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本日はブロ友のひろみの郎女さんとももの郎女さんと3人でリュウゼツランの花を見て参りました。ひろみの郎女さんからのお誘いに乗ったのでありましたが、乗ったついでにももの郎女さんも小生も彼女の車に同乗させていただいたという次第。行く先は枚方市の星ヶ丘医療センター。リュウゼツランはこの前庭に咲いているという。 朝9時にももの郎女さんのお店、喫茶「ペリカンの家」に集合でありましたが、滅多に遅刻などはしないヤカモチさん、今日は珍しく遅刻でありました。数分遅れでMTBで到着。日曜日とあって喫茶「ペリカンの家」はお休み。と言うことで小生のMTBはお店の中に預っていただく。 めざすリュウゼツランの花はこんな風に咲いていました。 高々と咲く、とはこのことですな。 しかし、どれくらい高いのかよく分からない?(リュウゼツラン)<参考>リュウゼツラン属・Wikipedia はい、バイクの人物と比べていただくと、いかに高いものかがお分かりいただけるでしょう。 (同上) 花がよく見えない? こんなもんでどうでしょうか。(リュウゼツランの花) まだ、よく分からない? はい、今度はどうでしょう。 (同上) これでも駄目というお方は、下の写真をクリックしてフォト蔵写真のページに入っていただき、更にその写真をクリック戴くと、特大サイズ写真、或は元画像写真でもご覧いただけます。勿論、他のすべての写真についても同様の方法でフォト蔵画面でご覧いただけます。 (同上) リュウゼツランは50年程度に1度咲くだけという何とものんびりしたと言うか、連れないと言うか、そんな植物。従って、この同じ場所でこの花を見るのは更に50年程度先のこととなる。してみれば、これが今生の見納めということになります。ももの郎女さんは未だお若いからもう一度ご覧になることも可能かも知れませんが、ひろみの郎女さんとヤカモチさんは確実に「見納め」であります(笑)。ここまで来たら、何処かにも立ちまわってみようということになり、先ずは洞ヶ峠で様子見。 (洞ヶ峠の茶屋) 東高野街道に入って赤いサルスベリと白いサルスベリが 道の両サイドに植えられている道を走り流しているうちに、流れで「流れ橋」に行くことに。と言うのは話の「流れ」でそう申し上げたのであって、ひろみの郎女さんは、「ももちゃんに見せて上げたい」と当初より決めて居られたことでありました。 ここは木津川自転車道の途中にて小生は何度も銀輪散歩で訪ねている場所。当ブログでも紹介済みであるが、歩いて渡ったのは初めてかも知れない。ひろみの郎女さんは暑いからと休憩所で待ち、ももの郎女さんと小生の二人はこの橋を徒歩で往復しました。対岸でMTBの男性二人組と遭遇。どちらからと尋ねると奈良からだという。きっと、石清水八幡宮の手前で桂川の自転車道に移り、嵐山まで走るのであろう。ちょっと羨ましい気分に。 (流れ橋こと上津屋橋) <参考>流れ橋の登場する過去記事 木津川・淀川自転車道をゆく 2008.11.3. 加茂から京都まで 2009.10.17. で、我々も、嵐山までは無理であるが、石清水八幡宮に立ち寄ることとする。これも、ももの郎女さんが石清水八幡宮には行ったことがないということを知って居られての、ひろみの郎女さんの計画には折り込み済みのことであったよう。往路は、車で山上まで。 駐車場から西谷小塔跡に出る手前に巨大なクスノキがありました。大楠公手植えのクスノキであると云い伝えられているらしい。(楠木正成手植えのクスノキ)(同上・説明碑) エジソン記念碑を見て、ほぼ正午になったので、石翠亭という食堂にて昼食にする。例によって早食いヤカモチ、女性陣が未だ半分程度かそれを少し越した程度しか食べ進んでいない段階で早くも完食。店を出て喫煙コーナーへ。 (石清水八幡宮本殿) <参考>石清水八幡宮の過去記事 淀川自転車道銀輪散歩(その2)2014.6.2. 水無瀬銀輪万葉(下) 2010.10.25. 石清水八幡宮へ 2008.2.10. そこで、目にしたのがノキシノブ。(ノキシノブ) このノキシノブも万葉植物である。 わが屋戸の軒のしだ草生ひたれど 恋忘れ草見るに生ひなく (万葉集巻11-2475) 「しだ草」がノキシノブである。恋忘れ草が「ヤブカンゾウ」である。恋人の訪れが絶えて、荒れ果てた軒端にしだ草が生えた。そんなにも長い歳月が経過したのに、恋忘れ草であるカンゾウは一向に生える気配がない。つまり、恋人のことが忘れられないという歌である。万葉の頃は「しだ草」であるが平安時代になると「忍ぶ草」と呼ばれるようになり、恋人や昔を偲ぶ草、辛い恋を耐え忍ぶ草という意味になって行く。 (同上) それにしても「忍ぶ草」だらけですな。 カタツムリさんも、じっと動かず殻に籠って「耐え忍んでいる」風でもあります。 (ナラの木とノキシノブそしてカタツムリ) 八幡宮の本殿の回りをぐるりひと回りして、下山は、ひろみの郎女さんの薦めで、ももの郎女さんと小生はケーブルカーで下山することに。駅への道は竹林などもすがしき景色を醸しているのでありました。椿の実を拾ったり、ドングリを拾ったりの道でもありました。(竹林) ひろみの郎女さんは駐車場に戻り、車で下山。ケーブルカーの麓駅は車での登り口とは反対側になるので、彼女の到着まではかなり時間の余裕がありそう。ということで、石鳥居を潜り、下社の社殿や徒然草で有名な高良社などを見て回る。石鳥居を入ってスグ右にある池には白い蓮の花が咲いていました。美しく、清らか、まこと清浄の気が漂って来る気配でもありました。水面に浮かんでいる小さい葉はアサザの葉と思われるが、その花の季節ではなく、あの黄色の花はまだ何処にも見えない。(白花の蓮)(同上) そうこうしているうちに、ひろみの郎女さんの車が到着。もっとも、ひろみの郎女さんも「走行」して居られましたから、どちらにとっても「そうこうしているうちに」であったのでした。帰途に。 (安居橋) 高良社の前の放生川(大谷川のこと?)に架かる安居橋の眺めがお薦めと、この前で写真をどうぞ、と車から追い出される。確かに風情のある眺めではある。 (同上) 帰途は高速自動車道を利用、午後3時過ぎにはペリカンの家まで帰り着きました。そして、そのまま解散となって、本日のリュウゼツランほかの散歩は終了となりました。ブロ友さんとの同行となると、それぞれ本日の顛末を記事にされることでしょうから、重なるのも如何かと、小生は「花散歩」という観点でまとめることとしました。<参考>ひろみの郎女さんのブログ記事 ももの郎女さんのブログ記事 ということで、本日のそれではないのですが、これまでの銀輪散歩で目にした花も付録で掲載して置くこととします。(ミソハギ) 先ず、ミソハギです。漢字では「禊(みそぎ)萩(はぎ)」と書くが、読みは「ぎ」が取れて「みそはぎ」である。別名「盆花」とも言うそうな。 (同上) 次はマサキ。ニシキギ科の植物とのことだが、ニシキギが美しく紅葉する落葉樹であるのに対して、こちらは常緑樹である。花は確かにニシキギのそれと似ていなくもない。柾、正木、とヤカモチさんみたいに折り目正しそうな名の木である(笑)。尤も、ヤカモチさんの場合は、日焼けが過ぎて、何処が折り目か分からず、焦げ目、焼け目ばかりが目立っていたりもしますが。(マサキ) 「まさき」は「真幸(まさき)」とも通じるから、何となく縁起のいい名である。 けふともにありし人みないや栄に 千代に八千代にまさきくもあれ (偐家持) (同上)<参考・追記>(2017.7.31.) 花(1)・2007~2011 花(2)・2012~2016 花(3)・2017~2021
2017.07.30
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昨日は生駒市在住の叔母の家へ。暑中見舞いの訪問であります。叔父が亡くなってからは、ご夫婦の間には子供もなく、ずっと独り暮しをされている。そんなこともあって、少しは気に掛けているという次第。 この叔母、何年か前から碁を始められて、時々そのお相手をさせていただいているのであるが、今日も叔母からの要望で2局ばかりお相手させていただきました。まだ初心者レベルなので、色々と指導しながらの碁であります。従って、少しばかり勝つか少しばかり負ける、という風に持って行って、折角に碁に興味を持ってチャレンジしている叔母のモチベーションそのものを損なうことのないように配慮しながらの碁ということになります(笑)。もう少し強くなって下さると面白いのですが、なかなかであります。 正午過ぎにお邪魔し、お昼をご馳走になり、お喋りをし、碁を打って、珈琲などしているうちに午後3時になっていましたのでおいとますることに。 実は、例によって小型の折りたたみ自転車・トレンクル持参で、生駒駅から叔母の家まではその自転車に乗ってやって来ていたのでありました。叔母宅訪問の後、少しばかり銀輪散歩をしようという計画であったからです。目当ての行き先は竹林寺。竹林寺には行基さんと忍性さんの墓があるということは以前から承知していて、何れ訪ねてみようと思いつつも、今日まで果たさずに居たのでありました。今回、訪ねてみようと思い立ったキッカケは、先日(7月6日)友人の絵が出展されている絵画展に出掛けた際に立ち寄った四天王寺で、四天王寺の西門前の石鳥居が忍性上人が再建させたものであるということを偶々知ったことでありました。このようなことを知ったのも何かのご縁と竹林寺詣でとなった次第。 <参考>謡曲「弱法師」と石の鳥居 竹林寺は国道168号の有里町交差点から北東に入って行く道筋にある。(竹林寺)<参考>竹林寺・Wikipedia(同上) 竹林寺は、行基が景雲元年(704年)からこの地に営んだ小庵・生馬仙房をその前身とする寺である。行基没後荒廃していたものを、西大寺中興の祖・叡尊やその弟子・忍性らが再興するが、明治の廃仏毀釈によって廃寺となる。