから、放置して置きましょう。 と言うことで、後発白内障では掲載できる関連写真もありませぬ。花園ラグビー場の写真でも掲載して置くこととします。 少し古い写真です。2014年11月19日撮影のものです。現在のラグビー場はまだこのようには色づいてはいません。(花園ラグビー場) 次の写真も2014年10月18日撮影の古い写真です。 何やら実を付けていますが、名前が不明ということで、ブログに掲載せぬままに放置してきた写真です。名前ご存じの方が居られましたらご教示賜れば幸甚に存じます。(名前不詳)どさくさに まぎれ示すは もみつ葉の 青き実の木の 名をぞ知らむと (無知麻呂)(同上)<追記>これはサルスベリでした。小万知さんから教えて戴きましたが、 言われてみれば確かにそのようです。(2015.9.20.)
2015.09.18
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本日は銀輪散歩で見掛けた花などです。 先ずは、秋らしい花から。 クズです。(葛) 真葛原 なびく秋風 吹くごとに 阿太(あだ)の大野の 萩の花散る (万葉集巻10-2096) とくれば、次は萩の花ですが、ヌスビトハギで代用です。 白内障の目で見れば、ヌスビトハギも立派な萩です。 ヤカモチの目、先般、左目が後発白内障ということでレーザー照射で濁りを飛ばす治療を受けたばかりですが、今度は右目が同じ症状に。 この18日に右目の治療をすることとなりました。(アレチノヌスビトハギ) その治療を受ける病院の庭にあったのがシマトネリコの木。 独特の実が生って、花のようでもありました。(シマトネリコ) さて、分からぬと言えば、この花もそうです。 先日、ゼフィランサスの花をネットで見ていて、ハブランサスはゼフィランサスのように上向きには咲かず、斜め又は横向きに咲く、ということを知ったばかりであったので、これはハブランサスかも、と思いましたが、イヌサフランかも知れない。 まあ、花もこうなるともうヤカモチの手に余るのであります。(ハブランサスそれともイヌサフラン?) イヌサフランかもと思ったりしていると、イヌではなくネコが寄って来ました。ネコサフランである筈がないだろう。(ネコが寄って来た。) イヌサフランのそばにはびこっていたのは、コニシキソウ。こいつの大きいサイズのがオオニシキソウであるというのは、先日小万知さんから教えて戴いた。小生の庭にも時々はびこるのがこのコニシキソウ。外来の嫌われ者の雑草である。(コニシキソウ) 嫌われ者の外来植物と言えば、このワルナスビもそうですな。 このように、しおらしく草むらに潜むようにしているのは、最初だけ。いつの間にやら一面に広がってしまう旺盛な繁殖力の草である。(ワルナスビ)。 ワルナスビをけん制するように咲いているのはスズメノヒエ。(スズメノヒエ) 上のは未だ若い穂と見えて、直立しているが、やがて下のようになります。(同上) そんな中で、ひと際背が高く、立派な穂を付けているのが、多分イヌビエ。(イヌビエ?) 立派な髭を生やした奴も居る。種類が違うのか。 今度は、ネコが現れなかった。絶対にネコビエではないということである。(同上) まあ、イヌビエであるのかどうかは定かには存じ上げぬが、一応イヌビエであるということにして、そのイヌの下に見えているのがカヤツリグサである。(カヤツリグサ) カヤツリグサは水際に勢力を張る植物。直ぐ先は池になっている。 池の中には水中植物の藻が勢力を伸ばしている。(藻) 花を尻取り風に追っかけていたら、とうとう水中にまで達しました。 水入りです。 こういう場合は、話題を転じなければならないのであるが、花散歩とあってはそうも行かないので、再び丘に戻って、白い小さな花を。(名は知らぬ白い花) 何という名の花か知らない。よく目にするような気もするが、野草の名は知らぬことが多いですな。秋の野の 繁みに咲ける 白き花 知らえぬ名をぞ われにし告(の)らめ (偐家持) <追記>この花は高三郎だそうです。(下記小万知氏コメント参照)
2015.09.15
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偐万葉・ひろみ篇(その5) 本日はシリーズ第242弾、偐万葉・ひろみ篇(その5)であります。 <参考>過去の偐万葉・ひろみ篇はコチラ ひろみちゃん8021氏のブログはコチラ 偐家持がひろみの郎女に贈りて詠める歌18首ほかつれづれに 折り炊く柴の 戯れ歌の 笑ひもうれし 忘れし頃に (娯鳥羽院) (本歌)思ひ出づる 折りたく柴の 夕煙 むせぶもうれし 忘れがたみに (後鳥羽院 新古今集801)うちひさす 都大路の ならまちに しっぽ出したは 女狐なるか (河内の狸)ならまちの みちはひろみか 気もゆるみ 隠せる尻尾 出でにけるかな (猿沢の猿) (注)ひろみか=「広みか(広いからか)」と固有名詞「ひろみ<の郎女>」 とを掛けている。これなりと しかもしかとぞ 見たりける 蓋にしかかる 狐の尻尾 (大和の黒猫) (注)蓋=訓みは「ふた」と「かさ」の両方あるが、ここでは「かさ」。 「ふた」と訓めば「マンホールの蓋」のみを指すが、「かさ」と訓め ば「かさにかかって」というニュアンスも含まれると共に、三笠山 (御笠山)とも音で響き合うこととなる。 (ならまちのマンホール)うぐひすの 塚に眠れる ひとたれと 知らじやしかと 若草の山 (鹿少納言)半夏生 解せぬ化粧や 白き葉は 虫が好かぬと いふことなるや (半疑心) (注)半夏生の葉が白くなるのは虫がつかぬようにということかとも思いました が、花の時期に合わせて白くなるようですから、偽花。虫を呼び寄せるた めの花のつもりかも知れません。してみれば、かく詠むべきか。 半夏生 解せる化粧や 白き葉は 花と見せてや 虫呼ぶならし (半可通) (半夏生)里山の ところも狭(せ)にと わすれ草 咲きてか囲碁に 行くをぞ忘る (忘家持) (本歌)わすれ草 わが下紐に付く 香具山の 故(ふ)りにし里を 忘れむがため (大伴旅人 万葉集巻3-334) (ヤブカンゾウ)夜もすがら ものおとすれど あけもえず ねやのひまでは にゃんともならず (黒猫のタンゴ) (本歌)夜もすがら ものおもふころは あけやらで ねやのひまさへ つれなかりけり (俊恵法師 千載集765 小倉百人一首85) (黒猫・タロ)採ったとて 否とは言はじ 稲田桃 鳥も食はねば 朽ち落つぞ惜し (桃田稲太郎)真葛原 行くはあれども 銀輪の 届かぬ高み 天空農園 (偐葛餅) (大阪駅ビル11階から見る梅田スカイビル)見るからに 大和の真弓 カメムシの 止まりてあれば いなと言ふまじ (亀家持) (本歌)み薦(こも)刈る 信濃の真弓 わが引かば 貴人(うまびと)さびて いなと言はむかも (久米禅師 万葉集巻2-96) (マユミとカメムシ)いにしへに ありけむ人も かく来しや 生駒聖天 石根(いはね)踏みつつ (石段家持) (本歌)いにしへに ありけむ人も わがごとか 三輪の檜原に 插頭(かざし)折りけむ (柿本人麻呂歌集 万葉集巻7-1118) ひろみの郎女が追和せる歌1首楽せむと 車で参る ありがたさ 石段怖き 生駒聖天 (宝山寺<生駒聖天>)壺に落つ 蟋蟀(こほろぎ)たすけ わが庭は 秋づくらしも 村雨の朝 (偐虫麻呂) (本歌)庭草に 村雨降りて こほろぎの 鳴く声きけば 秋づきにけり (万葉集巻10-2160) (水に落ちたコオロギ)それ秋は 萩と言ふべし 石山に 今ぞ咲きたり 月待ちがてに世を拗ねて 玉藻流れ藻 流るとも よに瀬田川の 堰は越えまじ (清中途半端) (本歌)夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ (清少納言 後拾遺集940 小倉百人一首62)をみなへし 咲くらむ野辺を 見むよしも なきや秋雨 しくしく降れば (本歌)ひぐらしの 鳴きぬる時は 女郎花 咲きたる野辺を 行きつつ見べし (秦八千島<はたのやちしま> 万葉集巻17-3951)窓際も 恋ひしかるらん はや十年(ととせ) 窓の外のみ 走りてあれば (窓定外家持) (窓際太郎)山吹の 咲きよそひたる 妹が庭 とひに行かめど 坂の嶮(けは)しみ (坂市皇子) (本歌)山振(やまぶき)の 立ち儀(よそ)ひたる 山清水 酌みに行かめど 道の知らなく (高市皇子 万葉集巻2-158) (秋に咲いた山吹)<脚注>掲載の写真はひろみちゃん8021さんのブログからの転載です。
2015.09.13
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本日は大学の同窓会・青雲会の囲碁サークルの例会の日。青空の好天気。MTBで出掛けました。 着くのが少し早過ぎたので、いつもの喫茶店・なかおかで早めの昼食を済ませた後、中之島公園をぶらぶら銀輪散歩をしてから、会場の青雲会交流センターへと向かいました。水晶橋の一つ東(上流)側の鉾流橋で堂島川を渡り、中之島公園へ。(水晶橋。鉾流橋上から西を望む。川は堂島川。) 中央公会堂を回り込んで大阪市庁舎の横から土佐堀川沿いの公園内に入り東へ。振り返ると、淀屋橋が見えている。川沿いにはカフェテラスやビヤガーデンなどがある。(中之島公園・奥の橋が淀屋橋。川は土佐堀川。)(栴檀木橋) 栴檀木橋という名の由来なのか、橋のたもとに栴檀の木がある。 その栴檀の木の下に三好達治の詩碑がある。この詩碑の写真は以前にも掲載したような気がするが、もしそうなら再掲載ということとなります。(三好達治詩碑) 栴檀木橋の下を潜って上流側に行くと、こんな光景。奥に難波橋が見える。(中之島公園・難波橋遠望) この奥にバラ園がある。難波橋を挟んで東西にそれはある。 もうバラの季節ではなく、人影もまばら。 バラ園をつなぐ橋がこれ、「ばらぞの橋」。そのままの名である。(ばらぞの橋) 写真が前後しましたが、昼食を取った喫茶・なかおかの店内です。 客が居なかった訳ではありません。客が入らないように撮りました。(珈琲の「なかおか」堂島店)(小生の席からの窓外の景色) 中之島公園散策を終えて会場へ行くと、丁度、世話役の山〇氏が来られた処。 会場で、碁盤・碁石の準備をし、他の出席者の来場を待つ。待つ間に山〇氏と1局。 対局中に、新〇氏、中〇氏が来場、隣でお二人の対局が始まる。続いて、若〇氏、銭〇氏が来場され、やはり両者の対局が始まる。 山〇氏との対局は4目差で小生の負け。他の二組の対局が未だ続いているので対戦相手のチェンジが出来ない。それで、山〇氏ともう1局。これも負け。 続いて、銭〇氏と対戦。これも負けて、本日は3戦全敗。負けはしましたが、内容的には満足と言うか、面白い碁になり、楽しめました。 帰途、大阪城公園に入り、太陽の広場前を通ると、何やら賑やかな踊りの音。何事かと覗くと、若者の集団の踊りのパフォーマンス。凄い熱気です。 写真は、それが丁度終わった処で、踊りの雰囲気は残念ながら撮影できませんでした。帰宅して調べると「こいや祭り」というイベントでした。今年が第16回というのだから、結構以前からやっている催しのよう。こういう方面には無関心(吾事に非ず)ですから、今日初めて知った次第。(第16回こいや祭り・大阪城公園太陽の広場)
