本日は京都山科まで電車で行き、山科から坂上田村麻呂公園経由醍醐道を通って山越え、清水寺へ、というコースで銀輪散歩して参りました。
テーマは「 坂上田村麻呂
」。大伴家持よりも40歳年少であり、直接の接点は見当たらない。大伴家持は延暦4年(785年)死去(68才)であるから、この時、田村麻呂は28歳。漸く従五位下に昇進、殿上人の仲間入りを果たしたばかりであった。
田村麻呂と言えば「征夷大将軍」であるが、この称号が誕生したのは延暦13年(794年)のことであり、最初の征夷大将軍は 大伴弟麻呂
である。
家持が 春宮大夫を兼任のまま陸奥按察使鎮守将軍となって多賀城に向かうのが延暦元年(782年)の6月頃であり、翌々年(784年)に持節征東将軍になっているが、これは後の征夷大将軍と同じものであろうから、家持は田村麻呂の先輩ということになる。
ところで、田村麻呂が征夷大将軍になるのは、初代征夷大将軍の大伴弟麻呂の補佐をする副将軍に任命され、功績を上げたことによる。
この大伴弟麻呂は、壬申の乱で天武側で活躍した大伴負吹の曾孫に当る。負吹の長兄は大伴長徳で、家持は長徳の曾孫に当る。ということで、やっと、田村麻呂と家持は弟麻呂を通して接点を有するということになる(笑)。
それにしても、何故、田村麻呂なんだ?と思われることでしょうが、書斎を整理していたら、2007年6月4日の朝日新聞の記事のスクラップが出て来て、それに「京都・山科の西野山古墳が田村麻呂の墓と判明」とあったからであります。当時、訪ねてみようとスクラップしたまま、失念していたことを思い出したという次第。
JR山科駅下車。折りたたみ自転車・トレンクルを組み立て、出発。山科川の支流になる小川に沿って南へと走る。目指すのは「坂上田村麻呂公園」とそこにある「伝・坂上田村麻呂墓」である。
途中に蓮如上人御廟所があるので、それに立ち寄ることに。小川を挟んで山科中央公園の東側にそれはある。
浄土真宗の宗祖は親鸞であるが、今日のような巨大な教団を作り上げたのは蓮如に依ると言うべきであろう。
蓮如さんはこんな処で眠って居られましたか。森閑とした広大な敷地に廟所があるのは如何にも蓮如である。
東海道新幹線の下を潜り抜けた辺りで小川は山科川に合流する。山科川に沿って更に南へと走る。今日は冬に逆戻りの寒い日となったけれど、山科川は水の音も色も、降り注ぐ日の光もやはり春のそれである。
程なく府道118号線に出る。渡って右に入ると坂上田村麻呂公園である。小さな公園。
上の説明板の「立ったまま葬られた」云々は「清水寺縁起」の記述によるものである。
この公園から直線で西北西1.5kmほどの山腹にある 西野山古墳
が彼の墓であるとされたけれど、その西野山古墳なるものが大正時代に発掘された後、位置が不分明となり、何処とも特定されていないということのようなので、今暫くは此処が墓ということでいいのでしょう(笑)。
ということで、その西野山古墳があったであろう辺りを走って山越えで清水寺へと向かうこととします。
道脇に、西野山古墳の碑が建てられているらしいが、見つからなかったので諦めて府道118号線(醍醐道)へと戻る。かなりの急坂を登らなくてはならない。八幡宮があったのを奇貨として、写真を撮るという口実で自転車を降りる(笑)。
かなり上って来た。先程の道が眼下に見える。眺望も良くなって参りましたが、それでも息は切れる。
しかし、それも突如終り、下りになる。東大路通りに出るまで、ひたすらの下りが続く。これぞ自転車の醍醐味。それもその筈、この道は醍醐道という名でありました(笑)。
少し下った処に延仁寺という寺があった。親鸞上人荼毘所とあるから、立ち寄って行くことに。蓮如さんで始まった今回の散歩。親鸞さんまでご登場とは出来過ぎです。
親鸞はこの地で荼毘に付されたらしい。
墓地の坂を登りつめた高みにそれはあった。
説明は下の説明板をお読み下さい。かなり上ったので眺望が素晴らしい。
どうやら、清水寺へは着かないよう。文字数制限ですので、また明日にさせて戴きます。( つづく )
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