現在の竹林寺は平成9年(1997年)に再興されたもので、お堂などは真新しい。(同上・本堂)(同上・行基顕彰碑)(同上・結界石)(同上・役行者石像) 寺の東側には国史蹟・行基墓がある。行基は天平21年(749年)に菅原寺(現、喜光寺)にて82歳で没する。因みに、大伴家持はこの時31歳である。 生駒山東陵で火葬に付され、この地に埋葬された。(行基墓)<参考>行基・Wikipedia(同上) 寺の西側の墓地には忍性の墓(供養塔)がある。寺のご住職の奥様でしょうか、参道のお掃除をされていた女性に、「忍性さんのお墓はどちらにありますか。」とお尋ねすると、「この先の広場の奥の墓地にあります。大きな供養塔ですから、すぐに分かります。」と教えて下さいました。(忍性墓のある墓地) なるほど、ひと際大きい供養塔が中央にデンとあってすぐにそれとわかる。(忍性墓)(同上・説明碑) 墓前にはこのような印刷物も木札に貼り付けられてありました。 (同上)<参考>忍性菩薩とは 忍性・Wikipedia 忍性墓の背後にはその旧墓石がこんな風に積まれていました。平成に入って竹林寺が再興された際に忍性墓も新しく建て替えられたのでしょうか。忍性さんのお墓にお参りしたからには、そのお師匠さんの叡尊さんのお墓にも参らなくてはなりませんな。叡尊さんのそれは西大寺の北側の道を奥に行った処にあるが、何れ近いうちに実施といたしましょう。<参考>叡尊・Wikipedia(忍性墓の旧墓石) 竹林寺への参道は、有里町自治会館の東側と西側にあり、行基墓へは東側を行くのが近く、忍性墓へは西側が近い。東側参道の脇には竹林寺古墳なるものもある。(竹林寺古墳)(同上・説明碑)
2017.07.29
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(承前) 健人会は田〇氏の中締めで終了。皆さんはJR石山駅まで送迎バスで向かわれるが、小生は持参のトレンクルで駅へ。一足早くに出発したので、駅到着は皆さんと同時でした。京都・大阪方面にお帰りになる杉〇、田〇、正〇、生〇、木〇、竹〇の5氏と一緒に電車で京都駅まで。京都で乗り換え奈良方面へお帰りになる竹〇氏と京都で下車。近鉄改札口前で竹〇氏と別れて、小生はトレンクルで鴨川べりに出る。鴨川右岸の河川敷の道を下流へと下る。(鴨川・右岸の道) 水鶏橋で右岸から左岸に移り、左岸の道を下る。(鴨川・左岸の道) 鴨川は京川橋の先で西側を流れている西高瀬川と合流し、羽束師橋の手前で桂川に合流する。鴨川左岸を走っていると、いつの間にか川は鴨川から桂川に変っていて、気が付けば桂川左岸を走っているという次第。(桂川・羽束師橋、鴨川と桂川の合流点付近)(桂川・羽束師橋)(桂川・羽束師橋・京都八幡木津自転車道の道標) この付近には 京と浪速をつなぐ港として草津湊があって、明治10年神戸・京都間に鉄道が開通するまでは魚市場を中心として大いに賑わい栄えたそうな。しかし、今は恥ずかしながら羽束師橋があるのみという次第。(桂川・羽束師橋) MTBと違って小型のトレンクルには変速ギアも付いていないから、スピードは余り出ない。クロスバイクやロードバイクの自転車族に軽々と追い抜かれて行く。彼らのひと漕ぎがトレンクルの3~4回の漕ぎに該当するのだから、追っかけても無駄である。そんなことで思ったよりも三川(桂川・宇治川・木津川)合流点までは時間がかかりました。途中、木陰や橋の下の日陰で水分補給と休息をとりながらの真夏の難行銀輪行でありましたが、それでも漸くに、「見覚えのある」展望塔が見えて来ました。(さくらであい館と展望塔) かわきた運動公園の前で自転車道は180度Uターンして御幸橋に上がるので、一瞬方角を勘違いすることがあるのだが、今回もそうなりました。(同上) さくらであい館と展望台は初めての訪問で、目にするのも初めてであるのだが、ブロ友のふろう閑人氏が随分前にブログでご紹介されていて、その写真を見ているので、「見覚えのある」という言い回しとなったのでありました。ここの自販機で冷たいスポーツドリンクを購入し、水分補給をしましたが、中には入らずにスルーしました。同氏の下記記事に詳しくご紹介されていますので、下記<参考>をご参照下さい。<参考>三川合流域展望塔に登って来ましたが・・ 2017.3.29.(石清水八幡・男山) 御幸橋で宇治川、木津川を渡り 、再び河川敷の自転車道へと入る。この先は淀川自転車道となる。間もなく枚方大橋が見えて来る。(枚方大橋遠望)(葉の裏が白い木) ひらかた水辺公園に出る手前に葉の裏が白く輝く木の林がありました。ギンドロ(銀泥)というヤナギ科の落葉高木。風に翻ってさんざめく木の葉が白く輝いて、遠目には花が咲いているようにも見える。太陽の角度が低くなっているので、葉裏の白い輝きが一層増しているのかも知れない。淀川の川面も銀色に輝いている。(枚方大橋・ひらかた水辺公園) ひらかた水辺公園で淀川と別れ、鍵屋資料館の西側から枚方公園駅前の踏切に出る。ここで友人のオガクニマン氏に電話を入れる。同氏はこの近くに住まいして居られるが近くまで来てご挨拶申し上げないのも失礼かと思った次第。しかし、既に時刻は午後5時半、アポイントなしで会ってお話することが適当な時間帯とは言えないし、こちらも更に1時間半程度自転車を走らせなくてはならないのだから、時間的な余裕はない。ということで、電話でお庭先通過の旨のみをお知らせ申し上げたという次第。 京阪線に沿って香里園駅まで行き、そこから道を左に取り、国道170号(外環状線道路)に出て、ひたすら走るのみ。以降の写真はありません。 帰宅は午後7時15分でした。京都駅前を出発したのは午後3時15分位であったかと思うので、途中の度々の休憩なども含めて4時間の炎天下銀輪散歩となった次第。最後の自宅までの上り坂はさすがにもう目いっぱいでありました。
2017.07.27
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今日(26日)はかつての勤務先会社の仲間有志の集まりである健人会の夏の例会でありました。この会は滋賀県に所縁のある人たちが集まって年に何回かゴルフをするというのが会の出発点であったようですが、滋賀県と無関係の小生やその他の人も参加するに及び健人会という名になったよう。小生は退職後はぱったりとゴルフはしなくなったので、夏の暑気払いの昼食会と年始の新年会の宴会だけに参加している次第。 夏の昼食会はこの処、石山寺近くの料亭・新月というのがお決まりとなっている。今年も同じ店となりました。この昼食会はお天気に問題がなければ、小型の折りたたみ自転車・トレンクルを持参で参加し、会の前や会の後に銀輪散歩をするのが小生のお決まりのスタイルとなって居り、今年も自転車持参で滋賀へと向かいました。 昨年は京阪電車の大谷駅で途中下車し蝉丸神社を訪ね、再び電車で移動し逢坂山峠を下った処にある関蝉丸神社下社にも立ち寄ったのであるが、関蝉丸神社上社には立ち寄らなかったので、今回はこれを訪ねるのが第一の目的でありました。 昨年同様に近鉄で西大寺経由で京都に出て、京都からJRで山科へ。山科で京阪電車に乗り換え、京阪山科から大谷駅へ。大谷駅到着が9時16分。駅の裏の蝉丸神社の前でトレンクルを組立てて出発。 <参考>健人会・しるもしらぬも逢坂の関 2016.9.7.(京阪・大谷駅) 昨年は雨の天気予報であったので、自転車ではなく電車のみの移動でした。 蝉丸神社は昨年訪ねたのでパス。興味のある方は、上記<参考>の記事をご覧下さい。(蝉丸神社)(逢坂山関址碑) この逢坂の関の碑も昨年の記事に写真を掲載していますので、今回は違うアングルから撮影しました。昨年は徒歩であったので、大谷駅に引き返して電車に乗り、次の駅の上栄町駅で下車して、関蝉丸神社下社を訪ねたのであるが、今回は自転車なので、そのまま逢坂山を下って行くこととする。(逢坂山弘法大師堂) すると、弘法大師堂というのがありました。由来などは知る由もないが、立ち寄って行く。「野ざらし紀行」にある松尾芭蕉の有名な句「山路来て何やらゆかしすみれ草」は、前書きに「大津に出(いづ)る道、山路をこえて」とあり、貞享2年(1685年)芭蕉が逢坂山を越えて京都から大津に入った際の句であるから、この付近で詠んだ句かも知れない。(同上) お堂は格子の扉で内側から板が貼られていて内部は見えない。しかしひと舛 だけ貼られていない場所があったので、其処から内部を撮影したのが下右の写真。カメラだと自動補正するので、このように明るく写るが、肉眼では暗くてよくは見えないのであります。 (同上) 大師堂から更に下ると、関蝉丸神社上社がありました。昨年は下調べもせずに行ったものだから、上社があることを知らずに下社の方に回ってしまった次第。(関蝉丸神社上社)(同上) (同上)(関蝉丸神社由緒) 逢坂1丁目 の信号の先で道を左に直進すると国道161号となり、下社の前を通ることとなるが、右に取ってそのまま国道1号を進む。そのまま道なりに行くと瀬田の唐橋に至るのであるが、湖岸の道も走りたくなり、相模町交差点で左折し、JR線下を潜り、京阪膳所本町駅前の踏切で京阪線を渡り、膳所城趾公園へと向かうこととする。膳所本町駅の先にあったのが膳所神社。(膳所神社)<参考>Q&A・「膳所」の読みが「ぜぜ」?(膳所神社・由緒)(膳所神社・表門) 膳所神社の表門は膳所城の城門を移設したものとのこと。 (膳所神社表門説明碑) (膳所神社・神楽殿と拝殿)(膳所神社・本殿) 膳所神社を出て、膳所高校を左に見て広い通りを東に進むと膳所城趾公園である。 (膳所城跡公園)<参考>膳所城・Wikipedia(同上・膳所城趾碑)(石鹿地蔵尊) 石鹿地蔵というのが膳所城跡公園の北寄りにある。膳所城が明治になって廃城・取り壊しとなった際に城の礎石に使われていた石地蔵が放置されたままとなっていたのを地元の有志の方が祠を建ててお祀りしたのがこれだそうな。石鹿というのは、膳所城は石鹿城とも呼ばれるから、それからの命名か。 (石鹿地蔵尊・由来) 膳所城跡公園からは近江大橋が見える。 (近江大橋) 若者が二人、ボートの上で釣りをしていましたが、それも何やら風景になるのが琵琶湖である。 (同上) 膳所神社や膳所城の詳しいことは<参考>で貼り付けたサイトをご覧いただくこととし、湖畔の道を行く。遠くに近江富士と言われる三上山も見えている。(湖畔の道)(同上) 近江八景・粟津の晴嵐の碑もありました。この西方200mの旧東海道沿いにあった松並木も今は見られなくなっているので、その復活を祈念して湖岸のこの地に松を植樹したのだそうな。(湖畔の道・粟津の晴嵐碑)<参考>おおつうしん・「近江八景」に描かれた松は残り3本になったみたい 粟津の晴嵐 JR東海道線高架下を潜り、瀬田の唐橋を過ぎ瀬田川沿いに石山寺方面へと向かう。京阪石山寺駅の南側の大津放水路の手前で遊歩道から国道422号に出る。伽藍山に沿った歩道に一段高くなった部分がある。これまで何度も目にしてきたが何と言って疑問も持たなかったのであるが、考えてみれば不自然なこと。この部分の地下には縄文時代の貝塚遺跡が眠っているのだそうな。 (蛍谷貝塚跡)<参考>歩道下に残された縄文時代の貝塚=蛍谷貝塚 今日の昼食会の会場である「新月」に到着。午前10時45分。早過ぎるので、石山寺門前の喫茶店で時間調整をすべく、更に瀬田川沿いを下る。(京懐石・新月) 喫茶店には「われのほか誰とても客はなかりき」。火照った身体を冷やすには何と言ってもかき氷である。クーラーに当たりながらかき氷をいただく。途中で年配のご夫婦とそのお嬢さんと見られる若い女性の三人組の客が入って来られました。 身体の汗もひき、一息ついたところで、洗面所をお借りして、タオルを濡らして身体を拭い、持参のTシャツに着替える。時計を見ると11時16分。タバコをもう一服して11時25分に店を出る。 新月の手前で杉〇さんと出会う。「まだ早いので」と仰っていたが、「もう誰かが来ている筈ですから入りましょう。」と新月に入る。果たして、予想通り既に4名(只麻呂氏、田〇氏、徳〇氏、川〇氏)の方がお見えでした。その後、鯨麻呂氏、平〇氏、竹〇氏、岡〇氏、今〇氏、森〇氏、正〇氏、木〇氏、生〇氏、草麻呂氏がお見えになり、全16名が揃ったので、田〇氏の乾杯のご発声で開会となりました。 会終了後、京都駅までJRで帰り、そこからトレンクルを組立て、鴨川、桂川、淀川と自転車道を下り、枚方大橋の手前で淀川とお別れして自宅まで久々の長距離の銀輪行となりましたが、それは後編に譲ることとし、ひとまずここでお開きとさせていただきます。(つづく)
2017.07.26
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本日は中学校の同級生有志によるミニクラス会でした。 参加者は、男性陣が喜麻呂君、木麻呂君、谷麻呂君と偐家持の4名、女性陣がひろみの郎女さん、嶌の郎女さん、堀の郎女さん、塩の郎女さんと大の郎女さんの5名。 ミニクラス会ということでは、今年の5月の恩師の墓参を兼ねての集まり以来のこととなるのであるが、この時は、男性陣は上記4名が参加するも女性陣はひろみの郎女さんを除き全員不参加であったので、男女全員が揃ってというのは、一昨年の12月の忘年会以来ということになる。場所もその忘年会と同じ、木津川市のお食事処・かま田というお店。<参考>中学恩師の墓参・ミニクラス会 2015.5.30. 中学の同級生有志男女9名の忘年会 2015.12.12. 見まくの欲しき瓊花そして墓参 2016.5.2. 同級生たちと墓参 2017.5.26. 午後1時集合。中学時代の昔に返って、飲んだり食ったりしながらの楽しいお喋りに時を忘れました。(お食事処・かま田) 店の佇まいはこんな感じです。国道163号沿い、恭仁歩道橋の東側にあります。店の正面には恭仁京跡・山城国分寺跡があります。(お食事処・かま田の店の前の眺め) 正面の森が恭仁京跡・国分寺跡です。 奥の山には海住山寺があります。740年(天平12年)9月藤原広嗣の乱が起ったことが契機となって、聖武天皇は平城京からこの恭仁の地に都を遷すことを決意、その年の12月から恭仁京の造営が始まる。翌年の8月16日、内舎人であった大伴家持は次の歌を詠んでいる。今つくる 久邇の王都は 山河の さやけき見れば うべしらすらし(万葉集巻6-1037) 時に家持26歳。橘諸兄政権の下で官僚として歩み始めた青年家持の、未来への希望に満ちた明るい歌である。<追記> ビッグジョンさんのコメントで、3年前に万葉ウオークで恭仁京跡などをご案内したことを思い出しました。恭仁京のことなどはこの折のブログ記事でご紹介していますので、下記にリンクを貼って置くこととします。(7月23日追記) 恭仁京銀輪散歩 2014.10.23. 続・恭仁京銀輪散歩 2014.10.24. 同期会・青雲塾万葉ウオーク・第8回ナナ万葉の会 2014.11.29. 店のポーチのへりに小さな白い花が咲いていました。 ツタバウンラン(蔦葉海蘭)である。 (ツタバウンラン) 何やら跳ねている黒いものがいたので、近寄ってみるとカエルさんでした。そろそろ帰るかという段になって、ひろみの郎女さんから、「和束茶カフェ」に皆で寄って行こうという提案が出て、そういう段取りとなる。車であるから、「和束茶カフェ」までは10分余程度と見込み、車2台に分乗して向かうこととなる。 (ツタバウンランと蛙) ひろみの郎女さんは、ももの郎女さんのブログで紹介されていた茶畑と「天空カフェ」が目当てであったらしい。しかし、「天空カフェ」は活道ヶ丘公園の高みへと徒歩で登るしかないと知り、この猛暑の中、皆も不承知とあって断念、麓の「和束茶カフェ」で手を打つことと相成りました。 和束茶カフェも、活道ヶ丘公園も、安積皇子墓も、茶畑も今回写真に撮らなかったので、掲載できるものがありません。それで、それらが掲載されている当ブログの過去の記事やももの郎女さんこと☆もも☆どんぶらこ☆さんのブログ記事を下記にリンクして置くこととしますので、興味ある方は覗いてみて下さい。<参考> ももの郎女さんのブログ記事 和束茶カフェ 2017.5.30. 和束町へ。 2017.5.28. 当ブログ過去記事 茶源郷「和束」・安積皇子墓 2014.11.26. 以上、クラス会・2017年夏の陣の記事でありました。 なお、ひろみの郎女さんも既に今日のことをもっと詳しくレポートされていますので、下記記事も併せご参照下さい。<参考>今日は中学校のミニ同窓会で加茂町へ 2017.7.22.
2017.07.22
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銀輪散歩の途中、日下の原始蓮の池に立ち寄りました。ブロ友の☆もも☆どんぶらこ☆さんが先日、この原始蓮をブログに掲載されているのを見て、当ブログではこの蓮のことを正面から取り上げたことがなかったことに気付いたからでありました。古事記の雄略記に「日下江の入江の蓮 花蓮~」という歌(下掲<参考>参照)が登場することから、古代からこの地は蓮の花が咲く沼沢地が広がっていたということがうかがえる。 1936年(昭和11年)東大阪市善根寺七軒家北側にあった大井路の水路に自生していた蓮をハスの研究家の大賀一郎博士に鑑定を依頼して調べていただいたところ、原始的なハスであろうということになり、「原始蓮」と呼ばれるようになったのがこの蓮である。戦後、昭和20~25年頃には大量発生したアメリカザリガニによって絶滅したとみられていたが、生き残っていた株が発見され、これを地元の方が保護・育成し、現在に至っている。「枚岡の原始蓮」として大阪府の天然記念物にも指定されている。(原始蓮の下池)(原始蓮)(同上) (原始蓮の碑と原始蓮) 下池から坂道を上ったところにも小さな蓮池があって、其処には古事記歌謡の歌碑も建立されている。以下の蓮の花はその上池の方に咲いていたものです。 (同上) (古事記歌碑) この歌碑は以前のブログ記事にも取り上げていて、その時の写真の再掲載です。 <参考>歌碑写真掲載の記事は下記です。 旧河澄家-ゆきずりのわが小板橋 2013.2.22. 歌碑の歌の解説は下記の記事にあります。 銀輪万葉・藤井寺界隈(続) 2009.11.23. 日下江の入江の蓮の歌にまつわる古事記のエピソードは上の参考記事「銀輪万葉・藤井寺界隈(続)」にても紹介していますが、今日はその部分の古事記全文を<参考>として掲載しようと試みましたが、掲載制限文字数オーバーで拒否されてしまいました。 ということで、ルビを漢字の後ろに括弧書きする方式にすると字数制限内に入りました。読みにくいかと思いますが、是非に及ばず、である。<参考>亦(また)、一時(あるとき)、天皇(すめらみこと)遊行(あそびま)して美和河(みわがは)於(に)到(いた)りたまひし時、河の辺(へ)に衣(きぬ)洗ふ童女(をとめ)有り。其の容姿(かたち)甚(いと)麗(うるは)し。天皇(すめらみこと)其の童女(をとめ)を問ひたまはく、「汝(いまし)者(は)誰(た)が子ぞ。」ととひたまふ。答へて白(まを)さく、「己(おの)が名は引田部赤猪子(ひけたべのあかゐこ)と謂(い)ふ。」とまをす。しかして、詔者(の)ら令(し)めたまはく、「汝(いまし)嫁夫(とつ)が不(ず)あれ。今(いま)喚(め)して将(む)。」とのらしめたまひ而(て)、宮於(に)還(かへ)り坐(ま)しき。故(かれ)、其の赤猪子(あかゐこ)、天皇(すめらみこと)之命(みこと)を仰(あふ)ぎ待ちて、既に八十歳(やそとせ)を経たり。於是(ここに)赤猪子以為(おも)はく、「望命(みことあふ)ぎつる間(あひだ)に、已(すで)に多(あまた)の年を経ぬ。姿体(すがた)痩せ萎(しな)えて、更に所恃(たのみ)無し。然(しか)あれども、待ちつる情(こころ)を顕(あらは)しまをさ非(ず)あらば、悒(いぶせ)き於(に)忍び不(じ)。」とおもひ而(て)、百取(ももとり)之机(つくえ)代物(しろもの)を持た令(し)めて、参出(まゐで)て貢献(たてまつ)る。