2015.09.12
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今月に入って、お天気が安定せず、銀輪散歩も控えめでしたが、今日は久々に好天気。石川自転車道を走って来ました。 午後1時半前後にMTBで自宅を出発。往路は「上ツ道」と小生が勝手に呼んでいる「山側の道」を走って、柏原市役所前で大和川を渡り石川自転車道へ、復路は「下ツ道」と呼んでいる恩智川沿いの道を走っての往復3時間半程度の軽い銀輪散歩でありました。 上ツ道は、心合寺山古墳、八尾市立歴史民俗資料館の前の道を行き近鉄信貴線にぶつかった処で服部川駅の東側で線路を越えるコースと西側で越えるコースとに分かれるが、今日は、坂を下って西側で線路を越えるコースを取りました。線路を越えて道なりに南へ、黒谷の集落に入った処で右折し、坂を下って西へ。国道旧170号に出て、これを左折し南へ。そのまま、道なりに南へ直進するのが、距離的には近道で、これを「中ツ道」と呼んでいるが、車の通行も多いので銀輪には快適な道とは言えない。南高安小学校前で国道旧170号と別れて右折、西へ。恩智川に出て、左折すると喫茶ナナのあった場所である。元喫茶ナナを横目に恩智川沿いを南へ。恩智川沿いの道は「下ツ道」であるから、往路も途中からは「下ツ道」を走ったことになる。 スーパー万代で恩智川沿いの道は終了、国道旧170号に合流となる。近鉄大阪線安堂駅前で踏切を渡り、JR関西線を跨線橋で越えると安堂交差点。大和川に到着である。 安堂交差点の西側の人道橋で大和川を渡ると石川の堤防上の道となる。ここから河川敷に敷設された自転車道に入る。後は脚と相談、富田林まで走るか、その先まで行くか途中で引き返すかは、その日の気分次第と言うことになる。 今日は千早川と石川との合流点の少し先(上流)まで行って引き返しました。 <参考>銀輪花散歩・石川畔と錦織公園の桜 2015.3.31.(石川自転車道への入口付近から二上山を望む。) 石川河口付近から眺める二上山はお気に入りの眺めでもある。 手前の丘陵は玉手山丘陵。(石川自転車道 奥に見えているのは玉手橋)(ヒガンバナの蕾) 河川敷の木立の下に早くもヒガンバナが。未だ蕾ですが、数日もすれば「いちしろく」咲くのでしょう。路の辺の 壱師の花の いちしろく 人皆知りぬ 我が恋妻を (万葉集巻11-2480)石川の 壱師の花の まだ含(ふふ)み 人にな知れそ 隠妻(こもりづま)はも (偐家持)(石川河川敷・富田林市新堂付近・奥の橋は石川サイクル橋)(石川) 帰途は恩智川沿いを近鉄奈良線東花園駅前まで走り、花園ラグビー場・花園中央公園経由で帰宅しましたが、ここでは写真を撮っていない。 ということで、8日の銀輪散歩で花園中央公園に立ち寄った際に撮影した写真を少しばかり掲載して置きます。 先ず、芝生に生えていたキノコです。名前は知らない。(キノコ) 少し目線を低くすると違った景色になる。(同上) 蟻になった気分(笑)。 次は、目線を上げる。エゴノキの実である。 万葉に登場する「知佐(ちさ)の花」はこの木の花のことというのは以前にも触れているので多くは語らないで置きましょう。 <参考>エゴノキ(ちさ) 2007.8.11. エゴノキ(ちさ)の花が咲いた 2008.5.6. チサの実のさはにぞなれる 2013.10.24.(エゴノキの実)
2015.09.11
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こちら大阪は今日は好い天気です。青空も少し覗いている。風もさやかに吹いている。銀輪散歩に出掛けるには丁度良い気候でしょうか。 栃木県など大雨による被害が続出しているようですが、大きな被害にならぬことをお祈り申し上げます。大阪も昨日までは雨絡みのお天気続きで、昨日は囲碁例会も欠席するなどで、銀輪走行もなし。 と言うことで、何と言って記事にすべきこともないのでありますが、昨日は重陽の節句であったので、そのことから。陰陽思想では奇数は陽の数。月日で陽が重なる日は陽の気が強過ぎるため不吉とされ、それを払う行事が「節句」であったが、やがて陽の重なりを吉祥と考えるようになり、それを祝うのが節句の行事となったとのこと。 人日(1月7日) 上巳(3月3日) 端午(5月5日) 七夕(7月7日) 重陽(9月9日)の5節句の一つであるが、重陽の節句は、他の節句に比べて、今は影の薄い存在になっている。 草の戸や日暮れてくれし菊の酒 (芭蕉「笈日記」元禄4年) (節句など無縁の草庵ながら、日暮れての訪問客から貰った酒を、菊の酒として戴きましょう。) 長寿を願い、酒に菊花を浮かべて飲んだようです。菊の節句とも呼ばれる由縁である。高校の英語の授業の副読本・小泉八雲のKWAIDANで、重陽の節句は「Chrysanthemum Day」と言うのだということを知ったと記憶するのだが、何んという作品の、どのような文脈の中で出て来たものであったのかは、全く思い出せないから、記憶違いかも知れない。 さて、閑話休題。友人の岬麻呂氏からの新しい旅便りがありましたので、紹介して置きます。旅便りに先立って先月末にメールで4点の写真が送られて来ていたのですが、遅ればせながらのブログアップであります。