< 承前 >
昨日(14日)の日記の続きです。
親鸞荼毘所を後にして、ひたすら自転車で走り下る。
御陵があったので立ち寄って行く。
仁明天皇女御・贈皇太后澤子・中尾陵とある。藤原澤子のお墓。仁明天皇の寵愛深く3男1女を出産しているが、そのうちの時康親王(仁明の第三皇子)が後に天皇位に即く。光孝天皇である。仁明天皇は第一皇子の道康親王(文徳天皇・母は藤原順子)に譲位し、以後は文徳の息子の清和天皇、清和の息子の陽成天皇と継承されて行くが、陽成天皇が摂政の藤原基経によって廃位されると、異母兄の系統にあった天皇位が文徳の異母弟の時康皇子に回って来たという次第。55歳での高齢での即位である。
澤子は承和6年(839年)に急病で亡くなっていたのだが、元慶8年(884年)に息子の光孝天皇が即位すると、皇太后が追贈されたという次第。
東大路通りに出て右折。清水寺へと向かう。
坂上田村麻呂をテーマとした以上、彼が創建したという清水寺に立ち寄らない訳には行かない。東大路通りから「ちゃわん坂」を上る。それ程勾配が急というのではないが、だらだらと続く上り坂、徐々にきいて来る。清水寺の前に着いた頃はさすがに疲れていました。適当な場所に駐輪して、久し振りに入場、境内を散策。
入場の目的は、アテルイとモレの碑を撮影すること。
蝦夷のリーダー、アテルイと田村麻呂の関係は、記述するのが面倒なので、以下をご参照下さい。
<参考> アテルイ・Wikipedia
小生が、アテルイの碑を写真に撮って立ち去ろうとすると、中国人観光客の女性3人組がこの碑の前に並んで記念撮影を始めた。
アテルイのことを知ってのことなんだろうか、など思いつつ、その場を後にしました。
アテルイとモレは河内国で処刑されたが、それが何処であるのかは特定されていない。5年前に茨田童子氏とN氏と共に枚方を散策した際に立ち寄った牧野公園内にアテルイ・モレのものと伝承される塚がありました。塚の石碑の両サイドにN氏と小生が立っている写真(茨田童子氏撮影)があるので、それを以下に掲載して置きます。両サイドの人物はトリミングしてカットしましたので背後にある塚も写っては居りませぬが・・(笑)。
(アテルイ、モレの塚)
<参考>「 枚方万葉歌碑めぐり
」 2008.2.28.
もう10年以上も前に読んだ本であるが、アテルイについては、高橋克彦「火焔・ 北の耀星アテルイ 」(講談社)が面白いと思うので、ご紹介して置きます。
(高橋克彦著「火焔」<上下>講談社)
<参考>2007年6月4日朝日新聞夕刊記事
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