然(しか)あれども、天皇既に先に所命(よさ)しし事を忘れて、其の赤猪子を問ひて曰(の)らさく、「汝(いまし)者(は)誰(た)が老女(おみな)ぞ。何の由(ゆゑ)に参来(まゐき)つる。」とのらす。しかして、赤猪子答へて白(まを)さく、「其(それ)の年(とし)其(それ)の月、天皇之命(すめらみことのみこと)を被(かがふ)り、大命(おほみこと)を仰(あふ)ぎ待ちて、今日(けふ)に至るまで八十歳(やそとせ)を経たり。今は容姿(かたち)既に耆(お)いて、更に所恃(たのみ)無し。然あれども、己(おの)が志(こころざし)を顕白(あらは)さむとして参出(まゐで)つるに耳(こそ)。」とまをす。於是(ここに)、天皇、大(いた)く驚きたまひて、「吾(あ)は既に先の事忘れたり。然あれども、汝(いまし)は志を守(も)り命(みこと)を待つに、徒(いたづら)に盛りの年を過(すぐ)ししこと、是(こ)れ甚(いと)愛悲(めぐ)し。」と、心裏(こころのうち)に婚(まか)まむと欲(おもほ)すに、其の亟(はや)く老いて、婚(まき)を成し得不(えぬ)ことを悼(いた)み而(て)、御歌(みうた)賜ふ。其の歌に曰(いは)く、 御諸(みもろ)の 厳白檮(いつかし)がもと 白檮(かし)がもと 忌々(ゆゆ)しきかも 白檮原童女(かしはらをとめ) 又、歌ひたまひて曰く、 引田(ひけた)の 若栗栖原(わかくるすばら) 若くへに 率寝(ゐね)てましもの 老いにけるかも しかして、赤猪子之泣涙(なみだ)、悉(ことごと)其の所服(け)せる丹揩(にすり)の袖を湿(ぬら)しつ。其の大御歌(おほみうた)に答へ而(て)歌ひて曰く、 御諸(みもろ)に 築(つ)くや玉垣 斎(つ)き余(あま)し 誰(た)にかも依(よ)らむ 神(かみ)の宮人(みやひと) 又、歌ひて曰く、 日下江(くさかえ)の 入り江の蓮(はちす) 花蓮(はなはちす) 身の盛り人 羨(とも)しきろかも しかして、多(あまた)の禄(もの)其の老女(おみな)に給ひて返遣(かへしや)りたまひき。(古事記「雄略記」) 蓮の花は色々な場所で目にしているが、最も印象に残っているのは、信濃国分寺で見たものだろうか。 <参考>千曲川銀輪散歩・信濃国分寺・海野宿 2008.7.25. (ヤブカンゾウ) 上池と下池との間にある空地にはヤブカンゾウが咲いていました。遠めなので一重咲きなのか、八重咲きなのか判然とせず、一重のノカンゾウかと思いましたが、帰宅してから写真をよく見ると八重咲きのヤブカンゾウのようです。ヤブカンゾウは万葉では「忘れ草」として詠われている。忘れ草垣もしみみに植ゑたれど醜の醜草なほ恋ひにけり(万葉集巻12-3062) もう一つの夏の万葉花であるネムノキの花も咲いていました。吾妹子が形見の合歓木は花のみに咲きてけだしく実にならじかも(大伴家持 万葉集巻8-1463)(合歓の木) 合歓と言うと、万葉歌よりも芭蕉の句の方を思い出される人の方が多いかも知れませんね。象潟や雨に西施がねぶの花 (芭蕉「おくのほそ道」) 小生も象潟を銀輪散歩したのは合歓の花が咲く頃でした。 <参考>象潟銀輪散歩(その1) 2013.7.19. (同上)
2017.07.20
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友人の小〇氏が第31回日洋展に絵を出品されているというので、同氏から招待券を頂戴し、大阪市立美術館に行って来ました。 日洋展大阪会場の部は今日から23日まで大阪市立美術館の地下展覧会室で開催されている。今日は友人の西〇氏と寺〇さんと難波で昼食会をすることとなっているので、その前に小〇氏の絵を見てしまおうと朝8時40分頃にMTBで家を出ました。 会場は、先日(7月6日)に友人・福〇氏の絵が出品されていた二元展と同じ場所であるから、今回は勝手知ったる何とやらで、天王寺動物園の入口ゲート前の駐輪場にMTBを駐輪して、会場へと向かいました。 <参考>二元展へ銀輪散歩 2017.7.6.(天王寺動物園入口) 小〇氏の絵は奥の方の部屋に掲示されていました。 油絵です。大阪府千早赤坂村の下赤坂の棚田を描いた作品です。(第31回日洋展「下赤坂の棚田」by小〇氏) この下赤坂の棚田は、今年4月に銀輪散歩で千早城まで走った折に立ち寄って、この風景を眺めながら、昼食にと途中で買って来たお弁当を食べたのであってみれば、是非ともその絵を拝見したいと思ったのでありました(笑)。 下の写真がその折に撮影したもので、4月22日の当ブログ記事に掲載したものでありますが、参考までに再掲載して置きます。写真と絵はほぼ同じアングルかと思われます。絵画の方が小生が写真を撮った位置よりも少しばかり左上の位置からといった感じですかね。田植え前の棚田が写真のそれ。田植え後の棚田が絵画のそれ。(下赤坂の棚田・けん家持撮影) <参考>千早城へ 2017.4.22. 会場は撮影禁止となっていましたが、3枚ばかり会場の雰囲気を伝えるため撮影させていただきました。 (第31回日洋展大阪会場風景) <追記>日洋展と文楽 2011.8.5. 美術館を出て、谷町筋を南へ。生国魂神社の前の公園の木陰で少し休んでから、千日前通りを西に下り、難波へ。千日前の商店街入口前の駐輪場にMTBを駐輪し、喫茶店に入って、洗面所で濡れタオルで顔、身体の汗を拭い、持参のTシャツに着替え、身体を少し冷却してから、会場の店に向かいました。小生が部屋に通されて暫くして西〇氏と寺〇さんが一緒に到着。久々の再会にて旧交を温めました。 午後2時半頃にご両名と別れ、帰途に。炎天下、再び汗、汗、の銀輪行となりました。花園中央公園の池の前の木陰で水分補給とクールダウンの休憩。水面をアメンボが沢山走り回っていましたので、カメラを向けて写真を撮ったりして遊んでいましたが、この写真は何れ「虫散歩」記事に使わせていただくべく、本日は公開いたしません。 その代わりに、昨日、この池の前で撮ったカワセミの写真を掲載して置きます。ズームで撮った関係で、手ぶれしたか少しピントが甘くなっています。鳥の撮影は三脚などでカメラを固定してこれを行うのでなければ、いい写真は撮れそうにもありません。コンパクトデジカメでの出会いがしらの撮影とあっては、この程度が精一杯ですかね。直ぐに飛び去ってしまいましたので撮り直しもきかずです。(言い訳です<笑>。)(花園中央公園のカワセミ) 今日で大阪も梅雨明け。カワセミの美しい羽の色に「涼」を感じていただければ幸いであります。
2017.07.19
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岬麻呂氏からの旅便りが届きました。 今回も北海道旅行でした。今回で同氏の北海道旅行は63回目だそうな。天売島も焼尻島も存じ上げぬ島の名前である。地図で見ると留萌の北、羽幌町の沖合にある二つの小さな島でありました。今回の旅報告で嬉しかったのは、病気入院でブログをお休みされているfurano-craftさんを病院にお見舞い下さり、手術が成功し、順調にご回復されていて、お元気にされているというお報せをいただいたことでした。同氏がしっかりご養生されてすっかりお元気になられることをお祈り申し上げる次第です。(岬巡り報告206) 旅の経緯は、上記の「岬巡り報告206」をお読み下さい。 (岬巡り報告206付録) 同氏の旅の原点は岬巡り、即ち灯台巡りでもある訳ですが、初心忘るべからずで、灯台の写真も付録で添えられていました。 (留萌灯台)(天売島灯台)(焼尻島灯台) 下は、羽幌町から見た天売島と焼尻島です。(天売島・焼尻島) では、以下、上記「岬巡り報告206 」に掲載されている順に、別途PCメールに送信下さった写真を掲載しますので、ご覧下さいませ。(朱鞠内湖)(赤岩灯台とウトウの巣穴)<参考>ウトウ・Wikipedia ウトウという鳥がいたのですな。 小生などは、ウトウというと能の「善知鳥」を思ってしまう。 <参考>善知鳥(うとふ) 2008.10.7.(天売島・赤岩)(観音岬展望台)(オンコ<イチイ>の原生林・焼尻島)(オンコ<イチイ>の原生林<オンコの荘>・焼尻島)(めん羊牧場)(大雪旭岳)(同上)(コマクサ) 7月10日~13日の3泊4日の一人旅。 829kmのロングドライブお疲れ様でした。
2017.07.18
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柳の実、と思ってカメラを向けましたが、撮影しながら、柳絮(りゅうじょ)という言葉が思い浮かびました。柳絮と言えば春の季語。春になると綿毛の付いた柳の種・柳絮が舞うことから、春の季語となっている。してみれば、この夏の盛りに柳がこのような実を付ける筈もない。ひょっとして虫こぶかと帰宅してから調べてみると、果たしてその通りでありました。 シダレヤナギハオオコブフシという虫こぶだそうな。(柳の実ではなくシダレヤナギハオオコブフシ) もう少し近寄ってみるとこんな感じです。何れの虫こぶも葉の付け根に近い部分に出来ているが、実がこのようななり方をする筈もないことは見れば分かるというもの。(同上) この虫こぶはコブハバチの一種という蜂の幼虫が中に1匹入っているそうですが、割って虫の平穏を脅かすのもいかがなものかと、その撮影はしませんでした。どうしても見たいというお方は下記<参考>のサイトに写真が掲載されていますのでご覧下さい。<参考>東京23区内の虫2-シダレヤナギハオオコブフシ 幼虫の写真はコチラ 成虫の写真は見当たりませんでした。 虫散歩と言うからには他の虫も何か掲載しなければ散歩にならない。(蜘蛛の巣) で、蜘蛛の巣を写真に撮りましたが、クモは何処にかクモ隠れ。 空き巣になっていました。こういう写真の撮り方は「空き巣狙い」ということになって、余りよろしくないのであります。上の虫こぶと言い、この蜘蛛の空き巣と言い、虫散歩にもかかわらず、虫そのものの姿が見えませぬ。と言うことで、虫の姿の写った写真はと探すとトンボのそれがありました。(トンボと蓮) 蓮は極楽に咲く花。仏の座は蓮華というのが決まり。 先日はホトケノザの花にとまっているモンキチョウを写真に撮り、仏の座を狙う蝶、と駄洒落にしてみましたが、こちらのトンボも仏の座を狙っていると言えるかも知れません。このようなトンボは普通「極楽とんぼ」と呼ばれますが、そんな阿呆なことを言っているヤカモチの方が余程に極楽とんぼであるという説もあるそうな。(同上) このトンボ、余程にこの蓮の蕾がお気に召したのか、カメラを近づけて警戒心から逃げ去ってもすぐにまた戻って来るのでありました。遂には完全にカメラ目線でポーズというシオカラトンボ君(オオシオカラトンボ君かも知れません。)であるのでした。何か言っているようなので聞いてみると、ドウトンボリにトンボおりませんか?という駄洒落でした。ドウトンボリはとおりません、と答えて置きました。蓮花 いまだ咲かぬか 塩辛に 似たるトンボの とまりたる見む (蜻蛉家持)(本歌)ひさかたの 雨も降らぬか 蓮葉に たまれる水の 玉に似たる見む (右兵衛 万葉集巻16-3837) (注)万葉では蓮は「はちす」(蜂巣)と言うので、上の蓮花は「はちすはな」、蓮葉は「はちすは」と読んで下さい。