(天草・牛深ハイヤ大橋)(下天草・崎津教会)(旅・岬めぐり報告175) 旅は8月25日~28日で、熊本、天草、南阿蘇、高千穂峡、天岩戸神社、田原坂、菊池渓谷、阿蘇山などを車で廻られたようです。小生が高岡・氷見を自転車で走っていた時期と重なりますな。(高千穂峡)<追々々記 2015.9.13.> 岬麻呂氏より、下記ビッグジョン氏の「この下でボートを漕いだことがある。」というコメントをご覧になって、ご自身もここでボートに乗ったことがある、と下掲の写真を送って来て下さいました。(同上 2008年4月撮影) 右手(めて)に血刀、左手(ゆんで)に手綱(たづな)~♪ なんぞということはなけれど、雨は降る降るの田原坂ではあったようです。(田原坂) 以上です。午後は少し近所を銀輪散歩して、と思っていましたが、この記事を書いている間に、空は曇り、雨が降り出して参りました。今日も銀輪散歩はお預けですかな。(田原坂資料館) 結局、銀輪散歩には出掛けず仕舞いでしたが、先程メールBOXを確認すると、当ブログ記事をご覧になった岬麻呂氏より、追加で上の田原坂資料館の写真メールが届いていました。 同氏のご感想は、「雨は降る降る、人馬は濡れる♪」なんぞという田原坂の歌は、若い人には通じまい、というものでありましたが、当ブログ読者には「若い人」は殆ど居られぬ(気の若い人は別として)ことと存じますれば、問題なしかと(笑)。それはともかく、追加写真も折角のご好意ゆえ、追加掲載して置きます。(追記) このブログ記事を書いていた朝には、左程のこともなかったのに、茨城県常総市の鬼怒川の堤防決壊はあれよあれよと言う間に大変な災害になりました。その他の地域でも被害が出ているようですが、被災された方々には心よりお見舞い申し上げます。救助を待って居られる方が一人残らず助かりますように。(追々記) <参考>フォト蔵の岬麻呂写真アルバムはコチラ 岬麻呂旅便り関連記事一覧目次はコチラ
2015.09.10
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偐万葉・ローリングウェスト篇(その1) 本日は、偐万葉・ローリングウェスト篇であります。 ローリングウェスト氏は今年7月19日に当ブログ記事に初コメントを戴き、その返礼訪問をさせて戴いてより、ブログ交流が始まりました。 同氏からも歌がコメントに付されるなどもあって、この2ヶ月足らずの間に歌の数がそこそこになりました。と言うことで、シリーズ第241弾にして初登場のロ氏の偐万葉と相成りました。 例によって、ロ氏は偐万葉では「呂麻呂」と呼ばせて戴くことに勝手に決めまして候。 <参考>ローリングウェスト氏のブログはコチラ。 偐家持が呂麻呂に贈りて詠める歌13首並びに呂麻呂が詠める歌10首川崎ゆ とひ来しませる あらたしき どちは同期と 知らくしよしも (注)ロ氏のブログ開設は2007年4月29日で、偶然にもけん家持のそれと同日で した。 (会津の田園風景)色々と 思ふことあり この夏の 安保法制論議 危ふからずや九条ねぎも 許さざるなり 集団的 自衛権なる 解釈改憲焼けあとに さきし花なり ななととせ へたるこの夏 咲き継げカンナ 呂麻呂が返せる歌3首春頃の 強気と自信は 何処へやら 支持率落ちて 低姿勢自民 (早く質問しろよ・今は封印)九条ネギ 憲法違反が 煮立っても 鍋に蓋すりゃ 食えるはず (安倍奉行)勉強会 沖縄刺激の 百田さん おじゃんになれば 「永遠のゼロ」 (海賊と呼ばれた男) (東京大空襲) 呂麻呂が贈り来れる歌1首炎暑日は 頭をひねり 湧き出づる 山盛りの歌 山頭火かな (偐山頭火が追和せる歌1首) 猛暑日は プールだ水だと 大騒ぎ 孫の笑顔に 腰痛(こしいた)忘れ <惚山頭炎> 偐家持が追追和せる歌2首炎天は 走らぬものと 家にあり 三十一(みそひと)文字を つづる児やたれ体(てい)よくも わがなす歌を 申さめど 暑きに過ぎて だれてぞありぬ (本歌)紫は 灰さすものぞ 海石榴市(つばいち)の 八十のちまたに あへる児やたれ(万葉集巻12-3101) たらちねの 母が呼ぶ名を 申さめど 路(みち)行く人を たれと知りてか(同巻12-3102) 呂麻呂が贈り来れる歌1首橿原に 都建てたる イワレヒコ 船出の耳津 5月訪ねし 偐家持が返せる歌1首耳川の 美々津は耳に 聞きしかど まだふみやざき 道はた遠み (神河内長髄彦<かむかはちながすねひこ>) (注)道はた遠み=「道が遠いので」の意。「た遠し」の「た」は接頭語。 例:た易(やす)き、た迸(ばし)る 呂麻呂が贈り来れる歌1首盆過ぎて 戦後の節目 70年 覆水盆に 返らずの夏 偐家持が追和せる歌2首ななととせ かへらぬぼんの ふくすいも むだにはすまじ かたりつぐ夏すぎたるは みなとりかへし つかざれど ふまへてあすへ けふをあゆまな 呂麻呂が贈り来れる歌1首はなてんは 懐かしレトロの アーケード 気さくなおばちゃん 浪速の華よ (12年前の関西勤務経験者、愚歌の放出) 偐家持が追和せる歌1首めもはなも てんにやならむ 難波女(なにはめ)は はなしはじめて をはるを知らず (はなてんをのこ) (放出操車場・当ブログより) 呂麻呂が贈り来れる歌1首駅前の 雑多な景色 懐かしき 時代の流れ いたしかたなし 偐家持が追和して詠める歌1首ごたごたと ありてちかしき まちなみの いづくやゆきし 今の大阪崩(く)ゆるなく 峰なす岩を 畏(かしこ)みと 恋ひてまた来し 大崩山(おほくえやま)に 呂麻呂が返せる歌1首失敗で 崩れた気持ち 立て直し 日向の復讐 大願なし得(う) (大崩山) 呂麻呂が贈り来れる歌1首懐かしき 瀬田の唐橋 思い馳せ 天下制する 要害の地に 偐家持が追和せる歌1首。唐橋の 往き来(く)見つつや いにしへに 恋ふるわれはも 瀬田の流れ藻 (瀬田の唐橋・当ブログより)(脚注)掲載の写真は「当ブログより」とあるものを除き、ロ氏のブログからの 転載です。
