若草読書会
一昨日、27日は若草読書会でした。本は、村上春樹「国境の南 太陽の西」(講談社文庫)。村上春樹は色んな賞に輝く日本を代表する現代作家の一人であるのでしょうが、余りにも売れ過ぎている、という訳の分からぬ理由で、小生は今まで一作も読まずに来たので、発表者の凡鬼さんが、当初予定の小田実「オモニ太平記」から本書に変更して下さったお陰で、遅ればせながらこの作家の小説に初めて触れることができたのは幸いなことでした。
この本は、心の奥深くにたたまれていた初恋の女性が男の前に立ち現われて・・という小説であるが、作者の意図とかは別にして、小生には比較的面白く一気に読めてしまった。しかし、さて、作者は何を言いたかったのかとなると、いささか茫洋として来てしまう。
人生は、と言うか、人の「今」は過去の様々の「生きざま」と「選択」と「もののはずみ」との結果としてある。恋であれ、結婚であれ、就職であれ、人は節目で何がしかを選択して生きて来た。何かを選ぶということは、選ばなかったその他のものを捨てるということでもある。人生が運命や神の意志によって予め決められていた時代から個人の意志と責任で選択できる時代になって、僕らは今の人生と、もう一つか二つかは知らないけれど、何処かで捨てて来た「ifの人生」を何処かで引き摺りつつ、それとの比較に於いて、今の「人生」の相対的価値づけをするということをしているようにも思われる。
「初恋を想うべし」は我が敬愛する犬養孝先生の言葉だが、初恋の懐かしさには何かもの悲しいものが立ちまじっているのは、過去に捨てて来た「その他のもの」つまり「ifの人生」が象徴されている所為なんだろう。人生は一回きり、非可逆的なものにてあれば、過去の選択をやり直すことはできない。過去の過ちも後悔すべき愚行も心ない行いも、償われることなく永遠に過去に閉じ込められているのだ。だから、僕らはそれとの関係で「今」を、「明日」を生きることになる。しかし、常にifの方が多くなる。選ぶものよりも捨てるものの方が常に多いのだから仕方ありませんな。そのことに気付かず懸命に明日を目指しているというのが青春という奴なんでしょうが、人生の目鼻がついてしまった辺りから、捨てて来た過去が時に立ち現われる。
初恋の女性「島本さん」との再会は、主人公の白昼夢に立ち現われた過去のifであるのだろうか。だから彼女は生活感のない、何か抽象的な存在になっている。
太陽の西が存在しようもないように、ifの人生も存在しようがない。
Reise nach Gomskという短編小説を大学のドイツ語の教科書として若い頃に読んだが、人は何がしかのGomskへの旅をしているのかも。しかし、それは太陽の西にあるのだ。
家にありし
櫃
蔵
めてし
恋の 奴
の つかみかかりて (巻16-3816)
<輸血犬のお願い>
ブログ友のnanasuguさんがそのブログで輸血犬のお願いをされています。小生は犬を飼っていないので、協力のしようもありませんが、1歳から7歳までの体重10kg以上の犬を飼って居られる方で、これに協力できる方が居られましたら、宜しくお願い申し上げます。
詳しくは以下をクリックして、nanasuguさんのブログ記事にて内容をご確認下さいませ。 <緊急!輸血犬のお願い>
若草読書会・二十四節季と七十二候の季語 2025.09.27 コメント(4)
自宅療養記・いざ若草ホールへ 2025.09.15 コメント(8)
自宅療養記・嬉しいプレゼント 2025.08.23 コメント(4)
PR
キーワードサーチ
カレンダー
コメント新着
New!
七詩さん
New!
☆もも☆どんぶらこ☆さん
New!
龍の森さん
New!
MoMo太郎009さん
New!
ビッグジョン7777さん