2017.07.16
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本日は大学の同窓会、青雲会の総会に出席して参りました。 会場は大阪新阪急ホテル2階・紫の間(大阪新阪急ホテル)※この写真は以前撮影したもので、本日撮影のものではありません。(総会場・開会前) 午前10時開会。ホテルのエントランスで青雲会東京支部長の西〇氏と出会い、一緒に会場へ。出席者はご来賓の先生方10余名、在校生5名を加えて全70余名。 定刻に新会長の内藤氏の開会のご挨拶で開会。会務会計報告、予算案承認、新役員紹介など総会議事が滞りなく終了し、第2部は関西学院大学副学長の神余隆博氏から「激動の世界情勢と日本の進路-日本、関西、大学はどうなるのか」という演題でご講演をいただきました。 同氏は20期の卒業で、外務省に入省し、在ドイツ日本国大使館公使、欧亜局審議官、欧州局審議官、在デュッセルドルフ日本国総領事館総領事、外務省国際社会協力部長、国連日本政府代表部特命全権大使、在ドイツ特命全権大使などを経て、2012年外務省を退官、現在は関西学院大学副学長・同理事を務めて居られるとのこと。(講演会) (懇親会場) 第3部は懇親パーティ。川島名誉教授の乾杯の発声で始まりました。(懇親会) わが同期は、黒〇氏、佐〇氏、出〇氏の3名のみ。この5月に同期会で集まったばかりということで、特に声掛けもしなかったこともあってか、出席は 例年より少なくなりました。(同上) 和やかな雰囲気の中、先輩、同期、後輩諸氏との交流を楽しみました。万葉ウオークなどで親しくなった先輩の植〇氏と囲碁の会でお付き合いさせていただいている元裁判官の下〇氏が同期でお互いに親しい間柄でいらっしゃったなどの気付きも愉快なことでありました。 途中にはアトラクションとしてビンゴゲームもあり、小生も今年は何番目かにビンゴ成立となって、賞品として「お米」を頂戴する幸運に恵まれました。このお米は同窓23期の加堂氏がご協賛・ご提供いただいたものとのこと。(農家自慢のお米・キヌヒカリ) このようなハガキが添えられてありましたので、ご紹介して置きます。(同上) このお米に興味をお持ちの方が居られましたら、上記のメールアドレスまたは電話番号までご連絡下さいませ(笑)。
2017.07.15
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偐万葉・ビッグジョン篇(その35) 前回に続き、本日も偐万葉です。シリーズ第285弾、ビッグジョン篇(その35)であります。 <参考>過去のビッグジョン篇はコチラから ビッグジョン氏ブログはコチラから 偐家持が歩麻呂に贈りて詠める歌20首 並びに歩麻呂が詠める歌1首竹群(たけむら)を 八重なす垣に しづもれる 諸兄のみあと 見つつしのはむ (注)初案「竹林」を偐万葉掲載に当たり「竹群」に修正した。 (本歌)あぢさゐの 八重さくごとく やつ世にを いませわが背子 見つつしのはむ (橘諸兄 万葉集巻20-4448) (橘諸兄公旧趾) お食事券 汚職事件に 風雲児 不運児なるや 変換恐るべし (頓珍漢)わが屋戸の 庭は芝生と 決めたれば ニワゼキショウの 花はゆるさじ (そんな殺生納言) 花を許さぬ訳には非ずとの歩麻呂の言あるにより追和せる歌1首葉は摘めど 根こそぎはせじ 我が庭の 庭石菖も やがては咲かむ (偐歩麻呂) (ニワゼキショウ)目もあやに 寒のもどりの 寒菖蒲 庭に一輪 咲かまくよしも (依怙贔屓麻呂) (寒菖蒲) 吾は唯 足るを知るのみ 知らぬ奴 呑んで吠えては 呆の如なり (遠吠家持) (注)「吾唯知足(吾唯足るを知る)」をパロディ にして「呑吠如呆(呑んで吠えるは呆の 如し)」としてみたもの。 (吾唯足るを知る)われは知る 畑の土手に さわらびの 萌え出づる場所の ありにけるかも (枚方皇子) (本歌)石走る 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも (志貴皇子 万葉集巻8-1418) (蕨)なほざりに せぬ人の野の さわらびは ふとりてふとろ ほとろとならず (となりのトトロ) (本歌)なほざりに 焼き捨てし野の さわらびは 折る人なくて ほとろとやなる(西行 山家集161) (蕨)ルナリアの いやなつかしき その花よ それその種も われ忘れめや (大判家持) (注)ルナリア=アブラナ科の植物。別名、合田草、大判草など。 (ルナリア)猛獣の 鼾やいかに 君ありて 星の栖(すみか)も 獅子座となるや (生き物係) (民宿・星の栖)花菱の 群れ咲く道の 島山に 雲まとひつつ 薩摩富士立つ (花火師ヤカモチ) (花菱草と開聞岳)みつつもが あまつをとめの はごろもの ひろごりさける おほやまれんげ (本歌)すゐえんの あまつをとめが ころもでの ひまにもすめる あきのそらかな (会津八一)わが背子の 庭にし咲ける ほほがしは あたかも見よと 目のほどに咲く (朴家持)わが見しは 咲くもつれなき ほほがしは 見たくば来よと 高々に咲く (朴家持) (本歌)わが背子が 捧げて持てる ほほがしは あたかも似るか 青き蓋(きぬがさ) (僧恵行 万葉集巻19-4204) (朴の木) 歩麻呂が追和せる歌1首わが庭に 一輪咲ける ほほがしは 貴き姿 いまも変らず(朴歩人)つぎつぎて 守れる人の あればこそ まつりを今に あふひ花咲く (葵家持) (本歌)梨(なし)棗(なつめ) 黍(きび)に粟つぎ 延(は)ふ田葛(くず)の のちも逢はむと 葵(あふひ)花咲く (万葉集巻16-3834) (葵祭)翅ならす 蜂は見えねど わが植ゑし さうびの花は あたたかに咲く (枚方曙覧) (本歌)羽ならす 蜂あたたかに 見なさるる 窓をうづめて 咲くさうびかな (橘曙覧) (注)さうび=薔薇のこと。 初案「あたたかく」を偐万葉掲載に当たり「あたたかに」に修正した。 (薔薇が咲いた)日下なる 恩智の川の ねっこ草 あはずやピント 吾疲れめや (疲れ目家持) (本歌)芝付の 御宇良崎なる 根都古草 逢ひ見ずあらば 吾恋ひめやも (万葉集巻14-3508) (注)ねっこ草、根都古草=オキナグサ説、ネジバナ説がある。息つめて こその息抜き ゆるみたる ロープたぐれる 我が事に非じ (迷月記) (注)紅旗征戎吾事に非ず(藤原定家 明月記)わが背子の 庭に咲く見ゆ うはぎらし 春に摘まれず 今咲くらしも (本歌)春日野に 煙立つ見ゆ 少女らし 春野のうはぎ 摘みて煮らしも (万葉集巻10-1879) (ノコンギク) ※ノコンギクとヨメナは厳密には違うらしいが、ヨメナは万葉では「うはぎ」である。竹藪は 根切シートで 防ぎつつ われは芋思ふ ほかの野菜も (偐歩麻呂) (本歌)小竹(ささ)の葉は み山もさやに 乱(さや)げども われは妹思ふ 別れ来ぬれば (柿本人麻呂 万葉集巻2-133) (竹の根切りシート)
2017.07.12
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偐万葉・ひろみ篇(その12) 先日、クマゼミが鳴いているのも耳にしましたから、梅雨明けかと思いましたが、さに非ずで、今年の太平洋高気圧は軟弱なようで、梅雨前線が北上したかと思えば再び南下するという具合で、お天気が定まりません。 それでと言う訳でもありませんが、偐万葉用の和歌控えのマイドキュメントをチェックすると、結構の歌数になっている方が居られますので、本日は偐万葉とします。偐万葉シリーズ第284弾、ひろみ篇(その12)であります。 <参考>過去の偐万葉・ひろみ篇はコチラ ひろみちゃん8021氏のブログはコチラ 偐家持がひろみの郎女に贈りて詠める歌21首 並びにひろみの郎女が詠める歌7首 気になる木 その名いかにと 春待てど いまだ咲かなく 花待てとかも (何野木麻呂) (何の木) ※実はオオヤマレンゲの木でした。 