2015.09.08
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本日はマンホールの記事とします。 銀輪散歩などで撮影したマンホールの写真です。1.守口市 周囲に配されているのは市の花であるサツキ。真ん中のモノが何か分からなかったが、昭和60年10月に完成した京阪守口駅前再開発のシンボル「カリオン」とのこと。2.茨木市 バラの花(市の花)と樫の木(市の木)を交互に配したデザイン。3.高槻市 中央に摂津峡、左に欅(市の木)、右に卯の花(市の花)を配したデザイン。4.奈良市 これは(その3)で紹介したもののカラー版です。鹿と桜の図案。(その3)では一重の桜になっていると書きましたが、「八重桜」で、やはり「いにしへの奈良の都の八重桜・・」の歌を踏まえたもののようです。5.桜井市 これは市章のみのシンプルなデザイン。規格品ですな。6.大津市 上から、ユリカモメ(市の鳥)、観覧車、ヨット、琵琶湖大橋、ミシガン船、花火大会、びわ湖噴水、レガッタ、ヤマザクラ(市の花)と何とも盛り沢山な内容の図柄。平成10年10月1日の市制施行100年を記念して公募したデザインの中から選ばれたものだそうな。観覧車はもうなくなって過去のものとなっていますが、北陸方面に旅行しての帰途、湖西線でこの観覧車が見えると間もなく西大津駅(現大津京駅)・京都駅だ、と帰って来た気分になったものであった。 大津市のマンホールは異なったデザインのものを(その3)でも掲載しています。7.新発田市 中央に市の花のアヤメ、外周に市の木のサクラをあしらった図案。 右の形状のものは親子マンホールと言って、大小口径の二重蓋になっている。 8.新潟市 左は、松の木と日本海の波と稲穂の図案。右はチューリップ。それを取り巻いているつる草のような図案は日本海の波を表現しているのでしょうか。新潟市のマンホールは(その2)と(その4)にも掲載されています。 (旧岩室村) (旧豊栄市)9.氷見市 氷見市のはブリの図案。左はモノクロ版、右はカラー版。 左は、上の図案マンホールの親子マンホール版。右は富山湾と立山連峰でしょうか。 10.高岡市 左は、渋谿の崎の風景、立山連峰を背景に女岩と岩崎鼻の岬を配した、雨晴海岸からの眺めの図案化です。右は、規格品タイプ。 11.余市町 左は規格品タイプ。 右は、大きな林檎の中にカモメと林檎の花が描かれている。左の魚は鮎。余市川は鮎が遡上する北限の川とされる。 12.小樽市 左は、ラッコの親子のデザイン。小樽水族館には、かつてはラッコがいて、人気者になっていたということか。 右は、小樽総合博物館(旧北海道鉄道記念館)の前にあったもの。博物館建物を背景にSLが描かれている。 左は、小樽土木現業所の銘がある。描かれている建物は、札幌にある北海道庁旧本庁舎である。 右は、国土交通省北海道開発局の銘がある、規格タイプ品。これも小樽市内で撮影したもの。 <参考>マンホール関係過去記事はコチラから。
2015.09.07
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昨日5日は、月例の墓参の日。 墓参の行き帰り、寄り道の花散歩などなど毎度変わり映えのせぬ記事であります。 先ず、シェフレラの実。 これは墓へ行く途中の民家の軒先に置かれている鉢植えなのであるが、先月に撮影してから約1ヶ月、随分と色付き、既にかなりの粒が下にこぼれていました。(シェフレラの実) 緑、黄色、赤黄色、赤、黒と実の色は変化して行くようですが、それぞれの実によってその変化の進行具合が異なるようで、色が混在して楽しいお菓子のようでもあります。 (8月1日にはこんな状態でした。) 次は、いつもの寺の門前の言葉です。(今月の言葉)静かに 己(おのれ)を 悲しむ こころより 真実の 力は生(うま)る ーー武内了温ーー <参考>武内了温(柘榴) 寺の向かいにあるザクロの木。実が更に大きくなり、いい色になって来ています。その近くにある柿の木の切株に生えていたサルノコシカケと思しきキノコはこんな風になっていました。(サルノコシカケ) 上は黒く変色したサルノコシカケですが、以前見たもの(下掲写真)と場所が違っている。新しく生えて来たもののよう。(7月4日はこんな風でした。) 7月4日のコシカケは下のように変化していました。 サルノコシカケのツブレカケと洒落てみましたが、どうしてこんな風になってしまったのでしょう。寄生植物であるキノコに寄生する奴があるのだろうか。粉を吹いたようになって崩れかけているみたいです。 コフキ(粉吹き)サルノコシカケというのがあるようだが、まさかそれではあるまい。これではサルモコシカケデキンタケである。(これはサルノコシカケのツブレカケ) ヤブランも実をつけていました。愛(かな)し妹を 何処(いづち)行かめと 山菅の 背向(そがひ)に寝しく 今し悔しも (万葉集巻14-3577)(ヤブランの実) ヤブランは万葉植物「山菅(やますげ)」とされている。