< 承前 >
藤下若宮八幡神社を出て、新幹線高架下を潜り、更に南へ。名神高速の下を潜ってから、名神沿いにある細い道を辿り東へ。藤古川を渡った処で方向を転じ、名神の下を潜って北側に出る。それまで名神高速で遮られていた北方向の景色が一気に開ける。新幹線の向こうに関ヶ原の山々が黒々とあり、その奥に真白き雪の伊吹山が神々しく輝いている。
(藤古川と伊吹山)
上の写真は名神高速の下から撮影したもの。手前の黒い影は名神高速の土手のなせる影である。前方には新幹線が通っている。伊吹山にズームインしてみると、下の写真となる。
伊吹山という名は万葉には登場しない。万葉に出て来る「おきそ山」が伊吹山のことだという説があるということは、先に記したが、「伊吹山」という名が出て来る歌を1首掲載して置きましょう。
あぢきなや 伊吹の山の さしも草
おのがおもひに 身をこがしつつ(古今六帖)
雪の伊吹山は美しい。しかし、見惚れて身を焦がしている暇はない。先を急ぎます。藤古川から離れ北上するとやがて左手に社が見える。井上神社である。藤古川の東岸になるこの辺りは松尾地区。壬申の乱の時に大海人側についた地区である。
この神社は天武天皇(大海人皇子)を祭神とし、皇后の持統天皇も合祀されている。藤古川を挟んで弘文天皇(大友皇子)を祭神とする藤下地区の若宮八幡神社とは距離にして400m余の至近にて今も対峙しているという訳である。今年が2013年、壬申の乱が672年であるから、1341年経っても尚対峙したままなのでありますな。
川向こうの若宮八幡神社の大友皇子詩碑に対抗してか、こちらは天武天皇顕彰碑。まだ新しい立派な石碑である。
壬申の王業斯の
湄
に始まり
天武の
英魂
此の
祠
に鎮まる
藤水
連綿として皇統久しく
神を奉じて氏子感恩
滋
し
当神社の氏子の三輪重之氏の作・筆による詩碑で平成12年10月建立とある。 井上神社を出て、再び伊吹山に見惚れながら、緩やかな坂を上って行く。
アトは、大海人が布陣した野上行宮跡であるが、是は少し離れているので、その前に関ヶ原合戦の陣跡なども見て置こうと北上することに。
関ヶ原合戦関連はページを改めてご紹介することとし、本ページは未だ少し字数枠が残っているので、山中地区で立ち寄った常盤御前の墓などを付録としてご紹介して置きます。説明はそれぞれの説明板でお読み下さいませ。(写真をクリックすると「フォト蔵」の写真に移動し、もう一度クリックすると写真サイズ選択画面に移動しますので、より大きい字でお読みになりたい方は、その方法をお取り下さい。)
これは何と言って説明表示もなく由緒などは知るよしもないのでありましたが、三つ並んでいるのが何やらゆかしく、また珍しくもあり、いとひなびたる風情でもありましたので、撮影致しました。
左表面 義ともの心耳 似多里秋乃 可世 者世越翁
これは「野ざらし紀行」の中の句ですな。
左裏面 希尓風の 音も春み介李 阿支乃松 春香園
げに風の音も春みけり秋の松 春香園
右 その幹尓牛も かくれて佐くら哉 化月坊
その幹に牛もかくれてさくらかな 化月坊
では今回はここまで。次回またお付き合い下さいませ。( つづく )
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