ハラハラと 散るはよけれど 桜花 降り積む庭の いかにとやせむ (庭家持) ひろみの郎女が返せる歌1首庭掃くに 掃けども掃けど はらはらと 散り来る桜 いや憎らしも風さやに 心置きなく 掃かれよと 散り来る花の 声もやすなる (庭家持) (原案)さやかに風も吹いている 心置なく泣かれよと 年増婦の低い声もする (中原中也「帰郷」の一節)桜花 散りぬる風の 名残とて 水張る鉢に 筏なしける (紀面汚し) (本歌)さくら花 散りぬる風の 名残には 水なき空に 波ぞ立ちける (紀貫之 古今集89) (スイレン) やすめとて 花やはものを 言ふならむ かこち顔して われカメラ向け (難行法師) (本歌)なげけとて 月やはものを おもはする かこち顔なる わが涙かな (西行法師 千載集926 小倉百人一首86) 知るは知る 知らぬおだまき くりかへし 咲けるその名を 知るよしもがな (知るか御前) (本歌)しづやしづ しづのおだまき くりかへし 昔を今に なすよしもがな (静御前)姉ありて 要らぬはミシン 欲しといふ 人にしやりて すがし空かな (甘え御前) (オダマキ) 見る人の なしと妹言ふ エビネラン 石切若草 二度もわれ見し (海老家持) ひろみの郎女が返せる歌1首見る人が 増えて嬉しや 歌までも 石切若草 ヤカモチさんも (嬉し嬉しエビネ美女) (エビネラン) さてわれも たうたうたらり たうたらり 油売りつつ 夏を迎へな (油売家持) ひろみの郎女が返せる歌2首床の間に 昇格嬉し 陽の目浴び 氏より育ち 片隅徳利 (薄暗い台所に住まう徳利)この夏も たら~りたらりと 暇(ひま)ゆるり 油汗ならぬ ヘルシー汗で (ガマの油を買うひろみ) (徳利) 時々は よき言の葉に 触れもみむ 道に迷ふと 言ふにあらねど (言家持) (本歌)恋ひ恋ひて 逢へる時だに 愛(うつく)しき 言つくしてよ 長くと思はば (坂上郎女 万葉集巻4-661) (往歳種因) 昔見し 大山蓮華(おほやまれんげ) けふ見れば いよよさやけく 咲きにけるかも (大山旅人) (本歌)昔見し 象(きさ)の小川を 今見れば いよよさやけく なりにけるかも (大伴旅人 万葉集巻3-316) (オオヤマレンゲ) ひろみの郎女がコメントに和して詠める歌1首雲海よ いついつまでも 消えるなと 遥か山々 しばしまぶたに (僧正遍照ひろみ) (本歌)天つ風 雲のかよひ路 ふきとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ (僧正遍照 古今集872 小倉百人一首12) 偐家持が追和せる歌4首ミスってる ツアーと言はじ み薦刈る 信濃は諏訪の 旅行く妹に (注)み薦刈るは、「みこも刈る」とも「みすず刈る」とも読むが、 ここは「みすず」と読んでいただきます。雲海も 光る湖面も 花もよし 帰りブログの 記事にもなれば八重桜 チューリップはよし ばらくらの フリチラリアは 覚えかねつも (花家持)あまつさへ バスのかよひ路 たどりつつ をとめ心に しばしもなれば (僧正変人) ひろみの郎女が追々和せる歌1首珍しき 花フリチラリア フラチにも 覚えられずに フラチラリアに (花痴呆ひろみ) (雲海) (フリチラリア) このたびは あなたまかせの たびなれば たけみなかたは みなかったとか (武甕槌) ひろみの郎女が追和せる歌1首いつの日か わたしまかせの たびをして 会いたい神々 四諏訪大社 (諏訪の浮城・高島城) 流れても またもあれやと 流れ橋 たもとに咲くは 常盤露草 (流家持) (流れ橋) 銀色の 雨に濡れつつ 銀梅花 来し方祝(ほ)ぐとや ここだも咲ける (銀家持) (銀梅花) 若草を 洞ヶ峠に 小雨降る 道にし花と 妹遊ぶらむ (順慶家持) (洞ヶ峠茶屋) ハゼランと 打ちたるはずに ハズランと なりしはくやし 是非におよはず (ハゼですマンネン) ルドベキア 咲くはよけれど 小さめに 咲きたるこそを よしと吾は見る (ルドベキア) (注)掲載の写真はひろみちゃん8021氏のブログからの転載です。
2017.07.10
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本日は大学の同窓会の囲碁大会でした。会場は例年の通り、マイドームおおさかの8階サロン会議室。12時50分集合。(マイドームおおさか) 参加者は、安〇氏、五〇氏、下〇氏、銭〇氏、田〇氏、中〇氏、新〇氏、廣〇氏、藤〇氏、山〇氏、若〇氏と小生の12名。トーナメント形式の対戦。 抽選の結果、小生の1回戦での相手は新〇氏と決まる。やや不利な展開かと思えたが、中盤辺りから盛り返して結構な差で小生の勝利。2回戦は若〇氏と対戦。今度は激しい戦いとなり、振り替わりなどめまぐるしい展開となりましたが、終盤で小生に悪手ありで、左上の地が大きく侵食されて敗北。今年は2回戦で敗退となりました。 負け組は勝ち残りの組の勝負を観戦するか、負け組同士で番外の対局を楽しむかの何れかとなります。小生は下〇氏と番外で1局打ちましたが、これは10数目の差で小生の勝ち。ということで、番外勝負も含めれば本日は2勝1敗ということに。(番外対局<山○氏と中●氏の対戦の終盤局面>) 決勝戦は藤〇氏と五〇氏との対戦となりました。下の盤面写真から数手進んだところで、会場の部屋の使用時間がオーバーとなり、決着つかずということで、両名で優勝を分け合うということとなりました。高校ラグビーなどで時々ある両校優勝という奴と同じですな(笑)。(決勝戦<藤○氏と五●氏の対戦>) 1階のレストランに場所を移し、表彰式兼懇親パーテイー。楽しい談笑のひと時を過ごしました。帰途は地下鉄・谷町4丁目駅で、田〇氏、若〇氏、廣〇氏、五〇氏、山〇氏、銭〇氏らと別れ、藤〇氏とは近鉄・上本町駅で別れ、帰宅は午後8時でした。<参考>過去の囲碁大会の記事(追記:2017.7.9.) 2016年 青雲会囲碁大会・秋の気配 2015年 青雲会囲碁大会2015 2014年 2014年第11回青雲会囲碁大会 2013年 第10回青雲会囲碁大会2013 2012年 青雲会・第9回囲碁大会 2011年 第8回青雲会囲碁大会 2010年 青雲会囲碁大会で優勝
2017.07.08
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囲碁仲間の福〇氏の作品が第56回二元展の佳作賞に入選したとのことで、同氏から招待券を頂戴したので、本日は銀輪散歩も兼ねて天王寺の大阪市立美術館まで走って来ました。自宅を出て方角だけを頼りにジグザグに適当に走っているうちに勝山通りに出たので、これを西へと下る。御勝山南公園まで来たところで、公園に立ち寄り暫し休憩。この公園のことは以前のブログ記事でも紹介しているので、詳細はそちら(下記、参考)をご覧下さい。 <参考>御勝山から舎利寺へ 2014.9.2.(御勝山南公園) この公園の北東角には折口信夫の歌碑もあるが、これも上記の参考記事に掲載済みなので、省略します。勝山通りを挟んで北側にあるのは御勝山古墳。大阪夏の陣で徳川方が此処に陣を敷いたので、古墳はあらかた壊れてしまっているとのこと。(御勝山古墳) 真っ直ぐ西に向かい谷町筋に出たところで左(南)に行くと真田幸村が陣を置いた茶臼山である。茶臼山公園の南隣が美術館であるので、公園側から美術館に向かう。駐輪場は?と探すが見当たらない。近くに居られたおじさんに尋ねると南隣の天王寺動物園の入口近くにあるという。 動物園の入口ゲートを背景にして一人の若い女性が数メートル先に三脚を立てて自撮りをされていました。誰かダミーを立てないとピントがうまく合わないのではないか、などと思いましたが、声を掛けてお手伝いするのも余計なお世話かとやり過ごして駐輪場へ。 (第56回2017二元展・会場風景) (同上) 福〇氏は猿の絵ばかりを描いて居られる。で、猿は、猿はと足早に展示作品を見て回る。手前の会場には猿は見当たらない。奥の会場に入ると中ほどのブロックに「猿」が居ました(笑)。人物画や風景画や抽象画などに立ち混じっての「猿」の絵は異彩を放っているのでありました。(「目配り・気配り」) 猿は猿でも、今回の作品はゴリラでした。中央にシルバーバックと言うのでしょうか、オスのゴリラの後ろ姿を置き、左右に設けた小窓のような区画に正面からの姿を描いて居られる。 タイトルの「目配り・気配り」から推察するに、このゴリラはボスで、群れのメスや子どものゴリラを見守っているということでもあるか。ゴリラの表情が何とも素晴らしい。目に力があって知性も感じさせる。 上の「目配り・気配り」がほぼ目線か少しそれよりも低い高さに展示されていたので、やや腰を落とすとカメラと作品とが同じ高さで対峙することが可能。ということで正面の写真を撮ることができましたが、もう一つの作品は、その上に展示してあったので、見上げる位置になる。ということで、下のような写真になってしまいました。(「望郷or・・・・・・」) そのタイトルは「望郷or・・・・・・」とあるから、彼は遠い生まれ故郷のことを思っているのでしょうな。背中も心なしか寂しげであるし、こちら向きに描かれた顔の表情も悲しげである。動物園での暮らしは食うには困らないのだろうが、野生であった頃の自由や誇りは此処には無い、身の不条理、理不尽を嘆いているのでもあるか。 推察するに、後ろ姿は作者が現実に目にしているゴリラの姿。正面を向いているゴリラの表情の方は、作者がその後ろ姿から「彼は今こんな表情をしているのではないか」と想像したもの、という構成になっているのではないだろうか。福〇氏からは作品について何の情報も得ていないので、その意図は何とも、である。あなたはゴリラの後ろ姿からどんな表情を、彼のどんな心、気持ちを想像しますか、と問われているような気もするのでありました。うしろすがたの しぐれてゆくか (種田山頭火) <参考>福〇氏の絵は以下の記事でも紹介しています。 囲碁例会・何か? 2015.10.7. 囲碁例会・空は秋にしあれど 2013.10.2. SS会・2013年夏の陣 2013.8.5. 帰途は、四天王寺に立ち寄り、途中で目にとまった食堂でランチを済ませて、智麻呂邸に立ち寄り、第192回智麻呂絵画展のブログ記事を印刷したものをお届けして参りました。四天王寺境内は今夕から三日間、七夕祭があるようで、屋台などの設営が始まっていました。(四天王寺) ついでに、親鸞聖人像にもご挨拶。(四天王寺・親鸞聖人像)
2017.07.06