ジャノヒゲ、リュウノヒゲなども含んで、これらの総称として「山菅」と呼んだよう。風に吹かれて葉が勝手な方向に向くことから、恋に思い乱れて、とか背中合わせに寝たことなどの比喩として使われたよう。あしひきの 山菅の実の 見し日より 止まずも妹に 恋ふるわれかも (菅家持)(本歌)あしひきの 山菅の根の ねもころに われはそ恋ふる 君が姿に (万葉集巻12-3051)(アベノハルカス遠望) 雨が近いのか大阪平野は霞がかかったよう。それでもアベノハルカスがこのように墓から見えていました。このビルが高さ日本一を誇っていられるのもアト少し。東京駅前にこれをハルカに上回るノッポビルが数年の内に建設されるとか。(ショウリョウバッタ) 今回もショウリョウバッタがやって来ました。今回は枯葉色の奴。 バッタも秋のファッションに衣替えでしょうか。 墓の前の道に咲いていたのはゼフィランサス。白い花のこれはタマスダレとかレインリリーとも呼ばれるようですが、花の時期の長い植物である。 (ゼフィランサス<タマスダレ、レインリリー>) 墓参の帰り道に辿った山裾の道は、綺麗に草が刈られていましたが、このように花を刈らずに残してくれている。粋な計らいである。花も心なしか喜んでいるようでひと際元気に咲いているように見える。(同上) ピンクのゼフィランサスも。 西風ゼピュロスの花(アンサス)というのがその名の由来であるが詳しいことは忘れた。(ゼフィランサス) ヤカモチ的にはやはりゼフィランサスよりもオミナエシである。 旧仮名遣いでは「をみなへし」ですな。(オミナエシ)わが郷(さと)に 今咲く花の 女郎花 堪(あ)へぬ情(こころ)に なほ恋ひにけり (万葉集巻10-2279) (同上)
2015.09.06
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(承前) 9月2日の健人会の昼食会の続きの一人歩き・石山寺散策も今回で完結です。 前ページ記事末尾の八大龍王社の説明書きにあった尻掛石がこれです。(尻掛石) 歴海(れっかい)和尚というのは存じ上げぬ名であるが、石山寺縁起絵巻に登場する当石山寺の僧にて、その昔、この岩の上に坐して孔雀経(仏母大金耀孔雀明王経<ぶつもだいこんようくじゃくみょうおうきょう>)を読経して八大龍王を供養した処、これに喜んだ諸竜王は和尚の読経に聴き入り、和尚にすっかりなついたと言うか、和尚を敬愛したと言うか、恰も彼の奴僕のようにつき従って、終始彼を守護したとのこと。(同上) この傍らから上へと坂道が通じていたので上ってみた。道脇には、「西国〇番」と記された石塔が一定間隔で並んでいる。段々と番号が若くなって行く。ああこれはと途中で気が付きましたが西国三十三所巡りのお手軽版でした。 またしてもヤカモチ、出口から入って、入口から出る、という逆さま入場でありました。本来の入口はコチラ。(補陀落山三十三ヶ所入口) 石山寺を出て、瀬田川の川辺の道「瀬田川ぐるりさんぽ道」をぶらぶら唐橋の方に向かって歩く。唐橋まで1.4km、瀬田川洗堰まで4.4kmと書いてあったかと。瀬田の唐橋と下流の瀬田川洗堰の橋とを結び、瀬田川両岸を周遊できるように開設されている。記憶が正しければ、この「ぐるりさんぽ道」をひと回りすれば12~3kmあるということになる。(瀬田川ぐるりさんぽ道)(同上) 京阪石山寺駅前(下掲写真の右に見えている緑地が石山寺駅のある辺り)を過ぎた辺りで振り返ると、奥に遠く湖南アルプスの山々、手前右手に石山寺のある山が見える。(同上) 足元に目をやると名前は何とも分からぬが、小さな白い花をつけた草が岸辺の草むらのあちらこちらに群生している。何という草花なんでしょう。何やら万葉風の雰囲気を持っているが、外来植物であったりもするから、油断(笑)は出来ない。(何とは名は知らね、万葉風の花でもあります。) <追記 2015.9.8.> 小万知さんからオオニシキソウだとご教示戴きました。(同上) 川面をゆっくり流れて行くのは藻。 万葉には「藻」を詠った歌は70首ほどあるようだが、特定のものを示すものはなく、海水産も淡水産も含め、水中植物の総称として「藻」は使われている。殆どは「玉藻」という言葉を使っている。単に「藻」というもののほか、菅藻、沖つ藻、辺つ藻、いつ藻(五百個藻)、川藻、靡き藻、名告藻(莫告藻・なのりそ)などの表現がある。「流れ藻」というのは出て来ない。 藻は、万葉では心の内奥に潜むエロス(官能)やタナトス(死への衝動)を象徴する植物である。「流れ藻」はこれらとは馴染まないのかも知れません(笑)。(瀬田川の流れ藻)流れ藻の いづく行くらむ けふあすは うしともよとも 知らぬかはなれ (偐家持)(注)うしとも=「憂し・とも」と「宇治・とも」の掛詞 瀬田川は下流で宇治川と名を変え更に下流で淀川となる。 よとも=「吉(よ)とも」と「淀も」の掛詞 さて、こちらは「流れている」のではない。「流している」のである。大学などのボート部の基地が瀬田川沿いにはあるようで、何艇ものボートが琵琶湖の方から次々と帰って来るのでありました。「今日は今津か長浜か」ではなかったよう。「急がばくぐれ瀬田の唐橋」といった処か。ボートを見やりながら岸辺のベンチに暫く休み、川面の景色に目を遊ばせる。(ボートの青年) 名神高速道と東海道新幹線の高架下をくぐると、瀬田の唐橋が見えて来ました。(瀬田の唐橋) 唐橋の下をくぐった処で道路に上がり、JR石山駅へと向かう。 京阪石山駅とJR石山駅は隣り合っている。 往きでご挨拶した芭蕉さんにもう一度ご挨拶してから、JR改札口へ。(再び、芭蕉翁) 京都駅で近鉄特急に乗り換え、西大寺へ。ここで近鉄奈良線に乗り換えて帰宅。以上で、健人会の例会、付録の石山寺散策の記、完結であります。=完=
