昨日4日はMTBで星田妙見宮まで桜目当ての銀輪花逍遥をしてまいりました。今日は、反対方向の南へ走り、石川の桜でもと思っています。
星田妙見宮へ走るのは昨年の12月23日以来のことである。
<参考> 星田妙見宮万葉歌碑序幕式
今回は少し遠回りになるが深北緑地の桜も見て行くことにする。
(深北緑地外周の桜)

(同上。レンギョウとユキヤナギが裾を彩る。)
深北緑地から少し北へ行った辺りで外環状道路にお別れし左折、東に向かう。偶々通りがかった四条畷コミュニティセンターの前の歌壇に、このような被災地応援の看板が。

(復興がんばれ、の看板。中野町福祉委員会の名が見える。)
府道20号線に出て北へ。JR星田駅の少し先で右に入る。500m程行くと左手に星田公園がある。新宮山八幡跡との標識があったので立ち寄ってみる。
(星田公園・新宮山八幡跡)
小高い丘で正面は階段であるが左右にスロープがあるので、右のスロープを自転車で上る。レンギョウとユキヤナギが美しい。
(星田公園スロープ道から)
頂上は公園になっていて、新宮山八幡宮の痕跡か鉄製の鳥居がある。その裏の広場では子供たちが遊んでいて、ボーイスカウトのキャンプ場もある。
(新宮山八幡跡)
星田公園一帯の丘陵地は新宮山と呼ばれ、山頂には明治の頃まで新宮山八幡宮があったそうな。新宮山と呼ばれる由縁は、天暦3年(949)当時三宅山と呼ばれていたこの地一帯を石清水八幡宮に寄進し、八幡宮の分霊を勧請して祀ったことから、石清水八幡を本宮、こちらを新宮と呼んだことにある。新宮山八幡宮は室町時代には隆盛を極め、文安2年(1445)には六小社を有する大社と宮寺の愛染律院及び六支院が山頂に立ち並んでいたとのこと。その後衰退し、新宮山八幡宮は明治5年(1872)に廃され、星田神社に合祀され、その後愛染律院も廃された。

慶長20年(1615)の大坂夏の陣にこの地に本陣を置いた徳川家康が軍旗を懸けさせたと伝えられる「旗掛け松」が山上にあったとのことだが、今、碑の傍らにある松はまだ小さくて、その面影を伝えるよすがとは成り得ていない(笑)。100年経ったらまた来てみるか。
更に500m程行き広い舗装道路に出ると道の辺の土手がユキヤナギの花盛り。これはもう大雪ですな。

(道の辺のユキヤナギ)
ユキヤナギの道を左へ300m程下ると妙見川沿いの道に入る辻がある。そこから、川沿いに500m程上って行くと星田妙見宮である。この川沿いが桜並木となっていて、花見客目当ての屋台の店も数店出ていて(金魚すくいまであった。)、華やいだ雰囲気にさせる。
(妙見川沿いの桜。右の舗装道をMTBで上って行きました。)

(星田妙見宮。鳥居の左に万葉歌碑が見える。)

(妙見川沿いの桜 2)

(妙見川沿いの桜 3)
またや見む 交野の御野の さくら狩
花の雪散る 春のあけぼの (藤原俊成)
この地、交野は水無瀬離宮からも近く、平安貴族たちの狩り場でもあったのでしょうが、桜の名所でもあったのでしょう。しかし、ソメイヨシノは江戸時代に作られた交配種、鎌倉・平安時代には存在しない。
俊成も定家も貫之もそして勿論万葉時代の家持もソメイヨシノは知らない。彼らの眺めた桜風景は現代の桜風景とはかなり違ったものであったでしょうな。まあ、吉野の山桜とか八重桜を想像した方がいいのかも(笑)。
ソメイヨシノばかりでは、という訳で少し下流に並んでいた寒緋桜もご紹介して置きましょう。
(妙見川沿いの桜 4)
帰途、妙見川沿いに「小松寺」の案内表示板が目に付いたので立ち寄ってみましたが、新しい建物過ぎて、ヤカモチの好みには合いませぬ。
(小松寺)
以上までで下書き保存の状態にして置いたようで、公開措置をせぬまま、銀輪散歩に出掛けてしまったようです。本日5日は南へ走り、石川沿いの桜並木を見て来ましたが、これは明日のアップといたしましょう。
<追記・注>
「旗掛け松跡の碑」の写真
が横倒しの歪んだ画像になっていたので、2020年11月7日これらを復元修正しました。
●
過去記事の写真が歪んでいたりすること
銀輪花散歩・リュウゼツラン、キンエノコ… 2025.10.19 コメント(4)
銀輪花散歩・平城宮趾公園&佐保川畔 2025.03.27 コメント(4)
PR
キーワードサーチ
カレンダー
コメント新着
New!
ビッグジョン7777さん
New!
七詩さん
New!
☆もも☆どんぶらこ☆さん
New!
龍の森さん
New!
MoMo太郎009さん