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今日は囲碁例会の日。一昨日までの予報では雨とのことであったので自転車は無理、電車で行くかと思っていたのですが、昨夜の予報では少し雨がパラつくこともあるかも知れないが概ね曇りの予報に変っていましたので、ザックに雨具を入れた上で、MTBで出掛けることとしました。家を出た頃は少し雨の名残が落ちかかる感じでしたが、雨具を必要とする程のこともない状況。 しかし、緑橋商店街にさしかかった辺りで雨がパラパラよりも少し上のランクの降りになって来たので、たまたま目に入った喫茶店にて暫し雨宿りすることに。アイスコーヒー1杯、煙草一服位で小止みになるだろうと見込んでいましたが、雨脚が弱くならない。ならばと、少し早いがその店でランチを済ませてしまうことにしました。 ランチを終えた頃には雨もパラパラというレベルに。雨具なしで走れる程度である。お店の主人は「まだ降ってますよ。」と仰っていましたが、ヤカモチ的にはこの程度は「降っている」とは言わないのである(笑)。OBPを過ぎ、天満橋にさしかかる頃には雨もすっかり止んでいました。 そんなことで、いつもの「れんげ亭」は素通り。梅田スカイビル到着は12時15分位だったでしょうか。会場には小生が一番乗りでした。部屋に入ると誰も居なくて、テーブルの一つがこんな状態でした。(画材の花や野菜) 午前中は絵画サークルの人達の集まりがあったようです。絵画サークルの例会と我々囲碁サークルの例会の日が重なることが時々ある。これらの写生かスケッチかは存じ上げぬが、午前中にそれをして、只今は皆で地下のレストラン街で食事中ということのようです。 碁盤を設営して待っていると、福〇氏が来られました。早速、同氏と一局。そこへ竹〇氏、続いて村〇氏が来場。隣でも対局が始まりました。今日の出席者は4名のみでありました。 福〇氏との勝負は上辺から中央にかけての黒地が大きくまとまり、黒番の小生の大差勝ちとなりました。 福〇氏も小生もどちらかと言えば早打ちタイプ。隣の竹・村戦の盤面を見ると未だ中盤の戦い。終局までかなり時間がかかりそうなので、福〇氏ともう一局打つことに。これも終盤近くで、白番の福〇氏に見落としがあり、中央から右上隅に展開していた一団の白石がその中ほどで切り離され、中央の白10子余が黒に取り込まれた結果、白の形勢が一挙に悪くなり、小生の中押し勝ちとなりました。 隣も漸くに終局を迎え、村〇氏が勝利。勝者同士ということで、次は村〇氏と対戦。ここで一気に3連勝と行きたかったのですが、悪手が続き大石が取り込まれる羽目に。「万事休す」で投げました。小生の中押し負け。本日は2勝1敗に終わりました。これで、今年に入っての通算成績は12勝17敗。未だ5つ負け越しになっています。2月から3月にかけての8連敗だったか9連敗だったか、その後遺症であります。 書き忘れるところでした。 我々が囲碁を打っているところへ、絵画サークルの人たちが帰って来られて、テーブルを片づけて居られましたが、暫くして、ふと見やると、皆で談笑しながら、西瓜を食べて居られました。絵のモデルを勤めさせた後は食ってあげる。至れり尽くせりでありますな。(浜木綿) 本日は、立ち寄り先もなしで、写真は上のハマユウの写真だけです。昨日の日記の「第192回智麻呂絵画展」で、ナデシコの絵に関連して「撫子の家持」と並べて「浜木綿の人麻呂」と申し上げましたが、偶々、往路でそのハマユウを見掛けましたので撮影しました。み熊野の浦の浜木綿百重なす 心は思へど直に逢はぬかも (柿本人麻呂 万葉集巻4-496) 歌の「百重なす」については、花が百重なすなのか、葉が百重なすなのか、茎が群生して百重なすなのか、諸説あるようですが、犬養先生は「葉」説である。これはもう感性の問題だから、人それぞれでいいように思いますな。思っても、思っても、逢えないでいる恋の歌。熊野の浦のとどろの波音がその思いに覆いかぶさって来るようでもあるところが、この歌が愛される由縁でもあろうか。浜木綿は万葉にはこの1首のみである。
2017.07.05
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第192回智麻呂絵画展 本日は智麻呂絵画展であります。 今年になって7回目の開催となります。 第1回智麻呂絵画展は2008年7月4日の開催ですから、今日は9周年の記念日ということになります。この9年間の智麻呂絵画展へのご支援・ご愛顧、心より感謝申し上げます。 ということで、台風接近の中、北朝鮮がまたも日本海に向けて弾道ミサイルを発射したという何やら騒がしい中でありますが、智麻呂絵画展を開催する運びとなりました。足元のお悪い中ではありますが、皆さまのご来場お待ち申し上げます。 今回の出展作品は全10点。 これを併せて今日までの智麻呂絵画総数は1777点となっています。 2千点の大台到達まではまだ暫しの月日を必要としますが、それも視野に入って参りました。今後とも智麻呂絵画展をご愛顧賜れば幸甚に存じます。 <参考>他の智麻呂絵画展は下記からご覧になれます。 第1回展~第100回展 第101回展~第200回展 第201回展~ フォト蔵アルバム「智麻呂絵画集」はコチラ。 花の智麻呂。先ずは大輪の花、ヒマワリです。 夏の花となるとやはりこの花ですね。(向日葵) その名の通り太陽に向かって咲く。まあ、植物は一般的に、根は背日性であるが、地上部の茎や葉や花は向日性であるから、項垂れて下向きに咲く奴を除けば、皆、太陽に向かって咲くというのが相場。しかし、真夏の照りつける太陽の下、ひと際高々と咲くこの花は、いかにも太陽と向き合っているという感じですかな。 熱中症とは無縁の花である。 この花は他の花と共に、先の読書会の折に小万知さんがお持ち下さったものであります。(紫陽花A) 昨日(3日)智麻呂邸にお邪魔した帰りに花園中央公園に立ち寄ったら、ニイニイゼミが鳴いていました。蝉が鳴き始めると梅雨明け、というのがヤカモチ気象台の予報なのであるが、台風3号の関係で近畿の梅雨明け宣言はもう少し先となるようです。 梅雨の時期の花と言えば紫陽花。これまでにも智麻呂氏は見事な紫陽花の絵を何点も描いて居られますが、上のAも、下のBも、ご自宅前の公園に咲いている紫陽花を写生されたものであります。(紫陽花B) 次はグラジオラス。これは智麻呂氏が通って居られるデイサービス施設の「アンデスのトマト」で絵の題材にと頂戴した花だそうです。 薄桃色のすがしい花です。 出逢いの時のきみのようです♪、とシクラメンの花のように歌ってあげたいところですが、グラジオラスという名がいけません。「グ」と「ジ」という濁音が二つも入っては、歌われた方の「きみ」も余り嬉しくない響きになって、愛の言葉としては欠陥品になってしまうのであります。ガギグゲゴは耳には余り美しくない音。それで鼻濁音で発声するという方法が取られますが、それにも限界がありますな。(グラジオラス) 以下の3点は、当ブログ掲載の花の写真から絵にされました。それぞれ、モデルとなった写真を参考までに添えて置くこととします。 先ずはナデシコ。 (撫子)秋さらば 見つつ 思(しの)へと 妹が植ゑし 屋前(やど)の石竹(なでしこ) 咲きにけるかも (大伴家持 万葉集巻3-464) 撫子は大伴家持が特に好んだ花。大伴家持が最初に愛した女性がこの撫子の花が好きであった。彼女は自身の死が近いことを知っていたのでしょう。庭に撫子を植え、「秋になってこの花が咲いたら私と思って見つつ偲んで下さい。」と言って先立つ。 家持は、この女性の死を悲しみ、長歌1首、短歌11首を作っている。そのうちの1首が上の歌である。 小生が、浜木綿の人麻呂、菫の赤人、撫子の家持と言う由縁である。 次は、シャクナゲ。(石楠花) そして、ムギセンノウ。 ムギセンノウはナデシコの仲間。別名をムギナデシコとも言う。(ムギセンノウ) 花の絵は以上です。 花も実もある絵画展が偐家持美術館のモットー。 ということで、サクランボです。 ご近所のケンちゃんからいただいたサクランボです。(サクランボ from Kenちゃん) この絵画展のご常連様ならケンちゃんと言えば、そのお姉さんがサワちゃんで、というようなこともご存じかと思いますが、小さい頃からの智麻呂さんのお友達である。 と言ってもヤカモチ館長もお顔などは存じ上げない。この展覧会を通して「ケンちゃん」というお名前を存じ上げるのみであるが、館長も子どもの頃は「ケンちゃん」であったので親近感は覚えて居ります(笑)。そのケンちゃんも今は中学生くらいでしょうか。それとも、もう高校生になっているのでしょうか。(蜜柑と林檎) 上の「蜜柑と林檎」は、先の読書会にヤカモチが差し入れた果物の詰め合わせの中のものだそうです。下のスイカも同様です。差し入れた本人が何と何が入っていたのかはよく認識していないので、恒郎女さんがそうだと仰ればそうかという次第。 そんな次第であるから、林檎の左側の黄色いのを蜜柑としましたが、グレープフルーツのようでもあります。何ともよくは分からないのでありますが、絵の鑑賞としては、赤い果物と黄色い果物、ということで十分ではあります。色とフォルムの楽しさを感じればいいというものであります。(西瓜とズッキーニ) で、最後はズッキーニです。スイカのことは申し上げましたが、さすがにズッキーニは果物の詰め合わせには入っては居りません。これは小万知さんがお持ちになったものです。まるでカボチャのようです。まあ、ズッキーニはカボチャの仲間のようなものですから、こんな形のものもあるのですね。 絵としては、黒い線で縁取りをされていますので、イラスト風の絵という感じになりましたですね。何とも楽しい絵です。 以上です。本日もご来場、ご覧下さり、有難うございました。
2017.07.04