2015.09.05
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(承前) 三十八社を回り込んですこし上ると校倉造りの経蔵があり、その脇に紫式部の供養塔と芭蕉の句碑が並んで居る。(経蔵)(同上・説明板)(紫式部の供養塔<左>と芭蕉句碑<右>) 紫式部と芭蕉。余り似合わない二人であるが、どちらも石山の地にはゆかりの深い人物であるから、まあ、このように並んでいてもいいのではある。一方が供養塔で他方が句碑とアンバランスなのはこの二人のミスマッチを象徴しているようでもある。あけぼのは まだむらさきに ほととぎす 題詞には「勢田に泊りて暁石山寺に詣、かの源氏の間を見て」とあるから、紫式部の名を意識しつつ、枕草子の「春はあけぼの。・・紫だちたる雲の・・」をも踏まえた句である。まあ、小生の「ミスマッチ」というコメントに抗議してでもいるかのような句でありますな。はつ秋の まだ昼下がり 石山に 鳥も鳴かねば 獺(かはうそ)もなし (偐家持) 今回の一連の記事の冒頭部分で記した「獺の祭見て来よ瀬田のおく」という句をも踏まえて偐家持も1首でありました。 芭蕉句の「瀬田の奥」は信楽川が瀬田川に流れ込む大津市大石地区付近(鹿跳橋の下流、佐久奈度公園付近)のこととされるから、石山寺からは5kmほど更に下流の山の中。二ホンカワウソが絶滅していなかった芭蕉さんの時代の元禄時代でも、石山寺の前の瀬田川辺りでは獺の祭は見られない光景であったのでしょう。 因みに獺祭(だっさい)の候は七十二候の一つで1月16日から20日までの5日間を指す。「獺の祭」とは、獺が捕った魚を川岸に並べる習性があり、これを先祖祀りに見立てて「祭」と呼んだもの。俳句の春の季語ともなっている。 鐘楼を経て、多宝塔へと向かう。(鐘楼)(同上・説明板)(多宝塔)(同上・説明板) 多宝塔の北東にあるのが、芭蕉庵と月見亭。(芭蕉庵) 月見亭の中央には玉座という表示板が置かれていた。 玉座からは、瀬田の唐橋や遠く太神山(田上山)も望めたのだろう。 ここからの眺めは「石山の秋月」として近江八景の一つとされる。(月見亭) 多宝塔の西側には源頼朝とその乳母である亀ヶ谷禅尼の供養塔がありました。(宝篋印塔・源頼朝と亀ヶ谷禅尼の供養塔)(同上・説明板)(心経堂付近から見る多宝塔) 多宝塔の背後の高みにある心経堂へ。(心経堂)(同上・説明板) 心経堂から萩の咲き乱れる小径を光堂へと向かう。(萩の咲く小径)石山の みちも狭(せ)に咲き 萩の風 (筆蕪蕉) 萩の途切れた辺りに咲いていたのはセンニンソウ。(センニンソウ) 光堂が見えて来ました。 (光堂) 光堂から源氏苑へと下って行くと、其処にあるのは紫式部の像。(紫式部像) 源氏苑から出たところにも萩が咲きこぼれて。(また萩の花)(八大龍王社)(同上・説明板) 字数制限です。本日はここまでとします。(つづく)
2015.09.04
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(承前) 2日の記事の続編です。健人会の皆さんと別れてひとり石山寺へと向かう。石山寺を訪問するのは2008年10月以来。7年ぶりになる。門前はその後も何度か通っているが、門前を素通りしていたよう。<参考>石山寺 2008.10.25.(石山寺表境内の島崎藤村詩碑) 石山寺門前に島崎藤村の詩碑がある。 湖にうかぶ詩神よ 心あらば 落ちゆく鐘のこなたに 聴けや 千年の冬の夜ごとに 石山の 寺よりひびく読経の こえ 此処には石山寺の元茶所であった密蔵院があった(現在は石山寺内に移転)。明治26年(1892年)2月、女学校の教師をしていた21歳の島崎藤村は、婚約者のいる教え子との道ならぬ恋に悩み、職を辞して関西放浪の旅に出る。 この途次に石山寺に立ち寄り、自身の愛読していた「ハムレット」を奉納している。上の詩碑のそれは、文学界第2号に寄せた藤村の一文「石山寺へハムレットを納むるの辞」に出てくるものである。 京都、神戸、高知などを旅した藤村は5月に再び石山寺にやって来て、密蔵院に約2ヶ月滞在し、自炊生活を始める(島崎藤村「茶丈記」「春」参照)。 さて、山門を7年ぶりにくぐり境内へ。 写真説明は、説明板の写真に任せることを原則とします。読み辛い場合は写真をクリックして大きいサイズでご覧下さい。(石山寺・東大門)(説明板) 門をくぐって石畳の道を奥に行くと拝観受付所。 拝観料は600円。 本堂へと上る階段の向かい側に、先ほどの詩碑の島崎藤村ゆかりの密蔵院がある。現在は修行の道場となっていて一般には非公開。門は閉ざされていた。ということで、2008年10月に撮影した写真を掲載することとします。この時は、中に入れました。(同上・密蔵院)(同上・説明板) (密蔵院の庭) 本堂への階段の手前、拝観受付を入って直ぐの処に、くぐり岩なるものがある。普通は、このようなものは無視のヤカモチであるが、ブログの記事取材(笑)も兼ねてのものにてあれば、とくぐってみました。濡れて滑りやすくなっている上に、かがまなくてはならない狭さであるので、要注意であります。(くぐり岩) 暗くて気が付きませんでしたが、写真ではフラッシュが点灯して明るく写るので、折りたたみ傘のカバーでしょうか、どなたかの忘れ物が写っていました。