< 承前 >
やっと目指す笹尾山にやって来ました。石田三成が陣を置いた処です。矢来が組まれて、それらしい表情なのがいいですな。
笹尾山の裾には石田三成の腹心・島左近が陣を置き、奥の頂上部には三成が陣を置いた。山頂まで行って、三成が眺めたであろう、関ヶ原戦場の全景を眺めてみることとしよう。
頂上に来ると、うら若き女性がお一人で居られました。「こんにちわ」と話し掛けると、隣の大垣市からやって来られた「歴女」氏でありました。関ヶ原が好きで、何度も来ているのだという。「歴女」と自称されるだけあって、関ヶ原合戦にはお詳しくて、色々とご説明下さいました。壬申の乱の関連でやって来たのだと言うと、壬申の乱にも興味を持っていると、先述した松尾地区と藤下・山中地区との対立の話などをして下さったという次第。
頂上には展望台があって、関ヶ原決戦場が一望である。南には寝返った小早川の松尾山が見え、南東方向には家康が当初陣を置いた桃配山が見える。
ま東方向から南、西方向へとカメラを動かしながら写真に撮ると以下の通り。小早川の寝返りや脇坂らの裏切りも、ここからは手に取るように見えたことでしょうな。優勢に運んでいたのに、裏切りで南側戦線が崩壊、それをどんな思いで三成は見ていたことか。
小早川 松尾の山の 裏切りに
泣くや笹尾の 治部怒りつつ (偐定家)
(本歌) 来ぬ人を 松帆の浦の 夕凪に
焼くや藻塩の 身も焦がれつつ
(藤原定家 新勅撰集 小倉百人一首97)
壬申の乱で大海人皇子が陣を置いた野上行宮跡は家康が陣を置いた桃配山の東方にあるが、前線の指揮を取った、大海人の長子・高市皇子の軍が集結した和蹔(わざみ)の地が何処かは定かではない。関ヶ原のこの辺りだという説もあるようだ。
島津の「敵中突破」ではないが、決戦場付近を突き抜け、南に進路を取ると、家康床几場に来た。
戦況が芳しくないため、家康は本隊を前進させ桃配山から此処まで陣地を進め、東軍の士気を鼓舞すると共に、小早川へ寝返りを催促する砲弾を撃ち込む。遂に正午頃に小早川が山を下り、大谷隊の側面を衝く。かくて戦況は一気に東軍側に傾く。午後2時頃、大谷吉継自害。午後2時過ぎには概ね勝負は決し、3時頃から西軍の敗走が始まる。午前8時過ぎに始まった関ヶ原の戦は6時間後の午後2時過ぎには決着をみたのでありました。
家康は、この床几場で、部下が討ち取って来た敵の首実検をしたそうな。
壬申の乱でも、大海人皇子は大友皇子の首実検をしているが、ひょっとすると、首実検された最初の人物は大友であったかも知れない。大友は我が国最初の太政大臣となった人物であり、我が国最古の漢詩の作者でもあるが、もう一つの「最初」があったかも・・ですな。
合戦後、家康の命によりこの地の領主の竹中重門が東西2カ所に戦死した兵士を埋葬したのが首塚。写真は東首塚。西首塚は、井上神社から旧中山道へと戻る道の途中に右側に入る道があり、そこに「この先西首塚」と示す案内表示がありましたが、立ち寄らずでした。
東首塚は関ヶ原駅の直ぐ近く。駅前に戻り時間を見るともう4時半。野上行宮まで行って戻って来るとなると、帰途には暗くなってしまう可能性もある。ということで、またしても、一つ残して「行く児かな」で、これは次の機会に譲ることとし、米原へと引き返すこととしました。
これにて、関ヶ原銀輪散歩の日記、完結であります。長らくのお付き合い有難うございました。
首洗い井戸の写真で終るのも申し訳ないので、もう1枚の未掲載の伊吹山写真を最後に掲載して置きます。首ではなく、これでお目を洗って戴ければ幸甚に存じ上げます(笑)。
‐完‐
PR
キーワードサーチ
カレンダー
コメント新着
New!
七詩さん
New!
☆もも☆どんぶらこ☆さん
New!
龍の森さん
New!
MoMo太郎009さん
New!
ビッグジョン7777さん