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今日は或るブロ友さんの手術の日である。 手術が首尾よく成功し、お元気になられることを祈ります。 さて、昨日の日記で、墓参の帰り道は「花散歩」と言うよりも「虫散歩」であったと申し上げましたが、今日はその虫散歩の記事といたします。 先ずはトンボです。(シオカラトンボ)<追記> addzさんからこのトンボはシオカラトンボではなくオオシオカラトンボであるとご教示いただきました。調べてみるとその通りです。そもそも、シオカラトンボと別種のオオシオカラトンボというトンボがいるということを知らなかったので、単純にシオカラトンボとしていましたが、複眼の色が青緑色ではなく黒褐色であることなどオオシオカラトンボであることが明白なので謹んで訂正させていただきます。(2017年7月27日追記訂正) トンボは漢字で書くと「蜻蛉 」。この字はカゲロウとも読むが、トンボとカゲロウは漢字を共有しているのである。もっとも、カゲロウは「蜉蝣」という漢字表記もあるから、今は「蜻蛉」と書けばトンボを指していると言うべきか。平安時代の頃は空中を浮遊する虫を、トンボも含めて「かげろう(蜻蛉)」と呼んでいたよう。だから、蜻蛉日記は、かげろう日記であってとんぼ日記ではないということになる。 トンボの古名は「あきつ」である。 日本書紀雄略天皇4年秋8月の条の、雄略天皇吉野行幸の記事に、8月20日「河上の小野に幸(いでま)す。虞人(やまのつかさ)に命(みことのり)して獣(しし)駈(か)らしめたまふ。躬(みづか)ら射むとしたまひて待(お)ひたまふ。虻、疾く飛び来て、天皇(すめらみこと)の臂(みただむき)をくふ。是(ここ)に、蜻蛉(あきづ)、忽然(たちまち)に飛び来て、虻を齧(く)ひて将(も)て去(い)ぬ。」ということがあり、天皇はトンボのような昆虫までもが私に奉仕していると喜び、その記念として蜻蛉嶋倭(あきづしまやまと)という名を付けて残そうと宣言、「因りて、蜻蛉を讃(ほ)めて、此の地(ところ)を名(なづ)けて蜻蛉野(あきづのをの)とす。」とある。 (同上)(同上) さて、このシオカラトンボであるが、これは全てオスである。メスは下のようなトンボ。ムギワラトンボである。オスも最初はムギワラトンボと同じ黄色模様なのであるが、成熟したオスになるとこのように塩っ辛くなるという次第。 昨日は運よくシオカラとムギワラの両方を撮影することができました。(ムギワラトンボ) 雄略天皇に褒められたトンボであるが、それは肉食昆虫にて、他の虫を捕食するということのゆえである。雄略さんは「虫までもがワシに敬意を払い奉仕して居る」と自讃したようですが、手のこむらにかぶりついた虻も虫なのだから、虫全般にまで広げて言うのは、言い過ぎ、我田引水、ご都合主義、ええとこ取り、と言うものである。 虫には草食系のものもいる。むしろ、草食系の虫の方がはるかに多い。それらは農作物を食い荒らすとして「害虫」の汚名を着せられているのが普通である。テントウムシもそうで、肉食系のテントウムシはアブラムシなどを退治してくれるので「益虫」であるが、草食系のテントウムシは名前まで「テントウムシダマシ」と呼ばれて「害虫」なのである。 まあ、こんな風に葉を食べ散らかすのですから、害虫と呼ばれても仕方ないですかね。(テントウムシダマシ) (同上) 喰い散らかすと言えば、このような幼虫も然りである。 何の幼虫かは知らねど白い虫。白い恋人ならぬ白い幼虫である。 これを可愛いなどと言うと「黒い変人」にされそうですから、止めて置きます。(白い恋人ならぬ白い幼虫) そして、小さな蜂と蛾。ハチはハコベに、蛾は葛の葉にとまっていましたが、どちらも見落としてしまう小ささでした。(小さな蜂)(蛾の仲間) 蛾も種類が多過ぎて、その名前などは殆ど知らないのであるが、ツトガ 、ホソガ、ホソハマキモドキガなんかの仲間かも知れない。 そしてカメムシも見ました。ネットで調べると、ブチヒゲカメムシのようです。(ブチヒゲカメムシ) (同上)(同上) 以下は、昨日の撮影ではなく、もっと以前に撮影したものがマイピクチャに残存していましたので、「虫散歩」に協賛出演であります。 見えぬものでもあるんだよ、ではないですが、ホソムギの穂の写真を拡大してみると、こんな虫の姿がありました。 アブラムシだかダニだかよくわかりませんが、野草は気を付けないとダニなどの微小の虫を家に持ち込むことにもなりますので、採取したらよく気を付けて見たり、水でよく洗うこととしましょう。(ホソムギの穂にいたダニのような虫) そして、見えないと言えば、アワフキムシです。アワフキムシの幼虫はこのような泡を出して、この中に身を潜めているのである。 (アワフキムシの巣) トンボの後、妙な虫ばかり続きましたので、お口直しに蝶です。何処にでもいるモンキチョウです。仏の座を狙う蝶というのが、ちょっと面白いかと撮りました。(モンキチョウ) 下右のミノムシは随分以前の撮影です。蓑虫と言えば冬の季語、確かに随分の厚着ですから、この虫暑い、じゃなかった、蒸し暑い夏の日記に出すものではない、でしょうね。しかし、ミノムシはミノガという蛾の幼虫ですが、メスは成虫になってもこの蓑の中で生涯暮らすようですから、蓑の中は案外冷房がきいていて快適なのかも知れませんよ。 (モンキチョウと蓑虫) 本日は虫散歩でありました。 ナニ? オチが無い? ちゃんと付けましたよ。 実の無い話なので、最後にミノムシで蓑・ミノある話になったでしょ、という次第。
2017.07.03
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ブログ更新をサボっているうちに6月が終わり、7月になってしまいました。今日は、毎月定例の墓参でした。 墓参は途中にある寺の門前の言葉を写真に撮るというのが恒例になっていますが、今月の言葉はこれでした。(20170702言葉) 金子みすずのこの詩は小生の記憶にもあるから、有名なんでしょうな。確かに昼間は星が見えない。しかし、見えないけれど昼間の空にも星が「見えぬけれどもあるんだよ」なのである。見えないけれどもあるというものもあるのだというのが眼目なんでしょうが、見えているからと言ってあるとは限らない、なんぞという逆を考えたりするのも偐万葉的思考。 星と地球の距離は随分と遠い。光が1年かけて進む距離(約9.5兆km)を1光年とし、これでその距離を表すのが天文学の世界。例えば100光年の距離にある星の光は100年かかって地球に届く訳だから、我々はその星の100年前の光を見ていることになる。その星が50年前に爆発して消滅していたとしても、そのことがわかるのは50年後であり、地上から観測する限りでは今後も50年間は輝き続けることとなる。 で、2000光年離れた星から超高性能の望遠鏡で地球を眺めている人が居るとして、その人の目に見える地球はローマ帝国時代の地球であり、6600万光年離れた星から眺めている人が見ているのはティラノサウルスなどの恐竜が闊歩している地球ということになる。見えていても今それがあるとは限らないということになる。「見えるものでもあるとは限らないんだよ。」なのである。 墓参の道すがらなのだから、「見えぬものでもあるんだよ」と来れば、魂の話などに持って行くのが普通であるが、何万光年も離れた星と地球の話に持って行くのだから「話にならない」と思われたお方もあるかも知れませんね(笑)。 さて、墓参の後は花散歩であります。(コマツヨイグサの種苞) 花散歩と言っても、コマツヨイグサは萎んでいるものばかり。花の散った後の姿はこのようです。 ここに栄養をたくわえて大きくなればキュウリやズッキーニのようにも見えるかも知れませんが、「待てど暮らせど」そんなことはある筈もないこと。この中に種をたくわえているのでしょうか。であればこれがコマツヨイグサの種苞ということになる。(名前不明の小さな草) そして、これは名前不明の草。名前不明の花、と書きかけたのですが、花と言うには余りにも花が小さいので「花」ではなく「草」としました。接写してみると、花はこんな感じです。 (同上) 次はイヌムギ。道端、何処にでも見かける草です。ホソムギがピンと穂を立てているのに対して、イヌムギは穂を垂れている。(イヌムギ) (同上) 花散歩らしからぬ草ばかりでありましたので、カンナも撮って置きました。背景を暗くして花を浮き立たせるようにしようと、露出を思いっきり落として撮影してみました。 (カンナ) 以上は墓参の往復の間に撮影したものですが、下は、帰宅して昼食後に出掛けた銀輪散歩で撮ったものです。白いキノコの一団です。名前はよく分かりませんが、シロカラカサタケに似ているように思います。もしそうなら、毒キノコです。(白い茸) 横顔も撮って置きましょう。(同上、横から撮ると) もっと、接近してみると、こんな感じです。 キノコのフォルムは何となくユーモラス。心がユルみます。(同上、もう少し近寄ってみると) 次は、今日の写真ではなく、6月30日に銀輪散歩のついでに立ち寄った、 喫茶店「ペリカンの家」の店先で撮影させていただいた、ハゼランの花です。 この花は恩智川の河原に自生していたものをひと株採取して店主のももの郎女さん(楽天ブログでのお名前は「☆もも☆どんぶらこ☆」さんです。)に差し上げたもの。彼女が鉢植えにされ店の前庭に置かれました。<参考>☆もも☆どんぶらこ☆さんのブログはコチラ。(ハゼラン) この花は夕方にしか咲かない花。これまで、恩智川べりでは咲いている状態のものを見たことがなかったのでしたが、午後4時位に咲くというももの郎女さんからの情報を得て、その時間帯に立ち寄らせていただいたのでありました。ハゼランの花はわれ見しペリカンの 家の庭にし咲くをわれ見し (偐家持) (同上) とても小さな花であることと、風が吹くと揺れるということもあって、この花は撮影に苦労します。 (同上) 以上です。今日の墓参の帰りは、花散歩というより、どちらかと言うと「虫散歩」であり、花の写真よりも虫の写真の方が多くなりましたが、タイトルが「花散歩」なので、虫の写真は「無視」。追って、「虫散歩」というタイトルでご紹介申し上げます。
2017.07.02
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