昨日6日は大津を銀輪散歩して参りました。
テーマは歌碑廻り。
湖西線の大津京駅で下車。トレンクルを組み立てて出発。
先ず、駅前にある万葉歌碑にご挨拶。
(大津京駅前の万葉歌碑)
歌は、ご存じ、額田王と大海人皇子(後の天武天皇)の歌。天智天皇7年(668年)5月5日の蒲生野遊猟の際に額田王と大海人皇子とが交わした歌である。
蒲生野は琵琶湖の東岸、近江八幡市の東方旧八日市市(現東近江市)から旧蒲生町(同)にかけて広がっていた原野であったのだろうと思われるが、昔、若草読書会のメンバーとも行ったことのある近江鉄道八日市線の市辺駅前にある船岡山万葉公園には古くからこの歌の歌碑がある(下掲写真)。
あかねさす 紫野行き
標野
行き 野守は見ずや 君が袖振る
(額田王 万葉集巻1-20)
紫草
の にほへる妹を にくくあらば
人嬬
故に
吾
恋ひめやも
(大海人皇子 万葉集巻1-21)
(東近江市の船岡山万葉公園にある歌碑)
高校で習ったのは大海人と額田とが交わした恋の歌、相聞歌としてであったが、最近は、宴会での戯れ歌と考えられているようでありますな。
この時の大海人は37才、額田は年齢不詳であるが40才前後か、二人の間の娘、十市皇女は既に15才位。天智は42才。今更、天智・天武・額田の三角関係でもあるまいから、宴会の戯れ歌というのは納得でありますな。
JR湖西線・京阪石山坂本線を越えて県道に出る。これを右に取って北へと走る。この辺りは、駅名「大津京(旧名「西大津」)が示す通り、天智天皇の大津京のあった場所。錦織地区にはその遺跡が点在している。その内の一つ第1地点には人麻呂の近江荒都歌の歌碑がある。
近江の荒れたる都を過ぎし時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌
玉だすき 畝火の山の 橿原の 日知 の御代ゆ 生 れましし 神のことごと つがの木の いやつぎつぎに 天 の下 知らしめししを 天 にみつ 大和を置きて あをによし 奈良山を越え いかさまに おもほしめせか 天 ざかる 夷 にはあれど 石走 る 淡海 の国の ささなみの 大津の宮に 天 の下 知らしめしけむ 天皇 の 神の 尊 の 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども 春草の 茂く生ひたる かすみたつ 春日 の 霧 れる ももしきの 大宮 処 見れば悲しも (柿本人麻呂 万葉集巻1-29)
この歌は、万葉集には制作時期の記載がないので、いつの作なのかは分からないが、一説では持統天皇2年(688年)の作だとする。天智天皇の菩提寺である崇福寺という寺があった。その跡とされる崇福寺跡が近江神宮の北方1.5km位の山中にある。持統天皇の使いで人麻呂が崇福寺を訪ねたというのである。その折に、672年の壬申の乱で焼け落ち、すっかり荒れ果ててしまったこの辺りを、その12年後に通った折に詠んだ歌ということになる。諸行無常・盛者必衰という
仏教の無常観がこの時代どれほど一般的なものとなっていたかは分りませぬが、荒れ果てた都の跡地に立てば、仏教の無常観に関係なく「かなし」という茫漠たる寂寥感に包まれるというものであっただろう。
現地は住宅街の一角にて、茫漠たる寂寥感とは程遠いが、「大宮はここと聞けども大殿はここと言へども」の感は同じである。違いは「春草の茂く生ひたる」ではなく、「住宅の繁く建ちたる」であることだ(笑)。
錦織遺跡についての説明は、下の写真でご覧下さい。
(錦織遺跡案内板)
(内裏の回廊の一部を示す柱列)
(注)この場所は、大津宮内裏の南東の隅に当り、柱
列は門からのびる回廊の一部を示している。
数十メートル北に行くと遺跡第2地点がある。天智天皇が政務を執った内裏正殿跡と見られている。
(錦織遺跡第2地点)
更に北に100mほど行くと近江神宮である。その手前に大津京シンボル緑地というちょっとしたスペースがある。まだ出来て新しいものであるが、色々と歌碑が並んでいる。
ここの歌碑全てを紹介していると字数制限をオーバーしそうです。よって、キリのいいこの辺りで今回の記事は打ち止めとし、歌碑のご紹介は次回とします。( つづく )
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