( 承前 )
御香宮神社の続きです。
書き忘れていたが、この神社の祭神は、 神功皇后、仲哀天皇、応神天皇であります。
この神社に湧き出る水、「御香水」は伏見七名水の一つとされている。伏見の名水は伏見の酒造りを支えて来たのであってみれば、今の伏見があるのは、これら名水のお陰と言うものであろう。
本殿脇で竹樋から流れ出している水をペットボトルに汲んでいる若い女性が居られました。話し掛けると、コーヒーなどをこの水で入れると味が全然違う、と仰る。小生も柄杓に掬って一口呑んでみたが、どう違うのかは分らない(笑)。
この碑の前に古い井戸があるが、今は使われてはいないようだ。
明治元年(1868年)の鳥羽伏見の戦いでは、官軍(薩摩藩)の屯所が此処に置かれた。神社の南方向200m位に伏見奉行所があり、幕府方(新撰組)はそこに陣を構えた。この至近の距離で砲弾が行き交ったのでも
あるか。
幸いに神社は戦火を免れ、焼失することはなかったという。
話は変るが、神社の駐車場脇に、乃木希典の詩碑が建っていた。
凱旋有感
王帥百万征強虜 王帥百万強虜を征す
野戦攻城屍作山 野戦攻城
屍
山を作す
愧我何顔看父老
愧
づ我何の
顔
あって父老を
看
ん
凱歌今日幾人還 凱歌今日
幾人
か還る
戦争には勝ったものの多くの将兵を死なせてしまった乃木希典の悲傷と苦悩と自責の念が滲み出ている詩である。
論理的人間と情緒的人間があるとすれば、乃木は間違いなく情緒的人間の方であろう。そして我々日本人は論理的人間よりも情緒的人間の方を、「人間らしい」と愛するもののようである。
さて、御香宮神社を後にし、大手筋通りを挟んで南側にあったという伏見奉行所跡に向かう。しかし、一つ手前で団地の中に入ってしまったので、目指す石碑が見つからない。再び広い道路に出て道脇に居た男性に碑の在り処を尋ねるがご存じではなかった。娘さんがこの近くに嫁いで来られていて、今日は遊びに来たのだとのこと。納得。暫し世間話をして出発。今度は簡単に見つかりました。
伏見奉行所跡は、その後、陸軍工兵第16大隊敷地となり、二次大戦後は駐留軍の駐屯地となり、現在は桃陵市営住宅地となっている。奉行所跡碑と向き合うように、陸軍工兵第16大隊跡地の石碑もあった。
奉行所跡碑の前の道を真っ直ぐ南に進むと、程なく宇治川に出会う。伏見の戦いでは敗走する幕府方を追って官軍は宇治川方向へと進攻したのでもあるか。
道は宇治川の土手で行き止まり。土手に上ってみると、京阪観月橋駅前に架かる観月橋と近鉄京都線の鉄橋に挟まれた地点でありました。
宇治川で、先ず思い浮かぶ万葉歌はこれ。
もののふの
八十氏河
の
網代木
に いさよふ波の
行方
知らずも
(柿本人麻呂 万葉集巻3-264)
(注)もののふの八十=宇治川にかかる序詞。「もののふ」は朝廷に仕え
る文武
官人をいう。その氏族は数が多いので、
宇治川のウヂ
と氏族のウヂを掛けて序詞として
いる。
網代木=「網代」は「網の代り」の意。杭を川の中に打ち立て、杭の
間
に竹で編んだ簀を置き、魚を捕る仕掛け。
いさよふ=停滞する、の意。
人麻呂が近江国を通って上京する際に、宇治川の畔で詠んだ歌であるが、無常観を詠んだ歌とする説と波の様子を詠んだだけとする説がある。人麻呂の近江荒都歌とも通じ、壬申の乱で散った多くの人たちのことも「もののふの八十」という言葉使いに込められていると見るべきでもあろうから、単に景観を描写したのではなく、無常観とまではいかなくても、無常の思いを感じつつ詠んだものであろう。
小倉百人一首では、この歌ですな。
朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに
あらはれわたる 瀬々の網代木
(藤原定頼 千載集419 小倉百人一首64)
(訳)夜明け方、宇治川のあたりいっぱいに立ち込めていた川霧が、や
がてと
ぎれとぎれとなり、川瀬のあちこちにある網代木がずうっと一
面に見え
て来たことである。
宇治川の万葉歌をもっとご紹介したいのですが、字数制限です。続きは次回とします。
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