(石山寺・山内案内図) では、案内図に従い、境内をご案内仕る。 本堂への矢印表示のある階段を上った処にあるのがこれらの建物。右手に毘沙門堂と観音堂、左手に蓮如堂、右奥に御影堂、正面が天然記念物の硅灰石の巨岩。(毘沙門堂<左> 観音堂<右>) (蓮如堂)(同上・説明板)(御影堂)(同上・説明板) 石山寺と言うと、この天然記念物の岩であるが、既に写真に撮っているものと思い、今回は撮影しなかったのですが、調べてみるとPCやフォト蔵のマイフォトに残っている写真はこれだけで、硅灰石そのものに焦点を当てた写真はありませんでした。 何でも一応は撮って置くのが無難ですな。(硅灰石 奥に見えているのは多宝塔 2008年10月撮影写真) 本堂は、更に階段を少し上った処にある。 石山寺は聖武天皇の勅願により、天平勝宝元年(749年)に僧良弁によって開基された寺。西国13番の札所でもある。(本堂) (同上 三十八社の前から撮影) この本堂は全景を撮影できる場所がなくて右手の一段高い場所にある三十八社のお堂の前からが何とかその大部分を収めることができる唯一の場所かと。 本堂内の源氏の間は紫式部が源氏物語を書いた場所と伝えられていますが、堂内には紫式部さんも坐して居られます。(紫式部)(この写真も2008年10月撮影のものです。)(三十八社) この後、経蔵、鐘楼、を経て多宝塔へと向かいますが、取り敢えず本日はここまでとします。(つづく)
2015.09.03
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今日は健人会の夏の部の宴会。まあ、夏の部とは言っても9月ですから秋ではあるのですが・・。この会は新年と夏とに宴席を催し、他に3~4回のゴルフ・コンペというのが会の活動の全て。ゴルフは10年ほど前からやらなくなっている小生は、新年会と夏の部の宴会にのみ参加している。 昨年は9月3日であったが、出席の返事をしながら、日を間違って欠席してしまうという大失敗をしてしまったという因縁の会である。 <参考>大失敗です 2015.9.3. 2年連続でドタキャンすれば、もう破門は目に見えている。紛らわしいのは、昨年も今年もそうなのだが、開催日が、梅田スカイビルでの囲碁例会のある第一水曜日に当っていて、習慣的行動で、つい囲碁の方に出掛けてしまいそうになるということがあるということである。今回も前夜ふとそんな気になっていたが、次の瞬間にはっと気付いたというようなことで、実は頗る危うかったのである。 夏の部は、昼席の宴会というのが恒例。今年も12時開宴である。そんなことで、いつもは、早めにトレンクル持参で出掛け、琵琶湖や瀬田川周辺を銀輪散歩してから会場に向かうということにしていたのだが、前日に見た大津の天気予報では午後2時頃以降から雨マークになって居たこともあって、銀輪散歩は諦めて、「折りたたみ自転車」ならぬ「折りたたみ傘」持参で、出かけました。会終了後にお天気次第で「徒歩」にて石山寺でも散歩してみようかという次第。 会場は石山寺と京阪石山寺駅との中間にある「新月」という料亭である。昨年も、一昨年も此処であったかと記憶する。 <参考>幻住庵へ(上)2015.9.6.(下)2015.9.7. 近鉄で京都に出て、乗り換えるべくJR京都駅への連絡通路を歩いていると目の前に徳〇氏と竹〇氏が歩いていた。背後から声を掛け、一緒に改札口へ。ホームで電車を待っていると関〇氏が現れ、4人でやって来た普通電車に乗り込む。石山で下車。京阪坂本石山寺線で石山寺へと向かう。 京阪石山駅の前には松尾芭蕉の像がある。既に当ブログで紹介済みであるが、本日の芭蕉さんの写真を再掲載して置きます。(芭蕉像<京阪石山駅前>) 芭蕉の句に「獺の祭見て来よ瀬田の奥」というのがあるが、我々は、芭蕉が暫し逗留した幻住庵に近い石山寺近くの料亭に向かうのである。(京阪石山駅にて) 坂本行き電車が出て行き、暫くして石山寺行き電車がやって来ました。我々が乗るのはコチラの方。(同上) 終点の石山寺駅で下車。(京阪・石山寺駅)(石山寺駅前の観光案内図) はい、これが会場の料亭「新月」です。 写真は、店に入る時に撮り忘れていたので、会が終わってから撮ったものです。(料亭「新月」) 我々4人が一番乗りで、2階の会場はこんな具合で、皆さんの集合を待っていました。(同上・会場)(同上・窓から瀬田川が一望 上流<琵琶湖・瀬田の唐橋>側)(同上・下流<石山寺・瀬田川洗堰>側) 程なく皆さんがやって来られました。 今回の出席者は、上記の4人のほか、杉〇氏、鯨麻呂氏、草麻呂氏、平〇氏、田〇氏、由〇氏、今〇氏、森〇氏、岡〇氏、正〇氏、〇庭氏で、合計15名でありました。 平〇氏の乾杯の発声で会は始まり、田〇氏が配布された「織田作まつり」や「淀屋研究会設立10周年記念シンポジウム」や「天誅組」関連の資料についての同氏からのご報告、世話役の草麻呂氏から次回懇親ゴルフの件のご報告などもありました。 あとは、飲んで、食って、好き好きに喋って、と毎度同じのゴチャゴチャと相成りました(笑)。 散会は午後2時半。料亭の送迎のバスで駅へと行かれる皆さんと別れて、小生だけ一人、石山寺へと向かいましたが、それはページを改めてご報告申し上げることとし、本日は此処までとします。(つづく)
2015.09.02
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